
AI(人工知能)やチャットGPTに関するニュースを見ながら考えます。
将棋や囲碁では、人間の思考力のみならず想像力さえも上回っているようで、千年先を打っている感じがする、という棋士の話を聞いた時は、ロマンを感じました。人間が千年かかる試行錯誤を超速でやってしまうらしい。
勝ち負けの世界では、いつの間にか、AIから人間が学ぶ、という道筋ができている。それに経済活動が重なったらどうなるか。
チャットGPTのように無料で誰でも相談できるアプリが登場すると、より多くのケーススタディがインプットされる。いまこの瞬間にも、眠っている間にも、精度というか、完成度ではないらしいのですが、その強さ、許容範囲が増している。
どの程度「頼れる」ようになるのか。いや、どの程度「頼る」ようになるのか。
「頼れる」と「頼る」の関係が微妙です。AIが、既存の情報、プラス「シミュレーション」によって成長し続ける特性が、諸刃の剣となる。
保育と子育ての関係を思い出します。市場原理の誘導で、常識をすて、仕組みを過信し頼ることで、仕組み自体が崩壊に向かう。頼れないものに「頼る」、まさに、その只中に私たちはいます。
ある一線を超えてしまうと、仕組みによって手にした利権を手放せなくなる。すると、強者に有利な格差社会へとますます進化していく。子どもたちの存在を傍に置いて、夢を(欲を)持ちなさいという教育の進言に身を任せ、格差が広がっていく。
いま、世界中に存在する独裁的な政権と、武器の進化のスピードを考えると、恐ろしい結末しか見えてこない。それでは、困る。
もう一度、視線を赤ん坊、私たちを全身、全霊で信じている人たちに戻さなければなりません。この人たちの「働き」で、利権の追求から意識を一度離さないと、と思うのです。(「ママがいい!」、図書館で順番待ちだそうです。園でも、回し読みが始まっています。)

AIやチャットGPTにおける言語をまたぐ利便性は、国境を超えて守り合う新たなネットワークになる可能性を持っている。先進国の物差し主体ではない、「学問」主体ではない、体験的な知恵の源泉が総意として生まれるかもしれない。そんな希望もあるのです。
が、一方で、声で答えてくれる臨場感は、「神との会話」に似た錯覚を起こさせる。これが、「欲の資本主義」に悪用されたら、と思うと、軽い恐怖を感じます。
AIが誘う、人類未体験の空間に、どこまで入り込むのが賢明なのか。空間の奥の本棚に、聖書や法華経だけでなく、論語や徒然草、宮沢賢治は置いてあるのか。その壁には、能面や伎楽の面を架かっているのか、窓際に、Katina人形は並んでいるのか。
情報量がすごいらしい。
でも、例えば、「人工知能」の範疇で、先日都知事が記者会見で言った、保育料を無償にすれば「子どもが輝く」という、実体験の不明な戯言が、表立った反論が起きない論旨、ロジックとして通っているとしたら……、最近の国の施策に見られる、0、1、2歳の願いが視界から消えた、偏った思考経路が成立していたらどうなるのだろう……、そんなことも考えるのです。
こんな小説を書いてくれ、と頼むと、文体や展開まで真似て書いてくれるという。そこまで進んだ人工知能に、0歳児を保育園に預けることをどう思いますか?、と尋ねたら、どう答えるのか。その答えが、どういう価値を持つようになっていくのか。
人間同士が相談しあっても、答えは一つではない。しかし、AIがAIであるゆえに、科学的に正しいこと、のような気分になって行ったら。政府が、「専門家」の意見を聞いたように、そこに正しさを求めたら。
まあ、相談相手としては、AIは、それほど薄っぺらくはない、と考えています。だから、専門家は恐れているのでしょう。
人間同士なら、その日の気分によって、相談した人の目つき、顔つきによって、さらに、お互いの立場や関係によって、答えは違います。だからいいのです。人間は五感で会話をする。人間は、「祈り」 のグレーゾーンを持っていて、そこにしばしば逃げ込むことができる。
そのグレーゾーンには、幼児期の泣き笑いや、人形、お地蔵様やトトロ、入学式、子守り唄が住んでいて、実は、意外と頼れる居場所で、亡くなった人も顔を出したりする。
グレーゾーンは、グレーだから価値がある。。
(思わずここで、だからガンダルフは、灰色だった、the Greyだったと書きたくなるのですが、飛び過ぎですかね。)
待機児童がいなくなったことを『成果』とする政府の姿勢、女性の就労率のM字型カーブがなくなることを「いいこと」とするマスコミの迷走、母子分離を仕組み論で肯定しようとする保育学者たちの認識、そうした諸々が、人間の思考に代わる気配を見せている「プログラム」に、正論として、または一般論として刷り込まれていたら、人類は大変な過ちを犯すことになる。
幼児たちの私たちへの信頼が、生きる主たる動機として考慮されていなかったら、私たちは、混沌への道を歩み始めることになる。
ああ、たぶん0、1、2歳児なのです、AIの対極に位置するのは。
人間は子どもを授かることで、自由を奪われ、そこに選択肢がないことに感謝する。
その、見返りを求めない道筋が、見失われつつあるのです。一緒に育てる、という機会を奪われ、結婚しようとしない若者が増加し、お互いの人生が重なっていかない。夫婦だけでなく、共に「育てる」ことの価値が「子育ての社会化」によって、下がり続けている。
この危険性を次世代に指摘しておかないと、と思います。きちんと説明すると結構理解する。(中学生は理解してくれる。http://kazumatsui.m39.coreserver.jp/kazu-matsui.jp/?p=726)
子育てを幸せと感じる道筋が一つの人生の形だという情報を、筋道を立てて、魅力的に次世代に説明し、なるべく体験させておくことが、この時代に生まれた私たちの責任です。
説明の仕方にはいろいろあって、「トトロ」や「千尋」も頑張っていますし、ドラゴンボールも、心が清くないと雲にも乗れない、と警告する。流行り歌の歌詞にも、いい動きを感じます。私が知らない分野で、その責任を果たそうとしている人たちがたくさんいるのがわかる。密かに、自浄作用は働き始めている。みんな気づき始めている。
私は、端的に、直接的に、幼稚園や保育園における「保育体験」を勧めています。小学五年生くらいから始めて、高校卒業くらいまで、毎年夏休みに三日間くらい、幼稚園、保育園で過ごす。それを続けて、親になった時に再び、というのが、いいのです。これができれば、人類の進化に影響を及ぼす。「持続性」を再び手にすることができる。
幼稚園や保育園にはそれほどの、可能性と役割があると思っています。
これを書いている時、ニューヨークのライターから電話インタビューの申し込みが飛び込んで来たのです。
ジョニ・ミッチェルの本を書くという。私は、ジョニのDog eat dog(共食い)で尺八を吹いていて、「エチオピア」という曲。人間が作り出す「飢餓」を呪文のように表現し、告発する一風変わった曲です。トーマス・ドルビーも加わっている。
AIを考えていると、ジョニについて、ニューヨークから質問が来る。人生で稀にある、不思議なバグ、マトリックス的な出来事(ハプニング)を感じます。三十八年前に吹いた音が、ネット上でまだ生きている。
ジョニについて聴かれ、未知の領域、でも、そこにそれがあることを何万年も知っていた、そんな所に連れて行ってくれるから、みんなジョニの舟に乗りたがる、と話しました。
音楽関係者、スタジオのアシスタントなど、ミュージシャン仲間でも、ジョニのアルバムで吹いたと言うと、えーっと、驚かれ、羨望の眼差しで見られました。人生がワンランク上がったような、魔法使いに認められたような、奇妙な感じがする。音の重ね方が常識を越えていて、同時に、絶対的な感じがするんですね。
インタビューの前に辞書を調べていたら、「Absolute」という言葉に行き着きました。ジョニはAbsoluteなんだよ、と言ったら、ニューヨークでライターが笑いました。電話の向こう、海の向こうで頷いた気配がした。
AIの対岸にいる人かもしれない、ジョニは。とふと思いました。
古(いにしえ)の呪文を憶えている人。
私の尺八もそうです。

「ママがいい!」に保育体験について実例をあげ、園長先生たちが作ったマニュアルへのリンクも貼ってあります。ぜひ、読んでみてください。この繋がりを、薦めてください。
親を育てる役割を、子どもたちに返していけばいい。
リツイートとシェアで流れが変わる気もします。ブログの更新もし、発信も続けます。「ママがいい!」、また、Amazonのジャンル別で一位になっているそうです。コロナで滞っていた集まりが再開し、講演が少しずつ増えています。伝わりそうです、子どもたちの願いが……。
よろしくお願いいたします。
(ブログ:http://kazu-matsui.jp/diary2/、ツイッター:@kazu_matsui。講演依頼は、matsuikazu6@gmail.comまでどうぞ。)













