上越市での「講演会と上映会のお知らせ」

「講演会と上映会のお知らせ」です

一般向け、というか、講演の内容は大体同じなんですが、7月29日に、新潟の上越市で上映会と組み合わせた講演会があります。

 

企画・運営は、「自然な出産と母乳育児を考える会」。小さな会ですが、助産師さんを中心に、もう私の講演を主催するのは四回目。こういう人たちが人間社会を守るんだ、という独特な気合いを持った人たちで、今年は、私の作ったドキュメンタリー映画「シスターチャンドラとシャクティの踊り手たち」の上映会を午前中にやって、午後は通常の講演会です。質疑応答の時間もたっぷりとってあります。

上映会は、監督(私)の解説付きです。ひょっとすると演奏付きです。無料です。講演会も。

 

私が自主制作したこの作品は、第41回ワールドフェスト・ヒューストン国際映画祭、長編ドキュメンタリー部門で金賞を受賞しました。

見てもらった絵本画家の安野光雅先生から、こんな評をいただきました。(安野先生は、私の小学校の工作の先生で、編集者の父と共に50年以上お付き合いいただきました。)

 

「不要な会話がなかった、ひとことも聞き漏らすまいというふんいきが生まれていた」

「目の中に祈りを感じました」

「挿入された、一見関係のなさそうなシーンは、『詩』のように心に響きました」

 

この「評」は嬉しかった。

ナレーションのないドキュメンタリーで、映像と音楽(私のアルバムから)と字幕で通すのですが、ダリット(不可触民)と女性の人権の為に闘う修道女の話です。

ダリットに対する差別の問題は、論理性を超えた人間の狂気のような部分があって、私が理屈で立ち入れることではないのですが、その、踊る姿が、美しい。そこに、何かに守られた「強さ」がある。

ただ感性を研ぎ澄ませて、そこで観たものを表現するしかありませんでした。

シスターに出会わなかったら、私は「映画」を作ることなど無かったはず。縁は、不思議な道筋を示します。この縁を、生かしておきたい。

ぜひ、いらして、一緒に風景に触れてみてください。

 

児童文学と共に、インドの風景は私の考える基点です。そのあたりのこと。なかなか興味深い話をすると思います。

貧しき者は幸いなれ、という、不思議なメッセージが、インドの村から伝わってきます。

私がシスターに「幸せとは?」と尋ねると、シスターは一瞬間を置いて、「集まること(Coming together)」と答えました。最後のインタビューで、それに「分かち合うこと(to share)」が加わります。

時々、その次元にまで戻らないと、道筋が見えなくなる。

ちなみに、シスターと私は同い年、です。

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「みてきいて考える  いのちを支える絆」

7月29日、上越市市民プラザ、

午前、「シスターチャンドラとシャクティの踊り手たち」上映会と松居和監督トーク付き、午後、講演会

参加無料、定員、各40人

受付開始は、6月23日(金)です。

<申込み・問合せ>ウィズじょうえつ

(上越市男女共同参画推進センター)

〒943-0821 上越市土橋 2554

上越市市民プラザ2階

TEL/025-527-3624 FAX/025-522-8240

E-mail/d-sankaku@city.joetsu.lg.jp

受付時間:平日8:30~17:15(土・日・祝・市民プラザ休館日(第3水曜日)を除く)

 

(講演会もですが、この映画の上映会開催に興味がある方、ぜひ、matsuikazu6@gmail.com まで、ご連絡ください。今も、シスターのミッションと繋がっています。よろしくお願いします。)

 

 

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もう一つ、一般に開いた講演会のお知らせです。

もう一つ、一般に開いた講演会のお知らせです。

7/13:王滝村立王滝小学校体育館(長野県)で久しぶりに講演します。とても良い所です。ぜひ、お越しください。

【問合せ・申込先】

長野県生涯学習推進センター(担当)望月

TEL: 0263-53-8822

〒399-0711 塩尻市大字片丘字南唐沢6342-4 FAX:0263-53-8825:

E-mail:shogaigakushu@pref.naganolg.jp

 

 

 

講演、講座のご案内です

私の講演は、保育団体、幼稚園、保育園の主催が多く、一般に開いているものが少ないのですが、時々、あります。よろしければ、ぜひ、お越しください。群馬です。

令和5年度第1回リカレント講座のご案内
日 時  5年7月1日(土)13:30~15:30 (受付 13:00~)
育英大学 •育英短期大学教育研究所
125教室 (定員100名) 対象:保育・教育関係者

申込方法:氏名、所高機関、メールアドレス、相談希望者は相談の簡単な内容を
下記E-nailにてお申込みください。E-mail:kanrika@ikuei-g. ac. jp

申込期限:令和5年6月20日(火)※定員に空きがある場合は当日受付も可能です。

「諦める」こと

前々回、「慣らし保育」における「ママがいい!」という子どものすすり泣きを「可哀想に」と思ってしまう元大学の教師に関して、寄せられた投書と共に、私の意見を書きました。保育を学問として捉えていた人が、現場で、子どものすすり泣きを聴いて、人として目覚める。嬉しい、投書でした。すると、Twitterの側から来た返信にこうありました。

 

これが本当に現実です。保育園で、子どもが一番に覚えるのは『諦める』こと。なかなか諦めることができない子どもは、ずっとずっと泣き続ける。どうしても『可哀想』と思ってしまう。だから保育園を辞めました。

 

(ここから私。)

人生の始まりに、「諦める」ことを覚えさせられる子どもたち。心ある保育者(人間)たちが、その風景に慣れることができず、辞めていく。

今、この国が進もうとしている道筋を象徴する出来事です。

「可哀想に」、という、人間社会を支え、維持してきた言葉を、なぜ、みんな口に出して言わなくなったのか。

この保育士は、それに疑問を持ち、それに慣らされたら、自分の人生を諦めることになる。そう思って辞めて行った。

 

ごく最近のことですが、

「可哀想」という言葉が、預ける側の「後ろめたさ」に重なって、母親が(女性が)そう感じることが「不公平」で「不平等」という論法が通り始め、広がったのです。

その論法が、欧米で、半数近い子どもが未婚の母から産まれる社会をつくり、「社会で子育て」という「偽の約束」が、シングルマザーの異常な増加と、近親相姦や親による虐待につながっていったことは明らかなのに、先進国から来る警告や報告は耳にしても、それが印象に残らないように操作されている。それどころか、欧米を見習え、日本は遅れている、という学者さえいるのです。

「待機児童をなくす」という選挙公約や、保育施策に関するマスコミの報道に、「子どもたちが可哀想」という反論が出来なくなっている。しかし、保育者の善意と、女性らしさに頼って誤魔化すにも、限度がある。

平等が目標になれば、本当の意味での男女共同参画社会は、家庭、子育てという次元から壊されていく、そうはっきり言った方がいい。欧米がたどった、経済優先の、弱者に辛い格差社会への道筋に、この国も引き込まれようとしているのだから。

女性の、パワーゲーム、マネーゲームへの参加率が大きく影響する「国連の幸福度調査」にも、それがよく現れています。

多くの宗教が勧めてきた「欲を捨てることに幸せを見出す」、子育てと重なる幸福論から人間社会を切り離そうとすることが、いまのグローバリズム。その中心に、母子分離政策がある。

(繰り返しますが、政府が進めてきた「少子化対策」は、「子育て支援」という名の母子分離策を中心に置いている。それによって少子化がますます進んだことは一目瞭然で、みな知っているのに、いまだに止めない。少子化対策は、単に選挙対策だからです。与党も野党も、宣伝カーのスピーカーからは、子どもたちは、「ママがいい!」と言っています、「子どもたちが可哀想です」という言葉は絶対に発せられない。そうして、子育てに対する「意識」が麻痺していく。)

四月やゴールデンウィーク明けに日本中に満ちる「ママがいい!」という叫びとすすり泣きが、消えるまで、慣れるまで、親の目から離される仕組みが作られている。性的役割分担の押し付け、「権利」、「平等」などという言葉で、「可哀想」という言葉が、かき消されていく。

小さな子どもたちの無数の「諦め」が、その陰にあって、「利他」の伝承が、途切れていく。

三歳までに発達すると言われる人間の脳にとって、この時期の「諦め」が何を意味するのか、生きていくために大切な歯車が、そこで一つ欠けていくのではないか。発達障害や愛着障害の大半が、この「諦め」が原因ではないのか。0歳児を預けることに躊躇しない親が突然増えているのも、その根底にこの「諦め」があるのではないか、真剣に考えた方がいい。

人類未体験の不自然な連鎖が、「慣らし保育」の名で行われている。

がっかりし、心を痛め、去っていく保育士の後ろ姿に、誰も声を掛けない。

慌てて、次の保育士を探している。その心の動きに、市場原理による「支配」が見える。

政府によって、保育を「サービス」と思い込まされた、要求ばかり主張する身勝手な親たちが増え、仕組みをさらに追い詰める。

先進国社会が、情報や言葉に支配されていくのは、学問が重視され、乳幼児と過ごす体験が欠けてきているからだと思います。

授乳だけでなく、三歳の子どもが生まれたばかりの弟や妹と出会うところからも始まっている特別な体験、祖父母が初孫と対面する時からも、始まる、あまり言葉に頼らない双方向への体験、その価値に気づいてほしいのです。それは、往々にして自分との対話、宇宙との対話であって、そのやり方を、人間は、乳児を可愛がることから学ぶのです。育てられるのは、所詮、自分自身でしかない。

乳幼児たちは、人類にとって一番の相談相手でした。この人たちを生かすことで、生きる動機と道筋を手に入れた。

国の子ども子育て会議が、11時間保育を「標準」と決めたとき、誰も、「可哀想」とは言わなかったのでしょう。

「平等」という架空の「正論」に縛られ、会議自体が人間性を失っていたのです。それを主張できない乳幼児の「願い」が価値を失っていった。弱者の悲しみや、諦めが、人々の視界から消え、「可哀想」という表現さえ封じられた。

幼児の「諦め」(慣らされること)を「自立」(自律)とか、自主性と呼ぶ学者たちさえいる。システムを成立させるための「こじ付け」は、最近限度を超えている。保育士不足という点からも、学級崩壊という結果からも愚策と知りつつ、仕組みは、政府(経済界)の都合通りに作られていった。幼児の側からは存在の喪失に他ならない「標準」が、政府によって設定され、それが、あっという間に行き詰まっている。

人類は、平等の上には成り立たない。

進化は、性的役割分担で成り立ってきたのだし、宇宙は、陰陽の法則で動いている。

子どもたちが、人間であることを諦め始めている。そのことに、気づいてほしい。

全国で、地域の「核」になってきた「幼稚園」が、保育園を周りに建てられ廃園に追い込まれていく。それを目の当たりにして、私は、心底腹を立てているのです。政府には、この国の最後の砦が見えていない。絆を育てる最適な手段を、雇用労働施策の元に壊そうとしている。

「当たり前のこと」を、口にすべき時が来ています。子どもたちは、誰でもいい、とは言っていない。

西洋の「学問」と、東洋の「祭り」(哲学)が対峙しているのだとしたら、この国にはまだチャンスがある。

午睡の時間にしのび泣く乳児クラスの男児に、「頑張れ!」と言うのは人間性を逸脱している。それを知っている国だと思うのです。

「可哀想だ」と感じたら、それを口にし、周りを見回す。

人間「社会」はそこから始まるのです。

この投書が全国紙に載るということは、本当の仕組みが見える人がまだたくさんいる、ということ。

耕し直すことはできる。

「ママがいい!」という言葉を、これ以上聞き流してはいけない。

 

(前々回の私の文章です)

朝日新聞:オピニオン&フォーラムに、「安心して休める 子育て社会を」という投書が載りました。

大学で「子育て支援」などを教えていた人が、保育の現場で園長として働き始め、午睡の時間に、男児の「ママがいい!」というしのび泣きが乳児クラスから聞こえてくる。そして、「頑張れ!」より「可哀想に」を口にしてしまう。

そうですね。これが人間です。

幼児たちのいる風景に私たちは、育てられ、試される。自分の人間性に気付かされる。

慣らし保育で、私たちは、何に慣らされるのか。慣れてはいけないものがあるのではないか。この投書を読んで、私は、救われる思いがしました。

学問を離れて、帰ってこなければならない場所がある。

泣き続けた幼児たちの心に、その時、何が残ったのか。子ども真ん中、というならそこを真剣に、ずっと考えるべき、感じ続けるべきなのです。

いま、進められようとしている異次元の少子化対策、「こども誰でも通園制度」は、この悲しみ、このしのび泣きを、増やすこと。

その先には、すでに学級崩壊や、不登校児童過去最多、教師不足があって、もはや待ったなしのところまで来ている。

「ママがいい!」と言われたら、それはいいママだった、ということ。子どもに、いいママと言われて過ごす人生ほど、確かで幸せな人生はなかったはず。

 

 

(ブログは:http://kazu-matsui.jp/diary2/、ツイッターは:@kazu_matsui。「ママがいい!」、ぜひ、読んでみて下さい。幼稚園や保育園を核にし、絆を耕し直す方法が実例を挙げてたくさん書いてあります。予算もほとんどかからない、そのいくつかを仕組みの中で「常識」にするだけで、学校が鎮まってくる。よろしくお願いいたします。)

 

 

いつでも帰っておいで

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コロナが静まり、講演が返ってきました。葛飾柴又の帝釈天、ルンビニー幼稚園で講演しました。もう何度目になるのでしょうか。

「男はつらいよ」が好きで、全作見ている私には聖地です。

寅さんがあれほど支持されるのは、日本人の遍歴放浪に憧れる文化の象徴だからでしょうか。

帰ってくるところがあれば、人生は結構揺るがない。自立なんかしなくていいんだよ、いつでも帰っておいで、という人たちがいれば、大丈夫。

いつまで経っても、「寅ちゃん」と呼んでくれる人、「寅っ」と叱ってくれる人がいれば、それだけでいい。

講演が終わって、参道のうなぎ屋さんで園長先生に(帝釈天のお嬢さんに)、鰻重をご馳走になりました。

 

そして一昨日、群馬県民間保育園・こども園協会の総会で、園長先生たちに話をしました。

群馬も何度も行っています。十五年、二十年前に私がした講演が、園の行事になって根付き、いま大切に花開いていることを何人かの先生たちから聴き、ああ、良かったと、嬉しかった。あの頃、政府の保育に対する姿勢が、もっと子ども寄り、保育士寄りだったら、いま直面している学級崩壊も、保育士不足も、もう少し対応できるものになっていたのに、と忸怩たる思いです。

でも、こうして保育の「形」を守っている人たちがいる。信頼関係が、園の伝統になっていれば、親たちはちゃんとそれを継承していく。子どもたちの前では、人間たちは、笑いながら、ちゃんといい方向に進んでいく。

入学式、卒業式、成人式、には晴れ姿の「あの子」たちが、自慢げな親たちと集まってくる。そこには、その子の「小さい頃」を知っている人たちが待っている。帰ってきたね、と迎えてくれる。

 

懇親会で、思い出話と共に、これからどうするか、どうなるのか、についても話し合いました。一つ一つの園で、着実にできることがあるのだから、それを、まずやっていくしかないのですが、それにしても政府や学者が進める、現場を追い詰める最近の施策には呆れます。

今週から、3週続けて九州に行きます。「ママがいい!」、あちこちで読まれています。ぜひ、ご一読ください。

 

新聞に、妹(小風さち)が出した新刊の書評が載っていました。子豚のピクルスの3冊目です。

先週、妹から、「この黒いブタが、かず兄さんだから」と言って渡されたやつです。

あああ、だから言っているのです。人間は、自己肯定感など、持てるわけがない、って。

学問を離れて、帰ってこなければならない場所

 

 

朝日新聞:オピニオン&フォーラムに、「安心して休める 子育て社会を」という投書が載りました。

 

大学で「子育て支援」などを教えていた人が、保育の現場で園長として働き始め、午睡の時間に、男児の「ママがいい!」というしのび泣きが乳児クラスから聞こえてくる。そして、「頑張れ!」より「可哀想に」を口にしてしまう。

そうですね。これが人間です。

幼児たちのいる風景に私たちは、育てられ、試される。自分の人間性に気付かされる。

慣らし保育で、私たちは、何に慣らされるのか。慣れてはいけないものがあるのではないか。この投書を読んで、私は、救われる思いがしました。

学問を離れて、帰ってこなければならない場所がある。

泣き続けた幼児たちの心に、その時、何が残ったのか。子ども真ん中、というならそこを真剣に、ずっと考えるべき、感じ続けるべきなのです。

いま、進められようとしている異次元の少子化対策、「こども誰でも通園制度」は、この悲しみ、このしのび泣きを、増やすこと。

その先には、すでに学級崩壊や、不登校児童過去最多、教師不足があって、もはや待ったなしのところまで来ている。

「ママがいい!」と言われたら、それはいいママだった、ということ。子どもに、いいママと言われて過ごす人生ほど、確かで幸せな人生はなかったはず。

 

私の願い

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(こんな報道がありました。)

「女性就業のM字カーブ改善、島根首位」

「女性の就業が主に出産や子育てに伴って30代で落ち込む『M字カーブ』(総合2面きょうのことば)の度合いに都道府県で違いが出ている。20代後半と30代で女性の労働力率の差を比べると、島根県は2.2ポイントでMの谷が最も小さかった。差が小さい地域は女性の正規雇用率も高い。人口減の中で働き手を確保するには女性が仕事を続けやすい環境づくりが重要になる。」 https://www.nikkei.com/article/DGKKZO69810510R30C23A3EA1000/

 

私は、「M字カーブ」は日本の美しさです、という文章を15年前に書きました。

母親が子どもと居たい、子どもたちが「ママがいい!」と思うことを、日本は欧米にくらべ、はるかに尊重していた。子どもの最善の利益を優先する、という「子どもの権利条約」に照らせば、先進国の中では群を抜いて優等生だった。

その、いい国を、こうした記事が壊していく。

マスコミは、経済界や政府の意向に沿って「M字カーブ」に異を唱え、それが無くなることをすでに「改善」と位置づけている。誰にとっての「改善」かは吟味しない。

フェアじゃない。

報道が、この国を、一人では生きられない絶対的弱者の願いを感じ取れない社会に変えていく。子どもと一緒にいたい、と思う女性の意志を肩身の狭いものにしていく。

記事に「30分単位の有休で育児と両立」という言葉があります。ジャーナリズムの言う「両立」は、この程度のもの。一時凌ぎに過ぎない。乳幼児の側からは、成立していない。

 

少子化が進んでいるにも関わらず、児童虐待が過去最多になっている。(でも、人口比率からすれば、親に殺される確率はアメリカの50分の1。)加えて、不登校児童の「異常」と言っていい増え方は何を意味しているのか。その原因に、こういう報道姿勢が招く、子育ての外注化と、親たちの「意識の変化」がある。子どもの気持ちよりも経済を優先する傾向が、社会においても家庭においても、強くなり、子育てが「親身な絆」を育てる、という機能を果たせなくなっている。

それでも、「両立」を支える仕組みが成り立つならば、まだいい。しかし、そうはならない。

 

 障害児への虐待 親と子をどう支えるか https://www.nhk.or.jp/heart-net/article/62/ 

 「発達障害」児童を急増させる社会風潮の正体:少子化でも特別支援学級が増える真の理由(東洋経済On Line:https://toyokeizai.net/articles/-/604154)。

 先生の質を保てない 公立2000校で欠員、1年で3割増加(日経)

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD258XU0V21C22A0000000/?n_cid=NMAIL007_20230116_A

(「M字カーブ」は「両立」を前提にしている。そして、ジェンダーレスという考え方が後ろに控えている。現在のアメリカの混乱でも明らかなように、この道筋が宗教と対立し、分断に拍車をかける。日本ではその摩擦がそれほどでもないのですが、それでも、やがて人間性(幼児)と対峙してしまう。)

 

エンゼルプランが始まった20年前、政府の「子育て支援」を、保育士たちは「子育て放棄支援」と呼んでいた。それをマスコミは伝えようとしなかった。

私は、現場のその思いを、国会でも、自民党の少子化対策委員会でも伝えた。それでも、施策の中で幼児たちの願いが優先されることはなかった。「子育て」に対する意識の変化を促すマスコミの報道のしかたに問題があったのです。世論が「子ども優先」にならないと、選挙優先に考える政治家たちは動かない。票が減ると思えば、敢えてその問題には触れない。

言い続けるしかない。幼児が「ママがいい!」と言ったら、「ママがいい!」。その言葉に嘘はない、駆け引きもない。

 

エビデンスは、その使い方、説明の仕方、解釈(誤解)次第でフェイクニュース(偽情報)になる。

日本は、若者の自殺が世界一でしょう、と私に言った人がいた。

そんなことはありません。若者の死亡原因の1位が自殺という情報を誰かが間違って解釈したのでしょう。日本は駄目な国と思っていると、こういう間違いを犯す。(M字カーブを「改善すべきもの」と、位置づけた考え方に似ている。経済一辺倒で、とても浅い。)

「若者の死亡原因の1位が自殺」、だから日本は良くない、と思うことがすでに間違いなのです。

医療の水準が高く、救急医療が充実し、殺人事件が少ない。そして、銃規制が非常に厳しい、そう解釈すべきで、良いことばかり。

ちなみにアメリカの若者の死因の一位は、銃で撃たれること。

 

世代をまたぐ自殺率の比較では、日本は、先進国の中では平均並み、26位です。上には、韓国が4位、リトアニア7位、ロシア9位や、ベルギー19位、アメリカ24位が位置しますし、フィンランドやスウェーデンも日本とほぼ同じ。https://worldpopulationreview.com/country-rankings/suicide-rate-by-country )そもそも、日本の若者の(死因ではなく)自殺率が本当に高ければ、平均寿命が世界一位にはならない。

自殺率の比較で韓国が高いのは、「転生」を信じる文化が背景にあるのかもしれません。二年間の徴兵と、ある種の臨戦態勢下にあること、離散家族の問題なども考えられます。ロシアは、気候とアルコールの消費量と関係がある気がする。ベルギーの順位が上位なのは自殺幇助が合法だからでしょうか。そうした、法制度や文化・習慣の違い、宗教の影響や、死生観を理解せずに自殺率を比べても意味がない。

(ちなみに、日本では、男性の自殺率が女性の二倍。男性の就労率にもM字カーブがあれば良かったのです。でも、それでは女性のM字を守れない。この女性の就労率のM字カーブが、先進国では日本特有で、女性の平均寿命が世界一なのであれば、そこに因果関係を見た方がいい。乳児と過ごすことで、長寿に関連する遺伝子がオンになるのかもしれない。利他の心で生きれば、目的もはっきりするし、精神的にもいい。もちろん、平均的に、ですが、人生が安定するのでしょう。)

 

そして、自殺は、犯罪ではない。

ヘミングウェイ、川端康成、太宰治、三島由紀夫、といった高名な文学者も選択していますが、「感性」とか、「生き方」における真剣さ、誠実さという領域の問題でしょう。その選択を非難したり、負の数字として語ることは、人間の感性、繊細さに順位をつけるようなもの。この四人は、その選択に行き着く道筋が非常に異なっている。

私は大切な友人を、四人、この方法で失っています。

しかし彼らを責める気はないし、その決断で彼らの人生を計る気もない。止められなかった無念さはありますが、そういう流れだった。繊細ないい奴、貴重な同志、いい仲間で、生きていてほしかった。まだ、私の空間の中に、いる気がする。死ぬ直前に振り返って、もう一言二言、話したい。

「Passion:情熱」で動く、キャリアでは成功した四人でした。

なぜ、彼らは、あれほど見事に咲いていた時に、その道を選んだのか。時々、心の中で問いかけることが私の人生です。

自分の心の声に耳を傾ける、ひときわ、子どもっぽい男たちでした。

だから怖いのです。日本で「感性豊かに育った子」「可愛がられて、世界を信じていた子」が、学校で虐められたり、仲間外れにされる傾向が強くなっていることが……。

子どもが、学校という仕組みの中で、感性捨てるか、人間やめるか、みたいな所に追い込まれている。可愛がって育てられた子を、嗅ぎ分けて、いじめる。教師が絶対に止めなければいけないことが放っておかれる。子どもをいじめる教師や、保育者さえいる。

だからといって、感性豊かに育った子、その子を育てた親を、責める気は微塵もない。人間らしく育った子どもたちが、子どもを可愛がって育てた親たちが、それゆえに辛い思いをする社会になってほしくない。

それだけ。

M字カーブは美しい、カーブなのです。

 

(ブログは:http://kazu-matsui.jp/diary2/、ツイッターは:@kazu_matsui。「ママがいい!」、ぜひ、読んでみて下さい。講演依頼は、matsuikazu6@gmail.comまでどうぞ。幼稚園や保育園で話すのが好きです。保育者と保護者、一緒に聞いてもらえると嬉しいです。ご要望によっては、最後に一曲演奏したりします。)

 

 

12日(金曜日)に渋谷のライブハウスで演奏します。

今月、12日(金曜日)に渋谷のライブハウスで演奏します。
基本的に即興で楽しむことを目的とした、セッションです。
ぜひ、お越しください。
最近は、講演の(しゃべる方の)最後に一曲、とか、制作したドキュメンタリー「シスターチャンドラとシャクティの踊り手たち」の上映会で吹くくらいですが、いいミュージシャンとの音のやりとりは、ワクワクします。
いい音に仕上げてくれる、エンジニアの長門さんとの再会も嬉しいです。
天と地、その間に存在する、メロディーとリズム。
そんな感じで。

養護施設は休園できない

前回、東京新聞:https://www.tokyo-np.co.jp/article/245724 保育士の七割が出勤せず。市の担当者は、「公立園には今回のような緊急時の受け皿の役割が期待されていますが、各園の人員不足も深刻で…」と言葉を詰まらせた、と言う記事について書いた文章を読んだ、児童養護施設に勤める「熱い」友人からメールが返ってきました。

以前、役場で保育担当の役職にまで就き、限界を超えている児相の実態や家庭における児童虐待の問題をよく知り、必死に動いていた人。

国の「子育て支援」施策を以前から、どろ舟、と言い、公務員の立場に絶望して、突然、現場に飛び出して行った勇士、というか闘う女性。

おはようございます。

読ませていただきました、ありがとうございます。

小金井市のニュースを見て、一次休園する施設はまだましだと思いました。

不正受給を暴けない行政、配置基準を満たすための保育士の名前貸し、劣悪な保育環境、虐待を隠蔽する園、人間性を疑う保育士の増加…。

このニュースを見て、対岸の火事だと思っている行政がいたら、なお問題の闇は深い。

小金井市の二の舞にならぬよう、雇用契約書に自己都合退職には、違約金を求める法人もでてくるかもしれない。

待機児童ゼロ対策で、乱立した保育園が少子化で経営難になるのは想定内だったはず。しかし国は、保護者の声だといいながら、保育を金儲けにしてる輩の声しか聞かない。

小規模保育園に三歳以上を受入れを可能とする轍を踏んでしまった。

いまこそ、保育士が、自分たちは、チャイルドビジネスの立役者ではない!と声をあげるべき。

追伸

保育園は休園できても、養護施設は休園できない。

きょうも、戦場へ行って参ります!

追伸2

やりきれない怒りで煮えくりかえっていても、

仏心を忘れず。

だって、こどもたちの笑顔は最高だから。

(大丈夫かなあ、と心配になります。その生き方を見ていると、ただただ、尊敬します。私なんか、ほんとに大したことない、とドキドキします。そうですね。養護施設は休園できない。戦場に向かわないと、最前線で傷付いた子どもは救えない。「怒りで煮えくりかえっていても、仏心を忘れずに」。凄いなあ。)

いい幼稚園保育園で、人生が変わる

 

(こんなメールをいただきました。一つずつ、の積み重ねですね。)

 

☆☆☆

遅ればせながら、「ママがいい!」読ませていただきました。

電車の中で読みながら、昨年結婚した長男、今年成人式を迎えた次男の子育てを思い返し、涙が込み上げてくるのを堪えてました。

息子たちを通わせた保育園、学童保育はバザーやキャンプなど、親の出番が多くそれまで子育てに関わろうとしなかった夫が、子どもを中心とした場所に自分の居場所を見つけ役割を見つけ、我が子だけでなくみんなで子どもたちの成長を喜ぶようになっていった姿を思い出しました。

あの場所が私たちを親に育ててくれたのだと、今になって思います。

4月から、就職し三重に向かう次男が、家庭に事情を抱える友だちのことを案じ、

「〇〇ちゃんち、毒親で大変だから、時々呼んで一緒にごはん食べてあげて」と言うのです。

昔から、我が家は自然と人が集まる家でした。

息子にとっても、息子の友だちにとっても、安心できる場所だったんだ、と、子育てがひと段落する時にこの言葉がもらえたことは、最高のご褒美になりました。

 

しかし今、子育てを取り巻く環境は本当に厳しさを増す一方のように思えてなりません。

児童相談所に勤務する友人からは、本当に悲惨な状況を聞きます。

子どもが減っているのに保護される子どもは増える一方で、定員を超える子どもが昼夜問わず保護されるので、施設に来たとしても安心して暮らせる状況にはないと。

親は、我が子のことを生活保護費がもらえる金蔓としか考えていないとも聞きました。

和先生のおっしゃるように、子どもの存在が親を育てる仕組み作りが必要だと感じます。

子育てはお荷物じゃない。

うまく表現できず、すみません。

生まれてくる子どもたちがみんな、守られて愛されて生きられる世の中になりますように。

 

ーーー(ここから私です。)ーーー

避難所であるはずの施設が、安全な場所ではない。養護施設も「養護」できる状況にない。まるで、収容所のようになっていて、しかも、十八歳になれば出ていかなければならない。

養護施設に勤める友人が、最近の悲惨な状況を話してくれる。よほどの真剣さと、親身さがないと子どもたちを鎮めることさえできない。体を張って、負った心の傷に付き合うだけの気力と意識、そして覚悟を持った人でないと、精神的に生き残れなくなっている、と言う。

多くの人たちが「情報」として知っているはず。だからこそ、行き場のない絶望感が、日々あきらめに変わっていく。

(「子育ては専門家に任せておけばいいのよ」と言った厚労大臣がいた。「0歳児は寝たきりなんだから」と言った経済学者がいた。経済財政諮問会議の座長をやった人だった。

その結果、養護施設だけでなく、保育園でも同じことが起こっている。https://www.tokyo-np.co.jp/article/245724 東京新聞:保育士の七割が出勤せず。市の担当者は、「公立園には今回のような緊急時の受け皿の役割が期待されていますが、各園の人員不足も深刻で…」と言葉を詰まらせた。)

「ママがいい!」という子どもたちの叫びに、最初から耳を傾け、その願いを尊重する仕組みを作っていれば、こんなことにはならなかった。

まだこの国なら間に合うかもしれないのに、この惨憺たる光景は何なのだ!、と選挙カーのスピーカーから流れる、政治家たちの、ありきたりで、無責任と言ってもいい、見せかけだけの決意を聴くたびに、暗澹たる思いになる。発言する機会を与えられてきただけに、憤りさえ感じる。

衆議院の税と社会保障一体化特別委員会で口述人をし、人間性を失っては社会保障は維持できないと話した。衆議院のホームページに映像が残っている。保育の無償化について参考人として呼ばれたときは、すでに人材不足と質の低下は限界を超えている、無償化でますます責任の所在が曖昧になっていけば現場は受け切れない、と話した。しかし、与党も野党も、「子どもの気持ち優先」の方向には動かなかった。その結果、前述した小金井市のようなことが起こる。

無償化や三歳未満児保育の推進で既存の保育園の仕組みが壊れていった。一方で財政削減のために、セーフティーネットとなるはずの公立園を民営化していく。

記事には「一方、市内に本部がある別の保育園運営会社『コスモズ』の補助金不正受給問題や、前市長の置き土産である市立園の廃園手続きなど、保育園を巡る問題が多く」とある。簡単に言えば、「保育は成長産業」という閣議決定で「業者」のモラルが低下、前市長には、政府の経済優先の子育て支援が乗り憑っていた、ということ。その呪縛から離れないと、市長が変わっても意味はない。

子どもたちが毎日通ってくる園で、七割の保育士が、突然出勤しない。

職場における信頼関係が完全に崩れていて、その原因を市が放置していたということ。緊急対応するはずの公立園も「人員不足が深刻で」、と市の担当者が言葉を詰まらせる。もっと呆れるのは、そんな現状なのに、そこに乳児を預けることを都知事が「第二子は無償」と言って勧め、「子どもが輝く、チルドレンファースト」と記者会見で言ったこと。それも含めて、国の保育施策がいかに矛盾を抱えたいい加減な施策で、破綻しているか、茶番か、ということ。それが最近、学校に連鎖していく。

自民党の少子化対策委員会で講演したのが十五年前。当時の委員長が、感動しましたと握手を求めてきて、その人の地元でも講演した。厚労部会や女性局でも講演し、17の県連で呼ばれた。その時は、理解してくれた、と感じたのです。しかし、状況は変わらないどころか、悪くなる一方で、現場はさらに追い詰められていく。

ここまでくると、一斉に職場に来ないことが、子どもたちのため、と決意する保育士や指導員、養護施設の職員が現れても不思議ではない。これが、政府の言う「子育て支援」の結末です。

この破綻寸前の仕組みを、「異次元の少子化対策」で就労条件を取払い、誰でも預けられるように、さらにもう一歩進めると言う。

これから進めざるを得ない「痛みを伴う改革」の「痛み」が、子どもたちに直接及ぶだろうこと、人生を左右する傷、後遺症となって残るかも知れないことを考えると、忸怩たる思いがする。

私たちを信頼するしか生きる術を持たない人たちが、そこにいることに感謝し、その人たちによって救われることに幸せを感じる親たちが、この国にはまだたくさんいる。講演に行くとわかります。

冒頭のメールをくださった方のように、子育てに生きがいを見出し、子どもたちのために祈っている人がたくさんいる。

「バザーやキャンプなど、親の出番が多い」保育園と学童保育に、偶然かも知れませんが巡り合い、「それまで子育てに関わろうとしなかった夫が、子どもを中心とした場所に自分の居場所を見つけ役割を見つけ、我が子だけでなくみんなで子どもたちの成長を喜ぶようになっていった」、この人たちが作った家族が、一つ一つ重なり、この国を守っている。

 

いい保育園、幼稚園に出会うことで、人生はこうも変わる。

だからこそ、崩してはいけないのに、親を育てる「いい園」が次々と廃園になっていく。

私が住んでいる杉並区でも、七十年続いた私の好きな、「子ども園になることを断った」幼稚園が、隣に突然保育園を建てられ廃園に追い込まれている。政府は一体何をやっているんだ、この国をどうするつもりだ、と悔しくなります。

 

(泥棒に入られる確率Burglary rateが、ニュージーランドが日本の25倍、デンマーク20倍、スェーデン15倍。家庭に代わる役割を担うために作られた仕組みが破綻すると、犯罪率が一気に上がっていく。その経緯を「ママがいい!」に書きました。モラル・秩序の崩壊が始まる寸前に、私たちは立っている。)

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(ブログ:http://kazu-matsui.jp/diary2/、ツイッター:@kazu_matsui 講演依頼はmatsuikazu6@gmail.comまでどうぞ。保育士や幼稚園教諭の研修会、保護者の大会、自治体主催のイベント、単体の園での勉強会など、コロナも明けて、講演の依頼が次々に入ってきます。現場で保育の心を立て直しましょう。親たちは絶対についてくる、そう信じて、子どもたちのために頑張りましょう。どこへでも、行きます。)