「園長先生と刺しゅう」

保育士は、資格を取る際、「福祉(保育)はサービス、親のニーズに応えよ」と政府の方針を教えられます。経営者の中にも、そう思っている人たちがいる。

これは、体験に基づいていない情報です。

(「情報は知識ではない、体験が知識なのだ」と、アインシュタインが言いました。政府がつくる「仕組み」や高等教育によって、「智の退化」が進んでいる。)

人間を管理しようとする作為的な情報に保育士が支配され、子どもの「願い」、「古(いにしえ)のルール」が見えにくくなっている。優先順位を忘れる人が現れ、保育現場における不信感が広がっている。

共感が遮断され、子どもの気持ちになれる人たちが「子育ての現場」に居づらくなっているのです。その悲しみがネット上の告白から伝わってきます。

保育者養成校では、政府の保育施策における優先順位が、「子育て」のそれと完全にずれていることを学生たちに教えていない。「社会で子育て」という言葉でごまかして「仕組み」の維持を優先している。そこに、園児虐待のような、常軌を逸した行動が起こる原因があるのです。

保育現場は、いまや、多くの子どもにとって生まれて最初の五年間になっています。人類にとって一番大切な、「輝くべき」「驚くべき」「感謝すべき」五年間が、社会が「利他」という人間性を失っていく場所になりつつある。

保育室における心の分断は、親のニーズと子どもたちの願い、その食い違いから起きています。

本来は次元の異なる、あってはならない矛盾の板挟みになった保育士たちの、自分は「どう生きるか」という選択が、「子育て」という最小単位の「社会」に亀裂を生んでいるのです。

 

 

「園長先生と刺しゅう」

全国あちこちに師匠と思っている園長先生たちがいます。先進国社会特有の家庭崩壊の流れを止められるとしたら園長先生たちが鍵を握っている、と思っています。

親が、まだ親として初心者のうちに幼児としっかり出会わせることが一番自然で効き目のある方法です。長く、こういう講演をしていると、達人のような園長先生に出会うのです。

 

もう三十年前になるかもしれません。こんな人に会い、こんな文章を書きました。一見無駄のように思える「刺しゅう絵」という作業が、親たちの人生に深みを与え、その感性を豊かにする。こういう園長たちが大地の番人のように、居た。

 

先日(注:30年前)、横浜南区のあゆみ幼稚園で講演しました。

講演の一週間前に、30年間の園の歴史をまとめた一冊の本が送られてきました。「育ちあい」という本でした。感動しました。

母親たちに毎年、園長先生が子どもが描いた絵を一枚選んで、その絵を元に、刺しゅう絵を作らせているのです。布を一枚渡し、子どもの絵を丁寧にトレースし、布の上に写しとり、そっくりそのままに刺しゅう絵に刺してゆくのです。

園長先生は言います。

「子どもがどこからパスをスタートさせたかを読みとり、パスの動きを追いながら一針一針進めます。そして約一ヶ月をかけて完成し、原画と共に園に提示して家族そろって鑑賞しあいます。もちろん祖父母のみなさんも大勢・・・」

子どもたちが10分ほどで描いた絵でしょう。

普通だったら幼稚園から持って帰ってきた絵をちょっと眺めて、ああ上手だね、と誉めてやって終わってしまったことでしょう。その絵を母親が何日もかけて同じ大きさの刺しゅうに仕上げてゆくのです。

本には、子どもの絵と母親の刺しゅうが上下に並べられたカラーのページがあって、それは見事でした。筆先のかすれているところまでちゃんと糸で表現してあるのです。

そして、その絵の下に、母親たちの感想が載っていました。私はそれを読んで、園長先生の達人ぶりに驚かされました。

 

「『やった!やった! ああよくやった』13日午前1時30分、一人で声をだしてしまいました。この4~5日、深夜に集中できました。子どものために、こんなに一生懸命になれることって何回あるでしょうか。さあ、今夜はゆっくり・・・」

「鳥の後ろ足の部分は主人が刺してくれました。刺し終えた時は、主人と二人で思わず『できたね』と声をかけあいました。いい思い出になると思います。」

「どんな巨匠が描いた絵より『ステキ、ステキ』と自画自賛しています。刺しながらどんどん絵の世界に引き込まれていきました。試行錯誤しながら作る過程は、まるでキャンバスに絵の具をおいていく楽しさでした。」

「できました! 3枚目です。もう最高です。産みの苦しみも赤ちゃんの顔を見たとたん忘れてしまう、今、そんな気持ちです。息子は左利き、私は右利き、同じような線にならず何回もほどきました。もうこの子のために、こんなに長い時間針を持つことはないだろう・・・、そう思いながら刺しました。今、一つのことをやり終えた充実感と三人分無事終えた安堵感でとても幸せです。」

「『お母さん、まだ、こんなところなの? ボクなんて、サッサと描いたんだよ』と息子が横目でチラリ。私だってどんなにサッサとやりたいか・・・。眠い目で遅くまで刺し、目を閉じると絵の線が、はっきり浮かんで夢にまででてくるのです。やっと終わった!という喜びと、もうこれで最後なのだという寂しさと・・・。この素晴らしい刺しゅうを持っている子どもたちは幸せだと思います。」

「途中でめげそうになった時、主人が少し手伝ってくれ、その姿を見て子どもも目茶苦茶ではありますが『手伝っておいたよー』と。よい思い出と、よい記念ができました。」

「この一ヶ月睡眠時間を削り、家族には家事の手抜きに目をつぶってもらい本当に大変でした。でも苦労した分だけ満足感も大きく主人から『ご苦労さま!』と声をかけられ、こどもからの『ママとても上手だよ。そっくり!』のひとことでやってよかったと思いました。」

「先輩のお母さまが相談にのってくださり、前年度の作品を参考にと貸してくださいました。『私だって初めの時は、同じように先輩にしていただいたから』のことばに胸が熱くなる思いでした。くじけそうになった時に応援してくれた主人と子どもたちにも感謝の気持でいっぱいです。」

「一針一針刺していると小さな針先から子どもの気持が伝わってくるのです。こんな素敵な、あたたかい気持との出会いができた刺しゅうに感謝します。」

「でき上がりました。目の疲労を感じながらも心は軽やかです。刺しゅうをしていくうちに、だんだんとこの絵が好きになっていくのです。とても不思議なことでした。いとおしいとまで思うようになりました。」

「すてきな絵を描いてくれた娘に・・・。家事を協力してくれた主人に・・・。アドバイスや励ましをくれた友達に・・・。何よりこの機会を与えてくれたあゆみ幼稚園に心から感謝を込めて。」

 

人間社会を家庭崩壊の流れから救う鍵がここにある。教育論や社会論、子育て論や福祉論、保育論を吹き飛ばす、すべてがある。

母親たちを動かすのは園長先生の人柄でしょうか。(祖母のような方です。)

 

園長先生にたずねました。「強制的に全員にやらせるのは大変でしょう」

すると園長先生は「いえいえ、強制じゃないんですよ。やりたい人だけなんです。でも100%志願なんです。それが嬉しいです」

私はハッとしました。そうなんだ。まだ日本の母親たちはすごいんだ。こんな園長先生の心を生き続けさせているのは、それにしっかり応えている母親たちなんだ。

「もう30年もやっているんですが、最近になって母親たちの間に、刺しゅうのやり方を伝えるノートが代々受け継がれていることを知ったんです。先輩の母親から、本当に詳しく、少しずつ書き加えていったんでしょうか。このクレパスの赤い色を出すには、何々社製の何番の糸がいいとか、かすれている部分をうまく表現するテクニックとか色々あって、そのノートが伝承されていくんです。子育てもやっぱり伝承ですから、先輩から次の世代のお母さんへ、受け継がれてゆく大切なもの、気持ち、がその中にあるような気がして嬉しかったんです」

 

わが子の絵を刺しゅう絵にする。

この一見意味のないように思える妻の無償の努力を傍らで見つめる夫。自分の描いた絵が時間をかけて少しずつなにかとても立派なものになってゆくのを、わくわくしながら見つめる子ども。一枚の刺しゅうを囲んだ家族の心の動き。

 

自分の手で再現されてゆくわが子の絵を見つめ、針を運びつづける母親の心。針の先に見えてくる絆・・・。

将来この一枚の布を見るたびに、母親の心に一ヶ月の凝縮された過去の時間がよみがえるのでしょう。

こんな課題を母親に与えてくれる園長先生がいた。

これは理論ではないな、と思いました。

 

子育ての「負担」を軽くしようと、延長保育やエンゼルプランを園に押し付けてくる文部省や厚生省の役人には、こういう大自然の摂理は理解できない。

 

発想が全然違う。

幸福感の次元が違う。

宇宙に対する見方が違う。

魂に対する理解度が違う。

 

園長先生が、幼児を見つめながらこれほどまでに心眼を磨いて真理を見ている。

親たちに「親」というひとつの形を舞わせている。その様式美に夫と子どもがちゃんと気づく。

「かたち」から入る日本の文化の真髄がここにあるのでしょう。理屈ではなく、かたちなのです。

人生は出会いだと言います。こういう人に出会える親たちの幸運。子どもたちの幸運。私の幸運。

さっそく次の日、鹿児島でこの話を園長先生たちにしました。

 

「すごい!」

「鳥肌がたつわ」

「私も頑張らなきゃ!」

 

口コミやSNSで、「ママがいい!」に書いた子どもたちの願いが少しずつ、広がっている気がします。保育士会からもっと聴きたい、と講演依頼が来ます。

マスコミも、保育施策に対する見方が変わってきているように思えます。義務教育における教師不足と、不登校児の異様な増えかたが、もう待ったなし、という感じです。やっと、みんな幼児の願いに耳を傾け始めている。

幼児期の体験の重要性が言われますが、昨今の母子分離(広く、幼児と過ごす時間の欠如)が仕組みによって行われていることを考えると、様々な形で、「幼児を体験すること」の方が重要になってきていると思います。

小学生、中学生から「幼児と過ごす」機会を増やしていく。やり方については、「ママがいい!」に実践例を書きました。

 

「ママがいい!」と、言っているのは、私ではありません。子どもたちなのです。その言葉に素直に反応していけば道筋は整うのです。

 今、世界中で、人間社会の土台になっていた「共感」の断絶が、進められている。

どんなに予算を使っても、保育も学校も、児相も養護施設も人材的に限界が来ています。共感に幸せを感じる人間の本能が、「社会で子育て」、実際は「仕組みで子育て」という学者(強者)の言葉に背を向け始めている。

子育てを、親に返していくしかないのです。それが、子どもたちの願いです。

FBの友達リクエスト、シェア、ツイッターのフォロー、リツイートなど、どうぞよろしくお願いします。このままでは、学校教育が持ちません。子どもたちが導き、その存在が社会を鎮める。その感覚を取り戻せばいいのだ、と強く感じています。

ブログの更新もしています。

(ブログ:http://kazu-matsui.jp/diary2/、ツイッター:@kazu_matsui)