譲れることと、譲れないこと

AI(人工知能)やチャットGPTに関するニュースを見ながら考えます。

将棋や囲碁では、人間の思考力のみならず想像力さえも上回っているようで、千年先を打っている感じがする、という棋士の話を聞いた時は、ロマンを感じました。人間が千年かかる試行錯誤を超速でやってしまうらしい。

勝ち負けの世界では、いつの間にか、AIから人間が学ぶ、という道筋ができている。それに経済活動が重なったらどうなるか。

チャットGPTのように無料で誰でも相談できるアプリが登場すると、より多くのケーススタディがインプットされる。いまこの瞬間にも、眠っている間にも、精度というか、完成度ではないらしいのですが、その強さ、許容範囲が増している。

どの程度「頼れる」ようになるのか。いや、どの程度「頼る」ようになるのか。

「頼れる」と「頼る」の関係が微妙です。AIが、既存の情報、プラス「シミュレーション」によって成長し続ける特性が、諸刃の剣となる。

 

保育と子育ての関係を思い出します。市場原理の誘導で、常識をすて、仕組みを過信し頼ることで、仕組み自体が崩壊に向かう。頼れないものに「頼る」、まさに、その只中に私たちはいます。

ある一線を超えてしまうと、仕組みによって手にした利権を手放せなくなる。すると、強者に有利な格差社会へとますます進化していく。子どもたちの存在を傍に置いて、夢を(欲を)持ちなさいという教育の進言に身を任せ、格差が広がっていく。

いま、世界中に存在する独裁的な政権と、武器の進化のスピードを考えると、恐ろしい結末しか見えてこない。それでは、困る。

もう一度、視線を赤ん坊、私たちを全身、全霊で信じている人たちに戻さなければなりません。この人たちの「働き」で、利権の追求から意識を一度離さないと、と思うのです。(「ママがいい!」、図書館で順番待ちだそうです。園でも、回し読みが始まっています。)

AIやチャットGPTにおける言語をまたぐ利便性は、国境を超えて守り合う新たなネットワークになる可能性を持っている。先進国の物差し主体ではない、「学問」主体ではない、体験的な知恵の源泉が総意として生まれるかもしれない。そんな希望もあるのです。

が、一方で、声で答えてくれる臨場感は、「神との会話」に似た錯覚を起こさせる。これが、「欲の資本主義」に悪用されたら、と思うと、軽い恐怖を感じます。

AIが誘う、人類未体験の空間に、どこまで入り込むのが賢明なのか。空間の奥の本棚に、聖書や法華経だけでなく、論語や徒然草、宮沢賢治は置いてあるのか。その壁には、能面や伎楽の面を架かっているのか、窓際に、Katina人形は並んでいるのか。

情報量がすごいらしい。

でも、例えば、「人工知能」の範疇で、先日都知事が記者会見で言った、保育料を無償にすれば「子どもが輝く」という、実体験の不明な戯言が、表立った反論が起きない論旨、ロジックとして通っているとしたら……、最近の国の施策に見られる、0、1、2歳の願いが視界から消えた、偏った思考経路が成立していたらどうなるのだろう……、そんなことも考えるのです。

こんな小説を書いてくれ、と頼むと、文体や展開まで真似て書いてくれるという。そこまで進んだ人工知能に、0歳児を保育園に預けることをどう思いますか?、と尋ねたら、どう答えるのか。その答えが、どういう価値を持つようになっていくのか。

人間同士が相談しあっても、答えは一つではない。しかし、AIがAIであるゆえに、科学的に正しいこと、のような気分になって行ったら。政府が、「専門家」の意見を聞いたように、そこに正しさを求めたら。

まあ、相談相手としては、AIは、それほど薄っぺらくはない、と考えています。だから、専門家は恐れているのでしょう。

 

人間同士なら、その日の気分によって、相談した人の目つき、顔つきによって、さらに、お互いの立場や関係によって、答えは違います。だからいいのです。人間は五感で会話をする。人間は、「祈り」 のグレーゾーンを持っていて、そこにしばしば逃げ込むことができる。

そのグレーゾーンには、幼児期の泣き笑いや、人形、お地蔵様やトトロ、入学式、子守り唄が住んでいて、実は、意外と頼れる居場所で、亡くなった人も顔を出したりする。

グレーゾーンは、グレーだから価値がある。。

(思わずここで、だからガンダルフは、灰色だった、the Greyだったと書きたくなるのですが、飛び過ぎですかね。)

待機児童がいなくなったことを『成果』とする政府の姿勢、女性の就労率のM字型カーブがなくなることを「いいこと」とするマスコミの迷走、母子分離を仕組み論で肯定しようとする保育学者たちの認識、そうした諸々が、人間の思考に代わる気配を見せている「プログラム」に、正論として、または一般論として刷り込まれていたら、人類は大変な過ちを犯すことになる。

幼児たちの私たちへの信頼が、生きる主たる動機として考慮されていなかったら、私たちは、混沌への道を歩み始めることになる。

ああ、たぶん0、1、2歳児なのです、AIの対極に位置するのは。

人間は子どもを授かることで、自由を奪われ、そこに選択肢がないことに感謝する。

その、見返りを求めない道筋が、見失われつつあるのです。一緒に育てる、という機会を奪われ、結婚しようとしない若者が増加し、お互いの人生が重なっていかない。夫婦だけでなく、共に「育てる」ことの価値が「子育ての社会化」によって、下がり続けている。

この危険性を次世代に指摘しておかないと、と思います。きちんと説明すると結構理解する。(中学生は理解してくれる。http://kazumatsui.m39.coreserver.jp/kazu-matsui.jp/?p=726

子育てを幸せと感じる道筋が一つの人生の形だという情報を、筋道を立てて、魅力的に次世代に説明し、なるべく体験させておくことが、この時代に生まれた私たちの責任です。

説明の仕方にはいろいろあって、「トトロ」や「千尋」も頑張っていますし、ドラゴンボールも、心が清くないと雲にも乗れない、と警告する。流行り歌の歌詞にも、いい動きを感じます。私が知らない分野で、その責任を果たそうとしている人たちがたくさんいるのがわかる。密かに、自浄作用は働き始めている。みんな気づき始めている。

私は、端的に、直接的に、幼稚園や保育園における「保育体験」を勧めています。小学五年生くらいから始めて、高校卒業くらいまで、毎年夏休みに三日間くらい、幼稚園、保育園で過ごす。それを続けて、親になった時に再び、というのが、いいのです。これができれば、人類の進化に影響を及ぼす。「持続性」を再び手にすることができる。

幼稚園や保育園にはそれほどの、可能性と役割があると思っています。

 

これを書いている時、ニューヨークのライターから電話インタビューの申し込みが飛び込んで来たのです。

ジョニ・ミッチェルの本を書くという。私は、ジョニのDog eat dog(共食い)で尺八を吹いていて、「エチオピア」という曲。人間が作り出す「飢餓」を呪文のように表現し、告発する一風変わった曲です。トーマス・ドルビーも加わっている。

AIを考えていると、ジョニについて、ニューヨークから質問が来る。人生で稀にある、不思議なバグ、マトリックス的な出来事(ハプニング)を感じます。三十八年前に吹いた音が、ネット上でまだ生きている。

ジョニについて聴かれ、未知の領域、でも、そこにそれがあることを何万年も知っていた、そんな所に連れて行ってくれるから、みんなジョニの舟に乗りたがる、と話しました。

音楽関係者、スタジオのアシスタントなど、ミュージシャン仲間でも、ジョニのアルバムで吹いたと言うと、えーっと、驚かれ、羨望の眼差しで見られました。人生がワンランク上がったような、魔法使いに認められたような、奇妙な感じがする。音の重ね方が常識を越えていて、同時に、絶対的な感じがするんですね。

インタビューの前に辞書を調べていたら、「Absolute」という言葉に行き着きました。ジョニはAbsoluteなんだよ、と言ったら、ニューヨークでライターが笑いました。電話の向こう、海の向こうで頷いた気配がした。

AIの対岸にいる人かもしれない、ジョニは。とふと思いました。

古(いにしえ)の呪文を憶えている人。

私の尺八もそうです。

「ママがいい!」に保育体験について実例をあげ、園長先生たちが作ったマニュアルへのリンクも貼ってあります。ぜひ、読んでみてください。この繋がりを、薦めてください。

親を育てる役割を、子どもたちに返していけばいい。

リツイートとシェアで流れが変わる気もします。ブログの更新もし、発信も続けます。「ママがいい!」、また、Amazonのジャンル別で一位になっているそうです。コロナで滞っていた集まりが再開し、講演が少しずつ増えています。伝わりそうです、子どもたちの願いが……。

よろしくお願いいたします。

(ブログ:http://kazu-matsui.jp/diary2/、ツイッター:@kazu_matsui。講演依頼は、matsuikazu6@gmail.comまでどうぞ。)

 

こんな文章を、Facebookを介していただきました

(こんな文章を、Facebookを介していただきました。)

📚福音館書店 松居直さんお別れの会・その後

2月22日に行われた「松居直さんお別れの会」に参列させていただいたことは、以前にも投稿しました。

東京の如水会館で行われたこの会は13:00からの開式だったため、少し時間に余裕を持って出かけました。

11:30頃、会館に到着。

バスを降りると、ふと物々しい警備が目に入りました。

とは言え、政府要人に付いているような屈強なSPではなく、どこか物腰の柔らかい(けど明らかに警護とわかる)SPで、何があるの?と不思議に感じていました。

如水会館のレストランで昼食を摂り、少し早いけど、もう会場を見られるかな?と階段に近づくと、SPに止められます。

「失礼します。もう少しお待ちください(ニコ)。」

お別れの会の会場は階段を上がった2階。

「あ、申し訳ありません。」と、その柔らかな対応に、こちらもやんわりと応えて待機することにしました。

時間となり、会場で献花を手向け、松居直さんの人生の足跡を記したパネル展示に見入っていると、どこからか「先ほど、上皇后様がいらしてたみたいですよ。」との声が耳に入ってきました。

なるほど、それでSPに制止されたわけか、と一人納得。

ひと月半ほど経った4月の半ば、知人から「女性セブン」(4月6日号)にこの時の様子が書かれていることを教えてもらいました。

記事中には美智子上皇后様が絵本に親しまれ、児童文学にも造詣が深かったことが記されています。

私は個人的にも美智子様の詠まれる和歌が好きで、歌会始では一番に目を向けています。

「ある時は私に根っこを与え、翼をくれました。(中略)

読書は私に、悲しみや喜びにつき、思い巡らす機会を与えてくれました。

本の中には、さまざまな悲しみが描かれており、私が、自分以外の人がどれほどに深くものを感じ、どれだけ多く傷ついているかを気付かされたのは、本を読むことによってでした」

記事中にある、このスピーチの心境は東北の震災時に詠まれた歌の中にも表れていたことを思い出しました。

誰彼をもってしても代替することのできないお立場でありながら、人としての心に深く想いを馳せる美智子様と、あの時間をご一緒させていただいたこと、あらためて素晴らしい会に参加させていただいたご縁に、心から感謝いたします。

子育ては、自分をも育てる時間。

子どもとの向き合い方は、すなわち自分との向き合い方でもあるように感じます。

0歳の子からも様々な学びや、生きるエネルギーをもらえる、そんな謙虚な心を常に持っていたいものです。

 

 

「子どもが輝く」

「子どもが輝く」

第二子の保育料を無料にすれば、「子どもが輝く」、「チルドレンファースト」と都知事が記者会見で言った、その奇妙さ、に気づいてほしい。

いつから、こんな発言を受け入れるようになったのか。

なぜ、そうなったのか。

 

慣らし保育で、子どもたちが「ママがいい!」と叫ぶ。毎年この時期に、これほど大量に一斉に叫ぶ。人類が一度も体験したことがなかった光景です。その「願い」を否定され、十一時間預けられた子どもたちが、どう「輝く」のか。

七年前、もう40万人保育園で預かれば「女性が輝く」、と首相が国会で言ったとき、譲りたくはないけれど、理解できなくはない、と思いました。それをすれば、保育も教育も仕組みとして成り立たなくなるのですよ、と何度も言いましたが、個々の人生の「動機」としてはあり得る。

欧米先進国が「欲の資本主義」にのみ込まれ、家庭崩壊へと進んでいった経緯を思うと、強者が輝くために、子どもの気持ちが優先されなくなる道筋は、人類が一度は通らなければならない「通過点」かもしれない。モラル・秩序の著しい低下を経て、子育ては、子どもを育てるよりも、乳児、幼児を親たち(人間たち)が体験することに意味があったと、再び、気づくのでしょう。

しかし記者会見で、都知事に言われると、さすがに唖然とします。

欧米で半数近くの子どもが未婚の母親から生まれていた時、この国は、1%台だった。弱者の存在意義を先進国の中では唯一理解していたこの国が、こうした発言で欧米化し、壊されていく。

記者会見の場で、「子どもが輝くとは、どういうことですか?」と、マスコミは即座に質問すべきだった。

それが、役割でしょう?

記者が、感性を失っている。聴き逃してはいけない、人間性を覆す発言に反応しない。子育ての丸投げが限界に達しているのを知りながら、ジャーナリズムが役割を果たさない。

本来の現場がどこにあるか、見極めが、できていないのでしょう。

政府の「異次元の少子化対策」は、「全ての子育て家庭が親の就労状況を問わず保育所を利用できる制度を創設し……」という方向に向かっています。

実際の「利用者」は子どもたちで、彼らは、十一時間そこで過ごすことを望んではいないし、「子育て」の当事者は「制度」ではなく保育士たちの「心」。そこに「現場」がある。

「子ども・子育て支援新制度」で、一日二時間働けば十一時間預けることができるようになっている。幼稚園がない自治体が二割あり、入園時に偽(ニセ)就労証明書を役場で書くことが日常だった、など、実は、「就労状況」の規制は綻びができ、かなり崩れていました。しかし、それを、正式に「問わず」とすれば、最後の防波堤が決壊する。

「第一義的責任は親にある」という本能、学校や保育を成り立たせるための「約束事」が形骸化してしまうのです。

子育ては国の責任、と思う親がこれ以上増えたら、すでに教師不足に晒されている学校は、「保育園落ちた、日本死ね」に象徴される責任転嫁の広がりを受けきれない。国が「社会で子育て」と言って押し付けても、保育者も教師も、学童の指導員も、児童養護施設の職員も、どんなに予算を積んでも絶対に受けきれない。子育てに対する「意識」の崩壊に追いつかない。

「子どもが輝く」のは、親をいい人に育てている瞬間、「可愛がられている」瞬間、社会に、利他の意識を広めている瞬間です。

(確認ですが、国会で、保育園を増やせという議論の中で「保育園落ちた、日本死ね!」という発言が取り上げられたとき、背後にあったのは、超・長時間保育が可能な、無資格でも保育ができる、しつけの名の下に園児虐待が起こり得る、保育士不足が限界を超えている制度だったのです。

議員たちの「子育て支援」論議は、0、1、2歳児には到底受け入れられない、保育士たちも納得しない、政治家たちのやった振り、パフォーマンスに過ぎなかった。しかし、それが報道で流され、預けることが権利だと思われるようになり、赤ん坊は保育園に入りたがっているようなイメージが定着していった。赤ん坊の笑顔を使った政党のポスターがあちこちに貼られ、それを裏付けし、親たちが0歳児を預けることに違和感を感じなくなっていく。躊躇すること自体が、悪いことのように言われ、子どもの権利条約にある、乳幼児が親と(特定の人間と)過ごす権利の方は、忘れられていった。「ママがいい!」と叫ぶ声が、その価値を失っていった。)

「預けたければ、誰でも(11時間を標準とした仕組みに)預ければいい」という最後の、「異次元の」規制緩和で、「子どもたちが喜ぶから」という、保育者として生きる動機、頑張れる足がかりが失われていく。

学校を支えてきた「保育」が「託児」、親への「サービス」になっていく。しかも無償で。

その結果、「負担軽減」の最前線で犠牲になるのは子どもたちです。機能不全で、安全な場所とは言えなくなっている児童養護施設や児童相談所に持ち込まれる案件の増え方を見れば、それがわかります。

ペットを、一日十一時間、年に260日預ける人はいないでしょう。

そして、子犬は、生後八週間は母犬と離してはいけないという法律が、与野党をまたぐ賛成で国会を通っている。http://kazumatsui.m39.coreserver.jp/kazu-matsui.jp/?p=174

犬の生後八週間は、もうちょこちょこ走っていますから、人間で言えば二歳くらいでしょうか。それより早く母犬から引き離すと、吠え癖や。噛みつきグセがつくというのです。一方、人間の保育園では、「一歳児二歳児は噛みつく頃ですから」と平気で説明する保育士たちが増えている。

(一対一の保育で、早期に噛みつきをなくす方法を「ママがいい!」に書きました。保育園では、噛みつかれた方もトラウマになるのです。)

「子ども家庭庁」が聴いて呆れる。

「子ども真ん中」など、ただの掛け声。小学生、中学生の意見を聞くと言いますが、政治家のパフォーマンスでしょう。小学生、中学生も含めて、みんなで、しゃべれない乳児を囲んで、じっとその言葉に耳を傾ける、それが何万年もやってきた「子ども真ん中」社会です。その時に湧き上がる不思議な連帯感が、人間社会の根元にあるべき「絆」です。

いま、戻れない一線を越えようとしている、その自覚を持って欲しい。

政府が、「保育は成長産業」とした時点で、勝負はついていたのかもしれない。

市場原理に任せれば、節税になって、競争を煽ることでサービスも向上し、経済も活性化する、経済学者が考えそうな手法です。しかし介護と違い、保育業者が親相手のサービスに走れば、子どもたちの気持ちが蔑ろにされる。それによる「負の経済効果」は、計り知れないのです。

(先生の質を保てない 公立2000校で欠員、1年で3割増加 :https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD258XU0V21C22A0000000/?n_cid=NMAIL007_20230116_A )

画一教育ができなければ、教師の精神的健康は保てません。「自主性」とか「自己肯定感」などという「競争社会に駆り立てる机上の論理」を保育学者が振り回しているうちに、教員が足りなくなり、担任の質が落ちてしまえば、元も子もない。記事にある「1年で3割増加」という異常な増え方が、最後の警告です。教師や仕組みに、親の代わりはできない。

親にとって、自分の子どもがよくない担任に当たったときの悲しみは、深い。自己肯定感など、何の役にも立たない。

 

政府は、保育界で起こったことを、学校教育の現場で繰り返そうとしている。

違うのはそれが「義務」教育だということ。国は、「質」に責任がある。逃げられない。現場の校長は、悪い教師を解雇できないし、国は、市場原理で誤魔化すこともできない。

「日本再興戦略」(平成二十五年六月十四日閣議決定)で、保育分野は、「制度の設計次第で巨大な新市場として成長の原動力になり得る分野」、「良質で低コストのサービス(中略)を国民に効率的に提供できる大きな余地が残された分野」とした経済学者、致命的な戦略を阻止しなかった保育学者たちは、いま、見て見ぬふりをしています。

働き手が減り、引きこもりが増え、同時に福祉や教育に一層の負担がかかり、実体経済が悪くなっても、彼らの人生には影響しない。大学で教え、評論をしていればいい。

 

しかし、子どもたちの心の傷は、一生その一家のトラウマとなって残るのです。

乳幼児期に受けたトラウマ、それに重なる愛着障害は、問題が複合的に絡んでいてハッキリとは見えない。その子の人生に寄り添えるのは、担任と、保育者と、親しかいないのかもしれない。

親友が出来れば、道は変わってくるのでしょう。

いえ、私が言いたかったのは、担任と、保育者と、親に、そこそこ恵まれれば、人生は大丈夫だということ。人生は助け合うものだから、そのうち一人でも、親身になってくれれば、セイフティネットになる。加えて、数冊の本と、数曲の応援歌があれば……。

そこまで考えて、この傷ついた子どもが、もし親になって、助けてくれ、癒してくれるのは、親を心から信じてくれる幼児たちだと、気づきます。もし、傷ついた子が、道を探しながら保育者や教師になっていたら、受け持った子たちの中に、その傷を癒し、救ってくれる魂が生きているはず。

でも、やはり子どもの頃に受けた傷は深い。可愛がって育ててきた人ほど絶望的になる。その傷の存在を知った親の苦しみは、自分自身に向かうのです。

最近、そんな親から悲鳴のような相談を受けます。事情を聞いて、不登校でいいと思います、と答えたくなることが増えました。

高校生になっても、夜、夢にうなされ、小学校の担任の名を「殺してやる!」と叫ぶ我が子に、なぜ、無理に学校に行かせたのか、と泣く母親。学童が信じられない、と、四人の孫の放課後をみている公立保育所の元所長から、毎年一人はハズレの担任に当たるんだわ、そのイジメ方が陰湿なんだよ、何か、とってもおかしいんだ、という怒りの声を聴く。

祖母であると同時に、保育の重要性、学校の事情をよく知っている人の発言だけに、教師の質の危うさ、深刻さが伝わってくるのです。

こういう問題を、ゼロにすることはできません。でも、今の不登校児、児童虐待の増え方を見れば、雇用施策主体に諮られた母子分離と、規制緩和による保育の質の低下、「絆の喪失」が原因としてあることは明らかです。

保育所保育指針に、五つ六つ「教育」という言葉を入れてどうなることではないっ!

「日本再興戦略」は、「日本を再興できないほど壊す戦略」にしか思えない。

慌てた文科省は、教員は無資格でもなれる、と宣伝します。

本当にそれでいいのか。

「資格」で教育ができるとは思いませんが、資格を取ろうと考え、その取得を試みた人たち、そういう種類の人たちが現場に来ない、来ても離れていく。無資格者で、その穴を埋められるのか。待遇で質を買えると思っているなら大間違い、保育の時の二の舞になる。非正規やパートが主体になり、やがて派遣に頼らざるを得なくなる。

配置基準を満たせばいい、という保育(=子育て)に対する甘い考えが、小一の壁を乗り越え、義務教育を劣化させていくのが見えます。

「担任」(子育て)という責任からの逃避が始まっているのです。政府主導の「子育てのたらい回し」が、行き止まりに近づいています。

流れが変わり始めている気もします。「ママがいい!」への、反響がいいのです。図書館で順番待ちができている、という話も聴きます。Amazonのジャンル別、また一位になっています。

教員不足の原因は、文科省の言う、特別支援学級が増えたため、ではない。特別支援学級をこれほど増やさざるを得ない状況にした短絡的な経済施策、「社会進出」という言葉で、子どもを可愛がる時間を奪っていった「雇用施策」に原因があるのです。読んでいただければその経緯はわかると思います。そこを理解しなければ、「子ども真ん中」というこども家庭庁の掛け声など、茶番に過ぎません。

「子ども真ん中」、はこの国の真骨頂です。この国そのもの、と言ってもいい。

よろしくお願いします。ブログの更新もしています。

(ブログ:http://kazu-matsui.jp/diary2/、ツイッター:@kazu_matsui)

 

追伸:

教文館、ナルニア国で行われた父、松居直の回顧展での「児童文学と私」講演、無事、終了しました。

子どもの本に囲まれ、書いた作家たちの「意図」に支えられ、児童書好きの方たちと、パネルになった親父の写真と向き合い、水を得た魚のように話せた気がします。

影響を受けた本、好きな本のリストは、ブログに書きました。http://kazumatsui.m39.coreserver.jp/kazu-matsui.jp/?p=4602

限られた時間の中で、改めて、児童文学が自分の考え方の原点にある、と確認しました。それは父がくれた環境で、その人生に、自分の人生を重ねさせてもらっていることがわかります。もちろん、あの強烈な母の影響も、大きいです。

児童文学には、0、1、2歳との会話が、半分あっち側との交わり、もしくは、古(いにしえ)のルールへの橋渡しとしてよく出てきます。メアリー・ポピンズの窓際のスズメたちや、「私たちの島で」のチョルベン、ピーターパンとウエンディ、そしてウエンディの母親との関係などについて「ママがいい!」との関係も含め、解説しました。

リンドグレーン、ワイルダー、ケストナー、トールキン辺りを話しているうちに時間が過ぎ、最後は、一曲、即興で父母に手向け、その日の会話を「沈黙」に返しました。銀座の真ん中で……。

絵本の話まで届かなかったのですが、それを描いた人たちに、節目、節目でアドバイスをもらい、少しの間、一緒に歩いてもらったことについて触れました。

小学校の工作の先生だった安野光雅先生には五十年以上お付き合いいただき、今でも、想像の中でアドバイスをもらいます。アウシュビッツに連れて行って下さった丸木俊先生、インドのシャンティニケタンに招き入れてくれたラマチャンドラン画伯は、私にとって灰色のガンダルフのような人。半分日本語が混じる不思議なインド英語を話し、洗濯までして下さった秋野不矩先生。パリで三ヶ月居候させてくれた堀内誠一さん、ロサンゼルスの俳句の会で鍛えてくれた八島太郎さん、本の帯に推薦を書いてくれた谷川俊太郎さん、美味しいものを食べさせてくれた今江祥智さん、動物をたくさん描いてくれた薮内正幸さん(ヤブさん)。

書いておいた方がいい、と思う懐かしい人、影響を受けた人たちがたくさんいて、その人が創った「絵本」を知っているから、関係に深みが足されるのでしょうね。

出会に、感謝。これからも、意識し続けなければ、と思っています。

https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=pfbid0UZQG2hjMBi6NRai22mzxiNecV3KJSYp2iqTZQ9KsrpsJ7ppMKxHHAAAxugY4CnDtl&id=100057827763167

 

 

教え子からのメール

(父の「お別れの会」に来てくれた、共通の教え子から来たメールです。ありがとうございます。日々がよみがえりますね。

授業で習ったことよりも、絵本を読んでもらった「体験」の方が教え子たちの印象に残っている。そこに、父の伝えたかった真髄が垣間見えるような気がして、嬉しいです。。)

 

本日は、お別れの会にお招き頂きまして、ありがとうございました。

先日、直先生のNHKアーカイブを拝見しました。 英和で学んだ頃から数年後の映像でしたので、生き生きと語られる先生を懐かしく思い出しました。 

献花の際、先生が今でも真っ直ぐなお言葉で話し出すのではないかと思う程、本当にいいお顔のお写真で、卒業してからもう一度、講演会などに足を運びたかったな、と思いました。

また、皆様に愛された直先生の軌跡を、展示より感慨深く拝見させて頂きました。改めて、素晴らしい先生にご教授頂けたことに感謝しております。

直先生、和先生から数多く絵本・児童書に触れる機会を頂けたことを嬉しく思います。

そして、本日、直先生の奥様の作品集を頂きまして、余りに美しく、明日から私のスマホの待ち受けにさせて頂きたく思います。

(母の個展の時に作った図録です。父が解説を書き、それぞれにタイトルを付けました。「お別れの会」でお土産に配りました。教文館で行われる、回顧展でも、数に限りはありますがお配りしています。)

松居先生

昨日の直先生のお別れの会、ありがとうございました。英和生や英和の先生とも久しぶりに再会出来ました。

私の勝手な思いではありますが、大きな直先生のパネルのお写真から「皆さん、これからもそれぞれの立場で、子どもたちに生きた言葉を伝えてくださいね、子どもの心を育んでくださいね」と励まされた気持ちがしました。

あの後、同級生と、直先生の授業中に読んでいただいた絵本について懐かしい談義をしました。

30年経っても皆の心の中に残っている絵本や言葉の種を直先生が蒔いて下さり、母、保育者、園長、支援者という立場で今度は種を蒔く側になっているね、と改めて感謝致しました。

素晴らしい機会を設けて下さり本当にありがとうございました!

 

ライブハウスで演奏します

 

 

久しぶりに、ライブハウスで吹きます。
まだ、セットリストは決まっていませんが、基本は即興演奏です。楽しみにしています。
不思議な組み合わせです。

パーカッションの菅原さんは、なんと、私が40年前 The Kazu Matsui Projectで来日し、渋谷公会堂で演奏した時、ご一緒してもらった人。
のぶ君は、元ジャニーズのチャチャというグループのメンバーで、ある日、ディジュリドゥという楽器に出会い、人生の方向転換をした人。塩入さんは有名歌手のプロデュースやアレンジだけでなく、羽生結弦の音楽監督などもしている人です。

人間は不思議なことをする。その、次元をまたぐコミュニケーション能力が、とても必要な時が来ている、そんなことを感じていただければ幸いです。
よろしくお願いいたします。

 

 

四月五日の教文館での講演、「児童文学と私」、当日券は完売しましたが、ライブ配信があります。ぜひ、お問合せください。

児童文学と私

規制緩和の最終ライン

「こんな報道がされてしまいました。今後どうなっていくんでしょうか。子どもの気持ちを誰も考えない。現場はどうしたらいいのでしょう」

というメッセージと共にリンクが届きました。

https://news.yahoo.co.jp/articles/79b585ee916db4647fc94d473c67ea91c771a771

(政府は今月末にまとめる少子化対策の「たたき台」に、全ての子育て家庭が親の就労状況を問わず保育所を利用できる制度を創設し、出産後の「育児休業給付金」を受け取れる非正規労働者を拡大するとの内容を盛り込む方向で調整に入った。複数の関係者が22日、明らかにした。)

異次元の少子化対策は、結局、この方向に動く。一度超えると元に戻れない、規制緩和の最終ライン。間に合わなかった、止められなかった、という虚しさがつのります。

記事にある「無園児」という言葉に、失敗を重ねた雇用労働施策の本心が現れます。彼らの頭の中では、幼稚園児も無園児。無償化で公立の幼稚園が一気に消えていったことを思い出します。親たちに必要な負荷をかけていた幼稚園が、行事が多い、と避けられて、廃園になっていくのでしょう。もしくは、意識の高い親たちが集まって、頑張って、孤島のように守ってくれるのでしょうか。

「ママがいい!」という言葉と真剣に向き合う人が、これから、何かをきっかけに増えるでしょうか。

いずれにしても、その先にある義務教育が諸刃の剣になっていく。

 

保育をビジネスと考える業者と、大学や専門学校を「資格ビジネス」と見なし始めた「保育学者」、全員保育園で預かることを提唱した「社会学者」や経済財政諮問会議が施策を動かしているのか。それとも単純に、集票に幼児を利用する政治家たちの自分勝手な手法でしょうか。自分が選挙に受かるために、引き受けられないと知りながら、引き受ける。

過去十五年、選挙のたびに、与党も野党も母子分離を、宣伝カーのスピーカーで、「待機児童をなくします」と票を得るために進めてきたのですから、「保育は成長産業」「福祉はサービス」と誤魔化した閣議決定を今更、引っ込められない。現場が疲弊し、保育も教育も人材が枯渇しているのに、「全ての子育て家庭が親の就労状況を問わず保育所を利用できる制度」などと、言って、子どもたちの願いを踏みにじる。利用しているのは親たちではなくて、子どもたちなのです。その気持ちを裏切ることが、反作用として、どのように社会に返ってくるか理解しない、しようとしない。

今年になって、二人目(第二子)から保育料をタダにする、そうすれば「子どもが輝く」、「チルドレンファースト」と小池都知事が記者会見で言った。

その言葉に、思考経路を蝕まれた社会を感じるのです。

体験に基づかない「情報」のせいでしょうか。想像力の著しい退化が見える。

何よりも、その論法が「通る」と、知事は思っている。

そして、それが通りそうな社会になっている。そこが問題なのです。

 

幼児の「働き」を理解する人たちが、再び一定数に達してこないと、この流れは変えられない。「ママがいい!」、ぜひ、読んでみてください。周りに薦めてください。この国も、戻れない一線を越えようとしているのです。

三歳以上児はすでに無料で、都知事の「チルドレンファースト」は三歳未満児が対象。

この年齢の人間との会話は、人間社会が成り立たつか、成り立たないか、という瀬戸際の体験、学びです。その原則を傍に置いても、明らかに保育の質が規制緩和で崩れ、園児虐待が問題視され、保育士に続いて、教員のなり手が足りず、学校が機能不全に陥っているときに、さらなる母子分離を進めようとする。一体、この人たちは何を考えているのか。

俯瞰的に見れば、この、子育てに値段をつけるやり方は、アダム・スミスが言っていた、損得で不安を煽りネズミ講のねずみを増やす「資本主義」のエネルギー源、誘導だと思います。

金額に換算できない価値観から、人々を遠ざけようとする。

体験としての子育ての価値が下がり、実の両親に育てられる子どもが少数派になっている欧米社会、その犯罪率の高さを見れば、この「不満」と「不安」で競争に駆り立てるやり方の先に、どういう社会が来るかは一目瞭然です。

欧米の幸福度の測り方は驚くほど偏っている。幸福度が高いと言われるフィンランドの犯罪率は日本の20倍ですし、徴兵制もある。http://www.anzen.mofa.go.jp/m/mbcrimesituation_169.html  私は徴兵にかかる年齢ではありませんが、子どものことを考えると、そういう国には住みたくない。20倍の犯罪率、若者の麻薬汚染率などは、年齢を超えて、あらゆる人々の幸福度に関連してくるはず。子どもや孫との関係が維持されていれば、そうなる。

「平等」という言葉が、 人々を競争に駆り立てます。

欧米社会における「平等」は「機会の平等」(equal opotunity)であって、強者が勝つための免罪符。そこから、平等も調和も生まれない。「自由と平等」を掲げるアメリカで、5パーセントの人が九割の富を握り、極端な富の偏りが過剰な分断と断絶を生んでいるのはご存知の通りです。去年から今年にかけて、四人以上が殺傷される「乱射事件」が、一日平均二件起こっている。人種偏見に基づくヘイトクライムの増え方は尋常ではない。大人たち(強者たち)が、自分たちの自由と平等を掲げ、乳幼児たちの価値から目を逸らしていったことが根底にあるのです。自由と平等という利権(りけん)を争う過程で、「利他」の幸福論を手放していった。

人間は、公平に、幸せを手にする道筋を与えられている。

それに気づくために、幼児たちが存在する。彼らの、大人たちから平等に自由を奪う「働き」が、社会に、モラルや秩序を生んできた。そう考えると、三割から六割の子どもが未婚の母から生まれるという欧米の数字は、もはや修復不可能とさえ思えます。日本は、まだそこまでは行っていないのに、「欧米では」という言葉を掲げる人たちがいる。

最近、日本でも急速に、「平等」を目指すことで、幼児たちの「働き」から親たちを遠ざけようとする動きが進んでいます。この「罠」は巧妙で、タチが悪い。

汚れたオムツを処理するのも保育園の役割とする動き。0、1、2歳児を11時間預かることもそうですが、税金を使った政治家の人気取りが、子育てを損な役割、「イライラ」の原因とイメージづけていくのです。

乳幼児は毎日排泄をします。しかも、自分でトイレにいけない。人類はその現実から絶対に「自由」にはなれない。言い換えれば、それが人間を人間らしくする、親身な絆を作るための「負荷」だったのではないか。それを受け入れられない親たちを、福祉と市場原理で増やしていったらどうなるのか。児童虐待過去最多、不登校児の急増、保育士や教師の不足、という結果を見れば明らかなように、「子育て」に関わる「仕組み」が、あっと言う間に崩れていく。そして、結婚しない人、子どもを産まない人が増えていく。

「チルドレンファースト」という本来の人間性、幸福感の牙城が、政治家の嘘、大人の都合、マスコミの怠慢によって壊されようとしている。皮肉にも、その過程で「チルドレンファースト」という言葉が使われる。

運営(延命)を考えれば、その嘘に加担せざるを得ない保育界は、これを続けることで、いよいよ「いい人材」を失っていく。政府の指示に従って「保育科」を作ったものの、学生が集まらず、存続が脅かされている資格ビジネスを維持するために、「保育学者」は保育の多様化、などと言い、預ける親を増やそうとする。「ママがいい!」という子どもの願いを置き去りにした人たちの、持ちつ持たれつの関係が限界を超え、悪循環を生み、冒頭の政府の施策となって現れているのです。

それで、数年生き延びたとしても、子ども優先でない保育施策のツケは、あらゆる分野でこれからの社会を苦しめる。

「ママがいい!」という言葉が、再びその価値を取り戻し「輝かないと」、この国も、欲の資本主義に呑み込まれてしまうでしょう。方法は、あるのです。

「三歳未満児を毎日十一時間」、「標準」と名付けて親から引き離そうとすることは、子どもの権利条約違反です。明らかな「人権侵害」。そのくらいのことは、マスコミも含め、学者や政治家たちはわかっているべき。

なぜ、こんな都知事の記者会見が、ニュースで「普通に」流されるようになってしまったか。ここ二十年間の、国の「子育て支援」施策の積み重ねに問題があったのです。(七冊目の本「ママがいい!」に、条例や閣議決定をあげ、代替案も含めて、詳しく書きました。)

口コミ、SNS、友達リクエストやシェア、ツイッターのフォロー、リツイートでいいのです。「ママがいい!」という幼児たちの言葉を広めて下さい。学校教育が追い詰められ、さすがに流れが変わり始めている気がします。ブログの更新もしています。よろしくお願いします。

(ブログ:http://kazu-matsui.jp/diary2/、ツイッター:@kazu_matsui)

 

「犬も宇宙の一部ですね…」

先日、茨城の(こども園を返上した)幼稚園で講演した時のこと。

子どもを優先に考える園長先生が、しっかり親たちに守られている、そんな園でした。こども園を辞めたのも、子ども主役の風景が、壊れるのを警戒してのことでしょう。

自分の子どもに親身になってくれる人を大切にする、その人が年配であれば、信じて、まずは従う、そんな人類の知恵というか、カタチが垣間見えます。子どもたちを中心に、身近な「伝承」が「社会」をつくる。幼稚園は、村のような単位で社会が整うための「練習」に丁度いい。

園長先生に頼まれていたので、最後に、演奏もしました。音楽で終わるのは、いいものです。講演会というより「祭り」の終わり、子育てが「祈り」へ還っていく感じがします。

しばらくして、講演の感想文が送られてきました。その中に一つ、思わず笑ってしまうのがありました。ああ、こんな風に理解してくれた……。

講演で、いつものように、

「私が一人で公園に座っていれば、変なおじさん。でも、二歳児と座っていれば、『いいおじさん』です。この仕掛けに気づいてください。そして感謝しないと人生の目標がわからなくなる」

と説明します。

私が一番大事に伝えようとしている、古(いにしえ)の法則です。

幼児と過ごしているお母さんたちは、うんうんと頷きます。

素晴らしい仕掛けを、何度も、体験している。知らず知らずのうちに、体験していたことに気づく。ともすれば忙しくて忘れそうになるのですが、幼児の不思議さを実感した、自分だけの秘密を思い出して笑顔になるのです。

横に座っているだけで、宇宙の相対性の中で、二歳児は人間を「いい存在」にする。子育ては、宇宙の「働き」そのものですから、その「働き」に気づくことが、生きる目的でもあるのですね。あとの人生は、時々その思い出に浸って過ごせばいい。

子どもを(孫を)可愛がり、自分の価値が高まっていることをはっきりと意識する。その時期が、人類には必要なのです。関係性の中で生きていることが、嬉しくなる。三歳までに、子どもはすべての親孝行をする、と言いますが、あの教えですね。様々な文化で、この同じ教えが伝えられていた。

不思議な感想文に、こう書いてありました。

自分は一人で散歩しながら、他人の家の形を眺めたり、庭をキョロキョロ覗き込んだりするのが好きで、いつも怪しまれていました。でも、柴犬を飼い始めて、犬を散歩しながら同じことをしても、怪しまれないことに気づいたんです。

犬も宇宙の一部ですね……。

私が講演しているのは、この柴犬を含んだ「仕掛け」の話なんです。

社会学者が見過ごしている、柴犬の「位置」づけの話。芭蕉や世阿弥が愛で、賞賛してきた、日本人には馴染みの深い「仕掛け」の話なんです。その主人公が、〇歳児たち、というのが私の主張です。

言葉を発しない者たちとの会話、たとえそれがお地蔵さんであっても、盆栽であっても、風の音であっても、逝ってしまった両親であっても、その会話が、「生きていること」の大切な一部であって、人生という道はその会話で方向づけられていく。そのことに気づかせるのが〇歳児を育てるという、人間が避けることができない行いで、その人たちの「寝顔」なのだ、と思うのです。

その後、しばらくして子どもが1歳になり、言葉による会話が、少しずつ始まり、言葉の意味よりも、それを発した人の「心持ち」を知ることの方が大切、と教えてくれる。そして、2歳児がとなりに座ってくれる、そんな風に考えています。

(犬の話では、私はインドの野良犬について、随分考えてみたことがあります。足すと一年半くらいインドで過ごしているのですが、夜、吠えるのを聞きながら、同じ空間に彼らがいること、彼らとの関係などを考えたのです。

野良犬はペットではありません。かと言って外敵でもない。大自然と人間社会の中間点でウロウロしている、不思議な位置にいる連中です。彼らは、自由なのだろうか。

昼間はダラダラ、面倒臭そうにしているのですが、夜中に俄然活気づく。強いリーダーに煽られて……。

彼らの存在が、人間と大地の橋渡しをしているような気がする。でも、油断すると喰われるかもしれない……。

明け方、それにカラスの鳴き声と羽ばたきが加わったりすると、謙虚になるべき、自分の位置を感じる。)

「ママがいい!」という幼児たちの言葉を広めて下さい。その言葉に向き合わないと、会話にどんどん深さがなくなっていく。口コミ、友達リクエストやシェア、ツイッターのフォロー、リツイートお願いいたします。

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児童文学と私

 

銀座の教文館で父、松居直の回顧展が始まりました。そのイベントの一つとして、「児童文学と私」という題名で講演をします。4月5日、6時。教文館9階ナルニア国店内 定員:40名 参加費:1000円 申込み電話番号:03-3563-0730(午前10時~午後7時)。配信もされるそうです。ぜひ、お問い合わせください。

 

内容に関しては、ちょっと心配です。

話したいことがあり過ぎる気がする。うまくまとまると良いのですが。思い出語り、のようになるのかもしれません。

 

父の仕事上、児童書の出版社から新刊が出ると献本があり、次々に読んでいった子ども時代は恵まれていました。大人の理屈、まやかしの論法に誤魔化されない視点を、児童文学がくれた。

去年出した七冊目の本、「ママがいい!」もそうです。そう発言しているのは子どもたち。その意図に駆け引きがないから価値がある。その価値、その信頼から、目を背けてはいけない。時に叫びとなってきているこの言葉は、「慣らし保育」という、奇妙で、不可解な舞台に現れる、古(いにしえ)の法則からの抗議なのです。今、日本中あらゆるところで抗議の声が上がっているのに、気づかない、気づこうとしない。

最近の学問や政治、損得勘定が生み出した法則に支配され、その向こうに隠されている、はるかにパワーのあるルールを意識しなくなっている。アスランがそれによって蘇り、チョルベンが体現し、ドレムがノドジロと確認しあった、あの古(いにしえ)の約束事が蘇ってくる順番なのです。

児童文学の作家には、ちょっと変わった人が多いわけです。学校に行けない人。子どもの頃、長く天井を眺めていた人。往々にして会話の次元が普通とは違う、いわゆるグレーゾーンの人と言ってもいいかもしれませんね。世間で活躍する人たちとは一味違う人たちがこの分野では活躍する。

感受性を運命として引き受け、時には仕方なく、あちら側と交信し、慎重に「古の法則」を探る人たち。世間では弱い人に見えても、だからこそ真実が見える人たち。自分の幼児期をそのまま体の中に据えている人たち。

 

特に触れたい本、講演当日、準備してもらおうか、と思う本をリストアップしてみました。

「ママがいい!」の論旨や、三十年間話し続けてきた講演内容、インドに取材したドキュメンタリー映画を支え、十五枚出した自分の音楽アルバムに影響を及ぼした児童文学が、いっぱいある。でも、読んでいない人には通じないかもしれない。こうして、これを書いているだけで、もう自分の世界に行ってしまってる気がします。

でも、会場が、教文館のナルニア国ですから。

この空間は、圧倒的に条件がいいのです。願えば、リストアップした本が揃ってしまう。書いた人たちの魂が、背中を押してくれる。

この場所が選ばれたことに、すでに意味がある気がします。ナルニア国に入れば、そろそろ「児童文学と私」という講演をしてもいい。父と母に感謝です。

三十五年前、義務教育が普及すると家庭崩壊が始まり学校が成り立たなくなる、と本に書きました。

高卒の二割が満足に読み書きができない、三割の子どもが未婚の母から生まれる、そんなアメリカの状況を目の当たりにし、リンドグレーンの「長くつ下のピッピ」、ワイルダーの「農場の少年」、そして「わが魂を聖地に埋めよ」にあるジョセフ大酋長の発言に照らし合わせ、すぐにそう理解したのです。義務教育が人類にとって諸刃の剣だということ。それを書いて日本で話し始めると、保育者たちが、「福祉」もそうです、と強く訴えてきたのです。

欧米の、半数近い子どもが未婚の母から生まれるという状況が、児童文学の世界から見ると、あってはならないこと、に思えた。保育士たちの「施策」に対する憤り、利権争いを繰り返す人たちへの絶望感が伝わってきた。この人たちもまた、子どもたちに教えられた人たちなのだ、と思いました。

声なき声、〇歳児との会話が、自分との会話であり、同時に宇宙との会話でもある。人類を祈りの方角へ導くものだと思うようになったのも、「太陽の戦士」に登場するノドジロ、「カラスが池の魔女」の湿原の老婆、バンビにでてくる「死にゆく枯葉」、メアリー・ポピンズに出てくる窓際の雀たち、に影響を受けたからでしょう。

それに、ガンジーの非暴力、親鸞の他力本願が重なると、絶対的弱者の存在意義が歴然としてくる。三歳未満児との会話を怠ることが、人間性の維持にとっていかに危険か、見えてくる。

ピーターパンの話でも、調子に乗って、自己肯定感で傲慢になる男の子の際どさが、せっかく田園詩的な風景に感動し、立ち去ろうとするフックを立ち止まらせ、毒を仕掛けさせた。一方、フックはハープシコードの名手ですし、物語の中心には、ほぼ神格化に近い「母親」のイメージが主題としてあります。(私が、「ママがいい!」というタイトルの本を出しても、何ら問題ない。☺️)

ジェンダーフリーなどと安易に唱えていると、やがて「ピータパン 」も燃されてしまう気がする。ミロのビーナスも壊さなければならなくなる。そんなことは、人類は絶対しないだろうから、そういう流れはやがて消滅していくのですが、その過程で、陰陽の法則に基づく調和を失い、どれだけ弱者が追い込まれるか、が心配なのです。ナルニア国という小さな本屋さんが、どういう役割を果たすのか。

お爺さんは柴刈りに行って、お婆さんは洗濯に行くのはだめ、みたいな理屈が、教科書には入り込んでいるのです。(子どもたちには、真実の情報を得る異なる経路がたくさんあるので、学校教育など大したことではないのですが、)この手の平等論が、政府の経済政策に隠れ蓑のように利用され、保育施策に名を借りた母子分離が人々の意識を操り始めている。そのことが、欧米を見てしまった私にはかなり怖いし、児童虐待、不登校児が過去最多という報道に、ああ日本もいよいよ、と恐ろしくなります。

以前、ジェンダーフリー的な主張をする絵本を書いた女性との興味深い会話が、ロサンゼルスでありました。

六十年代の人種差別撤廃運動が、女性差別に反対する運動につながっていった中で生まれた、世界的にも有名な絵本なのですが、私が、その流れの先に、これほどまでの家庭崩壊がこの国に起こると知っていたら、この本を作りましたか?、と質問したのです。

その女性が、とても正直で、いい人だと直感したので、訊けたのです。

彼女は、私の言っていることをすぐに理解しました。

しばらくじっと考えて、作らなかったと思う、と静かに言いました。言い訳はしませんでした。その時、私は、児童文学を共有する、古(いにしえ)の法則の側から返事をもらった気がしたのです。この女性の電話番号を私にくれ、訪ねるように言ったのは、父でした。

 

ワイルダーの「長い冬」を読んで、包装紙代わりの新聞紙を、しばらく読まずにとっておくことで簡単に幸せを創造できること、貧しさがその道を照らすこと、をインガルス一家から教わりました。幸せは、「物差し」の持ち方で決まるのであって、格差や損得に関わる問題ではない。その持ち方は、損得勘定から離れた「絆」から得るもの。

ですから、子どもたちは必ず親と一緒に過ごさなければいけない、ということではないのです。それが子どもたちの「願い」だという意識が強く存在していれば、利他の幸福感は「願い」や「祈り」の次元で、より強く育っていきます。家族という形は、手紙一本でも、お互いの「思い」だけでも成り立つ。それを、ケストナーの「飛ぶ教室」から学びました。などなど。

 

今回、内容に触れてみたい本のリストです。

リンドグレーン:長くつ下のピッピ、わたしたちの島で、やかまし村の子どもたち

ワイルダー:長い冬、はじめの四年感、農場の少年

ルイス:ナルニア国物語シリーズ

ケストナー:飛ぶ教室

ザルテン:バンビ、バンビの子どもたち

スピア:カラスが池の魔女

ピアス:トムは真夜中の庭で

中川李枝子:いやいやえん

バリー:ピーター・パンとウェンディ

トールキン:指輪物語

サトクリフ:太陽の戦士

イェップ:ドラゴン複葉機よ 飛べ

ヘップナー:急げ 草原の王のもとへ

そして、たくさんの宮沢賢治、新美南吉、椋鳩十。

好きな本、となるともっとあります。「ちびっこカム」「ムーシカ・ミーシカ」「ながいながいペンギンの話」「龍の子太朗」「わらいねこ」「かえるのエルタ」寺村さんの「王様シリーズ」「点子ちゃんとアントン」「エミールと探偵たち」「二人のロッテ」「アーサーランサムシリーズ」「ドリトル先生シリーズ」「ハイジ」「あしながおじさん」など、など。

二十歳くらいまでは主として児童文学を読んでいた気がします。ある年齢までに読んで、その中から好きなものを、繰り返し読む、それがいいのだと思います。ほぼ実体験として、体の一部になるんですね。物語に入り込まないと読めないのが児童文学の特徴です。ピーターパンが飛べると実感できなければ、読む意味がない。でも、考えてみてください。「千と千尋の神隠し」が、「鬼滅」が来るまで、長い間、興行収益一位だった国です。ドラゴンボールは、心が清くなければ雲に乗れない。日本人は、こちらの方に真実がある、と見抜ける人たちなのです。

「学術的な本」は、まず読みません。一見、真実のように見えても、物差しに誤魔化しがあったり、本能的に実体験の引き出しに入らない。(私の場合は。)出だしがつまらないと入っていけない。

ですから、保育や子育てについて話しながらも、モンテッソリーとか、シュタイナー、とかは知りません。フロイトなんかは、ふーん、そうだろうな、と思う部分はあっても、病的すぎる。(感じがする。)親身な「相談相手を失う手段」くらいにしか思わない。

 

(児童文学ではないですが、以下の四冊も、考える支柱をくれました。)

ブラウン:わが魂を聖地に埋めよ

ヘリゲル:弓と禅

ガンジー:わたしの非暴力

渡辺京二:逝きし世の面影

絵本については、好きだった作品、そして、作者との交流が人生に影響を及ぼした、という視点で語りましょうか。でも、時間があるかな。

こんとあき、かばくん、ぴーうみへゆく、ペニロイヤルのおにたいじ、三匹のやぎのがらがらどん、くろうまブランキー、12のつきの おくりもの、ねずみじょうど、ねこのごんごん、フレデリック、まるのうた、あまがさ、からすたろう、きんいろのしか、こすずめのぼうけん、とべ!ちいさいプロベラき、わにわにのおふろ、

私を孫のように可愛がってくれた人。インドへ呼んだ人。パリで居候させてくれた人。アウシュビッツへ連れて行ってくれた人。ロサンゼルスで俳句の会に入れてくれた人。人生の紆余曲折の度に、絵本関係者に救われていた気がします。

親父の人脈のお陰です。人間は、「自立」なんて出来るはずもない。

 

(衆議院で参考人をした時に読んだ、小野省子さんの詩集も、お配りしようと思います。これは、私のホームページからダウンロードできます。:http://kazumatsui.com/genkou/014.html  省子さん、いつも伴走してくれて、ありがとう。)

そして、作った映像作品と最初のCDは、持参します。

CD「Time No Longer」は1枚目のアルバムで、当時の4大ギタリスト、リー・リトナー、ラリー・カールトン、スティーブ・ルカサー、ロビン・フォード、が参加しています。さて、超難問です。「このアルバムのタイトルは、どの児童文学から来ているでしょうか?」

 

 

DVD作品

 シスターチャンドラとシャクティの踊り手たち ~インドで女性の人権問題で闘う修道女の話~:http://kazumatsui.com/sakthi.html 

一人でカメラを回し、簡易ソフトで編集した作品ですが、第41回ワールドフェスト・ヒューストン国際映画祭、長編ドキュメンタリー部門で金賞を受賞しました。こんな内容です。

南インドのタミルナード州で、ダリット(不可触民)の少女たちを集め、裁縫や読み書き、権利意識について教えているカソリックの修道女が、彼女たちにダンスを教え、カーストや女性差別反対のための公演をしている。それが素晴らしいという友人の話に引き寄せられ、私はそれを映像に残そうとインドへ行きました。

ダリットの少女たちのダンスの美しさ、強さ、潔さに魅了されテープを回し、話を聞き、カースト制がいかに人々を抑圧差別しているかを知りました。最下層の娘と結婚しようとした男が兄弟に殺されるような事件が起こり、カースト内の人に出すコップでダリットにお茶を出したお茶屋さんが、焼き討ちにあったりする。現実に起こっているカースト制度の凄まじさに驚きました。

しかし、私が出会ったダンサーたちは美しかった。「ダンスの素晴らしさ」から「カーストの問題」へとテーマがシフトしかけていた私の視点は、踊り手たちと親しくなるにつれ、「絆」の方に向いていきました。少女たちの村に招待されてその世界に入って行くことによって、再度「人間の美しさ……」に引き寄せられました。

「園長先生と刺しゅう」

保育士は、資格を取る際、「福祉(保育)はサービス、親のニーズに応えよ」と政府の方針を教えられます。経営者の中にも、そう思っている人たちがいる。

これは、体験に基づいていない情報です。

(「情報は知識ではない、体験が知識なのだ」と、アインシュタインが言いました。政府がつくる「仕組み」や高等教育によって、「智の退化」が進んでいる。)

人間を管理しようとする作為的な情報に保育士が支配され、子どもの「願い」、「古(いにしえ)のルール」が見えにくくなっている。優先順位を忘れる人が現れ、保育現場における不信感が広がっている。

共感が遮断され、子どもの気持ちになれる人たちが「子育ての現場」に居づらくなっているのです。その悲しみがネット上の告白から伝わってきます。

保育者養成校では、政府の保育施策における優先順位が、「子育て」のそれと完全にずれていることを学生たちに教えていない。「社会で子育て」という言葉でごまかして「仕組み」の維持を優先している。そこに、園児虐待のような、常軌を逸した行動が起こる原因があるのです。

保育現場は、いまや、多くの子どもにとって生まれて最初の五年間になっています。人類にとって一番大切な、「輝くべき」「驚くべき」「感謝すべき」五年間が、社会が「利他」という人間性を失っていく場所になりつつある。

保育室における心の分断は、親のニーズと子どもたちの願い、その食い違いから起きています。

本来は次元の異なる、あってはならない矛盾の板挟みになった保育士たちの、自分は「どう生きるか」という選択が、「子育て」という最小単位の「社会」に亀裂を生んでいるのです。

 

 

「園長先生と刺しゅう」

全国あちこちに師匠と思っている園長先生たちがいます。先進国社会特有の家庭崩壊の流れを止められるとしたら園長先生たちが鍵を握っている、と思っています。

親が、まだ親として初心者のうちに幼児としっかり出会わせることが一番自然で効き目のある方法です。長く、こういう講演をしていると、達人のような園長先生に出会うのです。

 

もう三十年前になるかもしれません。こんな人に会い、こんな文章を書きました。一見無駄のように思える「刺しゅう絵」という作業が、親たちの人生に深みを与え、その感性を豊かにする。こういう園長たちが大地の番人のように、居た。

 

先日(注:30年前)、横浜南区のあゆみ幼稚園で講演しました。

講演の一週間前に、30年間の園の歴史をまとめた一冊の本が送られてきました。「育ちあい」という本でした。感動しました。

母親たちに毎年、園長先生が子どもが描いた絵を一枚選んで、その絵を元に、刺しゅう絵を作らせているのです。布を一枚渡し、子どもの絵を丁寧にトレースし、布の上に写しとり、そっくりそのままに刺しゅう絵に刺してゆくのです。

園長先生は言います。

「子どもがどこからパスをスタートさせたかを読みとり、パスの動きを追いながら一針一針進めます。そして約一ヶ月をかけて完成し、原画と共に園に提示して家族そろって鑑賞しあいます。もちろん祖父母のみなさんも大勢・・・」

子どもたちが10分ほどで描いた絵でしょう。

普通だったら幼稚園から持って帰ってきた絵をちょっと眺めて、ああ上手だね、と誉めてやって終わってしまったことでしょう。その絵を母親が何日もかけて同じ大きさの刺しゅうに仕上げてゆくのです。

本には、子どもの絵と母親の刺しゅうが上下に並べられたカラーのページがあって、それは見事でした。筆先のかすれているところまでちゃんと糸で表現してあるのです。

そして、その絵の下に、母親たちの感想が載っていました。私はそれを読んで、園長先生の達人ぶりに驚かされました。

 

「『やった!やった! ああよくやった』13日午前1時30分、一人で声をだしてしまいました。この4~5日、深夜に集中できました。子どものために、こんなに一生懸命になれることって何回あるでしょうか。さあ、今夜はゆっくり・・・」

「鳥の後ろ足の部分は主人が刺してくれました。刺し終えた時は、主人と二人で思わず『できたね』と声をかけあいました。いい思い出になると思います。」

「どんな巨匠が描いた絵より『ステキ、ステキ』と自画自賛しています。刺しながらどんどん絵の世界に引き込まれていきました。試行錯誤しながら作る過程は、まるでキャンバスに絵の具をおいていく楽しさでした。」

「できました! 3枚目です。もう最高です。産みの苦しみも赤ちゃんの顔を見たとたん忘れてしまう、今、そんな気持ちです。息子は左利き、私は右利き、同じような線にならず何回もほどきました。もうこの子のために、こんなに長い時間針を持つことはないだろう・・・、そう思いながら刺しました。今、一つのことをやり終えた充実感と三人分無事終えた安堵感でとても幸せです。」

「『お母さん、まだ、こんなところなの? ボクなんて、サッサと描いたんだよ』と息子が横目でチラリ。私だってどんなにサッサとやりたいか・・・。眠い目で遅くまで刺し、目を閉じると絵の線が、はっきり浮かんで夢にまででてくるのです。やっと終わった!という喜びと、もうこれで最後なのだという寂しさと・・・。この素晴らしい刺しゅうを持っている子どもたちは幸せだと思います。」

「途中でめげそうになった時、主人が少し手伝ってくれ、その姿を見て子どもも目茶苦茶ではありますが『手伝っておいたよー』と。よい思い出と、よい記念ができました。」

「この一ヶ月睡眠時間を削り、家族には家事の手抜きに目をつぶってもらい本当に大変でした。でも苦労した分だけ満足感も大きく主人から『ご苦労さま!』と声をかけられ、こどもからの『ママとても上手だよ。そっくり!』のひとことでやってよかったと思いました。」

「先輩のお母さまが相談にのってくださり、前年度の作品を参考にと貸してくださいました。『私だって初めの時は、同じように先輩にしていただいたから』のことばに胸が熱くなる思いでした。くじけそうになった時に応援してくれた主人と子どもたちにも感謝の気持でいっぱいです。」

「一針一針刺していると小さな針先から子どもの気持が伝わってくるのです。こんな素敵な、あたたかい気持との出会いができた刺しゅうに感謝します。」

「でき上がりました。目の疲労を感じながらも心は軽やかです。刺しゅうをしていくうちに、だんだんとこの絵が好きになっていくのです。とても不思議なことでした。いとおしいとまで思うようになりました。」

「すてきな絵を描いてくれた娘に・・・。家事を協力してくれた主人に・・・。アドバイスや励ましをくれた友達に・・・。何よりこの機会を与えてくれたあゆみ幼稚園に心から感謝を込めて。」

 

人間社会を家庭崩壊の流れから救う鍵がここにある。教育論や社会論、子育て論や福祉論、保育論を吹き飛ばす、すべてがある。

母親たちを動かすのは園長先生の人柄でしょうか。(祖母のような方です。)

 

園長先生にたずねました。「強制的に全員にやらせるのは大変でしょう」

すると園長先生は「いえいえ、強制じゃないんですよ。やりたい人だけなんです。でも100%志願なんです。それが嬉しいです」

私はハッとしました。そうなんだ。まだ日本の母親たちはすごいんだ。こんな園長先生の心を生き続けさせているのは、それにしっかり応えている母親たちなんだ。

「もう30年もやっているんですが、最近になって母親たちの間に、刺しゅうのやり方を伝えるノートが代々受け継がれていることを知ったんです。先輩の母親から、本当に詳しく、少しずつ書き加えていったんでしょうか。このクレパスの赤い色を出すには、何々社製の何番の糸がいいとか、かすれている部分をうまく表現するテクニックとか色々あって、そのノートが伝承されていくんです。子育てもやっぱり伝承ですから、先輩から次の世代のお母さんへ、受け継がれてゆく大切なもの、気持ち、がその中にあるような気がして嬉しかったんです」

 

わが子の絵を刺しゅう絵にする。

この一見意味のないように思える妻の無償の努力を傍らで見つめる夫。自分の描いた絵が時間をかけて少しずつなにかとても立派なものになってゆくのを、わくわくしながら見つめる子ども。一枚の刺しゅうを囲んだ家族の心の動き。

 

自分の手で再現されてゆくわが子の絵を見つめ、針を運びつづける母親の心。針の先に見えてくる絆・・・。

将来この一枚の布を見るたびに、母親の心に一ヶ月の凝縮された過去の時間がよみがえるのでしょう。

こんな課題を母親に与えてくれる園長先生がいた。

これは理論ではないな、と思いました。

 

子育ての「負担」を軽くしようと、延長保育やエンゼルプランを園に押し付けてくる文部省や厚生省の役人には、こういう大自然の摂理は理解できない。

 

発想が全然違う。

幸福感の次元が違う。

宇宙に対する見方が違う。

魂に対する理解度が違う。

 

園長先生が、幼児を見つめながらこれほどまでに心眼を磨いて真理を見ている。

親たちに「親」というひとつの形を舞わせている。その様式美に夫と子どもがちゃんと気づく。

「かたち」から入る日本の文化の真髄がここにあるのでしょう。理屈ではなく、かたちなのです。

人生は出会いだと言います。こういう人に出会える親たちの幸運。子どもたちの幸運。私の幸運。

さっそく次の日、鹿児島でこの話を園長先生たちにしました。

 

「すごい!」

「鳥肌がたつわ」

「私も頑張らなきゃ!」

 

口コミやSNSで、「ママがいい!」に書いた子どもたちの願いが少しずつ、広がっている気がします。保育士会からもっと聴きたい、と講演依頼が来ます。

マスコミも、保育施策に対する見方が変わってきているように思えます。義務教育における教師不足と、不登校児の異様な増えかたが、もう待ったなし、という感じです。やっと、みんな幼児の願いに耳を傾け始めている。

幼児期の体験の重要性が言われますが、昨今の母子分離(広く、幼児と過ごす時間の欠如)が仕組みによって行われていることを考えると、様々な形で、「幼児を体験すること」の方が重要になってきていると思います。

小学生、中学生から「幼児と過ごす」機会を増やしていく。やり方については、「ママがいい!」に実践例を書きました。

 

「ママがいい!」と、言っているのは、私ではありません。子どもたちなのです。その言葉に素直に反応していけば道筋は整うのです。

 今、世界中で、人間社会の土台になっていた「共感」の断絶が、進められている。

どんなに予算を使っても、保育も学校も、児相も養護施設も人材的に限界が来ています。共感に幸せを感じる人間の本能が、「社会で子育て」、実際は「仕組みで子育て」という学者(強者)の言葉に背を向け始めている。

子育てを、親に返していくしかないのです。それが、子どもたちの願いです。

FBの友達リクエスト、シェア、ツイッターのフォロー、リツイートなど、どうぞよろしくお願いします。このままでは、学校教育が持ちません。子どもたちが導き、その存在が社会を鎮める。その感覚を取り戻せばいいのだ、と強く感じています。

ブログの更新もしています。

(ブログ:http://kazu-matsui.jp/diary2/、ツイッター:@kazu_matsui)

児童文学と私 (教文館、ナルニア国での講演です)

4月5日、午後6時から、銀座の教文館ナルニアで講演します。3月15日から4月12日まで行われている父、松居直回顧展の一部です。

「児童文学と私」というタイトルで、私の思考、「ママがいい!」を書いた土台にある児童文学や絵本について話してみようと思います。初めての試みですが、楽しみです。

https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=pfbid0UZQG2hjMBi6NRai22mzxiNecV3KJSYp2iqTZQ9KsrpsJ7ppMKxHHAAAxugY4CnDtl&id=100057827763167

 

 

松居直追悼展関連イベント

 

松居和さん(松居直氏次男)講演会

“児童文学と私 ~考える道標としての児童文学~”

アメリカの音楽界で尺八奏者として多数のハリウッド映画に参加、プロデューサーとして100枚近いアルバムを制作し、同時に日本で長年教育・保育の問題で発言してきた、松居直氏の次男・松居和さんに、児童文学から学んだことや考え方の秘密についてお話をしていただきます。

また、今回の追悼展では息子にとっての父・松居直はいかなる存在だったのか、和さんの子どもの頃の読書やその後の人生にどのような影響を与えたのかなど、ご家族から見た松居直氏の姿もうかがってみたいと思います。

皆さま、ぜひご参加ください。

日時:2023年4月5日(水) 午後6時~7時半

 

※当日は午後5時までの短縮営業となります。

受付は5時40分頃からです。

会場:教文館9階ナルニア国店内

定員:40名(大人対象・託児なし)

参加費:1000円 ※現金のみ、当日受付でお支払いください。

●お申込み方法●

参加ご希望の方はお電話でナルニア国までご連絡ください。

申込み電話番号:03-3563-0730(午前10時~午後7時)

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【講師紹介:松居和(まつい・かず)】

1954年東京に生まれる。20歳でインドに行き、シルクロードを1年半旅する。カリフォルニア大学民族芸術科卒業。スピルバーグ監督の太陽の帝国ほか、多数のアメリカ映画に尺八奏者として参加。

日本では保育・教育関係の講演を行っている。元埼玉県教育委員長。7冊目の著作『ママがいい!』がアマゾンのジャンル別で1位に。

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