船中八策(私流)/子ども中心に

 もうすぐ夏休み。新入園児たちの生活も落ち着き本当の意味で保育園の生活がはじまっています。最近毎週二つ保育園に講演に行くので、都会から田舎まで、子どもたちの楽しそうな声に何度も囲まれます。
 しかし同時に、0、1、2歳が、親の知らないところで苦しんでいる風景がなぜか集中して私に告げられます。親の目の届かないところにいる子どもたちが増えているからでしょう。この国はまだ大丈夫、と25年間言い続けてきた自信がふと崩れそうになる時があるのです。
 数字を見れば、欧米に比べ奇跡的に状況は良いのです。半数の子どもが未婚の母から生まれ家族という形が社会の基盤ではなくなり福祉が限界にきているフランスや北欧。人口の100人に一人が刑務所の中にいて、教師の質が低下し高卒の2割が社会で通用するだけの読み書きができないアメリカ。半世紀にわたる子育ての社会化により家庭の力が弱まりシステムそのものが疲弊し経済不況がそれに追い打ちをかけているのが先進国社会に共通した現状です。
 しかし、比較して欧米よりいいからというのはもはや気休めに過ぎません。日本も引き返せないぎりぎりのところまで来ています。

 保育の現場で職員に欠員が出ても保育者がなかなかみつからない。
 規制緩和が進み、家庭保育室という名で100人規模の認可外保育所がつくられている。
 二つの動きのうしろにある動機の方向性の矛盾を考えれば、子どもたちが育ってゆく環境に明らかに無理が生じているのです。
 公立の保育士の6割が非正規雇用、多くの保育士が、生活保護受給者より低い手取り賃金で国の魂のインフラに関わる仕事をしています。一部の都会を除けば親たちへの対応も、年々厳しくなってきています。
 派遣会社が保育科の学生の青田刈りをし、株式会社はサービス産業と企業の論理を保育士に教えようとします。
 競争原理は保育界においては成り立たない。成り立ってはいけないのです。
 サービスの相手が親たちであって子どもたちではないからです。そのことに気づいた保育士たちは生き甲斐を失い離れてゆく。実習で気づく学生もいます。ビジネス主体に保育を考える人たちは、子どもたちの笑顔に囲まれていたい保育士たちの幸福観を見誤っています。

 役場の職員が止めても、いい事をしているつもりで「三人目を産めば保育料無料」という施策を進めた町長がいました。山の中の小さな町です。0歳から預ける親が一気に増えます。得した感じがするからです。福祉が社会から人間性を奪う仕組みに町長は気づいていない。この町に生まれた三人目の子どもは、三人目というだけで親と過ごす時間を奪われる可能性が高くなったのです。つい最近まで政府が進めようとしていた「子ども・子育て新システム」も、5年以内に三歳未満児を25万人あずかろうという目標を始めに掲げた雇用労働施策でした。子どもの願い、保育士の思い、現場の窮状を理解していないのか、理解したくないのか。衆議院と参議院のねじれがなくそのまま通っていたら、と思うとヒヤッとします。この国は運がいいと思うのです。
 児童養護施設が虐待を受けた子どもたちでいっぱいです。これ以上引き受けられない状況が続きます。この親子はあぶないと思ってもすぐに受け皿がない。保育園が代わりの施設として使われはじめています。親子を引き離すことで子どもを守らなければならない状況を作り出すことがどれほど高コストとなって還ってくるか、国全体が理解していい頃だと思うのですが。
 役場の職員も、保育者も、教師も、限界に近づいています。システム自体がすでに矛盾を抱えおかしくなっているのに、それを担っている人たちがそれを職業にしていることで落ち度を批判される。「いじめ」は、父親同士が友だちかもしれないという意識を子どもたちが持っていたらまず起きません。起きたとしても容易に止められます。
 子どもたちが起こす問題の多くが、大人たちが絆を作っていないことに対する子どもたちの警告です。大自然からのメッセージです。子どもたちを監視し指導しても解決はしません。

 「子育て」が中心にあった人間社会の心の動線が迷路に入っています。

 園で写真を撮る仕事をしている人から告げられたのが最近
の報告でした。時間以内に済ませるためでしょう、泣いている子どもの口に保育士が食べ物を押しこみ続ける、可哀想で見ていられない。そんな園で、親に渡すアルバム用に写真を撮ってくれと依頼される。もともと感性で仕事をしている人間が悪意のない利害関係のなかで
この光景を見せられる。シャッターを切るべきなのか、そうでないのか。
 社会全体が人間性を失い、人の動きがシステム化し無感覚になりはじめている。その無感覚さが子どもたちを包んでいます。この先この子たちがどう進化してゆくのか心配です。
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誰が育てた子なのでしょう

 

 都内の小学校のPTAで講演しました。講演後に、どうしても、と個人的に質問をされた方が数人いました。

 小学校の低学年の子どもがいるということは、結婚して十数年、子育てして7、8年、この時期の悩みは深刻です。問題があると、それがそろそろ固定化してきていて、しかも解決方法がわからない。相談相手がいない。家庭内で起こる人間の心の様々なひずみやすれ違いが、DVや児童虐待に進んでいることもあります。心療内科が認知され、母親が向精神薬を飲むケースも増えています。「子はかすがい」ではなく「子育てがかすがい」だったのに、様々な理由で充分に一緒に子育てを体験しなかった夫婦関係にほころびが見え始めるのがこの頃です。

 一緒に子どもを眺める時間の大切さに気づかなかったこともありますが、父親が乳児に人間らしく育ててもらえなかったことが第一の原因でしょう。父親が子どもを授かって最初の三年間、毎日5分でも赤ん坊を抱いていれば、自分を信じきって頼りきって生きている命を実感していれば、ずいぶん一家の人生が違っていたはずです。

 子育ては,人間たちがお互いを眺め合い信頼し相談相手をつくるためにある。男性と女性、若者と年寄りが心をひとつにするためにあるのです。

 経済界がこの点に気づいて真剣に対策を考えないと何をやってもこの国の活力は戻ってこないでしょう。小さい頃、自分が育った時に見ていた父親が生き生きしていなかったのでしょう。20代の男たちが結婚しなくなってきている。男たちが家庭に魅力を感じなくなっているのです。

 学校教育においても、自立とか夢(欲)を持つことを奨励するよりも、人間は自分のためにはなかなか頑張れない、誰かのためなら頑張れる、そして利害関係のない絆を持つことの大切さ、そういう原点のことをもう一度しっかり考え、子どもたちに教える必要があります。自立は孤立につながってゆく。そして福祉はやがて行き詰まる。

 PTAで講演したあとのこと。

 ドキッとするのは、「そんなことをあかの他人の私に尋ねてもわかるはずがない、返事のしようがない」種類の質問を母親から受ける時です。

 カウンセラー、専門家、相談員なら平気で答えるのでしょう。プロですから。仕事ですから。わかりもしないことでも、彼らは一応答えるのです。

 一緒に祈りましょう、とは絶対に言わない。

 専門家が増えると社会に絆が薄れ薬物依存が始まり犯罪が急増する。

 アメリカは、学校のカウンセラーが生徒にすすめる薬物でかろうじて画一教育を維持し教師の精神的健康を保とうとしています。背後には製薬会社の利権が見え隠れします。学校がきっかけで始まる薬物依存が麻薬やアルコール依存症につながってゆく、そんな分析は15年前にアメリカで終わっています。それでもなぜ欧米が薬物依存から抜けられないのか。社会の動きを決定する意識に「相談相手をつくろうとする方向性」が欠け始めている。

 相談相手をつくろうとする意識の中心にあったのが「子育て」です。子育てを幼稚園・保育園・学校が肩代わりすればするほど、絆をつくる力が社会から消えていきます。

 人生は相談相手がいるかいないかが鍵です。相談相手から良い答えが返ってくるかどうかはではないのです。

 小中学生の親たちの一部に、0歳1歳2歳児とつきあっていれば育っているはずの感性や想像力、「祈り」という次元も含めて、コミュニケーション能力が著しく欠けている。客観的に見れば軽度の発達障害ととられても仕方がない程度まで進んいる。

 (大切な部分なので繰り返しますが、人間は全員なんらかの発達障害で、それを補い合うこと、補い合って人間関係をパズルのように組んでゆくことに幸せを感じてきたのです。その補い合う能力を、非論理的で理不尽な0、1、2歳児とゆっくりつきあうことで身につけてきたのです。補い合う力と意思が希薄になるばなるほど、本来誰でもが持っている発達障害的要素が、人間関係、「絆」や「縁」を育ててゆくための「障害」になってくるのです。)

 一人の母親が聴くのです。

 小2の子どもがどうしても言うことを聞いてくれない。学校から帰ったら宿題をやる、とか、色々ルールを作ってきちんと守らせようとしているのに、嫌だ、という。なぜだかわからない。なぜなんですか?

 母親は、落ち着いて丁寧に説明します。

 「どうしていいかわからない」と言う以前に、「なぜだかわからない」と言うのです。

 子育てをしながら、いまだに論理性で考えているのです。

 0、1,2歳とつきあっていれば、とっくに飛び越えているはずの壁です。人間は多くの思うようにならない者(物)(事)との関係性の中で生きている。じつは、「なぜだかわからない」ことに囲まれて生きているのです。突然地震が起こったり、洪水や干ばつがあったりします。それが人生であって、宇宙であって自分はその一部に過ぎないことを学びます。私はそれを0、1,2歳とつきあうことで幸せを伴いながら学ぶのが一番いいのではないか、と言っているわけです。

 そして、その宇宙の一部でしかない自分が全てと関係性をもっているということをいつか理解し、全体と一部が同一だ、という感覚まで進もうとする。ここまで来ると、ほぼ昔仏教の原点になったウパニシャッド哲学みたいなことになってしましますが、簡単に言うと、水を汲んで運んでくるという作業がないと、水との関係性が希薄になってくるのと似ています。(『簡単ではないですね。すみません。』)

 理性的に見えるお母さんの真面目な相談でした。

 聴けば、0歳から子どもを保育園に預けたそうです。

 私には、その子を育てた園がどんな園かわからない、育てた人がどんな保育士だったかわからない。その子を担当した保育士は五年間に十人はいたでしょう。8時間以上預ければ必ず一日二人以上。そして、毎年担当が代わるでしょう。乳幼児の時、担当制だったのか複数担任制だったのかさえもお母さんは知りませんでした。

 父親は仕事に忙しく週末も子どもの相手をしようとしなかった。いまになって夫に相談しても、母親の責任だろう、と言われる。そして、講師の私にたずねるのです。「なぜですか?」と。

 たぶん、その子がどういう育てられ方、育ち方をしたのかを知る人は地球上に一人もいないのです。つまり、このお母さんには、確かな「相談相手」が現在一人もいないのです。(神様か仏様にでも相談していればまだなんとかなったはずですし、なるはずです。)そのことに本人が気づかなければどうしようもない。子育ては、育てる側にコミュニケーション能力がどう育つか、育てる側にどう絆が生まれるか、が第一の目標であって、子どもがどう育つか、はその後に来るのです。

 

 (専門家は専門家の振りをする専門家。ラジオの子育て相談番組を聞いていればわかります。顔を見ないで、子育てについて電話で相談、というのは乱暴でしょう。「専門家」だったらしてはいけないこと。医療的な知識など役立つこともありますが。)

 

 その場のお母さんの雰囲気から判断し、これから自分が自分の相談相手になれるように、まず子どものわがままを全部受け入れるところから再出発するのがいいかもしれませんね、と話をしました。祈るような気持ちで。

 そうすれば、理性ではなく感性が蘇ってくるかもしれません。

 あきらめ、でもいいのです。それも大切で、確かな出発点なのです。

 

 もちろん、そのまま、特別なにもしなくても子どもは育って行きます。子育てや人生に正解はありませんし、決まっている道筋もありません。親が子どもを心配する気持ちさえあれば道はつながるでしょう。そして、このお母さんにはそれがあります。無関心にさえならずにオロオロと時間をかければ状況は必ずいい方向に変わっていくものです。

 運良く,子どもが学校や塾で信頼できる大人に出会うかもしれない。ある歌手の唄っている歌の詩や、一曲の音楽、一遍の小説、一本の映画が子どもの感性を揺さぶるかもしれない。事故や事件、天災、異常に悲しい体験や苦しみが突然視点を変化させ強い絆が生まれる可能性だってあるのです。わざわざ残って私に相談して来るような親はまず大丈夫なのです。

 (当分変わらないのはその父親くらいでしょう。だから、私は父親の一日保育者体験を早目に、と園をまわって薦めるのです。)

 

 子育ては、親子という選択肢のない関係にある人間たちが時間をかけ試行錯誤を繰り返し、絆を少しずつまわりに増やしながら、たがいに育て育ちあうのが基本です。

 「選択肢がないこと、逃げられないこと」が重要な条件でした。

 利便性に支えられたシステム(福祉,サービス産業)と体験に基づかない言葉(学問、知識)に支配され、多くの人間が、その大切な条件を放棄してしまう。それが、義務教育が普及した後の現代社会の欠陥です。

 そのお母さんが真面目で良さそうな人だっただけに、可哀想だな、と思いました。しばらくすると目に涙を浮かべ、「0歳で子どもをあずけた時には深くは考えなかった、そのときの流れでそうなったんです」のです、と言うのです。

 話を聴きながら、「その子の乳幼児期に関わった、責任を少しでもわかちあう相談相手が一人でもいれば、いまこの人の心持ちはずいぶん違うのだけれど」とふたたび思いました。夫でも、祖父母でも,園長でも、ママ友でも良かった。人生はちょっとした出会い、運で変わってくるのです。

 いまだに言葉というコミュニケーションレベルで解決すると思っているこのお母さんの勘違いを目の当たりにすると、心の絆に欠ける社会で起こりがちな不運としか言い様がありません。

 小野省子さんの詩「おかあさん、どこ」に描かれている、魂のレベルのコミュニケーション能力を身につけていればそんなに難しい対立ではないのです。(http://kazu-matsui.jp/diary/2011/01/post-86.html)
 まだ子どもは2年生、視点を変えれば育ちあう機会はいくらでもあります、と私は言いました。子育てで自分が育つのだ、と少し意識し、子どもの命に感謝すればまわりに起こる様々なことの意味が見えてきて、求めている親子の一体感が生まれるはずです。
 そして、心の中でもう一度言いました。でも、あの子とのあの時期は戻ってこないんです。あの子がその時期をどんな人と過ごしたか、もう誰も気にする人はいない。

 (幼稚園も保育園もないインドの村の子どもたちの姿を思い出します。貧しいのに、一律育ちのよさそうな、いつも学び受け入れる姿勢になっているあの子たち。教師の経験もないシャクティの踊り手たちが、苦もなく教えることができる子どもたち。親子関係が土台にあるとしか考えられないのです。)
http://www.youtube.com/watch?v=_uUnaHuViqk&feature=youtu.be

B01-98c.jpgのサムネール画像

子育てと自分の人生

 

 新聞に載っていたのですが、「子育ても大事だけど,自分の人生も大切にしたい」、◯か×か、という調査が民間企業によってされていました。こういう手法は良くない。入ってくる活字の情報を素直に受け入れてしまう若者たちがこういう設問に簡単にひっかかるのです。

 「自分の人生を大切にしたくない」人なんていません。

 「子育てをしていると」それが、出来ないなら、人類はたぶん二万五千年前に滅んでいます。

 自分の人生は家族の人生でもある、と時間を重ね合わせて考えた方がより安全で安心で快適でしょう。

 自分の人生を大切にすることが、幼い子どもを十時間保育園にあずけて働き続けることだと判断する人がいたってもちろんいいです。ただ、経済競争に多くの人たちを引き込むことによって利益を得ようとしている人たちがしかける強者のトリックにひっかからないように気をつけてほしいと願います。経済競争は一部の勝者しか生まない。そこにギャンブル的な妙な魅力が潜んでいるのです。子育てはその場の損得勘定で計るものではないし、実はたぶんに損得勘定を捨てるところから始まる。

 これは中々対照的な二つの選択肢です。

 決める時にくれぐれも子育てを面倒なもの、専門家に任せておけばいいもの、とは思わないでほしい。なぜなら「その時期」は二度と取り戻せない特別な時間だからです。そして、絶対に忘れてはならないのは、乳児を十時間も他人に、しかもよく知らない人にあずけることは、人類の歴史上あり得なかったことだということ。

 こうしたアンケートや新聞雑誌の見出しに影響され、人生を「大切にしてみて」10年たって、何を大切にしてきたのかわからないまま、気づいた時には子どもは10歳になっている。子どもがどういう風に育ってきたかさえ知らない。わからない。そうならないよう子育てと大切な人生を同一視する人たちの話にも耳を傾けてから決断してもらいたいのです。保育園という仕組みが出来るまで、ほとんどの人間たちが何万年も共有してきた特別な人生の体験を本当に放棄してもいいのかどうか、自分の感性と理性で考えてほしいのです。

 一度失ってしまうと、幼児という不思議なメッセンジャーたちと過ごす人生の魔法の時間は取り戻せない。孫が出来るまで待つしかない。運よく孫を授かれば、のはなしですが。(「保育園に毎日十時間も何年も預けられた子どもは、結婚や子どもを育てることに何の魅力も感じないから、まず結婚したがらないし、子どもを産んでもそれでイライラするようになりますよ」「そういう子は年とった親の面倒なんか見ないし、生きる力が育ちませんよ」とおっしゃる保育園の園長先生だっているのです。)

 しかし、埼玉県では子どもを保育園に預ける親は27%ですから、この時間はやはり人々を魅きつけるのだと思います。幼児と過ごす時間に魅かれるのは、人間の本能だと思います。

 もう二十年も前に書いたアメリカにおけるベトナム難民のことを思い出したので引用します。

 「十数年前、ロサンゼルスの公立高校を成績優秀者で卒業する子ども達に、ベトナム難民の子どもが異常に多い、という報告がされました。数年前まで英語も満足に喋れなかった難民の子ども達が、20%の非識字率を出すアメリカの公立学校を、成績優秀で次々に卒業して行くのです。アジア系の子どもは一般に勉強が出来ます。アイビーリーグなどは既に四人に一人がアジア系の学生だと言われています。これは別に頭が特別良いわけではなく、家庭がしっかりしているからなのですが、その中でもなぜベトナム難民の子どもに偏ったか。ベトナム難民の親子は、戦争、難民という辛い体験を親子で乗り越えてきた人達です。親子で苦労したことによって家族の絆が非常に強くなっている。。「言葉」というのは人間関係によって質も重さも変わってきます。ベトナム難民の親が言う「勉強しなさい、頑張りなさい」という言葉は、普通の親が言う言葉よりはるかに重みがあるのです。そして、ここでもう一つ見過ごしてはならないのは、子どもが親の言うことをある程度無条件に受け入れる親子関係があれば、アメリカの学校が今のままでも機能する、ということなのです。」

「家庭崩壊・学級崩壊・学校崩壊」より。


船中八策


 維新の会とかいろいろあって、船中八策という言葉を最近目にします。私も龍馬けっこう好きなので、この国を土台から立て直す策を一人で練ってみようと思いました。

 1。保育士と親たち、一緒に育てるひとたちの間に信頼関係を築き、いつでも親に見せられる保育の質を保つため「一日保育者体験」をすべての幼稚園保育園で実施する。相談相手のいない「子育て」にならないようにする。
 2。保育者を募集した時に倍率が出る状況をつくる。(最低賃金を時給1300円くらいまで引き上げる。)倍率が出ないということは、園長が保育に責任を持ちきれないということ。
 3。三歳未満児はなるべく親が育てられるように,子育て手当を支給する。(月額五万円くらい。可能なら七万円くらいでしょうか。)同時に、子育て支援センターを使って孤立する親をつくらないようにする。
 4。在園児が減っても、既存の幼稚園保育園が成り立つようにする。保育のサービス産業化(親への)を防ぎ、子ども主体の保育を維持する。
 5。子育てが生きる力の中心にあると考えて、将来の国の活力を保つためにも、経済界が未満児を持つ親の残業を制限する。
 6。保育の位置づけを義務教育並みにし、幼児期の親との関係が双方向への育ちあい、育てあいであることを理解し、この時期の親子関係が安定することを国の安定とする。
 7。小学生から大学生までの幼児との体験を意識的に増やす。
 8。少子化対策の根幹に、子育てを通した男女の信頼関係の復活を据える。

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 いなかの田んぼのなかの公立保育園で講演しました。いいことをしようと思った町長が四つある公立園に看護士を一人ずつ配置してしまったのです。

 職員室で看護士がため息まじりに言うのです。「私がここにいるから、園で子どもが熱を出しても親が迎えにこない。来ようとしない」

 病気に素人の自分が会社に頭を下げて迎えに行って連れて帰るより、看護士がいる保育園に置いておいた方がいいでしょう、という理屈です。正論です。ただし、熱を出している「子どもの気持ち」が親に見えない。看護士さんが心配するのはそこです。理性が支配し、感性が育っていない。

 最近の子どもたちが、登園時に熱を下げるために親が貯めている薬で抗生物質漬けになっている、ひょっとして男の子の草食系化はこのあたりに原因があるのでは、という「不都合な真実」について話していたときです。看護士さんが怒って言います。

 「小児科でもらってくる薬だったら、まだいいです。最近の親は内科で抗生物質をもらってくるんですよ。内科。しかも、それをちゃんと私に言わないから怖い」

 薬事法違反みたいなことを、子どもを保育園に置いてゆくための手法、手段として、親たちが気軽にするようになってしまった。田んぼに囲まれた田園風景のなかで。

 「私が、ここにいないほうがいいんです」


 待機児童もいない田舎の町で、大人の都合で子どもたちがわけもわからずに薬を口にする。親を信じて口に入れる。それが小児科でもらった薬でないことが、この国の何かを決定してゆくことを看護師は知っている。だから怒っているのです。子育ては専門家に任せておけばいいのよ、と言った厚生労働大臣の声が遠くで聞こえます。

 看護士の「私が、いないほうがいいんだ」という思いが、やがて、保育士の「私が、いないほうがいいんだ」という思いになり、それがいつか子どもたちの「いないほうがいいんだ」という声につながってゆく気がしてなりません。

 私たちから、自分一人では気づきようがなかった掛け値なしの自分を引き出してくれる不思議な人たちを、こんな風に騙していいわけがない。


 保育者が不足しています。公立の正規採用でもないかぎり、ハローワークに募集を出しても、一人応募してくるかこないか、というのが全国的な現実です。あぶないな、大丈夫かな、と思ってもとりあえず雇うしかない。ひやっとする出来事が増えています。雇ってから、しまった、と思っても解雇するのはなかなか大変です。

 その保育士のせいではなく、資格を取る前にふるいにかけられなけばいけなかったケースが増えています。この仕事に
は向いていない性格の人がいるのです。こういう人を解雇するのは本当に気まずいのです。園長主任の心労がたまってゆきます。


 特定の保育士に怯える子どもたち。


 (保育士を募集したときに、1.5倍くらいの倍率が出るようにしなければ、保育の質は保てません。そこに居てはいけない人を排除することさえできません。大学や専門学校の保育科が軒並み定員割れを起こしています。願書を出せば全員国家資格をとる。有資格者の質が急速に悪くなっているのです。教師の非正規雇用が時給二千六百円なのに保育士は八百五十円、九百円でやっています。その保育士たちに私は、子どもたちのために親子関係にまで踏み込んで下さいとお願いして歩いているのです。告示化された法律、保育指針にもそれが保育園の役割と書いてあるのです。)


 待遇面での改善がすぐに望めないなら、状況を変えるために、まず第一歩として親たちが保育園に感謝してほしい、というと、何言ってんだ当然の権利なんだよ、と笑う親がいるのです。彼らは、保育界が保育士不足で危険水域に入っていることを知っているのだろうか。それは国の責任だ、と言っても良い保育士たちは戻って来ない。


(私は、新刊「なぜ、私たちは0歳児を授かるのか」に、4年前「保育士やめるか,良心捨てるか」という章を書きました。それが、いま起こっていることなのです。)

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