円空展

 埼玉県立歴史と民俗の博物館で円空展を見ました。(http://www.saitama-rekimin.spec.ed.jp/?page_id=232)11月27日までやっています。お薦めです!

 1000円で販売している図録、小さな物も大きく見えて、すべてカラー写真です。

 150体近く揃っていますから、一人の人間の人生が見えるようです。円空はずいぶん埼玉を歩いているのです。いわゆる円空っぽいものだけではなく、柔らかく丸い、ほっこりと温かい、シルエットを眺めているだけでも安心する、心の中に座りがいいのがいくつもありました。並べ方も良かったです。これの次にこれがあって、これがこの二つの間にあるから、という心のこもった配置でした。
 自分のために彫ったのではない。お金のために彫ったのでもない。ひょっとしてもうこの国では通用しない生き方かもしれません。木喰行の行者ですから、おいしいご飯を期待して彫ることもなかったでしょう。(木喰行は火を通したものを食べません。)
 この生き方を選ぶということは、当時でもちょっとした変人でしょう。変人が、尊敬される生き方を選択できる社会がつい最近まであった。いま、選択肢が一見多いように思える日本で、実は生きる道を選ぶ選択肢がなくなってきている。平等という言葉の怖さを感じます。たぶん変人であることが辛くなくなってきたということでしょうか。広く薄く、自分自身でいることが難しくなってきているのです。
 円空は行者ですから、たぶん祈祷もしたでしょう。雨乞いや治水などもしたのでしょう。日本の昔話にはなまけものが主人公のものが多くて、それはこの国の懐の広さだと思いますが、その次元で考えるたびに、0歳児との会話が広げる世界を思うのです。3歳くらいまでのちょっと理不尽で非論理的な「子育て」という役割りが社会に「そのままを受け入れる」寛容さを生んでいたのではないか、と思います。受け入れるだけでなく、変人の存在意義に気づく、役割をまわりが創り出す、それが本来の人間社会です。0歳も人間、1歳も人間、2歳児も人間、という感覚が薄れた時に、人は本来のコミュニケーション能力を失い、人類はその進化の目標を失うのかもしれません。
 歴史と民俗の博物館は、私の好きな建物です。半分地面に埋まっています。六十年代のものは音楽もいいけれど建築もいい。現代建築が自然と一体になっていた時代かもしれません。それだからこそ、少し禅的な日本の文化からいい建築家が生まれたのでしょう。
 完璧でない人間と「幸せ」の関係について円空に囲まれながら考えました。
 補いあう心、国境、宗教、言語、沈黙。
 仏教にアニミズムがプラスされる意義を感じます。
 日本では、仏教+神道+アニミズムでしょうか。中国では、道教+仏教+アニミズム、「千と千尋の神隠し」の世界でしょうか。アイスランドなどに残っているキリスト教+アニミズムの世界もまた寛容です。厳しさに立ち向かうための人間の知恵だと思います。

 十代のころ、円空を知る前に、私は同じ木喰行者の明満上人の仏像に出会いました。「木喰さん」と呼ばれるこの人が彫った十六羅漢が京都の八木町清源寺にあって、宅間英夫さんに連れられて行ったのです。和尚は大酒飲みで、時々畦道で寝ているような人でした。
 
 

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