規制緩和の最終ライン

「こんな報道がされてしまいました。今後どうなっていくんでしょうか。子どもの気持ちを誰も考えない。現場はどうしたらいいのでしょう」

というメッセージと共にリンクが届きました。

https://news.yahoo.co.jp/articles/79b585ee916db4647fc94d473c67ea91c771a771

(政府は今月末にまとめる少子化対策の「たたき台」に、全ての子育て家庭が親の就労状況を問わず保育所を利用できる制度を創設し、出産後の「育児休業給付金」を受け取れる非正規労働者を拡大するとの内容を盛り込む方向で調整に入った。複数の関係者が22日、明らかにした。)

異次元の少子化対策は、結局、この方向に動く。一度超えると元に戻れない、規制緩和の最終ライン。間に合わなかった、止められなかった、という虚しさがつのります。

記事にある「無園児」という言葉に、失敗を重ねた雇用労働施策の本心が現れます。彼らの頭の中では、幼稚園児も無園児。無償化で公立の幼稚園が一気に消えていったことを思い出します。親たちに必要な負荷をかけていた幼稚園が、行事が多い、と避けられて、廃園になっていくのでしょう。もしくは、意識の高い親たちが集まって、頑張って、孤島のように守ってくれるのでしょうか。

「ママがいい!」という言葉と真剣に向き合う人が、これから、何かをきっかけに増えるでしょうか。

いずれにしても、その先にある義務教育が諸刃の剣になっていく。

 

保育をビジネスと考える業者と、大学や専門学校を「資格ビジネス」と見なし始めた「保育学者」、全員保育園で預かることを提唱した「社会学者」や経済財政諮問会議が施策を動かしているのか。それとも単純に、集票に幼児を利用する政治家たちの自分勝手な手法でしょうか。自分が選挙に受かるために、引き受けられないと知りながら、引き受ける。

過去十五年、選挙のたびに、与党も野党も母子分離を、宣伝カーのスピーカーで、「待機児童をなくします」と票を得るために進めてきたのですから、「保育は成長産業」「福祉はサービス」と誤魔化した閣議決定を今更、引っ込められない。現場が疲弊し、保育も教育も人材が枯渇しているのに、「全ての子育て家庭が親の就労状況を問わず保育所を利用できる制度」などと、言って、子どもたちの願いを踏みにじる。利用しているのは親たちではなくて、子どもたちなのです。その気持ちを裏切ることが、反作用として、どのように社会に返ってくるか理解しない、しようとしない。

今年になって、二人目(第二子)から保育料をタダにする、そうすれば「子どもが輝く」、「チルドレンファースト」と小池都知事が記者会見で言った。

その言葉に、思考経路を蝕まれた社会を感じるのです。

体験に基づかない「情報」のせいでしょうか。想像力の著しい退化が見える。

何よりも、その論法が「通る」と、知事は思っている。

そして、それが通りそうな社会になっている。そこが問題なのです。

 

幼児の「働き」を理解する人たちが、再び一定数に達してこないと、この流れは変えられない。「ママがいい!」、ぜひ、読んでみてください。周りに薦めてください。この国も、戻れない一線を越えようとしているのです。

三歳以上児はすでに無料で、都知事の「チルドレンファースト」は三歳未満児が対象。

この年齢の人間との会話は、人間社会が成り立たつか、成り立たないか、という瀬戸際の体験、学びです。その原則を傍に置いても、明らかに保育の質が規制緩和で崩れ、園児虐待が問題視され、保育士に続いて、教員のなり手が足りず、学校が機能不全に陥っているときに、さらなる母子分離を進めようとする。一体、この人たちは何を考えているのか。

俯瞰的に見れば、この、子育てに値段をつけるやり方は、アダム・スミスが言っていた、損得で不安を煽りネズミ講のねずみを増やす「資本主義」のエネルギー源、誘導だと思います。

金額に換算できない価値観から、人々を遠ざけようとする。

体験としての子育ての価値が下がり、実の両親に育てられる子どもが少数派になっている欧米社会、その犯罪率の高さを見れば、この「不満」と「不安」で競争に駆り立てるやり方の先に、どういう社会が来るかは一目瞭然です。

欧米の幸福度の測り方は驚くほど偏っている。幸福度が高いと言われるフィンランドの犯罪率は日本の20倍ですし、徴兵制もある。http://www.anzen.mofa.go.jp/m/mbcrimesituation_169.html  私は徴兵にかかる年齢ではありませんが、子どものことを考えると、そういう国には住みたくない。20倍の犯罪率、若者の麻薬汚染率などは、年齢を超えて、あらゆる人々の幸福度に関連してくるはず。子どもや孫との関係が維持されていれば、そうなる。

「平等」という言葉が、 人々を競争に駆り立てます。

欧米社会における「平等」は「機会の平等」(equal opotunity)であって、強者が勝つための免罪符。そこから、平等も調和も生まれない。「自由と平等」を掲げるアメリカで、5パーセントの人が九割の富を握り、極端な富の偏りが過剰な分断と断絶を生んでいるのはご存知の通りです。去年から今年にかけて、四人以上が殺傷される「乱射事件」が、一日平均二件起こっている。人種偏見に基づくヘイトクライムの増え方は尋常ではない。大人たち(強者たち)が、自分たちの自由と平等を掲げ、乳幼児たちの価値から目を逸らしていったことが根底にあるのです。自由と平等という利権(りけん)を争う過程で、「利他」の幸福論を手放していった。

人間は、公平に、幸せを手にする道筋を与えられている。

それに気づくために、幼児たちが存在する。彼らの、大人たちから平等に自由を奪う「働き」が、社会に、モラルや秩序を生んできた。そう考えると、三割から六割の子どもが未婚の母から生まれるという欧米の数字は、もはや修復不可能とさえ思えます。日本は、まだそこまでは行っていないのに、「欧米では」という言葉を掲げる人たちがいる。

最近、日本でも急速に、「平等」を目指すことで、幼児たちの「働き」から親たちを遠ざけようとする動きが進んでいます。この「罠」は巧妙で、タチが悪い。

汚れたオムツを処理するのも保育園の役割とする動き。0、1、2歳児を11時間預かることもそうですが、税金を使った政治家の人気取りが、子育てを損な役割、「イライラ」の原因とイメージづけていくのです。

乳幼児は毎日排泄をします。しかも、自分でトイレにいけない。人類はその現実から絶対に「自由」にはなれない。言い換えれば、それが人間を人間らしくする、親身な絆を作るための「負荷」だったのではないか。それを受け入れられない親たちを、福祉と市場原理で増やしていったらどうなるのか。児童虐待過去最多、不登校児の急増、保育士や教師の不足、という結果を見れば明らかなように、「子育て」に関わる「仕組み」が、あっと言う間に崩れていく。そして、結婚しない人、子どもを産まない人が増えていく。

「チルドレンファースト」という本来の人間性、幸福感の牙城が、政治家の嘘、大人の都合、マスコミの怠慢によって壊されようとしている。皮肉にも、その過程で「チルドレンファースト」という言葉が使われる。

運営(延命)を考えれば、その嘘に加担せざるを得ない保育界は、これを続けることで、いよいよ「いい人材」を失っていく。政府の指示に従って「保育科」を作ったものの、学生が集まらず、存続が脅かされている資格ビジネスを維持するために、「保育学者」は保育の多様化、などと言い、預ける親を増やそうとする。「ママがいい!」という子どもの願いを置き去りにした人たちの、持ちつ持たれつの関係が限界を超え、悪循環を生み、冒頭の政府の施策となって現れているのです。

それで、数年生き延びたとしても、子ども優先でない保育施策のツケは、あらゆる分野でこれからの社会を苦しめる。

「ママがいい!」という言葉が、再びその価値を取り戻し「輝かないと」、この国も、欲の資本主義に呑み込まれてしまうでしょう。方法は、あるのです。

「三歳未満児を毎日十一時間」、「標準」と名付けて親から引き離そうとすることは、子どもの権利条約違反です。明らかな「人権侵害」。そのくらいのことは、マスコミも含め、学者や政治家たちはわかっているべき。

なぜ、こんな都知事の記者会見が、ニュースで「普通に」流されるようになってしまったか。ここ二十年間の、国の「子育て支援」施策の積み重ねに問題があったのです。(七冊目の本「ママがいい!」に、条例や閣議決定をあげ、代替案も含めて、詳しく書きました。)

口コミ、SNS、友達リクエストやシェア、ツイッターのフォロー、リツイートでいいのです。「ママがいい!」という幼児たちの言葉を広めて下さい。学校教育が追い詰められ、さすがに流れが変わり始めている気がします。ブログの更新もしています。よろしくお願いします。

(ブログ:http://kazu-matsui.jp/diary2/、ツイッター:@kazu_matsui)