「保育者体験」と「読み聞かせ」

 

逝った父(松居直)の、福音館書店主催の「お別れ会」があって、会社が作ってくれたパネルに、懐かしい絵本に囲まれた父の幸せそうな笑顔がありました。

私が好きだった本。読んでもらった本、自分が子どもに読んだ本、小学校の授業で使われたものもありました。

元々、金沢の書店だった福音館は、母方の祖父が起こした会社です。

東京に出てきたとき、父が編集長として絵本の出版を始めたのです。(その前に、同志社大学の学生だった父と母の恋愛という出来事があり、それがなかったら、絵本の福音館はなかったわけですが……。それどころか、私も、なかった。)

小さい頃、家にいろんな人が下宿をしていて(今江祥智さんとか、学生服姿だった藪内さん)、祖父の家に編集部があった時期は、学校帰りに「お邪魔」し、夏休みには、母や祖母が、大きな釜でご飯を炊いたりするのをながめたり、昼休みに路上で社員の方がするバドミントンに入れてもらいました。

ですから、この本たちは、私の人生の一部でもありました。

(その後、ミュージシャンやプロデューサーとして、私自身もカタログを作っていきました。デジタルドメインに滑り込んだお陰で、ネット上で「Kazu Matsui」や「Kazu Matsui project」で検索すると、まだ生きています。Google Musicやアップルストアでも扱っています。まるで、子どものような気がします。)

 

私は、三十年以上日本で講演をしてきましたが、松居直との関係については特に言わなかったので、知らない人も多いと思います。いま、父が逝ってしまったことをきっかけに、もう一度、読み聞かせの素晴らしさ、その不思議な力、重要性について、発信しなければと思っています。

 

インターネットを使う幼児の低年齢化が進み、二歳児の平均利用時間が一日六十五分だそうです。https://www8.cao.go.jp/youth/youth-harm/chousa/h28/net-jittai_child/pdf/gaiyo.pdf 。これは、「平均」です。

使わない子どもも居るでしょう。でも、2時間、3時間という子どもも、相当数いるはず。二歳児です。つまりこれは、親たちの選択なのです。

「失われた時間」と見なすには、この時間がもし「読み聞かせ」に使われていたら、と想像し、質を比較するか、なぜ、失われたのかという「動機」を考えてくしかないのですが、幼児と過ごす時間に対するイメージと価値が、急激に変化している。

少子化に煽られ、0歳児保育を税金を使って増やしていった政府や経済界の意図を考えれば、操られている、と言ってもいい。

「ママがいい!」と言おうとした声が、ゲームや映像、機械によって封じられて、やがて、それが「子どもたちの選択」になったとき、コミュニケーションの中心から「心」が欠けていく。

ある保育園の理事長が、0歳児を預けに来た親たちに言っていたフレーズが聞こえます。

「いま預けると、歳とって預けられちゃうよー」。

 

「可愛がる」ことの価値が希薄になってきている。

利他の幸福感や、優しさの肌ざわりが、双方向に親子の時間から奪われていく。それが、社会全体のモラルや秩序の欠如につながっている。

幼児期の親の意識の格差が、「集団で行われる保育や教育」に確実に影響し、「二歳児のインターネットの平均利用時間」の増加から、それが読み取れる。「失われた時間」が連鎖し、幾人かの子どもが流れを遮ることで学級崩壊が起こり、教師の精神的健康が保てなくなる。

二千人と言われる教員不足が、二倍三倍になっていくのでしょう。その原因を文科省は、特別支援学級を増やしたこと、と言うのですが、増やさざるを得ない状況にしたのは、就学前の母子分離に基づく政府の労働施策でしょう。

一体、どうするつもりなのか。

先日、私学会館で、私の講演の前に、子ども家庭庁を進めている内閣府の責任者が講演しました。子ども真ん中、とか、子どもたちの意見を聴く、とかパワーポイントを使って説明するのですが、願いの一番はじめにあった、「ママがいい!」という叫びを未満児保育・長時間保育で封じておいて、何を言っているんだ、と腹が立ってきました。私の番になって、講演で爆発してしまいました。

政府が、0歳から預けることを「補助金の出し方」で強引に推し進め、労働施策を「子育て安心プラン」と名付けたあたりから、(それを世論が、受け入れたあたりから)、この国も、危うい一歩を踏み出したのです。

0歳児の「願い」が、唐突に視界から消えていった。

その流れの中で、人間の脳が育つ環境が、「利便性」や「損得勘定」で汚染されつつあります。それが、学級崩壊や家庭崩壊につながっている。

「出会いの場」としての絵本の存在意義を見直すときです。

 

前回のブログにこう書きました。

よく、講演の後で、子どもが言うことを聞いてくれない、どうしたらいいでしょう、と質問を受けることがある。そんな時、絵本の読み聞かせをしてみてください、と言います。

絵本から始めて、パディントンや寺村さんの王様シリーズにつなぎ、リンドグレーン(長くつ下のピッピ、やかまし村、わたしたちの島で)、インガルス・ワイルダー(長い冬、はじめの四年間、農場の少年)、そして、サトクリフの「太陽の戦士」にまでつなげるのが、私の「オススメ」です。

小学校を卒業するまで、いや、中学生になってからも……。自分自身に語るのでもいい。いい児童文学には、人生を計る「ものさし」が生きています。

親子の体験の絶対量が減り、様々な問題が起こっている。だからこそ、読み聞かせ、という双方向への「体験」が、親子の絆にいい。就学前に、この習慣を身につければ、この国の、あの雰囲気が戻ってくる。

「お別れの会」に展示されたパネルを見ながら、絵本は子どもが読むものではなく、語ってもらうもの、という父の主張が、今こそ、生き還る時だ、と思いました。私たちにとっては、「別れ」ではないのです。これからが、ともに生きる、共同作業です。(前回からの引用、ここまで)

 

文章をブログに上げてから、私の保育や子育てに関する考え方や、七冊目の著作「ママがいい!」を書いた土台になっている児童文学が、我も我もと浮かんできて大変です。

スピアの「カラスが池の魔女」、ピアスの「トムは真夜中の庭で」、ルイスのナルニア国物語、トールキンの「指輪物語」、ブラウンの「わが魂を聖地に埋めよ」。児童文学ではありませんが、幼児の存在意義と重なった、ガンジーの「わたしの非暴力」。

そして、読み聞かせながら、背後にある静けさ、宇宙を親子で感じる、新美南吉と宮沢賢治。

 

児童文学から受け取ったものさし、それは即ち「子どもの目線」ということですが、そういう基準から私は考えることができます。

「ママがいい!」と子どもが言ったら、そうなのです。

これは、正直な、大地の宣言。

それを覆すことはできないし、その言葉から耳を塞ぐことで、人間は「人間らしさ」を自ら封じ込めていく。自由だとか自立、なんて言葉は児童文学では、絶対に通用しない。

(「わたしたちの島で」のチョルベンから、それを教えてもらいました。)

このくらいにしておきますね。とりあえず。

 

(銀座の教文館で3月15日から4月12日まで行われる父の回顧展、4月5日6時、「私と児童文学」というタイトルで私も講演します。児童文学からもらった「感覚」について、話します。)

 

「こどものとも」は、月刊という仕組みが良いのですが、岩波の「はなのすきなうし」「ちいさいおうち」「ひとまねこざる」「おかあさんだいすき」なども、石井桃子さんがご自宅でやっていた「桂文庫」で、一人ずつ応接間に呼ばれて石井先生に読んでもらいました。(石井桃子さんは、松居家では「石井先生」です。安野(光雅)先生は、本当に私の小学校の工作の先生でしたから、安野先生です。)

その後、自分で読む方に移って、岩波書店に、よりお世話になりました。

 

「読み聞かせ」という習慣を、子どもたちのためだけではなく、親たちが「気づき」「育つ」ために、もう一度習慣づけていければ、「親子の愛着関係が土台になる」社会が蘇ってくる。政府が進める母子分離政策に対抗するとしたら、「保育者体験」と「読み聞かせ」、この手段しかない。

このやり方で耕せば、「学校が成り立つ社会」が返ってくる。「ママがいい!」という言葉が尊ばれる社会が復活する。

「義務」である九年間が、多くの子どもにとって「いい時間」であってほしい、いま、それを強く感じています。

 

中学生くらいから、幼児に読み聞かせる「喜び」を体験させていくのがいいのです。幼児と過ごす体験が、いいもの、という感覚を取り戻せば、人生における利他の幸福感を味わえるようになる。

(「ママがいい!」に、中学生の保育者体験について書いた文章です。)

長野県茅野市で家庭科の授業の一環として保育者体験に行く中学二年生に、幼児たちがあなたたちを育ててくれます、という授業をして、保育園に私も一緒について行った。

生徒たちは、図書館で選んだり自宅から持って来た幼児に呼んであげる絵本を一冊ずつ手にしている。

昔、運動会の前日てるてる坊主に祈ったように、絵本を選ぶ時から園児との出会いはもう始まっている。

男子生徒女子生徒が二人ずつ四人一組で四歳児を二人ずつ受け持つ。四対二、これがなかなかいい組み合わせなのだ。幼児の倍の数世話する人がいる、両親と子どものような関係となる。一人が座って絵本を読み、二人が園児を一人ずつ膝に乗せる。もう一人は自分も耳を傾けたり、園児を眺めたりウロウロできる。このウロウロが子育てには意外と大切なのだ。

園児に馴染んできたところで、牛乳パックと輪ゴムを利用してぴょんぴょんカエルをみんなで作って、最後に一緒に遊ぶ。

見ていてふと気づいたのは、十四歳の男子生徒は生き生きと子どもに還り、女子は生き生きと母の顔、お姉さんの顔になる。慈愛に満ちて新鮮で、キラキラ輝きはじめる。保育士にしたら最高の、みんなが幼児に好かれる人になる。中学生たちが、幼児に混ざって「いい人間」になっている自分に気づく。女子と男子が、お互いを、チラチラと盗み見る。お互いに根っこのところではいい人なんだ、ということに気づけば、そこに本当の意味での男女共同参画社会が生まれる。

帰り際、園児たちが「行かないでー!」と声を上げる。それを聞いて、泣き出しそうになる中学生。一時間の触れ合いで、世話してくれる人四人に幼児二人の本来の倍数の中で、普段は保育士一人対三十人で過ごしている園児たちが、離れたくない、と叫ぶ。その声に、日本中で叫んでいる幼児たちを聴いた気がした。涙ぐんで立ち去れない幾人かの友だちを、同級生が囲んでいる。それを保育士さんと先生たちが感動しながら泣きそうな顔で見ていた。

 

 

「別れ」でもないかな。

父(松居直)の「お別れの会」が、2月22日に如水会館で、福音館書店主催で行われました。都合上、招待者に限られた会になってしまいましたが、引き続き銀座の教文館で、3月15日から「松居直、回顧展」が、4月の12日まで行われます。よろしければ、ぜひお越しください。

「お別れの会」に、上皇后様が、いらして下さいました。

絵本や児童文学を通して、五十年以上の長きにわたり、父はお話し相手をさせていただいたのだと思います。感動しました。

父が、最後にお誕生日会に呼ばれた時、私は運転手役で御所に行きました。

隣の部屋で待っていると、上皇后様のピアノの演奏で、ドクトル・ジバゴの「ララのテーマ」が聴こえてきました。

ハッとし、不思議な感じがしたのをいまでもはっきりと覚えています。

 

曲を作ったフランス人作曲家モーリス・ジャールを私は、人生の友人と言っていいほどに、よく知っていました。ドクトル・ジバゴの他に、「インドへの道」、「アラビアのロレンス」でアカデミー賞を受賞しているモーリスは、映画音楽に私の尺八を使った最初の人でした。「将軍」でした。

その後も、何本かの製作に関わり、スペインやフランス、ポーランドでのモーリスのコンサートに参加しました。たった一曲吹くだけですが、モーリスは私と旅をするのが好きだったのだと思います。

旅の間に、様々に興味深い話を聴き、私の日本での講演活動などについて議論しました。

 

D-day、ノルマンディー上陸作戦の日に、潜伏しながら、その情報をラジオから聴いた時のこと。

第二次大戦後、フルトベングラーがフランスでの指揮を解禁され、初めてのパリの演奏会でフランスのオーケストラを振ったときティンパニーを叩いたこと。カミュやコクトーと演劇の仕事をしたこと。

彼の誕生日には、ウエストハリウッドのオランジエリに招かれました。私の二枚目のアルバム「幻の水平線」に、一曲書いてもらいました。音楽監督をした映画「首都消失」の作曲も引き受けてくれました。

病を押して、最後に来日した時、レコード会社を通じて私に連絡してきて、帝国ホテルのロビーであったのが、「別れ」になりました。

モーリスとのことは、いつか、しっかり書きたいと思います。また、いつか旅をしたいです。

上皇后様がお選びになり、演奏された、モーリスの曲を聴きながら、父の運転手の私は、音楽の不思議さを思い、メロディーの凜とした優しさを、魂で感じていました。音の並びが、「心」になって次元を超えていくのです。 人間は、こういう領域で会話をする。人生が交差する。

ララのテーマ: https://www.youtube.com/watch?v=phpRjeQdOFg 

(写真は、ポーランドでのコンサートです。)

 

 

父と私は、東洋英和女学院の短大保育科で同じ頃教えていたことがあって、教え子が八年間ほど重なっています。

「お別れの会」に、教え子代表のように二十人ほどを招待しました。(みんなに声をかけることが出来ずにすみません。教文館の方で、集まりませんか? また、現場の話を聴きたいです。)

そのうちの数人が、授業で父に絵本の読み聞かせをしてもらった時のことを言うのです。それが楽しみだった、と。

授業の内容よりも、絵本を読んでもらった体験のことを鮮明に覚えている。

「絵本は体験です」と言っていた父の言葉が、彼女たちの思い出から伝わってきました。授業も、そうなのです。情報よりも、体験であって欲しい。

私も、そういう気持ちで授業をしました。いまでも、一期一会、そしてそれが伝わっていくように、と思い、講演をします。

 

よく、講演の後で、子どもが言うことを聞いてくれない、子育てに失敗しました、どうしたらいいでしょう、と質問を受けることがあるのです。そんな時、ふと思いついて、いまからでも遅くはない、絵本の読み聞かせをしてみてください、と言います。

絵本から始めて、パディントンや寺村さんの王様シリーズにつなぎ、リンドグレーン(長くつ下のピッピ、やかまし村、わたしたちの島で)、インガルス・ワイルダー(長い冬、はじめの四年間、農場の少年)、そして、サトクリフの「太陽の戦士」にまでつなげるのが、私の「オススメ」です。

小学校を卒業するまで、いや、中学生になってからも、もし聴いてくれるなら、読み続けることを勧めます。聴いてくれなくても、自分自身に語るのでもいい。いい児童文学には、人生を計る「ものさし」が生きています。

私の、オススメ本は、いまの私の考え方の土台を作っているのです。

こんな、有効な、便利な方法を、私に残してくれた親父に感謝です。

 

いま、親子の体験の絶対量が少なくなって、それが原因で様々なことが起こっている。だからこそ、読み聞かせ、という「体験」が、親子の絆に有効で、いいのです。就学前にこの習慣を徹底させれば、この国の、あの雰囲気が戻ってくる。

「お別れの会」に展示されたパネル、お袋とシナイ山に登っている写真を見ながら、絵本は子どもが読むものではなく、語ってもらうもの、という父の主張が、今こそ、生き還る時なのだな、と思いました。私たちにとっては、「別れ」ではないのです。これからが、ともに生きる、共同作業なのです。

 

追伸:会には、父が仕事をした絵本関係者の子どもたちが、一度「子どもたち会」を開きたくなるほど来ていました。みんな60を越えているのですが、なぜか、似たような環境で育った者同士、「子どもたち」という感じがします。堀内さんとこの紅ちゃん(花ちゃんは、堀内誠一展が四国巡回中のようで欠席)、ちひろ美術館の松本さん、藪内さん、丸木美術館の久子さん、ぐりとぐらの絵をお描きになった山脇百合子さんのご子息の健太郎さん、いらして下さり、ありがとうございました。

凄い保育

 

「子育ては一人ではできない。性的役割分担がなければ始まりもしない。

これは良い仕掛けです。」

と前回書きました。

 

種の存続に必要な「子育て」を、人生を支える喜びとして受け入れ、その責任を自分の価値と重ねる、そうやって人間は調和を目指した。もちろん全ての人とは言いませんが、多くの人がその道筋を理解し、その責任を人生の中心に置かなければ人間社会は成立しない。

その土台が、福祉と教育によって誤魔化され、歪められていく。

 

乳児という「足かせ」が本能を刺激して、生まれて初めての小さな笑顔に「嬉しくなる」自分に気づいたとき、人間は自分の人間性を確かめる道を歩み始めるのでしょう。

人生は、自分を体験することでしかない。

幼児たち、特に0、1、2歳児が、その年、その年の、二度と繰り返すことができない役割を果たすことで、育てる側に助け合いの絆が育ち、利他の幸福感へ導かれていった。

 

以前。と言っても十年くらい前でしょうか。三人目を産めば保育料無料、と決めた自治体があって、タダだから、と0歳から預ける親たちが結構出ました。

市長は、自慢げに言うのですが、私を講演会の前に市長と会わせた園長たちが、食い入るような目で、二人の会話を聴いていました。

直感的に、選択肢を持っていない、三人目に生まれた子どもの人権問題だと思いました。兄弟や姉妹がこの短い特別な時期を一緒に過ごす機会が、いいことをしている気になっている市長によって奪われていく。

もちろん、その道を選択したのは親たちです。

しかし、初心者と言える、まだ育っていない親たちに、十一時間保育は「標準」と国が言い、子育ては負担で大変だからタダでやってあげる、と首長が誘い、プロに任せた方がいいんだ、と学者や厚労大臣が言って、責任の所在をあやふやにしたら、「なんとなく、そんなものか」と預けてしまう親たちが増えてもおかしくない。

国が用意した一見いいことのように見える選択肢が、労働力確保のための巧妙な誘導になっている。一番困るのは、それが0歳児の願いや役割と相反していることが忘れられていくこと。その結果、「子育て」が心を失い、保育士不足と質の低下が学校教育を破綻させようとしている。

国によって作られている道筋が、いかに子どもたちの将来を苦しいものにしていくか、もういい加減にわかったでしょう。少子化なのに「児童虐待過去最多」、「不登校児も過去最多」、保育士不足に連動するように拍車がかかる「教員不足」。

それでも、やめない。

働いていなくても預けられるようにすべき、などと言い出す保育学者さえいる。自主性、自己肯定感などと、1対20で出来るわけがないことを言い続ける学者もいる。彼らは、実習生の受け入れ先が、どれほど破綻してきているか知っている。実習先の園で、虐待まがいのことを学習してくる学生たちさえいることを知っている。

 

〇歳児一人の保育に毎月三十万円から五十万円使っている税金を、直接給付で、月に五万円でも親に渡し、支援センターとの組み合わせで友達や相談相手を作りながら、自分で育てる道を薦めたら、そうする親たちはまだ相当数いる。数年前に国が行った保育のニーズ調査にそれは表れていた。(それをしなかったのは、保育施策が雇用労働施策の一部で、女性の就労率のM字型カーブを無くすことが、国際社会の仲間入り、みたいに思われていたから。実は、この「国際社会」は、「欧米社会」でしかないのですが、この種の欧米コンプレックスは忘れた方がいい。犯罪率で比較すればわかりますが、真似すべき、欧米社会などどこにもない。)

子どもたちの願いを含んだ選択肢を用意し、親たちの意思によって、親たちの選択で保育士不足を解消していかないと、このままでは学校教育がもたない。

それがすでに現実になっている。

 

(その後、私の講演を聴き、園長たちが必死に頷くのを見た市長は、ずいぶん考え方を変えました。)

 

保育園がたくさんある市が子育てしやすいと宣伝され、誰もそれに疑いを抱かなくなっている。間接的に、母子分離をさせるほど、いい街なんだと政府が言っているようなもの。

土曜日、日曜日でもどこかの保育園が開いていて、短時間でも、リフレッシュでも、親のニーズに応えて、誰かが預かる街を、子どもにやさしい街、とマスコミが報道する。躊躇せずに仕組みに預ける若者たちが、そのことに慣れていく。誰に預かってもらうかなど気にせず、慣らし保育も無しに、「ママがいい!」と叫ぶ子どもを、初めて訪れた園に置いていく。

それが当たり前になってしまった親たちの子どもを、義務教育である学校は引き受けなければならないのです。

そんな街が、本当に「子育てしやすい」街なのでしょうか。

 

政府の「子育て安心プラン」で保育の質が下がり、虐待や事故がこれほど報道されているのです。子どもにとっての日々の安心が、いつの間にか消えていっていることを、立ち止まって、考えてみて欲しいのです。

集団の中で成長していくためのカリキュラムとか、週や月をまたぐ保育の流れなどは、もうどうでもいい、子どもと保育士の入れ替わりが激しすぎて、保育計画など立てようがない、家庭へつながる親との連携などできるはずがない、そんな保育園が増えているのです。

保育園の常識が壊れていく。

 

それでも一向に構わない政治家たちは、単に親のニーズに応えて選挙に勝つことが「保育施策」だと思っている。

 

一歳半から二歳までの園児を相手に、三十分ほど続く「ごっこ遊び」、しかもストーリー性のあるものをさせることができる保育士たちがいました。それができることの「すごさ」を知っている人はあまりいないのですが、実はこれは凄いことです。この年齢だと、通常、集中力が続くのは五分が限度でしょう。

そのごっこ遊びに、突然、隠れていた親が登場し、子どもたちを救ったりすると、もう子どもは唖然としてしまい、次に大喜び、保育室がまさに「不思議の国」になるのです。そんな、保育園と家庭をつなぎとめる保育をやっている園が、以前あっちこっちに残っていたのです。

こんな風に育った子どもたちは、きっと将来、童話作家になったり、オペラ歌手になったり、魔法使いのような保育者になったりするのでしょう。

その、すごい保育士たちの努力と、日々の積み重ねによって創造された次元を超える時間が、リフレッシュ保育や、一時預かり、といった、突然見知らぬ子どもが入ってくる「サービス」で細切れにされ、伝統が途切れていった。

幼稚園が「不用意に」こども園化したりする時もそうですが、保育者たちの工夫や、子どもたちと作った歴史が、「あと四十万人預かれ」という首相の掛け声や「子育ては専門家に任せておけばいいのよ」という、何も知らない厚労大臣によって踏みにじられていったのです。

 

集団保育の中で、様々な「流れ」を作ることで育っていた、子どもたちの感性、協調性や「秩序の楽しさ」「可愛らしさ」が、「保育は成長産業」「福祉はサービス」という閣議決定で壊され、幼稚園や保育園が次々と託児所化されていった。

それが、学級崩壊や不登校児の急増を招いていることなど、誰も知らないのだと思います。その経緯を、ぜひ、「ママがいい!」を読んで、理解していただきたい。

国が進めた「保育のサービス産業化」によって、私たちの社会から何が失われていったか、知って欲しい。

 

子育てに多く税金を使えば、それが子育て支援だ、と安易に報道し続けるマスコミが一番問題なのかもしれません。ワイドショーの司会やコメンテーターが、待機児童をなくせ、と疑いも抱かずに言い始めた頃から、報道も市場原理の一部になり、「欲の資本主義」に取り込まれていったのでしょう。

待機児童は、常に、0、1、2歳児だったのです。この人たちは、保育園の前に並んで、「入りたいなぁ」と、一度も言わなかった。弱者たちの願いは、常に私たち大人の想像力の中にあった。この国の将来は、利便性ではなく、私たちが選択し、維持する「常識」に委ねられていた。(そして、多くの場合、現場の保育士の人間性に委ねられていた。)

 

 

「ママがいい!」、ぜひ読んでみてください。同意できないこともあるでしょう。でも、「欲の資本主義」が仕掛けた罠が限界に達していて、このままでは学校教育がもたない、しかし、私たちには、なんとかするチャンスが与えられていることだけでも、知ってほしいのです。

FBの友達リクエスト、シェア、ツイッターのフォロー、リツイートでも結構です。よろしくお願いします。

(ブログ:http://kazu-matsui.jp/diary2/、ツイッター:@kazu_matsui)

 

良い仕掛け

最近、気になるのは、子育ての現場で保育士同士の信頼関係が揺らいでいること。辞めていく理由にもなっている。あえて「子育ての現場」と言ったのは、「仕事」と見なすことが、不信を生む原因の一つだからです。

考えてみれば、「資格」という言葉もまさにもろ刃の剣です。

 

子どもたちの視線を正面から受ける、子育ての最前線にいる人たちの生き方が揺らいでいる。

心が一つにならない。

子育ての存在理由、人間性の基本を鍛え、支えるはずの「信頼」が、子育ての社会化(仕組みで子育て)によって壊されようとしている。

 

 

同じ部屋で保育をしていても、他の保育士の保育には口を挟まないことが不文律になっている園があります。それが、「保育」を持続可能にするための「知恵」、手段なのです。

0、1、2歳児を挟んでの「見て見ぬ振り」、主任や保護者に対する「沈黙」、保育室で始まるこの断絶がどれほど危ないものなのか、気づいて欲しい。

 

同類の「心の動き」が、いま世界中に広がっています。様々な「分断」の根っこに、それがあるのがわかる。赤ん坊を育てる、という体験が、共通項として消え始めているからです。

この分断は、子どもたちにとって、異常な環境の変化です。

人間が、「社会」を形成する「動機」を自ら壊し始める。子育ては、絶対にお金では買えないし、買おうとしてはいけない。

 

マザー・テレサは、愛の反対側にあるのは憎しみではなく、無関心です、と言いました。そこには無関心を装うことも含まれます。

「親身な」絆を手に入れ、人間同士が信じて、守り合うためにあった「子育て」が、仕組みの手に移り、それを維持することで、存在意義を捨てていく。

(結果としての家庭崩壊と人生の孤立化が、地球温暖化にまで連鎖している。)

 

子育ては一人ではできない。性的役割分担がなければ始まりもしない。

これは良い仕掛けです。

 

その「良い仕掛け」を、イライラの原因、負担だ、不公平だ、と言って、政府が「福祉」の名で、(本質は「労働力確保」なのですが)肩代わりしようとした。三年離れると職場復帰が難しい、と言って、0歳から預けることを奨励した。

専門家や学者たちも、幼児を集団にする「この非常に新しい仕組み」を、それが進歩であって、いいもののようにいう。保育の質の低下を知っていながら、「ママがいい!」という言葉に耳を貸さない。

最初の三年間を大切にしないと、生きること、その後の人間関係を作ることさえ難しくなる、と国連もWHOも言っているのに、「エビデンスは?」とか、「神話に過ぎない」と言って「利他への道筋」を閉ざそうとする。

それなら最初から、子どもの権利条約など批准しなければいいのです。

 

最近の教師不足や、児童養護施設における子どもたちの荒れ方、苦境に立たされる保育士や指導員たち、政府の施策に憤る園長先生たちの姿を見ていると、学問が「子育て」に関わることの危うさを感じます。

自主性とか、自己肯定感などと、わけのわからないことを言っていてもいい時期は、とっくに終わっている。

こういう言葉は、親がそこそこ親らしかったから使えた言葉。個々の保育士の資質と、無資格やパートでもいいとした政府の規制緩和を考えれば、ほぼ机上の空論でしょう。むしろ、仕組みとしては言ってはいけないこと。親たちが、「私にはできない」「専門家に任せた方がいい」と思ったら、保育界は絶対に受けきれないのですから。

保育学者たちはいますぐにでも、無理です、予算があっても人材がそろいません、と正直に言って、十一時間保育を「標準」とした国の施策の撤回を求めるべき。少なくとも、どちらの味方か、立場を鮮明にすべき。

子どもたちが「ママがいい!」と言ったら、ママがいいのです。その叫びが、最近、悲鳴に聴こえます。

例えば、気の弱い子がいて、この子にはもっと自主性を、とか、自己肯定感を持って欲しい、そんな使い方ならわからないことはない。

でも、これ以上自主的にやられたら迷惑だ、集団保育が成り立たない、成長して、自己肯定感が強くなったら、第二子は保育料無料なんて言いかねない、場合もある。

「自己肯定感」を強くしたら傲慢になって、ウクライナに攻め込むかもしれない人間もいる。

 

「個性を大切に」と言う学者がいたのですが、個性の半分は明らかに短所です。「怒りっぽい」という個性は、あまり大切にしてはいけないですし、「のんびりしている」「涙もろい」「好戦的」なんていう個性は、大事にするかどうか、短所なのか長所なのか、賛否が分かれると思います。

「自分は生かされている、感謝しなければ」みたいな、仏教とか、キリスト教、ネイティブアメリカンとか、そういう人たちの、みんなで生きているんだ、という感覚を広める方がずっといい。それが、一番自然な「自己肯定」でしょう。

 

子どもの自主性をどの程度尊重するか、どの個性を大切にするか、それを考えることは親たちに与えられた役割で、特権。「趣味と都合」の問題だと思います。

子育てに正解などないし、正しい基準もない。「可愛がること」を土台に、親たちが、迷い、考え、オロオロと様々な決断をすることで、人生を見つめ、育っていく。家族が心を一つにし、特別な絆が育っていく。それが、「子育て」の一番大切なところ、中核です。

 

「子どもたちの自己肯定感」を心配するより、保育士たちの、「子どもを可愛がる喜び」を守ることの方が保育には重要なのです。

その姿に親が感謝し、自分ですれば良かったと思えば、そんな感じがいい。

 

いま、保育崩壊の一番の原因は、二十年近く続いている保育士不足です。保育士を人柄で選べなくなっている。それが、不信感を増幅させている。「三歳未満児保育」を、国がこれだけ進めれば当然そうなる。わかっていたはず。

保育や教育の無償化、と政治家は言いますが、預ける先の質がこれだけ落ちてきている時にそれをしたら、一番大切な「子どもたちの日常」を無視した、不良債権の先送りになってしまう。

保育も教育も、もっとも重要なのは、人材の質です。その問題を少しずつでも解消しようと思ったら、三歳までは、出来る限り親たち(または家族)でみる、直接給付と子育て支援センターの充実という方向に進むしかない。そこから「子育て」に対する意識の耕し直しをしないと、すべてが空回りというか、損得をお金で計った「やったふり」の積み重ねに過ぎなくなる。

 

すでに、予算や財源の問題ではなくなっているのです。もちろん待遇改善や配置基準の見直しはしてほしい。ですが、問題はすでにそこから離れている。人材の絶対量の不足は誤魔化せない。

可能な限り子育てを親に返していく。この道筋は、子どもたちの願いと重なっています。広まれば、乳幼児の、本当の役割にみんなで気づくことにもなる。

彼らとの時間は、静かで平和なもの。私たちの心が鎮まって、落ち着いてさえいれば、人間社会の土台となるもの。

取り戻せる時間の具体的なやり方については、「ママがいい!」を読んでみてください。まだ方法はあります。国が、母子分離に基づく経済施策を止めてさえくれれば、そこから立て直すことは可能です。

どうぞ、よろしくお願いいたします。

 

(「ママがいい!」の感想をいただきました。励みになります。図書館で、順番待ちになっているそうです。子どもたちからのメッセージ、広がってくれるといいのですが。)

松居 和 さん、素晴らしい本をありがとうございます。

私の教育観、価値観、人生観と共通することが多く、とても共感しました。「人として生きる根源」だと思いました。

今多くの子育て本や成功ノウハウ本が出版されていますが、なんか違うなと感じていましたが、この本は納得できる、世の中の矛盾を的確に説明してあると思います。

社会や物事の見方考え方を見直すきっかけになると思います。

すくなくとも私がそうですから。

 

(そして、フェイスブックに、以前こんな書き込みがありました。)

熊本県私立幼稚園PTA連合会の理事会にて正式決定されましたので解禁です。

記念すべき

第40回の保護者大会が

令和5年2月3日(金)に開催されます。

講演は【ママがいい!】著者の

松居 和先生です。

働く親として

保育者として

ウチの園の先生たちも

一晩で読んでしまった!

と話していて

先生の著書からヒントを得た取り組みをどんどん展開しています。

実際にお会いしてお話をうかがうのを楽しみにしています。

#ママがいい #松居和 先生

逝ってしまった父(松居直)が出演した番組が再放映されます

明日、一月二十八日(土)午後1時から、NHK Eテレ こころの時代 アーカイブ「言葉の力、生きる力」で、昨年逝ってしまった父(松居直)が出演した番組が再放映されます。「絵本」は親子の出会いの場、についてです。

二十年前の姿、ご覧になっていただければ幸いです。子どもの私も写真ででます。

ネットでは、二週間、いつでも見れるみたいです。https://見逃したテレビドラマを見る方法.xyz/こころの時代/松居直/

 

 

父と一緒に最後に講演した時、サービスエリアで沼津湾を眺めてコーヒーを飲んでいる父の姿です。

2015/10/ 3 11:06

その頃、もう父は講演をやめていたのですが、和さんと一緒なら来るよ、きっと、という主催者の策略😀で、私は運転手兼講師でした。免許を取った時から、羽田や東京駅に送り迎えをするのが、私の役割でした。

講演で父は、三十分くらい話して、主に戦争体験の話だったかな、「あとは、和に任せる」と言って、笑いながら交代してしまいました。

 

人類にとってのカウンセラーの代表が、0、1、2歳児だった

 

こんな記事がありました。

相次ぐ保育所での虐待 保育団体と保育士会が緊急セミナーを開催

https://news.yahoo.co.jp/articles/e11b9e9279cb1ad8587fd2f8b9ac1e25ef657710 

記事に、保育協議会と保育士会の会長が「『こどもの最善の利益』を守る保育が実践できているかを改めて確認し、その姿勢や日々の保育活動を地域に発信していくことを呼び掛けた」とあります。

国の、十一時間保育を「標準」と名付けた無責任な量的拡大が、『こどもの最善の利益』をまったく優先していない、親たちも自分の都合を優先している、それを言わないと、保育士たちにだけ要求しても、ますます、保育の質は落ちていくばかり。

国は、「保育」を「飼育」程度にしか考えていない。

それによる幼児期のトラウマが、いま、学校教育を追い込む。教員不足が急速に進んでいますが、ここ数年の不登校児の増加は異常です。それを進めているのが、国の経済政策パッケージ:「子育て安心プラン」です。(この辺りのことは、ぜひ、「ママがいい!」を読んでみてください。)

幼児期のトラウマについて、一つの象徴的な例を上げます:人口の四人に一人がカウンセリングを受けるアメリカで、いい加減なカウンセラーが、人々の悩みや精神疾患の原因を「幼児期」の体験からくるトラウマ、親との関係、特に性的関係に原因がある、と診断してしまうのです。その確率が高いのですから、仕方がないとも言えますが、まったくそういうことがなかった人も、その診断で「良好だった」親子関係を壊されてしまう。

そして、父親との関係を、診断という洗脳によって壊された患者が、数年してから、時には父親が亡くなった後、今度はカウンセラーを訴え、損害賠償を請求するケースが起こっている。

人々の間で、子育てが人生の中心から外れることによって広がる、幼児期の体験をめぐる様々なトラウマが、歪んだ「市場原理」と重なって、修復が困難な分断と対立を、社会に生んでいる。

そんなアメリカから、去年、銃の乱射事件が一日平均二件、犠牲者は平均四人、というニュースが流れてきました。

(2020年、アメリカでは銃による死者が30%増加。近年は黒人への暴力が目立ち、対抗して武装する団体も登場している。 https://www.nhk.jp/p/wdoc/ts/88Z7X45XZY/episode/te/P38R5M86P9/ 

子育てに必要なのは、カウンセラーではなく、相談相手。しかも、相談相手からいい答えが返ってくるかはそんなに重要ではない。子育てに正解はないし、必ずうまくいく、という手法もない。

「親身な」相談相手がいるか、いないか、が大事なのです。みんなでオロオロする、そんな感じがいいのです。

強いて言えば、人類にとってのカウンセラーの代表が、0、1、2歳児だったのでしょうね。

0歳児との一方通行に思える会話が、一年掛けて、人間に祈ることを教える。1歳児との会話が、理解することではなく、理解しようとすることが、平和や秩序をもたらすことを知らせる。そして、2歳児との会話が、利他の気持ちと忍耐力を耕す。

人間がもっとも違った形で生きるこの三年間をしっかり見て、関わって、抱きしめて、自分を見つめておかないと、人生の可能性の半分くらいを放棄することになるのではないでしょうか。

政府の、幼児と人間を引き離す経済施策が招いた混乱を見ていると、せっかく、カウンセラーや弁護士をあまり必要としない、いい国だったのに、と残念を通り越して、悔しくなります。

「子育ては自由だから」

(「ママがいい!」、ぜひ、読んでみてください。)

 

「嬉しいメール」

(障害児の施設で働くのが好きで、そこで子どもたちとかけがえのない時間を過ごし、でも、繰り返される指示語の強さと、それが発せられる風景に耐えられなくなってある日辞めていった、感性豊かな人からメールが来ました。

いまは結婚して子どもがいます。「子育ては自由だから」という言葉に、彼女が手に入れた世界を感じます。)

こんにちは!

春ですね!お元気ですか?

息子は8カ月になり、人間みたいになってきました。かわいいです。

子育ては祈りの連続なんですね。そして私は親からのたくさんの祈りで大きくなってきたんだなぁとしみじみしています。

施設で働いていたときみたいに、子育てでいろいろな景色をみています。

働くといろんな制約やきまりがあるけど、子育ては自由だから楽しいですね(笑)

寝不足だけどがんばります。

かずさんも講演がんばってください。

(「子育ては自由だから」という言葉が、すがすがしく、心に残ります。多分、私はそういうことを言いたかったのだな、と思います。

永遠とか、生き甲斐とか、責任とか、祈りとか、思い出とか、自分の価値を浮き彫りにする、「本当の自由」がそこにあって、人間は、幼児を抱き、守ってきたんだ、と読み取ります。

こういう言葉に接すると、いい翻訳者、伝令役にならなければ、と身が引き締まる思いがします。)

 

 

2015/10/ 3 11:06

一月二十八日(土)午後1時から、NHK Eテレ こころの時代 アーカイブ「言葉の力、生きる力」で、昨年逝ってしまった父(松居直)が出演した番組が再放映されます。「絵本」について、です。

二十年前の姿、ご覧になっていただければ幸いです。

いい親でいたい、そう思った瞬間、その親はいい親

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(FB、お友達申請から)

はじめまして。

4歳の娘の母ですが、仙台市で保育士をしています。

ママがいい!

凄く心に刺さりました。

まさに私が娘から泣き叫ばれて言われていた言葉でした。

泣き叫ぶ娘を置いて、職場で他のお子さんを抱きしめる毎日に、娘に対し、罪悪感がいっぱいの日々でした。

心臓がえぐられるようで、泣きながら運転して出勤したこともありました。

色々な気付きと確信をありがとうございます!

ぜひ、お友達申請させて下さいませ。

(ありがとうございます。本当に、ありがとう。)

 

つい十年ほど前まで、0歳児を預けに来た親に、「いま預けると、歳とって預けられちゃうよぉ」と、冗談交じりに苦言を呈していた園長が、いつの間にか、黙り込んでしまって、保育園がサービス産業になっていく。国の思惑通りに。

そして、学校教育が成り立たなくなってくる。

 

 

子育ては、人間たちが、大切な何かを確認し合うこと。

「ママがいい!」、これほどいい響きを持った言葉はない。音で奏でる、勲章です。

お互いに、生きている、という実感が湧く。

この言葉が発せられた時、それを喜んで感謝しなければ、自分自身が見つからない。

この言葉を軽んじると、様々なことがうまくいかなくなる。

そう思っています。

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もう一つ、小野省子さんの詩です。

小野さんの好意で、この詩集を講演で配り始めて十年になるのかな。何万部も配りました。国会でも朗読しました。板橋区が、八千部ほしいと言った時は、ちょっと驚きましたが、園で配ってくれるなら、と差し上げました。

省子さんが、三歳のヒカリちゃんとした会話は、ヒカリちゃんが中学生になったいまも、ずっと生き続けています。

 

お母さん、どこ   (詩・小野省子)

「ヒカリちゃんのお母さん、どこかしら」

「ここにいるじゃない」

「それはコウちゃんのお母さんでしょ」

弟を抱いた私に、娘は言った

長いまつげの小さな目は

悲しげにも見えたし、

何かをためしているようにも見えた

「じゃあ、ヒカリちゃんのお母さんはどこにいると思うの」

「病院に寝ているんだと思う。バアバが言ってたよ。

ヒカリちゃんのお母さんは、病院に行ったよって」

娘は、私が弟を出産した日のことを言っているのだ

「お母さんをむかえに行かなくちゃ」

玄関でくつをはこうとする娘の

小さな背中を見ていたら

私は

夕闇の中で

大切な人に置き去りにされたように

心細くてたまらなくなった

同時になぜか

動揺している自分が

くやしくもあるのだった

娘はふり返って

私が泣いているのを見て

「あっ、ヒカリちゃんのお母さん、

やっぱりここにいた」と

無邪気な風に言うのだった

 

(ここから私。)

三歳の娘に、「おかあさんどこ?」と面と向かって言われたら、母親は、立ちつくすしかない。一人、置き去りにされたように。

幼児の真剣さ、その一途さにオロオロし、寄り添おうとすることで、母親は、自分の場所を確認しようとする。

どんな説明も、理屈も通らない。

そう教えてくれたのは、ヒカリちゃん。

言葉での会話の、なんと虚しいことでしょう。

でも、母親は、泣くというコミュニケーション手段を知っていた。これを知っていれば人類はだいしょうぶ、それを教えてくれたのも、ヒカリちゃんです。

いい親でいたい、そう思った瞬間、その親はいい親です。心もちの問題です。立ち尽くし、泣くしかない時もあるのです。 

インドの田舎に何回か、都合1年くらい、住んだことがあるのです。気づくこと、学ぶことがたくさんありました。

ドキュメンタリー映画を一人で作って、いくつかのシーンがYouTubeに載っています。

「シスターチャンドラとシャクティの踊り手たち」といいます。女性の人権の為に闘う修道女の話です。

美しいです。

ぜひ、風景に触れてみてください。

貧しき者は幸いなれ、という感じがします。私たちに必要な、不思議なメッセージが伝わってきます。ちなみに、シスターと私は同い年、です。

これがリンクです。

http://kazumatsui.com/sakthi.html 

こちらで受賞歴などが見れます。 http://kazu-matsui.jp/sakthi/2008.html 

上映会してくださる方がいらしたら、ご連絡ください。時間の許す限り、私の解説と、演奏付きです。人を集めていただければ、基本無料です。シスターの活動(ミッション)への献金を募ってくだされば、シスターに送ります。

連絡先 matsuikazu6@gmail.com

 

Sakthi_nhk 2

 

講演後、嬉しい感想をいただきました。

コロナで止まっていた講演会が、最近少しずつ戻ってきて、今週は、茨城の絹ふたば文化幼稚園に行きました。

「ママがいい!」の新聞広告を見て、いきなり連絡してきた元気な園長先生が、講演が短くなっても尺八の演奏が聴きたい、とおっしゃるので、講演時間を10分増やしてもらえたら吹きます、と言って、伸ばしてもらいました。

いい感じで演奏できました。

来週は、二十四日に新座市民会館、来月は、二日に私学会館(アルカディア)、三日に熊本県立劇場、十七日に鹿沼市民情報センターなど、幼稚園関係の大会が続きます。

(先月は、「ママがいい!」のタイトルを見た時、涙が出ました、と言う園長先生の保育園で、保護者と保育士、一緒に聞いてもらいました。)

 

絹ふたば中央幼稚園のPTA会長が、FBに感想をあげてくれました。とても、嬉しい文章です。

 

幼稚園で行われた松居和さんの講演会。

当日は、会場全体に先生の言葉を一語一句聞き逃さない。というママたちの一体感があり、なんとも言えない幸せな空間があった‼️

自分はおもしろいとおもっても、周りを気にして笑えない。泣けないときがある。

でも、先日の講演会では、みんなが素直に自分の感じるままに反応していて、それが主催としては嬉しかった‼️

園長が松居先生の講演会をやらないか?と声をかけてもらったとき、私はすでに「ママがいい」の本を読んでいたので、絶対やりたい。と思った。でも、それをみんなに共有できるのか?と少し不安もあった。

それでも、なんとか開催へこぎつけ、この空気。達成感でいっぱいだった‼️

松居先生の本の紹介を新聞で見つけ、すぐにコンタクトをとる園長の行動力に、感謝。感謝。

改めて、うちの園の園長すごい‼️と思った😄

松居先生の話は、当日は興奮。

次の日に少し落ち着いて噛み砕くことができ、

さらにその次の日にやっと消化して、

だんだんと身になり、力になり、

私を励ましてくれるお守りのようになっている。

私は潜在保育士。復職しないかとよく手紙がくる。でも、私は復職は考えてない。

子どもたちと関わることは大好き❤

子どものそばにいると幸せになれる。

でも、自分の子どもとの時間を大切にしたい。

自分の子どもに愛を注ぎたいと思っている。

でも、ママたちが孤育に苦しんでいる現状を少しでも解消して、子育てを楽しんでもらいたい。

その葛藤の中で、無制限あそびにたどり着いた。参加者さんの心からの笑顔、夢中で遊ぶ姿を見ると嬉しくなる❤️

無制限あそびは、私の子どもたちの大好きな遊び。子どもたちにみんなとやりたいと言われて初めて2年弱。

もっともっとたくさんの親子の笑顔に携われるように、幼稚園、保育園とは違うところから、

子育て支援をやっていきたいと強く思った‼️

普段はあまり私が進めるものを読まない夫も、

松居先生の講演会のレジュメは食い入るように読んでいた。

松居先生の父親も幸せになりたがっているという言葉を実感した。

もっともっと夫婦で、子どものことを共感して、夫を幸せにしたいなあと思った‼️

松居先生の著書、講演会。少しでも多くの人に届くといいなぁと心から思う‼️

みんなで子育てを楽しむ、笑顔の国。

そんな江戸時代の日本の姿に戻れたら、

どんなに幸せだろう‼️とおもった

 

(私の返信)

次回は、ぜひお父さん、祖父母たちにも、話させてください。親身な絆が世代を越えるために、幼児がいて、子育てがある。祖父母心は、利他の道筋に入っている。入りたがっている。

孫たちも天命を果たしたがっている。

 

(講演依頼は、いつでも、matsuikazu6@gmail.com までご連絡ください。)

子育て支援センター

 

0歳から長時間預けられ、親になり、保育士や教師になって、自分に自信が持てずに悩んでいる人たちに立て続けに相談を受けた話を、前々回書きました。

悩み方は様々ですが、子どもを授かり、または受け持って、自分との関係性がはっきりしない。どこかに不安がある、と言う。3歳までの脳の発達、親子の遺伝子が双方向にオンになってくるプロセスを考えれば、つないでいく原体験ができなかったのではないか。

幼児たちは、関わる人の心を照らし出す、鏡のような存在です。

(原体験:その人の思想が固まる前の経験で、以後の思想形成に大きな影響を与えたもの。)

 

子どもをどう育てるか、という意識から離れて、可愛がることに専念してみてください、甘やかすでもいいです、とアドバイスします。よほどのことがない限り、要求に応えてあげて、その瞬間の子どもの幸せだけを願う。

叱らない。

導かない。自分が導いてもらう感じで、と言います。自分が「いい人」だということを感じるために、形から入るんでいいんです。

これは、私が「逝きし世の面影」(渡辺京二著)で読んだ、150年前の日本の風景から逆算した方法です。親たちに「自分はいい人間だ」と感じさせる、その役割を子どもたちが、世界一果たしていた国。欧米人がパラダイスと呼び驚いた、安心感に満ちた国。後にアインシュタインが、神に感謝する、と言った、美しさへの道筋です。

http://kazumatsui.m39.coreserver.jp/kazu-matsui.jp/?p=1047 

 

しかし、不安なことが一つ。

保育の仕組みは、私に相談した人たちが預けられた頃とはずいぶん違うのです。ひと昔前とは異質なものになっている。特に、ここ十年くらいの仕組みの変化が激しい。

公立園を退職後、市に促されて復帰した保育士が、こんなのは保育じゃない、と言って辞めていく。株式会社の保育施設長を頼まれた元園長が、会社の姿勢とぶつかり、三年後、「ここに預けちゃいけないよ」と、理解しそうな親にだけ耳打ちして、辞めていく。

 

私が、「ママがいい!」を書いたのは、「慣らし保育」のときの、子どもたちの叫びを、社会全体で真剣に受け止めてほしいからです。パパに比べて、ではなく、いや、それも少しはあるのですが、仕組みで育てるには限界がきている、という警鐘です。

保育は、どう親を育てるかが鍵になる。それが難しくなり、園長によほどの信念がないと続かない。子どもを十一時間も預けておきながら、家庭のことには口を出さないでくれ、と言わんばかりの親たち。その言葉づかいが、「保育園落ちた、日本死ね!」あたりから急に荒くなっている。信頼関係が育たないのです。

 

良くない保育士を排除できないことで、幼児期に、見るべきではない風景を見て、すべきではない体験をさせられ、「長時間保育」がトラウマの原因になり始めている。

ニュース見て泣く子も… 日野市保育園“虐待” 卒園児の保護者らから「新証言」 https://news.yahoo.co.jp/articles/36823a07c9d74790c526509e8535578a5f500a3b

「バカ」「ブタ」と呼ぶ、正座させる 吐き出した給食、口に押し込む: https://mainichi.jp/articles/20190215/dde/041/040/017000c

“恐怖の副園長” を傷害容疑で再逮捕 園児に続き同僚の保育士に暴力か: https://www.fnn.jp/articles/-/787 

 

無資格やパートで繋いでいい、十一時間保育を標準とする、など、乱暴な、ほぼ人間のすることとは思えない「規制緩和」が、「保育は成長産業」という閣議決定のもと、ここ十年くらいの間に一気に進められた。

背後にいた経済学者たちは、「信用」がなければ貨幣経済が回らないことを知っていたはず。保育も同じ。信頼関係がなければ「子育て」は回らない。こんな、簡単なことがなぜわからないのか。

子育てにおける「不信」が、不良債権化し、学校に先送りされる。

 

経済界や政治家たちの思惑通りに、0歳児を預けることに躊躇しない親たちが増えました。躊躇しない親たちの子どもに囲まれる時間、これは、そこに預けられた幼児しか知ることができない、人類未確認の不自然な体験です。その体験が卒園後、義務教育の場で増幅し、連鎖する。

子どもたちは、5歳までのその時期を一生に一度しか過ごせない。他に比べられる体験はないし、別の体験を選択する権利もない。

そう思うと、保育という仕事の責任の重さをひしひしと感じるのです。簡単に引き受けられることではない。

保護者や保育士、時には政治家たちにも話す機会を与えられてきた私は、だから必死になるのです。

 

これを書きながらニュースを見ていたら、小池都知事が出てきて、第二子の保育料を無償にし、「子どもが輝く」東京にする、と言う。

三、四、五歳は、すでに無償ですから、対象は三歳未満児。

「ママがいい!」と叫ぶ二歳児、それも言えない赤ん坊を母親から引き離せば「子どもが輝く」、しかも、東京都はチルドレンファーストだ、と言うのです。呆れるしかない。

もう40万人保育園で預かれば、女性が輝く、と以前首相が国会で言ったことがある。「社会進出」とか言って経済競争に参加することが「輝く」こと、子育てでは女性は「輝かない」と言わんばかりでした。

人間が哺乳類であることを踏まえれば、まったく同意できませんが、損得勘定で考えれば、この「女性が輝く」論は、わからなくはない。この手の考えに同調する人がいるのもわかる。しかし、その時点ですでに保育士は危機的に不足していて、それを首相は知っていた。(私が、直接言ったのですから、間違いない。)

閣議決定された目標のために、子どもの願いと安心を無視した規制緩和が少子化対策の名で進められた。それで出生率が上がったならまだしも、少子化はますます進み、結婚しない若者が増え、児童虐待も過去最多、不登校児がここ数年異常に増え、教師のなり手が減って学校教育が危うい状況になっているのです。

幼児と付き合うことを「幸せ」と捉えず、「負担」と定義する考え方が、この結果を生んでいる。原因と結果を単純に示せば、このやり方が間違っていたことは容易に理解できるはずです。

 

東京都は、過去にも、その財力を使って「子育て」をお金で解決しようとする施策を打ち出し、近隣の県が迷惑することが多かったのですが、虐待が次々と報告され、保育全体の質の低下が明らかになっているこの時期に、都知事が、より多く、長時間預ければ「子どもが輝く」、「チルドレンファースト」と言ってしまう。

この発言、発想は一体どこから来るのか。

企業型保育が新たに制度化され、たった一年で少子化担当大臣が「質の確保が、十分でなかった」と謝ったことを思い出します。謝って済む事ではない。幼児は、そこで年に260日過ごしたのです。

国は、五日で取れる新たな保育資格を作って誤魔化そうとしていますが、保育士不足だけでは済まない、教員不足をどうするのか。

学校は、保育園のように規制緩和できないのです。

都知事の、「子どもが輝く」発言は私の想像力、理解力を完全に超えている。もう馬鹿馬鹿しくって話にならない。

http://kazumatsui.m39.coreserver.jp/kazu-matsui.jp/?p=2867  http://kazumatsui.m39.coreserver.jp/kazu-matsui.jp/?p=2824 

(小池さんは、環境大臣の時に、私の講演をフルバージョンで聞いています。控え室で、先進国社会における家庭崩壊が地球温暖化の原因になっている、という説明に、うなずいていました。)

 

知事の「子どもが輝く」発言に、報道側が何も質問しない。

疲弊している保育、教育現場に一層の負担を強いる発言を、黙って許している。ワイドショーのコメントを聴いていると、子どもに税金を使いさえすれば、すなわち良い事と見る、浅はかな知見ばかりで、それに世論が操られている。

第一子が第二子と過ごす権利など、誰も考えないのでしょうね。

マスコミは、これ以上、子育てのイメージを落とさないでほしい。

 

派遣なしでは国基準を満たせないような状況で、子どもの権利条約が言う、「特定の人との愛着関係」など育ちようがないのです。

たとえ、その朝、いい人に当たっても、保育士は必ず交代する。

子どもが求める「誰かとの愛着関係」が、国策によって細切れになる。

いい保育士が、八時間向き合っても、同じ日に、良くない人と過ごす一時間が、より一層子どもにショックを与える。その「差」が、生まれてきた世界に対する不信となって残る。

 

0歳児は1対3、1、2歳児は1対6と言いますが、「母親像」を求めている三才未満児からすれば、保育は常に1対1です。それを忘れてはいけない、と私は師と仰ぐ園長先生から教えられました。

そういう視点で見ると、どんなに天才的な人が保育をしていても、子どもたちの悲しく、寂しい現実は見えてくる。

おとなしくていい子が、それ故に放って置かれたり、絶望的に、好きな保育士を目で追っている光景を目にします。保育士にも、好きな子、はいますし、手の掛かる子が一人いれば過ごす時間に差が出てきます。保育は、絶対に平等にはならないのです。

一人で絵本を広げていた二歳児が、手伝いのおばさんに腕を掴んで引きづられ、保育士による「読み聞かせ」の輪に入れられたり……。

おばさんに悪気はないのです。

 

保育士たちの気持ちが、ザラザラしたものになっていった原因の一つが、仕組みによる裏切りもそうですが、親たちの意識の変化でしょうね。

これが一番辛いかもしれない。

 

ずっと以前、八時間保育が十一時間開所になった時、朝預ける人と、帰り、返してもらう人が別人になった。親たちの意識が、「この人に預ける」から、「この場所に預ける」に変わった。

子育てが、人間から仕組みの手に移ったのです。

私は、それ以前、それ以後、というイメージを持っています。

その時、この国がどういう一歩を踏み出したか、それがどれほど致命的だったか、政治家や学者たちは気づいていない。保育士たちが、一日一度、全員揃ってお茶を飲める時間が永久に消えた時、仕組みに何が起こったのか、「専門家」たちは知らない。

千利休を生んだこの国が、そういうことに気づかなくなっている。伝統文化やこの国の個性が、「欲の資本主義」に踏みにじられようとしている。

 

 

子育て支援センター(詩・小野省子)

 

誰も知りあいがいない町を

知りあいをさがして 黙々と歩いた

首がすわらない娘を ベビーカーにのせて

公園のむせかえるようなセミの声が

こわれた機械の雑音に聞こえて

真夏のアスファルトは

ゆがんだチューインガムのようで

ただ 誰かと話がしたいと思った

その時 「おひさまサロン」とかかれた看板のむこうで

「よかったら遊んでいきませんか」と手をふる人がいた

「だれでも、遊べる場所なんです」

私はその晩 この町に

私を知っている人がいて

私の娘を知っている人がいる

そう思うだけで うれしくて眠れなかった

 

(ここから私です。)

方法は、まだある。

「私を知っている人がいて、私の娘を知っている人がいる」

「そう思うだけで」嬉しくて眠れなくなる。

その道筋が、用意されている。

 

幼児期に子どもが過ごす時間の質が、この国の将来に大きく影響することを一定数の人たちが理解すれば、必ず、仕組みに変化が起こります。

「ママがいい!」、ぜひ読んでみてください。

周りの人に薦めてほしいのです。家庭、保育、学校が、共倒れになる前に。

FBの友達リクエスト、ツイッターのフォローでも結構です。ブログの更新をおしらせします。どうぞ、よろしくお願いいたします。

(ブログ:http://kazu-matsui.jp/diary2/、ツイッター:@kazu_matsui)

 

 

一月二十二日(日)午前5時から、と二十八日(土)午後1時から、NHK Eテレ こころの時代 アーカイブ「言葉の力、生きる力」で、父(松居直)が出演した番組が再放映されます。ご覧になっていただければ幸いです。

 

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