子どもたちだけが、正直だった

「愛されている」、そう思う子に育ってほしい、という親たちの願いが道筋をつければ、社会は落ち着いていく。その落ち着きが、それぞれの自分に還ってくる、と前回書きました。

「アイデンティティー」の研究で知られる発達心理学者エリック・エリクソンは、乳児期に「世界は信じることができるか」という疑問に答えるのが母親であり、体験としての授乳があるといい、それが欠けることで将来起こりうる病理として、精神病、うつ病を指摘しました。いまの状況を知っていたら、それが連鎖すること、相乗作用を持っていることまで言ったかもしれない。

当時の発達心理学は文化人類学にも似ていたって正直です。立場やしがらみに囚われない意見を、フィールドの観察と実体験に基づいて言えたのですね。子育ての主体は、十八ヶ月までは母親、三歳までは両親、五歳までは家族、と言い切ります。後に、イェールやハーバード大学でも教えたエリクソンは、学位を持っていない。そこがまた良かったんでしょうね。実体験とフィールドから入って行った。そこにとどまって考えた。

性差(ジェンダー)を、種の存続に不可欠な、受け継いでいくべき概念、大自然の一部として捉えていた。だから、「疑問に答えるのが母親であり、体験としての授乳がある」と躊躇せずに言えた。

こうした誰が見ても当たり前のことを、最近、言えなくなっているところに問題があるのです。

子どもが「ママがいい!」と言ったら、ママがいい。

ありがとうね、と言って、自分の存在を褒めればいい。パパはどうなんだ、みたいなことを言う人がいますが、いいママに子どもは当たった、と喜び、感謝する、まずはそれでいいでしょう。

子育ては一人で始まるものではないし、できるものでもない。哺乳類の場合は、性的役割分担が原点にある。それがアイデンティティーの出発点。出産後、しばらくは母親主体の子育てが続き、乳幼児を真ん中にして、育てる側が信頼の絆を広げていく。それが「親の責任」だった。

でも、私でさえ、本のタイトルとして、「ママがいい!」を提案された時、躊躇したのです。これは、危ない。

「ママがいい!」と叫んでいるのは子どもたち。そこに悪意などない。どんな理由があるにせよ、まずは嬉しく、真剣に受け止めなければいけない言葉です。

人類の羅針盤です。そう納得するまで、私も、二日かかりました。

パワーゲームの裏返しと言っていい「平等」という名の闘いと、勝つことに意義を求める洗脳は、人間の考える力を相当抑え込んでいる。そう気づかせてくれた編集者の良本さんに感謝です。

このタイトルを見て、涙が出ました、と言う園長先生がいました。みんな、抑えていたのです。

子どもたちだけが、正直だったのです。

 

昨日の朝日新聞の朝刊です。