「子どもが輝く」

「子どもが輝く」

第二子の保育料を無料にすれば、「子どもが輝く」、「チルドレンファースト」と都知事が記者会見で言った、その奇妙さ、に気づいてほしい。

いつから、こんな発言を受け入れるようになったのか。

なぜ、そうなったのか。

 

慣らし保育で、子どもたちが「ママがいい!」と叫ぶ。毎年この時期に、これほど大量に一斉に叫ぶ。人類が一度も体験したことがなかった光景です。その「願い」を否定され、十一時間預けられた子どもたちが、どう「輝く」のか。

七年前、もう40万人保育園で預かれば「女性が輝く」、と首相が国会で言ったとき、譲りたくはないけれど、理解できなくはない、と思いました。それをすれば、保育も教育も仕組みとして成り立たなくなるのですよ、と何度も言いましたが、個々の人生の「動機」としてはあり得る。

欧米先進国が「欲の資本主義」にのみ込まれ、家庭崩壊へと進んでいった経緯を思うと、強者が輝くために、子どもの気持ちが優先されなくなる道筋は、人類が一度は通らなければならない「通過点」かもしれない。モラル・秩序の著しい低下を経て、子育ては、子どもを育てるよりも、乳児、幼児を親たち(人間たち)が体験することに意味があったと、再び、気づくのでしょう。

しかし記者会見で、都知事に言われると、さすがに唖然とします。

欧米で半数近くの子どもが未婚の母親から生まれていた時、この国は、1%台だった。弱者の存在意義を先進国の中では唯一理解していたこの国が、こうした発言で欧米化し、壊されていく。

記者会見の場で、「子どもが輝くとは、どういうことですか?」と、マスコミは即座に質問すべきだった。

それが、役割でしょう?

記者が、感性を失っている。聴き逃してはいけない、人間性を覆す発言に反応しない。子育ての丸投げが限界に達しているのを知りながら、ジャーナリズムが役割を果たさない。

本来の現場がどこにあるか、見極めが、できていないのでしょう。

政府の「異次元の少子化対策」は、「全ての子育て家庭が親の就労状況を問わず保育所を利用できる制度を創設し……」という方向に向かっています。

実際の「利用者」は子どもたちで、彼らは、十一時間そこで過ごすことを望んではいないし、「子育て」の当事者は「制度」ではなく保育士たちの「心」。そこに「現場」がある。

「子ども・子育て支援新制度」で、一日二時間働けば十一時間預けることができるようになっている。幼稚園がない自治体が二割あり、入園時に偽(ニセ)就労証明書を役場で書くことが日常だった、など、実は、「就労状況」の規制は綻びができ、かなり崩れていました。しかし、それを、正式に「問わず」とすれば、最後の防波堤が決壊する。

「第一義的責任は親にある」という本能、学校や保育を成り立たせるための「約束事」が形骸化してしまうのです。

子育ては国の責任、と思う親がこれ以上増えたら、すでに教師不足に晒されている学校は、「保育園落ちた、日本死ね」に象徴される責任転嫁の広がりを受けきれない。国が「社会で子育て」と言って押し付けても、保育者も教師も、学童の指導員も、児童養護施設の職員も、どんなに予算を積んでも絶対に受けきれない。子育てに対する「意識」の崩壊に追いつかない。

「子どもが輝く」のは、親をいい人に育てている瞬間、「可愛がられている」瞬間、社会に、利他の意識を広めている瞬間です。

(確認ですが、国会で、保育園を増やせという議論の中で「保育園落ちた、日本死ね!」という発言が取り上げられたとき、背後にあったのは、超・長時間保育が可能な、無資格でも保育ができる、しつけの名の下に園児虐待が起こり得る、保育士不足が限界を超えている制度だったのです。

議員たちの「子育て支援」論議は、0、1、2歳児には到底受け入れられない、保育士たちも納得しない、政治家たちのやった振り、パフォーマンスに過ぎなかった。しかし、それが報道で流され、預けることが権利だと思われるようになり、赤ん坊は保育園に入りたがっているようなイメージが定着していった。赤ん坊の笑顔を使った政党のポスターがあちこちに貼られ、それを裏付けし、親たちが0歳児を預けることに違和感を感じなくなっていく。躊躇すること自体が、悪いことのように言われ、子どもの権利条約にある、乳幼児が親と(特定の人間と)過ごす権利の方は、忘れられていった。「ママがいい!」と叫ぶ声が、その価値を失っていった。)

「預けたければ、誰でも(11時間を標準とした仕組みに)預ければいい」という最後の、「異次元の」規制緩和で、「子どもたちが喜ぶから」という、保育者として生きる動機、頑張れる足がかりが失われていく。

学校を支えてきた「保育」が「託児」、親への「サービス」になっていく。しかも無償で。

その結果、「負担軽減」の最前線で犠牲になるのは子どもたちです。機能不全で、安全な場所とは言えなくなっている児童養護施設や児童相談所に持ち込まれる案件の増え方を見れば、それがわかります。

ペットを、一日十一時間、年に260日預ける人はいないでしょう。

そして、子犬は、生後八週間は母犬と離してはいけないという法律が、与野党をまたぐ賛成で国会を通っている。http://kazumatsui.m39.coreserver.jp/kazu-matsui.jp/?p=174

犬の生後八週間は、もうちょこちょこ走っていますから、人間で言えば二歳くらいでしょうか。それより早く母犬から引き離すと、吠え癖や。噛みつきグセがつくというのです。一方、人間の保育園では、「一歳児二歳児は噛みつく頃ですから」と平気で説明する保育士たちが増えている。

(一対一の保育で、早期に噛みつきをなくす方法を「ママがいい!」に書きました。保育園では、噛みつかれた方もトラウマになるのです。)

「子ども家庭庁」が聴いて呆れる。

「子ども真ん中」など、ただの掛け声。小学生、中学生の意見を聞くと言いますが、政治家のパフォーマンスでしょう。小学生、中学生も含めて、みんなで、しゃべれない乳児を囲んで、じっとその言葉に耳を傾ける、それが何万年もやってきた「子ども真ん中」社会です。その時に湧き上がる不思議な連帯感が、人間社会の根元にあるべき「絆」です。

いま、戻れない一線を越えようとしている、その自覚を持って欲しい。

政府が、「保育は成長産業」とした時点で、勝負はついていたのかもしれない。

市場原理に任せれば、節税になって、競争を煽ることでサービスも向上し、経済も活性化する、経済学者が考えそうな手法です。しかし介護と違い、保育業者が親相手のサービスに走れば、子どもたちの気持ちが蔑ろにされる。それによる「負の経済効果」は、計り知れないのです。

(先生の質を保てない 公立2000校で欠員、1年で3割増加 :https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD258XU0V21C22A0000000/?n_cid=NMAIL007_20230116_A )

画一教育ができなければ、教師の精神的健康は保てません。「自主性」とか「自己肯定感」などという「競争社会に駆り立てる机上の論理」を保育学者が振り回しているうちに、教員が足りなくなり、担任の質が落ちてしまえば、元も子もない。記事にある「1年で3割増加」という異常な増え方が、最後の警告です。教師や仕組みに、親の代わりはできない。

親にとって、自分の子どもがよくない担任に当たったときの悲しみは、深い。自己肯定感など、何の役にも立たない。

 

政府は、保育界で起こったことを、学校教育の現場で繰り返そうとしている。

違うのはそれが「義務」教育だということ。国は、「質」に責任がある。逃げられない。現場の校長は、悪い教師を解雇できないし、国は、市場原理で誤魔化すこともできない。

「日本再興戦略」(平成二十五年六月十四日閣議決定)で、保育分野は、「制度の設計次第で巨大な新市場として成長の原動力になり得る分野」、「良質で低コストのサービス(中略)を国民に効率的に提供できる大きな余地が残された分野」とした経済学者、致命的な戦略を阻止しなかった保育学者たちは、いま、見て見ぬふりをしています。

働き手が減り、引きこもりが増え、同時に福祉や教育に一層の負担がかかり、実体経済が悪くなっても、彼らの人生には影響しない。大学で教え、評論をしていればいい。

 

しかし、子どもたちの心の傷は、一生その一家のトラウマとなって残るのです。

乳幼児期に受けたトラウマ、それに重なる愛着障害は、問題が複合的に絡んでいてハッキリとは見えない。その子の人生に寄り添えるのは、担任と、保育者と、親しかいないのかもしれない。

親友が出来れば、道は変わってくるのでしょう。

いえ、私が言いたかったのは、担任と、保育者と、親に、そこそこ恵まれれば、人生は大丈夫だということ。人生は助け合うものだから、そのうち一人でも、親身になってくれれば、セイフティネットになる。加えて、数冊の本と、数曲の応援歌があれば……。

そこまで考えて、この傷ついた子どもが、もし親になって、助けてくれ、癒してくれるのは、親を心から信じてくれる幼児たちだと、気づきます。もし、傷ついた子が、道を探しながら保育者や教師になっていたら、受け持った子たちの中に、その傷を癒し、救ってくれる魂が生きているはず。

でも、やはり子どもの頃に受けた傷は深い。可愛がって育ててきた人ほど絶望的になる。その傷の存在を知った親の苦しみは、自分自身に向かうのです。

最近、そんな親から悲鳴のような相談を受けます。事情を聞いて、不登校でいいと思います、と答えたくなることが増えました。

高校生になっても、夜、夢にうなされ、小学校の担任の名を「殺してやる!」と叫ぶ我が子に、なぜ、無理に学校に行かせたのか、と泣く母親。学童が信じられない、と、四人の孫の放課後をみている公立保育所の元所長から、毎年一人はハズレの担任に当たるんだわ、そのイジメ方が陰湿なんだよ、何か、とってもおかしいんだ、という怒りの声を聴く。

祖母であると同時に、保育の重要性、学校の事情をよく知っている人の発言だけに、教師の質の危うさ、深刻さが伝わってくるのです。

こういう問題を、ゼロにすることはできません。でも、今の不登校児、児童虐待の増え方を見れば、雇用施策主体に諮られた母子分離と、規制緩和による保育の質の低下、「絆の喪失」が原因としてあることは明らかです。

保育所保育指針に、五つ六つ「教育」という言葉を入れてどうなることではないっ!

「日本再興戦略」は、「日本を再興できないほど壊す戦略」にしか思えない。

慌てた文科省は、教員は無資格でもなれる、と宣伝します。

本当にそれでいいのか。

「資格」で教育ができるとは思いませんが、資格を取ろうと考え、その取得を試みた人たち、そういう種類の人たちが現場に来ない、来ても離れていく。無資格者で、その穴を埋められるのか。待遇で質を買えると思っているなら大間違い、保育の時の二の舞になる。非正規やパートが主体になり、やがて派遣に頼らざるを得なくなる。

配置基準を満たせばいい、という保育(=子育て)に対する甘い考えが、小一の壁を乗り越え、義務教育を劣化させていくのが見えます。

「担任」(子育て)という責任からの逃避が始まっているのです。政府主導の「子育てのたらい回し」が、行き止まりに近づいています。

流れが変わり始めている気もします。「ママがいい!」への、反響がいいのです。図書館で順番待ちができている、という話も聴きます。Amazonのジャンル別、また一位になっています。

教員不足の原因は、文科省の言う、特別支援学級が増えたため、ではない。特別支援学級をこれほど増やさざるを得ない状況にした短絡的な経済施策、「社会進出」という言葉で、子どもを可愛がる時間を奪っていった「雇用施策」に原因があるのです。読んでいただければその経緯はわかると思います。そこを理解しなければ、「子ども真ん中」というこども家庭庁の掛け声など、茶番に過ぎません。

「子ども真ん中」、はこの国の真骨頂です。この国そのもの、と言ってもいい。

よろしくお願いします。ブログの更新もしています。

(ブログ:http://kazu-matsui.jp/diary2/、ツイッター:@kazu_matsui)

 

追伸:

教文館、ナルニア国で行われた父、松居直の回顧展での「児童文学と私」講演、無事、終了しました。

子どもの本に囲まれ、書いた作家たちの「意図」に支えられ、児童書好きの方たちと、パネルになった親父の写真と向き合い、水を得た魚のように話せた気がします。

影響を受けた本、好きな本のリストは、ブログに書きました。http://kazumatsui.m39.coreserver.jp/kazu-matsui.jp/?p=4602

限られた時間の中で、改めて、児童文学が自分の考え方の原点にある、と確認しました。それは父がくれた環境で、その人生に、自分の人生を重ねさせてもらっていることがわかります。もちろん、あの強烈な母の影響も、大きいです。

児童文学には、0、1、2歳との会話が、半分あっち側との交わり、もしくは、古(いにしえ)のルールへの橋渡しとしてよく出てきます。メアリー・ポピンズの窓際のスズメたちや、「私たちの島で」のチョルベン、ピーターパンとウエンディ、そしてウエンディの母親との関係などについて「ママがいい!」との関係も含め、解説しました。

リンドグレーン、ワイルダー、ケストナー、トールキン辺りを話しているうちに時間が過ぎ、最後は、一曲、即興で父母に手向け、その日の会話を「沈黙」に返しました。銀座の真ん中で……。

絵本の話まで届かなかったのですが、それを描いた人たちに、節目、節目でアドバイスをもらい、少しの間、一緒に歩いてもらったことについて触れました。

小学校の工作の先生だった安野光雅先生には五十年以上お付き合いいただき、今でも、想像の中でアドバイスをもらいます。アウシュビッツに連れて行って下さった丸木俊先生、インドのシャンティニケタンに招き入れてくれたラマチャンドラン画伯は、私にとって灰色のガンダルフのような人。半分日本語が混じる不思議なインド英語を話し、洗濯までして下さった秋野不矩先生。パリで三ヶ月居候させてくれた堀内誠一さん、ロサンゼルスの俳句の会で鍛えてくれた八島太郎さん、本の帯に推薦を書いてくれた谷川俊太郎さん、美味しいものを食べさせてくれた今江祥智さん、動物をたくさん描いてくれた薮内正幸さん(ヤブさん)。

書いておいた方がいい、と思う懐かしい人、影響を受けた人たちがたくさんいて、その人が創った「絵本」を知っているから、関係に深みが足されるのでしょうね。

出会に、感謝。これからも、意識し続けなければ、と思っています。

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