子育てと保育、すれ違いと誤解の話/でもいい話

 長い間幼稚園や保育園を回って話をしたり、体験談を聴いたりして、時々自分は伝令役なのだと思います。以前書いたのですが、もう一度書きます。視覚障害の子を引き受けた理事長先生から聴いた悲しいけれどなぜか美しい話です。保育の難しさ、子育てを共有しながら、部族社会(運命共同体)にはなり得ない、三年間だけの宿命を象徴する話です。

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 私立の幼稚園の理事長先生の体験談です。男性ですが、子どもが大好きで熱血漢、県会議員もやっておられる年輩の方です。

 ある年、視覚障害をもっている子どもを引き受けたそうです。経験がなかったので躊躇したのですが、どうしても、と言われ、決心し、自ら勉強会や講習会に通い、出来る限りの準備をしたのだそうです。

 その子が入園して間もなくのころ、砂場でその子が一人で遊んでいて、自分の頭に砂をかけたそうです。その「感じ」がよかったのか、そっと、繰り返しかけたのだそうです。理事長先生は、注意することなしに「遊び」「体験」として見ていました。幾人かの子どもが集まってきて、その子にそっと砂をかけ始めました。それを理事長先生は、「育ちあい」として見ていました。長年保育をしてきた先生の経験からくる確かな判断がありました。その子のお母さんが見ていたことも、先生は知っていました。

 無事に3年が過ぎ、卒園が近づいてきました。そして、その子の母親が「あの日」のことを卒園の文集に書いたのです。砂をかけられ幼稚園でいじめられている我が子の姿がどれほど不憫だったか。それを先生たちは笑って見ていた、と。

 理事長先生は、あれほどびっくりしたことはなかった、悲しかったことはなかった、障がい児を預かるのはもうやめようかと思った、と話します。子どもに対する思い、保育にかける情熱に自信がありましたから、その気持ちが母親に伝わっていなかったことにびっくりしたのです。

 3年間そういう思いで過ごしてきた母親の気持ちを思うと、私はやりきれない思いにかられます。しかし、これは、いい理事長先生といい母親のエピソードです。

 その子は3年間、この二人に守られていたのです。


保育の深さ/選択肢のない幼児のために(けやの森学園)

 来週講演に行く、けやの森幼稚舎・保育園から「自然の教室」というカリキュラムが送られて来ました(ひとなる書房)。感動。

 保育はここまで出来る。
 保育=子育てを通して信頼がどう作られるか、という視点で私は発言してきたのですが、共励保育園の積み上げとごっこ遊びも凄いですが、けやの森学園の保育もまた別の観点で感動しました。大自然との関係が凄いです。

 けやの森学園のホームページを見ると、園が、いま私たちが一番必要としている小宇宙でもあるかのように、もしこれが全国の園の標準だったら、とかなわない夢にドキドキします。父の会から学童まで、「幼児と自然」という昔なら当たり前の風景が一つの柱としてあるからこそ、これほどまとまって来るのでしょうか。
 自然の中で得る感動を園長先生が信じています。直面する様々な問題に、幼い頃の自分の感動体験を重ねて考えているのでしょうか。カリキュラムの写真を見ていると園長の信心の中で、子どもたちが神のように遊んでいる感じです。

 年に一度の共励保育園の保育展に行ったり、けやの森のカリキュラムを読んでいて、保育はここまで深い、出来る、やっている園長がいる、とつくづく思います。
 平行して存在する東京都のスマート保育、家庭保育室。この格差、意図の差は異常です。おかしい。幼児たちに選択肢がないだけに、国がもっと真剣に保育の大切さを考え、国の土台、魂のインフラ施策として認識してほしいと思います。

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演奏します。11月1日池上の實相寺でIAMの公演に客演します。

今年になって四度目の公演になります。
ディジュリドゥー奏者のノブ君と、ピアノの塩入さんと、パーカッション+ボイスの楯さんのグループIAMの公演にゲストとして参加します。11月1日金曜日19時30分から、大田区池上の實相寺です。
春に六本木のスイートベージルで演奏したときの曲、「漆黒」の映像が以下のアドレスで公開されています。

http://www.youtube.com/watch?v=pp611Jj-M7s&feature=player_embedded#t=246

この曲は私の担当の曲ですが、基本的に即興演奏です。
前々日にノブ君からメールで、「今回の和さんの担当する曲はタイトルが漆黒で、方角は北です」という不思議な伝言があり、「了解です」と返事をうちました。
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捧げ物の感覚。

つい最近まで何万年にもわたって、自分のために作られた玩具で遊び、自分のために狩られた獲物や収穫物を食べて育てられてきた遺伝子が構築していた社会が、どの次元で、どのようにつながっていたか。墓や人形、昔話を創り、意識のレベルで交流していた次元がどんな方法で支えられてきたか、それを探るような時間を持ちたい。


幼児期の、その子が神様仏様だった時代をしっかり見た人たちに囲まれて育ち、子どもは生き方を覚えていく。

一度信じきったその人たちに見守られ、人生の半分くらいを過ごすことが、許し許され、分ちあう社会を築いていたような気がする。


幼児期を知る人たちの重なりあいが人間社会をつくっていた。



古い友人から「祈りや音楽は、人間の根源にある潜在意識に目標を刻み込む作業です」というメールが着ました。主語を「幼児の存在は」と変えるととてもしっくりする。遺伝子がオンになるという表現でもいいですが、人間の体験がこのあたりで縦横に繋がっている。幼児との対話から子守唄が生れ、そこから祈りと音楽が分かれ、人間社会を作った。



ツイッター@kazu_matsuiから/主に保育・人間のこと、その7

 保育界に市場原理が持ち込まれ始め心配です。

 市場原理は、次世代を育てる「子育て」とは反対側の動機から出発しています。

 大雑把に言うと個の欲と利他ということでしょうか。会社を実力制にすると先輩が後輩を育てなくなるのと似ています。次世代育成の意欲は、利他の幸福観をベースにしています。同僚がライバルになると、一時的に業績が伸びることもありますが、やがて集団として、運命共同体としての幸福感が薄れ生産性も失われる。そして、生産性よりも、信頼関係や絆が希薄になることの方が社会全体にとってはもっと損失。欧米化が進み、自身を守るために多くが家庭という概念を捨てざるを得なくなる。すると、強者の論理が一気に加速し始める。 学校という仕組みの中で「こんどのお父さんは、こんどのお母さんは」という会話が日常会話になってゆく。30年前に欧米で起こったこの変化が、いま日本にも来ようとしている。親子を早いうちに引き離そうとしようとする経済優先の流れの中で。

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 子育てを社会化し、子育ての段階から一対一の関係を希薄にし、子どもからの信頼を失ったうえに、しかも経済活動の活性化のために強者の論理を持とうとすれば、格差社会を作り徐々に家庭を崩壊させてゆくしかない。

 これから人類を覆う殺伐とした市場原理の中で、遅れて来た発展途上国の親子関係に依存して、しばらくやってゆくのでしょうが、これさえも、ITの普及ですぐに限界に来る。このスピードに人類は対応出来るのでしょうか。出来ないことを前提に、この国は準備期に入るべきではないでしょうか。

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 子守唄を歌うことは、人間が自分がどういう存在で居たいかを宣言することです。

 または、自分がどういう存在であるかを相対的に体験することです。

 先進国ではすっかり歌われなくなりました。なぜでしょうか。音楽や踊りではなく、言葉が感性の主導権を握ったからでしょうか。人が、自分の子どもだけではなく、他人の乳幼児と過ごす時間が絶対的に減ったのが一番の原因だと思います。幼児が主張する古(いにしえ)の法を、いまの時代に翻訳し伝えるのが保育士の役割かもしれません。文字が書かれる前から刻まれている古代の法。ナルニア国物語やトールキンの指輪物語は、この存在について繰り返し言います。ピーターパンやトトロが時代を超え社会に影響を与え続けるのもこの法の実証でしょう。それは歌い継がれるもの、踊り継がれるもの。

 最近は、「子どもを預けて仕事して、母親も輝かなければいけない」という言葉まで出て来るのです。「行政が保育園を拡充しないから輝けない。子どもがいるから輝けない」という方向にこの国の意識が進んでいる。

 実は、輝ける仕事なんて滅多にないですから、結局ほとんど誰も輝かない。信じきって、頼りきって、確実に人間を輝かせることが出来るのが幼児たちなのに。「安心して子どもが預けられる環境づくり」という言葉を誰かが言うほどに、それは遠のく。なぜ解らないのでしょうか。その環境づくりが、結局親心の喪失、子育て回避につながり、将来子どもにとって良くない、と預かる方(保育者たち)が気づいている。

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 「心配してくれる人」を周りにつくり育てながら、子どもは成長してゆく。安心してではなく、「気楽に子どもが預けられる環境」がそれを忘れさせる。育てていれば解りますが、子どもは、ハラハラ、ドキドキ、オロオロしながら育てるもの。安心して子育てしている親はたぶん居ない。だから政府の「安心して子どもが預けられる環境づくり」という言葉は実はとても恐い。自分には出来ない事を専門家ならやってくれるのかも、と人間は希望的推測をしたがる。安心するために。幼児が私たちに特別な体験をさせてくれる時期はアッと言う間に過ぎてしまいます。

 中学や高校のPTAで講演すると、何となく保育園に入れてしまった、という親が結構います。決意と決断で決めた人はいい。世の風潮や社会の流れでするともう取り戻せない。三才児神話を否定した厚労省は猛省してほしいと思います。神話が存在する意味をよく考えてほしいと思います。

演奏します。8月2日、夜、池上の實相寺です。

今年二回スイートベージルでの公演に参加したIAMのお寺公演にゲストで参加演奏します。私は初めてのお寺ですが、いい所みたいです。
8月2日(金)開場19:00  開演19:30  終演予定21:00
会場 池上實相寺
http://www.youtube.com/watch?v=pp611Jj-M7s&feature=player_embedded#t=246

親父の会/園での父親の交流が学校でのイジメを減らす

十年以上前に講演した幼稚園へ行きました。その時の講演をきっかけに父の会ができて、それが園でとても大切な存在になっている、という嬉しい報告をお母さんたちからいただきました。先週もそんな園で講演し親父の会の役員たちとピザを食べました。父の日が近づくと改めて父親の役割り、そしていまこそ父親たちが幼児と過ごす時間がとても求められている、と思います。

東漸寺幼稚園の父の会のページは、一年間にこんなに色々出来る、という道標になります。ぜひご覧下さい。お父さんたちの幸せそうな写真が大きな子どもたちのようで、子どものための父の会というより父親のための父の会、という感じが自然でいいのです。それを見て、男の子たちもきっといつか父親になりたくなるのです。少子化対策、親父の会版です。

(いまの少子化の一番の原因は、三割の男たちが一度も結婚しない、男たちが父親になる幸せを見失っていることにあるのです。)

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父親たちが集う意味

 

夫の暴力に苦しむ母親が増えています。小学校のPTAで講演すると特に感じます。講演後に相談を受けることがあります。競争原理に煽られ、操られ、生きる力を失いつつある男たちに優しさや忍耐力がなくなってきているのです。心にゆとりがない。子どもには優しい父親が、妻に暴力を振るう、というケースもあります。子煩悩な父親にはまだ希望がありますが、子どもに関心を示さない父親が暴力を振るい始めると危険です。

早いうちに父親の親心を耕しましょう、と私は保育者に呼びかけます。保育所保育指針に掲げられている「子どもの最善の利益を優先する」という言葉に、いま一番かなっているのです。

一日副担任をやってもらって、一人ひとり幼児の集団に漬け込むのが効果的です。父親の顔が数時間で変わります。ニコリともしなかった表情が園児に囲まれて和みます。すると、家庭の空気が温かくなる。

 家庭内暴力が奇跡的に止まることがあります。暴力を振るうのに誰にも相談に行かない。そういうプライドの高い頑なお父さんが「園の行事」という助け舟に救われ、本来の姿を取り戻すところを何度も見ました。

父親だけ集めて、年に数回酒盛りをさせる幼稚園があります。お母さんと子どもたちはいなくてもいい。父親同士が仲良くなることが目的です。

「父親同士が知り合いかもしれない、友だちかもしれないという意識を、幼児期に子どもたちに持たせることができれば、小学校や中学校でいじめはなくなるんです」

と園長先生が断言します。「本当は友だちでなくてもいいんです。お父さん同士が友だちかもしれない、子どもたちが日常的にそう思うことがいいんです」。部族の感覚。

インドの田舎の村なら当たり前のこと。言い換えれば人類は過ごした時間の99.99%、この感覚に包まれて成長してきたのです。

学校教育の現場から、ある時期、「平等」を勘違いして、意識的に家庭の存在を排除しようとしたことがあります。友だちの向こうにその子を育てた人がいることを意識できなくなった。

見えない絆や、様々な人間関係を「意識すること」で、人間社会はバランスを取り、成り立ってきた。学校という非常に新しい「実験」の中で、放っておくと残酷になりがちな子どもたちの世界には、そうした見えない世界の意識のバランスが必要なのです。人間は様々な絆でつながっているということを、早いうちに覚えるのがいいのです。

お父さんたちの酒盛りから野球のチームができたり、釣りの同好会や、季節の行事が生まれます。それはやがて学校での「オヤジの会」に進化します。「利害関係のない友だち」、競争社会で生きていればいるほど、それが必要です。卒園後も一生続くと良いのです。

 大人たちの部族的意識が子どもたちを安心させ、学校での生活が安定してくきます。

 

 

父親のいない子ども

 

園で父親参加の行事をやろうとすると、「父親のいない子どもに対する配慮は?」と言う人がいます。心ある保育者が「お父さんがいない子は悲しいと思います」と私に言います。優しさから出た言葉です。しかし、人間の幸せは悲しみと背中あわせ。「死」があるから「生」があるように、正面から受け止めずに、真の絆は生まれません。周りの人間たちの悲しみを意識することは、絆そのものかもしれません。

以前、運動会で徒競走に順番をつけないという学校の話を聞きました。平等という概念で絆は育たない。平等なんてあり得ない、支え合って、人間たちは幸せになる。

徒競走でビリになった自分の子どもを親がどう慰めるか。オロオロして一言も声をかけられなくても、オロオロを実感することで「親心」が育っていく。親はオロオロするからいいのです。

漫然と悲しみを避け、現実から顔を背けていると人間は繊細さを失ってゆく。優しさという人間らしさの大切な部分を失っていく。悲しみと不幸は同質ではない。悲しみを分けあう、実感しあう、そのことが、楽しみを分けあうよりはるかに絆を深めることがあります。

「父親のいない子に配慮し」幼稚園が、父親参観日という名前を自粛し、「走るのが遅い子に配慮し」みんなで一緒に手を繋いでゴールするような教育をしたら、信じあうことを忘れ、悲しみをわかちあえない社会になるでしょう。

一人の人間の悲しみを包み込み、絆が育つ。絆が助けあいを生み、助けあいがより深い絆を生む。人間は一人では絶対に生きられない。

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人間が助けあったり頼りあったりしなくていいように、政府や行政がやらなければいけない、とみなが言い始めている。権利として主張し、要求し始めている。これは怖い。

地震や洪水が起きると、マスコミが「心のケア」が必要、「カウンセラー」を政府が用意せよ、とまで言う時代になりました。人々の間に、政府や行政がしてくれないから自分は不幸なんだ、という意識が広まってくる。人々が怒りをぶつける相手を探してあげる、みたいな報道が多すぎます。

悲しみから目をそむけ、日常生活の中で人間関係の絆を築く機会を失い、そのうちカウンセラー(専門家)がいなくては機能しない社会になったら、殺伐とした救いのない不幸が人間社会を満たすでしょう。自分がいじめられないため、形だけの絆を保つために誰かをいじめるという最近の小中学生の世界に、私は未来の日本を感じて怖くなります。

人間は、絆がなければ生きていけない。しかし、その絆が悲しみさえもわかちあう深いものでなければ、幸せにはなれない。

 

「配慮」という言葉に話を戻します。

実はこの地球上に「父親のいない子」は存在しません。クローンでも創らないかぎり、どこかに父親はいる。それがお墓の中であっても、親が離婚したとしても、父親はいる。「それを意識すること」が魂の会話の始まり。それを思い出すことが、現代社会から失われつつある「魂のコミュニケーション」の復活につながります。だから、私はあえて言うのです。「父親参観日」を作りましょう、「父親が遠足へ一緒に行く日」を作りましょう。父親を園に引っぱり出しましょうと。

お盆に子が親の墓参りにきたら、親は死んでも子育てをしているのです。

そして、宇宙は私たち人間に自信をもって〇歳児を与えている。

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「父親のいない子に対する配慮」という言葉を口にすることによって、「実は、父親のいない子は一人もいない」という真実を忘れる。真実から目を逸らしているうちに、やがて父親とはどういうものかさえ思い出せなくなる。

私はお母さん方に話をする機会が多いのですが、「子どもが幼児のうちにご主人の心に祈りの火をともしてあげてください。子どもが小さいうちが鍵です」と言います。

「幼稚園や保育園を利用して、父親が出てくる行事をたくさん作ってもらってください。父親の心に親心が芽生えれば、それがあなたの幸せにつながります。ご主人が文句をいったら、『こういう園長に当たったんだから』とか、『仕方ないでしょ。ほかの子の親だってやってるんだし』とか言って、全部園長先生の責任にしてかまいません」と言うのです。

理屈ではない。父親が保育園や幼稚園に出かけて一日園児たちとゆっくり過ごすだけで、家族の一生が変わる。これをみんなですることによって、国の未来が変わる、人類の進化の仕方に影響を及ぼす、それくらい思っています。

 ちょっと不思議な話をします。

もし、父親の心に祈りの火をともしたかったら、一週間でいいのです。眠っている自分の子に、毎晩、歌わせるのです。

「カラスなぜなくの」でいい。父親に歌を唄わせるのです。一人で。

眠っている自分の子どもに一人で、という一見非論理的なコミュニケーションの場に音楽が加わることによって、父親の心に、ポッと祈りの火がともります

音楽にはそういう不思議な力が備わっています。

音楽の役割はそんなところにある。

本当は、奥さんに言われて、ご主人が実行してみようという気になるような夫婦関係ならばもう大丈夫なのですが、うちはどうかな? と思ったら、まずお母さんがやってみてください。眠っている子どもに一人で唄いかけるのです。お母さんが不思議なことをやっている姿を父親が眺める。その姿には、父親が忘れていた「何か」があるはず。

こうした風景を目にして、人は人らしくなってゆきます。人が互いに眺めあう、言葉を実際に交わしあうよりもっと大切なコミュニケーションの手法です。絆で守りあう姿です。

言葉に支配されている人間が、音楽という儀式に近いものによって魂を解放される、それが子守唄の原点です。

 

自己実現/Self-actualizationまたはSelf realization

 自己実現という言葉が、あまり良い影響を日本に与えていない、と以前から思っていて調べてみると、Self realizationという言葉の訳に使われているのを知ってびっくり。Self realizationは、素直に訳せば「自分に気づく」。少し体裁を整えるなら「自己発見」とか「自己体験」と訳した方が自然。川合隼雄さんの本にもユング派のSelf realizationを自己実現としている箇所があって、これはロスト・イン・トランスレーションではなくてミスリードではないか、と思いました。

 乳幼児との関わりで、人間は自分自身を発見し人類の一体感を体験すると言い続けてきた私にとって、Self realizationという英単語は突然非常に魅力的で、ひょっとしてユングも同じことを言っていたのかもしれない、と期待します。

 ユングについては何も知りませんが、もしSelf realizationが自己体験と訳されていたら全体の方向性がはっきりして来て、日本の土壌にもっと馴染んだのではないかと思います。これを自己実現と訳すことによって、本来他力の発想を、誰かが自力に変えた。意図的だったとしたら非常にまずい行動だったと思います。
 現在私が直面している社会問題をベースに考えれば、浅い次元で、幸福論が経済論に持って行かれたという感じ。
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(少し遡ったところにSelf-actualizationという言葉があって、これは自己実現に近いと思います。しかし、この言葉とSelf realizationとの間にはかなり決定的なギャップがあり混同してはいけない。)
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 私は、ずっと4才児完成説を言ってきて、人間は4才児くらいを眺め、その生き方を目指しているといいんだ、と親たちに伝えているわけですが、ユング派の最終的なカウンセラーは0才児なんだと思います。
 

長田先生のプライムニュースでの発言、孤軍奮闘、凄かった。

 素晴らしかった。番組に横浜市の待機児童解消を評価し、他でも広がればいいという意図があり仕方がないのですが、利他の人、長田先生の孤軍奮闘ぶりが保育や子育てを取り巻く現状を表し象徴的でした。わかる人にはわかる。様々な問題の中心点に視点の相違がある、と鮮明になったはず。保育界にもメッセージになったはず。

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 3才までの子どもの安心安定を願う人と、次の選挙向けに自分の功績を話し続ける人の意図の違い人生哲学の違いが「子育て」をテーマにハッキリ出ていました。反感もあるかもしれませんが、現場の思いは伝わったと思うのです。

 番組が終わってすぐ、都内のある区の前福祉部長から「素晴らしかった。市長との度量の違いが見事だった」と電話をいただきました。子どもを思う現場が長年疑問に思って来たこと、子ども優先になっていないということを保育の歴史を語りながら、的確に言ってくれました。しかも出演していた4人のうち、毎日子どもに関わっているのは長田先生だけです。それに気づく人は絶対にいるはずです。

 番組の司会者が後で長田先生に「先生は保育園をしているんですよね」と言ったらしい。経済で物を考える人たちには理解出来ないかもしれません。自分の仕事の存在を批判している部分があるからです。でも、保育園がこれから子ども優先に動かないともうこの国に未来はない、それほど重要な存在だから流れを変えたいのです。保育園は重要なんだ、この国の魂のインフラを支えているんだ、それを全国の園長主任たちに解ってもらいたいから長田先生は言い続けて来たし、一部の園長を除けば保育界で白い目で見られて来た。それでも先生は風車に立ち向かうように闘って来た。その背後には必ず何百人もの園児たちの願いがあっ

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た。そろそろ、保育界が気づき始めている。

 ありがたい番組でした。

 この国はいい運を持っているはずなんです。

 

 早期の母子分離の危うさは何千年にもわたって常識で、ユニセフの白書、20年前の厚労省の調査でも言われてきました。保育園を三つ経営している人が、安心感がないとご飯さえ食べない、とまで言えば、親はハッとするはず。最後に、人生5年くらいは子どもと過ごそうという視聴者からのメールが読まれ、番組の意図が自然に変わりました。

長田安司先生/プライムニュースに出演されます。本、三刷です。

お知らせいたします。

共励保育園の長田先生が今夜(五月十五日)八時BSフジプライムニュースに出演されます。子どもたちの願いが先生を通して表れ、先生の真意が伝わりますように。日本の保育者たちの長年にわたる思いが理解されますように。先生の「便利な保育園が奪う本当はもっと大切なもの」三刷だそうです。大丈夫かもしれない。

ハーバード大の教授/三つ子の魂百まで

 長田先生のまんさくブログhttp://osadayasuji.com/?p=385 は凄い。ぜひ多くの人に読んでいただきたい。園長や私がくり返し政治家や行政、親たちに訴えてきたことが、ハーバード大の教授によって「ハーバード・ビジネススクールを巣立つ君たちへ」と卒業生に語られる。これなら日本の政治家も学者も少しは耳を傾けるかもしれない。

『「ハーバード・ビジネススクールを巣立つ君たちへ」(How will you measure
your life.?
)と副題し、豊かな人生を送るために、ハーバード・ビジネススクールを卒業する若者へ贈る言葉としてまとめられたものです。』

その中に、『子どもたちが学校にあがってからの追跡調査でも、子どもたちが生後30ヶ月間に聞いた言葉の数と、成長してからの語彙と読解力の試験の成績とは、とても強い相関(0.78)があったとのこと』

 ここでハーバード大の教授が卒業生に、幸せを願って語りかける言葉を「子育ては専門家に任せておけばいいのよ」と言った元厚労大臣、それを支持した前総理大臣、「乳児は寝たきり」と言った元経済財政諮問会議の座長にぜひ読んでもらいたい。経済の仕組みは人間の生の営みの一部、そこに、幸福感や、育てあい育ちあいがないと経済の存在意義さえわからなくなる。アメリカという、市場原理や資本主義経済を代表する国の代表的大学の教授が、これから経済界でリーダーシップをとって働く可能性が大きいひとたちにこれを言う。それがメッセージとして日本に伝わった時、そこに人類の育てあいのようなものを感じる。

 ハーバード大の教授がHBSの卒業生に言うのを待つまでもなく、5才までの子どもの成長に時間をかけて関わることは、人生や人類の進化、人間性と呼ばれるものに影響する人類必修の体験でした。幼児という毎年これほど違う能力と資質を持った人たちと接して得るコミュニケーション能力は人智を越えています。祈りと想像力、思いやり、過去現在未来のつながりを実感する、そうしたこと全てがコミュニケーションの一部であり全体としての人類をかたちづくる。幼稚園や保育園が出来る前、数万年にわたって人類は5才までの子どもから生きる目的と意欲、そして幸福とは何か、どのように手に入れるかを学んできた。この教えを「成功したいなら守れ」というハーバード・ビジネス・スクールの教授の言葉は経済学の真理に近づいています。経済学は根源で幸福論と重なるべきなのです。

 5才までの子どもと過ごす時間は、闘いの気から人間を母性の気に戻す時間かもしれません。この時間が子どもにも親にも、社会にも大切なのだろうと思います。戦闘モードで人間は真の創造者になりえない。

 5才までの自分の子どもと過ごす、この「自分の」というところが社会の絆を育てる。子どもによって人間は利他で繋がる。ハーバード大の教授が卒業生に言う「子どもが幼い頃しっかり働いて、成長してから子育てに関わればいいと思っているかもしれないが、その時にはゲームは終わっている」という言葉と、子どもが学校に入ったから仕事を辞める、と言う母親たちの言葉の差異は、常識が崩れることによって起きているのでしょう。生態学的に人類をその都度守ってきた常識は、時にわらべうたや子守唄で伝承されます。阿部ヤエさんの本を読むとわかりますが、言葉掛けや知恵の伝承が音楽を伴ってされてきた。ここが人間の凄いところだと思います。

 子守唄を歌う経験が少なくなっています。現在2割が一度も結婚しない男たちは特にそう。義務教育の中で乳児相手にこのあたりの体験をさせると現代社会の欠陥を補完するにはいいはず。

 徒然草的に言えば、米国では今ではハーバード大まで言かないと教えてもらえないような大切なことを日本人は常識として知っていた。だから世界第三位の経済大国なのだと思う。それをハーバードまで行かなかった日本の学者たちが「欧米では」と言って崩そうとする傾向がある。真理は簡単で身近な幼児の中に見えるのに。モラル・秩序のない市場原理は喧嘩で適者存続のように見えますが、次世代を思い、子どもを育てようとすれば、必ず自分の身に負の連鎖は降り掛かってきます。喧嘩に勝ったとして果たして幸せになれるのか、ということだと思います。市場原理、規制緩和が日本でも言われていますが、DVや児童虐待の増え方を児相や児童養護施設で見ていると、あまりにもタイミングが悪過ぎる。

 何か根本的なところをまず建て直してからでないと、危ない気がします。

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