まず、可愛がる。

講演で、お母さんに質問されることがある。

「どうやって子どもを育てたらいいんでしょう?」

うーん、これはその子に会ったこともない他人に尋ねることではないですよね。

以前過ごしたインドの村の風景を思い出します。そこではあり得ない質問だということがわかるんです。

私は、言います。

「可愛がって、甘やかしていればいいんですよ」

「甘やかしていいんですか?」

いいんです。

そして、「子どもが喜びますよ」と付け加えます。心の中で、、神様がうなづきますよ、と囁く。

 

以前、保育の専門家に、可愛がると、甘やかすは違いますよね、と言われ、じっくり考えたことがあるのです。ニュアンスは少し違います。でも、その学者は「甘やかす」の方を、良くないと思っている。境界線はどこにあるのか。それが、「おじいちゃん、おばあちゃんは孫を甘やかすから、ダメ」という母親の発言につながっているのかもしれない。だとしたら、結構ここに問題点がある。

私は、考えました。可愛がる、は、それをする人がいい人間になりたい、と思っている証拠です。「甘やかす」は、子どもたちへの感謝の気持ちが、拝む、に近くなっているのかもしれない。

おじいちゃん、おばあちゃんを思い出しながら、そう考えたのです。

私が尊敬する園長先生たちは、みんなおばあちゃんの心で保育園をやっていました。そういう顔をしているから、親たちは本能的に言うことを聞く。

専門家は色々言いますが、子どもがどう育つかなんて予測がつくことではない。こうすればこう育つ、ということが本当にあるのなら、人類はとっくにそれを発見しているでしょう。専門家が現れて、正解があるようなことを言い始めて、みんな迷路に入っていった。そして、厚労大臣が、子育ては専門家に任せておけばいいのよ、などと言うようになり、その言葉に人々が疑問を持たなくなった。

大雑把に見れば、子育ての手法には色々あって、宗教や文化、階層や家庭によってもそれぞれ違うのでしょう。しかし原点は、いい人たちに囲まれて育って欲しい、と、運を天に任せるようなもの。

まず、自分がいい人になろうとすることの方が先にあるべきで、その方が具体的ですし、確実なのです。

だから、まず、可愛がる。

子どもが喜ぶことをやっていれば、人類はだいじょぶ、そういう仕掛けになっているのです。そして嬉しいことに、それが日本という国の伝統文化だった。「逝きし世の面影」第10章(子どもの楽園)を読んでいるとよくわかります。父親も母親も、特に父親が、とにかく子どもを可愛がる、甘やかす、叱らない。つい150年前、日本はそういう国だった、それに欧米人が驚いて、様々な文献に書き残した。パラダイスと呼んだ。http://kazumatsui.m39.coreserver.jp/kazu-matsui.jp/?p=1047

(「逝きし世の面影」より)

『私は日本が子供の天国であることをくりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない。ニコニコしているところから判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい(モース1838~1925)』

 

『私はこれほど自分の子どもに喜びをおぼえる人々を見たことがない。子どもを抱いたり背負ったり、歩くときは手をとり、子どもの遊技を見つめたりそれに加わったり、たえず新しい玩具をくれてやり、野遊びや祭りに連れて行き、子どもがいないとしんから満足することがない。他人の子どもにもそれなりの愛情と注意を注ぐ。父も母も、自分の子に誇りをもっている…(バード)』

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最近は、子どもをどう育てるか、という気持ちが、自分がいい人でいたいという気持ちに先んじる傾向があるんですね。これでは順序が逆です。

子どもに、いま、幸せな時間を過ごしてほしいと願えば、育て方で悩むことはそんなにない。可愛がって、寄り添うことが自分の幸せだと気づくようになる。結局のところ、自分が育てられるのは自分自身だけ。

「愛されている」と思う子に育ってほしい、という親たちの願いが道筋をつけていけば、社会全体が落ち着いていく。その落ち着きが、それぞれの自分に還ってくる。