シャクティの子どもたち

 先月、インドのシャクティーセンターにシスター・チャンドラを訪ねた時のこと。

 私が五年前ドキュメンタリーを撮った時いた踊り手たちが、子どもを連れて集まってくれました。シスターが声をかけてくれたのだと思います。ダリットの娘たちはたいてい親戚同士で結婚するのですが、2時間バスを乗り継いで来てくれた子もいました。ちょっとした同窓会になって、みな嬉しそう。母親になった彼女たちはちょっとどっしりしていて、踊っていた時とは違った輝きと存在感がありました。

 以前、保育の問題を考えていて思ったのですが、インドの母親は知らない人に乳児を手渡すことは絶対にしない。ところが、知っている人、信頼関係にある人に自分の子どもが抱かれることをとても喜ぶのです。
 その風景を見ていると、人間社会の信頼関係の根っこのところに、何千年もの間、乳幼児がいつも座っていたような気がするのです。
 乳幼児が、人々の信頼関係を築き、橋渡しをし、確認させ、過去と未来を共有させてきたように思えるのです。
 保育士と親たちの信頼関係をどうやって作ってゆくか。これは、即ち子どもたちにその役割、地球上にいる存在意味を果たさせてあげる、ということなのですが、子どもたち(これは老人も含めた絶対的弱者と言い換えることも出来るのですが)が、視点の中心になった時、人間性が復活してくるのだと思うのです。
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あの頃リーダーだったメリタ。
いつも大太鼓をたたいていた。
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私が一番好きだったダンサー、セルバ。フレッド・アステア風、と私は勝手に決めていた。
ストリート系の踊り手には、持って生まれた何かがある。
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はにかみ屋のカレイ、実家の人間関係に苦労し一度家を出て親戚の家にいた。
でも、とても良い伴侶に恵まれた。
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        貧しいのに、子どもたちは、みな、育ちがいい感じがする。

「シスター?チャンドラとシャクティの踊り手たち」から、映像のメッセージ。

オープニング http://youtu.be/YXk7xexQR8I    

セルバの結婚観    http://youtu.be/h3OpPP_JY_g           

 

memoから

 1歳3ヶ月くらいで、息子がお辞儀を覚えた時のこと。

 いつもやってくれるわけではないけれど、やってくれるととても優雅で、いい感じです。私しか見ていないと、もったいない気がするのです。見損なった人には、ぜひ見せたくなるのです。もう、それは、平和や美や真実を、わかちあいたい、という感じです。

 

親子関係にハッピーエンドなんてない。お墓とか、記憶とか、形見とかに体現される、魂の次元のコミュニケーションが存在しなければ。

 

赤ん坊が、数年かけて左脳である言語脳を発達させている時に、親は赤ん坊という特殊な存在と付き合い、感性を発達させている。祖父母に、より感性が必要な理由…。

幼児との体験が不足し、社会的に感性が欠如している団塊の男たちが、…。


 

人間たちの出会いの中で、親子の出会いほど決定的で不思議なものはない。一生をかけての出会いである。春夏秋冬を受け入れるように、これを通り抜けて、自然(Nature)と一体になる。その出会いには選択肢がない。そこで人間は運命という言葉を意識するようになる。

人間はいま、選択肢があることに苦しんでいる。


 

幼児と過ごした記憶を強く持つことは、人間の感性とコミュニケーション能力を高め、その幼児の発達を見て、現実が過去と未来を含むものだと意識する。  

音楽が存在するように、

ジョーンズ夫人のこと

 テレビで、ズービン・メータがN響相手にベートーベンの第九を振っているのを見ていて、ふと、ジョーンズ夫人のことを思い出した。

 ジョーンズ夫人は、有名な建築家クインシー・ジョーンズの夫人だった。クインシーは南カリフォルニア大学の建築学部の学部長までつとめた建築家。アジア、特に日本の建築や文化を愛し、「格子」が好きだった。彼の作品のひとつUCLAのリサーチライブラリーは「格子」がテーマになっていると思う。アジアを旅して彼が描いたスケッチには、人間たちがお互いの人生を引き継ぎながら長い年月を重ねて磨いてきたセンスに対する憧れと尊敬があった。
 私が、建築家の友人を通してジョーンズ夫人と知り合ったころ、クインシーはすでに他界していた。(A.Quincy Jonesで検索すると彼の作品がたくさんでてきます。)

 ジョーンズ夫人は、家具デザイナーのチャールズ・イムズ夫人と中がよかった。ちょっと不思議な凸凹コンビだった。なぜか私は色んなイベントに呼ばれたが、いつも二人は一緒だったような気がする。ジョーンズ夫人はもとジャーナリストで、おしゃれなインテリな感じがしたが、イムズ夫人はいつも自然に飛んでいた。ジョーンズ夫人が目を輝かせ、、ちょっと大人びた中学生で、イムズ夫人が何にでも驚く小学生、という感じだった。
 最近、震災の状況を心配してロサンゼルスから電話をかけてきた大事な友人から、ジョーンズ夫人が亡くなった時のことを聴いた。100歳近くになっていたはずだ。
 サウスセントラルの病院で亡くなったという。サウスセントラルと言えば、ロサンゼルスでも治安の悪い地域だった。なぜ、最後があそこだったのかわからない、と彼女は言った。もっと、良い病院に入っていてもいいはずだと思ったそうだ。
 訪ねた時は、一人で、ほとんど意識はなく、ただ看護婦が最近インド人が一人訪ねてきた、と教えてくれたそうだ。
 「ラタンだと思う」と友人は言った。
 「そうだね」と私も電話口でうなずいた。
 ラタン・タタは、ひょっとするといま世界中で一番のお金持ちなのかもしれない。インドのタタ財閥のトップだった。物静かな、誠実な人で、顔立ちがちょっとズービン・メータに似ている。(Ratan Tataで検索すると出て来る。)
 ラタンは、仕事でロサンゼルスに来ると、必ずジョーンズ夫人の家に泊まった。大きな白い納屋を改造した家で、自分が設計した家ではなく、納屋を改造して住んでいたところがクインシーらしかった。ラタンはクインシーのファンだった。クインシーが他界した後も、デッサンがたくさん飾られている納屋によく泊まった。
 32年前、ジョーンズ夫人とラタンは、友人と私が住んでいた家に夕食にきたことがあった。大学を卒業したばかりで、イーグルロックという治安の良くない地域にみすぼらしい家を借りて住んでいたのだが、二人はやってきた。夕日の入る家だった。そこで、友人がカレーを料理した。ラタンは、そのインド式のカレーを少しはにかみながら食べたように思う。
 あの夕暮れの時間は確かにあそこにあった、と近頃考える。
 人の交流は不思議な点で結ばれる。ラタン・タタがサウスセントラルの病院にジョーンズ夫人を訪ねたことは、誰も知らないのかもしれない。
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仙台からのメールです。

「そんな中でも春はきました。

大変なことばかりを数え上げるときりがないですが、今の私にできることは子ども達を元気にすることだと思って毎日を過ごしてます。

保育士としては当たり前のことですが、それが大人を元気にし、長い目で見れば復興につながるのでは‥と勝手に解釈してるところです。」

たぶん、こういう時だから子どもを眺めて大人たちが癒されるのだと思います。

子どもたちの明るい声や、笑顔に励まされ、この子たちのために、と立ち上がる、考える、絆を作る、それが直接的な日々の幸せになってゆくのだと思います。

遊んでいる子どもたちを眺めること、それが何千年もやっていた癒しでありリハビリテーションなのだと思います。