コロナ禍の中、「ママがいい!」という本を書きました

コロナ禍の中、「ママがいい!」という本を書きました。https://good-books.co.jp/books/2590/ 

「子育て」によって支えられ、育まれる信頼関係が、「社会で子育て」と言いながら、実は経済施策で母子分離を進める政府の誘導によって希薄になっていく。子育ての現場で責任転嫁と不信感が生まれ、それがコロナ禍で増幅されている。このまま政府の思惑通り子育てのシステム化が進めば、利他という人間性、絆という自然治癒力が働かなくなってくる。

幼児が「ママがいい!」と言ったら、ママがいいのです。その言葉に真剣に向き合わないと、保育や学校、そして家庭が共倒れになる。限界が近づいています。

幼児の願いを尊重し、幼児たちの側から考える。保育の現場で具体的に行われている信頼関係を取り戻すやり方、例などを本の中に書きました。良いことはすでに行われています。どう広げていくかは現場の決意次第だと思います。

子どもたちに必要なのは、「大人たちの信頼関係」という環境なのです。

子どもたちの役割りは、絶対的弱者であることを宣言し、社会に優しさと絆を生むことなのです。

幼児の保護者に直接講演すると、その反応から、まだ大丈夫とも思えます。説明すれば、幼児と暮らす人たちは理解する。この特別な時間を吟味することの大切さを肌で知っている。本来、子育ては「イライラ」の原因にはなり得ない。

就学前にいくつか行事を重ねれば、幼児たちが「利他」という「幸せの見つけ方」について、親たちに教えてくれる。そこからもう一度「親心」を耕して行くのが一番自然だと思うのです。ぜひ、ご一読ください。

リンクを拡散していただけるとありがたいです。どうぞよろしくお願いします。

https://good-books.co.jp/books/2590/ 

「ママがいい!」その言葉を覆すことはできません

7冊目の本がでました。目次はこのリンクで見ることができます。https://good-books.co.jp/books/2590/ 

 

  「ママがいい!」、この言葉に背を向ける時、人類は監視資本主義の枠組みに組み込まれていきます。デジタル化できない情報発信源、「願い」が、幼児たちの笑顔、はじめの一歩にはあって、それを見て嬉しくなり、それを守るために心を一つにする。

幼児たちの意志は、監視できない次元にあるのです。なぜなら彼らは、無欲だからです。「無欲な人たちが一番幸せそう」その発見が人間社会を調和に導いてきました。

大人の都合が子どもの願いに優先すると、社会からモラル・秩序が失われていきます。欧米先進国で起こっている家庭崩壊についても少し詳しく書きました。

 

2歳児が「ママがいい!」と言ったらその言葉を覆すことはできない、そこに調和への道筋がある。持続可能な社会への鍵があるのだと思います。

イノベーション(合理化、組織改革)という言葉で一層深まる「欲望」への落とし穴が、人間性の変質を目論んでいる。それを止められるのは、「「ママがいい!」という言葉だけ。

新刊のお知らせ

7冊目の本が出ました。https://good-books.co.jp/books/2590/  

「ママがいい!」、この言葉に背を向ける時、人類は監視資本主義の枠組みに組み込まれていく。デジタル化できない情報発信源が、幼児たちの笑顔、はじめの一歩にはある。それを見て、嬉しくなり、それを守るために心を一つにする。

幼児たちの意志には古(いにしえ)のルールが存在し、遺伝子が導く幸福への道筋と持続可能な社会への鍵があるのだと思います。

過去十年間で保育は、「パートで繋げばいい」「無資格者がいてもいい」というところまで壊されてしまった。国が、保育は成長産業という趣旨で行なった閣議決定、雇用労働施策の一部とされた規制緩和と量的拡大をした時、すでに少子化の流れが、預かればいいという子育て支援では止まらないことを知っていたはず。

「優しさが試される時に、優しさが成長する」南アフリカで人種の融合を訴えたツツ大主教の言葉です。乳幼児たちの存在意義が思い出される時が来ています。

7冊目の本がでました。ぜひ、読んでみてください。

今日、7冊目の本がでました。https://good-books.co.jp/books/2590/ (政治家、行政の方たち、保育関係者だけでなく、保護者の方たちにも読んでいただけたら幸いです。)

子育ては社会に信頼関係と絆を育てる「喜び」だったはず。それが保育を雇用労働施策に組み込み、市場原理にまかせ成長産業と捉える国の方針で、まるでイライラの原因、苦難でもあるかのように言われるようになりました。

このままではすでに保育士不足が限界に達している保育界がもたない、学校教育が破綻します。子どもを優先しない仕組みに嫌気がさして、いい保育士やいい教師が辞めていく。

2歳児が「ママがいい!」と言ったら、ママがいい。その言葉が、実は人類を持続可能にする鍵だった。そろそろ幼児と真剣に向き合わないと、保育と教育、家庭が共倒れになっていきます。

保育界が一つになって幼児たちの願いに耳を傾け、「子ども優先」の引き金を引けば自浄作用は働く。幼児たちの力を信じるしかない。そこに賭けるしかないと私は思っています。

砂場で遊ぶ幼児たち、園庭を走るその姿に憧れ、彼らの願いを尊重して地道な活動を重ねれば、この国はまだ大丈夫。保護者たちに講演すると、その反応と感想文からそう確信できるのです。幼児と暮らすこの人たちはすでに感じている、理解しようとしている。

国が作ろうとしている仕掛けの危うさ、虚しさ、それと同時に保育現場で親心を育てているいい例を書きました。3歳まではなるべく「子育て支援センター」が役割を果たし、子育てが孤立しないよう手助けする。入園してからは親たちを巻き込む行事を重ねていく。卒園してからも、一家の故郷、心の拠り所になれば、失った「地域」を蘇らせることもできるはず。

園で「親心」を耕して行くのが一番自然だと思います。それしかない。

ぜひ、読んでみてください。

よろしくお願いいたします。

 

令和四年一月二十四日                         松居 和

明けましておめでとうございます!

明けましておめでとうございます。

本年もどうぞよろしくお願いいたします

2022年がいい年になりますように、感謝を込めて、講演、演奏、執筆に励みたいと思っています。

七冊目の本が出ます。https://good-books.co.jp/books/2590/  

 

https://youtu.be/LA4Bm1kYtvY

京都から配信したライブを十日間無料で見ることができるようです。よろしければぜひ、ご視聴お願いいたします。

Live performance of the last Year from Kyoto is available for FREEEEEE for 10days. Please check it out!  (and spread the link, please.)

Thank uyou  

Kazu

文科省が5歳児に「教育プログラム」

コロナ禍のいま、それどころではない、という感じもするのですが、書き残しておくべき重要なことだと思うので、続けます。

 

文科省が5歳児に「教育プログラム」

最近文科省が始めた施策です。全国的に普及を図るそうですが弊害の方が怖いのではないか。特に保育と教育の混同は危ない。

 学習態度・学力ばらつき「小1問題」解消、文科省が5歳児に「教育プログラム」 https://news.yahoo.co.jp/articles/bf08e64b24c984f8db7656e8d13e19070c92e048   (読売新聞)

 「文部科学省は、小学校入学時の学習態度や学力の差をなくそうと、5歳児向けの共通教育プログラムを作る方針を決めた。幼稚園や保育園、認定こども園で生活や学習の基盤となる力を養い、小学校入学後の学びにつなげる。近く中央教育審議会で検討を始める。

 同省は2022年度からモデル事業をスタートし、効果的な教育活動をプログラムとしてまとめ、23年度以降の全国普及を図る。

 幼少期に意欲や根気強さ、協調性などの「非認知能力」を培うと、将来の学歴や所得に大きく影響するとの海外研究もある。」

新制度で、11時間保育を標準と定め8時間勤務の保育士に三十人の五歳児を任せようとした時点で国の施策は常軌を逸している。それを、短時間のパートでつないでもいい、と規制緩和し、今度は「生活や学習の基盤となる力を養い、小学校入学後の学びにつなげる」体制を就学前一年間で作れというのですから、保育の質の格差が広がっている現実を考えれば無謀というか、乱暴に過ぎる。実習に行った学生が、あの園に実習に行くと保育士になる気なくなるよ、と後輩に伝える園が昔からある。毎年二割の保育士が入れ替わったり、園児どころか実習生を育てられない、学生をいじめるような統制の取れていない園もある。そんなバラバラの保育環境に「5歳児向けの共通教育プログラム」を要求したらどうなるか、私には想像がつく。

長い間、実習先であったことは口外してはならない、と学生たちは誓約書を書かされてきたのです。個人情報保護というのは言い訳で、現場の実態を知られたくない意図があったのではないか。その誓約書が、20年間心の縛りになって苦しんだ主任さんがいました。私が生涯忘れない、保育者の涙です。(http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1983 

特に気にかかるのは、そうした良くない保育現場の現実を子どもたちが見ていること。実習生たちが一週間の実習で、保育士になる気がなくなるほどショックを受け、最近はベテラン保育士でさえ耐えられずに辞めていく光景を、園で過ごす幼児たちが目の当たりにして育っていくこと。その子は虐待を受けなかったとしても、「小さなお友だち」や「実習のお姉さんたち」がそういう扱いをされるのを幼児期に繰り返し見ること、しかも毎朝親によってその場に連れて行かれることが園児たちにどういう影響を及ぼすのか。どの程度の心的外傷になって残るのか。正確に把握することは誰にもできないからこそ、気にかかる。強者が弱者を威圧したり、思いやりに欠ける仕打ちを繰り返す姿を見続けることが、3、4、5歳児の人生に負の影響を及ぼすだろうことは容易に想像できます。その先に義務教育がある限り、誰にとっても「他人事」ではないのです。本来政府が責任を持つべき制度の混迷によって幼児期に植え付けられた不信感が、日本という国を覆っていく。

「5歳児向けの共通教育プログラム」で「幼少期に意欲や根気強さ、協調性を培い」たいなら、そういう風景を減らすことが先決でしょう。子どもの成長過程におけるこういう風景の存在は道徳教育などでは修復できないのです。

こうした風景を無くす、とまでは言いませんが減らすこと、それが、私が推奨している「親の1日保育士体験」の出発点にありました。親と保育者の間に波風を立てずに、一緒に幼児に囲まれることによって自然に育つ信頼関係で「親に見せられない風景」を封じてゆく。これしかないと思いました。

いつでも親に見せられる保育をする、それが原点であり保育の日常なのです。

(幼稚園の場合も一律に論ずることはできない状況になっています。一日五時間保育でお弁当持参、入園時に倍率が出る園もあれば、こども園という枠組みに入り程度の差こそあれほぼ「保育園化」している園もある。補助金を使って強制させられた預かり保育も、毎日2、3人という園もあれば、半数以上が、という園もあります。国の思惑は、保育園並みに子どもを長時間預かり、幼稚園並みに教育をさせようということで、それは幼保一元化やこども園を作った時にそう宣言しているのですが、幼稚園と保育園は「親が育つ」という環境において、子どもたちの成長過程においても、もともと異質のものだった。その異質性は「子育て」には大切なことだった。)

小学校の教師を半分非正規雇用にし、全員パートでいい、無資格者がいてもいい、派遣会社に頼ってもいい、とした上で、「学習態度・学力ばらつきの解消」を、まず学校でやってみればいい、と思いました。(怒っていましたから。)

経緯を見ていると中央教育審議会の学者たちは、所詮、三歳未満児を積極的に母親から引き離そうとする義務教育にとって致命的な国策に異議を唱えない人たち。子育てと教育を混同している。いままで学校で出来ていたことが出来なくなったからと言って、現状を理解しようともせず無責任に、それを保育現場に押し付ける。国の子ども子育て会議(自治体の有識者会議、審議会)もそうです。専門家たちは「小一問題」の本質がわかっていない。いや、わかっていても政治家の顔色をうかがっているだけで、行動しないのか。それとも、「保育園落ちた、日本死ね」的な一方的な世論をいまだに恐れているのか。

彼らの優柔不断な施策によって本当の意味での国力(幸せになろうとする力)が失われていく。

 

現在進行形の家庭崩壊が進むほど、保育者や教師の「子育て」における役割が重く、大きくなっている。「可愛がる」、「寄り添う」ことでしか救えない子どもたちが、中学でも高校でも増えている。よほどみんなで心を合わせなければ、できないこと。その子の「はじめの一歩」を見て、幼児期を知っている保育者たちとの連携が凍りついた魂を温め生き返らせるかもしれない。今、一体感を持って本気で取り組まないと、限界がそこまで来ています。

「同省は2022年度からモデル事業をスタートし、効果的な教育活動をプログラムとしてまとめ、23年度以降の全国普及を図る。

 幼少期に意欲や根気強さ、協調性などの「非認知能力」を培うと、将来の学歴や所得に大きく影響するとの海外研究もある」と書かれている記事の前半部分は文科省が言ったことでしょう。

後半はマスコミが付け加えたのかもしれません。が、モデル事業でうまく行ったから全国普及ができるような状況にはない。子どもの発達や、意欲や根気強さ、協調性などの「非認知能力」に関わるプログラムは、それを実施する側の人間力、優しさ、子どもとの関係や立場、今回の場合は主に年長組を受け持つ幼稚園教諭と保育士ということになるのですが、その人たちの「意欲や根気強さ、協調性など」によって左右される。

公立園をイメージしただけでも、あの市では無理だけど、あの地域ならできるかもしれない、といくつかの自治体の姿が思い浮かびます。主に現場と行政の信頼関係や一体感に基づく判断なのですが、私を講師として呼んだ自治体であってもそうなのです。しかも、あの市ならという自治体でも、市長選挙の結果や部長の異動で状況は突然変わってしまう。幼稚園、保育園では、いまさら親子関係を重視する意見を聞きたがらない園の方が多いかもしれない。それほどみんな疲れ切っている。そういう園でこの「共通プログラム」を無理にやろうとしたら、なお一層保育者(先生)を怖がる子どもが増えるだけではないのか。だからこそ、本来そのあたりのことは、0、1、2歳の時の成長過程を時間をかけて経験し、これから人生を重ねていくその子の親によって成されるべきことだったのです。

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2591 :幼児を守ろうとしない国の施策。ネット上に現れる保育現場の現実。)

(家庭型養護施設「光りの子どもの家」の菅原哲男氏の著書「誰がこの子を受けとめるのか」202頁に「子どもと関わる」という章があります。三才まで乳児院で育った子と、いい環境とは言えなくても家で親に育てられた子が家庭型養護施設で高校生になり、乳児と関わった時の実話と菅原先生の考察が綴られています。要約します。

三才まで乳児院で育った世話好きな高校生亜紀は、乳児の由紀が可愛くて仕方ない。その亜紀がある日自分の部屋で哺乳瓶にジュースを入れて飲んでいた。少ない小遣いから哺乳瓶を買って一人で飲んでいた。そして、同じように乳児院で育った高校三年生の嬉は、食欲が落ちてゆき、ある日、保母にリンゴをすってくれと頼む。保母にそうしてもらっている乳児が羨ましかったのでしょう。そして、一歳半の乳児がこの二人には寄り付かない。三歳まで親に育てられた高校生には懐くのに、この二人には懐かない。疑似家族のような関係の中で、施設に入所する以前の乳幼児期の体験の差が「育てる側の立場になった時に」浮き彫りになるのです。

菅原さんが書く、乳児期の「個別的継続的な養育者との関係」の欠如が高校生になっても、人間関係、特に幼児との関係に深い影響を与えている光景を読むと、政府がパートでつなぐ保育を容認し、三歳未満児を長時間預けることを奨励する危うさをひしひしと感じます。

http://www.luci.jp/diary2/?p=1676 愛されることへの飢餓感・荒れる児童)

 

(ある幼稚園の男性園長が面白そうに話してくれました。「卒園児が、いまはもう中学三年生なのですが、学校でとんでもない『ワル』になったというのです。通っている中学の校長が私の友人で、お前のところの卒園児だが、本当に困り者だと言うのです」

一度見に行ってみよう、園長先生は中学校に出かけました。

そして、私に言うのです。

「見に行ったら、ちゃんとあの子がそこに居ました」

幼児期を知っている園長には、その子の本質が見えたのです。そして、それは変わっていなかった。

幼児期が見える、本質が見える。これが「親であること」。だから、担任が変わり続ける仕組みに親の肩代わりは出来ないのです。「親身」というのは、親の身と書く。こういう時代だから、校長先生たちも親身になることを求められている。そうすると親たちがますます親らしさを失いそうですが、仕方ない。子どもたちはそれを求めている。

中学の校長先生たちに講演する時にお願いします。保育園や幼稚園に年に三日でいい、行って下さい。敷地の中にいるだけでいい。教育的な考えを捨てて、幼児に肩まで浸かる。すると、目の前にいる中学生たちの中にその子の小さい頃が見えてくる。それに話しかければいい。そうしないと魂を導けない。

懇親会の席で、校長先生たちが私の席に来て笑顔で言います。

「松居先生の話、孫が居るので良くわかります」

そして、携帯電話の中に入れてあるお孫さんたちの写真を順番に見せてくれるのです。

「御本尊様ですね」。

教育もまた、時々御本尊を拝みながらするもの。できることなら、生徒たちと一緒に……。)

 

文科省は、保育者一人で子ども三十人を相手に一年間で「良い子」に育てろ、しつけろ、「学習の基盤となる力を養い、小学校入学後の学びにつなげ」るようにしろと言う。親の協力があっても、以前に増して1クラスに二、三人は発達障害と思われる子どもと、いつでも引き金を引かれる予備軍を抱えている現状では、もう無理なのです。

「子育て」があっての「教育」でした。

「子育て」は、人間が子どもたちの信頼に応えようとすること。大人たちが、子どもたちの信頼を失わないように努力すること

「教える」というコミュニケーションは、人間の脳が最も発達する3歳までの時期に、子どもたちが、自分が生まれてきた場所は信ずるに足る環境なのだと認識し、初めて成り立つものだった。そう考えるべきです。

学校という仕組みが普及する以前、人類はこの「教える」というコミュニケーションの持つ普遍性に種の存続を賭けていた。その基盤に、数人の大人たちが子どもを囲み、可愛がる、守る、一緒に子どもの幸せを願う、という行いが常識としてあった。双方向に非認知能力が育っていた。

ま、共通プログラムが必要なのは子どもたちではない。親たちでしょう。

「子育て」という大自然から与えられた共通プログラムは、人間が自由や利権を弱者によって奪われることで成り立ち、人間を導いてきた。「自由」や「平等」などという言葉を使ってそのプログラムに反発しても、それは将来を傷つけるだけなのだ、ということに最近の親たちは気づかなくなっている。

疲弊している教師たちが言うのです。「様々な事情を抱えている子どもたちに対応しきれない」と。

ベテラン保育士たちは見抜いています。「様々な親を抱えている子どもたちに対応しきれない」。

老園長が言いました。全ての保育園、幼稚園、学校の門のところに横断幕を掲げて、書いておけばいいんだ。「あんたの子だろ」って。

国は早く方針を転換してほしい。マスコミもきちんと報道してほしい。三歳児神話は、神からの啓示、遺伝子からの要求、そこに調和への道筋が示されているのだと覚悟を持って親たちに伝えてほしい。

学校という仕組みに子どもたちが入っていくための準備をするのは親たちであって、専門家が作った「共通教育プログラム」などではない。

「教育」という言葉で子育てを誤魔化すのは、やめた方がいい。

保育という仕組みをもう一度、人間の営み、という本来の持続可能な姿に近くしていかねばなりません。教育という概念から離れ、保育界に「可愛がる」「寄り添う」の原則を取り戻していかなければならないのです。

 

三歳未満児を(標準11時間)保育所で預かれば女性が輝く、と言ってしまった政府の施策に、当事者である幼児たちに対する「思いやり」「気遣い」が欠けているのです。政治家の思考の道筋に「非認知能力」が呆れるほど欠けている。ユニセフの「世界子供白書2001」に、三歳までの、親や家族との経験や対話が後の学校での成績、青年期や成人期の性格を左右する、とはっきり書いてある。必ずそうなるとは思いませんが、そうだろうな、と思います。

萩生田さん、田村さん、散々説明したでしょう。保育士に子育てはできません。親が親らしさを失うことが仕組みにとって致命的なのだ、と。あなたたちは理解したはず。今は、コロナ対策で大変でしょう。しかし、コロナ禍の中ですり抜けていく保育、教育に関わる施策が乱暴過ぎます。「短時間勤務の保育士の活躍促進」にしても、「5歳児向けの共通教育プログラム」もそうです。これに反対しない野党も含め、すでに持続不可能になっている仕組みに、政治家たちが、選挙に勝つことを目標にさらに負荷をかけている。

すべての人間が赤ん坊と過ごす時間を数年持つ、それが人類の存続にとって不可欠な「共通プログラム」でした。このプログラムの偉大さに、中教審や子ども・子育て会議はさっさと降参して、少し素直になればいい、そんな風に考えます。

(関連リンクです。)

(いい人になること:「非認知能力」http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=3016

(子育てというコミュニケーション: http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=3282 

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=3491  :「短時間勤務の保育士の活躍促進」がいまの政府の姿勢を端的に物語っています)

副園長先生からの質問。The Direction You Take

幼稚園の副園長先生から質問をもらいました。

「子どもたち、とくに幼児にとって今のコロナの状況では何を一番大切にしなければならないのか」と。

大人たちが真剣に、頑張って子どもたちを守ろうとしていることが子どもたちに伝わる、ということが大切だと思います。

私は特定の信心をしているわけではないのですが、これを機会に「祈ること」みたいなコミュニケーションを子どもたちに教えることができるといいですね、と答えました。

「将来この『コロナ世代』と言われる子ども達が大人になった時、この現代はどういう意味をもってくるのか」という質問が最後にありました。

感染するしない、という次元を脇に置いて考えれば、試練は必ず良い人間性を引き出し、助け合いの土壌を生むと思っています。

そう書いてから、昔作ったこの曲を思い出しました。音楽は祈り、時代を超えて鳴り続けます。子育ては、子どもたちの信頼に応えようとすること。それが永遠に連鎖していくこと。

 

The Direction You Take 

(from “The Direction West” by Kazu Matsui)

It was one of the greatest recording session with the Vocalist Jennifer Warnes, ​who sang “Up Where We Belong” with Joe Cocker year after this recording.  This song is my prayer for the future generations.   Kazu

このレコーディングの翌年、ジェニファーはジョー・コッカーとのデュエット曲「愛と青春の旅立ち」で全米1位になりました。自宅で一週間歌い込んだあと、スタジオではほぼ一回で決めてくる素晴らしいセッションでした。作詞は私で、作曲はヒットメーカーの林哲司さんです。私には自身に書いた応援歌になっていて、世界が混沌から抜け出るための祈りと希望の灯火となればいいなと思います。

The Direction You Take 

(from “The Direction West” by Kazu Matsui)

Words-By – Kazu Matsui

Music-By – Tetsuji Hayashi

Direction you take

Do you know the blessings from the hills

Morning dews are echoes from the stars

Loneliness of the shoreless ocean

Let’s you be one with the wind

Sail to the rising sun

When you see the streams of your life

Do you know the direction that you’ll take

When you chart your way across the sea

You will be one with the wind

Sail into the morning sun

On this shoreless sea, all wonderers are not lost

Ask yourself again the meaning of the waves

Now you are standing tall, the sun on your face

The answers fly to you on the edge of a wind

You’ll see

Do you know the depth of all the sea

And the play shadows on the waves

Emptiness of the far horizon

Let’s you be one with the wind

Sail to the evening sun

On this shoreless sea, all wonderers are not lost

Ask yourself again the meaning of the waves

Now you are standing tall, the sun on your face

The answers fly to you on the edge of a wind

Moonless night of silent sea, you feel so lonely

Then you see the distant sorrow

May your soul reach me

Keep the hope, keep the faith

 as all the stars shining in their splendor

On this shoreless sea, all wonderers are not lost

Ask yourself again the meaning of the waves

Now you are standing tall, the sun on your face

The answers fly to you on the edge of a wind

I know

Well, you are standing tall, the sun on your face

The answers fly to you on the edge of a wind

You’ll see, 

On this shoreless sea

by Kazu Matsui

講演会後に、送られてきた感想文から二つ

最近の講演会後に、送られてきた感想文から二つ。話をする機会がもらえたことに感謝です。

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松居先生、講演会、また、懇談会でもお話が聞けて嬉しく良かったです。

ありがとうございました。

講演会では、松居先生のお話に笑ってしまったり、私自身体感していることや同意できることが多く感慨深くとても勉強になりました!本当に聞くことができてよかったです。

懇談会では、あまり詳しくお話することはできなかったですが、私の以前勤めていた職場での辛い経験を話した際、「そんなに辛いことがあったのに今はふっきれている顔になってて、すごいね」とおっしゃって下さったことがとても印象的に残っているのと同時に少し胸がスーッとしました。

その場では話し足りず、もっと私が以前勤めてた保育園での実態や、実習での出来事などを先生に話したくなりました。

保育士不足は実際、働いてみて理想と現実が異なりすぎて辞めてしまう人が多く不足しているのもあります。しかし、私は、大学や短大、専門などでの実習で日誌や先生たちからの暴言などの過酷な実態があり、描いた夢を諦める学生が私の周りに多くとても胸が痛い思いをしました。松居先生みたいな方に、そういう辛い経験をしたことがある若い世代の人たちの声ももっと聞いてもらえたら、とてもその人たちも救われるのではないかなと思いました。

また機会があればお話を聞きに行きたいと思います。お忙しい中、ありがとうございました!          (24歳 保育士)

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末の息子が保育園の時、1日保育体験をしました!!

若い男女の先生方が、こんなに小さな子供達のために、手抜きなしで体当たりの保育をしている姿に驚き、我が子は毎日こんなに充実した日々を送っているのかと驚愕した記憶があります。自然に触れ、季節の行事を行い、園児の手作り神輿に本物の神主さんが神事を行う。給食の食材を確認し調理員さんにお礼を言い、お茶をこぼせば自分で拭く。プールでは思い切りスキンシップをはかり、なわとびでは妥協させずチャレンジさせる。運動会のためにパパたちが本格的な“嵐”のダンス特訓し、パパ友で飲み会をするようになる。お母さん方はとても嬉しそうでした。一つ一つが印象深く残っています。幼~高校までのいろんな先生方を見てきましたが、幼・保の先生方が一番熱かったと感じます。

素敵な女性の園長先生でしたが、松居先生のお話を実践されていたのですね。勿体無いくらいの恩恵を受けたと感じ、卒園式では何とも言えない感謝に涙が溢れました。

昨今、“イクメン”といううれしい言葉もありますが、“産後クライシス”などの言葉もあり、産後にお父さんがゲームに没頭して育児を面倒くさがる、などという話も聞きます。自分は乳幼児とは関われないと思い込む。長期単身赴任のお父さんも同じような問題を抱えているようです。複雑な家庭に育ち、子供の愛し方がわからないというママたちもいます。

年齢の違う子供達が群れて遊ぶ中で親心が育ち、先生のおっしゃるように、親心は、子供の頃から育むものである、という事を感じます。近所や親子サークルなど、安全で多くの人々と関われる場が必要なのでしょう。全員が通過する義務教育の中での保育体験もぜひ実現させたいですね。そのために私たちに出来ることはどんなことなのでしょう。

色々な事を考えさせられ、また考えれば考えるほど、先生からもっとお教えを頂きたいと感じています。

(50代 女性)

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感想文を読んで思い出すのです。保育科の学生たちの間に、あの園に実習に行くと保育士になる気がなくなるよ、と申し送りされている園がある。実習生が「親に見せられない」と思う風景を、子どもたちが見ている。体験している。その風景を減らすには、と園長たちと考えて十三年前に始めたのが一日保育者体験でした。

いい保育園・幼稚園に当たることで一家の人生が大きく変わる。園長、主任、設置者の保育に対する意識が、政府の進める保育の市場原理化によって分断されているいま、親たちの「子育て」に対する意識が、子どもたちに対する感謝の方向に戻って来れば、出来ることが沢山あるのです。

これは私の責任、そして鎮まること。

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10年前にこんな文章を書きました。

子どもが一歳前後のとき、よく物を散らかして喜びます。嬉しそうに、上にある物は落とし、片づけてある物を引っ張りだし、閉まっている物は開けようとします。言葉もわからないし、言って聞かせられる時期ではありません。しかも嬉しそうにしているのです。この時期、親は子どもの嬉しそうな顔を見るのが好きなのです。それが第一。

叱ってはいけません。この時期の子どもを叱ると、安心感のある人間社会はできません。散らかしたら、親は片づける。ただ黙々と片づけます。理屈や理論で考えても仕方ない。宇宙の平和を願って、親は何度でも片づける。この時間は長くはつづきません。もうすぐ言葉がわかるようになります。違った段階の関係が始まるのです。それまでは数カ月、繰り返し、ただ片づける。静かに、落ち着いて、これは私の責任だ、と独りでつぶやくといいのです。そして、ある日、これは散らかさないでね、とお願いすると、子どもはちゃんと親の願いを聞き入れてくれるのです。

そうした独り言とつぶやきに、夫婦がお互いに耳をそばだてます。そのために、子どもは散らかすのだと思います。様ざまなことに、子ども中心に自然に反応する姿を眺めあうことで、家族や社会が一つになっていきます。人間社会が一つになるためには、理屈を越えた、本来持っているいい人間性の確認が必要なのでしょう。「これは私の責任」と言いながら。

(「なぜ、私たちは0歳児を授かるのか」(国書刊行会)より。)

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これを書いた時、子どもはまだ1歳半くらいで、近所の児童館の乳幼児室に二人でよく遊びに行きました。その時、黙々と、散らかった玩具を片付けるお母さんたちの笑顔を見ながら、ああ、そういうことだったのだ、と思ったのです。

この命を誕生させたのは自分だという自覚が、「私の責任」「私たちの責任」を育ててきたのでしょう。

親たちが「これは私の責任」と唱えながら、自分と子どもとの関係に納得する。そのつぶやきの中で人類という種が存続する道筋が整う。調和に向かうべく忍耐力が育っていった。

最近のジェンダー論争の狭間で、「子育てを女性に押し付けるんですか?」と私に言った人がいました。出産という行為が男性には不可能である限り、「自分が産んだ」という自覚には意味があるはず。祖父母もまた、自分が存在しなければこの子は存在しない、という自覚を持っている人たちであるはず。その本能に沿った自覚が「幸福感」に繋がっていたから、人間は家族を大切にしてここまで進化してきた。母親が先頭になって道筋を示し、進み、父親はそれに追いつこうと努力する。そんな感じでやってきた。

幼児たちの、特殊な、大切な役割を忘れてはいけません。

子育ては、「お互いの存在」を生きる動機、幸せの源と感じるためにある、そう考えるのが普通でしょう。

人生の質は、どれほど弱者に愛されたか気づくことで決まる。親が子に愛され、その確かさに感謝する。子どもたちは「信じること」が生きる力だと遺伝子のレベルで見極める。生きる力は、自立することではない。信頼の連鎖に身を置くこと。

政治に関わる人たちが、人間社会の成り立ちそのものと言ってもよい「子育て」に関する施策を考えるとき、そしてマスコミがこの問題に関して報道するとき、幼児と会話する人の心の声に耳を傾けてほしい。見極めようとしている本物の人間たちと会話することの大切さを忘れないでほしい。

さらに遡って、古(いにしえ)のルールを語ってくれる過去の哲人や詩人たちの言葉に、時々でいい、心を震わせてほしい。彼らと共に生きていることを次の世代に伝えていくことが真の教育であって、子育てだと思うのです。全世界がここまで混沌としてくると、人類の進む道筋、運命のようなものが見えなくなってきます。大事な友人から「見えなくなるときなのかもしれません」と言われてハッとしました。「心配になるけれど、見えなくてもあることは心の奥底でわかっていることをわかっていたいです」と言われ、ああ、そうだ。子育てと同じ、探すのではなくて、静かに待つ、そんな時も必要で、そんな風に考えると自分の心が鎮まる気がします。自分ひとりで鎮まることができれば、それはきっととても価値あること。

主義主張よりも、本物の人間たちを眺めることが求められている時代に入っている。

子どもを産み育てることは、宇宙から与えられた尊い役割り。自らの価値を知り人は納得する。子どもが親を育てることは、宇宙の動きそのもの。一人では生きられないことを宣言し、調和への道を照らす。

https://youtu.be/fm9KjKpoggE

Music of Kazu Matsui (Shakuhachi). “Black Bird & the Bamboo forest,” and “Legend of the lake”.