二つの命が存在している。その思いが一心同体ではない

0歳児と一緒に空を見上げる。

1歳児と一緒に空を見上げる。

2歳児と一緒に空を見上げる。

それぞれに、違う体験で、それぞれの深さや次元がずいぶん違うから、不思議さの種類が違うから、絆がなければ生きていけない人類ために必要な体験なのだと思う。

こんなことをしながら、人間の遺伝子はオンになってゆく。そうすることによって、コミュニケーション能力が少しずつ身につき、知らないうちに深まり、年をとっても、お地蔵さんや盆栽と会話できたり、海や山を相談相手にしたり、自分自身や宇宙と会話ができる余地を残せるのだと思う。人間が相談相手を増やすための、いにしえの法則をもう一度確認する時期がきています。

 

二つの命が存在している

去年、「保育園落ちた、日本死ね!」と、親がネットに書きました。どちらに行くのか定かではないのですが、これをきっかけに、いい方向に向かうのだと思いたい。

「保育園落ちた、日本死ね!」という言葉が繰り返し報道され、国会でも論議され、流行語大賞にまでノミネートされ、、いつの間にか曖昧になってしまったことがあります。

この言葉の中には二つの命が存在しているということ。保育園を落ちたのは3歳未満児であって、自らの願いを主張できない乳幼児。そして、「日本死ね!」と言っているのはその母親です。二つの命、がそこに存在している。そして、その思いが一心同体ではない。そのことに気づかせるために、この言葉は生まれたはず、なのです。

もともと一心同体だったものが、これほど早く、たった数十年で、お互いが見えなくなるほど離れ離れになってゆく。政府という仕組みがそれを進めている。それが人類の存在自体を成り立たせなくしてゆくのではないか。そこに気づいてほしいのです。

この発言に登場する親子二人の願いがあまりにも相反している。そこに、保育士不足や質の低下といった小一プロブレムに直結してゆく保育現場が抱える様々な問題の根本的原因があります。保育という仕組みがいつの間にか、当たり前に存在し、その仕組みの不自然な性質が、預けられる主役である乳幼児の存在感を消してしまう。そして、仕組み自体がますます人間性を失ってゆく。すると、もう一人の当事者である保育士たちが苦しくなって去ってゆく。(または、いい加減な保育、都合のいい保育をし始める。)

乳幼児たちが、育てる人間の遺伝子をオンにし、その人たちをいい人間にする働きが、仕組みに逆らい、仕組みを壊そうとする。

政府が簡単に口にする「保育の受け皿」は、012歳の「子育ての受け皿」です。その時期の子育て、親子がする特別な体験は、人間の一生にとって貴重な体験だった。双方向に貴重だった。モラルや秩序が、遺伝子レベルから湧き出るために必要な、人類にとって不可欠な体験だった。親にとっても、子どもにとっても。

 

保育園入園時の「慣らし保育」の時の子どもたちの泣き顔と、母親にしがみつく際の悲鳴にも似た叫びを聞いていると、一瞬、「保育園受かっちゃった、日本死ね!」と叫んでいるようにも思える。そう思ってくれる人を命がけで探しているのではないか、という気がするのです。

もちろん、命そのものを体現している、神様のような存在でもある幼児たちは、「死ね!」とは絶対に言わない。それはわかっています。でも、誰かに早く、その泣き声、叫びの本当の意味を汲み取ってほしい、と思うのです。あの姿を、テレビで報道してほしいし、学者たちは大学の授業で学生たちに見せてほしい、と思うのです。あの泣き声の意味を、国という仕組みを左右している政治家たちが汲み取らなかったら、国の存在意義が、それこそ死んでしまうような気がするのです。

乳児は、実は「保育園落ちた、嬉しい、良かった」と心の中でささやいている。もし落ちずに受かっていたら、「0歳児保育を進める政治家、行政、学者、なんで、そんなことするの?」と遺伝子レベルで叫んでいるかもしれない。その辺りのことなのです、マスコミがいま、しっかり議論していないのは。

 

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何がいままで保育という仕組みを(かろうじて)支えてきたのか、と考えてみたことがあります。その時、ふと思ったのは、0、1歳児を預けようとする時の親の「躊躇」と、0、1歳児を預かる時の保育者の「躊躇」だと思いました。それが、いま「受け皿」という言葉によって、少しずつ消されようとしているのです。

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ツイートをひとつ

「最近いった研修の講師の大学(短大?)で、卒業生300人に対し2800件の求人があったとか。また、パートしか経験の無いおばちゃんが新設園の園長になるのだとか。その他20代の園長予定者が多数来ていました。本当にやばい状況です。」

 

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 こういう状況だから、こういう無責任な進め方をするから、現場で保育に都合のいい子どもにするため、012歳児に話しかけない、抱っこしない保育が増えているのです。事故を防ぐにはそうするしかないほど、現場が追い込まれている。
 でもこれは、3歳までの脳の発達を思えば、親の知らないところで政府が用意する「受け皿」によって意図的に子どもたちの発達が歪められているということ。
 そして、「やった振り対策」として政府が進めた安直なカウンセラーや相談員の普及。「専門家」と呼ばれる人たちが園にやってきて障害児を認定し親子を心療内科に送り込む。人間が対応できる現実的な施策は考えられていませんから、結局対処できるのは薬物しかない。
 
 「もうすぐ小学校ですからそろそろ薬(向精神薬)を呑ませましょう」などという助言が、「専門家」によって親にされる。
 
 こうして、「社会で子育て」(仕組みで子育て)という学者の言葉で広がる無理と歪み、専門家の薦める薬物が、この国の将来の重荷になって雪だるま式に増えているのです。

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=779

 

依存されること、甘えられることで育ってゆく絆

人間性を失った経済優先主義が国主導で広がっている感じがします。

「母親は赤ちゃんのそばにいたいし、赤ちゃんも母親のそばにいたい。節約して欲しいものを我慢しても子供を手元において愛情一杯の子育てをしたい、そんな当たり前の事が経済的に男性に依存する甘えた女という批判の対象になる風潮がおかしい。」

というツイートがありました。

その通りだと思います。一歩進めて、社会が、依存すること、甘えることを悪いことのように受け止め始めることの「怖さ」を最近感じるのです。

「自立」という資本主義社会を回してゆくための不自然な幸福論がその根元にあるのだと思うのですが、これでは幼児の存在を否定することにつながりかねない。依存されること、甘えられることで育ってゆく何かがあって、それが人類の存続にとって結構大切な鍵を握っていたのだと、みなで一緒に乳幼児を眺めながら、思い出さなければならない時なのだと思うのです。

 

仕事をするということには社会的責任がある。だから、「個人的な」子育てより優先されなければならない、というような言葉を聞くこともあります。これは本末転倒です。形の上ではそうであったとしても、人間が本気でこんなことを思い始めたら「社会」が成り立ちません。

幼児期の子ども(子育て)を最優先することが本当の意味で社会的責任なのではないか、という意識が社会全体に欠けてきている。とくに、社会人という言葉に現れるように、「社会」という定義が、それすなわち「経済競争」のように捉えられるようになって、年月が流れ、「言葉」に支配され始めている。

義務教育が語られる時に頻繁に登場する「自立」という言葉。それを目指すことが目的になり、そうすることが本当に幸福なのか、という議論も検証もない。この国の将来を考えた時、「自立」という言葉の呪縛から離れ、本来「社会」というものは、自立と反対の方向に位置するもの、助け合いなのだという記憶が戻ってくるといいのですが。

社会的責任は支え合いの幸せに基づいていて、一人では生きられないことを宣言すること。すべての人間が生まれて数年の間、幼児期にその宣言をしてきたということ。つまり、「社会的責任」は家族という単位から始まっていることを思い出し、それが施策に反映されるようになるといいのです。

親たちの意識が子ども優先の方向に戻らない限り、国の今の経済優先で人間性を失ってゆく方向性は変わらない。アメリカ大統領選とその後の価値観の混乱を見ればわかる通り、民主主義の危険性は経済優先で人間性を失ってゆくこと。しかし、人間性を失った経済優先主義では、多数が生きる力を失い始め、いずれ経済そのものも破綻し始める。政府やマスコミが、そこに気づいて、思考や報道の経済優先主義からの方向転換を計ってほしい。それが可能な唯一の先進国が日本という国だと思うし、この国の個性だったはずです。

 

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都議選が近づき、選挙絡みの講演依頼があります。発言できるチャンス、候補者に聴かせるチャンスですから一生懸命やります。でも同時に、受かってしまったらそれっきりの場合が多い。選挙の時だけ真剣に耳を傾ける、みたいな人が候補者になっていることが最近とくに増えている。志をもった政治家がいない。

全国で、話しかけない、抱っこしない未満児保育がじわじわと密室で広がっています。これが日本という国を土台から蝕んでいる。保育士に都合のいい子、事故が起こりにくい子、親が知らないうちに、後天的な発達障害が進んでいる。

そして、345歳児で簡単に薬物が処方されるようになってきている。

「もうすぐ学校ですから、そろそろお薬を飲み始めましょう」みたいな言葉が普通に聞かれるようになっています。政府の言う保育の「受け皿」とは、実質的に質の悪い保育と子育てにおける向精神薬の普及に進むための乗り物のような気がします。予算的にも人材的にも、義務教育には致命的な感じがして恐ろしい。この広がりの影響は対処しようがないということに早く気づいて欲しい。

外国人を雇っている東京都の認可保育園で、園長が保育士に「0歳児は言葉がわからないから外人でいいのよ」と言ったのを思い出します。それが10年前です。人情味があって幼児にいい外国人は確かにいます。でも園長がこれを言うことは、この国の保育に対する認識が「子育て」から外れ始めているということ。雇用労働施策になっている、ということなのです。

引きこもり・愛着障害・幼い中学生

2017年6月1日

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内閣府の調査で若者の引きこもりが54万人。3割超が7年以上で、長期化、そして高齢化しているという。

注目すべきは「引きこもりの状態になった年齢」です。

20〜24歳が増えトップで34.7%。次が16〜19歳の30.6%。引きこもりというと小学生や中学生の時に始まる問題のように思いがちですが、意外とそうではないのです。三歳未満児保育を国が経済、雇用のために数値目標を掲げて奨励し、幼児期に親子関係における安心の土台をしっかり作れないままに、保幼小連携などといって小一の壁を低くしようとしたり、「保育は成長産業」として子育てをサービス産業化しようとすると、20〜24歳で「世間の壁」「社会の壁」に跳ね返される、そして、ここで跳ね返されると引きこもりは長期化する、ということです。

「子育ての社会化」、現在の混乱状況にあってはもはや意味不明ともいえる言葉ですが、子育ての外注化と言った方がいいかもしれない、これが進んで、根本的な人生における目的意識、幸福論がゆらいでいる。幸福になるには自分自身の成り立ちを知らなければならないのに、それが伝えられていない。わからなくなっている。以前書いた文章ですが一例を挙げます。

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 高校生の保育士体験でのことです。ズボンを腰まで下げて悪ぶっていた高校生が、三才児に「ズボンこうやってはくん大よ」と説明されて慌ててズボンを上げるのです。校長先生や教頭先生が三年注意しても上がらなかったズボンが、三才児が指摘するとすぐに上がる。これは一体どう言うことなのか。三才児の存在意義は、ひょっとすると高等教育よりもはるかに人類にとって大切なものなのです。
 三才児は無心に。無意識に、人間たちを「いい人間にする」という自分の存在意義を表現し、高校生の成り立ちを指摘する。
 高校生は無意識の中で、三才児がいるから自分がいい人になれる、三才児がいるから、自分はすでにいい人なのだ、ということを知っている。遺伝子のレベルで知っている。知っていることを憶い出すために、高校生には三才児が絶対に必要、ということなのです。
  遺伝子に組込まれているもの、年月をかけ、進化の過程で培われたものを、社会という括りの中で(たとえば常識や文化といういい方で表してもいいのですが)身近に感じさせてくれるのが乳幼児とのやりとりだったのです。幼児と丁寧に暮らし、その時「本当は誰と、何と、誰が」会話をしているのか、無意識の中で気づかないと、自分自身の成り立ちがわからなくなる。人生という限られた時間の中で、自分自身を充分に体験できなくなる。三歳未満児を生産性のない人たち、と括って、単に育てばいいんだという浅い考えで政府が家族たちから引き離すと、双方向に不安がどんどん広がっていきます。

そして、もう一つ「引きこもり」について・・・。

欧米に比べ日本には奇跡的に家族という概念が残っていて、引きこもらせてくれる環境がある。江戸時代からの次男、三男の部屋住みなどの伝統文化があったことも一因でしょうか。役に立たないように見える人にもその価値があると考える。その存在が成り立つようにする。

3歳未満児と真面目に付き合っているとそういう価値観が身につくのだと思います。こういう人たちがいないと、社会というパズルが組めなくなる。以前書いた文章から引用します。

 (障害児、障害者、認知症のお年寄り、この人たちはどんな時代にも社会の一員として居た。最近名前がついただけで、以前は名前をつけて分けなくてもいいくらい、普通に居ました。人間社会はいつも様々な命の組み合わせで成り立ってきたのです。与太郎さんのような古典落語の重要な脇役は、いまの分け方から言えば障害者かもしれません。日本の昔話や民話の主人公に意外と多いのが「怠け者」です。三年寝たろう,眠りむしじゃらあ、わらしべ長者。一見負担になったり、一人ではなかなか生きられないひとたちと、パズルのように組み合わさって生きてきた。様々な次元で、お互いに育てあうのが人間社会だったのです。
 そのパズルの組み方を学ぶために、0歳1歳2歳児との、ゆっくりと時間をかけた付き合いが人間が支え合うために必要だったのではないか、と思うのです。この、絶対に一人では生きていけない人たち、すべての人間が一度は身をもって体験するその人たちを理解すること、または理解しようとすること、が一つ一つの命の存在意義と存在理由を人間たちに教えてきたのだと思います。)

いまの、日本特有のと言ってもいい引きこもりの状況を見ていると、経済的戦力にはなりませんが、とりあえず犯罪の抑止にはなっていると思います。「引きこもり」を研究している学者が、引きこもっている人の多くが親への殺意を感じたことがある、と発表していました。それが最近限界に来ている。家族の定義が「待機児童をなくす」といった言葉によって変化し、支え合う絆が薄れ、引きこもらせてくれる人たちが高齢化しているのです。

そして、中学生が非常に幼い。この現象は自然界からの警告のようにも受け取れます。遺伝子からの警告かもしれない。必死に果たせなかって「役割」を果たそうとしているのではないか。保育の質の問題もありますが、親の意識の変化がより大きな原因でしょう。保育のサービス産業化と福祉が、親の子育てに対する意識をこれからさらに変えてゆく気がしてなりません。

子どもたちが、親を育てる、弱者が強者を育てるという、人間社会にモラルや秩序を生み出す法則をもう一度思い出さないと、日本という国がその個性として持っていた「子どもに優しい社会」が崩れてゆく。

立ち止まって、心静かに考える時です。

 

(数年前、猪瀬知事が「スマート保育」というのを始めた時のブログがありました。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=211:いまだに手を変え品を変え、待機児童対策は保育士や幼児の気持ちを考えずに数合わせで進められている。この程度の意識からまだ抜け出ていないのです。)

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=211