児童文学と私

 

銀座の教文館で父、松居直の回顧展が始まりました。そのイベントの一つとして、「児童文学と私」という題名で講演をします。4月5日、6時。教文館9階ナルニア国店内 定員:40名 参加費:1000円 申込み電話番号:03-3563-0730(午前10時~午後7時)。配信もされるそうです。ぜひ、お問い合わせください。

 

内容に関しては、ちょっと心配です。

話したいことがあり過ぎる気がする。うまくまとまると良いのですが。思い出語り、のようになるのかもしれません。

 

父の仕事上、児童書の出版社から新刊が出ると献本があり、次々に読んでいった子ども時代は恵まれていました。大人の理屈、まやかしの論法に誤魔化されない視点を、児童文学がくれた。

去年出した七冊目の本、「ママがいい!」もそうです。そう発言しているのは子どもたち。その意図に駆け引きがないから価値がある。その価値、その信頼から、目を背けてはいけない。時に叫びとなってきているこの言葉は、「慣らし保育」という、奇妙で、不可解な舞台に現れる、古(いにしえ)の法則からの抗議なのです。今、日本中あらゆるところで抗議の声が上がっているのに、気づかない、気づこうとしない。

最近の学問や政治、損得勘定が生み出した法則に支配され、その向こうに隠されている、はるかにパワーのあるルールを意識しなくなっている。アスランがそれによって蘇り、チョルベンが体現し、ドレムがノドジロと確認しあった、あの古(いにしえ)の約束事が蘇ってくる順番なのです。

児童文学の作家には、ちょっと変わった人が多いわけです。学校に行けない人。子どもの頃、長く天井を眺めていた人。往々にして会話の次元が普通とは違う、いわゆるグレーゾーンの人と言ってもいいかもしれませんね。世間で活躍する人たちとは一味違う人たちがこの分野では活躍する。

感受性を運命として引き受け、時には仕方なく、あちら側と交信し、慎重に「古の法則」を探る人たち。世間では弱い人に見えても、だからこそ真実が見える人たち。自分の幼児期をそのまま体の中に据えている人たち。

 

特に触れたい本、講演当日、準備してもらおうか、と思う本をリストアップしてみました。

「ママがいい!」の論旨や、三十年間話し続けてきた講演内容、インドに取材したドキュメンタリー映画を支え、十五枚出した自分の音楽アルバムに影響を及ぼした児童文学が、いっぱいある。でも、読んでいない人には通じないかもしれない。こうして、これを書いているだけで、もう自分の世界に行ってしまってる気がします。

でも、会場が、教文館のナルニア国ですから。

この空間は、圧倒的に条件がいいのです。願えば、リストアップした本が揃ってしまう。書いた人たちの魂が、背中を押してくれる。

この場所が選ばれたことに、すでに意味がある気がします。ナルニア国に入れば、そろそろ「児童文学と私」という講演をしてもいい。父と母に感謝です。

三十五年前、義務教育が普及すると家庭崩壊が始まり学校が成り立たなくなる、と本に書きました。

高卒の二割が満足に読み書きができない、三割の子どもが未婚の母から生まれる、そんなアメリカの状況を目の当たりにし、リンドグレーンの「長くつ下のピッピ」、ワイルダーの「農場の少年」、そして「わが魂を聖地に埋めよ」にあるジョセフ大酋長の発言に照らし合わせ、すぐにそう理解したのです。義務教育が人類にとって諸刃の剣だということ。それを書いて日本で話し始めると、保育者たちが、「福祉」もそうです、と強く訴えてきたのです。

欧米の、半数近い子どもが未婚の母から生まれるという状況が、児童文学の世界から見ると、あってはならないこと、に思えた。保育士たちの「施策」に対する憤り、利権争いを繰り返す人たちへの絶望感が伝わってきた。この人たちもまた、子どもたちに教えられた人たちなのだ、と思いました。

声なき声、〇歳児との会話が、自分との会話であり、同時に宇宙との会話でもある。人類を祈りの方角へ導くものだと思うようになったのも、「太陽の戦士」に登場するノドジロ、「カラスが池の魔女」の湿原の老婆、バンビにでてくる「死にゆく枯葉」、メアリー・ポピンズに出てくる窓際の雀たち、に影響を受けたからでしょう。

それに、ガンジーの非暴力、親鸞の他力本願が重なると、絶対的弱者の存在意義が歴然としてくる。三歳未満児との会話を怠ることが、人間性の維持にとっていかに危険か、見えてくる。

ピーターパンの話でも、調子に乗って、自己肯定感で傲慢になる男の子の際どさが、せっかく田園詩的な風景に感動し、立ち去ろうとするフックを立ち止まらせ、毒を仕掛けさせた。一方、フックはハープシコードの名手ですし、物語の中心には、ほぼ神格化に近い「母親」のイメージが主題としてあります。(私が、「ママがいい!」というタイトルの本を出しても、何ら問題ない。☺️)

ジェンダーフリーなどと安易に唱えていると、やがて「ピータパン 」も燃されてしまう気がする。ミロのビーナスも壊さなければならなくなる。そんなことは、人類は絶対しないだろうから、そういう流れはやがて消滅していくのですが、その過程で、陰陽の法則に基づく調和を失い、どれだけ弱者が追い込まれるか、が心配なのです。ナルニア国という小さな本屋さんが、どういう役割を果たすのか。

お爺さんは柴刈りに行って、お婆さんは洗濯に行くのはだめ、みたいな理屈が、教科書には入り込んでいるのです。(子どもたちには、真実の情報を得る異なる経路がたくさんあるので、学校教育など大したことではないのですが、)この手の平等論が、政府の経済政策に隠れ蓑のように利用され、保育施策に名を借りた母子分離が人々の意識を操り始めている。そのことが、欧米を見てしまった私にはかなり怖いし、児童虐待、不登校児が過去最多という報道に、ああ日本もいよいよ、と恐ろしくなります。

以前、ジェンダーフリー的な主張をする絵本を書いた女性との興味深い会話が、ロサンゼルスでありました。

六十年代の人種差別撤廃運動が、女性差別に反対する運動につながっていった中で生まれた、世界的にも有名な絵本なのですが、私が、その流れの先に、これほどまでの家庭崩壊がこの国に起こると知っていたら、この本を作りましたか?、と質問したのです。

その女性が、とても正直で、いい人だと直感したので、訊けたのです。

彼女は、私の言っていることをすぐに理解しました。

しばらくじっと考えて、作らなかったと思う、と静かに言いました。言い訳はしませんでした。その時、私は、児童文学を共有する、古(いにしえ)の法則の側から返事をもらった気がしたのです。この女性の電話番号を私にくれ、訪ねるように言ったのは、父でした。

 

ワイルダーの「長い冬」を読んで、包装紙代わりの新聞紙を、しばらく読まずにとっておくことで簡単に幸せを創造できること、貧しさがその道を照らすこと、をインガルス一家から教わりました。幸せは、「物差し」の持ち方で決まるのであって、格差や損得に関わる問題ではない。その持ち方は、損得勘定から離れた「絆」から得るもの。

ですから、子どもたちは必ず親と一緒に過ごさなければいけない、ということではないのです。それが子どもたちの「願い」だという意識が強く存在していれば、利他の幸福感は「願い」や「祈り」の次元で、より強く育っていきます。家族という形は、手紙一本でも、お互いの「思い」だけでも成り立つ。それを、ケストナーの「飛ぶ教室」から学びました。などなど。

 

今回、内容に触れてみたい本のリストです。

リンドグレーン:長くつ下のピッピ、わたしたちの島で、やかまし村の子どもたち

ワイルダー:長い冬、はじめの四年感、農場の少年

ルイス:ナルニア国物語シリーズ

ケストナー:飛ぶ教室

ザルテン:バンビ、バンビの子どもたち

スピア:カラスが池の魔女

ピアス:トムは真夜中の庭で

中川李枝子:いやいやえん

バリー:ピーター・パンとウェンディ

トールキン:指輪物語

サトクリフ:太陽の戦士

イェップ:ドラゴン複葉機よ 飛べ

ヘップナー:急げ 草原の王のもとへ

そして、たくさんの宮沢賢治、新美南吉、椋鳩十。

好きな本、となるともっとあります。「ちびっこカム」「ムーシカ・ミーシカ」「ながいながいペンギンの話」「龍の子太朗」「わらいねこ」「かえるのエルタ」寺村さんの「王様シリーズ」「点子ちゃんとアントン」「エミールと探偵たち」「二人のロッテ」「アーサーランサムシリーズ」「ドリトル先生シリーズ」「ハイジ」「あしながおじさん」など、など。

二十歳くらいまでは主として児童文学を読んでいた気がします。ある年齢までに読んで、その中から好きなものを、繰り返し読む、それがいいのだと思います。ほぼ実体験として、体の一部になるんですね。物語に入り込まないと読めないのが児童文学の特徴です。ピーターパンが飛べると実感できなければ、読む意味がない。でも、考えてみてください。「千と千尋の神隠し」が、「鬼滅」が来るまで、長い間、興行収益一位だった国です。ドラゴンボールは、心が清くなければ雲に乗れない。日本人は、こちらの方に真実がある、と見抜ける人たちなのです。

「学術的な本」は、まず読みません。一見、真実のように見えても、物差しに誤魔化しがあったり、本能的に実体験の引き出しに入らない。(私の場合は。)出だしがつまらないと入っていけない。

ですから、保育や子育てについて話しながらも、モンテッソリーとか、シュタイナー、とかは知りません。フロイトなんかは、ふーん、そうだろうな、と思う部分はあっても、病的すぎる。(感じがする。)親身な「相談相手を失う手段」くらいにしか思わない。

 

(児童文学ではないですが、以下の四冊も、考える支柱をくれました。)

ブラウン:わが魂を聖地に埋めよ

ヘリゲル:弓と禅

ガンジー:わたしの非暴力

渡辺京二:逝きし世の面影

絵本については、好きだった作品、そして、作者との交流が人生に影響を及ぼした、という視点で語りましょうか。でも、時間があるかな。

こんとあき、かばくん、ぴーうみへゆく、ペニロイヤルのおにたいじ、三匹のやぎのがらがらどん、くろうまブランキー、12のつきの おくりもの、ねずみじょうど、ねこのごんごん、フレデリック、まるのうた、あまがさ、からすたろう、きんいろのしか、こすずめのぼうけん、とべ!ちいさいプロベラき、わにわにのおふろ、

私を孫のように可愛がってくれた人。インドへ呼んだ人。パリで居候させてくれた人。アウシュビッツへ連れて行ってくれた人。ロサンゼルスで俳句の会に入れてくれた人。人生の紆余曲折の度に、絵本関係者に救われていた気がします。

親父の人脈のお陰です。人間は、「自立」なんて出来るはずもない。

 

(衆議院で参考人をした時に読んだ、小野省子さんの詩集も、お配りしようと思います。これは、私のホームページからダウンロードできます。:http://kazumatsui.com/genkou/014.html  省子さん、いつも伴走してくれて、ありがとう。)

そして、作った映像作品と最初のCDは、持参します。

CD「Time No Longer」は1枚目のアルバムで、当時の4大ギタリスト、リー・リトナー、ラリー・カールトン、スティーブ・ルカサー、ロビン・フォード、が参加しています。さて、超難問です。「このアルバムのタイトルは、どの児童文学から来ているでしょうか?」

 

 

DVD作品

 シスターチャンドラとシャクティの踊り手たち ~インドで女性の人権問題で闘う修道女の話~:http://kazumatsui.com/sakthi.html 

一人でカメラを回し、簡易ソフトで編集した作品ですが、第41回ワールドフェスト・ヒューストン国際映画祭、長編ドキュメンタリー部門で金賞を受賞しました。こんな内容です。

南インドのタミルナード州で、ダリット(不可触民)の少女たちを集め、裁縫や読み書き、権利意識について教えているカソリックの修道女が、彼女たちにダンスを教え、カーストや女性差別反対のための公演をしている。それが素晴らしいという友人の話に引き寄せられ、私はそれを映像に残そうとインドへ行きました。

ダリットの少女たちのダンスの美しさ、強さ、潔さに魅了されテープを回し、話を聞き、カースト制がいかに人々を抑圧差別しているかを知りました。最下層の娘と結婚しようとした男が兄弟に殺されるような事件が起こり、カースト内の人に出すコップでダリットにお茶を出したお茶屋さんが、焼き討ちにあったりする。現実に起こっているカースト制度の凄まじさに驚きました。

しかし、私が出会ったダンサーたちは美しかった。「ダンスの素晴らしさ」から「カーストの問題」へとテーマがシフトしかけていた私の視点は、踊り手たちと親しくなるにつれ、「絆」の方に向いていきました。少女たちの村に招待されてその世界に入って行くことによって、再度「人間の美しさ……」に引き寄せられました。