演奏します。11月1日池上の實相寺でIAMの公演に客演します。

今年になって四度目の公演になります。
ディジュリドゥー奏者のノブ君と、ピアノの塩入さんと、パーカッション+ボイスの楯さんのグループIAMの公演にゲストとして参加します。11月1日金曜日19時30分から、大田区池上の實相寺です。
春に六本木のスイートベージルで演奏したときの曲、「漆黒」の映像が以下のアドレスで公開されています。

http://www.youtube.com/watch?v=pp611Jj-M7s&feature=player_embedded#t=246

この曲は私の担当の曲ですが、基本的に即興演奏です。
前々日にノブ君からメールで、「今回の和さんの担当する曲はタイトルが漆黒で、方角は北です」という不思議な伝言があり、「了解です」と返事をうちました。
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捧げ物の感覚。

つい最近まで何万年にもわたって、自分のために作られた玩具で遊び、自分のために狩られた獲物や収穫物を食べて育てられてきた遺伝子が構築していた社会が、どの次元で、どのようにつながっていたか。墓や人形、昔話を創り、意識のレベルで交流していた次元がどんな方法で支えられてきたか、それを探るような時間を持ちたい。


幼児期の、その子が神様仏様だった時代をしっかり見た人たちに囲まれて育ち、子どもは生き方を覚えていく。

一度信じきったその人たちに見守られ、人生の半分くらいを過ごすことが、許し許され、分ちあう社会を築いていたような気がする。


幼児期を知る人たちの重なりあいが人間社会をつくっていた。



古い友人から「祈りや音楽は、人間の根源にある潜在意識に目標を刻み込む作業です」というメールが着ました。主語を「幼児の存在は」と変えるととてもしっくりする。遺伝子がオンになるという表現でもいいですが、人間の体験がこのあたりで縦横に繋がっている。幼児との対話から子守唄が生れ、そこから祈りと音楽が分かれ、人間社会を作った。



ツイッター@kazu_matsuiから/主に保育・人間のこと、その7

 保育界に市場原理が持ち込まれ始め心配です。

 市場原理は、次世代を育てる「子育て」とは反対側の動機から出発しています。

 大雑把に言うと個の欲と利他ということでしょうか。会社を実力制にすると先輩が後輩を育てなくなるのと似ています。次世代育成の意欲は、利他の幸福観をベースにしています。同僚がライバルになると、一時的に業績が伸びることもありますが、やがて集団として、運命共同体としての幸福感が薄れ生産性も失われる。そして、生産性よりも、信頼関係や絆が希薄になることの方が社会全体にとってはもっと損失。欧米化が進み、自身を守るために多くが家庭という概念を捨てざるを得なくなる。すると、強者の論理が一気に加速し始める。 学校という仕組みの中で「こんどのお父さんは、こんどのお母さんは」という会話が日常会話になってゆく。30年前に欧米で起こったこの変化が、いま日本にも来ようとしている。親子を早いうちに引き離そうとしようとする経済優先の流れの中で。

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 子育てを社会化し、子育ての段階から一対一の関係を希薄にし、子どもからの信頼を失ったうえに、しかも経済活動の活性化のために強者の論理を持とうとすれば、格差社会を作り徐々に家庭を崩壊させてゆくしかない。

 これから人類を覆う殺伐とした市場原理の中で、遅れて来た発展途上国の親子関係に依存して、しばらくやってゆくのでしょうが、これさえも、ITの普及ですぐに限界に来る。このスピードに人類は対応出来るのでしょうか。出来ないことを前提に、この国は準備期に入るべきではないでしょうか。

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 子守唄を歌うことは、人間が自分がどういう存在で居たいかを宣言することです。

 または、自分がどういう存在であるかを相対的に体験することです。

 先進国ではすっかり歌われなくなりました。なぜでしょうか。音楽や踊りではなく、言葉が感性の主導権を握ったからでしょうか。人が、自分の子どもだけではなく、他人の乳幼児と過ごす時間が絶対的に減ったのが一番の原因だと思います。幼児が主張する古(いにしえ)の法を、いまの時代に翻訳し伝えるのが保育士の役割かもしれません。文字が書かれる前から刻まれている古代の法。ナルニア国物語やトールキンの指輪物語は、この存在について繰り返し言います。ピーターパンやトトロが時代を超え社会に影響を与え続けるのもこの法の実証でしょう。それは歌い継がれるもの、踊り継がれるもの。

 最近は、「子どもを預けて仕事して、母親も輝かなければいけない」という言葉まで出て来るのです。「行政が保育園を拡充しないから輝けない。子どもがいるから輝けない」という方向にこの国の意識が進んでいる。

 実は、輝ける仕事なんて滅多にないですから、結局ほとんど誰も輝かない。信じきって、頼りきって、確実に人間を輝かせることが出来るのが幼児たちなのに。「安心して子どもが預けられる環境づくり」という言葉を誰かが言うほどに、それは遠のく。なぜ解らないのでしょうか。その環境づくりが、結局親心の喪失、子育て回避につながり、将来子どもにとって良くない、と預かる方(保育者たち)が気づいている。

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 「心配してくれる人」を周りにつくり育てながら、子どもは成長してゆく。安心してではなく、「気楽に子どもが預けられる環境」がそれを忘れさせる。育てていれば解りますが、子どもは、ハラハラ、ドキドキ、オロオロしながら育てるもの。安心して子育てしている親はたぶん居ない。だから政府の「安心して子どもが預けられる環境づくり」という言葉は実はとても恐い。自分には出来ない事を専門家ならやってくれるのかも、と人間は希望的推測をしたがる。安心するために。幼児が私たちに特別な体験をさせてくれる時期はアッと言う間に過ぎてしまいます。

 中学や高校のPTAで講演すると、何となく保育園に入れてしまった、という親が結構います。決意と決断で決めた人はいい。世の風潮や社会の流れでするともう取り戻せない。三才児神話を否定した厚労省は猛省してほしいと思います。神話が存在する意味をよく考えてほしいと思います。