省子さんの詩/理科の点数/自立

詩集ホルダー茅野.jpgのサムネール画像
 茅野市で、小児科や産婦人科の医院で小野省子さんの詩集「おかあさんどこ」を置いてくれることになりました。(http://kazumatsui.com/genkou.html:原稿集のページからダウンロード出来ます。)
 これは、市役所で作ってくれたフォルダーの写真です。母親が訪れそうな場所に小野さんの詩集を置く試みは所沢市でも始まっています。こつこつと、ことことと、意識が一つになってゆくといいのですが。
 子どもが意識の中にいると、人間たちが育つ。絆が育つ。
 詩集から二つ、解説してみます。

つながりのあるだれか(東日本大震災)

 

避難所をうつすテレビの画面に向かって

五歳の息子は叫んだのだ

母親にしがみつく 小さな男の子を指さして

「あれはぼくのお友達だよ!」

「違うよ。よく似ているけれど違う子だよ」

なだめる私に首をふり

以前公園で遊んだ、名前を知らないお友達だと

何度も悲しげに繰り返すのだった

「あれは僕のお友達だよ!

 あれは僕のお友達だよ!」

繰り返しひびく息子の声が

私の心を小刻みにゆらす

 

そうかもしれない そうなのかもしれない、と

いつのまにかつぶやきながら

私は、まばたきもせずに

唇をかんだ

 

(解説:真実というものの領域が広ければ人間の思考能力、想像力、許容する力が育っていきます。母親が、事実や現実を離れた「真実」を子どもとの会話の中でひろげてゆく。こういう領域が子どもを中心に文化として存在した。それが昔話やおとぎ話、ピーターパンの中に見えるのです。「真実」を未来にとって必要なものにしていた。

 こういう非論理的な理解力を体験する瞬間に育ってゆく人間の能力を、「子育て」の中に見ようとしないから、思考する力、想像する力、許容する力が減少してゆくのです。それを学校教育の責任にしているのですから、教育を取り巻く者たちは、人間が育つことの意味を理解していないように思えます。理科教育や応用力は、一才児が「噛みつく」という表現方法で主張をしはじめた時に、すでに衰え始めているのです。)

 

一人でできることが

 

「一人じゃなんにもできないくせに!」

そうののしった私を

幼いあなたは

決して忘れはしないでしょう

 

そして未来のあなたは私のことを

「一人じゃなんにもできない人だったのだ」と

そう思い出すでしょう

 

そうです

子供にそんなことを言う大人は

一人じゃなんにもできない人です

お母さんはそういう人でした

だけど あなたのおかげで

一人でできることが

一つずつ 一つずつ ふえていったよ


(解説:子育ての目的は、人間が一人では生きられないことを、双方向に、幸福感を持って自覚すること。自立なんていう言葉が、目標のように語られるようになったのも、幼稚園・保育園・学校という最近の仕組みが、子育てを人類から奪ったことにあるのでしょう。自立を目指せば、孤立し、絆は生まれない。自己責任は多くの場合自己嫌悪につながります。自己嫌悪が人間には致命的なのです。)

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