NHKの視点論点・子ども・子育て支援新制度の原点

保育者たちの研究会で、子ども・子育て支援新制度について講演を頼まれました。現場は、新制度が始まって二年目で追い詰められています。保育士不足による保育の質の低下、何より、11時間保育を「標準」と名付けられたことが致命的でした。新制度の出発点、原点にあった「新システム」が民主党政権下、進められようとした時に保育誌に書いた文章を中心に現在の状況を加えながら、どういう発想が原点にあり、この流れが始まったのか、ざっとですが振り返ってみました。

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視点論点

以前、いまの「子ども・子育て支援新制度」が三党合意で民主党から自民党に受け継がれる前、NHKの視点論点という番組で、「子ども・子育て新システム」について、幼保一体化を中心に専門家が順番に意見を述べたことがありました。大日向雅美氏(大学教授)、山村雄一氏(大学教授)、普光院亜希さん(保育を考える親の会)の3人で、現場で保育に関わっている人が意見を述べなかった、その機会を与えられなかったことが残念でした。この施策が決まっていく過程を象徴しているようでした。

保育界は幼稚園、保育園という分類があり、新制度が始まり内閣府が関わり始めるまでは、文科省管轄、厚労省管轄に分かれていました。そこに、私立、公立、旧認可、旧認可外、新しい形の小規模保育、家庭的保育事業、子ども園、そしてその全てに「子ども主体に考える人、親へのサービスと考える人」が居て、その立場や仕組み、思い入れにによって問題点がずいぶん異なります。つまり「現場の代表」が誰なのか、が難しい。だからこそ、学者にはしっかりと様々な状況を考えて「研究」し、現場の状況を学んでもらわなくては困るのです。

山村氏は、新システムが「子どもの思いを受け止めていない」、と一番当たり前のことを警告していました。つまり、その動機と「筋」が悪いということです。保育士の「良心」をこの仕組みが成り立つ要素(係数)に加えれば、とても重要なことでした。とくに0、1、2歳児の保育にとっては、保育士の精神的健康と子どもの最善の利益を優先する姿勢は一番重視されなければならない必要条件です。

普光院さんは「こども園が、幼稚園と保育園のそれぞれの機能を弱くするのではないか」という論点で、新システムに反対しました。これもまた現実的です。現在の幼稚園型認定子ども園における、幼稚園型の親と、保育園型の親の生き方の違い、それが園運営の障害になってきている状況、そして慢性的な保育士不足を考慮すれば、3歳未満児の保育をこれ以上進めると、保育全体の質が低下してゆくのは明らかでした。

(新システムの根底にあるのは、当時民主党政権下、25万人3歳未満児を保育所やこども園で預かることによって労働力を確保しようという経済学者主導の雇用労働施策でした。新制度として自民党が実行した時は、それがさらに増えて40万人という目標を掲げました。)

大日向さんの発言は、公共放送で「(当時の)新システムを進める政府の委員」によって国民に説明されたという意味で、とても重要な発言でした。施策を進める政府の考え方を述べるという位置付けと、そして、こうした学者の意見が施策を作り出しているという責任は大きかったはずです。

 

大日向さんは番組で、「新システムは、すべての子供の育ちを社会の皆で支えるという、子育て支援の理念の画期的な変化です」とまず述べるのです。

当時すでに保育園や学校で起っていた保育士と保護者、教師と保護者間の摩擦や軋轢を考えれば、非常に抽象的な、机上の空論のように思えました。保育園や学校に子育ての責任を依存しようとする親が出始めている時に、「すべての子供の育ちを社会の皆で支える」ことができるはずがない。綺麗事に過ぎる、深く考えれば、人類史上かつて一度もあり得なかった社会、独裁政権でも作らないかぎりこれからもありえない社会です。似たような試みがイスラエルのキブツや、ソ連の共産主義的仕組みの中で国家事業として進められたことがありました。カナダのケベック州が試みた「全員保育」http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2314は州単位の試みですが、これもうまくいかなかった。範囲を広げれば中国の「一人っ子政策」などもそうですが、国家が家族という仕組みに介入してくると、モラルや秩序が育たなくなってくる。

部族という社会単位であれば可能かもしれませんが、子育ては、夫婦(親)を中心とした「家庭」主体で行われてきたのです。その家庭を支えるための「社会」だったわけです。この順番は絶対に忘れてはいけない。

大日向さんは、当時の「保育の友」九月号でも、「これまで親が第一義的責任を担い、それが果たせないときに社会(保育所)が代わりにと考えられてきましたが、その順番を変えたのです」と発言していた。

これは人類の進化にかかわる発言と言ってもいい。遺伝子の組み替えでもしないかぎり無理でしょう、と思います。ただの学者が学生相手の授業で言うならいい。でも大日向さんは、当時政府の保育施策の中心にいた人だったのです。この安易な、一見容易い方向転換のように聞こえる発言の先に、いまの保育士不足や保育の質の低下、「保育園落ちた、日本死ね!」などという言葉があるのです。

(この発言は実は同時に、幼稚園教育要領と教育基本法を否定することでもありました。「幼稚園教育要領、第十条: 父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって…」私は、本来こういう人間性の根源にかかわることは法律などで言うべきでないと考えていますからこういう矛盾を突くような論法は避けたいのですが、幼保一体化ワーキングチームの座長による発言でしたから、幼保一体化の意味と意図を明確にするためにあえて書きます。保育界を迷走させる明らかな矛盾がそこにはあった。そして、厚生労働省が抱える「厚生」と「労働」の矛盾が、幼児が日々を安心して過ごす、という日本の未来を政府の選んだ学者の言葉が脅かしている。)

この「保育の友」における発言に出てくる「社会」の意味が曖昧で怖いのです。このインタビューでは「保育所」とキャプションがついていましたが、通常は誰もはっきりと定義しない。NHKの視点論点でも、「社会皆で支える」と簡単に言っています。でも、これは具体性に欠ける明らかな誤魔化しです。新システムのことでの発言です。「システムで支える」と正直に言うべきです。

よく使われる「女性の社会進出」という言葉の意味さえ、実はあえて誰も定義しない。経済競争という意味でしょうけれど、経済競争はよく考えれば社会のほんの一部でしかない。祈ること、祝うこと、踊ること、歌うことも「社会」です。そのことが明らかになるのが嫌で、誰も「経済競争」と、はっきり言わない。

 

別の番組、NHKのクローズアップ現代でも大日向さんから同様の発言がありました。その時も「社会」が何を意味するか明確な説明はありませんでした。こういう曖昧にして「社会」という言葉を使うひとたちは、いつでもその意味をもっと幅広い、「家庭を含む」「隣近所のおじちゃんおばちゃん」まで広げて逃げる準備をしています。ところが、子育てを「社会化」(システム化)すると、地域の絆どころか、夫婦揃ってやる子育て、社会の最小単位である「夫婦」の絆が崩れてゆく。3割から6割の子どもが未婚の母から生まれる欧米先進国がいい例です。そして、家庭崩壊が始まると児童虐待と女性虐待が広がり、老人の孤立化も加わり「社会」(システム)を支える福祉の財源が枯渇してくる。

夫婦が、子育てによりお互いのいい人間性を確認し、それを育てあい、信頼関係を築いてゆく。人間たちが、愛とか忠誠心といった「損得を離れた絆」を社会に育み続けるために子育ては存在するのです。

 

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以前頻繁に使われていた「介護の社会化」という言葉を思い出します。その結果孤立する老人が急増し、無縁社会といわれる状況にまで進んでしまった。(福祉で絆の肩代わりをしようとした北欧で、20年前に起ってしまった現象とほぼ同じです。)親身な関係を生むための助け合いと育ちあいを「社会化」することによって、人間性が社会から失われていく。そして、福祉で人間性を補うことは不可能です。

選挙と結びついた福祉と、市場原理が背景にあるシステムの変革が、人間の意識や本能が支えていた社会の構造を加速度的に変えて行く、人類史上かつてない過渡期に私たちは直面しています。

 

以前から指摘されていたのですが、背後に「保育は成長産業」という閣議決定がある現在の子ども・子育て支援新制度が、介護保険制度と似ている。これほど「無縁社会」を推し進めた介護保険を、厚労省は財政削減につながったとして、「成功」と見ているふしもある。誰のための「成功」なのか、見極めなければいけない。保育制度の場合、「誰」の主役は「幼児」であることを見落としてはいけない。

 

大日向さんは、「働き方の見直しと、子育てと仕事の調和を目指す。何よりも、子供の健やかな成長を議論の大前提としている」と付け加えます。

「子どもの健やかな成長のために」というなら、子育てと仕事の調和を目指す前に、子育てを中心にした家族の調和を目指すべき。(百歩譲って、保育士不足の問題をまず先に解決すべき。)

最近の児童虐待やDVの増加を考えれば、家庭の中心に子育てが優先的に存在しないと、社会全体の調和が崩れてくる。それを保育で肩代わりしようとしても限度、限界がある。肩代わりしようとすることが、なお一層児童虐待やDVの増加を進める。

「調和」には親と子の両方が成長する「時間」と「環境」が必要なのです。ゆっくりと流れてゆく、言葉を発しない赤ん坊と過ごす時間が「絆」の出発点として大切で、それは人類史の上で常に存在していた。幼児と親はなるべく引き離さない、その方向へ保育施策を考えないと、調和が、希薄な偽物になってしまう。

引き離さずに、親子を育てる、そんな役割を保育界が担うようになればいいのです。

 

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いま、鳥取県が始めようとしている、自分で育てる親に月額三万五千円を給付をする、そういう方向の方が「健やかな成長」(子どもにとっても親にとっても)につながるはずです。未満児を持つ父親の残業を制限する、父親の一日保育者体験を広め、早いうちに父親の感性を育てる。そして、この時期(人生の始めの3年間)だけでも母親が子育てに集中できるように仕組みを組み替えてゆく。それをしないと保育という仕組み自体が崩れてゆく。難しいことではない。子どもの願いを中心に「子育てと仕事の調和を目指す」べきなのです。

そして、認可保育園や幼稚園に子育て支援センターを作って、既存の保育施設が役割的にも財政的にも健全に存続できるようにする。

 

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新システム(新制度)は始めから「雇用・労働施策」と定義されていて、現場を無視した数値目標が始めにある。しかし、保育士の数が決定的に足りない。これでは、小学校も含めて「現場」は追いつめられるばかりです。早く、方向転換しないと傷はますます深くなる。いまの保育者養成校の学生の質を考えれば、いますぐ政府が方針を変えても、10年は立ち直れないかもしれない。

(ただ、資格者を増やせば「保育」ができると思っている政府やマスコミも想像力に欠けていますが、世間知らずの経済学者ならまだしも、養成校で教えている保育の「専門家」たちの中にも、「社会で子育て」などという人たちがいて、その人たちは、簡単に無責任に、たぶんビジネスだから、保育資格を現場に来てはいけない学生たちに与え続けている。)

 

今、全国ほとんどの地域で、保育士に欠員が出たら埋めるのが大変です。それでも政府は規制緩和、市場原理を使って無理にでも進めようとしている。実は「子どものためではない」と知っているから、「子どものため、子どもの健やかな成長のため」などと言ってごまかそうとする。自己主張できない子どもたちに対して、これほど白々しい嘘はありません。手ひどいしっぺ返しが社会全体に返ってきます。

だからこそ、未満児たちを毎日見つめている保育士たち、そして、母親たちが子どもたちのために立ち上がらなければならないと思います。本気でいま、「子どものため、子どもの健やかな成長のため」と声を上げなければならない。

 

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大日向さん:「なぜ新システムが必要か。子育て、働き方に関するこれまでの考え方や制度が、時代の変化と共に人々の生活スタイルや価値観に合わなくなっているから」。

人間性が失われてもかまわないなら別ですが、あきらかに現代社会はシステムが子育てを引き受けることによって、つまり親が親らしくなくなってくることで起こる新たな多くの問題を抱えています。時代の変化に対応することによって、「生活スタイルや価値観」が大人中心のものになってきている。

児童養護施設や乳児院が、親による虐待が主な原因で満員になっています。(定員に満たない施設もありますが、人材不足・財源不足による定員割れです。これは介護でも保育でも同じことが起っています。)

いじめや不登校、モンスターペアレンツといった問題を抱え、学校の先生が精神的に限界に近づいています。埼玉県で6割、東京都で休職している先生の7割が精神的病です。引きこもりの平均年齢が30歳を越え、信頼関係を失った人間たちに生きる力がなくなってきています。

(公立保育園中心にやってきた自治体で、0、1歳を預ける親が急増しています。保育を理解していない役場の保育課長が、とりあえず、3、4、5歳に当てていた加配保育士たちを0、1歳に回している。いまの、4、5歳児を保育士一人で30人毎日世話するのは無理です。保育に教育的要素を、などと言っても学者の空論、できるわけがない。質の悪い保育士によるしつけは、簡単に虐待につながってゆく。3、4、5歳児の部屋で収拾がつかなくなり、そこで保育された子どもたちが4月には小学校に入るのです。そんな状況が全国で一気に進んでいます。)

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日本とは一桁違う欧米の犯罪率を見れば、親が親らしくなくなること、特に父親が未満児との体験を持たないことは、人間社会からモラル•秩序が欠落していくことだとわかります。百歩譲って、価値観に合わなくなったからシステムを変えるべきならば、その度に変えなければなりません。すでに20代の女性で専業主婦を望む人は増え始めている。経済競争だけが人生ではない。経済競争だけが社会でもない。日本人は気づき始めている。欲を捨てることに幸せへの道がある、と説いた仏教の土壌がまだ色濃く残っている国なのです。

大多数の人間が子育てに幸せを感じることができなかったら、人類はとっくに滅んでいます。ごく最近まで、人類は幸福感の第一を「子育て」に見ていたもです。損得を忘れることができるからです。発展途上国の貧しい農村へ行くと、村人たちの表情に心を洗われる、と海外へ経済援助に行って来た人たちがしばしば言います。人間は「子育て」を取り巻く信頼関係に幸せを感じ続けてきたのです。

 

 

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大日向さん:「少子化が急速に進み、生産年齢が減少して社会保障の維持の上からも危機感が持たれています」

この辺りに、今度の保育改革が進んだ学者と政治家の「本音」がある。しかし、日本の少子化の大きな原因は結婚しない男が現在2割、十年後3割に増えようとしていること。貧しい国々で経済状況が日本より悪いもかかわらす、人口増加が問題になっていることを考えると、これは性的役割分担の希薄さが原因で、経済問題ではない、という考え方もできます。

男たちに「責任を感じる幸福感」がなくなってきている。ネアンデルタール人などを研究する古人類学では、性的役割分担がはっきりしてきたときに人類は「家族」という定義を持つようになった、と言います。性的役割分担が薄れた時に、人類は家族という単位で生きようとしなくなる、ということかもしれません。それでいい、という考え方もあっていい。しかし、それは人類が数万年拠り所にしてきた、頼りあう、信じあうという「生きる力」を土台から失うことでもあります。男女間の絆と信頼関係を失ってゆくことになるのです。

 

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大日向さん:「若い世代は子供を産みたいと願っているが、産めない理由がある。」

経済的理由で、と言いたいのだと思います。社会(保育所)が育ててくれれば産むのだ、ということでしょう。しかし、日本の少子化現象は、自らの手で育てられないのだったら産まない、という親子関係を文化の基礎にする日本の美学ととらえることもできる。この考え方の方が、自然だと思います。日本人は、欧米とは違った考え方をする人たちなのです。

自分で育てられなくても産む、という感覚の方が、人間社会に本能的な責任感の欠如を生むような気がしてなりません。ひょっとすると、人間性の否定かもしれません。全国各地で役場の担当の人が「0歳児を預けるのに躊躇しない親が増えた」と顔をしかめます。「保育園落ちた、日本死ね」という言葉の裏には幼児と母親という二つの人生がある。それが心情的に重ならない。

大日向さん:「高学歴化、社会参加の意欲の高まり、更には近年の経済不況の影響もあって、働くことを希望する女性は増えている。」

心から希望しているのか、仕方なく希望しているのかによって対策は違わなければなりません。仕方なく希望しているのであれば、子育てを心の中では希望している女性のニーズに応えていくべきです。それであれば幼児たちのニーズとも重なります。頼ろうとする、信じようとする、そのことこそが社会参加の基礎であることをもう一度学び直さなければなりません。

子育てが家庭のかすがいであって、子育てが育む信頼関係が人間社会を支えてきたのだ、という意識を強くもてば、子育てを親のもとに返してゆくことは財政的にも充分可能です。欧米社会で起ってしまったモラル崩壊の流れを考えると、それによって抑えられる犯罪率や児童養護施設や乳児院、裁判所や刑務所にかかる費用を想像すれば効率的にもいいはず。子育ての社会化を防ぎ、親たち、祖父母たちの手に出来るかぎり子どもたちを返すことは、財政だけではなく、この国の魂のインフラにかかわる緊急かつ最重要問題だと思います。

 

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大日向さん:「依然として職場環境は厳しく、仕事か家庭かの選択を迫られている」

子供が乳幼児の場合、家庭(子ども)から離れる仕事と家庭(子育て)は本来両立出来ません。だから選択を迫られているのであって、選択を迫られるのは生き方の選択を迫られること。どちらがいいとは言いませんが、女性だけが選択を迫られるのは不平等というなら、そういう論議にするべきで、「すべての子供たちのために」と言う誤魔化しは使うべきではない。

大日向さん:「更に、安心して子供を預けられる環境の整備が遅れている。」

その通り。本来「安心して子供を預けられる環境」がある、と親に思わせることがおかしい。自分の親に預けたって心配です。国のやっている仕組みだから安心、という考え方は人間的ではない。いまの、ほぼどんな学生にも資格を与えてしまう養成校の状況を考えれば、学者のペテン、思い上がりです。規制緩和で、規則が曖昧なため百人規模の「家庭保育室」がすでにあります。資格者は半数でいい、という小規模保育が増えています。親へのサービスを主体に考える市場原理に基づいた保育をしようとする園長設置者が参入して来ています。そして、犠牲者が出ています。新制度は、さらにこれを進めようとしています。

保育は市場原理では機能しません。なぜなら、保育士たちが「良心」を持った人たちだからです。日々、子どもたちに「心」を磨かれている人たちだからです。だから実は私は、新制度なんか怖くない。いい保育士が辞めていくことでブレーキはかかります。しかし、それが進められ、やがて市場原理が成り立たなくなる過程で、子どもたちがどういう体験をするか、ということを考えると恐ろしくなるのです。

「子どもの健やかな成長」は、「その子の命に感謝する人を増やす」ことです。そういう人がまわりに数人いれば、子どもは見事に生き、その役割りを果たします。

 

大日向さん:「都市部では深刻な待機児問題が続いている」

その深刻さは、待機児童が増えていることではありません。そこにどのような理由があろうとも、子どもを保育園に預けようという親が増え続けていることが深刻なのです。

待機児童は減らそうとすればするほど増える、現場で親を知る保育士たちは10年前からすでに予言していました。

保育は親たちの意識の中で、権利から利権になりつつあります。

横浜市では待機児童が一番多かった頃、その倍の数の欠員がありました。待機児童の問題は単純ではない。最近目立ってきた偽就労証明書、偽装離婚、偽うつ証明書などの問題を、新制度を進めようとしている人たちはどうとらえているのか。気づいていないのか、いずれ仕分けするつもりでいるのか。覚悟のほどを聴きたい。

 

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大日向さん:「保育所を整備すれば問題は解決するかというと、必ずしもそうではない。むしろ、修学前の子供たちが、親が働いている、いないによって幼稚園と保育所に別れている現状が、子供の健やかな育ちを守り、同時に親が安心して働き続ける上で、大きな問題を生んでいる。」

ここに、幼保一体化に対する大日向さんの考え方の原点があります。簡単に言えば、働く女性にとって不公平だということです。

この文章は論点が飛躍しすぎています。なぜ幼稚園と保育園にわかれることが「子供の健やかな育ちを守り、同時に親が安心して働き続ける」ことを妨げるのかがわからない。

幼稚園に行く子どもと保育園に行く子どもとは一般的に家庭の事情、親の意識が違う。わかれる方が健やかな育ちを守る、と考えるのが自然です。しかもそうしてきた日本が、欧米に比べ、経済だけではなく、モラル•秩序、犯罪率、幼児虐待やDVという幸福に直接かかわる問題でははるかに状況がいいのです。

5時間預かる子どもと10時間預かる子どもを一緒に保育するのは大変です。

「大きな問題」が誰にとってのどのような問題なのか。保育所に「預けたい」人にとっての問題なのでしょうか。それでは子どもがかわいそうです。幼児をシステムに10時間も毎日預けるのであれば、それなりの不安やうしろめたさを感じるのが普通です。

(新制度では、11時間保育を「標準」としたために、様々な問題が起きています。加配相当の発達障害を持った親が、「私も、標準にします」と言ったとたんに、園全体の保育の質が影響を受ける。)

大日向さん:「幼稚園は学校教育法に位置づけられているが、4時間保育を中心としているために、事実上、専業主婦家庭の子供しか利用できません。その結果、幼稚園は入園希望者が減り、特に地方では減少の一途を辿っている。幼稚園の無い自治体は2割、人口1万人未満の自治体では5割に及んでいる。」

幼稚園のない自治体が2割、これは主にその自治体の歴史がそうさせてきたのであって、幼稚園が親の生き方の変化によって淘汰されたのではありません。もともと、そうだったのです。そういう自治体では、役場の指導で親が偽就労証明書を書いていた。でも、四時には保育園は空になった。だいたい、そんな仕組みだったのです。

幼稚園が選択肢としてあるところでは、例えば埼玉県や横浜市では幼稚園を選ぶ親と保育園を選ぶ親の比率は7:3、自分で育てたいと願っている親の方が多い。

自分で育てる、そういう本能が人間の遺伝子に組み込まれている。本能から来る願いが幸せにつながっていた。それを優先することが、社会に人間性を保つ。その願いは子どもたちの願いと一致する。親子がなるべく最初の数年を一緒に過ごすことができるように、この国は施策を進めるべきだと思います。多くの親子が何を望んでいるか、という視点が「新システム」(新制度)には決定的に欠けています。

 

 

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大日向さん:「保育所は、働く女性の数が増え、保育所の整備が追いついていません。女性の社会進出は経済成長を支える鍵でもあり、保育所の果たす役割は、今後も更に大きくなっていきます。保育所は、幼児教育をしていないという、誤解が一部にあります。子供を幼稚園に通わせるために、仕事を辞める女性もいます。」

「女性の社会進出は経済成長を支える鍵」と言う根拠がない。この論理が正しいのであれば、女性の社会進出が日本よりはるかに進んでいるヨーロッパ諸国の経済状況がなぜこれほど悪いのか。社会進出して稼いでも、加速度的に福祉に吸い取られ、家庭崩壊によるモラル•秩序の崩壊に国の予算が対処しきれなくなっているのが現状でしょう。EUの経済危機が「家族」という概念の崩壊に根ざしていることを、なぜ日本の学者は理解しないのか。しようとしないのか。

終戦直後の混乱期を除けば、ヨーロッパの国々が一度として経済的に日本を上回った時はない。親が子どものために、子どもが親のために頑張ったから高度経済成長があったわけですし、先進国の中では奇跡的に家族という定義がまだ色濃く残っている日本が、なぜアメリカや中国という大国に続いていまだに世界第三位の経済大国なのか。実は、家庭や家族がしっかりしている方が、経済成長につながるのです。絆が安心感の土台になり、家族のために頑張るのが人間だからです。人間は自分のためにはそんなに頑張れるものではないのです。本来、頼りあう、支えあう、信じあうのが好きなのです。

アメリカという資本主義社会を代表する国で、家庭観を発展途上国で身につけ、教育も発展途上国で受けた英語も満足に話せない移民一世が、二世や三世よりも経済的に成功する確率が高いのです。家族がいて、子育てが中心にあると、人間は、生きる力が湧いてくるのです。

民主主義も学校も幼稚園も保育園も、親が親らしい、人間が人間らしいという前提のもとに作られています。人間らしさを失ってくると、人間の作ったシステムは人間に牙を剥き始める。地球温暖化と似ています。

子どもを幼稚園に通わせたいという親たちは、教育を求めてというよりも、子供の成長を自分の目で長く見ていたい、という本能的な気持ちが出発点にあるのではないか。子育ては、この国では、未だに仕事よりもはるかに幸せの原点になっている、人生の華なのです。

大日向さん:「これはあきらかな誤解です。保育は、養護と教育が一体となったもの。保育所は幼児期の教育を十二分に行っている。」

幼稚園によっては意識的に教育的保育を避け、子どもたちの「遊び」を尊重する保育をやっています。幼稚園よりもっと教育的保育をやっている保育園もあります。どちらでもかまいません。しかし残念ながら、ここ10年くらいの間に、規制緩和により保育資格のない保育者を増やし、認証保育所や家庭保育室、保育ママを行政が薦め、園庭のない一部屋保育や駅中保育、短時間のパートでつなぐような保育園が意図的に増やされている状況で、大日向さんのこの発言は事実ではありません。公立保育園の非正規雇用化が進み、自治体によっては九割が非正規雇用という市もあります。まず、保育とは何か、どういう役割りを社会で担っているのか、その意識を整えなければならない段階なのです。

 

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新規参入を奨励する新制度を進めようとしている人たちは、全国的に起っている大学や専門学校の保育科の定員割れをどう考えているのか。願書さえ出せば入学でき、ほぼ全員国家資格がとれるような仕組みの中で、子育てを任せられる保育士を確保するのは急速に難しくなっています。実習に来る学生たちの態度の悪さに驚愕している園長たちに話を聴けば、とても「社会で子育て」などと言えないはず。

新システム(新制度)は、客観的に見て、保育園のさらなる託児所化と、幼稚園を雇用労働施策に取り込むことによって託児を兼任させることを目指しています。

自治体が、財政上の理由で規則をゆるめ、罰則規定も整備されていない状況で、財政難+新システムでは、「大人たちの都合で」ますます保育は旧認可外に近い形に移行するかもしれません。

 

大日向さん:「政府の推進体制、財源を一元化する。これまで、幼稚園は文科省、保育園は厚労省、財源も制度ごとにばらばらでした。新システムでは、こども園給付を創設して、財政と所管を一元化して二重行政の解消をめざす。就学前の子が過ごす場が親の生活状況によって幼稚園と保育園に別れて60数年です。幼保一体化は、多くの関係者の悲願でした。」

30年にわたって保育の現場を見、多くの関係者と話をしてきましたが、「幼保一体化は多くの関係者の悲願」ではない。政府の幼保一体化ワーキングチームの座長が、公共放送で問題の本質に関わるまったく事実ではないことを言うことに、保育団体は、政府に正式に強く抗議するべきだと思います。

業界的考え方をする経営者の一部が地方の幼稚園の生き残り策として望んでいたかもしれない。しかし絶対に幼稚園関係者全体の希望ではなかった。全国の私立幼稚園が進めた幼保一体化反対署名運動の広がりを見ればあきらかでしょう。

保育園で保育士が幼保一体化を望んでいた、という話も聴いたことがありません。預かる人数を増やし、しかも支出を抑えたい行政が望んでいたかもしれない。ジェンダーフリー的考え方をするひとたちが差別感を解消するために望んでいたかもしれない。幼稚園を厚労省管轄にし、雇用労働施策に取り込むことによって労働力を確保しようという財界が望んでいるのかもしれない。しかし、当事者である親や子供たちがそれを望んでいるという調査結果はないはずです。

 

大日向さん:「子供の今を、日本社会の未来を守るために、新システムの理念を実現すべく、恒久財源を確保して時代に即した、新たな歴史を築いていくことが必要と考えます。」

子どもの今を、日本社会の未来を守るために、新システムの理念を否定し、保育の質を上げるために恒久財源を確保し、人間性に即した、子ども中心の保育を築いていくことが、必要なのです。この新システムを議論することによって、保育の大切さ、それがこの国の土台を支えているのだ、という意識が高まることを期待します。

 

子ども・子育て新システムの出典?

小宮山洋子著「私の政治の歩き方」(すべての子どもたちのために)という本があります。著者は、元厚生労働大臣です。

本の副題が新システムのサブタイトルになっていて、新システムはこの本から出発したのではないか、とも思えます。だから、民主党はこの人を厚生労働大臣にしたのでしょう。けれども、本の中身も新システムも、出発点から「子どもたちのため」になっているとは思えない。「子どもたちのために」と繰り返し、繰り返し書かれていますが、大人たちのために考えられている。

児童虐待が増えたから、それを守るために社会が育てなければいけない、というのですが、子育ての社会化によって人間性が失われると、人間は孤立化しよりいっそうモラル•秩序が希薄になり、それが犯罪率に反影するのです。家庭という概念が希薄になり、子育ての社会化が進んだ欧米で、犯罪率(たとえば傷害事件)を比べれば、アメリカは日本の25倍、フィンランドは18倍、フランスは6倍です。日本がなぜこれほどまだ良いのか。子育てによって培われる弱者に優しい「心」が残っているからです。0才児を預ける親は一割以下なのです。男女が協力し子どもを育てる姿勢が、欧米に比べ奇跡的に残っている。子どもを生み育てる、という大自然が我々に課した「男女共同参画社会」が、この国には根強く残っている。アメリカで3割、イギリスで4割、フランスで5割、スエーデンで6割の子どもが未婚の母から生まれています。欧米で「男女共同参画子育て社会」(つまり家庭)がこれほどまでに崩壊してしまった今、日本が、「子育て」という男女共同参画の根本にある人間性を維持していけば、いつか人類の大切な選択肢になるはずです。

  1. :子ども・子育て応援政策」にこう書かれています。

「就学前のすべての希望する子どもたちに質の良い居場所を。==幼保一体化など」

私は、言い続けるしかない。子どもたちは希望していない。

待機児童のほとんどが未満児(0.1.2歳)です。未満児は希望を発言できない。だからこそ、未満児たちが何を希望しているかを想像するのが人間性。未満児は、親と一緒にいたいと思っています。(老人だって、孫や子どもと一緒にいたいと思っています。)

自ら発言できない人たちの希望を想像することは宇宙のエネルギーの流れを知ろうとすること。注意深く、感性をもって行わなければなりません。なぜなら、それは自分の生き方を決定づけることになるからです。

「希望するすべての子どもに家庭以外の居場所を作ります」

人類の歴史を考えれば、子どもたちの希望は家庭に居場所があることです。それがまわりにない状況ならば、だいたい親の人間性と社会の絆の欠如の問題です。家庭以外の場所に意識的に子どもたちの居場所を作ることは、家庭という居場所が減る動きにつながります。もし、子どもたちが親と一緒に過ごすことを希望しなくなってきたとしたら、希望するように親が変わらなければならない。社会の仕組みが変わらなければいけない。

それが、人類が健やかに進化し、自分を「いい人間」として体験するための道です。

「最近では、働いていなくても、子どもと接する時間の長い専業主婦に、育児不安などで子どもを虐待してしまう人が多いのです。このことからも、保護者が働いていない家庭の子どもにも、質のよい居場所が必要なことは、おわかりいただけると思います。」

育児不安の原因になる子どもを家庭から取り除いても、子どもが園から帰ってくれば、そこにいるのは育児不安になりやすい親に変わりはありません。

「子育て」は、子どもが親を人間らしくするためにあるのです。親たちが忍耐力や優しさ、祈る気持ちや感謝する姿を、育児を通して身につけ、頼りあい、助け合うことに生き甲斐を感じ、絆をつくり、社会に信頼関係を生み出す。そのためにあるのです。

母親の不安は夫の育児参加が足りていないことや、孤立化から起っているのであって絆の欠如の問題です。子どもに新たな居場所を作っても問題の解決にはなりません。

孤立化や絆の欠如に福祉や教育で対処しても、やがて財政的に追いつかなくなります。親心や親身さに福祉や教育が代わることはできません。

いま、こういう時代だからこそ「保育」の大切さを保育界や教育界が認識し、うったえなければなりません。週末48時間親に子どもを返すのが心配だ、と保育士が言う時代です。せっかく五日間良い保育をしても、月曜日にまた噛みつくようになって戻ってくる、せっかくお尻がきれいになったと思ったら、週末でまた赤くただれて戻ってくる、家庭と保育園が本末転倒になってきています。

母親が、妊娠中に預ける場所を探し始めるという行為が、人間にとって実はどれほど不自然か、社会全体が気づかなくなっています。

ある夕方のこと

子どもの発達を保育の醍醐味ととらえ、保育士たちの自主研修も月に一回やり、親を育てる行事をたくさん組んで保育をやっている保育園で…。

園長先生が職員室で二人の女の子が話しているのを聴きました。

「Kせんせい、やさしいんだよねー」

「そうだよねー。やさしいんだよねー」

園長先生は思わず嬉しくなって、「そう。よかったわー」

「でも、ゆうがたになるとこわいんだよねー」

「うん、なんでだろうねー」

園長先生は苦笑い。一生懸命保育をすれば、夕方には誰だって少しくたびれてきます。それを子どもはちゃんと見ています。他人の子どもを毎日毎日八時間、こんな人数で見るのは大変です。しかも、園長先生は保育士たちに、喜びをもって子どもの成長を一人一人観察し、その日の心理状態を把握して保育をしてください、と言っています。問題のある場合は、家庭の状況を探ってアドバイスをしたり、良い保育をしようとすれば、それは日々の生活であって完璧・完成はありえません。

保育士に望みすぎているのかもしれない…、と園長先生は思いました。それでも、いま園に来ている子どもたちのために、選択肢のなかった子どもたちのために、できるところまでやり続けるしかないのです。

そう思いだした時、職員室での子どもたちの会話が、保育士たちへの励ましのように聴こえたのでした。

救われている

子どもたちに許され、愛され、救われて私たちは生きていきます。子どもたちは、見事に信じきって、頼りきって私たちを見つめます。その視線に、私は感謝します。

子どもたちによってすでに救われている、そう感じた時に、人間は安心するのです。

 

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子育ての社会化が、子育ての仕組みへの依存につながる。ここで言う仕組みとは、様々な福祉、保育園、幼稚園、学校ということですが、その親による子育て依存が、やがて子育て放棄や家庭崩壊につながってゆく。この「子育て放棄」と「家庭崩壊」は、どちらが先がいろいろなのですが、夫婦にとって、社会にとって「子はかすがい」ではなく「子育てかすがい」だったことを政治家が忘れ、仕組みの充実を図ろうとすると、社会から親身な絆が薄れてゆく。そうなった時に、福祉や教育は限界を超える。子育てを受けきれない。すると、市場原理に逃げ道を探そうとする。すると、子どもが大人の都合でやり取りされる、売り買いとまではいきませんが、それに近い状況が起こってくる。それを政府が「違法」にすることがもはやできなくなる。

BS世界のドキュメンタリー「捨てられる養子たち」。映像が伝えてくる「警告」は恐ろしいほどリアルで、人間社会の可能性を示唆しています。https://www.facebook.com/watch/?v=1820006938239263

 

心の土台

心の土台

小一プロブレムと呼ばれるように、小学一年生から頻発する学級崩壊や新卒の教師の半数が3年以内に教職を去るという危機に直面し、保幼少連携という言葉が使われるのですが、本来、保幼少は連携などしていなくてもいい。
家庭における家族関係、愛着関係、特に幼児期の母子関係が土台にあれば、教育も保育も充分成り立ってきたわけですし、家庭で作られる愛着関係の絆が薄くなったからといって保育や教育という仕組みがそれに対処、対応しようとすればするほど、仕組みでは肩代わり出来ない子どもたちのとっての「心の土台」が消えてゆく。その事に学者や専門家が気づかずに保育や教育に関する施策が進められてきた。少なくとも政府の施策を決めてゆく立場にある学者たちが気づいていない。気づいていても、自分のキャリアや立場を守りたいのか、素直に、さっさと反省しない。子どもたちを支える「心の土台」(親心)が希薄になれば、学校教育は成り立たない。それだけのことなのです。

 子ども・子育て支援新制度の前身、「新システム」を進める委員で、民主党のブレーンでもあった大日向雅美教授は、当時「保育の友」という雑誌で、一連の変革について、
「これまで親が第一義的責任を担い、それが果たせないときに社会(保育所)が代わりにと考えられてきましたが、その順番を変えたのです」
と言っていました。
何気ない発言でしたが、業界紙であってはいけない保育雑誌でこういうことが言われ、問題視されなかった。ここが分岐点だったと思います。
ここで、現場を支えてきた保育士たちの良心が、国の施策と完全に食い違ってしまった。幼児たちの思い、が国の経済施策から外された。
当時、国の保育施策の中心人物でもあった大日向さんのこの発言は、人類の進化に直接的にかかわる発言で、一学者が軽々に言う事ではない。その後大日向さんは、NHKの番組で、「新システムは、すべての子供の育ちを社会の皆で支えるという、子育て支援の理念の画期的な変化です」と述べている。
これがいまだに政府の保育施策の原点にある。教育要領の改訂にも同様な考え方があるのです。

「社会で支える」は時々「人々の絆で」、などといって誤摩化されますが、現実は子育てを保育と教育、そして福祉で支える、ということです。その裏に「働く親の代わりに」という意図があるからこそ経済施策という位置づけになっている。

保育園や学校で起っている保護者との摩擦や軋轢、子育てに関わる者同士の不信感の広がりを見ればわかると思いますが、自分の子どもの育ちを第一義的責任として支えようとしない、安易に保育園や学校に子育てを依存しようとする、責任を転嫁しようとする親が明らかに増え始めている。役場の窓口の人が、0歳児を預けることに躊躇しない親が突然増えている、人材もいないし財源もない状況で、保育士にこれ以上押し付けるわけにはいかないと言っている時に、「すべての子供の育ちを社会の皆で支える」なんてことができるはずがない。机上の空論、夢のまた夢、そんなものは人類史上かつてあり得なかった社会であって、永遠に不可能な、常に絆を求める「人間性」と相容れない方針だと思います。
部族という社会単位であれば可能かもしれませんが、学者が考えた「仕組み」では無理。長い間、子育ては、夫婦(親)を中心とした「家庭」主体で行われてきたのです。本来、子育ては、主に家庭という場で、育てる側の絆を育てるために存在してきたのであって手法ではない。その家庭の集合体としての社会があったはずなのです。

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子育てにおいて、家族より社会の仕組みを優先するという試みは、独裁的な共産主義体制やイスラエルが試行したキブツなどの例を見ても、短期間に必ず失敗に終わっている。または、モラル・秩序を著しく欠いた社会を生み出している。

いまの政府の施策は、家庭よりも個を重視することで消費を促し経済活動を活性化させようという、人間性を無視した経済学者の考えを政治家が鵜呑みにしているだけ。ここ数年、市場原理・競争原理主体の経済学が政治家を動かしている。世界的にその流れが、取り返しのつかない摩擦を生み出している。

首相が国会で言った、もう40万人乳幼児を保育園で預かれ、そうすれば女性が輝く、という考え方は、「ヒラリー・クリントンがエールを送ってくれました」という首相自らの言葉に表れているように、日本の乳幼児を育てている女性の産業・経済における労働力化を欧米並みにしようという論理です。
そのアメリカで、警察官の発砲事件の多発している。毎週1人の市民が警官に殺されるシカゴでは、市長が、市の警察官に対して「人間性を持つように」と指令を出している。市長が警察官にこれを言わなければならない国で、去年、一度に四人以上が撃たれる事件(mass shooting)が331件起こっている。一度に四人、ということは、恨みつらみの問題ではない。社会全体の空気、優しさ、一体感の問題なのです。
去年のアメリカの大統領選に象徴されるような欧米社会のモラル・秩序の低下と、その混乱ぶりを見れば、経済を中心に考える社会は仕組み的に失敗しているということは明らかなはずです。その失敗の根本に三割から六割の子どもが未婚の母から生まれるという、家庭という概念の崩壊があるのです。

 (フランスのテレビ局制作のドキュメンタリー「捨てられる養子たち」、BS1「世界のドキュメンタリー」。https://www.youtube.com/watch?v=Cj8FNG3OS7M ぜひ、ご覧ください。
  英語のタイトルは「Disposable Children」。「処分できる、自由になる、自由に使える、使い捨ての」子どもたち、なのです。)
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幼児の存在意義を忘れてはいけない。人間の絆がどのように形成されるのか、金銭のやりとり以前の本来の姿を憶いだす時が来ているということを、文化人類学者や心理学者、哲学者や宗教家が真剣に考え、発言してほしいと思うのです。

すでに成り立たなくなっている「福祉」

 フランスのテレビ局制作のドキュメンタリー「捨てられる養子たち」が、BS1「世界のドキュメンタリー」で再放送されました。https://www.facebook.com/satooyarenrakukai/videos/20161027-bs世界のドキュメンタリー捨てられる養子たち/1820006938239263/ (いつまでアップされているかはわかりませんが、youtubeに載っています。ぜひ、ご覧ください。)
 
 英語のタイトルは「Disposable Children」。普通に訳せば、「処分できる、自由になる、自由に使える、使い捨ての」子どもたち、なのです。
 
 里親を望む「親希望の人たち」の素性調査さえ出来ない、しないNPOや団体による里親探し、養子の斡旋、ネット上の子どものやり取り、売買に近いような実態が子どもたちの体験を通して報告されます。
 
 こういう風景が日常的に受け入れられている社会がすでに存在している。私は、30年前にこういう社会派のドキュメンタリーをアメリカで次々に見て、衝撃を受け、「親心」という人間性が消えてゆくことの危険性、そして、ほとんどの人間が乳児と一定期間安定的に接することによって、乳幼児たちが社会に満ちるべき人間性を育ててきたことについて、日本で講演したり、本を書いたりし始めたのです。
 当時見たもので、印象に残っている番組の中には、10人に1人の聖職者が信者の子どもに性的な虐待をするというリポート、それだけならまだしも、その神父たち専用のリハビリセンターがアリゾナ州にあって、そこで研修すれば復帰できる、それほど聖職者不足に困っているとか、
 刑務所で、殺人犯たちに不良少年たちを更生させるたまに脅させるプロジェクト、年間10万人という誘拐事件のほとんどが家族を求めての誘拐で、それゆえ9割が解決しない、幼稚園に子どもを入れると将来の誘拐に備えて、「指紋を登録しておきますか」という手紙を園からもらう、など、日本人にとっては、驚くような現実ばかりでした。
 
 「捨てられる養子たち」にも出てきたFASの問題を、ブログ「米国におけるクラック児・胎児性機能障害(FAS)と学級崩壊」http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1428、にも書きました。
 
 伝統的家庭の価値観、Traditional Family Valueという言葉が盛んに使われ、家庭崩壊と学級崩壊が社会問題になり始めた頃でした。
 
 
 市場原理、強いもの勝ち(運のいいもの勝ち)の競争社会(経済競争)の中では、弱者である子どもたちが必ず後回しにされる。しかし、後回しにされた子どもたちの多くは、数十年間その社会の一員として、負の連鎖、人間不信の歯車を回し続ける。この「親心の喪失」という歯車が回りだすと、止めることは至難の技になってくる。
 
 「Disposable Children」を見ればわかると思うのですが、問題なのは、「写真入カタログやネット上の写真を見て、簡素な手続きで身寄りのない子どもを引き取ることができる」、子どもの取り引きを取り締まる法律が出来ていないことなのです。それを作ろうとする議員がいても、数十年間野放し状態という子どもの人権が後回しにされる民主主義の現状なのです。市場原理のようなものに頼らなければ弱者救済ができない、すでに成り立たなくなっている「福祉」がそこに浮き彫りになってきます。
 
 福祉に人間性の代わりはできない。モラル・秩序を社会に保つのは、司法でも警察でもなく、長い間「人間性」だったということ。そして、長い間その「人間性」を支えてきたのが、「子育て」だったということ。
 
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 日本でも「保育は成長産業」とした閣議決定の考え方の流れの中に、すでに福祉で受けきれなければ市場原理に任せればいい、という経済学者の学問的思考が見え隠れしています。(http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=252) 先進国で起こってしまった「子育て」をめぐる現実から、「保育は成長産業」という施策を考え直す必要がある、それをもっとマスコミが伝えてほしいと思います。
 
 世界中で起こっている保護主義への流れ、それはいわば部族主義への回帰の流れで、もう無理かもしれない、幻想のようにも思える「家族主義」への回帰とパラレルのように見えます。民衆によって「経済学者」のグローバリゼーション、自由貿易的方針が見放されようとしている時代に、方向性を見出せない日本の政治家たちは、いまだに経済学に頼ろうとしてる。保育(子育て)施策が経済施策に入れられているいま、これは危ない。
 
 子育てや教育の問題を考えるとき、文化人類学的、倫理学的(心理学的)、または宗教学的視点がもっと優先されないと、その本質が見えなくなる。
 
 グローバリゼーションがすでに終焉を迎えていることは欧米を見れば明らかなのに、いまだに小学校における「英語教育」などと呑気なことを政治家たちは言っている。英語は戦うための武器、武器を持つと戦いたくなる、道具を持つと使いたくなる、しかし、果たして経済競争に勝つことに本当の幸せがあるのか、百歩譲って、経済競争に勝つ確率はどれほどあるのか。そうしたことを次世代のために真面目に考える義務が私たちにはある。
 
 この国の文化や伝統、守ってきたものがいま一番地球規模で求められている時に、いまだに失敗した欧米の後を、教育という分野でも追おうとする。そろそろ欧米コンプレックスから卒業してほしいと思います。
 
 (アダム・スミスの国富論の対局に彼自身による「道徳感情論」があって、そのバランスで経済は成り立ってきた。しかし、欧米人は「道徳感情論」が義務教育の普及によって壊されたことを理解しない。「道徳感情論」を「子育て」と重ねることをしなかった。)
 
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 日本でも、保育園で親子を一定時間引き離さなければ子どもの命が危ない、親に子育てを任せておいたら児童虐待に進むかもしれない、だから3歳未満児であっても預かったほうがいい、と言う人たちがすでにいます。
 
 それは現象に対する対処法としては確かにそうなのですが、それで本当にいいのか。対処すればするほど壊れてしまうものがあるのではないか。そして何よりも、税で成り立つ福祉が、将来にわたってそれを受けきれるのか、ということなのです。
 
 アメリカのような、日本の経済学者が女性の社会進出という側面では後を追いたがり、「女性が輝くために、もう40万人保育園で預かります、ヒラリー・クリントンがエールを送ってくれました」と首相が国会で言った、いかにも目標とすべき社会で、子どもたちがこれほど無残に「使い捨て」になっている、それを禁じる法律が作られていないという事実を考えてほしい。子どもを守るための法律を作ろうとすることに「経済」という歯止めがかかっている現実を知ってほしい。そうしたことをもっと日本人は直視すべき、まだこの国なら間に合うから、知っておく必要があると思うのです。
 
 
 
 ドキュメンタリーが映像で語る「毎年里子となる10万人のうち2万5千人が捨てられいる」仕組みの中で、確かに数万人の子どもたちが救われている。この仕組みがあったおかげで、より良い人生を送っているかもしれない。それもまた事実です。日本人には常識はずれに思えるこの合法的な活動が法的に規制されたら、もっと多くの子どもたちが不幸になるのかもしれない、その論法も確かに成り立つ。だからこそ、そうなる前に、もっとずっと手前のところで、幼児と過ごす時間を貴重で大切な時間、と感じる雰囲気や常識を、私たちは保ち続けなければならないと思うのです。
 
 このドキュメンタリーを見て、里親を希望する人にシングル(独身者)が多いことに驚く人もいるはずです。血のつながりを基本とした家庭という定義、イメージが現実には存在しなくなってきている。アメリカにおける誘拐事件のほとんどが家族を求めての誘拐であるのと似ていて、無法地帯とも言っていい里親制度の底辺にあるのは、大人たちの孤独です。しかもそこに性的な欲求が絡んでいる場合が少なからずある、とドキュメンタリーは指摘します。
 
 以前、NHKのクローズアップ現代で取り上げられた中国の状況とアメリカの状況を比較してブログに書いたことがありますが、(「“行方不明児20万人”の衝撃 「中国 多発する誘拐」/アメリカの現実」http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=276)、二つの国に共通しているのは、経済政策によって家庭崩壊を進めながら、家族を求める大人たちの欲望により子どもたちの人生が扱われ、翻弄されている、というアイロニーです。
 
 アメリカと中国という、絶対に真似してはいけない二つの国が、GDPでは世界の一位と二位になっているのです。だからこそ日本が三位にいることに意味があると思います。日本という国が選ぶ「子育て」の方向が、人類の歴史にいい影響を及ぼす可能性が十分にある。
 
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「捨てられる養子たち」NHKBS1
 
2017年4月20日(木)午前0時00分~
 
簡単に養父母になり、簡単に解消できるアメリカの里親制度。毎年里子となる10万人のうち2万5千人が捨てられている。子どもをペットのように扱う社会の暗部を描く。
 
体育館に敷かれたカーペットの上を歩く子どもの姿を、両脇で見守る里親希望の夫婦たち。その手元には子どもたちの写真入カタログが。簡素な手続きで身寄りのない子どもを引き取ることができるアメリカだが、その一方で深刻な問題も。14歳でハイチから引き取られたアニータは、5回目の引き受け先が8人の養子を持つ家庭で、養父は小児性愛者だった。育児放棄や虐待の結果、心に深い傷を受けるケースも少なくない。その実態に迫る。
 
原題:DISPOSABLE CHILDREN
 
制作:BABEL DOC production (フランス 2016年)
 
(ブログに少し詳しく書きました。)http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1413
 
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 欧米と日本の違いは、日本では「自分で育てられるのなら、自分で育てたい」という母親が、15年間まで9割居たこと。それが最近7割まで減っている。政府主導で減らされている。徐々に意識が弱者から離れ、それによって社会全体の安心感が崩れはじめている。保育(子育て)が経済施策(雇用労働施策)に入っているからです。だから、国の子ども・子育て会議が11時間保育を「標準」と名付けたりする。しかも、地方版「子ども・子育て会議」では、現場の意見が国の方針と違ったりすると議事録から削除されたりした。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=237
 
 社会全体の安心感が崩れはじめた時、身を守る「お金」を得るために、絆を捨て始める、この流れをなんとか止めるためには、子どもたちを眺め、その人たちの私たちに向ける信頼の眼差しに感謝するしかないと思うのです。

講演依頼・頑張る無認可保育園・素晴らしいブラック保育園・

講演依頼・頑張る無認可保育園・素晴らしいブラック保育園

こんなメールをいただきました。
講演会のお願い

こんにちは。共励保育園の保育展で初めてお近くで話をさせていただきました。今回は私の保育園での講演会のお願いです。当園は0歳から2歳の乳児保育園です。くくりは無認可、かずさんや長田先生が危険だとおっしゃっている乳児保育園。ですが、庭のない高層マンションで育つ子供たちが早くから親と離れ、庭のない保育園で育つ現状がある中、その子供たちにとって何を感じ何を経験させていくことが出来るだろうか、私たち保育士はどうやってその子育てを手伝えるだろうか、子供だけでなく、その子育てに疑問を感じない親たちに、何が大事なのかをしっかりと伝え、親に育てることが最重要な課題だと思って乳児保育園を始めたわけです。

乳児保育がいけないと言ってやめる人はいい、しかしその声が届かないで、よい保育を受けられれば良い子に育つと期待したり、仕方がないで解決してしまう人たちに、その状況の中でどうやって子供を育てることが必要なのかを先生にお話ししていただきたいのです。

親だけではなく、保育士も親に似た傾向になっております。育った環境が同じですから経験や感じる感性も乏しくなっています。表面と裏側をうまく使い分けて空気感を読み取り、深めようという意欲もなく、そつなくこなす、悲しいけれど、いくら人が変わっても、大した保育士はきませんし、育ちません。保育士に親育てはもう無理です。

昨年、「自分で食べられる口を作る」ということから環境全てに課題があるということを話し、もっと環境について考えようと提案しましたが、その深い意味を感じることが出来ないだけでなく知ろうともせず、余計なことはしたくないとばかりに5名もの保育士が去っていきました。本来ならまだまだ勉強の必要な保育士たちですから育てなくてはならないのですが、ただ口に入れて食べさせ、おむつを替えて散歩に連れて行けば1日が終わる、その世話で十分と思っている人たちにとって、大事なことがわからないのです。それがわからず、乳児の保育をすることは本当に危険なことだと私も思います。引き留める気になれませんでした。

この保育士がいない状況の中で、まして給料は認可と比べられないほど低い。どこに求人を出しても目にとめてもらえない中で人は来るだろうか、それも志深い人が。誰でもいいから人を埋めてただ預かるだけの施設にするなら、私が保育園をやっている意味は何だ?苦労して人を育てるなんてことをしなくてももっと楽に生きていこうか・・なんて投げやりにもなりたくなりました。でも、それが出来ない自分がいました。

私の娘がK保育園に努めていました。その保育園の理念はしっかりとしたもので子供の育ちを最重点に考えているところで、たった4年ですが娘はかなりしっかりした理念を持っていました。本当に育てていただいたということに感謝です。その娘が、私の思いをずっと見続けてくれていましたので、当園に来てくれました。

ただ、そこの働き方はブラックでした。その保育園が大好きな人たちが泣く泣く自分の人生を守るために辞めていくのです。そうでなければ結婚も出産もあきらめるしかない。残ってしっかりと保育を守っているのは結婚もせず保育園にすべてをささげた数名です。日々11時まで仕事なんてざらで、ひどい時は2時に園近くに迎えに行ったこともたびたびありました。

それでも職員はそこの仕事が大好きでした。本当にもったいない園です。そして今年度、その保育園から2名うちに来てくれました。一人は私が保育園を作る前からずっと子育てブログを見続けてくれた人で私の友人です。

現状を正直に話しました。今までいた職員で育休復帰してくる職員にも正直に話すと勉強したいと言ってくれました。みんな新園を立ち上げるつもりで基礎を作っていこうと言ってくれました。そんなことで、今年度新しいメンバーで、最強の状態で始めることが出来ました。このご時世に良く集まってくれたと思うと、誰かになにかしなさいと背中を押されたような気がして改めて頑張らないとと思った次第です。

親にとっては、気さくに話してくれる保育士をよい保育士と思っている人も多く、なぜ辞めたんだろうと感じている人もいるはずなので、保護者会総会では正直にいきさつを話しました。理解してくれた人もいるでしょうけれど、そうでない方もいるかもしれません。でも、その流れはこれから私たちがやろうとしている保育にすべて現れてきますからいつか分かってくれるものと信じています。

うちに来てくれている保護者には入園前にうんと子育ての大切さを話し、乳児に集団はいらない、育休では、上の子も一緒に過ごしてほしいと育休退園をお願いし、それでも当園の保育方針に賛同し、入れたいと思った人だけ単願でとお願いしています。認可が落ちたら来るよという腰掛の人ではなく、大事にしたいものを感じ取れる人が入ってくれていると思っています。ここ3年間は単願の条件を決めさせていただき、単願で埋まっています。100名以上見学に来て単願希望者は30名くらいでしょうか、その中の18名が今年の入園者です。

便利に使う保育園を希望される方は多いです。こんな保育園ですが子育ての大切さ、子供と共に過ごすことの大切さをお話していただけたらと願っています。土曜日でお願いしたいです。

お引き受けできるかどうか、また講演料など失礼なこととは存じますが教えていただければと思います。長い文面になり申し訳ありません。先生にお話しするときはいつも長くなってしまいます。聞いてもらいたいことがいっぱいありすぎます。

よろしくお願いします。

 

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(本当に、いろいろな現場が混然と存在しています。その中で、保育に対する「思い」の格差を親たちはどれだけ知っているのだろうか、と思います。)

Family Breakdown in Developed Societies

Family Breakdown in Developed Societies

by  Kazu MATSUI

 

Summary:

Child-rearing, in particular raising children in their early childhood, has as its first objective, how the human qualities of the nurturer are cultivated, and how the hearts and minds of those who are raising the children can become as one. Raising children gives rise to the morals and order of human society.

When we forget the fact that how patience, kindness and the measure of happiness of the teachers are fostered, is more important than what is learned by those who are being taught, the activities of human society starts to become distorted.

When the nurturers’ view of happiness ceases to develop on the part of the parents, this leads to abandoning the family, and compulsory education in itself becomes unviable. (Welfare can also further the problem of family breakdown, eventually making it financially unviable.)

 

Main Text:

When I was 20 years old, I lived for several months in the countryside of India, and then I moved to the United States in 1975. I asked a younger female cousin who was in the fifth grade, what sort of things she talks about with her friends at school.

She said, “There’s a lot of talk about, ‘my new father this time…,’ and ‘my new mother this time…’ ”

Has there ever been such a time as this in human history?

Some nursery teachers in Japan also got a foretaste of the breakdown of the family, characteristic of societies of developed countries that I had seen. The more cases I heard about, of what was taking place in the field, the more I realized that the “loss of parental feelings” had already started to grow in Japan as well.

 

View of Children Under a Year Old

I give talks on the title, “Why did the universe give us children under a year old?” There is meaning in the fact that a zero year old is a zero year old.

“The universe gives us human beings, children under a year old, saying, ‘You should experience inconvenience, and you should be happy.’ Without the babies taking away our freedom, and if there were no happiness in offering our freedom, humankind would have been destroyed long ago.”

In a country where education is widespread, sometimes people can be bound by the ‘word’ or concept of ‘freedom.’ In my talks, I try to explain the role of little children to parents, who, by being conscious of this concept of freedom feel ‘inconvenienced’ [the Japanese word for this, fu-jiyuu, is written with characters meaning, ‘without freedom’] and discontented.

Human beings have originally felt happy about being a little inconvenienced. This is what I call a ‘bond’ between human beings.

At times, we feel that having a bond is bothersome. Yet, originally, people feel happiness in depending on each other, trusting each other, creating bonds and becoming one in heart. If we feel that inconvenience is not good, for example, it would be difficult to marry at all. Marriage is to voluntarily choose to become ‘inconvenienced.’

When we become anxious or worried, whether there is someone who will help, or that we can confide in, is what gives us the “strength to live.” There is not one person in this world who is totally independent. Even a person who appears to be very independent had to be helpless when he or she was a baby.

To give birth to a child means to become even more inconvenienced [or, ‘without freedom’] than in marriage. The reason why we are able to be alive here today is because most of our parents felt happy to be inconvenienced by us, and felt happy to offer their freedom to raise us up.

 

The Happiness of Not Having a Choice

In raising a child, there is no choice as to what kind of child we will have, or what kind of parents we have. People have felt happy indeed by the fact that there was no choice. If there is no choice, all we can do is to raise each other up, and grow together with each other. I believe that human beings like to work out each other’s roles as if putting a puzzle together. It is as if we have this mutual, relative, developmental disorder so that we can confirm the fact that humans cannot live alone by themselves. This is particularly so, between a man and a woman. Because we are not complete, and have shortcomings, we truly need each other.

To build relationships with infants of 0 to 2 years old, is to become good at putting puzzles together. When we get to know such babies, most people, after a year, begin to realize that there is meaning in, for instance, the existence of a bedridden grandpa, and society as a whole begins to realize that without such people, the puzzle cannot be completed. Getting to know a 1 to 2-year-old baby, is like being with someone who has a developmental disorder, as well as a mental disability, in terms of behavior patterns. Most people spend an amazing and wonderful couple of years with babies, and realize that there is a role to play for people with disabilities also, and that human beings are meant to raise each other up mutually. Thus, everyone settles into their roles. However, when we stop dealing with babies, we tend to lose touch with how to put puzzles together. It is easy to compartmentalize our thinking, so that the bedridden go here, the demented go there, the disabled go here, and babies go there. Yet, social welfare is not able to supplement what is missing. It is then that human society can begin to fall into disrepair.

 

The First Smile

When a baby grows to about three months old, he or she smiles for the first time. People who see a baby laugh, feel joy. They feel happy also, realizing that they themselves are good human beings. They experience the goodness of their own human nature. And the people who watch the baby laugh together, can become one in heart.

To raise a baby is to try to understand daily, how he or she feels, which the baby cannot teach you or tell you in words. Humankind has found peace, not in understanding, but in trying to understand others.

If I am sitting alone in a park, I could be seen as a strange man. But, if I’m sitting together with a two- year-old child, it is easy to see me as a “good man.” Just by sitting next to me, the child, within the relativity of this universe, makes me a “good man.” There aren’t too many people who can do this for you. This is not the will of the two-year-old, but we see the intent of the universe here.

 

Children Bring Out One’s Goodness

Why do people have to observe children in order to live?

I’ve decided that the most complete human being in my opinion, is a four-year-old. This is because they trust completely, rely completely, and on top of it, they seem very happy! This is the ideal state of a human being that religion seeks for. If you watch children in the playground of a kindergarten or nursery, you can understand what I mean. People who look at these children and feel envious, I believe, have not yet lost sight of their life goal.

Perhaps the word ‘complete,’ is not the most appropriate. I should probably describe it as a state of a human being, or a state of mind, that we should aspire to as a goal.

Young children trust completely, depend completely, and bring out ‘good human nature,’ or the ‘goodness of man’ in different kinds of people. They come together and play, easily express their joys, and teach us that happiness is not something that we take away, or gain by winning, but they teach us that “it is how you hold the measure, the yardstick.” Children playing in a sandbox teach us adults, “You can be happy with the sand. If you can just hold a yardstick as we do, people can always become happy.” As long as human beings watch playing children, they will not lose sight of the way. They will be fine.

In the past, to look at young children, was to see Buddha, to see God, it was to look at oneself.

The ‘strength to live,’ is not to aim for the independence of the individual, but it is the strength to build ‘bonds.’ To trust in each other, and rely on each other, is the ‘strength to live.’

All you can do in raising children is to do your best, and for the rest of the time, to pray. If you have someone who will pray with you, people will be fine.

 

“Empathy” is a Gift from Children

Until not long ago, human society was quite full of parental feelings. You could say that society was full of good human nature, which was brought out by the weak and vulnerable, and with experiences in which people felt happy about being kind and generous. The great Mahatma Gandhi of India (1869-1948) advocated nonviolence, and tried to appeal to the goodness of others, by showing with dignity how weak one was, to an opponent. His approach to social reform was in accordance with the laws of a parental heart, the laws of childrearing, the laws of the universe.

The role of the wonderful environment of a nursery, or a kindergarten, is to let the children fulfill their role of “bringing out the goodness in people.” It would be good to have a parent see children playing together, repeatedly, and also play together with them. I would recommend that an adult have this experience, one person at a time. He or she can be asked, for example, to pull weeds, while being surrounded by children, or to take care of their toys. He could even enjoy a little drink …or whatever activity is possible.

I have witnessed the life of parents change by playing games like ‘Let’s Pretend’ with two-year-olds, following the policy of a nursery. I have seen, for instance, a father who was hardened by competition relax, and his face soften with an indescribable smile. When we are reminded of the yardstick of happiness that was forgotten, and realize the goodness within ourselves, parents actually feel relieved. I know of many good nurseries like this, that “nurture the parental heart.”

Currently, we are promoting a “one-day nursery staff experience.” Parents come one by one to a kindergarten or a nursery and spend the day surrounded by young children. Some cities and prefectures are now beginning to adopt this approach.

 

Spread of Compulsory Education and Breakdown of the Family

In the United States, it is reported that one out of three children are born from unwed mothers (40% in the UK, 50% in France). The burden of childrearing on women has grown abnormally, and opportunities for the father to be in contact with the children are rapidly and abruptly dwindling. Kindness and patience seem to be disappearing from society. When morals and order that were being maintained with parent-child relationships as the pillar of society begin to disappear, education, police, or the law become powerless. It is reported that 40% of the parents in the US are divorced by the time a child reaches the age of 18. Children are no longer the link between parents, as the saying goes; however, childrearing used to be the link between the parents. For a man and a woman (husband and wife), the smallest unit of a society, to raise a child is to confirm that each of them is a “good person.” This is the starting point of trusting relationships within human society.

In 1984, the American government identified the issue of children’s education as the most urgent and important task in the survival of a nation, and this was big news for about a year.

During this year, an unprecedented report in American history was made, that the average education level of the children had become lower than that of their parents. The high school graduation rate of 35 years ago in the parents’ generation, which was at 50%, had increased to 72%. This should mean, of course, that the academic ability of that generation should be greater. The concrete goal of the spread of compulsory education as a system was being achieved, but the content of the investigation unfortunately showed the opposite result. More than 20% of high school graduates could not read and write adequately enough to work in society.

Our eyes then turned to the family behind the schools. I wondered if 20% of parents in the U.S. perhaps had too little interest in the future of their children, as this illiteracy rate of 20% was found among “high school graduates.” Although education was compulsory, 28% of the children that year did not graduate from high school. When these figures are added, I wondered if it meant that nearly 40% of the parents were indifferent about their children?

When a system of education becomes widespread and established over a period of about 50 years, the parents naturally become dependent on the educational institutions to raise their children. And when time spent with children decreases greatly, the human relations between parents and children suffer and weaken. Some parents can become detached from their children. As the breakdown of the family advances, order and morals rooted in a view of happiness, that is learned through ‘childrearing,’ begins to disappear. It is impossible for new systems or concepts such as the law, welfare, school or feelings of happiness gained from power games, to replace the order or morals rooted in a view of happiness, that is learned through ‘childrearing.’

It is good for human beings to be trusted by children, to be grateful for the time they are trusted, and to live, longing for children.

When we are confused by the progress of technology or systems, we start failing to recognize that overly rapid progress atrophies human sensitivity, which is something that has been nurtured over thousands of years. I believe it is good to affirm once again, that people are born to believe in each other, by parents observing children in the nursery or educational environment.

To bear and raise a child is the most precious task that human beings have been granted by the universe. This act is to dialogue with the universe, and to experience oneself. It is a way to feel deeply one’s living self, and also a way to understand the meaning of life. People are satisfied by coming to know their own value in life.

What is even more valuable, is that the children raise up the parents. This is the course of the universe itself, and it is to substantiate oneself. It is to declare that one cannot live by himself or herself, and to show the way of real altruism. It is to heal those who have realized that, to know is to seek.

A human being’s instinct and will are what lead parents to raise a child.

We see the will and the image of the universe, in a child, raising up the parent.

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子どもが増えないと社会保障制度が安定しない?

 「子どもが増えないと、社会保障制度が安定しない」と政治家や経済学者が簡単に言うのです。「子ども」を「財源」と考えているのです。そして待機児童をなくし、保育園を増やし、「子育てしやすい」環境づくりをすれば子どもが増える、と言うのです。この安易な思考の飛躍が、子育てに関わる仕組み、保育、学校、学童、養護施設、の共倒れ現象を生み始めている。もう少し加えれば、保護司、民生委員、司法、警察、少年刑務所なども追い込まれているし、結果的には、すでに活路が見出せなくなっている老後の介護や、生活保護の維持といった問題も「子育ての社会化」に始まる家庭崩壊が明らかにその根底にある。「子育ての社会化」により、人間社会の「常識」が崩れ始める。
 子どもを「財源」と見て、「増やせばいい」と言う人たちは、子どもを育てるという幸福感が人類の進化を支えてきたことを忘れているのだと思う。「子育てが、育てる人たちを育て絆を生む」というその存在意義も、保育の質の重要性も、人間が働く動機や、生きようとする意味さえもわかっていない、考えていないと思う。
 社会保障制度を安定させるために子どもを産むなどという論法は、まさに動機の次元から本末転倒なのです。子どもを産み、育てることの幸福感が先にあって、「子育て」を中心に社会が形成されてゆく、と考えなければいけないのです。
 
 こういう経済論から生まれた意図と、やり方でたとえ子どもが増えても(増えるとは思わないのですが)、生き甲斐や、育てる喜び、親に感謝する心、家族の一体感がなければ、社会保障はますます安定しない。ただ人口が増えても、そこに育てる幸福感が同時に生まれなければ、その結果、将来の社会保障や治安維持の負担はますます増える。しばらく自転車操業が続いても、それを維持するための財源と人材は必ず枯渇してくる。もう、その兆候は充分すぎるほど出ている。
 
 一番問題なのは、「子どもが増えないと、社会保障制度が安定しない」という政治家や学者の言葉と、それが少子化対策の理由になっていることを、マスコミが疑問を挟まずに正論として報道していまうこと。
 子どもが増えても、子育てに喜びを見出せない親が増え、いい保育士が辞めていき、保育の質が落ちれば、その先にある学校教育はすぐに疲弊してくる。そして、学級崩壊はその学級にいたすべての子どもたち(親たち)の人生に影響する、ということなのです。誰が考えても当たり前のこのことが、真剣に語られていない。何もかもが、利権争いの中で動いている。競争原理、市場原理に巻き込まれようとしている。
 家族制度に勝る社会保障制度は存在しないし、社会保障制度が税収に頼っている限り、家族という動機が絶対に必要になってくる。
 そうした根源的な人間社会の成り立ちや仕組みの働きを考えないで、場当たり的に施策を進めるから、待機児童をなすそうとすれば増える、という、当たり前の流れが理解できずに、単純に「誤算」などと言うのです。https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170411-00010004-nikkeisty-bus_all
 
 マスコミは、「学者」や「政治家」の考える保育施策や経済論の浅さ、危うさを指摘してほしい。ここまで状況が悪くなればわかるはず。保育現場の人に聞けば、数年前にわかったはず。
 
 乳幼児の気持ちや願いを想像しないと、人間社会をつくるどんな仕組みも成り立たないということなのです。
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http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=252
 
「閣議決定」と公正取引委員会の介入/広い園庭(園長は考える)/K市保育連盟からの手紙/」

夜間保育が広がらない背景

「夜間保育が広がらない背景?」

毎日新聞4.1夕刊。夜間保育特集。夜間保育が広がらない背景に「夜に子供を預けて働くことに対してまだ社会全体で抵抗感があり」と夜間保育園連盟会長。

「抵抗感がなくなること」ことこそが怖いのです。保育園をビジネスにしようとする人たちは、人間は、特に母親は、乳児を知らない人に手渡すことに躊躇する、という人間性の本質とぶつかることになる。女性の社会進出とか平等という言葉を使って、それが正しい流れ、意識改革のように言うのですが、そこに確かに「人間性」との闘いがある。

本当の意味での「男女共同参画社会」の原点は「家庭」であって、それは「子育て」を中心に育まれるモラル・秩序の原点でもありました。その「原点」が先進国でいま揺らいでいる。(「捨てられる養子たち」http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2063)子を産み、子を育てるという面では世界的に見てもしっかりやってきた日本も、男女共同参画「競争」社会という理念によって、少しずつ、土台から壊されようとしている。

男女共同参画は、本来、性的役割分担によって生まれる調和だったはず。人類が存続するために最低限必要な男女共同参画、「子をつくること」「子を育てること」は、多くの人が性的役割分担に幸せと安心を感じることで成り立ってきた。生物が雌雄を得た時から始まったジェンダーという取り決めは、宇宙(神?)から与えられた「役割分担の薦め」だったはず。

欧米の現状を見れば、男女共同参画「経済競争」社会を無理に進めるによって、結果的に家庭崩壊による格差が広がり、平等とは逆の方向へ社会が向かうのはすでにわかるはず。子育てという人間性の中心が揺らいで、反作用のように始まった強者優先の差別主義的社会への回帰は、すでに欧米で危険な領域に入っています。平等という理念が都合のいい絵空事だったことは、去年の米国大統領選を見れば明らかだと思います。平等という概念は、経済競争への参加者、ネズミ講のネズミを増やす役割さえ終えれば、相手にされなくなる。その先に、本来の強者に都合のいい仕組みが見えてくる。

日本は、夜間子どもを預けることに「抵抗感」を持つ国であってほしい、と思います。

冒頭の発言にある、「社会全体で抵抗感」は人類が持つ抵抗感、人類が人類であるがゆえの抵抗感なのです。

 以前、国が薦める子どもショートステイについて書きました。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1150

 「育児疲れ、冠婚葬祭でもOK、二才未満児一泊五千円、一日増えるごとに二千五百円、一回7日まで、子育て応援券、使えます。」杉並区のチラシです。

預け先の乳児院や児童養護施設なども質が疑問視されているのが現状です。職員の待遇改善が置き去りにされたまま、子どもを「負担」と考える、親に成りきらない親たちによる児童虐待が増え、負担は増すばかりです。それに加えて、冠婚葬祭でもOKのショートステイ。

何よりも、「幼児たちの気持ち」がこうした施策を薦める要素には入っていない。だから、いい指導員たちが精神的にも、肉体的にも、疲れ果てて辞めて行くのです。

保育を市場原理にまかせ、保育を成長産業としてとらえようという、国の方針が、とんでもない意識改革を進めています。それが、この夜間保育園連盟会長の発言になって現れています。

一生に一度も結婚しない男性が3割に迫るといいます。男女共同参画経済「競争」社会を進めることで、本当の男女共同参画社会が壊れてゆく。もういい加減に気づいてほしいと思います。本当の男女共同参画社会がなければ、福祉も学校も維持できない。

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こんなツイートがありました。

『「親との愛着」これが大切なことは言うまでもないですが、なぜ「愛着は親でなくとも問題はない」という意見になるのか分かりません。一番大切な0歳児~2歳。子どもは大好きな親や家族を見、言葉を覚え、自分という存在が分かってくる時期。乳飲み子だった赤ちゃんが1歳半には、歩いて話し出します。』

「愛着は親でなくとも問題はない」と言う時の、「問題」の定義、その次元、それをどのくらい俯瞰的にそれを見るかが曖昧なまま議論や施策が進んでいるのです。子どもの人生、育ちを考えれば、出会う人間との相性や運が良ければ「問題」ないのかもしれない。しかし、親子の愛着、絆が基本になる「家庭」が人間社会の土台であることは重要なのだと思います。

子を産んだ親が、つまり出発点にそこに居た人が、親子、血のつながりという特別な概念や常識(思い込み)に後押しされて、絆と安心感を双方向に育ててゆく。そのプロセスこそが幸せや自己肯定感につながってゆく。それで長い間やってきたのです。

人間が哺乳類である限り、必要最低限の営みであった「子育て」が「愛着は親でなくとも問題はない」などという言葉で薄れていったらどうなるか。もうわかっているのだから、親子を引き離すことを目的にした施策は止めてほしい、と思います。

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「捨てられる養子たち」NHKBS1,(再放送されます!)

以前、このブログにも書いたフランスのテレビ局制作のドキュメンタリー、「捨てられる養子たち」が再放送されます。NHKBS1,(2017年4月20日(木)午前0時00分~)

 日本でも、福祉と市場原理が一体になりはじめています。その先に見える風景がすでに欧米で様々な形で起こっている。一つの例としてぜひ、ぜひ見てほしい番組です。(録画して何度も見ていただきたい。)その根底にあるのはやはり家庭崩壊。子育ての社会化がその出発点にある。それについては以前ブログに少し詳しく書きました。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1413

 家庭崩壊や犯罪率という面では、日本はまだアメリカの50年位前の状況だと思います。それよりもっと良いかもしれない。これほど安心して子育てができる国はない。しかし、このまま進めば、いつか似たような風景が当たり前になる日が来てしまう。それが最近見え始めている。

 アメリカに住んで、こういう状況がすでに始まっているのを30年前に、同じようなドキュメンタリーや報道で見て、驚き、それを日本に伝えなければいけない、と私も本を書いたり講演を始めたりしたのです。すると、その頃すでに「その通りです。幼児を預かることはよほど注意して、躊躇してやらないと」と激しく同意してくれたのが、保育園の園長先生たちだった。守り神のような人たちだったのです。その人たちの感性や主張が、「そういう時代ではないんだ」という言葉で否定され始めている。でも、その先にある可能性として、こういう現実は見ておかなければならない。人間社会の「じゅうぶん、あり得る姿」として。

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「捨てられる養子たち」NHKBS1

https://www.facebook.com/satooyarenrakukai/videos/1820006938239263/

https://www.facebook.com/watch/?v=1820006938239263

2017年4月20日(木)午前0時00分~

簡単に養父母になり、簡単に解消できるアメリカの里親制度。毎年里子となる10万人のうち2万5千人が捨てられている。子どもをペットのように扱う社会の暗部を描く。

体育館に敷かれたカーペットの上を歩く子どもの姿を、両脇で見守る里親希望の夫婦たち。その手元には子どもたちの写真入カタログが。簡素な手続きで身寄りのない子どもを引き取ることができるアメリカだが、その一方で深刻な問題も。14歳でハイチから引き取られたアニータは、5回目の引き受け先が8人の養子を持つ家庭で、養父は小児性愛者だった。育児放棄や虐待の結果、心に深い傷を受けるケースも少なくない。その実態に迫る。

原題:DISPOSABLE CHILDREN

制作:BABEL DOC production (フランス 2016年)

(以前ブログにもう少し詳しく書きました。ぜひ、読んでみてください。)

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1413

「0歳児保育、行政負担が1人56万円/月も! 「待機児童ゼロ」困難にする事情とは」

最近の報道です。

「0歳児保育、行政負担が1人56万円/月も! 「待機児童ゼロ」困難にする事情とは」
https://headlines.yahoo.co.jp/article…

 『今年も定員超過で認可保育所への入所を断られた待機児童が多数、生まれています。2013年4月、安倍晋三首相は17年度末までに「待機児童ゼロを目指します」と明言しました。期限まで1年を切りましたが、達成は困難な状況です。13~17年度の5カ年で約50万人分を拡充するなど政府も手は打っています。ただ待機児童は13年(4月1日時点=以下同)2万2741人から16年2万3553人へと逆に増えています。

 誤算は想定以上に利用希望者が増えたこと。受け入れ人数の拡大が「子どもを預けて働きたい」という潜在需要を掘り起こす構図が続いています。政府は6月に新たな保育所拡充計画を立てます。待機児童ゼロの目標達成も新計画に持ち越される見通しです。ただその実現も簡単ではありません。保育士不足が続いているからです。17年2月時点の保育士の有効求人倍率は2.66倍に上り、慢性的な採用難に陥っています。必要な保育士を確保できず保育所の整備計画を見直す事業者も出ています。・・・・・・』

 

子どもは親を比較しない。まず、受け入れる。そこに人間社会の信頼関係の出発点があって、永遠に続く原点がある。
だからこそ乳児を見つめ、親は、まずその信頼に応えようとする、という流れが社会に常識としてなければ人間社会は安定的に機能しない。全員そうであることが不可能だから、「常識」という意識が大切になってくる。子育て、という常識。

 

政府や経済学者は、三歳児神話という常識が崩れないから、意図的に崩そうとしている。なぜ崩そうとするのか、なぜ母親を乳幼児から引き離したいのか、そこを真剣に考える時期に来ている。
保育は成長産業と位置付けた閣議決定、11時間保育を標準と名付けた「子ども・子育て会議」、すべてがいま大人の都合で動いている。保育施策は確かに雇用労働施策で、経済論の一部だったのだが、それがあまりにも浅い。家族や家庭が人間の生きる原動力になっていること、そして学校教育が成り立つことが経済論を支える重要な要素だということさえわかっていない。保育施策と言いながら、保育士の気持ちや幼児の気持ちを考えない経済論だったから、3年で破綻しようとしている。保育の質が急速に低下し、小一プロブレムはますますひどくなっている。

「誤算は想定以上に利用希望者が増えたこと。」とこの記事は書いている。
始まって2年で破綻が見えるような計画、計算は、「誤算」ではない。単純に、保育が「子育て」だという本質がわかっていないのか、現場の言うことに一切耳を傾けなかっただけ。マスコミは、そこまで書いて欲しい。

保育士の心を持っている人が集まらないと 、保育園は運営できない。託児所ならいいかもしれないが、それでは、その先にある学校教育が持たない。幼児期の育ち方は、親がその時期にどう育つかも含め、人間社会のあり方を左右する。いわば、モラル・秩序の原点だった。
保育士の心は、子どもの幸せを願うこと。その幸せを優先して考えること。そして、子どもを真剣に見つめることから、いい保育士たちは、子どもの幸せが親との関係にあること、親心がどう育っているか、だと気付いている。

いま真剣に、いい保育士が辞めて行くという現象に対応しないと、本当に取り返しのつかないことになってしまう。

幸福度1位と51位?(国連のものさし、この国のものさし)

幸福度1位と51位(国連のものさし、この国のものさし)
 
 国連の発表で、日本は幸福度が世界で51位だというのです。こんな馬鹿げた順位を報道すること自体馬鹿げている。しかし、新聞は一面で報道します。
 報道を真に受けて向かう方向が、この国が大切な個性を失い、特に幸福に関する西洋とは違う独特のものさしを失う方向のように思えるので、余計腹が立ちます。
 安心して子育てができる、いい国だったのに、と思うのです。
 幸福度で日本の上位にいる国から、犯罪率が日本の5倍以上の国、徴兵がある国、独裁国家を除けば、それだけで日本は第1位になるのではないかと思います。犯罪とか家庭崩壊、モラルや秩序に関わる数字を比較しても、日本が真似るべき国など民主主義という仕組みの中では存在しないはず、とさえ思えます。(民主主義、それが人類にとって何なのか、完成している国はない、その形さえ試行錯誤中なのかもしれませんが、自由に立候補、投票できる権利、言論の自由は最低限の条件、と私は考えています。)
 生前アインシュタインが来日した時、「日本では、自然と人間は一体化しているように見える」と言って感激したという記録が残っています。当時、先進国の中では、調和が際立って美しかった国が、欧米流の競争社会と個人主義の幸福論で崩れてゆく。欧米社会のモノサシが本当にいいのか、国連の言う幸福度が高い国の人々が、本当に幸せなのか、概念だけではなく、真面目に見極める時期に来ていると思います。
 テロ、人種の軋轢、犯罪率、排他的差別主義の復興、決して日本より安全でも平和でもない、むしろ混迷の方向に向かっている欧米の現状を見ていると、欧米コンプレックスはいい加減に捨てて、私たちが大切にしてきた価値観を再確認してみる必要があると思うのです。
 
 順位が1位になっているノルウェーには徴兵制と兵役があります。そのことだけでもマスコミは同時に報道すべきだと思います。そうすれば、みんな「えっ!」と思うはず。順位をつけた人たちのモノサシに疑いを抱くはず。
 人生の14ヶ月を兵役で国に拘束され、銃を持ち兵士としての訓練を受ける。国の命令に従うことを仕込まれる。その種類の兵役が嫌な人には別の方法が用意されていますが、だいたい期間が延びる仕掛けです。
 徴兵に幸せを感じる人もいるでしょう。でも、宮沢賢治や良寛さま、マザー・テレサやガンジー、幸福の求め方、その測り方を真剣に追求し、非暴力や平和、人々の調和に幸せがあると見極めた人たちは、(私の好きな人たちは)「徴兵制と兵役」には顔をしかめるはずです。
 
 徴兵制や兵役は基本的人権を放棄することです。そうでなければ「軍隊」という仕組みが成り立たない。徴兵制があることで、社会秩序が保てると言う人もいます。確かに一体感が育ち、礼儀を身につける効果はある気がします。徴兵して一年間野球やサッカー、体操を教えるならばいいかもしれませんが、兵役は人間に戦い方を教えるのが基本です。ノルウェーでは、女性がレイプにあう確率が日本の20倍。殺人事件の被害者になる確率が2倍、泥棒に入られる確率が4倍。兵役で保てる社会秩序以上のモラル・秩序の崩壊が並行して進んでいる。兵役のせい、というよりも、家庭崩壊が原因だと思いますが、犯罪率が高いということは、加害者も被害者も、不幸になる人がそれだけ多いということだと思います。
 どこの学者が創り出したか知りませんが、こんな奇妙な偏った幸福度のモノサシは無視していればいい。私も、そうしたい。しかし、発表したのが「国連」です。だから日本でも全国紙の一面で報道されました。一番問題なのは、その基準を誰も批判しないことなのです。
 
 一体、どうなっているのでしょう。やはり、考え込んでしまいます。

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 幸福度は、もっと身近な体験で測られるべきものだと思います。
 我が子の生まれて初めての笑顔を見た瞬間や、一緒に手をつないで散歩をしたり、肩車をしたり、子どもが運動会で頑張ったり、受験に受かったり、普通は、そういう瞬間に測るものでしょう。それを数えられないなら、その機会が多い、家族や家庭という形がよりしっかり残っている国が評価されるべきだと、私は思います。それは種の存続に関わる、「進化につながる幸福感」だからです。
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 親が、自分が生みだした奇跡とも言える「命」を守り、その成長を楽しみ、祖父母が孫を眺め、子どもが親や祖父母に感謝する、という「進化につながる幸福感」の源を感じる人が、比率で言えば、日本の何倍も少ない国がなぜ、なぜ日本より幸福度の高い国になるのでしょう。
 ノルウェーという、家庭崩壊が日本の何倍にも進んだ国では、父親が子どもを、祖父母が孫を体験する機会が急速に、また不自然に減ってきている。あくまで、確率の比較ですが。
 
 13歳から始まる低年齢のシングルマザーが問題になり、傷害事件の被害者になる確率が日本の15倍、ドラッグ汚染率が5倍というデンマークが、この国連の幸福度調査では第2位になる。
 傷害事件やドラッグの汚染率がこれほど高いということは、不幸な若者が多いということだと推測します。
 どこかで、幸福に関する定義が完全にずれています。しかも、そこに作為があると思います。競争に参加していないと不幸なんだ、という誘導がある。国連は実はパワゲームやマネーゲームの巣窟なのかもしれない、と思うことがあります。 この幸福の測り方の「ずれ」が人類全体を危険な方向に引っ張っているのを感じます。
(デンマークについては以前、ブログ、http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=976 に少し詳しく書きました。)
 
(国連がパワゲームやマネーゲームの巣窟かもしれない、という感覚は、あそこで働いたことのある人なら理解できるはず。開発途上国の小さな村から、先進国のウォールストリートまで、あらゆる種類の階級制度と闘争を目の当たりにできる仕組みです。「平等」を基軸に作られたように思える特殊な職員の構成制度によって、格差とそれに誘発される生々しい闘争を視覚的にも、肌触りとしても見せてくれる世界で唯一の場所かもしれない。幸福観のずれをパワゲームで統一しようとしている、人類の選択肢を減らしてしまった大きな流れを感じます。)
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 仏教でも、キリスト教でも、欲を持たない人は幸せになりやすいと言います。そういう人が多いことが、社会全体の幸福度を保っていた。
 欧米社会が幸福観の柱にしてきた「聖書」も、子どもの心を持てば天国に近づく、と言います。私は、こうした聖書の教えや、仏教の易行道(いぎょうどう)について考えていて、「頼り切って、信じ切って、幸せそう」な4歳児を一番完成している人間とひとまず決めました。幸福に関する「ずれ」を修復するために、一番簡単に幸せになれる人たちを眺め、その人たちの横に座り、その人たちと心を合わせることを目標にすべきだと決めました。
 学校教育、特に義務教育・公教育はとても最近のそれこそ未知の仕組みです。それ以前、人間は幼児を育てることで自らの人間性に気づき、そこに隠された幸せの可能性に導かれていた。
 幼児を拝み、その存在に感謝し、彼らの幸せを眺めることで人間は幸せになる。その歯車を体験的に知ることは、自分が幸せになれる可能性の広さと大きさを確認することでした。その繰り返しが進化を支える術として遺伝子に組み込まれていることを知り、人間は自分に納得するのでしょう。
 
 日本は欧米に比べ、家族という形がまだ強く残っている国です。子どもの幸せを自分の幸せと感じことができる国です。地震があっても暴動や略奪が起きない、徴兵制度もない素晴らしい国に、なぜもっと自信を持たないのか、と思います。
 新聞の一面で報道される、異国、異文化、異次元の「順位」を眺めながら、その次元で「順位」を考えること自体に不幸がある気がしてならない。権力争いや利権争いの基準に取り込まれてはならない、と思うのです。
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 アメリカにギャラップ社という調査会社があります。有名な老舗の、数字を示すことで生き抜いてきた調査会社です。
 そこの、幸福度調査では、17年度、一位がフィジーで、二位が中国とフィリピンです。(ちなみに去年は、一位コロンビア、二位フィジーとサウジアラビア)
 フィジーには少し興味がありますが、中国は長く住んでみたい国ではありません。一党独裁のこのままでは絶対に続かない国です。子育て、ということから言えばフィリピンの治安にも問題あります。ミンダナオ付近にはまだ自動小銃を持ったゲリラがいる国ですし、貧富の差も激しい。サウジアラビアはつい最近まで女性が運転免許証さえ取得できなかった国なのです。
 でも、こちらの調査結果の方が作為的な感じがしない分、信頼できそう、とも思います。分母の問題はありますが、ある種の質問をぶつけるとこうなる、ということはわかります。どうしてそういう順位になったのか考えてみる価値あり、だと思います。文化や伝統の異なる国で、「幸福度」を比較することは馬鹿げている、というのがギャラップ社の数字から引き出せる結論かもしれません。しかし、こういう調査にはたしかに意味があります。
 (学者のやる調査の多くに意図的な誘導や作為がある。そして言語を超えた調査にはニュアンスの違いを余程理解していない限りあまり意味がない、という文章を以前ブログに書いたことがあります。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2004 大学で教えている授業などは、教授のキャリアの違いから起こるモノサシのぶつけ合い、調査無法地帯のぶつかりあいと言いたいくらいで、そういう学問から、国の保育ニーズ調査にも載せられていた厚労省の「子どものショートステイ」(http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1150)や、「待機児童」という本人たちの意思を無視した言葉が生まれているのです。)