乳児と分かちあう「沈黙」

 

 

ウクライナ民話と言えば「てぶくろ」。ラチョフさんの描いた絵が、あまりにもストーリーとマッチしていて、ウクライナ人はみんなお人好しのように思えてしまう。あの大統領など、てぶくろの中にもう入っていそうな気さえする。ラチョフはロシア人ですがキエフで学び、描く民族衣装や動物の表情を見ていると、ウクライナの土壌を心から愛した人に違いない。てぶくろに煙突までつけてしまう展開に、大人も子どももワクワクする。

この表紙を見て、これはフェイクニュースという人はたぶんいない。

一方、こんな馬鹿げたニュースがありました。

二〇一八年八月一日、第一生命研究所は、「出産退職による経済的損失が一・二兆円」とする試算を発表した。出生数九四・六万人のうち出産によって退職した人二十万人の経済的損失を計算したものだ。

母親が産まれたばかりの我が子と暮らしたい、子どもが母親といたい本能ともいえる願いを「損失」と計算し発表する人たちの意図に人間性が欠けている。金銭で計れないものをデータと考えない人たちの独特な思考停止が政府の作る施策の根拠となり、信頼関係の喪失を生み、史上最多の児童虐待の数という現実になって現れている。

二十年以上前、経済企画庁(現・内閣府)が、保育園で就学前の子どもを全員預かれば、親から得る税収が保育にかかる予算を上回るという試算を出し、毎日新聞の一面に「そのほうがお得」という記事が出たことがある。思惑は外れ、保育の質の低下、子育てに関する意識の変化に学校教育も保育も対応できなくなっている。しかし、いまだに「出産による経済的損失」という計算をする専門家たちがいるのだ。経済とかエビデンスという一見真実に見えるまやかしに囚われ施策から人間性が失われていく。親たちの責任放棄とDV、児童虐待が増えている。限界を超えてしまった児童相談所の対応が、子どもたちに対する責任の所在をますます曖昧にし、「ママがいい!」という叫びが遠のいていく。(https://good-books.co.jp/books/2590/に書きました。ぜひ、読んでみてください。)

こういう計算をする人々(それを報道したり、施策に反映させたりする人々)は、赤ん坊のぬくもりや、幼児たちの笑顔が、欲のエネルギーの対極にあることを恐れているのかもしれない。乳児を抱いている人が、乳児と分かちあっている「沈黙」には人類への重要な提案があって、それが怖いのかもしれない。人間が人間らしくあろうとすることが、自分たちの経済的利益を脅かすことに気づいているのかもしれない。(否、本当はただの薄っぺらい「経済学」だと思う。そこが一番怖い。幼児と過ごす時間から生まれる「忍耐力」「優しさ」「想像力」、長い間人間たちが幸せの拠り所としてきた愛着関係などに価値を見出さない単純に過ぎる計算の繰り返しで施策が成り立ってきたのだ。だから、こうして壊れる。)

この人たちが定義する「総活躍」のために「受け皿」が整備され、一方で、夫婦で子どもを虐待していた母親が殺人罪で起訴され、その母親がこども園の保育士として働いていたという報道があった。「女性の就労率のM字型カーブ」が日本特有の差別や時代遅れの象徴のように扱われ、そのカーブが幼児を楽しむ伝統とは誰も言わなかった。この「一億総活躍」が叫ばれ始めたころから児童虐待は増え始めて過去最高になっている。そして、保育所を疲弊させる一番の原因は、いま「親対応」なのだ。

(「保育の受け皿」14万人分不足 内閣府が提示、年末に新計画:2020年10月5日)

(児童虐待最多の10万8050人、コロナで潜在化の恐れ…「家にいるしかなく親の暴力ひどくなった:読売新聞2022/02/03」)

去年、国家公務員の退職が増え、霞ヶ関の若手官僚の7人に1人が辞めたいと思っている、「2019年度の20代総合職(キャリア)の自己都合退職者数は6年前から4倍以上」というニュースが流れてきた。「国のため」と言う言葉のまやかしにそろそろみんな気づいている。「一億総活躍」と旗を振るはずの人たちが、その本質を理解し、そっぽを向き始めているのではないか。

それが、「てぶくろ」の最後のシーンと重なる。

保育の専門書に囲まれた「ママがいい!」を見つけました

 

 

神田神保町の三省堂本店で、保育の専門書に囲まれた「ママがいい!」を見つけました。象徴的で、健気な感じがします。こんな風に置いてくれた店員さん、ありがとうございます。読んでくれたのでしょうか。「ママがいい!」という言葉に惹かれて、ソッとこの場所に置いてくれたのでしょうか。

中学生の頃、慣らし保育で、「ママがいいー、ママがいいー」と泣き叫ぶ子どもたちを毎年見ていて、こんなことを人間がしてよいはずがない。自分は絶対に保育の仕事には就くまいと思った、と語った二代目若手男性園長がいました。

慣らし保育は、

「ママがいい」という叫びに慣れるのか、

慣れて、子どもがそう言わなくなることに慣れるのか。

〇歳から預ければ「ママがいいー」という言葉さえ存在しなくなる。そうやって大切なもの、人間が生きるきっかけのようなものが順番に消えてゆく。

そういうことに平気になって、慣れようとしている社会に私たちは住んでいる。それに慣れた世代が、いつか気づいて、道端に座り込んで、「家族がいいー」と呟く日が来るのだろうか。

慣らし保育で「ママがいいー」と叫ばれた母親は、自分がいい親だったから叫ばれたことを憶えていてほしい。それは勲章だった。長い間人類の営みを持続可能にしてきた言葉。聖母子像や、観音像を見上げ、その姿に憧れ、繰り返し込められてきた喜びと、指針だった。

この言葉に真剣に向き合う時が来ていると思うのです。

(書店の書棚から「「ママがいい!」が消えてしまわないように、拡散、推薦、よろしくお願いいたします。https://good-books.co.jp/books/2590/

道祖神たちの遺言を伝えておきたい

一人で六人の一歳児を受け持って、望み通り「抱っこ」してたら腰を痛めてしまうとベテラン保育士が言いました。考えてみれば当たり前で、大自然の法則に照らし合わせても人類には無理な要求なのです。それを数十年やらせてきたのが国基準の保育。当然のように「疲弊し」、子どもたちの信頼を失いながらよくない記憶が蓄積し次世代に負の遺産として受け継がれていく。

自分でやってみないで国基準を考えた人たちがいた、ということ。

そうした既存の「無理」に加えて、ここ十数年政府や子育ての専門家会議が三歳未満児保育を補助金を使って奨励し、十一時間保育を「標準」と名づけ八時間勤務の保育士に押し付ければ、保育士不足は当然のように起きる。そして、保育士を人柄で選べなくなった。

学者たちは一度真面目に考えるといいのです。あなたたちは保育資格くらい簡単にとれる人たちでしょう。でも、他人の三歳児を二十人、八時間、一週間でいい、笑顔で世話できますか? あなたたちの「人柄」はそういうことには向かない。資格は取れても保育は「出来ない」。(私もその一人です。)その現実を把握できないから、資格を持っている潜在保育士が80万人いるから掘り起こせ、などと大臣が馬鹿げたことを言う。「保育はバートで繋げばいいんだ」というとんでもない規制緩和をするのです。

保育は選ばれた、利他の天性を持った人たちがやるもの。子どもたちの要望に応えるのは「人柄」や「生き方」であって学問、知識、学力ではない。

保育に向いていない人たちを責めているのではありません。人類は役割分担で生きるのです。それぞれの役割を探せばいいし、それぞれの絆で補い合えばいい。その方がお互いに嬉しいし、絆が深まれば安心できる。問題なのは、向いていない人たちが「保育に関わる施策」(この国の人間性を左右する施策)を決めてきたこと。保育をできる人ではなく、保育を必要とする人たちが保育施策を考えてきたこと。

もう一つの(素晴らしいと言いたくなるような)問題は、保育に向いている人たち(私が頭に描く園長たち、特に道祖神園長と呼んで、携帯の中に写真を溜め込んでいる人たち)、子どもの日々を優先し、歳を取っても子どもたちに育てられることに喜びを感じる女性たちが競争社会に向いていないこと。自分たちが一人前だと思っている専門家たちが集まる場や会議で本領を発揮しにくい人たちだということです。子育てが「祈り」の領域から学問の領域に入ろうとしているとき、この人たちの遺言を伝えておきたい。私はこの人たちに保育について教わった、いわば伝令役、通訳、翻訳者だと思っています。

幼児たちは、その人生に関わる周りの人間たちの「人間性」を問い、育てるために存在する。特に乳児は、人類の存続に関わる善循環の原点にいる人たち。そして、嬉しいのは、人間は一人残らず全員が「その人たち」だったこと。しかもその人たちと一対一で関わっていれば、ほとんどの人間が、もちろん男たちも含めて、「子育てに向く人たち」になれたということ。まずはその古(いにしえ)のルールだけでも思い出すことです。 

聖母子像

(タミルナード州、ダリットの村で撮りました。)

 追記:「問題なのは、向いていない人たちが『保育に関わる施策』を決めてきたとこと」と書いたのですが、その背後に、その人たちが「経済に関わる施策と外交に関わる施策を決めてきたこと」があって、現在の世界全体の混沌、近年異常に増え続けている幼児虐待と難民の原因になっている、と私は思っています。

https://good-books.co.jp/books/2590/ (新刊、「ママがいい!」の紹介ページです。道祖神たちからの遺言がたくさん載っています。)

動機と目的の次元が違う

本に、「抱っこ」について書きました。https://good-books.co.jp/books/2590/

0歳児、1歳児は抱っこするな、話しかけるな。子どもが活き活きとしたら、事故が起きる確率が高くなる、と若い保育士に言う園長がいる。人類が初めて耳にする(口にする)言葉でしょう。

この異常な正論がなぜ現れたか。そこに行き着く保育施策の道筋、経緯と幸福論を置き去りにした損得勘定、そして子育ての絶対的条件である信頼関係が「社会で(仕組みで)子育て」と言う言葉によってどう失われていったかについて書きました。

待機児童が二万人なのに「あと四十万人保育園で預かれば女性が輝く」と言った首相の発言と、「保育分野は、『制度の設計次第で巨大な新市場として成長の原動力になり得る分野』」という保育を成長産業とみなす閣議決定。(「日本再興戦略」:平成二十五年六月十四日閣議決定)

生まれながらの保育士たちが、政治家や学者の短絡的な経済論と保育の市場化に惑わされ、自分自身の子ども優先の人生に自信を失い辞めていく。そうした実話を本の中に書きました。いまこの人たちを守らないと、保育における「人柄」の伝承は永遠に消えてしまう。人類における人間性が消えてしまう、と言えば大袈裟に聞こえるかもしれません。しかし、流れとしてはそうなのです。ほとんどの人間が3歳までの子どもを可愛がる(生かす)体験をすることが人間性維持の絶対条件だった。遺伝子がそのように組まれている。それは教育や福祉で代替できることではない。動機と目的の次元が違う。

政府が言うように、保育園を多く作ることが「安心して子育てができる」ことでは絶対にない、「子どもに優しい街」でもない。それを市長や市会議員、保育課長たちが理解して政府の目指す意識改革を止めないと、学校も巻き込んで「子育ての常識」が崩れていく。そうかもしれないと思われたら、市長や市議に薦めてください。わかりやすく書いてあります。

2014/ 8/12 15:09

その中心に必ず乳児がいる

中学校の家庭科の時間を使い赤ちゃんやお母さんと触れ合うのもいい。「出産は大変だったけど、感動しました」「未熟児で危なかったんです」と語る母の優しさ、人間の弱さ、そして強さ、絆の原点をこの時期に学ぶ。グループで触れ合う時間となり、中学生のところに赤ちゃんがくる。お母さんが「抱いてみて」と赤ちゃんを渡す。中学生が恐る恐る、しかし嬉しそうに抱っこする。お母さんは中学生を信じて大事な赤ちゃんを手渡した。

信じてもらった中学生が誇らしげに友達を見る。何か不思議なものと一体になった自分を感じる。その一体感こそが「社会」なのだ。

一体感のある「社会」には、その中心に必ず乳児がいる。

君たちも世界の中心にいて、周りの人たちを優しく、強く、幸せにしていたんだ、と教えてあげる。

こういう体験を重ねていけば、10年後に親になるかもしれない人たちが、幼児と一緒にいることに特別な価値や充実感を見出してくれる。そうして、信頼の輪、伝承すべき物語がつながっていく。

 

シャックティの風景から

 

https://good-books.co.jp/books/2590/

親が子に愛され、その確かさに感謝する

学校に通う子供たちにも保育者体験が良い。「頼り切って、信じ切って、幸せそう」な人たちに混じることで、「自立」や「自己実現」などという競争社会に引き込む「罠」のような言葉には騙されなくなる。一番幸せそうな人たちが自立していない。信じ、頼らなければ生きていけない。そこに人類を持続可能にする美しい仕掛けがある。

人生の質は、どれほど弱者に愛されたか気づくことで決まる。親が子に愛され、その確かさに感謝する。子どもたちは「信じること」が生きる力だと遺伝子のレベルで見極める。生きる力は、自立することではない。信頼の連鎖に身を置くこと。

いまの学校教育は、若者たちに生きるために必要な「哲学」を伝えきれていない。

長野で、保育体験に行く中学二年生に「幼児たちがあなたたちを育てくれます」と授業で説明し一緒について行った。生徒が男女2人ずつ4人一組になり4歳児を2人ずつ受け持つ。世話をする人が幼児の倍の数、この組み合わせがよい。両親と子供のような関係になる。絵本を読んだり、ぴょんぴょんカエルをつくったりして一時間過ごす。

見ていると、男子はいきいきと子供に還り、女子は母の顔、姉の顔になって輝く。保育士にしたら最高の、幼児に好かれる人になる。中学生たちが自分が「いい人」になっていることに気づく。男女が互いに根っこのところでは「いい人」だと感じる。そして本当の男女共同参画社会が生まれる。政府が進めているのは男女共同参画「競争」社会で、しかもそのために幼児を犠牲にしているのだから、真の「社会」とは言えない。

帰り際、幼児たちから「行かないでー!」と声が上がる。中学生たちが泣きそうになる。駆け引きをしない人たちからの人気は本物の人気で、大自然からのお墨付き。生きているだけで喜ばれるという実感が中学生たちの「生きる力」になる。

 

インドで出会った聖母

「ママがいい!」https://good-books.co.jp/books/2590/

「心の清らかな人」が輝く時に、その存在に気付かなくなっている

以前、著書「なぜわたしたちは0歳児を授かるのか」に書いた私の言葉が、朝日新聞の「折々のことば」というコラムに紹介されました。

高名な哲学者に、いい言葉を指摘していただきました。

「赤ん坊が泣いていれば、その声を聞いた人の『責任』です。」:松居 和

媚(こ)びる、おもねるといった技巧を赤ん坊は知らない。いつも「信じきり、頼りきり」。それが大人に自分の中の無垢(むく)を思い出させる。昔は、赤ん坊が泣けば誰の子であれ、あやし、抱き上げた。未知の大人であっても、泣く声を聞けば自分にもその責任があると感じた。そこに安心な暮らしの原点があったと音楽家・映画制作者はいう。『なぜわたしたちは0歳児を授かるのか』から。(鷲田清一

 

 

渡辺京二著「逝きし世の面影」を読み、書いた言葉です。(江戸が明治に変わる頃、来日した欧米人がこの国の個性に驚き、文献に書き残したものをたくさん集めた本です。)欧米人たちが時空を越えて私たちに「ほんとうの日本」を伝えようとする意図、人間のコミュニケーション能力の不思議さ、動機を感じます。

第10章:子どもの楽園、にこんな風に書いてあります。

『私は日本が子供の天国であることをくりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない。(モース)』

英国の紀行作家イザベラ・バードは、

『私はこれほど自分の子どもに喜びをおぼえる人々を見たことがない。子どもがいないとしんから満足することがない。他人の子どもにもそれなりの愛情と注意を注ぐ』と書きます。

江戸は玩具屋が世界一多い街、大人も子どもと遊んでいる。朝、男たちが集まり赤ん坊を抱いて自慢しあっている。日本の子どもは父親の肩車を降りない。日本人は子どもを叱ったり、罰したりしない。教育しない。ただ大切にしているだけで、いい子が育ってしまう。そして、江戸という街では赤ん坊の泣き声がしない、と言うのです。

赤ん坊が泣いていたら、そこにいる人が「自分の責任だ」と思う。それが、人間が調和し、安心して暮らしていく原点です。その責任を感じたとき、人間は、自分の価値に気づく。

新聞のコラムを読んだ奈良の竹村寿美子先生(私の第一師匠。元真美ケ丘保育所長)からメールが来ました。

 「以前、心の清らかな人が保育園へ来て、子どものなき声を聞いて『あっ、誰かが泣いている!どこ?どこ?』と慌ててうろうろされたことがあった。なき声に慣れていた私たちは反省しきりでした。ありがとうございます!

(追伸)

 その人は少し障害を持っていらっしゃる方でした。保育士たちと心が洗われた気になりました」

(ここから私です。)

仕組みによる子育てが広がると社会全体が「子どもの泣き声」に鈍感になる。竹村先生はそれを言いたかったのです。人類に必要な感性が薄れていく。そして「心の清らかな人」の存在が一番輝く時に、その存在に気付かなくなってくるのです。保育に心を込め、人生を捧げてきたひとの自戒の念がそこにあります。

しかし、そういう現場の自戒を無視するように、保育施策が進んでいきます。これほど仕組みが壊されても、乳幼児を40万人保育園で預かれば、「女性が輝く」と首相が国会で言ったことの検証を、誰もしない。

「ママがいい!」という本を書きました。https://good-books.co.jp/books/2590/  

「ママがいい!」という叫びを聴いたら、それは聴いた人の責任です。聞き流したり、理屈をつけてその響きに慣れてしまうと、人間社会を支えていた「絆」が薄れ混沌としてくる。

いま、幼児という弱者の扱いが国中で粗雑になっている。それを知って欲しいという思いで書きました。

子どもの貧困などあり得ない。大人たちの「絆」の貧困が広がっているだけ。政府(野党も含め)が、待機児童という言葉を使ってこれだけ積極的に乳幼児期の親子の分離を進めれば、社会全体に優しさや忍耐力が欠けていく。絆の中心にあった幼児の姿が見えなくなって、責任の所在が曖昧になって、一層弱者が追い込まれるということなのです。幼児たちの役割を思い出してほしい。そうしたことを、わかりやすく書きました。シェア、拡散、お願いします。

魂の震え方を、幼児たちが男たちに教える

「ママがいい!」https://good-books.co.jp/books/2590/  より。

父親の一日保育士体験:若い男性園長に言われ、渋々参加したその父親がお昼寝の時間に、息子の背中をトントン叩いて寝かしつけていた。

すると、息子の小さな声が、「おとうさん、ありがとう」。

突然、父親の目に涙が溢れる。

……こういう瞬間に人間が育っていく。父親が一人生まれる、というべきか。父親は、帰り際、園長に向かって、「やって良かった、やって良かった」と繰り返したそうだ。

父親は、自分自身を体験したのだ。自分のいい人間性に気づいた。自分の中には、いい人間がいる。幼児だった頃の自分もいる。(男たちが、園児たちに混じってそういうことに気づくと強い。魂の震え方、信頼を呼び覚ます共鳴の仕方を、幼児たちが男たちに教える。)

男性園長は、その話をしながら、とても嬉しそうだった。

(こうして幼児が父親を育てる時、自立とは対照的な真の「強さ」が、いともたやすく社会に満ちていく。「教育」とは別の次元のところにある「子育て」が、涙とともに目を覚ます。)