「保育者体験」と「読み聞かせ」

 

逝った父(松居直)の、福音館書店主催の「お別れ会」があって、会社が作ってくれたパネルに、懐かしい絵本に囲まれた父の幸せそうな笑顔がありました。

私が好きだった本。読んでもらった本、自分が子どもに読んだ本、小学校の授業で使われたものもありました。

元々、金沢の書店だった福音館は、母方の祖父が起こした会社です。

東京に出てきたとき、父が編集長として絵本の出版を始めたのです。(その前に、同志社大学の学生だった父と母の恋愛という出来事があり、それがなかったら、絵本の福音館はなかったわけですが……。それどころか、私も、なかった。)

小さい頃、家にいろんな人が下宿をしていて(今江祥智さんとか、学生服姿だった藪内さん)、祖父の家に編集部があった時期は、学校帰りに「お邪魔」し、夏休みには、母や祖母が、大きな釜でご飯を炊いたりするのをながめたり、昼休みに路上で社員の方がするバドミントンに入れてもらいました。

ですから、この本たちは、私の人生の一部でもありました。

(その後、ミュージシャンやプロデューサーとして、私自身もカタログを作っていきました。デジタルドメインに滑り込んだお陰で、ネット上で「Kazu Matsui」や「Kazu Matsui project」で検索すると、まだ生きています。Google Musicやアップルストアでも扱っています。まるで、子どものような気がします。)

 

私は、三十年以上日本で講演をしてきましたが、松居直との関係については特に言わなかったので、知らない人も多いと思います。いま、父が逝ってしまったことをきっかけに、もう一度、読み聞かせの素晴らしさ、その不思議な力、重要性について、発信しなければと思っています。

 

インターネットを使う幼児の低年齢化が進み、二歳児の平均利用時間が一日六十五分だそうです。https://www8.cao.go.jp/youth/youth-harm/chousa/h28/net-jittai_child/pdf/gaiyo.pdf 。これは、「平均」です。

使わない子どもも居るでしょう。でも、2時間、3時間という子どもも、相当数いるはず。二歳児です。つまりこれは、親たちの選択なのです。

「失われた時間」と見なすには、この時間がもし「読み聞かせ」に使われていたら、と想像し、質を比較するか、なぜ、失われたのかという「動機」を考えてくしかないのですが、幼児と過ごす時間に対するイメージと価値が、急激に変化している。

少子化に煽られ、0歳児保育を税金を使って増やしていった政府や経済界の意図を考えれば、操られている、と言ってもいい。

「ママがいい!」と言おうとした声が、ゲームや映像、機械によって封じられて、やがて、それが「子どもたちの選択」になったとき、コミュニケーションの中心から「心」が欠けていく。

ある保育園の理事長が、0歳児を預けに来た親たちに言っていたフレーズが聞こえます。

「いま預けると、歳とって預けられちゃうよー」。

 

「可愛がる」ことの価値が希薄になってきている。

利他の幸福感や、優しさの肌ざわりが、双方向に親子の時間から奪われていく。それが、社会全体のモラルや秩序の欠如につながっている。

幼児期の親の意識の格差が、「集団で行われる保育や教育」に確実に影響し、「二歳児のインターネットの平均利用時間」の増加から、それが読み取れる。「失われた時間」が連鎖し、幾人かの子どもが流れを遮ることで学級崩壊が起こり、教師の精神的健康が保てなくなる。

二千人と言われる教員不足が、二倍三倍になっていくのでしょう。その原因を文科省は、特別支援学級を増やしたこと、と言うのですが、増やさざるを得ない状況にしたのは、就学前の母子分離に基づく政府の労働施策でしょう。

一体、どうするつもりなのか。

先日、私学会館で、私の講演の前に、子ども家庭庁を進めている内閣府の責任者が講演しました。子ども真ん中、とか、子どもたちの意見を聴く、とかパワーポイントを使って説明するのですが、願いの一番はじめにあった、「ママがいい!」という叫びを未満児保育・長時間保育で封じておいて、何を言っているんだ、と腹が立ってきました。私の番になって、講演で爆発してしまいました。

政府が、0歳から預けることを「補助金の出し方」で強引に推し進め、労働施策を「子育て安心プラン」と名付けたあたりから、(それを世論が、受け入れたあたりから)、この国も、危うい一歩を踏み出したのです。

0歳児の「願い」が、唐突に視界から消えていった。

その流れの中で、人間の脳が育つ環境が、「利便性」や「損得勘定」で汚染されつつあります。それが、学級崩壊や家庭崩壊につながっている。

「出会いの場」としての絵本の存在意義を見直すときです。

 

前回のブログにこう書きました。

よく、講演の後で、子どもが言うことを聞いてくれない、どうしたらいいでしょう、と質問を受けることがある。そんな時、絵本の読み聞かせをしてみてください、と言います。

絵本から始めて、パディントンや寺村さんの王様シリーズにつなぎ、リンドグレーン(長くつ下のピッピ、やかまし村、わたしたちの島で)、インガルス・ワイルダー(長い冬、はじめの四年間、農場の少年)、そして、サトクリフの「太陽の戦士」にまでつなげるのが、私の「オススメ」です。

小学校を卒業するまで、いや、中学生になってからも……。自分自身に語るのでもいい。いい児童文学には、人生を計る「ものさし」が生きています。

親子の体験の絶対量が減り、様々な問題が起こっている。だからこそ、読み聞かせ、という双方向への「体験」が、親子の絆にいい。就学前に、この習慣を身につければ、この国の、あの雰囲気が戻ってくる。

「お別れの会」に展示されたパネルを見ながら、絵本は子どもが読むものではなく、語ってもらうもの、という父の主張が、今こそ、生き還る時だ、と思いました。私たちにとっては、「別れ」ではないのです。これからが、ともに生きる、共同作業です。(前回からの引用、ここまで)

 

文章をブログに上げてから、私の保育や子育てに関する考え方や、七冊目の著作「ママがいい!」を書いた土台になっている児童文学が、我も我もと浮かんできて大変です。

スピアの「カラスが池の魔女」、ピアスの「トムは真夜中の庭で」、ルイスのナルニア国物語、トールキンの「指輪物語」、ブラウンの「わが魂を聖地に埋めよ」。児童文学ではありませんが、幼児の存在意義と重なった、ガンジーの「わたしの非暴力」。

そして、読み聞かせながら、背後にある静けさ、宇宙を親子で感じる、新美南吉と宮沢賢治。

 

児童文学から受け取ったものさし、それは即ち「子どもの目線」ということですが、そういう基準から私は考えることができます。

「ママがいい!」と子どもが言ったら、そうなのです。

これは、正直な、大地の宣言。

それを覆すことはできないし、その言葉から耳を塞ぐことで、人間は「人間らしさ」を自ら封じ込めていく。自由だとか自立、なんて言葉は児童文学では、絶対に通用しない。

(「わたしたちの島で」のチョルベンから、それを教えてもらいました。)

このくらいにしておきますね。とりあえず。

 

(銀座の教文館で3月15日から4月12日まで行われる父の回顧展、4月5日6時、「私と児童文学」というタイトルで私も講演します。児童文学からもらった「感覚」について、話します。)

 

「こどものとも」は、月刊という仕組みが良いのですが、岩波の「はなのすきなうし」「ちいさいおうち」「ひとまねこざる」「おかあさんだいすき」なども、石井桃子さんがご自宅でやっていた「桂文庫」で、一人ずつ応接間に呼ばれて石井先生に読んでもらいました。(石井桃子さんは、松居家では「石井先生」です。安野(光雅)先生は、本当に私の小学校の工作の先生でしたから、安野先生です。)

その後、自分で読む方に移って、岩波書店に、よりお世話になりました。

 

「読み聞かせ」という習慣を、子どもたちのためだけではなく、親たちが「気づき」「育つ」ために、もう一度習慣づけていければ、「親子の愛着関係が土台になる」社会が蘇ってくる。政府が進める母子分離政策に対抗するとしたら、「保育者体験」と「読み聞かせ」、この手段しかない。

このやり方で耕せば、「学校が成り立つ社会」が返ってくる。「ママがいい!」という言葉が尊ばれる社会が復活する。

「義務」である九年間が、多くの子どもにとって「いい時間」であってほしい、いま、それを強く感じています。

 

中学生くらいから、幼児に読み聞かせる「喜び」を体験させていくのがいいのです。幼児と過ごす体験が、いいもの、という感覚を取り戻せば、人生における利他の幸福感を味わえるようになる。

(「ママがいい!」に、中学生の保育者体験について書いた文章です。)

長野県茅野市で家庭科の授業の一環として保育者体験に行く中学二年生に、幼児たちがあなたたちを育ててくれます、という授業をして、保育園に私も一緒について行った。

生徒たちは、図書館で選んだり自宅から持って来た幼児に呼んであげる絵本を一冊ずつ手にしている。

昔、運動会の前日てるてる坊主に祈ったように、絵本を選ぶ時から園児との出会いはもう始まっている。

男子生徒女子生徒が二人ずつ四人一組で四歳児を二人ずつ受け持つ。四対二、これがなかなかいい組み合わせなのだ。幼児の倍の数世話する人がいる、両親と子どものような関係となる。一人が座って絵本を読み、二人が園児を一人ずつ膝に乗せる。もう一人は自分も耳を傾けたり、園児を眺めたりウロウロできる。このウロウロが子育てには意外と大切なのだ。

園児に馴染んできたところで、牛乳パックと輪ゴムを利用してぴょんぴょんカエルをみんなで作って、最後に一緒に遊ぶ。

見ていてふと気づいたのは、十四歳の男子生徒は生き生きと子どもに還り、女子は生き生きと母の顔、お姉さんの顔になる。慈愛に満ちて新鮮で、キラキラ輝きはじめる。保育士にしたら最高の、みんなが幼児に好かれる人になる。中学生たちが、幼児に混ざって「いい人間」になっている自分に気づく。女子と男子が、お互いを、チラチラと盗み見る。お互いに根っこのところではいい人なんだ、ということに気づけば、そこに本当の意味での男女共同参画社会が生まれる。

帰り際、園児たちが「行かないでー!」と声を上げる。それを聞いて、泣き出しそうになる中学生。一時間の触れ合いで、世話してくれる人四人に幼児二人の本来の倍数の中で、普段は保育士一人対三十人で過ごしている園児たちが、離れたくない、と叫ぶ。その声に、日本中で叫んでいる幼児たちを聴いた気がした。涙ぐんで立ち去れない幾人かの友だちを、同級生が囲んでいる。それを保育士さんと先生たちが感動しながら泣きそうな顔で見ていた。