「犬も宇宙の一部ですね…」

先日、茨城の(こども園を返上した)幼稚園で講演した時のこと。

子どもを優先に考える園長先生が、しっかり親たちに守られている、そんな園でした。こども園を辞めたのも、子ども主役の風景が、壊れるのを警戒してのことでしょう。

自分の子どもに親身になってくれる人を大切にする、その人が年配であれば、信じて、まずは従う、そんな人類の知恵というか、カタチが垣間見えます。子どもたちを中心に、身近な「伝承」が「社会」をつくる。幼稚園は、村のような単位で社会が整うための「練習」に丁度いい。

園長先生に頼まれていたので、最後に、演奏もしました。音楽で終わるのは、いいものです。講演会というより「祭り」の終わり、子育てが「祈り」へ還っていく感じがします。

しばらくして、講演の感想文が送られてきました。その中に一つ、思わず笑ってしまうのがありました。ああ、こんな風に理解してくれた……。

講演で、いつものように、

「私が一人で公園に座っていれば、変なおじさん。でも、二歳児と座っていれば、『いいおじさん』です。この仕掛けに気づいてください。そして感謝しないと人生の目標がわからなくなる」

と説明します。

私が一番大事に伝えようとしている、古(いにしえ)の法則です。

幼児と過ごしているお母さんたちは、うんうんと頷きます。

素晴らしい仕掛けを、何度も、体験している。知らず知らずのうちに、体験していたことに気づく。ともすれば忙しくて忘れそうになるのですが、幼児の不思議さを実感した、自分だけの秘密を思い出して笑顔になるのです。

横に座っているだけで、宇宙の相対性の中で、二歳児は人間を「いい存在」にする。子育ては、宇宙の「働き」そのものですから、その「働き」に気づくことが、生きる目的でもあるのですね。あとの人生は、時々その思い出に浸って過ごせばいい。

子どもを(孫を)可愛がり、自分の価値が高まっていることをはっきりと意識する。その時期が、人類には必要なのです。関係性の中で生きていることが、嬉しくなる。三歳までに、子どもはすべての親孝行をする、と言いますが、あの教えですね。様々な文化で、この同じ教えが伝えられていた。

不思議な感想文に、こう書いてありました。

自分は一人で散歩しながら、他人の家の形を眺めたり、庭をキョロキョロ覗き込んだりするのが好きで、いつも怪しまれていました。でも、柴犬を飼い始めて、犬を散歩しながら同じことをしても、怪しまれないことに気づいたんです。

犬も宇宙の一部ですね……。

私が講演しているのは、この柴犬を含んだ「仕掛け」の話なんです。

社会学者が見過ごしている、柴犬の「位置」づけの話。芭蕉や世阿弥が愛で、賞賛してきた、日本人には馴染みの深い「仕掛け」の話なんです。その主人公が、〇歳児たち、というのが私の主張です。

言葉を発しない者たちとの会話、たとえそれがお地蔵さんであっても、盆栽であっても、風の音であっても、逝ってしまった両親であっても、その会話が、「生きていること」の大切な一部であって、人生という道はその会話で方向づけられていく。そのことに気づかせるのが〇歳児を育てるという、人間が避けることができない行いで、その人たちの「寝顔」なのだ、と思うのです。

その後、しばらくして子どもが1歳になり、言葉による会話が、少しずつ始まり、言葉の意味よりも、それを発した人の「心持ち」を知ることの方が大切、と教えてくれる。そして、2歳児がとなりに座ってくれる、そんな風に考えています。

(犬の話では、私はインドの野良犬について、随分考えてみたことがあります。足すと一年半くらいインドで過ごしているのですが、夜、吠えるのを聞きながら、同じ空間に彼らがいること、彼らとの関係などを考えたのです。

野良犬はペットではありません。かと言って外敵でもない。大自然と人間社会の中間点でウロウロしている、不思議な位置にいる連中です。彼らは、自由なのだろうか。

昼間はダラダラ、面倒臭そうにしているのですが、夜中に俄然活気づく。強いリーダーに煽られて……。

彼らの存在が、人間と大地の橋渡しをしているような気がする。でも、油断すると喰われるかもしれない……。

明け方、それにカラスの鳴き声と羽ばたきが加わったりすると、謙虚になるべき、自分の位置を感じる。)

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