日本の危機・家庭型児童養護施設「光りの子どもの家の記録」が伝えること・母親の涙

「光りの子どもの家」の菅原哲男氏の本から、もう少し

家庭型養護施設「光りの子どもの家」の菅原哲男氏の著書「誰がこの子を受けとめるのか」:この本を読んでいると、主観的に「子育て」を捉えなおす指針になる。子育てを仕組み(保育、教育、施設、福祉)の中で考え、待機児童、学力、少子高齢化、年金、税収といった数字を元に施策が進められようとしている時に、「育ち」の意味を、もう一度、仕組みの中でさえも原点に戻し、一個人の人生とそれに関わる人たちそれぞれの思いとして伝えようとしている。

保育界が保育士不足と市場原理に追い詰められ、その質、というか、育てる側の心の健康を保つのが年々困難になってきているいま、施設や仕組みによる「子育て」の難しさと限界を知る意味で、忘れてはならない視点、重い証言だと思うのです。

親が親らしさを失いつつある現状では、親身になると保育士が精神的にもたない、でも、親身にならないと、見えないところで仕組みの本質が崩壊してゆく。(北欧で、国民が傷害事件の被害者になる確率が日本の20倍。)

 

202頁に「子どもと関わる」という章があります。

三才までの人生を乳児院で育った子と、いい環境とは言えなくても乳児期に家で親に育てられた子が家庭型養護施設で育てられ高校生になり、乳児と関わった時の実話と菅原先生の考察が綴られています。

それを読んでいると、三歳未満児の保育園での保育を雇用労働施策の一環として安易に奨励する国の施策が恐ろしくなってくるのです。保育園児は毎日家に帰ります。乳児院や養護施設のように日々の生活が親と離れている環境とは異なります。でも、そこで行われる「子育て」の限界、その意味や意図、理由が似ている。これだけ長時間、しかも乳児から預かれば、保育園は家庭の役割を果たさなければならない。しかし、何か遺伝子の中に深く組み込まれている、人間が社会というパズルを組むときの隠された法則のようなものが、「光りの子どもの家」の試行錯誤、その限界の中に垣間見える。

人間にとって、乳幼児期に愛着関係や独占欲を満たされないことがいかに決定的か。それが決定的であることが見えにくいから、「光りの子どもの家」からの証言が重要な原点になってくる。数年前に、当時の厚労大臣が「子育ては専門家に任せておけばいいのよ」と言った発言が対極に見えてくる。

「専門家」が言う、専門家という言葉に騙されてはいけない。彼らの思考の中には、菅原さんが書くような決定的瞬間は一瞬たりとも存在していない。

 

菅原さんが、その章で書いたことを要約します。

三才まで乳児院で育った世話好きな高校生亜紀は、乳児の由紀が可愛くて仕方ない。その亜紀がある日自分の部屋で哺乳瓶にジュースを入れて飲んでいた。少ない小遣いから哺乳瓶を買って一人で飲んでいた。そして、同じように乳児院で育った高校三年生の嬉は、食欲が落ちてゆき、ある日、保母にリンゴをすってくれと頼む。保母にそうしてもらっている乳児が羨ましかったのでしょう。そして、一歳半の乳児がこの二人には寄り付かない。三歳まで親に育てられた高校生には懐くのに、この二人には懐かない。疑似家族のような関係の中で、施設に入所する以前の乳幼児期の体験の差が「育てる側の立場になった時に」浮き彫りになる。

菅原さんが書く、乳児期の「個別的継続的な養育者との関係」の欠如が高校生になっても、人間関係、特に幼児との関係に深い影響を与えている光景を知ると、政府が積極的に3歳未満児を保育園に預けることを奨励することの危険性をひしひしと感じます。

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(2014年、4年連続で減っていた「二万一三七一人の待機児童」を解消するために、「40万人の保育の受け皿を確保する」と政府が言った。そして、減らしても減らしても、政府の意図と親の意識の変化に沿うように、待機児童は増えている。政府の意図がいつか修正されても、親の意識がマスコミの報道によって連鎖し始めた時、それはもはや修正できないのではないか。乳幼児期の保育は「個別的継続的」関係ではありません。保育士との比率は1:3か1:6。そして複数担任。しかも半年、一年で担当保育士が変わる。加えて、施策に追い詰められた園長が保育士に、乳児を抱っこするな、話しかけるな、と指導する保育さえ現れているのです。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=779)

 

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個々の人生には、それぞれ異なる出会いがある。育ちあいの可能性は確かに無限です。幼児期にこういう育ちかたをしたから人生が必ずこうなる、ということはない。しかし、イジメや不登校、教師や保育士の職場離脱、一般の職場でも三年続かない新入社員が増えていることなど、「育てあい」「育ちあう」人間の営みが、親身になる機会を奪われ、悲鳴を上げ始めている。問題は多岐にわたっていますが、男たちが結婚しなくなったことも含め、社会に自然治癒力や自浄作用が働かなくなっている。この国でも、欧米の後を追うように家庭崩壊が加速し、社会の空気が荒れ始めているのは、多くの人たちがすでに感じていることだと思うのです。その原因は、全般的な幼児期の愛着関係の不足にあるのではないか。「光りの子どもの家」からの証言が、そう語りかけてくるのです。その原因は、全般的に、「幼児を眺める時間」が不足しているからではないか、と私も思うのです。

 

保育士養成校の先生がこんなことを言っていました。

「以前は、誰かを幸せにしたいと保育科に学生が来たが、今は、自分が幸せになりたくて保育科に来る」

子ども相手なら幸せになれるかもしれない、と思って来ても、子どもが言うことを聞いてくれないとイライラし、すぐに不幸を感じてしまう。予測する力、想像力が欠けているから、どうしていいかわからなくなる。子どもを幸せにすることで幸せになる、というもっと深い、古の伝統的幸福感が欠けてきている。「育てる側の思い」が逆転し始めている。

 

3歳未満児保育をなくせというのではありません。もういまの社会には必要だから、そして、親に任せておくと子どもが危ないから、乳児院さえ存在する。しかし、幼児期の母子分離がどういうことなのか、フロイトやユニセフの白書を読まずとも、社会全体で常識として把握していないと、このまま進めば社会で補う限界はすぐに来る。

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イジメや体罰の問題にしても、憎しみは、愛され満たされたいという飢餓感と表裏一体です。孤独感が往々にして「他の幸せを許せない」という行動につながる。そして、同年齢の子どもたちが不自然に集められている学校という仕組みの中で、互いに抑えが利かない状況にまで進む。教師たちがその子たちを愛し、世話し、その飢餓感に応えるには限界がある。しかしその努力をしないと授業が成り立たない。教師は、もう逃げ出してもいい、とさえ思います。その方がいいのかもしれない。

学校へ入学する前に、親たちをそこそこ親らしくするしか学校が成り立つ道はない。保育は子育てであって「サービス」ではない、ということを政府と行政が親たちに宣言し、親たちの人間性や育ちを保育者たちが日々の出会いの中で見極め、いくつかの義務と責任を課してゆく。卒園後も続くような親たち同士の絆を、保育園・幼稚園を中心に作ってゆく。こうしたことをすぐにでも始めないと、今の状況下で育った子どもたちがどんどん社会の不良債権になってゆくのです。もう、時間がない。

 

母親の涙

私立の保育園で講演しました。講演が終わって、空っぽになった保育室で一人の母親から相談を受けました。子どもが言うことをきかない、と言って泣いています。聴くと、園ではいい子で大丈夫。家で、お母さんと一緒になると我がままになる、まとわりついて離れない。色々尋ねると、父親は、いい親らしいのです。

「あなたはいい母親だから、子どもが一緒にいたいんです。仕事を辞めることは出来ないのですか?」とたずねると、看護士ですからいま辞めても、また復帰することはできます、生活に困っているわけではないです、と言います。

遠慮していたのか、部屋から出ていた父親が問題の2歳の男の子を抱っこして近づいてきます。父親にしがみついているその子を見て確信しました。なぜ、母親が泣いていたのか。母親も、息子と一緒にいたかったのです。

「いい機会でしたね。2年くらいでいいですから、一緒にいてあげて下さい。今日ここで私に質問したのが運命だと思って。この園を辞めても、子どもをおぶって園に手伝いに来てください。この子を知っている人たちと縁を切らないように。もうその人たちはこの子の財産ですから」

それを聴きながら、父親が少し笑顔になります。

園長先生にあとで、「どんな質問でしたか?」ときかれ、その会話を伝えると、園長先生が本当に嬉しそうな顔をしました。

 

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講演依頼は matsuikazu6@gmail.com まで、どうぞ。

愛されることへの飢餓感・荒れる児童

愛されることへの飢餓感

 

養護施設光りの子どもの家の菅原哲男先生の書いた本「誰がこの子を受けとめるのか: 光の子どもの家の記録」

(虐待を被けた子どもは、いつか大人になって自分の子どもを虐待する親になる!―そんな常識化した負の連鎖を乗り越えるために。子どもを受けとめる「家族の力量」「社会的養育の力量」がいま問われている。家族の愛に等しい養護をめざした「光の子どもの家」十九年の記録。)

を、もう一度、読み返しています。

いま、政府が「保育の受け皿」「雇用労働施策」という言葉を使って、(女性が輝く、という言葉も使って)もう50万人0、1、2歳児を親から引き離そうとしている時に、もう一度読まれなければいけない、現場からの貴重な証言だと思います。この国が成り立つために、乳幼児期の人間関係(特に親子関係)に、何が求められているのか、

菅原さんは書くのです。

「職員が旅行に行ったら担当している子どもにしかお土産を買わない、そうでなければならない」

「みんなと一緒、を子どもたちは極端に嫌う」。

 

(平等の対極に親子がある。そうだろうな、と思います。:松居)

 

「『仕事で子どもを愛せるか』これは光りの子どもの家の当初からの課題である。」

「養育に最も欠けてはならないエッセンスは労働とは次元の違う無償の行為なのである。」

 

(ここから松居です。)

児童養護施設で過ごす人間たちの時間が、社会に向かってそう叫んでいます。『仕事で子どもを愛せるか』。政府が閣議決定で「保育は成長産業」と位置付けたいま、「保育界」が思い出さなければいけないエッセンスだと思います。労働にはちがいない。しかし、そうした経済的な仕組みが作られる以前の、もっと古いきまりが「子育て」のエッセンスとしてあった。その次元の人間のつながりが欠けてくると、人間社会は成り立たない。だから保育士は子どもたちを愛さなければならない。

菅原さんは書きます。

「何よりも愛されることへの飢餓感、ある者は不感を疑わせるほどに愛を知らないできてしまった時間の長さに、関わりの手がかりさえ見当たらない」

菅原さんが受け止めようとしている子どもたちの「愛されることへの飢餓感」は、確かに普通(尋常)ではないかもしれない。でも、私が中学校へ講演に行き、肌で感じる子どもたちの幼さも、その延長線上にあるのだと思うのです。この本を読んでいると乳幼児期の愛着関係がいかに決定的かが見えてきて、いまの政府の施策が恐ろしくなる。道徳教育なんて浅い次元の問題ではない。愛されることへの飢餓感、それがいじめや不登校、少年犯罪や理解できない犯罪の根底にあるような気がします。

菅原さんがあとがきに書きます。

「この本では、親の愛に溢れる最初の『受けとめ』がなければ、子どもは育つことができないこと、母親(またはそれに代わりうる人)の『受けとめる愛』を失った幼児たちは心も体も『凍りついている』ことを切実に訴えています。

『光の子どもの家』の幼児たちが学童期を迎え、青春前期を経て大人になるあいだに、どんな苦しみと哀しみの経験を超えて『生きる力』を身につけ、社会へと旅立つことができるようになったのか。その記録は同時に、今を生きるすべての子どもたち、これから生まれてくる子どもたちに何が必要なのかを伝える大切な参照の経験になっています。」

菅原さんがこれを書いたのが二十年前(本になったのは十三年前)。これほどの証言が児童養護施設という、子育てにおける最後の砦から発せられているのに、なぜ政府は幼児と親の関係を「負担」とみなしたり、「社会進出」を妨げる「壁」と言ったりするのか。現在の子ども・子育て支援新制度の元になる「新システム」が形づくられた時、それを進めた厚生労働大臣が「子育ては専門家に任せておけばいいのよ」と言った。そして、もうその頃から、中学の先生が「私たちは保育をしている」と私に言い、園長が「保育園は仮養護施設状態に追い込まれている」と言っていた。

このままでは学校がもたない。保育園ももたない。共倒れになってゆく図式はすでに見えているのに、「待機児童をなくせ」というかけ声だけが選挙の度に響く。0、1、2歳児は保育園の前で「ここに入りたい」と言って待機はしていない。それを思い出さない限り、仕組みの崩壊は止まらない。

 

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荒れる児童

 

以前、新聞に、文科省の小学生の問題行動調査についての記事が出ました。「反抗、暴言、荒れる児童」(社会のひずみ、ストレスに)という題名(毎日新聞)。「小学校教諭からは悲鳴が上がり、専門家は『荒れの背景には貧困など社会のひずみが子どものストレスになって表面化している』と指摘」とありました。

いま、入学前の子どもにストレスとなっている「社会のひずみ」は、貧困が直接的な原因ではなく、財政・人材不足の中で拡張と質の低下を余儀なくされた保育現場と、「子どもは誰かが育ててくれるもの」という意識で園長や役場の職員に無理な要求する、第一義的責任という常識を失った親たちの増加だと思います。親として育ち切っていない親の増加が、集団保育や教育を介して全ての子どもたちのストレスになってきている。貧困は、そうしたストレス社会が生む副産物と捉えるほうが正しいのではないか。

発展途上にある未だ保育制度が整っていない貧しい国々の小学生は暴言を吐かないし、それほど荒れてもいない。家庭における愛着関係がしっかりしていれば、子どもはそんなに荒れない。

義務教育が整って間もない発展途上国の学校が秩序正しく安定しているのを見れば、先進国が直面している「社会のひずみ」は、貧富の差とは別の次元の、親子の愛着関係、社会における信頼関係の不足が原因であって、それによる子どもたちの不安感が学校における「荒れ」を引き起こしていることがよくわかります。子どもたちが、精神的な安定、そして行き場を失い、荒れている。

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未成年者による、人間性を問いたくなるような事件が起ります。

労働力を増やすために政府がもう40万人三歳未満児たちを保育施設で預かれ、と数値目標を立て、「親と居たい、誰かを独占したい」という、喋れない、主張できない弱者の願いを無視する政策をとり続ければ、こうした問題を起こす予備軍は増え続け、責任の目を向けられる教育現場が追い込まれていく。

愛着関係が希薄だった子どもたちの寂しさや悪意に対する反応はすばやい。肌が繊細に、敏感になっているから、なおいっそう愛情を養分にしようとしてもがく。だから学校に入って、教師たちの視線の温度差がより決定的になってしまうのです。そして、その要望と視線に、教師たちの決意が追いつかない。

気づいてほしい。三歳までの子どもたちの日々の過ごし方が、この国の未来を決める、ということに。

厚労省が出した保育所保育指針解説書というのがあって、その最後にこう書いてあるのです。

「保育所は、人が『育ち』『育てる』という人類普遍の価値を共有し、継承し、 広げることを通じて、社会に貢献していく重要な場なのです。」

そのとおり!

そうであってほしいと思いますし、そうでなければ人類が危うい。そして、幼児たちを眺めながら、人類普遍の価値を人間に教えてくれるのが彼等なのだということに、再び、気づかなければいけません。

「嫌なら転園しろ」・保育士のメイド化・保育者と親たちとの間に、「一緒に子どもを育てている」という感覚を忘れたように、溝が広がっていきます。

保育者と親たちとの間に、溝が広がっています。「一緒に子どもを育てている」という感覚が薄れて、サービス産業的な関係が広がっています。

 

「保育園落ちた日本死ね!」ブログの保育界へのインパクトは大きかった。あれを機会に政治家やマスコミが待機児童問題を一気に取り上げたのだから無理もないのですが、この報道を境に、役場の窓口や現場の保育士や園長・主任に対する親の言葉使いが急に荒くなった、とよく言われます。言葉を荒げ、乱暴にクレームをつけ、強引に主張すれば通る、という意識が一部の親たちの間に広がっている。

保育現場も行政の役人も、親に向かって「あんたの子だろ!」とは言えない。(というツイートを私がしたら、以下のツイートが返ってきました。)

『逆に待機児童がいる地域では、保育士の態度が横柄になっているという話も。「嫌なら転園しろ」「入りたいならそれ相応の誠意を見せろ」みたいな感じで。世の中難しい。』

こういう親に対して横柄な、嫌な親の子どもには「仕返し」をするかもしれない保育士が、20人の三歳児を8時間保育し、その中に二人多動の子供がいたら、保育室は修羅場になってしまう。キレる、怒鳴る、小突く。親は、朝と夕方5分間目をそらして、我慢すればいい。しかも、そこに子どもを入れたのは自分の決断です。自分の責任。その「自分」に目をつむればいい。でも、子どもたちはそこから逃げられない。それが一日10時間、年に260日、運命のように続く。選択肢はないのです。自分の決断でもないのです。

この時期に、こういう保育士に一年間担当されることで子どもの一生が変わる(かもしれない)。生まれつきの繊細さゆえに、一生その時のトラウマに怯える子どもがいる(かもしれない)。小学5年生くらいで、親にキレるようになる子どもなど、反応の仕方は様々ですが、その時親たちは、どうしてそうなるのかわからない。その子どもが体験した幼児期、その子どもの周囲にいる子どもたちの幼児期を、親が知らないからです。

以前、こういうキレる保育士を、「◯◯先生呼んでくるよ!」と園児を脅す道具に使っている光景を見ました。これではもう◯◯先生は保育士ではなくナマハゲ。ナマハゲも年に一度大晦日に来るならわかりますが、毎日ナマハゲと出会っていたら、それは心の傷、人間不信になって子どもの人生に存在し続ける(かもしれない)。

家庭における虐待が、世代を超えて連鎖するように、幼児期の体験は、それほど子どもたちの将来に影響を及ぼすのです。そして、悪い保育も連鎖する。

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「保育士がメイド化していますよね」というツイートが来ました。

 

住み込みのメイド・乳母だったらまだいいのでしょう。アメリカの富裕層は子育てを中南米からの違法移民の女性に代わってもらっている、と言う報道が、20年ほど前にアメリカでされていたことがあります。

お金持ちの住む地域にある公園は、昼間、スペイン語で話す幼児連れの住み込みメイドの集いの場になります。違法移民を取り締まる法律をつくった上院議員たちの多くが、子育てを違法移民に頼っているのではないか、という報道がされたこともありました。パワーゲームやマネーゲームに浸かっている高学歴の頭のいい親たちが育てるよりも、心が人間的で素朴な違法移民に育てられたほうが子どもにとってもいい、しかもバイリンガルになる、という計算も働いています。お金があれば選択肢はある、強者に有利な社会の象徴のような現象です。

しかし、今の日本の保育士不足と養成校へくる学生の質を考えれば、保育園で1対4とか、3歳児1対20はもう無理、限界にきていると思うのです。

以前、外国人労働者を雇っている東京都の認可保育園で、園長が新入りの保育士に「0歳児は言葉がわからないから外人でいいのよ」と言ったのを思い出します。

もちろん、外国人労働者の方がより人情味があって幼児の成長にいいこともあります。でも、保育という仕組みの中で園長がこれを言うことは、この国の保育に対する認識が「子育て」から外れ始めているということ。

小規模保育所からの転園児を避ける保育園があります。「自分の園で保育した子なら、責任を持てるのですが」、と園長先生は顔をしかめます。充分に抱っこされていない、話しかけられていない、どんな保育をされていたのか見えない。そして、受け入れて気になるのは、保護者が育っていないこと。みてもらう、やってもらうのサービスに慣れていて、子育ての主体は家庭という意識が薄い保護者がいる。

ーーーーーーーーーーツイートやメールがきます。

『SIDSも不安で、皆、乳児クラスを離れて休憩などできません。何か事故があると「保育士何してた?」と批判されている。でも、皆いっぱいいっぱい。「休憩とってました!保育士一人で見てました」って言ったら?暗に保育士は(特に乳児)休憩なんかないぞ!と言われている』

『保育を知らない自治体が政府の方針に沿って進める幼稚園の子ども園化を見ていると、その安易さに怖くなります。3歳未満児を預かることは命を預かること。それを自覚していれば、保育士不足のいま簡単に引き受けられることではありません』

『3歳未満児保育所に勤務していた昔、卒園し幼稚園に通う子が登園を嫌がり、保育所経由で私が幼稚園に送った。受け入れる教諭の様子から、当時から叫ばれていた幼保一元化は無理だと悟りました』

よくわかります。あるこども園の主任さんが、幼稚園は子どもが始めて出会う社会、保育園は家庭の代わりをしなければならない、と言っていました。子どもの成長にとってそれほど家庭と社会の「役割」は大切です。だから難しい。境界を崩してはいけない。

 

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私のツイッターに、私が保育園に子どもを預ける親の不安を煽っている、という指摘がありました。

現状を考えると、乳幼児を預けるならしっかり不安を感じて欲しい、と思います。国の施策はけっして幼児優先の施策ではないことを知ってほしい。経済優先で、幼児の安全さえないがしろにしている、と伝えたい。本来、自分の赤ん坊は、自分の親に預けるのだって、親友に預けるだって不安なのです。それで当たり前。それを思い出してほしい。

保育園という国が認可している仕組みだから安心、という論理に根拠がないことに気づいてほしい。その上で、「一緒に育てている」という感覚を保育士たちとの間に持ってほしい。

でも、その先が、いま見えない。

 

「女性活躍」はウソですか 配偶者控除廃止見送り

 「ああ、また。やっぱりね」。政府が配偶者控除の廃止を見送ると知った働く女性の多くは、こう感じたのではないか。

 

という新聞記事。「経済活動」だけが「活躍」ではない。それに、マスコミが気づかないと幼児の存在はますます希薄になってゆく。

 

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私が書いた、「米国におけるクラック児・胎児性機能障害(FAS)と学級崩壊」http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1428に、こんなメールをいただきました。

5才の保育園児の母です。

私は離婚して、仕方ないとあきらめて預けています。今通う保育園は、怪我さえしなければ良いという考えのみです。ごあいさつも皆でしません。親達も共働きですが、やはり生活レベルを少し下げる(海外旅行とか)をしたくないから預けてる人が多いのに驚きました。

保育園も責任逃れの為のルール作りと言い訳に力を注ぎ、親達も「子供は任せたはずだ! 」と、ネグレクトみたいな責任逃れをしています。

私は、保育園の我が子にたいしてのみ発言権が有るので、区役所や子育て支援センターに無理をしてでも相談に行きます。親です。大事な人格形成です。コミュニケーションの前にモラルとマナーだと思うから。

結果は、当然 ! モンスター扱いされ、子供に保育士は仕返しをしてきます。

保育士も子育て中の親です。保育園に預けてる方もいます。

「預かってやってるんだ、有り難いと思え」ですね。

依存症等の原因がなくとも、周囲の大人の接し方で発達障害の疑いにつながる成長になります。子供に責任は有りません。産み育てられる、こんなに幸せな事は有りません。産み育てるのは、親です。産む覚悟とは、育てぬき一人の人間を創る覚悟だと思います。産まれてくる子供たちの、育ち行く時の気持ちを、思いやってください。

地域の母子に、もっとお節介に「お酒はだめだよ。」「煙草はやめなきゃだめよ~。」と、昔ながらに関わってあげてください。

産まれた後も、母子は周囲の方に感謝し、頼りに出来れば孤独から依存症やネグレクトにはなりません。

長く、支離滅裂かもしれません。お読みくださって、ありがとうございました。

 

松居 和

ありがとうございます。とてもよくわかります。どういう保育園、どういう保育士に出会うかで、親子の人生が変わってくる、ますますそんな状況になってきました。問題は多面的で、複合的で、だからこそ数人でもいいから、絆をつくり、一緒に祝ったりすることで、その絆を深めてゆくしかないのだと思います。シングルマザーも、子育てに専念するという選択肢が選べるようになっていなければ、本当の子育て支援とは言えません。

「子供に保育士は仕返しをしてきます」。そうあってはいけないのですが、現実ですね。それを親が知らないのも怖いのですが、知ろうとしない、というところまできている。

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子育てから生まれるはずの、社会に必要な絆や信頼関係が、いま「子育て」を真ん中に崩れようとしている。

「子育て」を「女性の社会進出(?)」の「壁」と勝手に決めておいて、その「壁」を産んでくれ、産むために結婚してくれ、そうしないと経済や年金や社会保障が維持できない、と言うのです。

その「壁」こそが、一番幸せそうに生きている、一番幸せそうに生きることで人間たちの「目標」となる人たちだったのだ、ということを、もう一度思い出してほしいと思います。

 

常識として知るべき、親たちに知らせるべき、乳幼児保育施設の現況

認可外保育施設の現況

 

 雇用均等・児童家庭局 保育課による報道機関に対するプレスリリース、「平成25年度 認可外保育施設の現況取りまとめ」〜施設、入所児童数ともに増加、ベビーホテルは減少〜 http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/0000080127.html、を読みました。

 平成25年度、ベビーホテルの新設・新設把握158カ所、廃止・休止158カ所。その他の認可外保育施設は新設・新設把握474カ所、廃止・休止331カ所とあります。これを、「ルポ 保育崩壊」(岩波新書)で語られる保育の質の低下の実態と照らし合わせてほしいのです。以前、著作に書いたことがあるのですが、なぜこれほど新設と廃止が多いのか。この仕事は、単なる思い込みや儲け主義では成り立たない、幼児の成長や家族の人生に関わる仕事です。だからこそ計画通りにはいかないし、人材が集められなければやってはいけない。コンサルタント会社が儲け話として煽るような種類のビジネスではない。(http://kazu-matsui.jp/diary/2014/11/post-193.htmlhttp://kazu-matsui.jp/diary/2015/01/post-261.html

 「把握」ということばが使われているのは「把握」していない状況がかなりあるということではないか。コンビニならまだしも、保育施設がこれほど継続が不安定な状況でいいはずがない。なぜそうなるのか。5年ほど前から保育界を追い詰めている慢性的な保育士不足を考え合わせれば、そこに明らかな無理と不自然さが読み取れるのです。保育所はどんな形であれ、日々の乳幼児の成長、そして日本の未来に関わる重要な施設なのです。

 もっと驚くのは「立入調査の実施状況」です。

 ベビーホテルの未実施数が26%、その他の認可外も26%。繰り返し全国紙で事故や事件が報道されているのに、未だに「未実施」がこれだけあるなどあり得ない話です。不手際というより、政治家やマスコミの怠慢。幼児に対する人権侵害ともいえる、あまりにも雑な保育行政です。国の安全保障については毎日報道されるのに、乳児の安全保障に関しては以前からずっとこんな状況です。政府の「あと40万人3歳未満児を保育施設で預かれ、そうすれば女性が輝く、活躍できる」という施策に水を差したくないのでしょう。

 保護者たちに知ってほしいのは、この報告書に、立入調査を行った施設に関して、指導監督基準に適合していないもの、ベビーホテルが50%、それ以外の認可外保育施設が37%と書いてあること。それに対する指導状況は口頭指導文書指導がほとんどで、公表:0か所、業務停止命令:0か所、施設閉鎖命令:0か所です。こんな状況だから、ルポ 保育崩壊で報告されているようなことが起っているのです。

 保育園に対する行政の立入り調査は抜き打ちではありません。前もって準備や手立て、隠蔽が可能な立入り調査です。調査官の目の前で子どもを叩いたり怒鳴ったり、口に給食を押し込んだりする保育士はいない。つまり保育の実態は、事実上ほとんど把握できていないのです。それでも確信犯的に乳幼児の日々の安全、安心を脅かす違反がこれだけあって、公表も業務停止命令も施設閉鎖命令も行われない。こんな仕組みだから宇都宮のような事件が起り、それが賠償訴訟になる。http://kazu-matsui.jp/diary/2015/03/post-273.html

 (保育それ自体の質を行政が現場で確認できないなら、保育施設における正規、非正規、派遣の割合い、どのくらいの頻度で保育士が辞めてゆくか、その理由くらいは調査し、保護者に発表すべきです。いくら待遇のいい保育園でも、保育士の離職率がとても高い園があるのです。保育士が使い捨てになっている園があるのも原因なのですが、保育の内容、園内の風景に耐えられなくなっていい保育士が辞めてゆく、そんな園が増えています。)

 こんな現状でさらに保育のサービス産業化、一層の規制緩和を進め、総理大臣が、あと40万人保育施設で乳幼児を預かります、と国会で宣言すること自体がおかしい。国家の安全の根幹を見誤っている。

 子ども・子育て支援新制度を進める内閣府のパンフレット、その「すくすくジャパン」というタイトル、「なるほどBOOK」というタイトルの趣旨や思惑に翻弄され、保育園に預けておけば大丈夫、と思ってしまう親たちがたくさんいるのです。

「みんなが、子育てしやすい国へ」というキャッチフレーズが馬鹿馬鹿しく、虚しい。保育の質を整えず、ただ子どもを親から離し保育施設で預かる数を増やせば、それが「子育てしやすい国」だと政府が言う。この国は、そんな国であってはいけない。道徳教育とか愛国心などと軽々しく言わないでほしい。愛国心とは、すべての子どもたちに責任があると人々が感じる心。政府の子育て施策に愛国心が欠落しています。

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「花束を贈ろう」・宇多田ヒカルさん・不思議な次元のコミュニケーション

花束を贈ろう

NHKの番組で「人間・宇多田ヒカル、今、母を唄う」を見ました。終わってしまいましたが、朝ドラ「ととねえちゃん」の主題歌「花束を君に」を歌っている歌手で、母君は、私たちの年代には印象的な藤圭子さん。

亡くなった母の存在、そしてその意味を語る真摯な姿と、歩んだ道、作詞で磨かれた選ばれた言葉と語彙にも素晴らしく、感動しました。作詞と音楽という次元も重なり、母子関係というものをこれほど端的に、感性の世界から深く語った光景を見るのは初めのような気がしました。

インタビュアーが、お母さんの存在は巨大ですね、と聞いたのに答えて、巨大なのは母親だからです、と間髪入れず答えた表情に、何か、通り抜けてきた人を感じました。

そして、人格や人間性が形成される乳児期、そこから自分の人生や行動が生まれているはずの、謎のような闇のような時間、自分が覚えていない人生の最初の2、3年を、自分の子供を育てることで体験する、たぶん自分の行いとか悩みの源になっているはずのその闇さえもそこに感じて、腑に落ちた、と言ったのです。凄い人だなと思いました。

母になった娘だから体験できた、母親と一体になって、アーティストとしても伝えている伝言が歌の中に聞こえました。

女性でなければ体験できない、男性が体験すべきでない伝承があるのでしょう。よしもとばななさんの小説に、その辺のことが書かれているのを読んだ記憶があります。読んだだけですけど。こうした不思議な世界を知ろうとする時、宇多田さんの表現は、文字に加え音楽も重なるから、次元が広がって説得力があります。

全てを包み込む何かに納得した、という風に聞こえたんです。それを単純に「感謝」という言葉に表したのですが、そこへ到達するまでの自分が産んだ子ども、乳児との日々の積み重ねの中に「腑に落ちた」一体感があったんでしょうね。母親との。

だから、「どんな言葉並べても真実にはならないから、今日は贈ろう 、涙色の花束を、君に」という歌詞が生まれたんでしょうね。

6年間、歌手生活を休業していて、その間にお母さんが亡くなって、そのあと妊娠・出産していなければ活動をまだ再開できていなかったかもしれない、と言っていました。

言葉では無理だから、「花束を贈ろう」・・・。それが、いつか、すべてのことの答えになってほしい。当たり前なのですが、こういうやり方は、人間にしかできない。不思議な行為だということにあらためて気づくのです。言葉を話さない乳児との会話が、こういう次元のコミュニケーションに気付かせるのです。

命がつながってゆく景色を見た気がしました。感謝です。

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米国におけるクラック児・胎児性機能障害(FAS)と学級崩壊

2016年10月

米国におけるクラック児・胎児性機能障害(FAS)と学級崩壊

 

以前、保育誌にも書いたのですが、子育てが人々の生きがいの中心から外れ始めた時に起こってくる社会の仕組みの機能障害を、市場原理と義務教育がどのように連鎖させていゆくか、米国で起きた一つの例を挙げます。

 

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保育の市場原理化、そして規制緩和ともいえる「子ども・子育て支援新制度」が去年施行され、5年後にその影響が小学校へ上がっていく。親の意識の変化も含め、幼児期の体験は数十年に渡って連鎖していきます。

経済優先の施策の影響が、5年後に義務教育の入り口に到達する。そして、制度や仕組み、社会全体に広がった流行によって起こされる波に、学校教育がすでに対処しきれなくなっているのです。保育や学校、民主主義という仕組みでさえ、親が親らしい、幼児がその役割を社会の中で果たせる、という前提のもとに作られていることを忘れてはならない。親たちの子育てにおける責任意識と協力なしに学校教育を教師たちが維持するには限界がある。

「子育ては学校がやってくれて、学校で起きたことは自分たちの責任ではない」と考える親が一定数出てくると、学校は突然その機能を果たせなくなってくる。

新制度が施行され一年、各地で役場の人が言うのです。0歳児を保育園に預けることに躊躇しない親たちが突然増えている、と。

人間の遺伝子に組み込まれている長い進化の歴史における体験の積み重ねが、突然一部の政治家や学者の乱暴な施策によって壊され始める。経済競争の邪魔だと見なされた「社会の常識」が崩されてゆく。それが、義務教育で縦横に連鎖していく。欧米の状況と日本のいまの違いは、日本では「自分で育てられるのなら、自分で育てたい」という母親が、15年間まで9割居たこと。そして欧米では、30年前にすでに、未婚の母から生まれる子どもが3割以上いたこと。

日本で「自分で育てられるのなら、自分で育てたい」という母親が7割にまで減っている。豊かさが主な原因とは思いますが、いまの保育施策を考えると、政府主導で減らされている、経済施策に踊らされているとも言えるのです。人々の意識が弱者を守ることから離れ、それによって社会全体の安心感が薄れ、モラル・秩序が失われてゆく。

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胎内で覚せい剤に犯される子ども達−クラック児

 

(以下は、「胎児性機能障害(FAS)と学級崩壊」も含め、20年前に私が書いた文章からの抜粋です。いまでは当たり前になった、妊娠中のアルコール摂取の危険性についての告知が、日本では、まだされていなかった頃でした。保育雑誌に連載し、著書「家庭崩壊・学級崩壊・学校崩壊」:エイデル研究所刊、にも掲載しました。)

 

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母親の胎内で「薬物・覚せい剤」に汚染され、生まれながらに中毒症状を持っていたり、脳障害、機能障害に蝕まれる子ども達の問題は、FAS(後述)と同じように、以前からアメリカで問題になってはいました。しかしその問題がハッキリと実感となって教育界を襲ったのが今から十年ほど前(現在からは30年ほど前)です。

5年前に急速に広がった「クラック」という覚せい剤(通常粉末のコカインを気体にして吸引するドラッグ。覚せい剤の市場を一気に広げる役割を果たした。)、極めて短時間に効果を現し、廉価いうこともあって、あっと言う間にアメリカ全土に広がりました。このクラックに母親の胎内で汚染された子ども達が1990年に5歳になり学齢に達したのです。

1985年ににクラックが最初に広がったニューヨーク、ロサンゼルス、マイアミといった大都市では、その年、こうしたクラックによる機能障害をもった子ども達の第一波が一斉に学校に入学しました。

ある程度予期されていたことではありました。しかし当時、財政赤字削減に伴う賃金カットや、教師の人員削減、音楽や美術の授業の廃止に直面していた公立学校にとって、この新たな重荷は打撃でした。言語障害や行動に異常のある子ども達を何人か一度に教室に抱えた教師たちの多くが、こうした子ども達を扱う特別な訓練を受けていませんでした。しかもクラックの過去6年間における広がりぶりから、クラックの影響による障害児たちは1995年まで増加の一途をたどることが予測されました。こうした子ども達のほとんどが、通常のクラスに入学することになるのです。ニューヨーク市だけをとってみても、このクラック児と呼ばれる子ども達は、9年後には72、000人に達する見込で、この子ども達に対する応対に教師たちはエネルギーを使いはたし、一般の子ども達に対する配慮がますます行き届かなくなることが容易に予測出来ました。

こうした覚せい剤に胎内で犯された子ども達の存在は以前から指摘されていたことですが、それがこの年ほど大きな波として、一気に増えた例は過去になく、あきらかに6年前のクラックの発明普及と直接結びつけて考えることができました。

障害の特徴としては、運動機能障害、行動に一貫性がなく、物忘れが激しいアルツハイマー症に似た症状があったり、感情の抑制が効かず集中力がないなど、FASの特徴に酷似していました。

特別学級に入った子どもの数。(クラックが広がる以前、以後)

ロサンゼルス

1986−87:4370

1990−91:9405

ニューヨーク(一年差で)

1989−90:3645

1990−91:4604

マイアミ

1986:1384

1990:2707

 

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胎児性機能障害(FAS)と学級崩壊

「生まれる前から虐待される子ども達」

学級崩壊について書こうとすると、避けては通れないのがFASの問題です。(以下、当時のアメリカで全国的に放送された特別ニュース番組と新聞報道からの情報からまとめたものです。)

FAS−Fetal Alcohol Syndrome−(胎児性アルコール症−−妊娠中の女性による飲酒が胎児におよぼす様々な影響を総括してこう呼ぶ)が、アメリカで大きな社会問題となっています。

妊娠中のアルコール摂取は、発達障害児の産まれる原因として、最も可能性の大きいものと言われています。様々なお酒の一般家庭への普及に伴い、FASの子どもがいま世界中で増えつづけています。特に若い女性のアルコール消費料が飛躍的に伸びている先進国社会では、FASを囲む状況は深刻なものとなってきています。日本でも密かに増えているのではないでしょうか。

妊娠中に女性がアルコールを飲むと、産まれてくる子どもの知能や運動能力に悪い影響があることを最初に文章にしたのはアリストテレスだと言われています。それほど昔から人類はFASの存在に気づいていました。しかし、アルコールはほとんどの国々で、日常生活、文化と密接に結び付いており、また一定の確率で精神的肉体的障害を持った子どもが産まれることを、人間社会は受け入れてきました。加えて、胎児の脳および肉体の正常な発達が母親の体内において損なわれるFASは、症状の出方に差があるため、現代医学でもなかなか病名が特定されることがありません。妊娠中のアルコール摂取量に関してもどこまでが安全かは、明らかになっていません。

FASが社会問題として初めて真剣に扱われたのは、ジンが急激に普及した十八世紀の英国でした。しかし、胎児が胎盤を通してアルコールにさらされることが、脳障害や肉体的障害の非常に有力な要因となることが、医学的科学的に論議されはじめたのは1970年代になってからのことです。

現在、アメリカで酒類を置いているレストランやバーに行くと、入り口を入ったところに、「妊娠中にお酒を飲むと、障害児が産まれる原因となります。」という政府による強い警告が必ず貼ってあります。 母親が、妊娠中にお酒を飲まなければFASは防げるからです。

アメリカでいま、自分の子どもがおかしい、普通ではないと思う、でも何がおかしいのかわからない、という親達が増えています。

知能の遅れ、自制心に欠陥がある、集中力がない、落ち着きがない、突然暴れだす、奇声をあげる、友達が作れない、作ろうとしない、抽象概念がわからない、危険性を認識できない、読み書きが優れているのに時間の概念がわからない、原因と結果、物事の因果関係が理解できない、想像する能力がない、熟睡できない、食欲がない、運動能力が発達しない。専門家による報告、医学書に書かれているFASの症状だけでもこれだけあります。

妊娠中のどの時期に、つまり胎児のどの部分が発達しようとしている日に(または瞬間に)、母親がアルコールを飲むかによって、FASの症状はまったく異なってくると言われています。妊娠45日目に母親がアルコールを飲めば、45日目に発達しようとしている能力、器官に影響が現れるのではないかと言われています。妊娠初期は顔を形作る時期といわれていますが、脳は妊娠期間中、常に発達を続けます。そして母親がアルコールを飲めば、それがまんべんなく子どもの脳まで回るというのは疑いのない事実なのです。

(FASを肉体的特徴で見分ける手段として専門家が使っている方法に、目と目の間隔と眼孔の長さのバランスを計る方法があります。また上唇が薄く、鼻の下が平たく広いというのもFASの特徴と言われていますが、これらの身体的特徴は、その調査がアメリカで行われているものですので、アジア系の人種にそのままあてはまるものではない可能性もあります。)

現在アメリカで特に問題となっているものは、症状として際立った肉体的欠陥が見られず、子どもの行動に異常が出る種類のものです。この種のFASは、その原因を後天的なもの、つまり成長期の環境、特に親のしつけの問題と勘違いされやすいというやっかいな問題を抱えています。(これは裏返せば、FASが社会的に知られれば知られるほど、後天的、環境的原因を持つ子どもの問題行動が、FASつまり先天的なもの、治癒できないものとして片付けられ、親達のより一層の子育て放棄を生むという危険性をも意味しています。)

妊娠中にアルコールを大量に飲む母親は、出産後も良い母親ではない場合が多いため、FASの子どもの多くが、その行動を、劣悪な家庭環境の結果とみなされてしまいがちです。その症状の多様性、そして後天的なもの、しつけの問題と見なされやすい周囲の環境によってFASは長年ベールに包まれたままでした。それが最近になってにわかにクローズアップされてきた原因の一つに、アメリカにおける養子縁組みの普及が上げられます。

 

「養子をもらった親達の悲劇」

子どもが出来ない、出産を体験したくない、結婚したくないけれど子どもはほしい、養子縁組みを希望する親達の理由は様々ですが、その多くが経済的に裕福で、子どもを育てることに熱意をもった、良い親になろうという意欲のある人達です。しかし皮肉にも、もらわれる子ども達の多くが、子どもを捨ててしまったり、産んだあと引き取らなかったり、母親が親権を放棄した結果施設などに預けられた子ども達、子育ての意欲のない母親によって産み落された子ども達です。子育てに意欲を持たない母親の子どもが、意欲を持っている別の大人に渡され育てられる。この一見合理的にみえる制度が、いまアメリカ各地で様々な悲劇を起こしています。

子どもを養子にもらって、さあがんばって立派な子どもに育てようと、幸福感に浸っている。ところがしばらくすると、その子どもが間違った行動をしてしまったり、言うことを聞かなくなる。一体自分の育て方の何がいけなかったのだろうと親達は戸惑います。そんな状況がアメリカのあちこちで起こっています。

悲劇の原因は、子どもが実の母親の体内で過ごす10ヵ月にあります。子育てに意欲を持たない母親の体内で、すでに子育ては始まっていたのです。

現代社会はまさにアルコール漬けの社会です。アメリカにおけるアルコールが原因の死は、毎年10万件といわれ、覚せい剤による死亡数よりはるかに多い数字です。薬物以上にアルコールは社会にとって危険なのです。1800万人がアルコールで問題を抱えていて、5人に2人が一生のうちにアルコールが原因の事故に遭遇すると言われています。

そういう社会状況の中、産んだ子どもを自ら放棄してしまう母親がアルコール依存症である確率が非常に高い。アルコール中毒という問題を抱えている母親は、自分の世話が出来ない大人達と言ってもよいでしょう。

FASではないかと診断された養子の産みの親を追跡調査していくと、しばしばその母親が、妊娠中重度のアルコール中毒患者であったことが判明します。中には病院で子どもが産まれたときに、母親が酔っ払っていたというケースさえあります。

500人に1人と言われているFASの子どもが、養子縁組みをした子どもに集中したことで、妊婦によるアルコール摂取の危険性が改めて社会に大きく報道されたのです。

 

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アメリカインディアンとFAS

 

もう一つ注目すべきことは、アメリカインディアン(ネイティブアメリカン)の中にFASが多いという事実です。

アメリカインディアンはアルコール中毒患者が非常に多いという歴史的特徴を持っています。大自然と一体になった精神文化を長い間維持してきた人達が、現代社会に適応出来なかった結果といえるかもしれません。アメリカの奴隷史を見ても、インディアン達だけは奴隷に出来ませんでした。特有の自由な精神が奴隷という立場に適応できず、無気力になり自ら死を選ぶようなことがよくあったそうです。居留地をあてがわれ、有り余る時間と少しの金を政府から毎月与えられ、子育てと伝統的生活様式、価値観を否定された部族が、アメリカ社会に背を向け、アルコール依存症になってしまうのかもしれません。インディアンが集中して住んでいるニューメキシコ州のギャロップ市におけるアメリカインディアンたちのアルコール中毒率は、全米平均の6倍になります。 そうしたインディアンたちの子ども、インディアンから貰われた養子の間にFASが集中しているのです。

アメリカにおける最近のLearning Disabilities(日本でLD児と呼ばれていますが、直訳では、「学ぶ能力に欠けている子ども達」)の急増が、FASと判断されつつある背景には、こうした母親の妊娠時の行動調査があります。そして、FASの子どもを知らずに授かった親達は、やがて育児に疲れ、子育てを放棄し、多くのFAS児がホームレス(路上生活者)になったり、売春や犯罪に関わったり、犯罪の犠牲になっている。

FAS児には、盗むという概念がわからない子どもがいます。学校で人のものを取ったり、嘘をついたり、十代になると社会との摩擦が頻繁に起こり始めます。親は子どもを叱ります。ここでの悲劇は、そうした行動の原因が、子どもを叱ったからどうなるというものではないところにあります。

FAS児には、誰を信用していいかわからないといった症状の子どもがいます。そうした子ども達は、性的いたずらの対象にされる場合が少なくありません。

FASの研究者は、非常に不自然な犯罪を犯した受刑者、突然人を撃ってしまい現場からまったく逃げようとしなかった殺人犯などを、刑務所で調査した結果、FASと認定できる犯罪者がかなり含まれているとの結論を出しています。FASは脳障害であり、犯罪者に善悪の判断を下す能力が備わっていない場合や、突発的に判断能力を失ってしまう状況が起こりうるのです。

東京消防庁の調査(20年前、執筆当時)では、飲み過ぎによる急性アルコール中毒で病院に運ばれる女性が急増しているそうです。その半数が二十代の女性です。計画的な出産が減ってきている現在、妊娠を知らずにお酒を飲んでしまう女性もいるでしょう。FASの危険性がもっと社会に認知されてよい時代に入っていると思います。せめてアメリカのように、お酒類を置いている全ての店やレストランに警告が出るくらいは早急になされなければならないでしょう。広く警告が発せられているアメリカにおいてさえ、この問題は増加の一途をたどっているのです。

家庭におけるしつけの問題が叫ばれ、落ちこぼれを拾いあげる態勢の弱さを学校教育が問われている現在、FASの問題に社会全体が取り組まなくては、すべてが後手に回る。今のところFASに治療法はありません。不治であることを親に宣告することが、果たして子どものために良いのか、という難問が必ずクローズアップされてくるでしょう。

自分のしつけの問題として終わりのない苦闘を続ける親達には、原因が親達の人間性に起因するものではないと知ることは、ある意味で救いになります。しかしそれは同時に、妊娠中の自分の行動が、我子に取り返しのつかない傷を与えてしまった、という現実を知らされることでもあります。こうした状況を招くことを予想しながらも、この問題には正面から取り組まなければなりません。なぜならFASは予防できるからです。

妊娠中にお酒を飲まなければいいだけなのです。

 

(日本の酒造業者はコンサートホールなどを建てて、文化に貢献していると言いますが、それよりも妊娠中のアルコール摂取の危険性についてのキャンペーンを自ら率先して行ってもらいたいものです。日本政府が、訴訟国家アメリカで、ここまで徹底されているレストランやバーにおける危険性の告知をしないのは、業界からの圧力によるものでしょうか。マスコミがこの問題を取り上げようとしないのは、大口スポンサーである酒造業界への配慮でしょうか。しかしFASはすでにその存在が充分証明されているのです。アメリカでは学級崩壊の引き金となっているのです。お酒は文化の一部です。人間関係におけるその役割は重要です。しかし、最近の日本における女性による飲酒の増加は、将来の教育システムの存続を考えると、かなり危険なところまできていると思います。LD児と呼ばれる子ども達の増加が、幼稚園保育園でハッキリ現れ始めてからでは手遅れです。)

(FAS、クラック児、PCBの胎児への影響、ウイリアムス症。染色体やDNAと機能障害の関係はまだ未知の分野です。しかし、防げる方法があるのなら早めにやっておく、という姿勢が大切です。学校は既に様々な問題を抱え崩壊の危機に直面しているのですから。)

ーーーーーーーーーーーーーここから現在に戻ります。

 

アメリカにおけるクラック児の報道でもわかるように、家庭の本来の機能が弱まるほど、義務教育における学級崩壊が子どもの(親子の)人生に及ぼす影響は大きくなります。アメリカの小学生の十人に一人が学校のカウンセラーに薦められて薬物(向精神薬)を飲んでいる。カウンセラーと薬物がないと画一教育・学校教育がすでに成り立たない。そして、このカウンセラー(専門家)が薦める薬物が、将来麻薬中毒、アルコール中毒につながっているという研究もすでに終わっています。それでもなぜアメリカの義務教育が「薬物」から逃れられないか。「家庭」という義務教育を支える基盤が崩れてしまったからです。

学級崩壊は、人類にとって、学校が普及しなければ存在しない新たな問題です。将来への影響、連鎖という視点で考えれば、未知の問題と言ってもいい。学校教育と市場原理が、クラックというちょっとした発明を、とんでもない影響にまで広げる、それが現代社会の特徴です。

FASの問題についても同じことが言えます。人類は、もともとこれほど頻繁にお酒を飲みませんでした。妊婦がお酒を口にする機会にいたっては非常に稀だった。(自然界に存在するものはあったとしても、覚せい剤もまだ発明されていなかった。)そして、ここが問題なのですが、飲酒を薦める「市場原理」がまだ働いていなかった。そういう時代には予測できなかった新たな子育てに関わる問題に、待った無しで、対処しなければならない時代に私たちは生きています。

いまでは日本でも当たり前になり、酒類のパッケージなどには必ず書いてある「妊娠中のアルコール摂取に関する警告」が、アメリカで義務として法制化されてから35年になります。この法律が義務教育を守るためには不可欠という認識が社会全体に生まれ、マスコミも繰り返しそれを取り上げた。日本では、その警告が現れるのが二十年以上遅れました。しかも、いまだに業者の自主的な警告でしかない。いつかは絶対にしなければいけない政府による警告が、国の仕組みの中でこれだけ遅れている。どうしてそうなるのか、国民は考え、マスコミや学者はしっかりその仕組みを調べるべきなのです。

そうした国の姿勢や政府の仕組みが、この国の現在の状況、あり方に、見えないところで大きな影響を及ぼしている。保育の問題もそうですが、その影響の大きさと進む速さを考えると、政府の施策の進め方、思惑、市場原理、の罪深さを感じます。これからも、教育、保育、福祉、司法、あらゆる分野で雪だるま式に起こる「現在の施策の結果」に繰り返し対処し続けていかなければならないことを考えると、憤りさえ覚えるのです。

なぜ、20年前、学者でもない私がアメリカに住んでいて、簡単に知ることができたFASに関する情報が警告として共有されなかったのか。当然日本にも伝わっていたはずの情報の共有が、なぜこれほどまでに遅らされたのか。日本がまだ訴訟社会ではないというだけでは済まない、意図的なものを感じ、不安になるのです。

アメリカインディアンが「生きる力を削がれること」で陥った罠に、私たちも少しずつ捕まり始めたのではないのか。

いまの、子ども・子育て支援新制度、11時間保育を「標準」と名付けた施策が、撤回されなければならない日は必ず来るでしょう。それほど不自然な「標準」ですし、1年目でこれほど矛盾や問題が噴出している。「保育は成長産業」などという偏った閣議決定に煽られ、利潤を目的とした保育が日常になり、事故が増え、園や自治体が繰り返し訴訟の対象になる可能性は充分にある。そうなってほしくはないですが、日本が、アメリカ程度の訴訟社会になれば、新制度自体が訴訟の対象になり国が負け続ける可能性は十分にある。この歪んだ施策の転換か撤回が、政治家の優柔不断さでさらに遅れ、十年後になれば、この国の魂のインフラはより深く傷つき、学校教育が修復不可能な状況に追い込まれてゆく。それが見えるのです。

政治家は真面目にこの国の形について考えてほしい。

安易に「愛国心」などと言う前に、もっとさかのぼって家族の形、幼児の日常のことを考えてほしい。この国の未来と人々の生活に、自分たちの閣議決定が大きな影響を及ぼすことに、慄然としてほしい。