小一プロブレム・仕組みで子育ては出来ない

「小一プロブレム・保育や学校という『仕組み』で子育ては出来ない」

「保育士にとって都合のいい幼児にするために、0、1歳児には話しかけない、抱っこしない保育が少しずつ増えていて、この時期に話しかけてもらえないと、壁に向かってじーっとしているような幼児が数ヶ月で出来てしまう。それを親たちが知らない」と以前、現在進行形の現状について書きました。

園長設置者の意識の問題もあります。こんなひどいこと園長・主任が許さなければできるはずがないのです。私には、「話しかけない保育」は、人間の未来に対するもっともたちの悪い犯罪行為のように思えます。こうした子どもの将来を考えなくなっている現象に拍車をかけているのは、政府の目指す保育の市場原理化や、雇用確保のために行われている「親たちの意識改革」です。

0、1歳児を預けることに後ろめたさを感じる必要はない。それは当然の権利なのだという考え方を広げ、一方で規制緩和によって子育ての受け皿の質を落としてゆく。無理に無理を重ね、保育界全体が無感覚になる方向へ追い込まれているのです。その流れに、実は親たちが加わっていることについて書きます。

この「保育士に都合のいい子」が、最近、親にとっても都合のいい子になってきている。そこが一番恐ろしいのです。問題が仕組みの問題から、人間性の領域に入ってきています。

以前、既存の園の運営を引き受け、子どもが活き活きするように保育内容を園長が変えたら、親たちから「子どもが、言うことを聞かなくなった」とクレームがきて、その子たちが卒園するまでは保育内容を変えないように行政指導された園長の話をブログに書きました。数年前の話です。この辺りにすでに出発点がありました。保育サービスという言葉を厚労省が使い始めたころから、親たちも、保育園に、自分にとって都合のいい子に育てるよう要求するようになってきた。そして数年後、民主党政権の厚労大臣が、「子育ては、専門家に任せとけばいいのよ」と私に言い放ったのです。

一緒に子どもを育てているはずの親たちと保育者の心が一つにならない。「サービス」という言葉を保育園の定款に政府が無理矢理入れられた頃から、そんな景色が広がり始めたのです。

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=233。

 

優先順位

政府の「子ども・子育て支援新制度」が、大人の都合(経済優先)で組まれているのと似ているのですが、社会全体の子育てにおける常識、優先順位が、ここ10年くらいの間に急激に変わってきています。

障害児支援のデイでも似たようなことが起こっています。これも以前ブログに書きました。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=269。無資格の指導員でいい「デイ」で訓練のような「しつけ」を受けた子どもが保育園に戻って暴れる。どんな訓練をしているのか園側が問い合わせても教えない。その上、親に「『専門家』(デイの指導員のこと?)のところではおとなしく出来ている、だから素人(保育園)は駄目なのよ」と言われ本当に頭に来た、と熊本である園長先生が話してくれました。競争で成り立つ市場原理が、一貫したルールが確立されないまま、「子育て」における対立関係をあちこちで生んでいるのです。

 

images-5

親子という運命にも似た関係、選択肢がほとんどない状況で長い間行われていた「育てあい」「育ちあい」(時に、しつけと呼ばれる育てあい)が、仕組みの手に移って行った時に、仕組みを維持する人たちの質、心構え、絆が、人手不足の陰で一気に崩れてゆく。

こんなツイートが保育士からありました。

『私も1年目の時、2年目の先輩と理事長に「なんで人が育たないのにどんどん新園建てるんですか?」って聞いたなぁ。そしてその答えは、「それでもやるって決めたから」的なこと言われて、まったく納得いかなかった。1ミリも。』

親たちよりも長く子どもたちと付き合い、「子どもを優先して考えている」保育士の気持ちが、先輩保育士や園長の「やるって決めたから」という言葉に押し切られてしまう。その向こうにあるのが、無知な学者にそそのかされた「保育は成長産業」「市場原理に任せれば質が保てる」という現場を知らない安易な閣議決定です。

そんな優先順位の狂った環境で育った(育たなかった)親子関係が、小一プロブレムを一気に進めている。こんな記事がありました。

「小1プロブレム 県内急増」

http://www.yomiuri.co.jp/local/tottori/news/20170521-OYTNT50020.html 保育新制度が押し進める学級崩壊がいよいよ始まっている。数年後もっとひどいことになる。このままでは教師の精神的健康がもたない。

この記事にある「小一プロブレム」に対するマスコミや学者の分析と対処法が、実は、ますます小一プロブレムを増やしていくのです。保幼小連携と言われますが、それは小学校に入る時の壁を低くしようとすることでしかない。保育園や幼稚園を学校という仕組みに近づけても、本当の解決にはならない。5歳まで特定の人たちに可愛がられること、特定の人たちを信じることで子どもは安心し、安定する。それが何千年もやってきた子育ての基本です。そうすることによって、人間は人生に必要な価値観や絆の土台を作る。その土台さえあれば、子どもたちは壁を乗り越えられる。むしろ、その壁が、子どもを育てる。その壁が、親を育てる。親子の絆を強くする。

壁をなだらかにする、そんなごまかしでは、いずれ、高校や大学を卒業した時にもっと大きな壁に跳ね返されるだけです。それが人生の致命傷になりかねない。それがひきこもりや暴力を生んでいるのでしょう。人間の成長、そして絆が存在するために、常に壁は必要です。

百歩譲って、この記事にあるように、学校教育を成り立たせるために、本気で幼稚園や保育園を学校という仕組みに近づけようとするなら、つまりしつけをちゃんとしろということなのですが、小規模保育や家庭的保育事業の規制緩和は何なんだ。3歳未満児を40万人預かるために、資格者は半数でいいなどと安易な規制緩和をしておきながら、しつけもちゃんとしろ、というのは無理難題どころか本末転倒、施策としては意味不明です。

未満児保育は脳の発達と直接関わる大切な役割です。それを知っている園長が、いい加減な保育をされた3歳児は預かりなくないと思っても不思議はない。自分の園で未満児保育した子どもたちでなければ預かれません、とはっきり言う園長もいます。「子育て」を真剣に考えれば、当然でしょう。

未満児の時に親をしっかり指導できなければ保育は成り立ちませんから、親にサービスだけしているような園から来た3歳児は引き受けません、と言う園長もすでにいます。

園長先生たちは、この慢性的な保育者不足という困難な時期に、必死に保育士を守らなければならない。保育は、保育者の元気と楽しさがその中心になければ保育ではない。それが、幼児という「幸せを体現する人たち」と付き合う責任でもあるからです。

幼児が5歳くらいまで、特定の大人たちに可愛いがられていれば、学校教育は成り立っていたのです。幼児は、他人に無理やり「学校教育がなりたつために」しつけられるものではありません。

記事はこう締めくくられています。

『鳥取大地域学部の塩野谷斉教授(幼児教育学)は、「小学校と幼稚園、保育園などが一体となって子どもを育てる意識が大切。学校の教員と保育士らが連携すれば、子どもの発育を連続した視点でとらえ、より充実した保育、教育ができる」と話している。』

学者や政治家は、仕組みで子育ては出来ないことにいつ気づくのでしょう。仕組みが手を替え品を替え子育てを肩代わりしようとすることが親心の喪失を進め、より一層仕組みの機能不全を招いているのです。

この括りの文章・発言に、「親」が登場しないことが致命的なのです。「誰かが、育ててくれるんだ」という親の意識が、小一プロブレムの中心にあるのです。

学問が子育てから「心」を奪っている。

 

image s-5

 

こんなツイートがありました。

「保育現場で悲鳴が上がっている。子供だけでない、保育士を育てなければならないからだ。育て直し‥大人になった人を育てることは子育て以上に難しい。だから子供時代が一番大切なのだ。乳児期が一番大事なのだ。それなのに、今の保育園はどうだ?本当に子供が大事にされているだろうか・・。」

そして、「子どもを安心して保育園に預けられない理由」という記事がありました。これがすでに現状、現実なのです。 https://news.nifty.com/article/magazine/12210-20170519-9559/?utm_

子どもたちからの警告・学問が子育てから心を奪っている

子どもたちからの警告

待機児童解消、保育士不足、少子化対策、幼児の気持ちを置き去りに、言葉だけが「社会」と呼ばれるものの中を飛び交います。

久しぶりに保育に復帰した人が言っていました。新しい、小規模の保育園だったのですが、保育士の資格は持っていても幼稚園しか体験したことのない主任さんだった。保育園の保育を理解していない、と思い、すぐに辞めました、というのです。

それでも、その保育園には毎日子どもが通ってくる。多くが、期待に胸をときめかせ、ワクワクしながら・・・、通ってくる。その期待に応えようとしなければ、国が成り立たないことを、政治家たちは知ってほしい。考えてほしい。感じてほしい、と思います。

 

image s-6

子供たちがなりたい職業ランキング(ソニー損保生命)
保育園の先生は上位から消えました。
2015年は第3位。2017年は第11位。
 
 厳しく辛い、子どもたちからの警告ですね。現場の保育士と子どもたちが過ごす日々を考えず、安易に「預けて、働け」「預けて、働け」と親たちに言う政治家たち、そして、その動きを「権利」「権利」と扇動するマスコミ。このランキング調査は、そうした経済中心の動きに対する「子どもたちからの」警告だと思います。
 保育士たちが活き活きとしていないのかもしれない。保育が「子育て」であること、幼児にとっては一対一であることを忘れ、「仕事」なってきているのかもしれない。子どもたちが、いつか大きくなって、幼児と関わることに惹かれなくなっている。
 0、1歳児を躊躇せずに預ける親が増えたからかもしれない。子どもたちは、敏感に育てる側の本心を見抜きます。繰り返し許してはくれますが、見抜きます。
 保育の現場から、幼児たちが本能的に感じていた「子育て」の魅力が、ここ数年間の間に突然、欠け始めているのです。
 このリサーチは、将来、本当に保育資格をとってほしい、心ある子どもたち、資質のある選ばれた生徒たちが保育者養成校に来なくなることを意味しているのです。
 もうすでに、そういう状況に入っている。
 以前、保育士が子どもたちの「夢」だった頃、なりたい職業のトップ3だった頃、子どもたちは、賃金とか労働条件とか、そんなことでこの仕事に魅かれていたのではなかった。あの「先生」が好きで、あの「先生」に憧れていたはず。「賃金とか労働条件」よりもっと大切で、魅力的な「人間の優しさが作り出す雰囲気」、「家族的な空気」、「自分がいい人になれる時間」に子どもたちは引き寄せられたのだと思います。そのことに政治家たちは気づき、いま、子どもたちによる警告を見て、肝に銘じてほしい。このままでは、この国の根幹が壊れてゆく。
 
 子育てを、国や学者が、一生に数度しかできない素晴らしい体験と位置付けないから、「育てる側を育てる」という、その貴重な意味を、理屈ではなく「常識」としてマスコミが伝承しようとしないから、巡り巡ってこういうことになる。男たちが結婚しなくなっているのと似ています。みんな、自分の持っているいい人間性に感動する体験をしようとしない。それどころか、自分自身を体験することから、逃げ始めている。
images-1
 

学問が子育てから心を奪っている

 

低賃金の労働力を確保するために(維持するために)、十数年前に政府は保育士養成校を増やそうとしました。養成校で学び、資格を取れば、他人の子育てができると勘違いした。学問で子育てができると考えた。そこがそもそも異常なのですが、養成校の存在自体が不自然で、まだまだ不完全だと気付いていなかった。資格という言葉で責任を誤魔化そうとした。

その上一番悪いのは、養成校が定員割れを起こし倍率がでなくなることが保育界にとってどれほど致命的かということに、まったく気づいていなかった。

ビジネス・生き残り優先の養成校は、政府の望み通り資格を乱発し、人間性のチェック機能さえ果たさなくなった。子育ての意味や大切さを教えるはずの教育機関が、資格の先にいる幼児たちの安全や安心を優先しなくなった。それまで何とか保育を支えてきた現場の保育士たちは、幼児が優先にされない状況に疲れ、国の「保育はサービス」という言葉を受け入れビジネス優先で考える園長の出現に疲れ、辞めていった。その結果がこれです。

「てめぇら!」響く保育士の怒鳴り声 “ブラック保育園”急増の背景” (週刊朝日)https://dot.asahi.com/wa/2017052400011.html

 やっとです。ここまで保育界が追い込まれ、子どもたちの日常が保育という仕組みでは守れなくなって、子どもが何年も怒鳴られ続け(もちろん一部ではありますが)、やっとマスコミが真面目に取り組み始めた。
「遅い!」と言いたい。でも、これからでもいい。真剣に取り上げ続けてほしい。

書籍では「保母の子ども虐待」という本がすでに20年前に出ていました。当時本の内容に関して報道もされましたし、みんな実は気付いていたはずです。それなのに、規制緩和と市場原理で、ここ数年、保育界は一気に追い込まれている。週刊誌、新聞、テレビが、幼児の立場に立って、繰り返し、「こういう状況が止まるまで」徹底的に報道してくれないことが、政治家の安易な「子育てに対する姿勢」と現在の「子どもの立場に立たない保育施策」を生んできたのだと思います。
こんな状況になっているのに、「あと40万人保育の受け皿を用意します」と去年首相が国会で言い、それが今年は「50万人」になっているのです。もちろん、全ての野党が(こういう状況であるにもかかわらず)「待機児童をなくせ」と言っているのですから、与党がダメだと言っているのではありません。安倍さんだったら、もう少し日本の未来は子どもたちの育ちにかかっている、ということを理解してくれるのではないかと、期待していたくらいです。(萩生田さんにも何度も説明しましたし。)

いま、問題なのは、こうして実態が報道され始めても、それでも躊躇せずに0、1、2歳を預ける親が増え続けていること。
そして、待機児童を自園の人気と勘違いし、親の保育士に対する正当なクレームに「じゃあ、やめればいいだろう」と平気で言う園長さえ現れていること。

ーーーーーーーーーーーーー

 三年前、子ども・子育て支援新制度が始まる前年に、宇都宮の保育施設で乳幼児が亡くなる事件(事故)がありました。当時大きく報道もされ、私もブログに書きました。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=255

こういう事件が、保育制度を規制緩和し労働力を確保しようという政府の保育施策の警告にならなかった。「待機児童をなくせ」という掛け声のもと、むしろ増える方向にいまだに進んでいる。だから小一プロブレム、学級崩壊が止まらない。
義務教育という仕組みは、一部の親子関係、家庭のあり方がすべての子どもの成長に影響を及ぼす、非常に影響力の大きい、同時に繊細で壊れやすい仕組みです。いま、閣議決定で進められている、「11時間保育を標準」と名付けた「子育ての社会化」という流れでは、これから義務教育が破綻し始める。そう簡単に止められない親たちの「意識改革」は現在進行形で進んでいるのです。

この国が、欧米のように訴訟社会になることでしか止まらないのか、と思うと情けなくなります。

『「社会で子育て」大日向教授、小宮山厚労大臣の新システム』http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=208

images-4

 

 

 

スコセッシ監督の映画「沈黙」を見てきました。http://chinmoku.jp 良かったです。

遠藤周作さんのキリスト教への視線は、以前原作を読んだ時、「死海のほとり」のイエス像でも共感できて、それをスコセッシ監督がしっかり受け止め表現していて嬉しかったです。東洋的な解釈、仏教との対比からキリスト教会を見ていて、本当はカトリック信者でありながら遠藤さんは易行道が好きだったのではないかと思います。日本という国、泥沼と例えられていたのですが、不思議な表現で、いまとても意味があることに思えました。それぞれの文化や宗教で異なる神とのスタンスを見誤ったり、誤解することがここ数千年の人類の歴史なのでしょう。

映画の中で、神の声がモーガン・フリーマンの声だった気がして、エンドクレジットで一生懸命探したのですが見つかりませんでした。もしそうだったとしたら黒人の声を神の声に使っているわけで、スコセッシ監督のメッセージが隠れている気がしました。モーガンが監督したボパという作品に演奏で参加したことがあります。

0、1、2歳児を預かるということは、その子の人生を預かること

全国を講演して回っていると、保育士不足と、それに伴う保育の質の低下は限界を越えています。義務教育がもたない。小一プロブレムはもはや止められない。政府主導の保育士不足が義務教育によって、すべての子どもの人生に「いじめ、不登校、学級崩壊」という形で影響を及ぼし始めている。

保育士は、資格を持っていれば誰にでもできる「仕事」ではない。(私は、30人の他人の4歳児を二時間世話できないし、笑顔ではいられない。それが8時間できる人、毎日笑顔でできる人は、選ばれたごく少数の人、生まれつきの才能、個性なのだろうと思います。)
しかし、政府の子ども・子育て支援新制度は、それが始まった当時、2万4千人の待機児童に対し、あと40万人「保育の受け皿」を用意するという雇用労働施策でした。幼児の最善の利益が優先されることなく、保育士たちの気持ちを考えることなく、受け皿だけ「待機児童をなくす」という掛け声のもとに増やしていった。小規模保育、子ども園、家庭的保育事業、3歳未満児を預かるために、資格も含め制度の規制緩和を一気に進めていった。(その先にある学童保育の混乱状態も待ったなしの状況です。最近、学童の指導員さんたちに講演して思いました。こんないい加減な仕組みでは、いい指導員さんたちの心がもたない。その人達がいなくなったらどうするつもりだろう。民間委託や下請けといった市場原理では支えられない。)

忘れてはならないのは、政府が新制度を始める前に、3、4、5歳児は幼稚園と保育園でほぼ全員預かっていたということ。「あと40万人」(今年はそれを50万人に増やしている)と政府が目標にしたのは3歳未満児だということ。皮肉にも、その掛け声と、「保育園落ちた、日本死ね」という言葉と言葉遣いの流布、待機児童をなくします、いう政治家の安易な選挙公約などに背を押されるように、親の「子育て」に対する意識が一気に変わってきている。0、1歳児を預けることに躊躇しない親が突然増えている、と役場の人達が口をそろえて言うのです。それが、待機児童の増加に拍車がかかるという結果を生み出している。保育の現場を追い込んでいる。
新聞に「誤算は想定以上に利用希望者が増えたこと」などと書かれています。しかし、それは経済でしかものを考えない学者や政治家たちの「誤算」であって、待機児童を減らそうとすれば増えますよ、ということは現場では10年も前から言われていました。東京23区などでは現象としてすでに現れていたのです。

「保育はサービス、保育は成長産業」という政府の指示を鵜呑みにした保育関係者の中に、保育の質を考えずに「ただ預かればいい」というとんでもない意識を持つ園長・設置者もでてきているのです。
 0、1、2歳児を預かるということは、その子の人生を預かること、という意識がない。
人間が生まれて三年間の脳の発達を考えれば、その時期の話しかけや抱っこ、接し方、声の調子や叱り方、刺激や関わりがその子の将来の行動パターンに様々な影響を及ぼすことは証明されていて、だからこそ、国連の子どもの権利条約やユネスコの子ども白書にも特定の人間(主に家族)と乳幼児が過ごす権利や、その大切さが謳われている。それすら保障されない状況にこの国が、政府の経済施策によって追い込まれているのです。

保育士に都合のいい幼児にするために、0、1歳児に話しかけない保育が少しずつですが、増えています。この時期に話しかけてもらえないと、壁に向かってじーっとしているような幼児が数ヶ月で出来上がります。それを親たちが知らない。
質の悪い保育士を雇わされて、事故が起きないようにするためには仕方ない、子どもがじっとしている方が安全という園長もいれば、政府に11時間保育を標準と言われ、乳幼児を3人、4人、次々に抱っこしていたら保育士の腰が持たない、労災の問題です、と堂々という園長もいる。そこまで言われると、そうですね、所詮仕組み自体が無理なのです、0、1、2歳児を今の仕組みで預かることが間違っているのです、と答えるしかありません。

脳細胞、シナプスの相対的関係

脳細胞、ニューロン、人間の魂の分野に属することを科学的に話すのはあまり好きではないし、不得意なのですが、時々そうだろうな、と思うことがあります。
ニューロン(脳細胞)の数が一番多いのは人間が生まれる直前で、生まれるときに大量に捨てるのだ、というのです。その捨て方には個人差があるそうです。その捨て方は人生に影響を及ぼすはずです。(ひょっとして、この「意識が働いているか」、それが「誰の意識なのか」はっきりしない出来事が運命や宿命と呼ばれ、仏教でいえばカルマ、修行の目標なのかもしれません。)
そして、人間は、このニューロン(脳細胞)をシナプスというものでつないでゆくのだそうです。それをニューロンネットワークといって、個人で異なる「思考」の仕方はこのネットワークのつながり方、その回路・通路のあり方の違いだそうです。そのニューロンネットワークは、生まれて一年くらいで最多に達するというのです。そこから、こんどは思考の回路を自ら削除してゆく。環境や体験にあわせ、どういう考え方がそこで生きて行くために重要かという優先順位を、それぞれその時の体験から決めていくわけです。
人間としての基本的な生き方に加えて、言語や文化、伝統、習慣、常識といったその社会で生きるための知恵や知識が、共有する思考形態として定まってゆくのでしょう。脳の重さはほぼ五歳で成人並みになると言われていますから、生きるために減らしてゆくニューロンネットワークの数と脳の大きさが一番相乗効果を生んでいるのが四歳くらいで、人の思考の可能性、感性がそのころ最大となるのではないでしょうか。
私はその状態を、「信じきって、頼りきって、幸せそう」というものさしから、四歳児で完成、最も幸せでいられる可能性を持っている姿としたのです。

一人の人間をニューロンに置き換え、人間同士の「絆」をシナプスと考えると、人類の目的が見えてきます。「生きる力」とは個の自立を目指すことではなく、「絆」を作る力です。信じあい、頼りあうことが「生きる力」です。

(だからこそ「話しかけない保育、抱っこしない保育」http://kazu-matsui.jp/diary/2013/12/post-225.html の出現は進化のプロセスにおける強い警告だと思います。)

実際、四歳児が完成された人間かどうかは、別の議論に任せます。しかし、そのように四歳児を眺めることで、先進国で起こっているほとんどの問題が解決するのです。
そこに人類の進化における相対性理論が見えます。

なぜ「四才児」完成説なのか。脳細胞、シナプスの相対的関係

講演で、「四歳児が一番完成している人間」と言います。「完成」という言葉さえ本当は変で、「目標とする姿」と言ったほうが近いのかもしれない。
「頼り切って、信じ切って、幸せそう。これは宗教の求める人間の姿です」と付け加えます。
仏像や聖母子像や観音様のように、人間は具体的に崇拝したり、目標とする何かが近くにあったほうがいい。これを拝んでいれば大丈夫、という共通した何かがあると、心が一つになりやすい。仏教やキリスト教が現れる前から、それはあったはず。

保育園で、〇歳から五歳児の部屋で三〇分ずつ過ごしてみたのです。すると、四歳から五歳になる時、何かが変わるような気がしました。集団の雰囲気が、馴染みのあるものになった。園長先生に言ったら、そうですね、とうなずかれました。四歳児までは神や仏の領域。存在としてはまだ宇宙の一部なのでしょうか。五歳で人間?。
園長先生が言います。
三歳児はやりたい放題、鬼ごっこをすれば自分から捕まりにいってしまう。四歳ごろから、ルールを守った方が面白い、ということを学ぶ。鬼ごっこでは、ちゃんと逃げるし、捕まったら鬼になることも理解する。他者との関係がわかってくるのです。自制心を持って他者と関われば、もっと面白いということがわかってきます。相手もそのルールを守ってくれることで信頼関係が芽生えるのです。このあたりの幼児の発達過程は人間社会がどうあるべきか、どのように形成されるかという次元まで重なってくる、とても興味深い変化・進化です。
それを親が眺めるといい。
自分が通ってきたプロセスのおさらいをするように。〇歳から四歳までの子育ては、無意識のうちに一人の人間の完成、人類の進化の歴史を四年かけて眺めることなのかもしれません。そうして、人は自分という人間を人類の一員として理解し、安心したのでしょう。幼児を理解しようとするプロセスが、人間を作るのです。

世界が宗教間の軋轢や、人種や民族間の争いに満ちていても、もし四歳のときに子どもたちを混ぜてしまえば、そしてそこに親心があれば、平和や調和は可能でしょう。先進国は、その可能性に気づき、その可能性を大事にしなくてはいけません。
なぜ、人間は四歳で完成したのに、情報や知識を得て不完全になろうとするのか。自ら不完全になることによって、集まって大きな完成を目指そうとしているのではないか、そんな風に考えます。人類全体で「絆」を作って完成するために、一度自分を見失う、という苦難の道をゆくのでしょう。
人類としての完成、それが何百年先になるのかわかりません。でも、運命(宿命)はそんなところにあるのでしょう。だからこそ我われは、時々、四歳児という完成品、目標を眺めていないと、人類全体としての道を間違う。
人類の歴史の中で、いまが一番大切な時かもしれない。私たちは、人類の進化を決定づける不思議な時代に生きています。
だからこそ仕組みの発達と、経済という進化のエネルギーでもある欲の具現化が生んだ「話しかけない保育、抱っこしない保育」http://kazu-matsui.jp/diary/2013/12/post-225.html の出現が恐い。

園長先生と刺しゅう

images
「園長先生と刺しゅう」
 
 全国あちこちに師匠と思っている園長先生たちがいます。先進国社会特有の家庭崩壊の流れを止められるとしたら園長先生たちが鍵を握っている、と思っています。
 
 親が、まだ親として初心者のうちに幼児としっかり出会わせることが一番自然で効き目のある方法です。そういう講演をしていると、達人のような園長先生に出会うのです。
 
 もう二十年前になるかもしれません。こんな人に会い、こんな文章を書きました。一見無駄のように思える「刺しゅう絵」という作業が、親たちの人生に深みを与え、その感性を豊かにするのです。こういう園長たちが大地の番人のように、居たのです。
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 
 先日(注:20年前)、横浜南区のあゆみ幼稚園で講演しました。
 
 講演の一週間前に、30年間の園の歴史をまとめた一冊の本が送られてきました。「育ちあい」という本でした。感動しました。
 
 母親たちに毎年、園長先生が子どもが描いた絵を一枚選んで、その絵を元に、刺しゅう絵を作らせているのです。布を一枚渡し、子どもの絵を丁寧にトレースし、布の上に写しとり、そっくりそのままに刺しゅう絵に刺してゆくのです。
 
 園長先生は言います。
 
 「子どもがどこからパスをスタートさせたかを読みとり、パスの動きを追いながら一針一針進めます。そして約一ヶ月をかけて完成し、原画と共に園に提示して家族そろって鑑賞しあいます。もちろん祖父母のみなさんも大勢・・・」
 
 子どもたちが10分ほどで描いた絵でしょう。普通だったら幼稚園から持って帰ってきた絵をちょっと眺めて、ああ上手だね、と誉めてやって終わってしまったことでしょう。その絵を母親が何日もかけて同じ大きさの刺しゅうに仕上げてゆくのです。
 
 本には、子どもの絵と母親の刺しゅうが上下に並べられたカラーのページがあって、それは見事でした。筆先のかすれているところまでちゃんと糸で表現してあるのです。
 
 そして、その絵の下に、母親たちの感想が載っていました。私はそれを読んで、園長先生の達人ぶりに驚かされました。
 
 「『やった!やった! ああよくやった』13日午前1時30分、一人で声をだしてしまいました。この4~5日、深夜に集中できました。子どものために、こんなに一生懸命になれることって何回あるでしょうか。さあ、今夜はゆっくり・・・」
 
 「鳥の後ろ足の部分は主人が刺してくれました。刺し終えた時は、主人と二人で思わず『できたね』と声をかけあいました。いい思い出になると思います。」
 
 「どんな巨匠が描いた絵より『ステキ、ステキ』と自画自賛しています。刺しながらどんどん絵の世界に引き込まれていきました。試行錯誤しながら作る過程は、まるでキャンバスに絵の具をおいていく楽しさでした。」
 
 「できました! 3枚目です。もう最高です。産みの苦しみも赤ちゃんの顔を見たとたん忘れてしまう、今、そんな気持ちです。息子は左利き、私は右利き、同じような線にならず何回もほどきました。もうこの子のために、こんなに長い時間針を持つことはないだろう・・・、そう思いながら刺しました。今、一つのことをやり終えた充実感と三人分無事終えた安堵感でとても幸せです。」
 
 「『お母さん、まだ、こんなところなの? ボクなんて、サッサと描いたんだよ』と息子が横目でチラリ。私だってどんなにサッサとやりたいか・・・。眠い目で遅くまで刺し、目を閉じると絵の線が、はっきり浮かんで夢にまででてくるのです。やっと終わった!という喜びと、もうこれで最後なのだという寂しさと・・・。この素晴らしい刺しゅうを持っている子どもたちは幸せだと思います。」
 
 「途中でめげそうになった時、主人が少し手伝ってくれ、その姿を見て子どもも目茶苦茶ではありますが『手伝っておいたよー』と。よい思い出と、よい記念ができました。」
 
 「この一ヶ月睡眠時間を削り、家族には家事の手抜きに目をつぶってもらい本当に大変でした。でも苦労した分だけ満足感も大きく主人から『ご苦労さま!』と声をかけられ、こどもからの『ママとても上手だよ。そっくり!』のひとことでやってよかったと思いました。」
 
 「先輩のお母さまが相談にのってくださり、前年度の作品を参考にと貸してくださいました。『私だって初めの時は、同じように先輩にしていただいたから』のことばに胸が熱くなる思いでした。くじけそうになった時に応援してくれた主人と子どもたちにも感謝の気持でいっぱいです。」
 
 「一針一針刺していると小さな針先から子どもの気持が伝わってくるのです。こんな素敵な、あたたかい気持との出会いができた刺しゅうに感謝します。」
 
 「でき上がりました。目の疲労を感じながらも心は軽やかです。刺しゅうをしていくうちに、だんだんとこの絵が好きになっていくのです。とても不思議なことでした。いとおしいとまで思うようになりました。」
 
 「すてきな絵を描いてくれた娘に・・・。家事を協力してくれた主人に・・・。アドバイスや励ましをくれた友達に・・・。何よりこの機会を与えてくれたあゆみ幼稚園に心から感謝を込めて。」
 
 
 
 すべての鍵がここにあります。人間社会を家庭崩壊の流れから救うすべての鍵があるのです。学者の教育論や社会論、子育て論や福祉論、保育論を吹き飛ばすすべてがあります。
 
 幼稚園版「幸せ家族計画」とでも言いましょうか。でもこの場合には賞品はありません。母親たちを動かすのは園長先生の人柄でしょう。(祖母のような方です。)
 
 園長先生にたずねました。「強制的に全員にやらせるのは大変でしょう」
 
 すると園長先生は「いえいえ、強制じゃないんですよ。やりたい人だけなんです。でも100%志願なんです。それが嬉しいです」
 
 私はハッとしました。そうなんだ。まだ日本の母親たちはすごいんだ。こんな園長先生の心を生き続けさせているのは、それにしっかり応えている母親たちなんだ。
 
 「もう30年もやっているんですが、最近になって母親たちの間に、刺しゅうのやり方を伝えるノートが代々受け継がれていることを知ったんです。先輩の母親から、本当に詳しく、少しずつ書き加えていったんでしょうか。このクレパスの赤い色を出すには、何々社製の何番の糸がいいとか、かすれている部分をうまく表現するテクニックとか色々あって、そのノートが伝承されていくんです。子育てもやっぱり伝承ですから、先輩から次の世代のお母さんへ、受け継がれてゆく大切なもの、気持ち、がその中にあるような気がして嬉しかったんです」
 
 わが子の絵を刺しゅう絵にする。
 
 この一見意味のないように思える妻の無償の努力を傍らで見つめる夫。自分の描いた絵が時間をかけて少しずつなにかとても立派なものになってゆくのを、わくわくしながら見つめる子ども。一枚の刺しゅうを囲んだ家族の心の動き。
 
 自分の手で再現されてゆくわが子の絵を見つめ、針を運びつづける母親の心。針の先に見えてくる絆・・・。
 
 将来この一枚の布を見るたびに、母親の心に一ヶ月の凝縮された過去の時間がよみがえるのでしょう。
 
 こんな課題を母親に与えてくれる園長先生がいた。
 
 これは理論ではないな、と思いました。
 
 子育ての「負担」を軽くしようと、延長保育やエンゼルプランを園に押し付けてくる文部省や厚生省の役人には、こういう大自然の摂理は理解できない。
 
 発想が全然違う。
 
 幸福感の次元が違う。
 
 宇宙に対する見方が違う。
 
 魂に対する理解度が違う。
 
 園長先生が、幼児を見つめながらこれほどまでに心眼を磨いて真理を見ている。
 
 親たちに「親」というひとつの形を舞わせている。その様式美に夫と子どもがちゃんと気づく。
 
 「かたち」から入る日本の文化の真髄がここにあるのでしょう。理屈ではなく、かたちなのです。
 
 人生は出会いだと言います。こういう人に出会える親たちの幸運。子どもたちの幸運。私の幸運。
 
 さっそく次の日、鹿児島でこの話を園長先生たちにしました。
 
 「すごい!」
 
 「鳥肌がたつわ」
 
 「私も頑張らなきゃ!」

「人材の流動性」、幼児の成長と発達には、実は致命的な言葉です。

人材の流動性

 

保育界で起こっている状況に、「リスクが高すぎる。人材の流動性も高くなる一方。」というツイートが返って来ました。

3歳未満児の保育は日々命を預かること。保育士の責任感と経験が未熟だと危ない。少ないベテランを3歳以上児にとられ、未満児たちには新人を当てるか、資格を持っていても3歳以上児はとても保育できない保育士をあてざるを得ない状況が全国で起こっています。

未満児だけ預かる保育所も増え、ただ預かっているだけ、保育をしていない園もあります。そういう保育所から来た子どもは預かりたくない、責任が持てない、他の子どもたちの保育に影響する、とあからさまに言う認可園もあるのです。

保育士不足が決定的で、これからますます安全性が脅かされ、リスクが高くなる。

それがわかっていても見ぬ振りをする「業者」の保育参入をどうやって止めるのか。特に小規模保育に名を借りた規制緩和は、国からの補助が旧認可保育園並みになり、儲けるなら保育だ、というビジネスコンサルタントの浮ついた言葉をネット上に溢れさせているのです。

「条例をつくっても、市の計画に入れなければいいのです」と行政の人から言われました。保育にサービス産業が入ってくることに違和感を感じる行政の人、市長はまだいます。国の施策がおかしいと思えば、保育課長が市長を説得し、市政の段階で阻止することもまだできます。でも、それさえも選挙を挟んで限界に近づいている。

ーーーーーーーーーー

『全く向いていない人が保育士となる。預ける側にはそれはわからない。大切な我が子を安心しては預けられない状況なのですね。』というツイートに、

『昔から確実に少しそうでした。その可能性が突然広がりますます増えている状況です。しかし同時に「大切な我が子を安心して預けられる」ことはどんな状況でもできないわけで、その安心を信頼関係で補い、得ようとするのが人間社会の絆だと思います。』と私がツイートを返します。

 

i mages-6

 

園によっては毎年、2、3割の保育士が辞めてゆく。交代してゆく。危機管理のために必要な一体感が職員たちの間になくなってきている。こんな、派遣会社に頼らざるを得ないような方向への「保育」の広まりを、10年前、一体だれが予測したでしょうか。

 

「人材の流動性」、幼児の成長と発達には、実は致命的な言葉です。

幼児期、「育てる人たち」がほぼ数人で、一定している状況で、つまり、家族、親族、もう少し広げて村人や部族という一定の人々に囲まれて人間の遺伝子は何万年にもわたって進化してきたのだと思います。そうであること、は幼児期の人間の成長や発達に確実に影響があった。その環境で遺伝子が進化してきた。だからこそ、国連の子どもの権利条約にも、幼児期の安定的な人間関係を「家族」という単位をベースに守るべきことがうたわれているのです。

最近の政府の保育施策を見ていると、政治家や学者がこの「育つ環境」を完全に忘れているように思えるのです。保育を「飼育」のように見ている。保育士が入れ替わり立ち替わりでも、誰かが見ていればいいんだ、と言わんばかりの規制緩和と業者に都合のいい市場原理の導入が続きます。一番大事な子どもたちの「日常」がどういうものかイメージできていない。

いま、「ひとつの園に長く勤めるよりも、派遣の方が気楽です」と言う保育士さんが出てきて、もうそれは止められないかもしれない。看護師さんの働き方において、よく言われることだそうですが、幼児の成長にこれほど直接的に関わる「保育」と「看護」は人生に影響する深さが違うと思うのです。

一人の保育士が、5年間同じ子どもたちを、その成長を眺めながら一喜一憂し保育できなくても、乳幼児期を世話した保育士が、卒園式の日にその園に居るかいないかで、保育という仕組みの空気が変わってくる。それによって、家庭の代わりをしなければならない保育園の存在理由がギリギリのところで保たれる。派遣会社の参入を許し「社会で子育て」などと言う政治家や学者たちはそのあたりのことをまるで理解していない。

保育園や幼稚園という人類にとって非常に新しいまだまだ実験的な仕組みは、社会というより、ある程度「家庭」「家族」というものに似せておく必要があったのです。保育園の場合は特にそうだった。子どもたち目線から考えれば当然なのですが、以前、この国の保育に対する考え方はそうだった。保育指針にも、家庭と園が「心をひとつにする」ということの大切さがいまだに謳われているのを読めばわかります。

一人では絶対に生きられないから家族がいる。家族だけでは生きるのが難しいから村がある。そんな時代を何千年も経て、いま、村がなくても生きられる、家族がなくても生きられる、一人でも生きられる、という感触が、幼児を育てることの意味を忘れさせようとしている。だから、保育園や幼稚園という、村単位の絆さえ補えるかもしれない可能性を捨ててはいけない。その可能性にしがみつく時。ただの仕事場にしてはいけない。

 

201509291028000

201509291028000

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2097