「子育てしているフリをする人」に対する子どもたちの怒り

「子育てしているフリをする人」に対する子どもたちの怒り

 (「ママがいい!」、ぜひ、読んでみてください。読んでくれそうな人に薦めてください。賛同できない論旨があっても、保育という仕組みと学校教育がこれ以上持ちこたえられない、という「からくりの崩壊」と、その背後にあった強者の身勝手な論理は理解してもらえるかもしれません。)

「先生」と名のつく人をまったく信じない、始めからその人を疑っている子どもがクラスに一人居れば、学級崩壊は起こります。他にも数人いる大人を信じない予備軍たちの引き金を引いてしまう。

あの子さえいなければ大丈夫だったのに、何とかやり過ごせたのに、と思っても、次々に「あの子」たちが現れる。担任が、その理不尽さに追い詰められていく。

突然、先生の言うことを断固として聞かなくなる。白といえば、黒、右といえば、左、拒否の仕方が尋常ではない、理屈がまったく通用しない子が現れているのです。優しい「いい先生」に対してもそう。母親の言うことは聞く。勉強もできないわけではない。

この現象に、「子育てしているフリをする人」に対する、子どもたちの怒りを感じるのです。

彼らの短い人生で、いつ、反発や悲しみが、絶望や怒りに変わったのか、人間不信が決定的になったのか、誰も知りえない。その「誰も知り得ない」ことが許せないのだろう、と思います。

誰も責任を持たない、責任を共有できない仕組みの中で育ってきて、決定的な負の「記憶」が行き場を失い彷徨い始めている。

幼い頃にあった、「先生(保育者)」によって行われた、たった一日、たった数分の、「有ってはならない」出来事を一生抱え、苦しみながら生きていく子どもたちがいる。(場合によっては、その子たちが保育士や教師になって陰湿なイジメを繰り返す。義務教育という仕組みの中で、親が絶望的になる瞬間が増えている。教師不足という足かせで、校長先生もそれを止めることができない。)

愛そうとした人に繰り返し裏切られた体験を心に(PTSDとして)刻まれ、強者によって弱者が苦しめられる光景を「子育て」の原風景として見続けた子どもたちが、相当数、学校にいる。その中から、救われることさえ求めない子どもたちが現れている。

熱意と努力ではどうにもならない、「傷の記憶」を共有できない子を数人受け持ったら、幼児期を知らない担任にはどうしようもないのです。もし、担任がそこで努力をやめ、人生を諦めてしまえば、その子たちの存在は周りの子どもたちの人生をも変えていく。

義務教育が諸刃の剣になろうとしている。

保育士の虐待「見たことある」25人中20人 背景に人手不足、過重労働…ユニオン調査で判明(東京新聞):https://sukusuku.tokyo-np.co.jp/hoiku/8494/

この状態がいまだに続いているのです。

それから四年、先日も、「トイレ閉じ込め…:娘の心に傷。保育園、数は増えたが」(朝日新聞)という記事が載っていました。この状況を幼児に強い続ける限り、予算を増やして待遇を良くしても、保育・教育における人材確保はもうできないし、質の低下は続いていくのです。

学級崩壊という現象で、子どもたちが何を「伝えようと」しているのか、よく考えてほしい。質より量の、政府の馬鹿げた「子育て支援」「社会で子育て」施策が、その根本にあることを見極めてほしい。

「社会で子育て」を主張してきた「保育の専門家」は、それでも、作り過ぎで定員割れを起こし経営が危ぶまれる保育施設に関して、新聞のインタビューに答えて言うのです。

保育園の数を増やし待機児童がなくなったので「一定の成果はあった」。「家庭で子どもを育てることに不安や疲れを感じる人たちにも、保育が必要になってきている」、「保育園の柔軟な活用が求められている」と、更なる規制緩和を提唱するのです。

彼らの言う一定の成果、「保育園の数を増やし待機児童がなくなった」ことの陰には、無資格でも保育ができ、パートで繋いでもいいという、幼児たちの記憶を細切れにする規制緩和があった。補助金で誘い、幼稚園を保育園化する動きがあった。十一時間保育を標準と名付け、子どもの側からは「成果」と呼べない、母子分離の推進があった。

幼い兄が妹と、姉が弟と、過ごす権利が奪われていったことなどには、誰も目もくれない。兄弟姉妹という一生の「縁」が、この時期に結びつくことの大切さを、誰一人言わない。その時、何が失われていったのか、想像力を働かせる者たちはほぼ皆無だった。

「こんなのは『子育て放棄支援』です」と保育士たちが憤った、国による保育界の良心の破壊が、その「成果」の陰にはあった。

その上での「柔軟な活用」は、いま以上に保育をサービス産業化していくだけ。「こども家庭庁」が、保育学者とサービス保育の生き残りのため、票集めに子どもたちの日々を犠牲にした政治家たちの延命作戦の場にならないことを祈ります。

「教員不足深刻、潜在教員活用へ(文科省)」読売新聞

https://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/kyoiku/news/20220713-OYT1T50181/

潜在保育士を掘り起こせ、と厚労省が動いた時、行政主導のマッチメイキングで、集まった園長設置者の方が潜在保育士より多かった閑散とした会場を思い出します。なぜ、心ある人間が「潜在保育士」になってしまうのか理解していない。資格があれば保育ができると思っている「保育の専門家」たちが、親の意識の変化が問題の根底にあるとわかっていない。

「ママがいい!」という言葉に目を背けているかぎり、流れは変わらない。

教師不足も止まらない。

 

 

姉弟

 

「幼稚園でもらっためずらしいおやつ、

こうちゃんにもあげたかったの」

お姉ちゃんがそっと小さな手を広げると

にぎりしめたワタアメが

カチカチにかたまっていた

 

「ひかりちゃんがいないと、つまんないわけじゃないよ

ただ、さびしいだけ」

私と二人だけの部屋で

弟は たどたどしくうったえた

 

人間は

かたわらにいる人を 愛さずにはいられない

幼い子供から それを教わる

 

by 小野省子

 

 

『ママがいい!』重版出来! の知らせをもらいました。

「ママがいい!」、出版社から、重版出来、の知らせをもらいました。

色んな方に読んでもらいたい。これだけは知ってもらいたい。なぜ学級崩壊が止まらないのか。教師の成り手が減っているのか。少子化が進んでいるのに「児童虐待が過去最多」の現実。

日本の将来をここから考えてほしい、という思いで書きました。反響が嬉しいです。推薦、どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

『ママがいい!』重版出来!

本書は、何人もの方から「良い本を出してくれた」とのお言葉をいただきました。わざわざこうした言葉をくださることは意外に少ないんです。

幼児教育に携わる方はもちろんですが、

作家先生、大学の先生、研究者、ソーシャルワーカーさんなど、世の中を俯瞰的に見ておられる方が共感してくださったことも、嬉しいことでした。

ある名刹の老師の奥様は、この本の内容をもっと多くの人に知ってほしいと、たくさん買われて自ら手紙を添えて方々に送ってくださいました。

著者の松居先生は、できるだけ多くの方にこの現実を知ってほしいとSNSで発信されてます。

それをシェアしていただいた方のおかげでもあります。心より感謝いたします。

グッドブックス:良本 和恵

https://good-books.co.jp/books/2590/  

 

守り神

 

守り神(数年前の話です)

車で2時間ほど走って、ある公立保育園に講演に行きました。お父さん2人お母さん20人くらいに話をし、その後、お昼に給食を食べました。

園長先生が用意してくれた私の席は、ダウン症で知的障害を持っているK君と、自閉症のR君、そしてR君のお母さんと四人で食べる席でした。K君は両親が離婚して父親がいない家庭で過ごしていることもあってか、園についた時から私にくっついていました。

K君は、実はほとんど職員室に住んでいて、主に園長先生が見ているのです。私を園に迎えてくれたのも園長先生とK君でした。

お母さんはあまり園に寄り付かず、園に預かってもらえるかぎりの時間、預けていました。園長先生が熱心に薦めてくれたのですが、講演会にも現れませんでした。R君のお母さんが、K君とK君のお母さんの世話を色々やいてくれているそうです。二人とも来年学校へ行くので、色々しらべて、特別支援学校に二人で行こう、とK君のお母さんを誘っているのです。

K君と過ごす、お昼を一緒に食べる。ほんの1時間くらいだったのですが、私が10歳くらいから色々身に付けてきた世渡りの術は、ほとんどK君には役に立ちません。私の本質しか見られていないような気分です。磨いてきた技術や知識ではどうにもならない、裸にされたような感覚。たぶん、園長先生はこの時間を私に過ごさせたかったんだ、と思います。

すべての人間がパズルのように組み合っている。そう言葉で言うだけでなく、実感させたかったんだな、と思いました。 

保育園とK君が、ギリギリのところで、人間が助け合う絆を育てている。

障害児、障害者、認知症のお年寄り、三歳未満児、どんな時代にも、この人たちは社会の一部として居ました。「専門家」が現れ、名前がつきましたが、以前は名前をつけて分類しなくてもいいくらい、普通に居ました。人間社会は様々な命の組み合わせで成り立ってきた、その証しだったのです。

古典落語の重要な脇役「よたろうさん」は、いまの分け方から言えば障害者でしょうか。そして、昔話や民話の主人公に多いのが怠け者です。三年寝たろう,眠りむしじゃらあ、わらしべ長者。一見負担になったり、一人ではなかなか生きられないような登場人物と、パズルのように組み合わさってみんな生きてきた。その人たちの重要性や役割がそれとなくわかっていたから、度々昔話や民話に主人公になって現れたのでしょう。

パズルの組み方を学ぶために、0歳1歳2歳児とのゆっくり時間をかけた付き合いが必要だったのではないか。歩けない、喋れない、トイレに行けない、一人で食べられない0歳児と全員が落ち着いて付き合うことで、寝たきりのおじいちゃんにも存在意義があることや、人形や子守唄にも独特な意味があることを感じる。まだ発達していない1歳児2歳児と不思議な時間を過ごすことで、認知症のおばあちゃんや障害を持っている人たちの役割に気づく。この人たちを理解すること、というより、「理解しようとすること」が命の存在意義と理由を人間たちに教えてきたのだと思います。

だからそれは最近まで、逃れられない、選択肢のない、人類には必須の責任だった。

そのあと東京に戻り、自民党のK代議士の「励ます会」に行きました。

年に一度くらいですが、こういう会の招待状をもらいます。四期目のK代議士には内心期待しているので、都内のホテルへそのまま運転して行きました。元総理大臣、元防衛大臣二人、いつもテレビで見る方々が次々に面白おかしく反対政党の批判をし、挨拶をしました。会場は、ほとんど背広にネクタイ姿の男たちで埋まっていて、熱気が立ち上っています。知り合いの代議士の方も数名いました。

テレビのカメラが来ていました。問題発言でも起きないかねらっているのでしょう。かなり、可笑しな風景です。こういう関係の中で、誰かが儲けている。

いまこの瞬間、保育園で園長先生とK君とR君のお母さんがこの国を浄化しようとしていることを、ここにいる政治家やマスコミ、背広にネクタイの男たちは知っているはずがないのです。

立食の食べ物をもぐもぐ食べながら、ブツブツそんなことを考えていると、司会をしていた、K代議士の親友の熊本のK代議士が、わざわざ私を探しに来てくれて、友人という香川の代議士を紹介してくれました。そして、香川でも講演することになりました。

両界曼荼羅。K君がK代議士を照らす時がいつか来るでしょうか。

守り神はそこにいる。

私に反射した関係であっても、K君はみんなを照らすはず。

(あれから十年が経ちました。その間、保育界がどれほど仕組みとして傷つけられ、学校が追い込まれていったかを、私は7冊目の本に書きました。「ママがいい!」という本です。)

K君、園長先生、R君のお母さん、みんなどうしているでのしょうか。

背広にネクタイの男たちは、いまだに同じことをやっている。あの熱気に担がれる時間が長くなると、世界中のリーダーたちの抑止が効かなくなってくる。

知り合いの代議士たちの顔を時々テレビで見ます。いまだに国防の本当の最前線を守っているのは、K君や園長先生、R君のお母さんのような人たちなのだ、ということを理解していないのでしょうね。

長時間保育の推進と、質を下げる規制緩和で状況はますます悪くなっています。前線は広がるばかりで、K君、園長先生、R君のお母さん、の三人ではこの国を守りきれない。

 

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守り神たちの存在に気づいてもらうために、拡散よろしく、お願いします。

 

止めることができない「時間」の中で

「生きる力の衰退」

0、1、2歳児保育を拡大していった政府の施策が、親たちの子育てに対する意識の変化をもたらし、社会のあちこちで「生きる力の衰退」つながっていった。その時期に育つべき「縁」を、時間という制約の中で乱暴に削ることによって、少子化が一層進み、未婚化や引きこもりも増えていった。預かる側の質を文句なしに揃えたとしても、ぷつんぷつんと途切れる縁でいいわけがない。

最近知ってびっくりしたのですが、「仕組み」に預けることに慣れた親たちが、その次に頼る手段がインターネットなんですね、

  内閣府の「インターネット利用環境実態調査」というのがあるのですが、子どもたちのインターネット利用率が増えている。

それはわかるのです。が、その中で、乳幼児のネット利用の増加が他の年代よりも目立つ。2020年と2021年の利用率の変化だと、一歳児は16.5ポイント増の33.7%、二歳児は18.8ポイント増の62.6%。二歳児は一日平均1時間48分だそうです。平均、ですよ、平均。

そういう時代だ、と言ってしまえばそうでしょう。でも、私には変化の速度が尋常ではないように思える。

あれっ、と思ったのは、幼稚園や保育園に通園していない「通園前」の幼児よりも、「通園中」の幼児の方が利用率が上がっていること。調査対象が「保護者」ですから、園での使用率の調査ではないはず。これは、「仕組み」から「インターネット」へと、バトンを渡すように子育てをつないでいる親が増えているのですね。

愛着関係の重要性とか、幼児たちとの触れあいから得る幸福感、というより、そこに幸福感があるんだという意識、知識の欠如が急速に進んでいる気がします。

止めることができない「時間」の中で、「ママがいい!」という言葉を喜びとして聞く回数が急激に減っている。

0歳1歳から預けることで、慣らされるんですよ。「ママがいい!」という言葉が社会から消えていくことに。

私の講演を聴いた中学生が以前書いてくれました。

「私は、『親になる幸せ』を聞いて、不思議な気持ちになり、同時に、早く大人になって子どもを産んでみたくなりました。私が今生きている。それだけで周りの人たちが笑ってくれる。それだけで幸せだと思いました」。

音楽に、作る人と聴く人が必要なように、0、1、2歳児と過ごす時間は、お互いを確認しあって存在する。だからこそ、人生を賭けて響き合う。この人たちに向けた愛着は、自分の死後も続いていく命を思うことであって、自分を育ててくれた親を思うことでもあるのですね。

「縁(えん)」と呼ぶしかない運命的なつながりを、今まで肯定的に受け入れ続けてきた人間たちから、これほど突然に大量に、政府が莫大な予算をかけて削っていったら、どうなるのか。考えてみてほしいのです。

(縁:人と人を結ぶ、人力を超えた不思議な力。親子、夫婦、親戚などの間柄。結果を生ずるための間接的原因や条件。)

 

人類の羅針盤

「ママがいい!」と叫んでいる子どもたちは、人類の羅針盤だと思うんです。

この言葉から生まれる「いい人間性」の確認と連鎖が、「子育て」だった、と私は考えます。なぜ、それが、ここまで見て見ぬ振りをされたり、ともすれば、そう叫ぶ子どもたちの存在が厭われるようになってきたのか。しかも、かなり唐突に、突然に。

ここ数十年、学問や教育が「自立」とか「自己実現」などという言葉を駆使して、人々の人生を対立の構造に向かわせてきた。助け合い、調和、「愛されている」という家庭主体の幸福感とは違う、経済活動主体の利己的な損得勘定のものさしに誘導されていった。突き詰めると、「乳児の存在意義」VS「学校教育の存在意義」のような気もします。

校長先生が本心ではないのに、立場上、「夢を持ちなさい」「君たちは無限の可能性を持っている」と卒業式で言う。ほとんどの場合それは、「欲を持ちなさい」であって、もちろん欲を持つ人が居てもいいのですが、「アメリカという国は、3%の人が90%の富を握っている。格差が広がっている」、「日本でも、起業家の多くが失敗する。その失敗(不幸)が経済を回している」とか、「競争以外の場所に、幸せになる方法は、実はたくさんある」など、その程度の情報は一緒に教えるべきだった。

高等教育の中で、「欲は捨てたほうがいい」と言うのは言い難いのでしょう。でも、小学校の国語の教科書には宮沢賢治や新美南吉が載っていたりします。その時点では、伝統的に利他の道筋が示されている。それを高等教育まで伸ばしていってほしい。中学高校と、年に数日でいいから毎年幼稚園や保育園で幼児たちと過ごす、そんなことでいい。一番幸せそうな人に繰り返し出会わせていれば、幸せになることはそんなに難しいことではなく、この人たちと過ごすことが自分を幸せにする、と体感できるからです。

経済学者たちはもっと露骨に、「生産性」などという言葉を使って競争をうながす。その典型が、政府の看板政策「生産性革命と人づくり革命」です。タイトルを見ただけで、嫌な感じがしました。

人づくり、とはよく言ったものです。

義務教育の普及とともに、「子育て」に目標のようなものが設定され、親である幸せへの道筋が狭められていった。

前回、「甘やかす」という行動は「祈り」に近い、と書いたのですが、子育てを学問でとらえる人たちは、甘やかしては戦力にならない、くらいに思っているんですね。そして、母子分離を進めないと、母親が戦力にならないと計算する。

「出産退職年20万人、経済損失は1.2兆円:民間研究所試算、(http://kazumatsui.m39.coreserver.jp/kazu-matsui.jp/?p=2581という記事がありました。

 母親が子育てをしたいと願うことを「経済的損失」と、分析。それを数字を挙げて発表する研究所、その発表を一斉にニュースとして新聞が報道するのです。人類はここまで言った、金字塔のようなセンテンスですね。石に彫って、「人類が到達した馬鹿さ加減」として次の世代に残したいくらいです。映画「猿の惑星」を思い出します。海岸で、石に刻まれ砂に埋もれたこの言葉を、未来の人類が発見する。

乳児期に「世界は信じることができるか」という疑問に答えるのが母親であり、体験としての授乳がある、と言った発達心理学の草分け的存在エリック・エリクソンがこの新聞報道を見たら、驚きますね。

時間を超えた子どもたちにとっての「損失」や、願い、など視野に入れない「経済的損失」の身勝手さ。ジェンダーフリーという言葉でそれを覆い隠し、進歩だと肯定する社会学者や発達心理学者、保育の専門家たちの発言に、エリクソンは呆れるはず。

性的役割分担の重要性を説かずに、心理学を論ずることなどできない。それがアイデンティティーの根幹でしょう、と、どこかで大笑いしている。

学問」と「欲の資本主義」が人間の思考とアイデンティティーを抑圧している。

 

子どもが初めて逆上がりができて、私の方を見て笑ったとき、初めてできたことよりも、それを私が見ていたことの方が嬉しかったんだ、と感じたとき、私の価値観や人生が変わっていったのです。

 

 

羅針盤を取り戻すため、

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子どもたちだけが、正直だった

「愛されている」、そう思う子に育ってほしい、という親たちの願いが道筋をつければ、社会は落ち着いていく。その落ち着きが、それぞれの自分に還ってくる、と前回書きました。

「アイデンティティー」の研究で知られる発達心理学者エリック・エリクソンは、乳児期に「世界は信じることができるか」という疑問に答えるのが母親であり、体験としての授乳があるといい、それが欠けることで将来起こりうる病理として、精神病、うつ病を指摘しました。いまの状況を知っていたら、それが連鎖すること、相乗作用を持っていることまで言ったかもしれない。

当時の発達心理学は文化人類学にも似ていたって正直です。立場やしがらみに囚われない意見を、フィールドの観察と実体験に基づいて言えたのですね。子育ての主体は、十八ヶ月までは母親、三歳までは両親、五歳までは家族、と言い切ります。後に、イェールやハーバード大学でも教えたエリクソンは、学位を持っていない。そこがまた良かったんでしょうね。実体験とフィールドから入って行った。そこにとどまって考えた。

性差(ジェンダー)を、種の存続に不可欠な、受け継いでいくべき概念、大自然の一部として捉えていた。だから、「疑問に答えるのが母親であり、体験としての授乳がある」と躊躇せずに言えた。

こうした誰が見ても当たり前のことを、最近、言えなくなっているところに問題があるのです。

子どもが「ママがいい!」と言ったら、ママがいい。

ありがとうね、と言って、自分の存在を褒めればいい。パパはどうなんだ、みたいなことを言う人がいますが、いいママに子どもは当たった、と喜び、感謝する、まずはそれでいいでしょう。

子育ては一人で始まるものではないし、できるものでもない。哺乳類の場合は、性的役割分担が原点にある。それがアイデンティティーの出発点。出産後、しばらくは母親主体の子育てが続き、乳幼児を真ん中にして、育てる側が信頼の絆を広げていく。それが「親の責任」だった。

でも、私でさえ、本のタイトルとして、「ママがいい!」を提案された時、躊躇したのです。これは、危ない。

「ママがいい!」と叫んでいるのは子どもたち。そこに悪意などない。どんな理由があるにせよ、まずは嬉しく、真剣に受け止めなければいけない言葉です。

人類の羅針盤です。そう納得するまで、私も、二日かかりました。

パワーゲームの裏返しと言っていい「平等」という名の闘いと、勝つことに意義を求める洗脳は、人間の考える力を相当抑え込んでいる。そう気づかせてくれた編集者の良本さんに感謝です。

このタイトルを見て、涙が出ました、と言う園長先生がいました。みんな、抑えていたのです。

子どもたちだけが、正直だったのです。

 

昨日の朝日新聞の朝刊です。

まず、可愛がる。

講演で、お母さんに質問されることがある。

「どうやって子どもを育てたらいいんでしょう?」

うーん、これはその子に会ったこともない他人に尋ねることではないですよね。

以前過ごしたインドの村の風景を思い出します。そこではあり得ない質問だということがわかるんです。

私は、言います。

「可愛がって、甘やかしていればいいんですよ」

「甘やかしていいんですか?」

いいんです。

そして、「子どもが喜びますよ」と付け加えます。心の中で、、神様がうなづきますよ、と囁く。

 

以前、保育の専門家に、可愛がると、甘やかすは違いますよね、と言われ、じっくり考えたことがあるのです。ニュアンスは少し違います。でも、その学者は「甘やかす」の方を、良くないと思っている。境界線はどこにあるのか。それが、「おじいちゃん、おばあちゃんは孫を甘やかすから、ダメ」という母親の発言につながっているのかもしれない。だとしたら、結構ここに問題点がある。

私は、考えました。可愛がる、は、それをする人がいい人間になりたい、と思っている証拠です。「甘やかす」は、子どもたちへの感謝の気持ちが、拝む、に近くなっているのかもしれない。

おじいちゃん、おばあちゃんを思い出しながら、そう考えたのです。

私が尊敬する園長先生たちは、みんなおばあちゃんの心で保育園をやっていました。そういう顔をしているから、親たちは本能的に言うことを聞く。

専門家は色々言いますが、子どもがどう育つかなんて予測がつくことではない。こうすればこう育つ、ということが本当にあるのなら、人類はとっくにそれを発見しているでしょう。専門家が現れて、正解があるようなことを言い始めて、みんな迷路に入っていった。そして、厚労大臣が、子育ては専門家に任せておけばいいのよ、などと言うようになり、その言葉に人々が疑問を持たなくなった。

大雑把に見れば、子育ての手法には色々あって、宗教や文化、階層や家庭によってもそれぞれ違うのでしょう。しかし原点は、いい人たちに囲まれて育って欲しい、と、運を天に任せるようなもの。

まず、自分がいい人になろうとすることの方が先にあるべきで、その方が具体的ですし、確実なのです。

だから、まず、可愛がる。

子どもが喜ぶことをやっていれば、人類はだいじょぶ、そういう仕掛けになっているのです。そして嬉しいことに、それが日本という国の伝統文化だった。「逝きし世の面影」第10章(子どもの楽園)を読んでいるとよくわかります。父親も母親も、特に父親が、とにかく子どもを可愛がる、甘やかす、叱らない。つい150年前、日本はそういう国だった、それに欧米人が驚いて、様々な文献に書き残した。パラダイスと呼んだ。http://kazumatsui.m39.coreserver.jp/kazu-matsui.jp/?p=1047

(「逝きし世の面影」より)

『私は日本が子供の天国であることをくりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない。ニコニコしているところから判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい(モース1838~1925)』

 

『私はこれほど自分の子どもに喜びをおぼえる人々を見たことがない。子どもを抱いたり背負ったり、歩くときは手をとり、子どもの遊技を見つめたりそれに加わったり、たえず新しい玩具をくれてやり、野遊びや祭りに連れて行き、子どもがいないとしんから満足することがない。他人の子どもにもそれなりの愛情と注意を注ぐ。父も母も、自分の子に誇りをもっている…(バード)』

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最近は、子どもをどう育てるか、という気持ちが、自分がいい人でいたいという気持ちに先んじる傾向があるんですね。これでは順序が逆です。

子どもに、いま、幸せな時間を過ごしてほしいと願えば、育て方で悩むことはそんなにない。可愛がって、寄り添うことが自分の幸せだと気づくようになる。結局のところ、自分が育てられるのは自分自身だけ。

「愛されている」と思う子に育ってほしい、という親たちの願いが道筋をつけていけば、社会全体が落ち着いていく。その落ち着きが、それぞれの自分に還ってくる。

 

 

「ママがいい!」いい推薦文をいただきました。

(出版社の良本さんからのFBへの報告です。)
『ママがいい!』、今日もAmazon1位でがんばっています。
著者はじめ、多くの方々のシェアのおかげです。
この本、著者の松居和さんに、はじめ「僕を生け贄にするつもり?」と言われ、いや「日本はまだ間に合うかもしれない」と生け贄になることを自ら引き受けられて出版した本でした。
だから、カテゴリーランキングでもAmazon1位は本当に嬉しい。
世界の潮流や政府の保育政策に真っ向から疑問を呈したとんがった本ですが、長い人類史と叡智に根ざしているのはこちらのほうですし、タイトルだけ見て嫌悪感を抱いたという女性もいますが、本当は女性の応援歌です。
乳幼児のそばにいる方々に、アメリカ社会を見てきた著者の、全国の幼児教育の現場を長年歩いてきた著者の、渾身の主張を、ぜひ知ってほしいです。
以下は、Amazonレビューに寄せられた素晴らしい書評(柴田久雄さま)です。
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アメリカにおける学校教育の危機、家庭崩壊の現状を見て帰国、以来30年以上に渡り欧米の後追いをする日本に警鐘を鳴らし続ける。音楽家で作家、元埼玉県教育委員長でもあった一風変わった経歴の持ち主、現場を知り問題の本質を知る日本の心を持った著者の訴えに深い共感を覚える。
これから子供を持とうとする夫婦、乳幼児を持つ夫婦、小さな孫を持つおばあちゃん、おじいちゃんなど多くの日本人に読んで欲しい、何よりも政治家にこそ読んで欲しいと強く思う。
数年間の義務教育学校現場で不登校や適応障害などの様々な問題を抱えた子ども達に関わったが、少子化は進んでいるのに何故そのような子ども達の割合がむしろ増えているのか?私の疑問に本書は見事に答えてくれた。
それは、0歳児から11時間保育を基準とする経済活動優先の保育政策が母子分離に拍車をかけているという現実だった。義務教育で問題を抱える多くの子ども達が愛着障害に関係があることは感じていたが、子どもの発育にとって最も大切な決して取り戻すことの出来ぬ母と子の時間が今の保育制度の下で失われている現実を知り衝撃を受けた。
保育産業化を進めるような経済偏重の政策が続けば子ども達の将来は危うい、そして日本社会も危ういと心底思う。
読み進めると、驚愕、義憤、哀しみ、あまりにも酷い現実を知らされ暗澹たる気分になったが、最後の二章では希望と勇気が湧き嬉し涙が出た。その根底にあるのは、子ども達、母親、父親、家族、そして日本人と日本に対する溢れんばかりの愛だ。何度も出てくる「利他の心」という言葉。「逝きし世の面影」(渡辺京二著)に触れ、欧米人が見て子供の楽園パラダイスと書き残したかつての日本の風景こそが母性的な「社会で子育て」の真の姿であるという著者の想い。私の想いもシンクロした。
二度読み終えて再び著者紹介を見る、なんと私と同い年という偶然に気づいた。ママという呼称とは無縁な私にも本書のタイトルは深く突き刺ささる。
(https://good-books.co.jp/blog/blogs/2768/
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「だいじょうぶ、だいじょうぶ」

少子化対策で加速したさらなる少子化で待機児童がいなくなり、都市部では作り過ぎた保育園の存続が危うい。「成長産業」と名付けて民間参入を促してきた政府の施策に便乗し、「制度でも子育てができる」「親の代わりができる」と言い続けてきた業者が、今度は、働いていなくても預けられるようにするべきと言いだしている。

先日、「保育園等を利用していない未就園児(無園児)家庭の方が子育てで孤独を感じている」という民間会社のアンケート調査を紹介し、「保育園は働いてなければ入れない、と言う制限があるのがおかしい」と学者が発言している記事が、それに首を傾げる別の学者から送られてきました。少子化は分母になる親たちの減少と、結婚しない男たちの増加がベースにあるので、産む子ども数が突然奇跡的に増えても止まらない。それはもうみんな知っているのです。無償化や制限の撤廃は、短期的な業者の生き残り策、または次の選挙のことしか考えない政治家の集票作戦でしかない。でも、その集票作戦で、投票できな子どもたちの意見が無視されることが当たり前になり、保育の仕組みが歪められてきたのですから、選挙というのは馬鹿にできない。

どの地域の何人くらいを調べたのかは知りませんが、もし「子育てをしていると孤独感を感じるような社会になってしまった」のなら、それは子育てが問題なのではなく、子育ては損な役割と思い込まされ始めた社会が問題なのです。

少子化で廃園を迫られた園を、子育て支援センターに切り替え、親たちが「子育てをしていても」孤独感を感じないようにしていく、親子を切り離さない(特に乳児期は)仕組みにしていけば良いだけのこと。直接給付と組み合わせたとしても、いま以上に財政に負担になることではない。

それを、いきなり子育てに不安を感じたら、保育園がありますよ、預ければ孤独を感じなくて済みますよ、では、短絡的に過ぎる。

 

人間が悩むのは悪いことではないのです。真剣に生きている証拠かもしれない。加えて、孤独感というのは、意味のある感覚で、宮沢賢治の童話を読めばそれがよくわかります。そこに「子どもの幸せを願う」という意識があれば、むしろ大切な道しるべなのです。

 

突然、「こんとあき」という私が大好きな絵本を思い出しました。林明子さんの本です。

あきは、ぬいぐるみの狐のこんとおばあちゃんの家に行くのですが、途中で、色々出来事が起こります。その度に、こんが「だいじょうぶ、だいじょうぶ」とあきに囁く。その感じが、0歳児が母親に「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と言葉ではない言葉で言い続けるのに似ている。

0歳児のその言葉が聴こえるようになるために、母親の孤独はあったのかもしれない。この子が大丈夫だったら、自分はだいじょうぶ、という心境に進むために、そして自分はすでに一生孤独ではないことに気づくために、二人きりの時間があるのかもしれない。

 

「誰でも望めば預けることができるようにするべき」。そこまで言うなら、無資格者でも、パートで繋いでもいいと規制緩和した「保育の質」がその前にまず問われるべきでしょう。0歳から入園制限なし、とした時に、いまの保育界はそれを受けきれるのでしょうか。十一時間保育を標準と名付けて、子どもたちに「自分は愛されている」という気持ち、人を信じる力を持たせることが本当にできると思っているのでしょうか。この最後の規制緩和は、子どもの気持ちを犠牲にした、短期的な利権の確保でしょう。

子どもの願いが聴こえていない。

「子どもの願いに耳を傾ける」(子どもの意見を尊重する)ことは、子どもの権利条約で「権利」として保証されています。批准している日本はそれを守らなければいけない。それ以前に、人間が人間であるための条件のはず。しゃべれない0歳児も、この権利を持っている。だから多くの人にその声が聞こえるようにすること、利他の気持ちを弱者の存在から学ぶことが大切なのです。

 

尊重すべき子どもたちの「意見」の始まりにあるのが、「ママがいい!」です。

保育界は毎年、慣らし保育の時期に、悲鳴にも似たその声を聴いてきたはず。その叫びを真摯に受け止め、その願いに沿って制度を改めていけば、まだなんとかなるかもしれない。保育の現場に優しさや調和が戻ってきて、小学校も、少し落ち着くかもしれない。

 

「ママがいい!」という言葉を喜びとするか、それから目を背けるか、で社会の空気が変わってくるのです。

 

以前書いた「トルコからの手紙」の風景を思い出してほしいのです。平均収入が日本の10分の1という国で、人々は助け合い、分かち合い、子どもを囲んで嬉しそうに生きている。http://kazumatsui.m39.coreserver.jp/kazu-matsui.jp/?p=4319

全員が一生「未就園児」で終わる社会で、人間たちが過ごす時間を、私の教え子はこんな風に伝えてきました。

 

『トルコで菜々を抱えていると、1メートルもまっすぐ歩けない位、沢山の人に声をかけられます。皆、菜々に話しかけて触って、キスをしてくれます。トルコの人たちは、赤ん坊がもたらす「いいこと」をめいっぱい受け取っていると思います。菜々のお陰で、私は沢山の人の笑顔に触れられて、沢山の人から親切にされて、幸せです。日本に帰るのが少し怖いです。』

 

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シェア、拡散、どうかよろしくお願いいたします。0歳児の言葉が誰にでも聞こえてくる社会にするために。

 

 

 

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新卒が数年で辞めてしまう。忍耐力がない、責任を持ちたがらない。保育や教育現場だけでなく、多くの分野で言われるようになりました。

若者の引きこもりが五十四万人。始まる年齢は二十~二十四歳が三四・七パーセントで、十六~十九歳が三〇・六パーセント。明らかに逃げている。

「忍耐力に欠ける」と分析するのは簡単ですが、もっと深いところで生きる指針、幸せの物差しを見失っているのだと思うのです。

それが結婚しない、家庭を作ろうとしない、という傾向に明確にでているのに、政府は、経済優先の少子化対策で、ますます少子化を進めるのです。

安心感の源を体験的に把握していない。周りを信じることができない。損得勘定が破綻すると簡単に引きこもってしまう。周りの人間と一緒に乗り越えていく関係ができていないのです。

 

https://good-books.co.jp/books/2590/