保育園落ちた、万歳!

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「保育園落ちた、万歳!」という言葉が去年くらいから、子育て支援センターや子育て広場で聴こえてくるようになりました。落ちることによって正式に育休が伸びる、それを願っている人たちの間で密かに囁かれていた言葉ですが、普通の声で、普通の会話の中で言われるようになってきた。マスコミでも取り上げられるようになりました。

「なぜ、さっさと保育園に預けて職場復帰しないのか」という言葉に肩身の狭い思いをしていた親たちには、こうした報道がうれしい。小さいうちはなるべく子どもと居てやりたいという、ごく自然な感情が、非常識であるかのように否定されること、その雰囲気自体がおかしいのです。

50年前なら考えられなかったような保育界の非常識、11時間保育を標準と名付け、3歳未満児を40万人保育所で預かれば、女性が輝く、と首相が言ってしまう状況がこれ以上続くことが危ない。だからいい保育士がやめていってしまう。学校教育も追いつめられる。

質の低下を野放しにし、保育は成長産業などと閣議決定する政府の施策に騙されてはいけない。子育ての大切さに気づく親たちが現れています。3歳までにどれだけ話しかけられるか、どれだけ抱っこされるかで子どもの人生が変わる、親子の人生が変わる、それに再び気づき始めている。いまやっと流れが、また少し変わり始めている。

そうした報道記事の一つです。

保育園「あえて落ちる」人が続出する本質理由 「不承諾通知狙い」は良いのか?悪いのか?(東洋経済オンライン :保育園にあえて落ちるため、不承諾通知を狙う人たちがいる)

2018年2月、認可保育園に落選するために入れそうもない人気園を1園だけ希望する「不承諾通知狙い」の入園申請があることが話題になりました。待機児童問題が深刻化する一方で、この動きは何年も前からひそかに広がっていたようです。なぜそんなことが起こるのか。それは批判されるべきことなのか。「保育園を考える親の会」代表で保育事情に詳しい普光院亜紀さんが実情を掘り下げます。

(中略)

なぜ不承諾通知が必要なのか

 育休延長は、単純に育児休業期間が2歳までに延長されたのとは意味が違います。誰でもできるわけではなく、育休期間が終わる時点(1歳・1歳半)で認可保育園などの利用申込みをしたのに、保育園による保育が実施されないなど、やむをえない事情がある人にだけ認められるものです。

 この証明のために、自治体が発行する認可保育園などの「不承諾通知」「入所保留通知」(呼称は自治体による)が必要になります。

 「育休を延長できると聞いて安心してしまい、1歳前に入園申請をしなかった」

 「認可に入れそうもないから認可外だけ申し込んだけど、入れなかった」

 というような場合は、育休延長制度を利用する権利を失ってしまいます。

 そんな「うっかり」に注意を促すためもあったでしょう。1歳半までの延長制度ができた後から、ネット上に「不承諾通知のもらい方」を教える情報が流れ始めました。やがて、最初から育休を延長したい人たちの間で、「わざと落ちた」体験が共有されるようになりました。

(後略)

『萩生田氏「赤ちゃんはママがいいに決まっている」』という記事がありました。

朝日新聞デジタルに、『萩生田氏「赤ちゃんはママがいいに決まっている」』という記事がありました。https://www.asahi.com/articles/ASL5W4F1ZL5WTNAB00D.html

実は、友人(インドにいる教え子)からメールが来て、記事について教えてもらったのです。

「朝日新聞、真摯な姿勢で紹介してますね。全くその通りですよね。取り上げ方が丁寧でびっくりしました。萩生田さんを認める書き方ですね」と彼女は書き添えていました。読んでみて私も、そう思いました。

乳児(0歳、1歳児)の思いを想像する。

その想像が当たっているかどうかではなく想像すること、理解することではなく理解しようとすることが人間社会に必要な調和や絆の原点だと思います。人類の歴史をイメージすれば、つい最近まで、ほとんどの人間たちがなんらかの形で乳幼児と数年間は関わってきた。これをしないと人類は滅んでしまう。「子育て」という側面からすれば、ある一定の時期かもしれませんが、ほとんどの人間が自分の子だけではなく、子育てに関わり、その時期に幼児によって育てられ、遺伝子の大切な部分がオンになっていった、そう考えるのが自然でしょう。

現在の、追い詰められている保育事情や、国の雇用労働施策に煽られた親の子育てに対する意識の変化を考えれば、「赤ちゃんはママがいいに決まっている」といま発言することは、子どもの気持ち、そして多くの保育士たちの気持ちを代弁する大切な発言だと思います。政治家がそれを言わないでどうする。もう最後のチャンスかもしれない。この「気持ち」を無視続ければ、福祉や学校教育がもたない。社会で(仕組みで)子育てなど出来るはずがない。

(以下、記事の内容です。)

 自民党萩生田光一幹事長代行は27日、宮崎市内で「0~3歳児の赤ちゃんに『パパとママ、どっちが好きか』と聞けば、どう考えたって『ママがいい』に決まっている。お母さんたちに負担がいくことを前提とした社会制度で底上げをしていかないと、『男女平等参画社会だ』『男も育児だ』とか言っても、子どもにとっては迷惑な話かもしれない」と語った。

 党宮崎県連の会合で講演した。萩生田氏は「待機児童ゼロ」をめざす政府方針を紹介したうえで、0歳児保育をめぐり、「生後3~4カ月で、『赤の他人』様に預けられることが本当に幸せなのだろうか」と疑問を呈した。さらに「慌てずに0歳から保育園に行かなくても、1歳や2歳から保育園に入れるスキーム(枠組み)をつくっていくことが大事なのではないか」と訴えた。(小出大貴)

 萩生田氏の発言要旨は次の通り。

     ◇

 東京ではいま0歳の赤ちゃんの保育園が足りないことが問題になっていて、国では「待機児童0」を目指すと言っています。もちろん今の対処として待機している赤ちゃんを救済していくのは大事なことでしょう。しかしみなさんよく考えて頂きたい。0歳の赤ちゃんは生後3~4カ月で赤の他人様に預けられることが本当に幸せなのでしょうか。

 子育てのほんのひととき、親子が一緒にすごすことが本当の幸せだと私は思います。仕事の心配をせず、財政的な心配もなく、1年休んでも、おかしな待遇をうけることなく、職場に笑顔で戻れるような環境をつくっていくこと。もっと言えば慌てず0歳から保育園にいかなくても、1歳や2歳からでも保育園に入れるスキーム(枠組み)をつくっていくことが大事なんじゃないでしょうか。

 子育てというのは大変な仕事です。これを「仕事をしていない」というカテゴリーに入れてしまうのがおかしい。世の中の人みんなが期待している「子育て」という仕事をしているお母さんたちを、もう少しいたわってあげる制度が必要なんだと思います。

 (子育ての話のなかで)「お母さん」「お母さん」というと、「萩生田さん、子育てを女性に押しつけていませんか。男の人だって育児をやらなきゃだめですよ」とよく言われるんです。その通りだと思います。だけど、冷静にみなさん考えてみてください。0~3歳の赤ちゃんに、パパとママどっちが好きかと聞けば、はっきりとした統計はありませんけど、どう考えたってママがいいに決まっているんですよ。0歳から「パパ」っていうのはちょっと変わっていると思います。ですから逆に言えば、お母さんたちに負担がいくことを前提とした社会制度で底上げをしていかないと、言葉の上で「男女平等参画社会だ」「男も育児だ」とか言っても、子どもにとっては迷惑な話かもしれない。子どもがお母さんと一緒にいれるような環境が、これからはやっぱり必要なんじゃないかと私は思います。

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報道後、毎日新聞が萩生田氏の発言に対し、「父子家庭への配慮欠如」という記事を書いたそうです。「配慮」という言葉で、意図的に言論統制、言葉狩りが行われているような気がする。朝日新聞に載っている発言を読む限り、萩生田氏の発言は、自然な発言に思えます。「父子家庭への配慮欠如」という解釈や報道姿勢の方が「子どもにとっては迷惑な話」なのだと思います。(こういう配慮は、父子家庭にとっても迷惑な話かもしれません。「ママがいいに決まっている」という思いを噛み締めながら、ママの代わりはできない、という思いで頑張るから、より一層父と子の絆が深まるのではないか、そう考えることの方が自然だと思います。)

こういう不自然な「配慮」やあり得ない平等論で、「母の日」や「父の日」の行事が中止になっていったりする。それが人権先進国だと思っている人たちがいる。そういう人たちの平等という名のパワーゲーム、人権闘争に巻き込まれて、子どもたち(弱者)の権利や立場が失われてゆく。(http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1150:何かが麻痺している。)

よく考えれば父子家庭に母親が居ないという考え方がそもそも浅いのです。家族という概念は「意識」の中にあるもの。子どもがお盆に親の墓参りに来たら、親は死んでも「子育て」している、ということが忘れられている。

ママがいいに決まっている」と言われて傷つく父親はそんなにいない。そう感じる父親は、0、1、2歳児にあまり関わらなかったのではないか。まだ親に成りきれていない父親だと思います。0歳1歳の子育てを経験すれば、男には「お手上げ」の状況が必ずある。子育ては明らかに役割分担でなりたつのです。「ママがいいに決まっている」といわれて、そうだよな〜、と思う父親、それを補うために自らの、独自の絆を増やそうとする父親は、伸びしろのある父親です。子育ては一人でするものでもないし、出来るものでもない。

そして、実は「いい親でありたい。いい親になりたい」と思った瞬間その親はいい親なのです。子育てとはそういう次元のものです。

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先進国社会では、母親の孤立化が「社会で子育て」(実は仕組みで子育て)という方向性を生んでいて、そこに「子育て」で儲けようという人たちが政府に奨励され、参入してきている。それもまた現実でしょう。だからこそ、「母親がいいに決まっている」という思いを噛み締めなければいけない。そして父親たちが相応の責任を感じ、母子のために頑張らなければいけない。

未婚の母から生まれる数が半数に近づいている欧米では多くの国で「実の父親」という概念がすでに形骸化しているのです。それで大丈夫なのか。仕組みで補えるのか。人類はかつて経験したことのない、家族という概念の崩壊に直面している。欧米で、子どもが18歳になった時に、実の両親が揃って家庭にいる確率が半数を切っている。当然のように、母親にはますます負担がかかり、女性たちが追い詰められている。同時に、義理の父親による虐待や近親相姦が異常に増え続けているのです。しかしそのような状況になっても、いまさら親子を引き離そうにも福祉という仕組みが人材的にも財源的にもまったく追い付かない。アメリカでは養子縁組が人身売買のような市場原理に頼らざるを得なくなっている。福祉や学校という仕組みで「子育て」をすることの限界を、すでに超え、市場原理がモラル・秩序を失い、社会全体が人間性を失っている。(捨てられる養子たち:http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1413)

 

欧米ほどではないにしても、日本でも同様の福祉の限界、仕組みの崩壊が始まっていて、子育てを中心にモラル・秩序の崩壊が進んでいます。保育士・教員の不足、その質の低下という待ったなしの現状があって、それをみれば「仕組みで子育て」の限界点はすでに過ぎているのだと思います。何より、保育士たちが昔はどんな保育士たちも言っていた「ママがいいに決まっている」という感覚を失いつつある。あと40万人保育園で預かるなどという政府の目標が止まらない限り、ある一線を越えると引き返せなくなる。早く、子育てを家庭・家族に返していかないと、社会で子育てなどと言っている間に、修復できないほどに「家庭」は崩壊してゆく。

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萩生田さんの発言、三年遅いと思います。首相の側近と言われる人なら、「11時間保育を標準」と定義づけた今度の新制度が施行される前に、なぜ止めようとしなかったのか。その頃すでにこうなることは知っていたはずです。

でも、いまからでも言ってほしい。マスコミの反応など気にせずに、「右」だとか「左」だとかいうくだらない仕分けに囚われず、子どもたちの代弁者として、こんどはしっかり言ってほしい。

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ここ数十年に起こってしまった先進国社会における「孤立化」は、まわりに親身な相談相手がほとんどいないという、人類未体験の異常な「孤立化」です。それは「子育ての社会化」で起こった現象でもあるのです。相談相手ばいないと、子育てがますます辛くなる。その孤立化を少しでも解消するために、保育園や幼稚園、子育て支援センターなどを中心に、「子育てを通して」社会に絆と親身さを取り戻していく、土壌から耕しなおしていくしか方法はない。だからこそ、いま、「0歳の赤ちゃんは生後3~4カ月で赤の他人様に預けられることが本当に幸せなのでしょうか」という自問自答を社会全体で「優先順位」を見極めながらしなければならない。

 

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家事労働はまだしも、子どもに対する責任は確かに切れ目がない。必ずと言っていいほど目の前で怪我をしたりもしますから、そうなると言い訳が出来ない。祈ったり、謝ったりして暮らすしかない。三歳までの子どもを育てていると、常に、ヒヤヒヤする。でも、そのヒヤヒヤや、オロオロが親を育て、社会における親身な絆を育む。

子育ては、自分で判断し、想像し、創造しなければならないことがたくさんあるから、逃げ出したくなることもあるでしょう。本来、一人でやるものではないですし、必ず、一緒に祈ったり、一緒に謝ったり、一緒に喜んだりする人が必要になる。それが子育ての一番素晴らしいところです。

単純に、会社を辞めて子育てに逃げる人と、子育てから会社に逃げる人が居たとして、動機を比べてみると、どちらが幸せを探しているか、そんなことを、最近考えます。

本来逃げられないものから逃げられるようになった社会が、本当に幸せなのか。選択肢が増えるということは自己責任が増えること、実はそんなにいい事ではない。自己責任は自己嫌悪につながることが多い。自己嫌悪が人間には一番辛い。連帯責任か、神様の責任にするのが、絆に守られる人間社会を作るコツなのかもしれません。

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