中学生は理解してくれる

中学生は私の講演をけっこう理解してくれます。感想文を読んで、まだ神様のしっぽを引きずっている人たちが、感性で理解してくれたと思うと、試験に通った気がして、私も嬉しいのです。中学生に講演する時は、一週間前から緊張します。ごまかしは効かない。でも、あっちもまだごまかして生きてないから真剣勝負みたいなところがある。緊張の一週間で、彼らが、すでに私を育てようとしているのがわかります。ですから、こんな人たちと毎日つきあう中学校の先生を私は、うらやましくもあり、尊敬します。

高校、大学と高等教育を受けているうちに、次第に感性がなくなっていくようです。学生が眠っていても平気で授業をする教授たちの姿を見ていると、魂を込めたコミュニケーションが、大学で終わってゆくのがわかります。心ないコミュニケーションを繰り返すくらいなら、もう黙っていてほしい。

でも、一度感性を放棄したように見えるその人たちが子どもを授かったとたんに感性が溢れ出てくる。遺伝子が、そういう仕掛けになっているのでしょう。幼児を育てている親たちに講演するのは、どこへ行っても楽しいのです。

 

中学生に講演した時の感想文から

「よくわからなかったけど、聞いてよかった」

「いつでも無言の愛というやつはとてもいいと思っております」

「話が難しく思えましたが、生きていくうえでは大切なことだと思いました」

「自分も小さい子たちにはげまされて、育てられたいです」

「自分が親になって困ることより『いいな』と思う方が多くなる日が来ると思うと、とても楽しみになりました」

「幸せについて、きちんと語る人はめずらしいです。ぜひ、次の講演も頑張ってください」

「親になりたいと思いました。今日のお話しは、私の成長につながったと思います」

「私たちは親に育てられているだけではなく、私たちも親を育てているとゆう話を聞いて、なんていえばいいかわかりませんが、話にひきつけられました」

「松居さんが一年生からの質問の答えを、全て精神的なことで答えていたので、子どもを泣き止ますためには、まず自分が落ち着いて、それから自分でどうすればいいか考えるのが大事なんだなあ、と思いました」

「非常に実になるお話を聞くことができ、とても嬉しいです。『幸せのものさし』という言葉をよく使われていましたが、あれは自分の価値観ということなんでしょうか。自分も職場体験で幼稚園に行き、園児たちが自分の行動一つ一つに笑顔を見せてくれて、松居さんの『幸せのものさし』というものがよくわかった気がしました。子を育てるという行為が、逆に自分を育てることにつながるという話が一番お話の中で共感でき、印象に残りました。松居さんの色々な経験談を聞けて、本当に自分の物事を見る目が変わりました。とても良かったです」

「私は、幼い子は苦手なので、今まで幼い子と関わらないようにしてきました。けれど、今日の話を聞いて、積極的に幼い子と関わろうと思いました。」

「幸せは人によって違うけれども、幸せを見失った時、幼い子どもの幸せを眺めているだけで、幸せを得られる。その幸せこそが最高級の幸せであり、その幸せを感じられることもまた幸せである。

今、まさに幸せの形を追い求め始めていたので、とても参考になりました。今日のお話しで、今の自分に少し自信が持てました。少し、がんばってみようと思いました。」

「僕は、今回の話を聞いて、幸せとはどういう物かっていう、自分のものの見方が変わりました。幸せは、人生の中で、どれだけ成功できるかとか、作り出していくものではなくて、その今生きている人生に幸せを生み出す=ものの見方を変えていくことでつかみとるものなんだなと思いました。その、ものの見方は幼稚園、保育園児に学ぶものであったり、他にもいろいろな人から学ぶこと、いろいろな物から学ぶことであると思うので、しっかりと自分とかを見つめ直して、初心を忘れないようにできたらな、と思いました。」

「自分の考えを変えれば、なにかが変わるんじゃないかな、と改めてわかりました。」

「僕ははじめは、話をきいて、とても難しいはなしでよく分かりませんでした。でも、せっかく講演会を開いていただき、意味も分からないままでは、もったいないと思って、一生懸命話をきいていたら、だんだん松居さんのはなしの意味がわかるようになっていきました。マサイ族が一人で立っている草原をイメージして集中していると、30秒でピタッと泣きやんだ、なんてはなしは、普通にきいていたらきっと信じませんが、松居さんが話しているのをきくと、すごく気持ちがこもっている話で『本当なんだろうな』』と思うことができました。

今日の講演会では、松居さんの気持ちのすごくこもったいい話をききました。家に帰ったら親におしえてあげたいです。自分が大人になって子どもを持つようになったら、この話を思いだして、子どもといっしょに”立派な人間”になっていきたいです。今日の講演会はとても自分のためになったと本当に思います。

小さな子どもと遊ぶときなどに、今日の話を思いだして、やさしく対応してあげたいです。」

「今日、松居先生の話を聞いて心にのこったことは、園長先生がうさぎになってくださいと言ったとたん、お父さんたちがうさぎになったことです。園長先生は、お父さんたちをうさぎに変えることができてすごいし、お父さんたちは子どものために、はずかしがらずにうさぎになるのもすごいと思いました。ぼくは、この話を聞いて、弟がほしくなりました。」

「私は、『親になる幸せ』を聞いて、不思議な気持ちになり、同時に、早く大人になって子どもを産んでみたくなりました。私が今生きている。それだけで周りの人たちが笑ってくれる。それだけで幸せだと思いました。」

「ぼくの妹はダウン症候群で、上手く話せません。いろいろ困ることがありますが、ぼくは妹がいてとてもよかったと思いました。」

「ぼくは、親に幸せをあたえていると聞いて、安心しました。僕もはやく親になって、子どもから幸せを受けてみたいです。」

 

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日本人のボランティア精神・一億総活躍・-園長先生からのメール

チャリティー精神、ボランティア精神

熊本地震の報道を見ていて、この国はまだまだ、とてもとてもいい国だ、と思うのです。

いつ誰が言い出したのか、日本人は西洋人に比べて「チャリティー精神、ボランティア精神に欠ける」と言われます。私も講演でこんな質問を受けます。

「アメリカ社会の家庭崩壊の現状はわかりました。犯罪率も確かに日本に比べれば異常に高い。でも、アメリカ人はチャリティー精神に溢れ、ボランティア活動も社会に根付いているといいます。その辺の事も是非聴かせて下さい」。

もちろんアメリカ人にもいい人はいっぱいいます。私も30年間住んで、友達がたくさんいます。比較論としては「嘘も方便」ですからこういう噂は野放しにしておいても良いのです。日本が良い国であり続ければいいのです。より良い国になるために、「絵に描いた餅」でもいい餅は目指していいのです。しかし、欧米コンプレックスは時に日本の欧米化につながるので一応説明したくなるのです。

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公の場で行われるチャリティーコンサートやボランティア活動だけが「慈善、奉仕」ではありません。醤油の貸し借りから、交通費くらいしか出ない民生委員や保護士の活動、いろいろ問題はありますが町内会の会費、公園の草取り、ゴミ収拾所の清掃当番まで、居住地の定まった日本人の生活には社会的労働奉仕や慈善活動が深く関わっているのです。(最近は、急速に弱まって来たとはいえ、です。それは、心がこもっていない、批判する人もいるのですが、日本人は「形」から入るのです。)

 

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以前、日本の学校を視察に来たアメリカの校長先生が私に言いました。小学校で、掃除当番を見たのです。「日本人はさすがです。子どもを使って教育予算を切りつめているのですね。でも、あれをアメリカでやったら、親達から人権問題で訴えられますよ」。日本人は金銭感覚に長けていて、人権意識が遅れていると言いたいのです。子育てや教育に関する視点が根本から違う。この視点の差がある限り、お互いの持っている慈善、奉仕の概念は理解出来ないと思います。国を超えて「幸福度」を比べるなど、数字で幸福を測ろうとする西洋の学者が始めたこと。愚の骨頂です。アメリカ人の「慈善、奉仕」は確かに公に見えやすい。神に自分の心と行いを見てもらうキリスト教のミッションの歴史と、家庭中心ではなくなった社会がそうさせるのかもしれません。

社会における基本は「他人の心配をするより、まず自分の子ども、家族の心配をする」ことだと思います。家庭崩壊が進んだ欧米で、あかの他人に「慈善、奉仕」をしても、自分の家族と親身な交流がなければ、どこか本末転倒な感じがします。チャリティーの多くが、孤独な金持ちの免罪符か、企業のタックスシェルター(税金対策)ではないのか、と少し疑ってしまいます。(アメリカの税法は良くできていて、寄付行為によって、寄付した方も、寄付された方も、寄付する品物を売った方も、三者三様に利益が出るようになっています。)

私は神戸の地震と、その時のアメリカでのテレビ報道を思い出すのです。あの時アメリカ人が何に一番驚いていたか。それは「略奪」がまったくと言っていいほどなかったこと。地震やハリケーンなどの災害が大都市で起こった場合、アメリカ人がまず心配しなければならないのが「略奪」です。災害直後、州警察や軍隊によって治安が確保されるまでの間、普段から武器を持っているひ人々は拳銃やライフルを持って、壊れかけた家の屋根に登り、自分の財産を守ろうとします。(銃社会ですから、三軒に一軒は銃を持っています。気づいたのですが、韓国系移民の人たちは母国に徴兵制があって訓練を受けた人が多くて、銃の構え方が本格的でした。)

大きなハリケーンのあとのテレビニュースで言っていました。一般に、災害によるストレスよりも、略奪の心配をしなければならないストレスの方が後遺症が大きい。悲劇に見舞われている人を平気で襲おうとする人間の浅ましさが、より人々の心に大きなトラウマ(傷痕)を残すのだそうです。自然相手の天災より、人間同士の人災の方が、人間により激しい絶望感や怒りを覚えさせると言うのです。わかる気がします。家庭という信頼関係の基盤が失われていくと、より一層災害時の孤独感は耐え難いものになっていくのです。

「ボランティア精神」が美しいのは、それが利益のためではなく、他人を思いやる心から生まれているからでしょう。助け合い、に人間は「社会の成り立ち」を感じる。そして、その第一は、「災害時に略奪をしない」ことです。略奪をせず整然とボランティア活動が行われた神戸の状況を、なんと美しい光景だろう、と全米にニュースが繰り返し報道していたのを思い出します。

震災後の熊本の風景を報道で見ていると、いろいろ問題はありますが、この国はまだまだ底力を持っていると思えてくるのです。私は熊本の保育園の園長先生たちに知り合いが多いのですが、フェイスブックから伝わってくる他県の園長先生たちから数日うちに自家用車で届く支援物資の画像を見ていると、幼児をいつも眺めている人たちの結束の強さに、嬉しくなります。

「保育園落ちた、日本死ね!」などとは絶対に言ってほしくないのです。保育園が、政治家によって壊されそうになっているこの国を立て直す、鍵を握っているのです。

 

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一億総活躍、雇用117万人創出 諮問会議が具体案 

(2016/4/26付・日本経済新聞 朝刊)

「政府は25日の経済財政諮問会議(議長・安倍晋三首相)で、名目国内総生産(GDP)600兆円の実現に向けた具体案をまとめた。非正規労働者の賃上げなど働きやすい環境を整え、雇用を2020年度までに117万人増やす。賃金増による約14兆円の消費支出効果も見込むが、税や保険料を抑え可処分所得を増やす改革は具体策を欠いている。」

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結局これなんです。50万人3歳未満字を預かろうという「子ども・子育て支援新制度」は、この一億総活躍施策の一つの柱なのです。わかっていたことなのですが、雇用労働施策です。

10数年前に、経済財政諮問会議の座長が0歳児は寝たきりなんだから、と馬鹿なこと言って、雇用労働施策に保育を取り込み、それが現在の0歳児の事故の増加につながっているのです。 保育は子守り、誰がやっても同じ、みたいな感覚が未だに抜けないのがいまの政府の「子ども・子育て支援新制度」。小規模保育などは資格者半数でいい、と言うのです。小規模保育は3歳未満児を預かる施設です。こういう所こそ、規制緩和してはいけなかった。

「女性が輝く」も「活躍」も表面上つくろっているまやかしで、幼児の気持ちを無視するどころではない、国の施策で積極的に、幼児を母親から引き離すなどというのは、もう人間の人間性を無視している。こんなことを堂々と言われて、黙っているわけにはいかない。もちろん民主党の時も同じことを言っていたのです。共産党もだいたい同じようなことを言っているのです。ほとんどの政治家がこの国の魂とか、個性とか、伝統とかを考えずに、欧米式の平等論や、市場原理的、数合わせのような「ただ働く人間が増えればいい」という薄っぺらな経済論を鵜呑みにしているだけ。こんなやり方で、税収が増えるわけがない。過去10年間、保育所を増やし、保育時間を増やし、少子化の流れは変わりましたか? 働く女性は増えましたか?

(50代、60代の働く女性は確かに増えました。孫が保育所に行ってしまえば、そうなるのかもしれません。)

 

——-園長先生からのメール(本当に活躍している人)———–

 

松居先生

すっかりご無沙汰してしまい申し訳ございません。
新年度は、支援児以外で多動なお子さんがあり、目が離せませず、先生とのご連絡も役所の事務方に任せっぱなしで申し訳ございません。
私どもは、近くに「母子の家」がある関係上今年度も父親のDVで避難してきている園児や、一方母親の不安定で(母親の虐待でこれまで、何度も問題が起きました)、このGWの間、母親と二人きりの時間が多くなったであろうことを思いますと、明日いつも通り登園してきてくれるか心配な園児もいたりして居ます。問題の、父親、母親にしてもきっと幼いころからの積み重ねが、こうした行為となって表れてきていることを考えますと、周りの大人から、一人一人の子どものこの世への誕生が、祝福されたものであったら、わが子への虐待などには、つながらなかったであろうことを思いますと、卒園して15年もすれば成人の仲間入りとなる、目の前のこの子らの輝きを曇らせることの無い様、ますます保育担当者として身の引き締まる思いです。
ご講演をお願いしましてから、ご著書をいろいろ読ませていただきまして、このご講演後、保育現場にどう根付かせていくかが、大きな課題として迫ってまいりました。「いいお話を伺いました.良かったです」で終わりにならないよう引き続きご指導よろしくお願いいたします。
とりあえず、ご無沙汰のお詫びです。どうぞよろしくお願いいたします。

通常人間は、乳児にイライラしない・保育は元々選ばれた人たちがやるもの

通常人間は、乳児にイライラしない

絶対に一人では生きられない0歳児にイライラしたら、人類は成り立たない、とっくに滅んでいる。少し想像力を働かせればそれは誰でもわかる。哺乳類は成り立たない、と言ってもいい。動物たちの子育てを見ていれば感じること。

「逝きし世の面影」(渡辺京二著)の第10章「子どもの楽園」を読むと、150年前にこの国に来た欧米人が私たちに大切なメッセージを送ってくる。一人ではない、みんな送ってくる。日本人は5、6歳までの子どもを叱らない。イライラしない。子どもを社会で一番偉い人のように扱っている。崇拝している。そして、子どもは6歳くらいまで父親の肩車を降りないようだ。

男たちと幼児がこれほど一体の国はなかった、と欧米人が私たちに向かって証言してくれる。

インドの田舎で、人々の日常の生活を観察しているとわかります。本来、人類は乳幼児にイライラしない。あの人たちが何もできないことを当然のように受け入れる。それを受け入れることが、何万年にもわたって、人類存続の大前提になっていたのがよくわかる。しかもそれが、人々の幸せに直結していた。自分の存在(善性)が幼児の存在によって浮き彫りになる。

いま、これほど毎日テレビのニュースが映像で、人類の良くない部分をたくさん伝えてくるから、なお一層、先進国社会の人間たちは「自分のいい人間性」を体験する機会を増やさなければならないのだと思うのです。

首相が、40万人0〜2歳児を母親から毎日10時間引き離すことを「女性が輝く」と国会で言ってしまうことの危険性に気づかなければいけない。それを政治家やマスコミたちがまったく批判しないことに、人類の存続に関わる危険性をみなければ、この国の存在意味がなくなってしまう。

 

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保育は元々選ばれた人たちがやるもの

保育士の待遇改善が必要なのはわかります。しかし、いまの保育士不足の本当の原因は、そこにはない。親たちの、国の、マスコミの「子育て」に対する意識の変化が、保育士不足につながっている。つまり「子どもを優先にしていないじゃないですか」という保育士たちの気持ちが、いい保育士たちを保育から遠ざけているのです。

平等や権利のために「闘って当たり前」と思っている人たちが、「なぜ保育士たちはいままで待遇改善を要求してこなかったのか、保育士たちにも原因がある」と言うのです。日教組が時給2700円を非常勤に勝ち取っていたころ、保育士は時給850円くらいだったのですから、確かにひどすぎる話です。私も、「ストライキをやったらいい。幼稚園教諭がストライキしてもあまり影響はないかもしれませんが、保育士がやったら、国が震え上がりますよ」と講演で、少し冗談っぽく言ったこともあるのです。

でも、保育は元々選ばれた人たちがやるものなのです。学者や政治家や起業を目指すような人たちにはとても務まらない、任せられない、感性で響き合う仕事なのだと思うのです。学校の先生にもちょっと無理かもしれない。特に3歳未満児や障害児を一日相手にする保育はそうだと思います。それが上手な人たちは、とても選ばれた人たちで、きっと待遇改善の闘いに向かなかった。だからこそ、保育は気をつけて守ってあげるべき仕事で、保育士たちに対する特別な感謝の気持ちを親たちも持っていた。それがいま、政治家が保育を守ろうとしない、親たちが保育士に感謝しない。

この保育士たちの資質、多くの場合天性の資質を、競争社会に向かないからと否定することは、乳幼児を育てることに特別な幸せを感じる人たちの感性を否定することになる。その人たちが、喋れない、歩けない人たちと過ごす時間の価値を否定することになる。経済財政諮問会議の座長が「0歳児は寝たきりなんだから」と言った言葉を受け入れることになる。これは人間性の否定です。

経済学者なんかにわかりはしない、乳幼児との大切な時間を、この国は忘れてはいけない。この不思議な大切な時間が、世の中の幸福論を育て、生きる力を育んできたことを、この国は忘れてはいけない。

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知覧での講演・日本の伝統的家庭観・パラダイス

鹿児島県の知覧で講演しました

今回は行けませんでしたが、知覧には特攻平和記念館があります。私には、身の引き締まる思いで、若者たちの「思い」と向き合う、自分の人生を振り返る場所です。記念館の説明にこうあります。

「私たちは、特攻隊員や各地の戦場で戦死された多くの特攻隊員のご遺徳を静かに回顧しながら、再び戦闘機に爆弾を装着し敵の艦船に体当たりをするという命の尊さ・尊厳を無視した戦法は絶対とってはならない、また、このような悲劇を生み出す戦争も起こしてはならないという情念で、貴重な遺品や資料をご遺族の方々のご理解ご協力と、関係者の方々のご尽力によって展示しています。

特攻隊員達が二度と帰ることのない「必死」の出撃に臨んで念じたことは、再びこの国に平和と繁栄が甦ることであったろうと思います。」

遺書、遺品の展示の中に、一本の尺八があって、なぜかまだ若い尺八で、それがいつも語りかけてくるような気がするのです。

私も、この不思議な楽器を持って20歳の時にインドへ出ました。そして、いままでずっと一緒に旅してきました。

この若さで尺八を吹く人、というだけで、何かが私たちを引き寄せる気がします。

遺品として寄贈されたのかもしれません。でも、私は考えるのです。ここまで一緒に持ってきたんだ、と。故郷には置いてこれなかったんだ、と。そして、逝く前に毎晩、静かな音で吹いていたはず。

すると、みんながそれに耳を傾けて、月を見たり、目を閉じたりして・・・、とそこまで考えると胸がつまってくるのです。

そして、その人はこの一本の竹の笛をこの地に置いて、飛び立った。

何を守ってほしかったのか。

親、兄弟姉妹。息子、娘。この国の音色、この国の気配。

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伝統的家庭、この国の風景

伝統的家庭というと男が働きに出て女が家で子育て、と誤解する人が多いのですが、日本は違います。渡辺京二著「逝きし世の面影」(平凡社)第十章「子どもの楽園」を読むと、160年前、江戸の末期から明治の初期にかけて日本に来た欧米人がそれぞれ様々な文献に、日本の男たち(父親たち)が常に子ども(特に幼児)と一体になって暮らしている姿を、驚きをもって書き残しています。

日本人は幼児をしからない、崇拝する、と欧米人が書き残しています。それなのに、何で10歳にもなるとあんなにいい子に育ってしまうのか。幼児のいる風景が、日本の風景であって、それがよほど印象に残るのでしょう。日本が嫌いな西洋人でも、日本の子どもは好きになる、と書いています。江戸で朝、男たちが十人ほど座っている。それぞれ幼児を抱え子どもの自慢話をしている。日本の子どもは、5歳まで父親の肩車を降りないようだ。男たちが寸暇を惜しんで幼児と過ごすのが、欧米人がパラダイスと呼んだ国の日常の風景だった。幼児と過ごす喜びを堪能する男たちがこの国を支え、穏やかにしていた。

幼児を知るものは天国を知る、とイエスは言った。だから、欧米人たちはこの国を「パラダイス」と呼んだのでしょう。それが、この国の風景だった。

それを、少しずつでも取り戻していかないと、日本も「ただの先進国」になってしまう。それではあまりにも申し訳ない。

日本の男たちを、それこそ小学5年生くらいから、おじいちゃんまで、早く幼児たちの元に返してやらないと、と思います。それには保育園や幼稚園を使うしかない。幼児と人間を出会わせる場に「保育」がなっていけば、きっと自然治癒力が働く。

福祉に性的役割分担の代わりはできません・欧米社会における原点回帰・日本教育再生機構への寄稿・あるべき「保育」にむけて

2016年5月

福祉には男女間の性的役割分担の代わりはできません

先日、一人の可愛い女児(園児)をずっと抱き続ける男性保育士の話を聴きました。若手ばかりの小規模保育では、それを注意できる保育士がいない。どう説明してやめさせたらいいのかわからないというのです。解雇したら明日から困る、という現実。自主的に辞められても同様に困るでしょう。そして、もし解雇したとしても、資格を持った良くない男性保育士は、派遣会社に登録すればまたすぐ別の保育所で保育士になれる。(養成校が資格を簡単に与えすぎている。)

資格の価値が以前に比べ下がった状況の中で、男女平等というパワーゲームとマネーゲームの裏返しのような競争を助長する概念を、保育界という家庭の役割を果たさなければならない所に持ち込んではならなかった。

男性の実習生にはオムツ替えはさせない、という園長がいます。男の子相手ならいいのでは、という園長もいますが、年配のその園長はダメです、と言いきる。そして、自分の園に、男性保育士は採用しない。(この問題については、前にも、このブログに書きました。いい男性保育士にはとてもとても失礼なのですが、そういうものなのです、という園長の判断を私は支持します。すみません。)

それほど福祉の現場における性の問題は根が深く、そこに居る人たちの信頼関係と意思の疎通がないと、あってはならない風景が日常になってゆく。人材不足による質の低下がそれに拍車をかける。介護施設が犯罪者の隠れ蓑になっている、とまでいわれる米国における福祉に関わる人材確保の経緯を知ればわかるのですが、老人介護から始まり最終的には保育まで、「性」の問題は、福祉の広まり、子育てや介護の外注化と並行して必ず起こってくる。福祉という新たな仕組みに、男女間の性的役割分担の代わりはできません。障害児デイや学童も危ない状況になっています。

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なぜ、いまアメリカで専業主婦が十年間に10%も増えているのか。政府はもう一度考えてみる必要があると思います。性的役割分担が薄まると「家族」という定義が弱まってゆく。アメリカという市場原理の国で、それがわかってきた人たちが原点回帰を始めているのです。いま日本の政府が追いかけているのは40年ほどの前の欧米社会。社会学者が自分の研究と人生を肯定するためにしがみついている「平等論」は、欧米では家庭崩壊と並行し、すでに形骸化し崩れかかっている。現在のアメリカの大統領選や、ベルギーやデンマークで起こっている排他主義の復活を見ているとわかるのだが、状況はすでに一周し、未体験の分断が始まっている。

男女共同参画社会の本来の姿は、役割分担であって、東洋的陰陽の法則ではないか。手遅れだとは思いますが、欧米がそれに気づき始めている。

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日本教育再生機構への寄稿

以前、このブログにも載せたのですが、日本教育再生機構という安倍首相も創設に関わった機構の機関紙「教育再生」に二年前に原稿を依頼され、「育てること、育つこと」という文章を書きました。(八木先生には、感謝です。)ここに、もう一度載せさせていただきます。日本の「教育再生」には、先進国社会に共通した「家庭崩壊の進行」をどう食い止めるかが一番重要な鍵だと思っています。機関紙の性格上、政治家や厚労省や文科省の方々もきっと読んでくれるのではないか、と思って書いた文章なのですが、保育士不足、保育の質の低下の流れはいまだに止まりません。

(この中に、保育園保護者連絡協議会会長が公立保育園の民営化に伴う選定で株式会社系2園、社福系2園の視察に行く話が出てきます。その時の手紙に、この寄稿では字数の都合で書かなかったのですが、やはり男性保育士による良くない場面を視察現場で見た、という生々しい記述があり、会長がとても心配しておられました。選定に手を上げ、視察を受け入れている園でさえ、そうなのです。)

 

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日本教育再生機構用原稿 機関誌「教育再生」2014年、11月号

「育てること、育つこと」

元埼玉県教育長 松居 和

来年4月から、「子ども・子育て支援新制度」が始まります。内閣府のパンフレットの表紙に「みんなが子育てしやすい国へ」とあります。私はこの制度と、今の日本の保育をめぐる流れに強い危機感をいだいています。「待機児童」対策において、そのほとんどである三歳未満児の願いが反映されていない。乳幼児が保育園に入りたがっているのか、その次元での想像力が働かなくなってきたことが先進国社会特有の道徳心の欠如を招いているのではないのか。NHKで次のような報道がされていました。

厚生労働省によりますと、ことし4月時点の待機児童は全国で二万一三七一人で、去年の同じ時期より一三七〇人減り4年連続で減少したものの、都市部を中心に依然として深刻な状態が続いています。

 待機児童を解消するため、政府は平成29年度末までに新たに40万人分の保育の受け皿を確保する計画で、自治体も保育所の整備を急いでいます。しかし保育所の増設に伴う保育士の確保が課題で、厚生労働省によりますと、計画どおりに保育所の整備が進めば、4年後には7万4000人の保育士が不足する見通しだということです。

 このため厚生労働省は、今年中に「保育士確保プラン」を策定し、保育士の処遇の改善や、60万人を超えると推計されている資格を持っていながら仕事をしていないいわゆる「潜在保育士」の再就職を後押ししていくことにしています。厚生労働省は「共働きの世帯が増えるなか、保育を必要とする人も増えている。できるだけ速やかに受け皿を整備できるよう人材の確保に努めたい」としています。

4年連続で減っている「二万一三七一人の待機児童」を解消するために、「40万人の保育の受け皿を確保する」。この数字の裏に何があるのか。このような言葉や数字が繰り返されているうちに、「待機児童は問題」で「解消しなければいけない」という印象が人々の記憶に刷り込まれていく。それは本当に私たちの願いであり、望んでいる社会の姿なのでしょうか。

「受け皿」という言葉は、立ち止まって考えるとかなり危ない。真実に近く伝えるなら、「保育の受け皿」ではなく「子育ての受け皿」というべきでしょう。そうすれば、家庭や親の代わりになる「受け皿」は、そう簡単に存在し得ないのではないか、毎年入れ替わる派遣や非正規雇用の保育士でいいのか、「待機児童」解消は実は3歳未満児を母親から引き離すということではないか、と気づく人が出てくるはずです。

二つの問題があります。

一つは、待機児童を解消することが主目的となり、社会が健全であるために、子供はどのように過ごし、親はどのように子育てに関わるのがいいのか、その時期に親らしさや夫婦・家族の絆がどう育ってゆくのが自然か、ということが二の次になっていること。保育が雇用労働施策として繰り返し語られるうちに「子供は国や社会が育ててくれる」という考え方が広まってきた。「地域の子育て力」が人々の絆を意味するものではなく、保育や教育という仕組みの整備と見なされ、親子関係(社会の土台となるべき家族の連帯意識)が薄れてゆく。それは子供にとって不幸なだけでなく、社会全体から一体感が失われモラル・秩序が消えてゆくこと。誰がどのように子どもを育てるかという問題は、国家のあり方の問題なのです。

もう一つ、「計画通りに保育所の整備が進めば七万四千人の保育士が不足する」とある。一万人であろうと五千人であろうと、不足した時点で採用時の倍率が消え園長は人材を選べなくなる。他人の三才児を二十人、一人で八時間育てられる人間はそう多くはいません。一日平均十時間子育てを保育という仕組みに任せるのであれば、この選べない状態こそが子供にとっても親にとっても、保育や学校教育の将来にとっても一番深刻なのです。保育の質が低下し、親の意識が育たないと学校教育がもたない。

保育士の質

今年8月、千葉市の認可外保育施設で保育士が内部告発で逮捕される事件がありました。

千葉市にある認可外の保育施設で、31 歳の保育士が2 歳の女の子に対し、頭をたたいて食事を無理やり口の中に詰め込んだなどとして、強要の疑いで逮捕され、警察は同じような虐待を繰り返していた疑いもあるとみて調べています。

警察の調べによりますと、この保育士は先月、預かっている2歳の女の子に対し、頭をたたいたうえ、おかずをスプーンで無理やり口の中に詰め込み、「食べろっていってんだよ」と脅したなどとして、強要の疑いが持たれています。 (NHKONLINE 8月20日)

危機的なのは、この施設の施設長が虐待を認識していたにもかかわらず、「保育士が不足するなか、辞められたら困ると思い、強く注意できなかった」と警察に述べたこと。この状況が、程度の差こそあれ全国の7、8割の保育園で起っている。悪い保育士を解雇できない。その風景に耐えられず、いい保育士が辞めてゆく。致命的な負の連鎖が始まっています。

地域の保育園保護者連絡協議会会長から手紙をもらいました。公立保育園の民営化、保育への市場原理導入が進む中、民間委託を希望する法人園に、行政と一緒に行った視察先での話です。

民営化の選定で都内の園を計4園視察しました。2社が株式会社、2社が社会福祉法人です。株式会社は酷い有り様でした。建物は広めの一戸建てという造り。床面積を稼ぐためか、収納は全て吊戸棚。保育士が主導権を握って、子供の気持ちに関係無く時間配分で変えていました。0歳児クラスでは、離乳食の時、スプーンに入れたおかゆを上あごにこすりつけて食べさせていました。食べづらいだろうに……と涙が出そうになりました。別の子は泣いてコットに寝かされていましたが、保育士は全く見ず、手だけ後ろに回してバスケットボールのドリブルのようにコットをボヨンボヨンとバウンスさせてあやしていました。見ていられず、別クラスへ移動しました。その10分後に覗いてもまだ同じことをしていて、胸が痛みました。

 給食の試食では、会社のマネージャーが自慢げに「うちの園の給食ははっきりいって美味しくないです。親がマズイと思うのが狙いなんです」と言っていました。ごはんも堅すぎで、私でも食べるのに苦労したぐらいです。あんな給食を毎日食べさせられて本当にかわいそうでした。

子供の気持ちを考えず自分の都合で〝あやす〟保育士。心のこもらない保育が日常になってきています。子どもが活き活きしたら事故が起きるから三歳未満児には話しかけない、抱っこしない、と指示する園長まで現れています。こうした一日一日が、この国の将来を決めてゆく。

全国的にみれば、公立園でさえ保育士の6割が非正規雇用化され、民間でも資格を持たないパートや派遣保育士を雇わなくては成り立たない状況が起っています。これ以上「待機児童の解消」を至上命題として、「受け皿」の(掘り起こせば現場が迷惑する)「潜在保育士」を掘り起こし、規制緩和で性急に「保育士」を作り出せばどうなるのか。

私は講演で毎年全国を回っていますが、今年ほど保育界が混乱し、次の世代を育てるべき中堅保育者たちが定年を前に辞めてゆく年はないと思います。家庭保育室という名で百人規模の認可外保育園があります。役場の保育課長が諦め顔で「概ねで始まり、望ましいで終わるような規則で、乳幼児は守れません」と私に言います。子どもの安全を犠牲にした規制緩和に行政が対応しきれなくなっている。

実は、子はかすがいではなく、子育てが社会のかすがいだった。いま子育ての社会化で家庭崩壊はますます進み、DVや児童虐待が増え児童養護施設も乳児院も限界を越えています。

なぜこんなことになってしまったのか。十数年前に「サービス」という言葉が民間保育園の定款に入れられた時から親の意識が変わり始め、「子供の最善の利益を考え」と明記する保育所保育指針と矛盾し、摩擦を起こしているのです。「保育は成長産業」と位置づけ市場原理を導入し、その中核をなす新制度における「小規模保育の促進」で保育士の質はこれからますます落ちてゆくでしょう。保育で儲けようとする人たちが客を増やそうとするほど、本当に保育を必要とする子供たちの安全さえ守れなくなってきているのです。

先日、知人の議員が株式会社の運営する保育園に視察に行き、「お金さえ払えば24時間あずかるのですか」と尋ねると、「もちろんです」と説明に当たった社員が自慢げに言ったそうです。悲しげに言うならまだ分かりますが、社員がすでに人間性を失っている。市場競争において、保育「サービス」は幼児に対してのものではなく「親に対するサービス」と躊躇なく解釈されている。

志をもって一生懸命に取り組んでいる保育士の方々もたくさんいます。しかし、そうした保育士さんたちとお話をすると、「悪い保育士を良くするにはどうしたらいいでしょうか」という質問を受けます。保育士のイライラから起る「問題」や、本来はすぐに逮捕されるべき「犯罪」が日常化しているというのです。厳密に言えば、幼児の口に食べ物を運ぶスプーンの速度が幼児の願いを超えたとき保育はその良心を失う。親の知らない密室でその対象とされた子供たちが、この国を支えていくことができるのでしょうか。待機児童が増えようと、親たちから文句が出ようと、市長が選挙で何を公約しようと、良くない保育士はすぐに排除するという決意を社会全体が持たないかぎり、子供たちの安全を優先する保育界の心を立て直すことはできません。この国の未来である子供たちを守ることはできないのです。

大人の「教育」としての保育

そして一つ目の問題につながっていきます。

「子育てしやすい国づくり」が「待機児童の解消」=「保育園を増やすこと」とする考え方に、日本人が違和感を覚えなくなっている。「子育てしやすい」という言葉を使って、親が「子育て」よりも「仕事」を優先できるように、国が望んでいるのです。長い目で見て、本当にそれが経済対策になるのでしょうか。愛着関係の土台を築けなかった子どもたちが、将来戦力になるのでしょうか。

「子育て」は時々大変です。しかし、0、1歳児をみることは、数人の絆と信頼関係があれば、人々の心を一つにする喜びであり拠り所だったはず。子育ては目的や目標というより、人間が自分のいい人間性を知る、人類としての体験だった。一緒に子どもの幸せを願い、損得勘定を離れることに幸せを感じる、社会の安定に欠かせない学びだったはずです。その「大変な」子育てを社会化・システム化すれば、「絆」は薄れ、生きる力が失われ、学校教育や経済にまで影響し始める。この国の少子化の原因は現在二割、十年後三割の男が一生に一度も結婚しない、生きる力、意欲を失っていることなのです。人間を進化させてきた親としての幸福感が崩れつつある。男女共同参画の本質だった「子育て」が欧米並みに崩されつつある。このままでは男女間の信頼関係さえ育たなくなる。

「子育ての外注化」が欧米先進国社会の仲間入りであるかのように喧伝され、一方で、知らないうちに親に見せられない保育が広がっている。半数近くの子どもが未婚の母から生れ、犯罪率が日本に比べ異常に高く、経済的にもうまく行っていない欧米型社会は、けっして真似るべき社会ではない。

子供を、自分で育てられない事態に遭遇した親たちは、過去にもいた。これからもいる。人類は困難を乗り越え「絆」を手に入れて来た。しかし、積極的に子供を人に預け、それがあたかも普通の「子育て」と見なす社会はありませんでした。「子育て」は、子供を「育てる」という側面だけではなく、大人が親とし「育つ」機会でもあったからです。

私が、「3歳未満児はなるべく親が育てた方がいい」と言う時に、土台にあったのは「幼児たちの人間社会における特殊な役割を忘れてはいけない、幼児たちが社会に人間性を満たし、心を一つにする」という考え方でした。「子育て」を通して育つのは、他でもない大人の「親としての心」です。幼児を眺め、一緒に育てることが人間にとって最大の「教育」なのです。人間の心は、子を産み育てることで(産まなくても幼児に代表される弱者に関わることで)、忍耐力や優しさを身につけ、人間らしくなっていた。

幼稚園や保育園で幼児を眺めながら思うのです。頼りきって、信じきって、幸せそうな幼児たちの姿こそ、宗教の求める人間の姿ではなかったか。遊んでいる幼児たちから、人間は心のものさし次第で自分はいつでも幸せになれることを教わってきた。特に、この日本という国はそうだった。だから状況が欧米に比べ奇跡的にいいのです。利他の心が伝統的に生きているのです。

あるべき「保育」にむけて

最近「愛国心」という言葉がよく聴こえてくるようになりました。国とは、幼児という宝を一緒に見つめ守ることで生まれる調和だったはずです。その幼児を蔑ろにしながら、「愛国心」という言葉でまとまってもやがて限界がくるでしょう。

人生は自分自身を体験すること、しかも、たった一度だけ。だからこそ、過去の人たちの意識を重ねあわせることによって、より深く体験することができる。多くの人間が選択肢なしに、しかも疑いを抱かずにやってきたことはなるべくやってみた方がいい。幼児と数年しっかり向き合うこと、そしてそれを楽しむこと。これが人類にとって何よりも重要なことではないでしょうか。

 

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