インドへシスター・チャンドラを訪ねて(その3)

  グジャラート州のアーメダバードはマハトマ・ガンジーの生まれた地。JayaTVのニュース出演は移動中で見れなかったのですが、日本でネットで見た教え子が結構演奏してましたよ、とメールをくれました。もうすぐシスターたちも33時間かけて列車で着きます。明日は不可触民の人々一万人と大行進みたいです。

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 学校教育はITピープルを育てる。敏感な親は価値観の崩壊を恐れています。150年かけてアメリカで起こったこと、私が学校や福祉と家庭の共存は少なくとも欧米ではできなかった、だから日本は何とか別の道を、と言い続けてきたことが、ここ15年位で一気に起こっている感じです。しかも次元と速度がバラバラに。

 競う、の反対側にあるのが、祝う、かもしれない。陰陽の法則のように両方とも一人では出来ない。インドの風景の中には、ITというバーチャルリアリティーと共存して、ヒンズー教という強烈なバーチャルリアリティーが昔からあって落とし所を争っている。バーチャルが理性と重なると恐ろしいが、非論理性があれば大丈夫なのかもしれない。

 シャクティセンターで過ごした最後の日に、4年前来日した時のリーダーだったエスターが一時間半バスを乗り継いで私を訪ねてくれました。来日した時、インタビューに答えて、良くない夫に当たったら「良くするのよ」と、十九才で言い放った彼女、良い夫に当たったみたいで少し貫禄もついて元気そう。可愛い姪っ子を連れて訪ねてくれました。シャクティの卒業生は良い夫に当たる、とシスターが言っていました。

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 結婚二年で子どもが出来ないエスター、結構みな心配しています。結婚=子づくりという意識が村では強いのです。当たり前と言えば当たり前。だから日本では結婚しない男が増えるのでしょう。シェアハウスで充分?淋しくなければそれでいい。それは、自然の流れかもしれません。さとり世代、結構好きな言葉です。昔我々がニューエージと呼んでいたのはこの人たちのことかもしれません。

 「自分でで育てられなくても社会が子育てをすればいい、未婚の母を増やせば少子化は解決する。欧米では、」そこまで言い切る経済学者や社会学者がいるのです。自分で育てられないのなら生まない、この感覚の方が日本的で本来の人間性に合っていると思います。国の経済活性化のために人生を送っているわけではないし、崩壊家庭を増やしても本当に経済が良くなるとは思えない。

 誠実に乳幼児に向き合うことで、人間は育つ。幼児の愛は束縛のように見えるかも知れないが、あなた自身であれ、という愛。幼児に愛される。これが人が体験しうる一番純粋な愛かも知れない。駆け引きのないこの愛を多くの人間が体験することがひとつになるために必要。そして一人では祝えない。親の決断でその時間の意味が決まる。

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 マハトマ・ガンジーの初期のアシュラムが記念館になっていました。いくつか掲げられていたガンジーの言葉の中に、「愛の法則を、人間は幼児から学び、理解する」と書いてありました。ガンジーのサッティアグラハは、幼児が人間からいい人間性をひき出す法則が元になっているのでは、と薄々感づいてはいたのですが、やはりそうなのでした。

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 アンベドカルの生誕祭、気温40℃、一万人の行進にシャクティの太鼓が拠点で加わる。小学生はトラックの荷台から叫んでいる。「キリスト・回教徒の不可触民にもScheduled Cast Statusを」の旗が見えます。大学、教職、公務員などに法律で定められているダリット枠に入れろということ。出生届に入るカースト名で守る権利しかない。小学校入学時にまだ全員がカーストを教師に申告する。ーストによる不利益を、福祉や権利によって是正しようとする仕組みが、カーストを存続させている。では、どうすればいいのか。アンベドカルが憲法を書いて70年が経つ炎天下、それでもシャクティの娘たちは太鼓を叩いて胸を張って歩き続ける。私も、シスター・フェルシーに頼まれた写真を撮りながら必死についてゆく。

 行進したあと集会所で、アンベドカル派のリーダーにつかまる。怒りと我慢が限界に達し、イライラを一人の外国人にぶつけてくる。ダリットと回教徒でインドから分離すればいいんだ、でも纏まらないんだ自分たちが、と吐き捨てる目がギラギラしている。見かねて、友人の神父がうまく連れ出してくれる。

 砂漠の部族の子どもたちの教育をミッションにしているイエズス会の神父。ダリット出身というだけで家に招かれても、一人ガラスのコップでお茶を出される。家族や上位カーストの客は金属のコップ。周知の上で、そんなことが神父に行われる。Untouchabilityを憲法で否定して65年経っている。

 砂漠に水を撒くような、何も価値がない努力のように思えても、シスターは踊り手たちと歩き続ける。

 次の日の晩、三日月の下、グジャラート法科大学の巨大な憲法記念碑の前でシャクティが踊った。観客はほとんど居ないのに、記念碑に音を響かせて、踊った。この踊りは、永遠に記憶に残りそう。美しかった。私も一緒に演奏した。

 月と憲法とダリットの踊り。そこに美しさがあることが人類の救いで、どれが欠けても駄目なのだと感じた。

http://www.youtube.com/watch?v=pk87XBndaLY

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インドへシスター・チャンドラを訪ねて(その2)

 シャクティセンターのこの二年間は試煉の連続だったみたいです。私にはいつも「ちょっと問題があるけど」と書いてきただけですが。修道女は不思議な人たちで、苦労を語る時思わず涙ぐみながらも、2年前よりずっと元気そうです。神は乗越えられない試煉は与えない、という原点に立ち返るのでしょうか。信仰と試煉は両立する。ちょっと子育てみたいですね。

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 シャクティとシスターがグジャラート州まで招かれ、その生誕日に行進するアンベドカルは、マハトマ・ガンジー、ジャワハルラル・ネルーと共にインド建国の父と呼ばれ、不可触民の出身でありながら博士号を複数取り、差別撤廃運動を進め、その起点となる憲法草案に深く関わった人です。不可触民という定義のない仏教徒に亡くなる数ヶ月前に50万人と一緒に改宗した人。いまだに遅々として進まない差別撤廃運動と格差の状況を知ったら、天上で愕然とするかもしれません。

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 しかし今インドが抱える問題は、どこか質が違います。

 (チェンナイのホテルで日記代わりのツイッターを書きながらふと思い出しました。日本を出る時JayaTVのニュースに出演することも、アンベドカルの誕生日に私も一緒に追悼演奏もすることになることも知らなかったのです。人生は何が起こるかわからない。思い切って来て、よかった。)

 IT産業を中心に国全体の収入が増えるとともに格差が激しくなり、それに伴って犯罪が増えている。「携帯電話がいけないんだと思います」とシスターはつぶやくように言いました。親の知らないコミュニケーションツールを娘たちが持つことで、村でも少しずつ家族の信頼関係が壊れ始めている、というのです。ダリットの村という、選択肢のない信頼関係が生活の基盤だったコミュニティーにさえも、そこに世代を切り離すツールが入ってきている。これは広義解釈すると義務教育もそうなのですが、そこまでシスターには言えませんでした。教育の普及はシスターの人生をかけた目標です。でも以前、この義務教育の普及と家庭崩壊の関係については、アメリカの例を挙げてシスターとじっくり話し合ったことがあります。

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 祈りとか乳児との会話、子守唄もそうですが、沈黙を共有する種類のコミュニケーションが日常生活の中で希薄になり、人生が騒音主体に聴こえ始めると、人は攻撃的になるのかもしれない。自分自身を体験しにくくなる、喧噪に焼かれながら、そんなことを思いました。そこにインド特有の生きる力、宗教、カースト、貧困、因習などが加わり、同じ道でありながら、日本とは次元の違った、はるかに強烈に人間性を人間に問う、厳しい道を突き進んでいる感じなのです。それぞれの道なのに共通点もある。しかし、その変化の速度が異常なのです。

 政府は子どもを学校へ行かせる為、児童を雇った工場主を厳しく罰している。それでもダリットの少女たちには学校自体が通学路も含めてまだ安全ではない、とシスター・フェルシーが言いました。ダリットの少女が犠牲になっても警察は見て見ぬ振りをすることがある。しかも、小学一年生になる時にはダリットだということを学校に申告しなければならない。そして、慢性的は汚職と賄賂が経済発展によって増々ひどくなっている。

 バスの中でシスターに「最近は何を話してるの」と聴かれ、「ずっと同じです、増々赤ん坊を預けたがる人が増えていて」と答える。すると目を見開いて「なぜ?日本は豊かな国でしょう?」。説明しようと思ったけど、インドの風景の中では説明にならないのだ。シスターは頷いて「頑張りなさい」と言った。

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 インドには、説明のつかないことがもっと一杯あるのだ。子育てという進化の土台はまだあるけれど、人間が創り出した様々な奇妙な仕組みと、市場原理で先進国から侵入してくるテクノロジーと矛盾する幸福観のおかげで、日本より何がなんだかわからなくなっている。

 シスターの「頑張りなさい」は、私も頑張る、という意味で信仰から言ってくれているのです。背景にGod’s Will(神の意思)がある。

 

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 インドには昔からベジタリアンとノンベジタリアンという人間の分け方があります。一番大雑把なカースト制かもしれない。60歳以上のベジの多くは社会の急激な変化を人生に重ね合わせ、誇りの中にノンベジに対する蔑みと頑なな鎧を身につけ、ほぼ下克上には耐えられない。ベジはブラフミンと重なる部分があり、彼らの視点から言えば、対極にいるノンベジがダリットです。貧富の差が逆転しているような都市部でも、ダリット出身者の立派なアパートから魚を焼く煙が入ってきたというだけで、怒鳴り込んでくるブラフミンがいるのです。

 最近のインドの混迷はもっと複雑。回教とヒンズー教に代表される宗教対立に加え、カーストがあり、ベジとノンベジ、EducatedNon-Educated、貧富格差がありIT(アイ・ティー)とNon-ITがある。

 このITピープル(インターネットピープル)が結構凄いのです。両親よりも稼ぎが多く、親に知らせず勝手に入籍し、しばらくしてさっさと離婚するようなのが3割くらい居るという。結婚のほとんどが親に決められた相手との見合い結婚だったインドでは考えられないことです。カースト破壊の糸口かもしれない。

 カースト破壊の糸口?それを飛び越えて一気に家庭崩壊まで行ってしまうというのです。ITピープルは親の世話をしない、女性が夜飲み歩く、という噂です。(忘れないで下さい。回教徒が2割いる国です。)保守的なベジもまだ生きている。Non-Eduも居て、村には米国や日本の存在を知らない人たちがいるのです。そこで暴行事件が起こっている。生き方のぶつかり合いが凄いのです。

 インドの回教徒は独立の過程でパキスタンとバングラデシュに分離されたといえ、実は日本の人口より多い。街では若い女性が月光仮面のように顔をすっぽり覆い隠しスクーターで二人乗りしている。顔を絶対に見せない若い学生を大学でも見る。親の影響力が無いとあり得ないこと。その娘たちがITピープルとキャンパスで混在する。そしていまだにカースト越えの結婚が原因で、村が一つ焼き払われたりするのです。

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 タミルナード州で最近起こった村の焼き討ち事件は、上位カーストの娘がダリットの青年と恋愛し結婚。父親が帰るよう村に説得に行ったが娘がそれを断り、父親が自殺。父親の住む村の村人が怒り、青年の村の家を300軒焼き払ったというのです。なんとも過酷な死生観と根深い差別意識、家族意識です。村を焼き払う、という行為も驚きですが、父親が娘のカーストを越えた結婚で自殺をする、というところに絆の深さと、その絆をここまで支えて来た価値観や情念の深さを感じます。人間はこういう方法で生きて来たのです。

 シャクティの娘も、私の作ったドキュメンタリーに出て来るスダが恋愛し自ら逝きました。(以前ブログに書きました。)続く。

インドへシスター・チャンドラを訪ねて(その1)

インドへシスター・チャンドラを訪ねて(その1)

 

 ぎりぎりまで行けるかわからなかった、でも行ってよかった不思議な旅でした。ビザの発給が一日遅れたら中止だった。自分で、さっさと決断していれば何の問題もなかったのですが、決断が遅くなったな、と実感します。

 シスターに会いに行くには往復旅行日が三日半かかります。日程を十日とって、一緒に居れるのは一週間。飛行機を乗り継いで空港での待ち時間、チェンナイでホテルを探して……、と考えると躊躇してしまいます。以前は二日でとれたのに、四日から十二日かかると言われたビザが四日で降りた時、行こうと決め航空券を探しました。(ある不思議な人物から、シスターとは年に一度くらいは会っておいたほうがいい、と言われたことも気になっていました。)デリー経由の切符がみつかりました。

 シスターがその間グジャラートに行くと聴いていたので、帰りはデリー経由でもいいかもしれない、と思ったのです。そうすれば帰りにデリーで一泊してもう何年も会っていない画家のラマチャンドランにも会えるかもしれない。

 成田〜バンコク〜デリー〜チェンナイ〜マドライ。途中デリーで一泊し、新しくなった田舎のマドライ空港で炎天下、シスターとシスター・フェルシーが向こうから歩いてくるのを見たときは、暑さの中で、頬が両手で挟まれたように、ホッとしました。

 二年ぶりです。前回来ていた時に東北大地震がありました。(二年前のブログに書きました。)

 シャクティの踊り手たちは、順番に結婚してすっかり交替し、知っているのはカビタだけになっていました。それでも村の娘たちは同じように温かく、素直で、輝く瞳で見つめてくれます。シャクティに来ている娘たちは、様々な理由で学校をドロップアウトした子たちです。それでも勉強を続けたいという子たちは、村でも選ばれた子たちなのかもしれません。その子たちが、踊ることで、村では出来ない体験をし、体の芯のところに自信を植え付けられるのです。

(今回の旅の動画を始まりからユーチューブに載せました。編集がされていない、インドでアップしただけの映像ですが臨場感はあると思います。http://www.youtube.com/user/LucyKM2011?feature=watch。)

 

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 シャクティのグジャラートへの旅は三日後に迫っていました。私はてっきり飛行機で飛ぶのかと思っていたら、ディンディガルからチェンナイまでバスで7時間、そのあと列車で33時間non/ACというのです。インド縦断の長旅、興味はありましたが、さすがに体力的に無理かもしれないと思いました。私だけエアコンつきのACコーチに乗ったとしても、道中迷惑をかけることになったら困る。シスターも、アーメダバードの主催者に連絡をしておきますから、あなたは飛行機で行きなさい、と言ってくれました。

 グジャラートではスピーチをしますか?とシスターに聴いたら、言葉が通じませんよ。時々忘れますが、インドは大雑把に分けても十幾つの言語が使われ互いに通じません。宗教と伝統のタガが外れた時にどうなるのか、そこに人類の道筋が現れるのだろうと思います。

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 実は、そのタガが外れ始めたインドを感じた旅でした。日本の問題がマイルドに思える。

 貧しい人たちがますます貧しくなっています、犯罪も増えました、とシスターが教えてくれました。ディンディガルでは、一時間ごとに一時間の停電がもう一年も続いていました。ホテルや金持ちは発電機に切り替える仕組みを備え、中流は、バッテリーに切り替え、いくつかの明かりを確保していました。しかし、貧しい人たちは一時間おきにロウソクやカンテラの灯で暮らしていました。つい最近までそうしていたので苦にはならないのでしょう。

 貧しさと犯罪が増える中、大都市の目抜き通りを除いて、ゴミの増え方に驚きました。一番始めにインドに行った38年前、お茶は素焼きの土器で飲み、外へポイと捨てればカシャンと割れて、ゴミは土に還った。村の家々には伝統的にトイレも無かった。伝統的な自然との共存が崩れ、ゴミはゴミ箱へという習慣が教えられる前に土に還らないプラスチック容器やビニール袋が市場原理とテクノロジーで浸透し、インドはまるでゴミ捨て場のようになりつつあるのです。テクノロジーは使いこなす教育や生活習慣の転換を伴わないと人間社会から急速に美しさを奪う。先進国における教育の普及と家庭崩壊の関係に似ています。それが、インドでは強烈で、先進国の速度に追いつけない人々が、世代交代で美しさという拠り所をなくしてゆくのです。

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 チェンナイまで、夜7時間のバス行軍は思ったより負担でした。昔、カルカッタでドゥルガプジャという祭りに噛まれて寝込んだ感じ。頭も体もフラフラになりました。シスターと踊り手たちはそのまま33時間の列車の旅に出て、私は次の日に飛ぶことにしました。TV局のプロデューサーをしている友人のソウバさんが、じゃあ夕方のニュースに出ろと急遽準備し出演しました。(動画をユーチューブに載せました)

 シスターと踊り手たちはアーメダバードへ33時間の列車の中。気が咎めましたが、収録されたJayaTVのワールドニュースで、インドで頻発している暴行事件、貧富の格差、貧しさが絆を失って荒れていること、インドだけではない懸念を、シスターを意識しながら話しました。つづく。(放送もユーチューブにアップしました。)


写真はシャクティセンターで。上から夜景、シャクティバス、台所。

「農場の少年」「太陽の戦士」、笑わない一歳児

 17ヶ条でも多いかもしれない。あとは幼児を見つめ自分と宇宙に聴く。法は国のためにあり、国は人間性とか親心が日常的に育つことを前提に存在する。そこが崩れると法が人間を支配するようになる。人類はけっこう複雑なところまで来てしまった。だからこそ、尋ねる相手を間違ってはいけない。相手が喋れなくても。
 
 学校に「子育て的な機能」を期待するなら、第三者機関は非情に筋が悪い。当事者同士の信頼関係を修復できるとは思わない。法を介入させて白黒つけたければ、そうすればいい。第三者機関は中身が曖昧で、曖昧な者達を法のように使うと逆に不信感が増し、あまり子どもたちへの手本にはならない。
 

 明るくて、元気が良くて、何でもシャキシャキ出来る保育士ばっかりだったら、子どもはくたびれてしまう。一日5時間の幼稚園と違い保育園は毎日が長丁場。おとなしくて優しい先生もいないと子どもはホッとできない。主任がしっかりものだと園長がボケていたり、その逆でもいい。保育園は村社会、部族的感じがいい。

 

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 0才児と、言葉の通じない一年間をゆっくりと過ごして、人間は文字のなかった時代に熟成された自らの遺伝子を確かめる。沈黙の中で暮らしていた時の絆と信頼の強さを体験する。一歳児二歳児と一緒に、音楽を創り出した時代の宇宙との交流を思い出す。理解は出来ない。理解しようとすることが大切、だと。

 

 

 政治家に望みは何ですか?と聴かれました。(大望)この国が欧米とは違った選択肢となって人類に貢献する。(中望)幼児の存在の意味と意義にみんなが気づく。(望)それに気づくための仕組みを作る。一日保育士体験の普及。(切望)子どもに良くない保育の仕組みを止める。一日保育士体験の完全普及が良くない保育を淘汰するはず。

 

 政治家への追伸。待機児童は、出来るなら自分で育てたいという母親たちの願いに沿って解決して行けば、いなくなります。意思と主旨が正しければ、人間は本来の自分に気づき始めます。それを体験しようとします。待機児童という言葉は、通常、人間が自分自身の存在理由から離れようとする宣言になる。繰り返していると危ない

 

 詩人は言う。私たちは幼児によって「救われている」。そうやって人間性は危機を乗越え回り続けてきた。絶対的弱者が運動の始まりに存在して、動機、意思を生み出す。私はこの詩を講演で読み、配っています。
『愛し続けていること』 詩/小野省子

詩集、講演で配っています。母親の感性、時につらいし、淋しい、でもそこに人間社会に絶対に必要な次元の理解力が育つ瞬間がありますね。

 

 ローラ・インガルス・ワイルダーの「農場の少年」という児童文学がある。子育てと労働がほぼ一体で、学校教育がそこに入ってくることに対する人類の抵抗が見事に書いてある。150年前の人間たちが予見したのは、子育ての道が大きく変わる危うさと淋しさかもしれない。こうした時空を超えての警告が人間たちの凄さだと思う。

 

 ローズマリー・サトクリフ著の「太陽の戦士」という本がある。沈黙の関係の確かさが主人公と犬に現れる。青銅の時代から鉄の時代に移る時に人間が失ったもの、その向こうに今も存在する石の時代の哲学が児童文学の形で書かれている。シャーマニズムと祈りの存在意義を忘れると迷い始める、とある。とても予言的な本です。

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 以前、競争原理や起業家精神を授業で教えようとする校長に出会った。ビジネス界から転身した校長は、起業家の9割が失敗し、その失敗の上に競争社会が成り立ち、家族という信頼の基盤が揺らいでいる社会で失敗がいかに辛く、希薄な人間関係を崩壊させるかは教えていなかった。経済論は忘れ、教師は子どもの幸せを願い、真実を語るべきだと思う。心を込めて。

 

 保育ママ、スマート保育、起業家:「絆が生まれること」が活動の目標で「子育て=助け合い、信頼関係が生まれる道」という理解があれば大丈夫なはず。この人の子は預からない、という決断が出来れば社会に自浄作用が働く。誰の子でも、というサービス産業的動機、チャリティー精神は子どもに危ない。

 

 小規模保育:「自分たちで」という動機はいい。ビジネスを動機にすると賠償責任という壁に必ずぶつかる。社会福祉法人を減らし国が24条にまで手をかけようとする背後に、賠償責任から外れようとする意図がある気がしてならない。日本人は本当の訴訟社会、市場原理を知らない。だからまだ安全なのだが。

 

 保育士たちの間で、理不尽な親から自分を守るため、噛み付き痕をお迎えまでにどうやって消すか、技術が伝授される。隠蔽しないと仕事をやっていけない。1歳から始まっているのだから、教育委員会の隠蔽体質を批判するなど愚の骨頂。噛み付き痕は風呂に入れると戻ってくる。噛みつく子も毎朝戻ってくる。

 

 一歳児担当の保育士から隠蔽体質は始まる。もう、噛み付きくらいのことなら仕方ないことだと思う。でも、もし学校教育を本気で立て直したいなら、一歳児を囲む信頼関係から育て直さないと無理。三歳未満児の預かり方が人類の将来を決定する。家庭保育室も保育ママさんも、それを進める行政や政治家も、そこを理解しているのだろうか。

 

 創立30年の園で講演。一日保育士体験を三年前からやっている理事長、最近の施策に憤り、しばし二人で炎上。春もう一つ園を設立。保育士集まりましたか?と尋ねると「問題ありませんでした。養成校からも優秀な学生がいるのでお願いしますと言われました」いい園にはまだ良い保育士が集まる。

 

 親は死んでも子どもの意識の中で、子育てを続ける。その次元の交流だから、人類は子育てを簡単に放棄してはいけない。ディズニーランドでダンボに乗る順番を待ちながら、ジッと親の手を握り続ける子どもたち。その時の感触で生きる力がついてゆく。その感触にしがみついて親は一生、生きていける。

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 笑わない一歳児。園長が母親と面接するが母親も笑わない。父親を呼び出すと不機嫌。祖父母を呼び出した時点で誰もこの小さな命に感謝していないのでは、と気づく。保育士に号令「くすぐってもいいからこの子を笑わせろ!一日中!」子どもが笑う。母親が少し笑う。やがて一家が命のまわりで笑い出す。これが保育。

 

 政府の方針に、この、一家を子どもの笑顔で変える園長は憤る。「保育士がいないのに、幼保一体化も家庭保育室も保育ママも、保育は託児だ、誰でもいいから預かっていればいいんだよ、と私は横っ面を叩かれてる気持ちです。保育園の前に待機して、入りたい入りたいと言ってる未満児なんかいやしないんだ」

 

 保育新システムの大日向教授:「少子化が急速に進み、生産年齢が減少し社会保障の維持の上からも危機感が持たれています」。だから幼保一体化などでたくさん預かり、税収を増やさないと、という論理なのだが、日本では、結婚しない男が現在2割、十年後3割という。一方貧しい国々で人口増加が続く。少子化は性的役割分担の希薄さが原因ではないのか。男たちが生きる力を失う過程と考えた方が当たっていると思う。 

 

 若い保育士が、母親が風呂にも入れない子の担当になり、私に泣きながら聴く。「5歳までは私がやります。でも卒園したらどうなるんでしょう」。私が「卒園してからも縁を切らないで下さい」と言うと、園長がハッと明るい顔になる。「通勤途中で寄ればいいんだ」仕事から解放された真の保育士の顔。感謝です。

 

 一年目の保育士にかなう保育士はいません、と言いきった園長がいた。若手の保育士は保育園にとって大切な役割を持つ。この人たちが簡単に辞めて行く現象が起こっています。若いひとたち、感性があっても忍耐力がない。教わるということが、技術の伝達になってしまって、魂の伝承になっていない。社会全体で起こっていることを反影しているのだと思います。保育というジャンルが変わらざるを得ない。でも、変わっていいのでしょうか。

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 子育ては思うようにいかない。時々どうして良いか解らなくなるから育てる側に絆が生まれる。「子育ての専門家?」胡散臭い。強いて言えば、回りでオロオロしている人たちが専門家で、第一に親と祖父母。オロオロすればするほど、必ず子どもたちは自分専用の専門家たちを上手に育てる。猶予は五十年くらいあるし。

 

 2・3才児には功徳を積ませるのがいい。散歩していて、向こうからお年寄りが来たら「こんにちは!」と大きな声で言うんだよ、と仕込んでおく。日光猿軍団みたいなもの。芸をさせると笑顔が生れ、お年寄りの一日が変わる。これほど簡単に功徳を積める時期はない。人生、結構運だから早目に功徳を積んでおくことは大切だと思う。

 

 十数年前、政府が保育制度拡充を目指し「安心して子どもが産める環境づくり」と言った。園長たちは「気楽に子どもが産める環境づくり」になるんだ、とピンと来た。安心して子どもを他人に預けるなんて、そもそも親ではない。気楽に預けることなら出来る。無意識に責任転嫁と言いわけの道を進む。

 

 幼い我が子を他人に預けて安心できる人間は不自然です。(本当はそんな社会があれば人類は完成。)一日8時間/年260日となると尋常ではない。しかし、人間は慣れる。みんながやっているから私も、という人が増えるといい保育士は減ってゆく。待機児童という言葉に追われ、保育の基準が甘くなり、保育士による虐待と事故は増える。

 

スマート保育、プロジェクト2000、3歳児神話

2013年4月10日

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子どもを母親から離すため、三歳児神話は神話に過ぎない、と厚労省が白書で言った。(実際は、三歳児神話には科学的根拠はない、というような言い方だったと思うのですが・・・。)三歳児は反論できない。しかし、昔から神話は幼児を守るために存在するのです。もし厚労省が「実証されてない」と三歳児神話を否定するなら、ついでに雛人形や七五三も否定すればいい。神社に向かって、神社に科学的根拠はない、と呟けばいい。神について議論したくはないのですが、神や宇宙(幼児、人形)との会話は、人間が自分を知る方法だったはず。

以前、田舎のできてまだ二年目の保育園で講演しました。公立の園を退職したガッツある優しい女性園長のもとに、良い保育士たちが結集していました。職場選びは園長選びでもあります。人生の意味を探す若者たちの直感を感じました。理不尽なクレームは絶対許さない。怒鳴り込んで来た父親に園庭で日暮れまで怒鳴り返す園長。次の日、父親が「すみませんでした」と謝ってきたそうです。だからこそ、まだ二年目の保育園にこれだけ本気の保育士たちが集まっていたのです。講演後に火花が散るような懇親会になりました。

子どものために必ずしも良いとは思えない認定こども園を政府が進める背景には、三歳児神話の否定から始まる長時間保育つまり雇用労働施策があります。この意図が根底にある限り、仕組みはいつか人間性とぶつかるのです。認定こども園の危ない仕掛けは、「就労しているいないに関わらず」入園できるということ。よほど園長がしっかりしていないと、幼児を守る堤防がここから決壊するかもしれません。

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卒園式の季節。三月末日に卒園式をやる園はありません。ただでさえ休みなしで名札の張り替えなど、クラス替えの準備を一晩でしなければならないのです。

先日四国に、卒園式での「涙の別れ」後は園児を預からない、という強者(つわもの)保育園長がいてびっくりしました。学校に入学した後のための「慣らし」だと、平気で言うのです。当然のように親から役場に文句が行ったそうです。法的には園長のやり方は間違っているのです。すると、最後まで預けたい人は卒園式に出なければ預かる、と言ったそうです。もちろん式には全員出席したそうです。

卒園式のあと給食を出さなければほとんど来ませんよ、という園長もいました。田舎では、まだ園長の意地と政府の規則がぶつかっている。いつまで続くかわかりませんが、ありがたい。

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幼保一体化と政府や学者は軽々しく言いますが、幼稚園に行く子どもと保育園に行く子どもでは一般的に家庭の事情、親の意識が違います。集団保育するなら別々にやる方が自然。保育のしやすさは、保育士の心の安定につながります。その安定感が、めぐりめぐって幼児たちの健やかな育ちに不可欠なのです。幼稚園と保育園がそれぞれ別々に発達してきた、独自に存在してきた日本が欧米に比べ、経済、モラル・秩序、犯罪率、幼児虐待やDVという幸福に直接かかわる問題では一律に状況がいいのです。この仕組みを不用意に変えると、必ず学校にしわ寄せが来ます。

以前、高卒の二割が読み書きができないというアメリカで、シカゴの市長が教育委員会を廃止し学校運営を全て親に任せたことがありました。学校という仕組みの中で、専門家の知識など必要ない。親たちの関心がなければそんなものは機能しない、というのです。

専門家不在で、いい授業にはならなくても、親が子どもに関心を持ち、目を向ければ学校教育再生になる。実の両親の元で育つ子の方が少ない国で、この施策は自虐的に「サードワールドスクールシステム」と呼ばれていました。

15年前ワシントン市が始めたプロジェクト2000という取り組みもすごかった。

母親が恋人と暮らしていれば父親像が家庭にあると計算する国です。実の父親がいるか、などとは誰も考えません。そう計算しても、六割の家庭に大人の男性が居ないワシントン市。

小学校を使って、子どもたちに大人の男性と接する機会を与えよう、父親像を教えようという施策を始めたのです。背景に、父親像を持たない子どもは五歳から序列をつくってギャング化する、などという研究がありました。犯罪を減らすために、母子家庭よりも政府が孤児院で育てた方がいいのではないか、と連邦議会で法案が論議された国なのです。時々、とんでもない施策が現れてびっくりします。日本は、たぶん五十年は遅れている。だから、まだ方向転換できると思うのです。

 アトランタ市の教育委員会も凄かった。数%の悪い生徒を排除してくれればクラスが成り立つ、という教師たちの要望を受け、ケニアに寄宿学校を作り、一年間悪い生徒をそこに入れるプログラムを試したことがありました。当時、「我々はアフリカで教育をするのか?」というタイム誌のカバーストーリーにもなりました。アフリカに送られた生徒の9割が立ち直ったというのです・・・。

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登園時に熱を下げるため、抗生物質を常備し、熱が出ると園に黙って与える親の話をよく聞きます。日本での話です。大人用を与え、それを報告しないから危ないんです、と園付きの看護士さんが怒っていました。10時頃熱が上がり始め連絡しても、迎えに中々来ない。「規則ですから迎えに来て下さい」と言っても来ない。私がいるから来ないんです、と看護士さんが私に言ったのが忘れられません。市が、子育てサービスとして始めた看護士の常駐が、親子関係を壊してゆく。

親は身勝手、子どもは抗生物質漬け、と園長たちが嘆くのです。子どもを共に育てるための親との真剣勝負を、保育ママや株式会社が出来るとは思えない、サービス産業は病気でも預かります、とやがて言い出す。子どもが病気の時というのは、親子関係が一番築けるチャンスなのに、と園長たちは嘆きます。

 

<スマート保育> 空き店舗や公共施設などを改修し、認可外の定員6~19人の小規模保育を行う事業者に東京都が開設費と運営費を新年度予算から補助する。2年間で0~2歳児約1000人の定員確保を目指す。子ども1人当たりの面積などの設置基準は区市町村が定める。(本当にこれで良いのか!)

 東京都のスマート保育にしても埼玉県の幼稚園・家庭保育室連携プランにしてもそうですが、魔法のように保育士は湧いてはこないのです。水増し保育や規制緩和のしわ寄せは、全て既存の保育園に連鎖する。それは即ち全ての子どもたち、全ての教師、社会全体に跳ね返ってくるということは、少し想像すればわかるでしょう。実態を把握してほしい。

 

東京都のスマート保育の危険性:6〜19人の小規模保育は、3月に自転車操業状態になることが多い。4月の保育士の必要人数さえ予測できない。子どもを親から引き離すことが事業主の死活問題と重なってきます。土曜日も預かってあげるから夫婦で遊びに行ってらっしゃい、という言葉が園長の口から飛び出したりする。都が開設費と運営費を補助するというのですが、子ども優先の仕組みには絶対にならない。いい保育士は集まらない。

 

猪瀬知事のスマート保育「2年間で0~2歳児約1000人の定員確保を目指す。子ども1人当たりの面積などの設置基準は区市町村が定める」。保育の現実を知らない学者知事が、子どもより親へのサービスを考え、選挙の票集めをする首長に基準を任せるというのです。スマート保育を翻訳すれば、「ずるい保育」。ぴったりの命名かもしれません。

 「0〜2歳児を預かっている家庭保育室から保育所に移る3歳児が待機することが多く、福祉関係者の間で”3歳の壁”と呼ばれている」1才児の壁が3才の壁に連鎖。当然でしょう。出発点の発想を、子ども優先に変えないと、保育から教育、経済、介護まで、将棋倒しのように崩れてゆく。

 幼稚園と家庭保育室の連携「幼稚園の開園時間外は、3〜5歳児も家庭保育室で預かる」連携と言うのですが、園庭なしの幼稚園学童でしょう。学校に行く前に、子どもたちは何種類の保育者と何種類の園で、一体誰に育てられるのだろう。一番安心安定を求め、親子という一生の絆を築く大切な時期に、神様たちの心が彷徨う。

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(ツイートから)

保育園は家長制度的で園長が采配を振るうことがよくある。園長も人間、老人特有の症状が起こったりする。それがいい方に出ることもあるのですが、素晴らしい園が突然訳が分からなくなったりもする。主任が居てベテランが居て、長年の信頼関係があればいいのですが、でももし保育士の半数が派遣だったら、どうなるのでしょう。それでも、毎日子どもたちは通ってくるのです。保育は子どもの人生に関わってくる。大人たちの信頼関係で守られるものなのです。

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園で気づいたことも親に言ってはいけません、と保育士に言う園長が小規模園や認可外で増えています。保育士の力量の問題もありますが、子どもの発達や行動で気になることがあっても、親とのやり取りが嫌で避けているのです。お客さん扱いされることを望む、理不尽な親たちの行動が、そうでない親たちの子育てにも影響する。自業自得とはいえ、これがシステムで子育ての恐い所です。

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児童館に勤めていた指導員の話です。子どもたちにいきなり後ろから回し蹴りされ前歯を折ったそうです。財政削減で民間委託された児童館は、契約を切られるのが恐くて不祥事を自治体に報告しない。曲がった性的嗜好で入ってきた男性指導員も排除できないと言うのです。父性に飢えた女の子たち。しっかり行政が見張らないと、児童館が、不安な子どもの吹きだまりになってゆくことがある。

 

8年ぶりに教職に復帰した先生、学校のあまりの変わり様に愕然。「トイレは休憩時間に行くように」と子どもに言ったら、親が怒鳴り込んできた。もう指導できる環境ではありません。子ども同士、引き金を引き合って収拾がつかない、授業にもならない。良心捨てるか、教師辞めるか。精神的病での休職が都で7割と言います。

 

都のスマート保育の記事を送った園長から、「松居先生、火が付いて、とめられなくなりましたね。こうなると、燃え尽きるまで待つしかありませんかね?スマート保育が呆れます!」。保育なんて何とでもなると知事は思っているんでしょう。でも、日本の母親たちは実状に気づけば、我が子のために方向転換します。必ずします。

 

親たちが自主的に始め、数十年続いている保育園を知っています。「子育ては、人間が心を一つにする、絆が育つためにある」が伝統になっていれば、保育園は親心を育みながら、回り続けます。「サービス」にはなりたくない、と行政の影響下に入る認可保育園に、意図的にしようとしない根性園長もいます。親心が結集すれば人間はジャングルでも生きていけます。

 

電話をすれば救急車が飛んでくる。親はこれだけでも実は感謝していい。あとは、集まって時々「祝って」いれば人間たちは大丈夫。そんな事が保育の中心にある園はいつでも自分たちで作ることが出来る。幸せそうな人を真似ればいいのです。http://www.youtube.com/watch?v=uoQXhyz0rOg

 

沖縄県では、米国の教育システムが習慣として残り、5才児は基本的に全員幼稚園。保育園の卒園は4才。幼稚園学童という文科省でも厚労省管轄でもない不思議な状況が生れ、田舎や離島に、伝統的に親たちが自主的にやっている学童があって、これが中々いい絆を育てている。楽しそうです。(最近はその隙間で儲けようとする認可外保育園も進出していますが……。)

 

保育園で、子どもが初めて歩けるようになる瞬間がある。園長が担当の保育士に「親に言っちゃいけないよ。もうすぐですね、って言うんだよ」。「その瞬間を親が見ていないなんてことを許したら、私たちの仕事が親子の不幸に手を貸すことになるんだよ」。こんな園長に当たった親子は知らないうちに人生が変わっています。いい方へ……。

 

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講演で保育士たちにお願いするのです。毎日、園で保育士が幸せを感じる瞬間が何度かある。それは本来その子の親たちのもの、その瞬間を奪っていることに後ろめたさを感じて下さい、と。「子どもの幸せを願うなら、それを親に返す努力をして下さい」とお願いするのです。子どもたちに磨かれた保育士たちは、必ず頷いてくれる。

 

児童館・学童の民間委託、保育園の民営化、公立保育士の非正規が六割、全て理由は財政削減。そうした流れの中で頑張っている人たちも居ます。しかし、長い目で見て、子育ての市場競争化がどれほど将来の日本を傷つけるか。学校で教師たちが直面している状況を見れば明かなのに、政府はまたしても「保育ママ三千人施策。2週間の研修で、資格なしでもOK? 」。できるものならやってみろ!

できるわけがない。

 

子どもたちに喜んでもらって、親と保育士たちの心が一つになるように。父親たちが他の子とも遊べるようになるために。そして、いつでも親に見せられる保育を宣言するために、一日保育士体験を薦めています。茅野市のホームページがhttp://www.city.chino.lg.jp/kbn/03091001/03091001.htmlにあります。

 

子どもが認可保育所に入れない、保育を受ける権利を侵害していると杉並区で始まった行政不服審査法に基づく異議申し立てが広がっています。保育士が不足している状況下で、政治家が「会議室でも空き店舗でもOK」とやってしまったら、数年後3歳〜5歳の保育が託児所化し、将棋倒しで教師が倒れてゆく。適者生存、本当の格差社会が姿を現す。恐いですよ。

 

デトロイト市の教育委員会だっただろうか。以前、根本は親が問題と分析、学校が親に成績をつける試みをしたことがある。朝食作ったか、宿題手伝ったか、規則正しい生活をさせたか等々。すると、子どもたちが親の成績を心配して頑張ったというのです。本末転倒ですが、そこに不思議な真理がある。元々子どもが親心を育てるのが筋なのです。

 

認可保育園を増やせと言っても、いま園は、最前線の児童相談所、仮児童養護施設の役割さえ果している。児童虐待やDVを一つでも止めようとすれば、園長は家庭に踏み込んで行くだけの気力と決意を必要とされるのです。それをしないと他の児童と、その人生に直接影響が出てしまうのが保育園なのです。規制緩和で保育園が崩れたら児童福祉全体が危ない。

 

共励保育園の長田安司先生が書いた「便利な保育園が奪う本当はもっと大切なもの」を読めば解っていただけるはずです。園長・主任が家庭と真剣に関われば、どれほどたくさんの親子の危機を救えるのか。「親のニーズに応えろ」と役場に言われ、多くの園長が口を閉ざすようになって、どれほどこの国が壊れたか。でも、まだ保育士の魂はまだ死んでませんよ。

 

 

0歳児が、きめの細かい反応を一対一でしてもらえないと、無表情になったり、無感動に慣れ、1歳になると突然噛みついたりするという。脳細胞がつながったり環境によってつながり方が取捨選択される時期に、哺乳類として必要な関わりが不足すると、社会を形成する時のハンデになってゆく。そんな感じだろうか。

 

あまりにも頻繁に保育士が換わる認可園がある。これで良いのか、と市議会で問題になる。園長は影で「認可外の時の方がお金が貯まった」と保育士に言う。そんな園長だから保育士も嫌気がさすのだが、園長は認可の規則を無視して派遣で回す。待機児童をなくせ、の掛け声が響いている限り、監査が入っても園長は気にしない。真の保育制度の改革は、規則を守らせる所から始めなければ意味がない。

 

 

詩の朗読 『愛し続けていること』/小野省子作

 詩『愛し続けていること』
/小野省子作を小学校の卒業式で朗読した母親からメールを頂きました。

 「今日、息子が小学校を卒業しました。PTA代表の祝辞で『愛し続けていること』を朗読させていただいたら、保護者の方、祖父母の方、地域の方が涙。何と子どもたちも。ワタシも涙なみだでした(T_T)。穏やかな魂の交流がそこにありました。」

 子どもたちさえも一緒に涙する、こんな瞬間はそう簡単に生まれるものではありません。卒園式、入園式、卒業式、入学式でこの詩の朗読が静かに広まれば、人間たちが、自分自身の人間性に気づき、リズムを取り戻し、善循環の仕組みの素晴らしさに驚き、涙で心を一つにする貴重な時間が現れます。そうした体験を一回でも多く増やしていくことが、今の日本に必要なのだと思います。

 「愛し続けていること」が、全ての小学校の卒業式で朗読される日を目指します。一カ所でも多くを目指します。


 新年度、全公立保育園幼稚園で一日保育者体験を始めてくれる板橋区から、小野省子さんの詩集「おかあさんどこ」(「愛し続けていること」を含む)を、保育者体験実施案内とともに保護者八千世帯に配り終え、「とても好評です。詩の力、素晴らしいです!」と連絡をいただきました。

 集団で輝く幼児達の魅力に一人でつかり、そして詩の力で目覚める、このやり方で、魂の復活を目指せば、親心が学校を支え、子どもたちの安心につながってゆきます。

 

ぜひ保護者に朗読してあげて下さい.http://kazu-matsui.jp/diary/2011/01/post-85.html)

「社会で子育て」大日向教授、小宮山厚労大臣の新システム

(公開日時: 2013年2月28日)

派遣会社に頼り始めたり、非正規雇用を増やすと、入れ替わる保育士の回転が早過ぎて、保育園で心構えの伝承が行われないまま、マニュアルに頼って保育をし始める園が現れます。株式会社などは始めからマニュアルを用意する。(そうした方が良い保育園も、残念ながらある。)しかし、本来「子育て」は、人から人へ受け継がれてきた生きる動機の伝承であって、次の世代に未来を託し、信頼関係を深める儀式だった。

 保育士は養成校で育つのではない、現場で育つ、と昔はよく言われたもの。保育は子育てであって、どんなマニュアルを作っても基本は一対一。つまり人間対人間なのです。気持ちの伝承が中心あってこそ成り立つ。特に乳幼児は、そうした伝承の意味を肌で敏感に感じる。そういう役目を持っている人たちなのです。

 その子と私、であって、子ども対仕事ではない。

 良い園で、新人は、それを徹底的に仕込まれます。「仕事になってはいけないよ」「オムツを替える時は話しかける。給食の時もそう」、「なんで泣いているのか、担当の保育士にはわかるようになれば、いい。それでも最後は親に譲るんだよ」

 そして、ゆっくりと子どもたちが保育士を育て、保育士同士助け合いながら、いい園長や主任に見守られながら、保育士の心が縦糸と横糸のように伝わっていく。

 命を前に、心が一つにならなければ「親子関係が主体」という基本が次の世代に伝わらないのです。

 

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 去年、子ども・子育て新システムに携わり、現在社会保障制度改革国民会議委員の大日向教授が、新システムの説明で「保育の友」に、「これまで親が第一義的責任を担い、それが果たせないときに社会(保育所)が代わりにと考えられてきましたが、その順番を変えたのです」と言った。これが、新制度の出発点にある。これが存在する限り、どんな妥協点もありえない。闘うしかない。

 大日向教授:「若い世代は子供を産みたいと願っているが、産めない理由がある。」

 社会(仕組み)が育ててくれれば産む、ということなのでしょう。しかし、この発言は日本人を見くびっている。日本の少子化は、自ら育てられないのだったら産まないという美学、ととらえたい。その方が自然。日本人は、欧米人とは違った考え方をする。男性が結婚しない状況を、その理由を探ろうともせず、未婚の母を欧米並みに増やさなければ少子化は解決しない、と言い切る学者さえいるのです。そういう施策が、どれだけ将来の世代の負担になるっていくか、欧米の状況を見れば想像がつくはず。

 

 「社会で子育て」というキャンペーンを張り、自分で育てられなくても産む、という感覚が広がることの方が、人間社会に本能的な責任感の欠如を生むような気がしてなりません。実の親という概念が消えつつある欧米の犯罪率を見ると、「社会で子育て」は、人間性の否定につながるのかもしれない。

 

 小宮山洋子元厚労大臣が、自著で「希望するすべての子どもに家庭以外の居場所を作ります」書いている。

 現在進んでいる「子ども・子育て支援新制度」、小宮山氏が進めていた「子ども・子育て新システム」の表紙を変えたもの。家庭以外の居場所を子どもたちが希望するようになったら、それこそ人類の危機です。政府がそう仕向けることで、システム(居場所)から保育士の心が本能的に離れてゆく。

 

 行政が、親たちに保育園の満足度調査をする。園からそれぞれ数十万円徴収して行われる「第三者評価」もおかしな仕組みです。親が保育園の客ではない。保育所保育指針にもあるように、「子どもの最善の利益を優先する」、それが保育の第一義的責任。それを繰り返し確認していないと保育がただの労働、サービスになってしまう。国が行う匿名の「満足度調査」は保育園はサービス産業というイメージを親に与えるきっかけになる。これでは本来の保育は出来ない。問題のある親を指導する、という保育指針に書かれている園の役割を実行出来なくなる。

 保育園は場合によっては児童相談所と相談して子どもを親から一定時間引き離す役割を担っている。それほど現場では様々な場面が現れている。サービス産業にはそれが出来ない。

 「子どもたちの満足度+親たちの感謝度」調査ならわかりますが。

 調査と称して匿名で行われるやり取りが、子育てに必要な(育てる側の)信頼関係を壊し、子どもたちがそのように「社会」を理解しはじめたら、将来結婚や子育てに生きる動機を見出すことからますます離れてゆくでしょう。

 子育てにおける第三者評価をする第三者は、神とか仏、または人間の善性のようなものでなければならないはず。

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 全国紙に載った、ベネッセの母親に対する調査に、

「子育ては大事だが、自分の人生も大切」 ○か×か、という質問がありました。6割が○をつけます。

 自分の人生が大切でないと言う人はいない。あきらかに設問に問題がある。子育てをしたら人生を大切にできない、と暗示している。それが事実なら哺乳類は成り立たない。背後に子育ての市場化が見え隠れします。こういう曖昧な意識の操作が近頃多いのです。

「母親も、一人の女にかえる時間が必要だと思うんです」という発言が以前雑誌に載っていました。母親と一人の女は本当は分けられない。

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 体罰問題でTVタックルに出ていた陰山先生が番組の最後に言っていた、「大阪、とにかく教師になり手がいないんです」。これが、いま子育てを中心に渦巻いているすべての議論の結果としてある。大人たちが自分本位に、自分の立場で、自分の権利を主張して議論している間に、子どもたちは誰に育てられているのかわからないまま不安を抱え育ってゆく。教育・保育に関するテレビの議論を聴いていると、子育ての押し付け合い、責任転嫁のしあい、のように思えてくる。それに教師が背を向け始めている。

 

 18年前の調査で、「できるなら自分で育てたい」という母親が9割いたそうです。

 それが、三才児神話は神話にすぎない、という三歳未満児を預けさせる厚労省の強力なキャンペーンで現在7割に減った。これが保育を苦しめる、と共励保育園の長田安司理事長は著書「便利な保育園が奪う本当はもっと大切なもの」に書く。これはもう雇用労働施策の域を越えている。本能に関係する負の連鎖が始まり、戻れなくなっている。

 

 政治家も厚労省も実は知っている。一日8時間働いても認可保育園に入れない地域もあれば、一日4時間、月に16日働けば週40時間預けられる地域もある。幼稚園が一つもない自治体も二割ある。つまり、全国で働いていないが保育園に子どもを預けてる親はたくさんいるのです。それほど仕組み自体が発展途上の、対応がバラバラな制度なのです。一部の親たちの要求が通ると、他の地域で必要ない保育時間と親の子育てに対する意識の変化を生まれる。だからこそ地方裁量がいいと言う論法もあるのですが、保育の基準を自治体の裁量に任せた時に、問われるのは首長の知識と意識です。そこが心配です。

(私は毎年、全国あちこちで講演して市長や子育て支援課長に会うのですが、非情に心配です。保育を福祉サービスだと勘違いして、子育てだということを忘れている人たちが多い。特に市長や議員がそうなのですが、待機児童をなくすことが、即ちいいことで、それが子どもたちの願いに反していること、親らしさを育ち難くしていることまで理解している人が少ない。子どもの育ち、親の親らしさが学校教育にどのように影響してくるかほとんど考えていない。行政の人には気づいている人が沢山いるのですが、現場の状況に気づいても数年で異動になってしまったり、国の施策との板挟みになって気力を失ってしまう。)

親たち、子どもたち、保育者たちの育ちあいを理解していれば、地方の実状に合わせて異なった基準を作るのは、そんなに難しい事ではありません。幼稚園と保育園の割り合い、公立と私立の割り合い、正規雇用と非正規雇用の割り合いで、地域の状況と意識はだいたい把握できますし、あとは勤務時間の正確な把握と行事の組み合わせで、親たちがそこそこ育っていく、義務教育が成り立つ基準をつくることは出来る。

 

  政府の、子ども・子育て支援新制度説明会で配られた資料に、「認定こども園に関する留意点について」、というのがありました。ネットでも検索出来るのですが、制度のやり方、進め方のことばかりで、保育内容についての留意点は書いていない。全く子どもの事を考えていない。一文字もない。

 認定こども園という新たな形で政府が進める幼保一体化で、一番留意すべき点は、三才まで保育園で育った子どもたちと、それまで家庭で育った子どもたちを年少で一緒にすることの危うさです。よほど子どもを仕切れる保育士の配置をしない限り、家庭組が恐い体験をする。(死を招いた保育/猪熊弘子著にも似たような状況が書いてあります。)0歳から保育園に居た子どもと家庭でのんびり過ごした子どもでは、出来る事出来ない事、それまでの人生の体験がちがうのです。そして、子どもは、知らず知らず残酷なことをしてしまう。

 

 「就学前の子供たちが、親が働いている、いないによって幼稚園と保育所に別れている現状が、子供の健やかな育ちを守り、同時に親が安心して働き続ける上で、大きな問題を生んでいる。」と政府の会議を仕切る大日向雅美教授は言うのです。

しかし、子ども、特に幼児を、他人に預けて親が「安心して」働けるわけはないし、保育士1人に乳児3人、一歳児で1対6という基準でそれを目指すのは尋常ではない。無理な要求が、保育をする側の人間性の欠如を生む。子どもの気持ちを考えると、自分たちの限界が見える。そして、幼稚園と保育園はまったく異なる仕組みであって、形だけ差を無くせばそれが安心につながると思っているのなら、あまりにも身勝手で稚拙。結局は、雇用労働促進のための幼保一体化でしかない。

 自分で育てたい親と、その子どもたちのための日常的な配慮が「こども園」を進める施策にはない。

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 ユニセフの「世界子供白書2001」に、三歳までの、親や家族との経験や対話が後の学校での成績、青年期や成人期の性格を左右する、と書いてあります。必ずそうなるとは思いませんが、たぶんそうだろうな、と思います。

 一昨年、朝日新聞でも一面で保育園に通った子と幼稚園に通った子の、中卒まで縮まらない学力の差を報道していました。保育の質の差がそれを生んでいるのなら、体力の差と同じように小学5年生くらいで差はなくなるはず。そこに現れるのは親子関係の差ではないか、子どもの安心感、特定の人間との愛着関係の差が子どもの将来に影響するのだと考えられないか。「勉強しなさい」という言葉は、言う人と言われる人の愛着関係によって、その質量が変わってくるということです。

 税収を上げるための雇用労働施策で、三歳児神話は神話に過ぎないと否定しようとする人たちは、未だに親の意識の変化を心配する園長たちの話に耳を傾けようとない。

「せっかく良い保育をしても、また月曜日噛みつくようになって戻ってくる。週末親に返すと、お尻が真っ赤になって戻ってくる」。そして、そんな常識を逸脱している親の子たちが沢山の子どもたちと一緒に過ごす。1才の時に、何度か噛みつかれた子どものPTSDなど、誰にもわからない。それが将来どういう行動になって出てくるのか、誰にもわからない。保育士不足、保育士の意識の低下も重なり、現場は追い込まれている。

 

 定員割れを起こしている保育者養成校の問題が保育士不足の現状をますます危機的にしています。来期の生徒募集に関わるのでしょう、資格を与えるべきでない学生をなかなか落とせない。

 講師が園長に、自分たちは落とせないので実習で落としてほしいと秘かに頼む。これはいい教師。でも情けない仕組みは、なんとか落とさないでくださいと園長に頼む。園長も、また他の園で迷惑をかけても困るからと、渋々合格にする。市場原理とはこんな物。厚労省は自治体で養成校を増やし保育士不足を解消しろ、安心基金で金は出す、と言うのですが、このままではますます学生の質が落ち、講師がやる気をなくしていきます。

 保育に本気の学生たちが、「全員に国家試験を課すべきです」と私に言うのです。

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 日本人は仕事と、人生や生き甲斐を重ねる人たちでした。市場原理主義の欧米の価値観とは人生観が違うのです。だからこそ、学者の経済論で計りきれない動きをする。預かる事で子どもの不幸に手を貸しているのではないか、と思えば保育士が辞めてゆくのです。子どもたちの願いと自分の人生を重ねることが出来る人たち。この人たちがいつか日本を守る。この人たちがまだ居るうちに、政府が保育施策の中心を、保育のサービス産業化から、子どもの最善の利益を優先する、に戻してほしいのです。

 

 

「高学歴化、社会参加の意欲の高まり、経済不況の影響もあって、働くことを希望する女性は増えている」と大日向教授。

 心から希望しているのか、仕方なく希望しているのかによって施策は違わなければならない。仕方なくであれば、直接給付などで、子育てを心の中では希望している女性のニーズにもっと応えていくべき。子どもたちの希望とも重なります。

 

 幼保一体化と簡単に言いますが、5時間預かる子どもと10時間預かる子どもを一緒に保育するのは大変なことです。親たちのプライドの持ちどころも異なる。人生観がちがう。一緒にしてもなかなか交わらないのです。「幼稚園は初めての社会、保育園は家庭の延長でなければいけない」と、こども園に関わっている主任が、実感を込めて私に言ったことがあります。

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 規則が曖昧にされ、規則の合間を縫って、百人規模の「家庭的保育室」が現れている。市から補助も出る。そんな人数で「家庭的」はあり得ない。親へのサービスだけを考える園長のもとでは犠牲者が出るかもしれない。いま進められている国の新制度は、保育ママでさらに危ない状況を進めようとする。

保育は市場原理では機能しません。いずれ事故が増え、訴訟と損害賠償、保険料の急騰で撤退してゆくのでしょう。しかし、それでは子どもの犠牲がともなうことになる。

 

 0、1、2歳との会話は、神との会話。神話の領域。人間のコミュニケーション能力が次元や時空を超えるのは、この人たちの指導のおかげです。

人生は、自分を体験することでしかない。理解できないことを理解しようとする。それが自分自身を体験するということなのです。

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ツイッター@kazu_matsuiからの発展型/徒然なるままに

 子を授かり、男らしさ女らしさ(遺伝子的には、進化に不可欠の相対的発達障害?)が適度に中和され、自然界の落とし所「親らしさ」に移行する。そのための「子育て」なのかもしれません。


(差異を「選択肢のない絆」で中和し、お互いに必要であることを確認するために個人差=不完全さがある)

 以前、上野動物園の中川園長が教えてくれた,人間は八人育てて一人前説も、人間を動物の一種と見た時に成立する現代社会に対する警告的仮説だと思う。

(哺乳類には、平均生涯出産匹数があって、人間は八匹。八匹育てて一人前です、と中川さんは言っていた。親子という絶対的に必要としあう個体の差異が種の保存に決定的、という意味かもしれない。)

 八匹は無理としても、産むことは育てること、人間のような高等動物は育てることで一人前になってゆくと言いたかったのだと思う。「一人前」という言葉が中々意味深い。たぶん種の保存に必要な程度に成熟することなのだろう。遺伝子学者は「遺伝子がオンになってくる」という言い方をしていた。

 筑波大名誉教授の分子生物学者、村上和雄氏の「生命の暗号」という本に、遺伝子がオンになるほど良い研究が出来る、感性が磨かれる。遺伝子をなるべくオンにするには感謝すること、Give&Giveで生きること、その典型が乳児を育てる母親、と書いてあるのを読んだ時、その直感に感動したことがあります。

 男が授乳できれば結構遺伝子がオンになるはずなのでしょうが、宿命的に無理。今の世の中、父親が乳幼児を抱いて遺伝子をオンにする時間さえ極端に少ない。父親を人間らしくする一日保育士体験を薦めています。「親心を育む会」のホームページに父親たちの感想が数百載ってます。絶対、効き目あります。

 経済競争というパワーゲーム(マネーゲーム)に組込まれた子育ての社会化が、親らしさで心を一つにする(男女の差異を中和する・調和する)部族の定義を揺るがしている。

 人類は、赤ん坊の生まれて初めての笑顔を一緒に眺めて、部族の善性を確認し安心する。
 「逝きし世の面影」渡辺京二著の第十章、(子どもの楽園)を読むと、幼児を崇拝して生きていた人間たちの安心感と笑顔が、それを書いた欧米人の魂を揺さぶったのが見えてくる。インドや中国をすでに見た欧米人が、なぜこの国を「パラダイス」と呼んだか。貧しきものは幸いなれ、と言った聖書の言葉が、幼児を中心に生きることで具現化されることに、気づいたからだと思う。


 子育てに幸せを感じ、心を一つにし、人々が安心すると、競争が止まり経済は減速するのかもしれない。
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 国境を越えた経済のグローバリズムは、幸福論と無関係に、勝者敗者を残酷なまでに露にすることで成り立っている。資本主義のエネルギーは社会に不満と不安を増やすこと、と書いたのはアダム・スミス(国富論)。グローバル化した経済はまさにその通りに動いている。
 親らしさは損得勘定を捨て、利他の幸せを感じること。本来、経済の土台を支えるものではあるが、価値観の多様化により経済成長の対極に位置するようになる。(差異を中和するために補いあうという動きの対極にあるのが現在の経済活動。)

 百五十年前、欧米人はこの国の調和を見て「パラダイス」と言った。
 それでは困る、と今,日本の経済学者たちが言う。

 実は、「パラダイス」に競争は馴染まない。「逝きし世の面影」第十章に、日本の男、夏、冬という欧米人が百五十年前に描いた絵がある。それは、フンドシ姿で幼児を抱く男と、着物姿で幼児を抱く男。日本の子どもは父親の肩車で育つ、そこから降りるとすぐ赤ん坊をおんぶする。
 時空を越えて、欧米人が私たちにメッセージを伝える。

 男女という差異が子育てで適度に中和され、「親心」という調和を生む。差異を、経済競争における「機会の平等」で埋めようとすると、それはお互いの不完全さを尊重した上での調和ではないため、差異が競争のエネルギー源になり絆を傷つけはじめる。

 「待機児童をなくせ、子育ての社会化」:哺乳類2億年の歴史に対抗する親子を引き離す運動は、幼児の存在を軽んじることでのみ可能になる。その兆候は教師と保育士の待遇の差にも現れるし、親が育つ「幼児期の子育て」を仕事化、システム化しようとする施策でもわかる。
 以前、経済財政諮問会議の座長が「0才児は寝たきり」と言った。経済学者にとって、「寝たきり」の人は社会に貢献していない。学問の恐ろしさは、こいうところに現れる。数値で表れないことにはほとんど関心を示さない。
 0才児に一年間話しかけ、寝たきりの老人にも役割があることに人間は気づく。1才児2才児に信じてもらい許されて、認知症の老人にも障害を持っている人にも役割があることを知る。システムに過ぎない福祉には限界がある。予算が無くなるかもしれない。
 しかし何より、選択肢が出来ることで、心の育ちあいが消えることが恐ろしい。

 (子育ての責任が社会に移ると、モラル・秩序が崩壊していく。人間性は教育や法整備で強制できない。犯罪率(例えば傷害事件)を比べれば、家庭崩壊が激しいアメリカは日本の25倍、フィンランドは18倍、フランスは6倍、これが現実。宗教や哲学が数千年繰り返し言ってきた幸福論が、歴史の浅い経済論で壊される。)

 (個の差異=不完全さ、をまず親子という絆で中和する。絆をつくることに幸せを感じることによって、互いに必要とするために個人差があることに気づく。大自然の中で、個としての弱さを補うために、人間は絆を必要とする。発達、知的、年齢、体力、親子、男女、全ての個人差が絆を使って人類が輝くために存在する。子育ての社会化で選択肢のない不完全さの中和・調和ができなくなってくると、不完全さが家庭を崩壊させ社会を崩壊させる。子どものいじめはその兆候。パワー・ハラスメント。)

「逝きし世の面影」より

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金持ちは高ぶらず、貧乏人は卑下しない。……ほんものの平等精神、われわれはみな同じ人間だと心底から信じる心が、社会の隅々まで浸透しているのである(チェンバレン)』




 保育士養成学校の先生が言う。「昔、学生たちの多くが、子どもを幸せにしたくてここに来た。今、学生が子どもに幸せにしてもらいたくて来る。愛に飢えていると、裏切りが許せない。子育てや保育は、裏切られることの連続なんです」
 わかるなあ。裏切られ,許され、愛され、そして人は子どもに救われる。

 (共励保育園の保育展で元品川区の子ども未来部長さん、川口の若手園長、長田先生と私で話していると、自民党副幹事長の萩生田さんがやって来ていい感じの核心に迫る討論会になりました。萩生田さんは共励の卒園児で元保護者。党派を超えて子ども優先に考えてくれる人が増えてほしいとみんなで期待。

 ある派遣保育士で回し始めた園、毎年4割の保育士が換わる。最短3時間。それでいい保育などできない。その派遣会社でさえ、保育ママ制度に派遣を渋っている。事故と訴訟が恐いのだ。米国で産婦人科医が掛け捨ての保険料高騰で消えていった時と似ている。そんなリスクを政府が一般の母親に押し付けようとしている。日本も訴訟社会に近づいているのに。

 園長が怒る。「株式会社でも何でもやらせりゃいい。派遣で回すのは保育じゃない。子どもをしつけてくれなんて言っても無理だからね。規制緩和して無資格増やしても虐待が増えるだけ。保育ママ?家庭的環境などと学者の言うことを真に受けたら大変なことになる。他人様の子なんだ。密室は絶対駄目!」

長田先生の本、発売一ヶ月で増刷です!

共励保育園の長田先生の本「「便利な」保育園が奪う本当はもっと大切なもの」幻冬舎、発売一ヶ月で増刷です。保育界が本当に言いたかったこと。経済論に子育てが巻き込まれる仕組みとその危険性、三つ保育園を持ち、真剣に子ども主体に考える人の発言です。http://kazu-matsui.jp/diary/2013/01/post-177.html