「農場の少年」「太陽の戦士」、笑わない一歳児

 17ヶ条でも多いかもしれない。あとは幼児を見つめ自分と宇宙に聴く。法は国のためにあり、国は人間性とか親心が日常的に育つことを前提に存在する。そこが崩れると法が人間を支配するようになる。人類はけっこう複雑なところまで来てしまった。だからこそ、尋ねる相手を間違ってはいけない。相手が喋れなくても。
 
 学校に「子育て的な機能」を期待するなら、第三者機関は非情に筋が悪い。当事者同士の信頼関係を修復できるとは思わない。法を介入させて白黒つけたければ、そうすればいい。第三者機関は中身が曖昧で、曖昧な者達を法のように使うと逆に不信感が増し、あまり子どもたちへの手本にはならない。
 

 明るくて、元気が良くて、何でもシャキシャキ出来る保育士ばっかりだったら、子どもはくたびれてしまう。一日5時間の幼稚園と違い保育園は毎日が長丁場。おとなしくて優しい先生もいないと子どもはホッとできない。主任がしっかりものだと園長がボケていたり、その逆でもいい。保育園は村社会、部族的感じがいい。

 

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 0才児と、言葉の通じない一年間をゆっくりと過ごして、人間は文字のなかった時代に熟成された自らの遺伝子を確かめる。沈黙の中で暮らしていた時の絆と信頼の強さを体験する。一歳児二歳児と一緒に、音楽を創り出した時代の宇宙との交流を思い出す。理解は出来ない。理解しようとすることが大切、だと。

 

 

 政治家に望みは何ですか?と聴かれました。(大望)この国が欧米とは違った選択肢となって人類に貢献する。(中望)幼児の存在の意味と意義にみんなが気づく。(望)それに気づくための仕組みを作る。一日保育士体験の普及。(切望)子どもに良くない保育の仕組みを止める。一日保育士体験の完全普及が良くない保育を淘汰するはず。

 

 政治家への追伸。待機児童は、出来るなら自分で育てたいという母親たちの願いに沿って解決して行けば、いなくなります。意思と主旨が正しければ、人間は本来の自分に気づき始めます。それを体験しようとします。待機児童という言葉は、通常、人間が自分自身の存在理由から離れようとする宣言になる。繰り返していると危ない

 

 詩人は言う。私たちは幼児によって「救われている」。そうやって人間性は危機を乗越え回り続けてきた。絶対的弱者が運動の始まりに存在して、動機、意思を生み出す。私はこの詩を講演で読み、配っています。
『愛し続けていること』 詩/小野省子

詩集、講演で配っています。母親の感性、時につらいし、淋しい、でもそこに人間社会に絶対に必要な次元の理解力が育つ瞬間がありますね。

 

 ローラ・インガルス・ワイルダーの「農場の少年」という児童文学がある。子育てと労働がほぼ一体で、学校教育がそこに入ってくることに対する人類の抵抗が見事に書いてある。150年前の人間たちが予見したのは、子育ての道が大きく変わる危うさと淋しさかもしれない。こうした時空を超えての警告が人間たちの凄さだと思う。

 

 ローズマリー・サトクリフ著の「太陽の戦士」という本がある。沈黙の関係の確かさが主人公と犬に現れる。青銅の時代から鉄の時代に移る時に人間が失ったもの、その向こうに今も存在する石の時代の哲学が児童文学の形で書かれている。シャーマニズムと祈りの存在意義を忘れると迷い始める、とある。とても予言的な本です。

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 以前、競争原理や起業家精神を授業で教えようとする校長に出会った。ビジネス界から転身した校長は、起業家の9割が失敗し、その失敗の上に競争社会が成り立ち、家族という信頼の基盤が揺らいでいる社会で失敗がいかに辛く、希薄な人間関係を崩壊させるかは教えていなかった。経済論は忘れ、教師は子どもの幸せを願い、真実を語るべきだと思う。心を込めて。

 

 保育ママ、スマート保育、起業家:「絆が生まれること」が活動の目標で「子育て=助け合い、信頼関係が生まれる道」という理解があれば大丈夫なはず。この人の子は預からない、という決断が出来れば社会に自浄作用が働く。誰の子でも、というサービス産業的動機、チャリティー精神は子どもに危ない。

 

 小規模保育:「自分たちで」という動機はいい。ビジネスを動機にすると賠償責任という壁に必ずぶつかる。社会福祉法人を減らし国が24条にまで手をかけようとする背後に、賠償責任から外れようとする意図がある気がしてならない。日本人は本当の訴訟社会、市場原理を知らない。だからまだ安全なのだが。

 

 保育士たちの間で、理不尽な親から自分を守るため、噛み付き痕をお迎えまでにどうやって消すか、技術が伝授される。隠蔽しないと仕事をやっていけない。1歳から始まっているのだから、教育委員会の隠蔽体質を批判するなど愚の骨頂。噛み付き痕は風呂に入れると戻ってくる。噛みつく子も毎朝戻ってくる。

 

 一歳児担当の保育士から隠蔽体質は始まる。もう、噛み付きくらいのことなら仕方ないことだと思う。でも、もし学校教育を本気で立て直したいなら、一歳児を囲む信頼関係から育て直さないと無理。三歳未満児の預かり方が人類の将来を決定する。家庭保育室も保育ママさんも、それを進める行政や政治家も、そこを理解しているのだろうか。

 

 創立30年の園で講演。一日保育士体験を三年前からやっている理事長、最近の施策に憤り、しばし二人で炎上。春もう一つ園を設立。保育士集まりましたか?と尋ねると「問題ありませんでした。養成校からも優秀な学生がいるのでお願いしますと言われました」いい園にはまだ良い保育士が集まる。

 

 親は死んでも子どもの意識の中で、子育てを続ける。その次元の交流だから、人類は子育てを簡単に放棄してはいけない。ディズニーランドでダンボに乗る順番を待ちながら、ジッと親の手を握り続ける子どもたち。その時の感触で生きる力がついてゆく。その感触にしがみついて親は一生、生きていける。

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 笑わない一歳児。園長が母親と面接するが母親も笑わない。父親を呼び出すと不機嫌。祖父母を呼び出した時点で誰もこの小さな命に感謝していないのでは、と気づく。保育士に号令「くすぐってもいいからこの子を笑わせろ!一日中!」子どもが笑う。母親が少し笑う。やがて一家が命のまわりで笑い出す。これが保育。

 

 政府の方針に、この、一家を子どもの笑顔で変える園長は憤る。「保育士がいないのに、幼保一体化も家庭保育室も保育ママも、保育は託児だ、誰でもいいから預かっていればいいんだよ、と私は横っ面を叩かれてる気持ちです。保育園の前に待機して、入りたい入りたいと言ってる未満児なんかいやしないんだ」

 

 保育新システムの大日向教授:「少子化が急速に進み、生産年齢が減少し社会保障の維持の上からも危機感が持たれています」。だから幼保一体化などでたくさん預かり、税収を増やさないと、という論理なのだが、日本では、結婚しない男が現在2割、十年後3割という。一方貧しい国々で人口増加が続く。少子化は性的役割分担の希薄さが原因ではないのか。男たちが生きる力を失う過程と考えた方が当たっていると思う。 

 

 若い保育士が、母親が風呂にも入れない子の担当になり、私に泣きながら聴く。「5歳までは私がやります。でも卒園したらどうなるんでしょう」。私が「卒園してからも縁を切らないで下さい」と言うと、園長がハッと明るい顔になる。「通勤途中で寄ればいいんだ」仕事から解放された真の保育士の顔。感謝です。

 

 一年目の保育士にかなう保育士はいません、と言いきった園長がいた。若手の保育士は保育園にとって大切な役割を持つ。この人たちが簡単に辞めて行く現象が起こっています。若いひとたち、感性があっても忍耐力がない。教わるということが、技術の伝達になってしまって、魂の伝承になっていない。社会全体で起こっていることを反影しているのだと思います。保育というジャンルが変わらざるを得ない。でも、変わっていいのでしょうか。

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 子育ては思うようにいかない。時々どうして良いか解らなくなるから育てる側に絆が生まれる。「子育ての専門家?」胡散臭い。強いて言えば、回りでオロオロしている人たちが専門家で、第一に親と祖父母。オロオロすればするほど、必ず子どもたちは自分専用の専門家たちを上手に育てる。猶予は五十年くらいあるし。

 

 2・3才児には功徳を積ませるのがいい。散歩していて、向こうからお年寄りが来たら「こんにちは!」と大きな声で言うんだよ、と仕込んでおく。日光猿軍団みたいなもの。芸をさせると笑顔が生れ、お年寄りの一日が変わる。これほど簡単に功徳を積める時期はない。人生、結構運だから早目に功徳を積んでおくことは大切だと思う。

 

 十数年前、政府が保育制度拡充を目指し「安心して子どもが産める環境づくり」と言った。園長たちは「気楽に子どもが産める環境づくり」になるんだ、とピンと来た。安心して子どもを他人に預けるなんて、そもそも親ではない。気楽に預けることなら出来る。無意識に責任転嫁と言いわけの道を進む。

 

 幼い我が子を他人に預けて安心できる人間は不自然です。(本当はそんな社会があれば人類は完成。)一日8時間/年260日となると尋常ではない。しかし、人間は慣れる。みんながやっているから私も、という人が増えるといい保育士は減ってゆく。待機児童という言葉に追われ、保育の基準が甘くなり、保育士による虐待と事故は増える。

 

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