“行方不明児20万人”の衝撃 「中国 多発する誘拐」/アメリカの現実

(国、制度、経済、福祉、教育…。人間社会の仕組みが、人間性を逸脱しはじめている。)

NHKクローズアップ現代/ http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail02_3644_all.html

行方不明児20万人の衝撃  「中国 多発する誘拐」

中国の街角で写真を掲げる人たち。子どもを誘拐された親たちが救出を訴えています。

「もう一度子どもに会って抱き締めたい。」

今、中国では子どもの誘拐が大きな社会問題になっています。年間20万人の子どもが行方不明になっているといわれる中国。都市部の小学校。下校時間になると、誘拐を恐れる出迎えの親たちであふれ返ります。「心配で幼い子どもを一人で帰宅させられません。」

取材を進めると、誘拐された子どもは農村部に売られていることが分かってきました。貧しい農村では老後を支えてくれる子どもがいないと生活できないといいます。

誘拐された子どもを買った女性:「息子を買ってこなければ、養ってくれる人はいませんでした。」

急速な経済発展の陰で多発する、子どもの誘拐。

中国社会のひずみが生み出す犯罪の実態に迫ります。

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報道は続きます。ここからは私見です。)

 二十五年前に著書「家庭崩壊・学級崩壊・学校崩壊」(エイデル研究所)に書いたのですが、当時アメリカで誘拐される子どもが毎年十万人。ほとんどが解決しない、という現実がありました。私が本を書いたり、講演したりするきっかけとなった凄まじいばかりの家庭崩壊の状況が、当時「国家の存続に関わる」と定義されて報道されていました。そんな中、我が子を探す親たちが、不特定多数の誘拐犯に語りかけるコマーシャルを作り、時間枠を買ってテレビに流していたのを思い出します。

「この電話番号に電話して下さい。警察には届けません、相談に乗ります」というメッセージを見た時に、一体この国では何が起こっているのだろう、と愕然としたのです。そして、状況を知れば知るほど、そのコマーシャルの向こうに、家族を求めての誘拐ゆえに解決しにくい現実と、悲しみに苦しむ親たちの必死さと絶望感を感じました。

 離婚後親権を失った親たちが我が子を誘拐する。州を越えるとFBI(連邦警察)の管轄になり、よほど運がよくないと誘拐された方の親は一生子どもと再会することはない。

 ほとんどの幼稚園、保育園で、将来子どもが誘拐され人相が変わってしまうほど成長してしまった時のために、指紋を登録しておきましょう、と薦めるチラシを親たちに配られていました。近所のスーパーマーケットで買い物をすると、牛乳パックに誘拐された子どもの写真と特徴が印刷されていて、よく読むと、つい数ヶ月前、すぐ近所で、というのもありました。

 理由は違っても、家族を求めての誘拐であることが今回の中国に関する報道と共通しているのです。

 背後にあるのは、人間が作った仕組みの中で「伝統的な家庭観」が失われてゆく異常な状況です。アメリカと中国、世界のパワーを二分する二つの大国で、家庭崩壊が根底にある孤立感が人々の不安を煽り、誘拐という形で子どもたちを巻き込んでゆく。競争社会で子育てをないがしろにしておきながら、いざ孤立すると、駆け引きや裏表のない子どもたちの純粋さに救いを求めようとする。「家族」を求めようとする。グローバル経済の行く末を暗示する、象徴的な流れだと思います。

 子どもを将来の労働力としてしか見ずに、とにかく生めば社会(仕組み)で育ててあげると政府が言い、「みんなが子育てしやすい国」と厚労省がパンフレットで宣伝し、実はプラス40万人の乳児を預かろうとしている日本。この不自然な流れを、子育ては育てる側の喜びがあって存在する、という方向に戻していかないと、日本でも形こそ違え家庭崩壊が始まり、子どもたちがそれに巻き込まれ、数十年先に、中国や米国と同様のことが起き始めるのです。

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 三歳までに愛着関係が希薄だった子どもたち、数人の善意に囲まれなかった子どもたちの寂しさや悪意に対する反応はすばやい。肌が繊細に、敏感になっているから、なおいっそう愛情を養分にしようとしてもがく。だから学校に入って、教師たちの視線の温度差がより決定的になってしまう。そして、その要望と視線に、教師たちの決意が追いつかない。

 体験から生まれた大切なものが欠けているから、経済という脅しにひっかかるのだと思う。大切なものがないから、情報を信じ、それこそが大切だと言い始める。

 一日保育士体験。人が人に戻る瞬間を一番簡単に目撃できる方法だと思う。予算もほとんど要らない。この状況下でソフトランディングするなら、この方法しか無いと思う。

 子どもの体や心より大事にされる経済。それに一体何の意味があるのだろう、と首相に聞きたい。国とは一体何なんだろう、と聞きたい。

泣き声センサー/保育の本質が忘れられる



 泣き声に反応し、メロディや童謡、クラシック音楽、胎内音が流れる「泣き声センサー」を保育に取り入れたいという園からの要望に、行政の人から「保育崩壊、いえ保育壊滅です」と嘆きのメールをもらった。

 「保育資格者がこんなことを言い始め、幼児の心はいつ育つのでしょう」。「保護者は気付いてほしい。大切な我が子がどんな保育をされてるのか」と結ばれていました。行政にも繊細で、出来事の本質を理解する敏感な人が居て、保育という仕組みの中で人間の心が反応するのを求めて泣いている幼児たちの無言の主張をメールで知らせてくるのです。幼児たちの泣き声は、センサーをオンにするための声ではない。人類の人間性をオンにするための音。

 以前このブログに、抱っこしなくて授乳できる哺乳瓶ホルダーの売り込みが保育園に来て、驚いていた園長先生の話を書きましたhttp://kazu-matsui.jp/diary/2015/01/post-262.html。法律でもある「保育所保育指針」の主旨を読めば、哺乳瓶ホルダーも泣き声センサーも法律違反だということがわかるはずです。乳幼児の存在理由が利便性や市場原理の間でますますわからなくなってきている。麻痺している。育てる側に「可愛がる心」を育て、遺伝子に組込まれた人間の「優しさ」をひき出すという乳幼児の命の意味が見えなくなってきている。

 「保育園にお願いする」が、「保育園でもいいんだ」、「誰でもいいんだ」、そして「機械でもいいんだ」と、どんどん進んできているような気がして怖い。それを保育士が言い始めることの危険性をこの市の保育行政の一人は知っている。政府の幼児の気持ちを無視するような心ない施策に必死に毎日抵抗し、現場を見張ってきたからこそ、仕組みから心が消えてゆくことに虚しさを感じるのです。怒りさえ覚える。

 こんな、幼児の気持ち優先に考える役場の人が最近その人の身の回りにも少なくなってきた。だからこそ、「保育壊滅」という言葉が出たのでしょう。

 保育士が資格を取る時に、子育ての本質を学んでいないのか、保育指針を読んでいないのか、と首を傾げたくなります。そして、「資格」という言葉に安心を求めようとしている現代社会の危うさをひしひしと感じます。

 弱者に関わることで生まれる人間社会の本質的な連帯が短時間に加速度的に希薄になり、結果、弱者の孤立化に拍車がかかっている。この孤独感は、すでに福祉とか教育で補える限界を超えている。子育ての意味が、福祉と教育(仕組み)で見失われてゆく。



和先生、こんばんは。

 

 あまりに哀しい出来事があったので、聞いてください。

 監視カメラの次は、泣き声センサーを取り入れたいと言ってきた保育園が現れました。

 「保育崩壊」、いえ「保育壊滅」です。

 自宅向けの商品が人気だとは聞いていましたが、まさか保育資格者が使う時代が来るとは。泣き声に反応して、洗練された遊具からメロディが流れる。クラシックから胎内音に似た音楽まで。機械化した人間から、機械的に育てられたこどもたち。心はいつ育つのでしょう。

  そんな保育を見たら、1保育士は気付いてほしい。自分たちの仕事はなんなのか。2保護者は気付いてほしい。大切な我が子がどんな保育をされてるのか。

 一部の保育園かもしれませんが、氷山の一角なんだと思います。こんな時、監視カメラがあったら、保護者は目新しいと喜んでしまうかと思うと恐ろしくなります。

 以下、メーカーの宣伝を送ります。

   ベビー用品を販売するコンビは、泣き声に反応して動きだす機能付きの「メロディいっぱい!みまもりセンサーメリー」を、全国のベビー用品専門店、玩具専門店、百貨店などで20153月下旬に発売する。赤ちゃんの泣き声に反応し自動で動きだす「みまもりセンサー機能」付きで、感度調整も出来る。メロディは豊富な12種類、童謡からクラシックまで赤ちゃんの気分に合わせて選べる。胎内の音を再現したという「あんしん音」も。肌に優しいふわふわとした下飾りのおもちゃは取り外し可能で洗濯できて、ラトルとしても遊べる。育児や家事に忙しいママをマルチにサポートする。  

 価格は8500円(税抜)、対象月齢は0か月から。単3形アルカリ乾電池4本使用(別売)

 

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 びっくりですね。

 保育所からの要望ですか?

 韓国で監視カメラの保育所における設置が国会で法案として義務付けられた、という記事の紹介を先日ブログでしましたが、それは保育士による虐待を防ごうというのが主旨でしたが、これは保育者が機械で保育をしようということですよね。

 抱っこしなくて授乳できる哺乳瓶ホルダーの売り込みが保育園に来て、驚いていた園長先生がいましたが、乳幼児の存在理由が本能的にわからなくなってきていますね。

 可愛がる、という心を人間の中に育て、遺伝子に組込まれた「優しさ」とつながる本能をひき出すという乳幼児の命の意味が見えなくなってきている。

 「保育園にお願いする」が、「保育園でもいいんだ」、「誰でもいいんだ」、そして「機械でもいいんだ」と、どんどん進んできているような気がして怖いです。人間社会の本質的な連帯が短時間に加速度的に希薄になって、弱者の孤立化に拍車がかかっているいま、政府は「社会で子育て」と言いますが、福祉とか教育で補える限界をすでに超えているんだと思います。子育ての存在意義が、福祉と教育で見失われてゆく感じですね。

 昨日は、群馬の保育協議会で話してきました。同じ時間帯に、長田先生は函館の保育士の集まりで講演していたそうです。反応はとても良かったです。

 保育士たちと保護者に、繰り返し幼児からのメッセージを伝えていくしかないです。

 頑張りましょう。

 

松居

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 この話を聴いた別の園長が言いました。

「作った人は、いいと思って作ったんでしょうね。保育はサービスという厚労省もそうですが、幼児の発達の意味がわかっていない」


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 厚労省が出した保育所保育指針解説書というのがあります。その一番最後にこう書いてあります。

保育所は人が『育ち』『育てる』という人類普遍の価値を共有し、継承し、
広げることを通じて社会に貢献していく重要な場なのです。」


 そうであってほしいと思いますし、そうでなければ人類が危ない、と思います。人類普遍の価値を人間に教えてくれるのが幼児たちだということに、再び、気づかなければいけません。

 


ルポ 保育崩壊/「女性が輝く社会」に専業主婦は不要か(プレジデント)/認可外保育施設の現況(厚労省のプレスリリースから)/(韓国で)保育園の監視カメラ義務化法、国会本会議を通過

2015年3月15日

一冊の本を園長先生から薦められました。目次だけでいい、しっかりと読んで噛み締めてもらいたい。それだけで日本の子育て施策の現状がハッキリと見えてくる。著者からのメッセージと共に紹介します。これでも、子ども・子育て支援新制度、政府は進めるのでしょうか。

 

ルポ 保育崩壊小林美希著(岩波新書/新赤版1542

https://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn1504/sin_k825.html

著者からのメッセージ

 「ここに子どもを預けていて、大丈夫なのだろうか」

 待機児童が多い中で狭き門をくぐりぬけて保育所が決まっても、自分の子どもが通う保育所に不安を覚え、一安心とはいかない現実がある。

 それもそのはずだ。ふと保育の現場に目を向ければ、親と別れて泣いている子どもが放置され、あやしてももらえないでいる。食事の時にはただの作業のように「はい、はい」と、口いっぱいにご飯を詰め込まれ、時間内に食べ終わるのが至上主義のように「早く食べて」と睨まれる。楽しいはずの公園に出かける時は「早く、早く」と急かされる。室内で遊んでいても、「そっちに行かないで」と柵の中で囲われ、狭いところでしか遊ばせてもらえない。「背中ぺったん」「壁にぺったん」と、聞こえは可愛いが、まるで軍隊のように規律に従わされる子どもたち。

 いつしか、表情は乏しくなり、大人から注意を受けたと思うと、機械的に「ごめんなさい」と口にするようになっていく――。ここに子どもの人権は存在するのか。

 当然、子どもの表情は乏しくなっていく。その異変に気付いた親は、眉根を寄せて考えるしかない。特に母親ほど「この子のために、仕事を辞めた方がいいのではないか」と切迫した気持ちになる。

 保育所に子どもを預けるだけでなく、女性の場合は特に妊娠中からさまざまなハードルを乗り越えての就業継続となる。妊娠の報告をする際に、まず「すみません」と謝る職場環境のなか、4人に1人は「マタニティ・ハラスメント(マタハラ)」に逢っている。やっとの思いで保育所が決まって復帰しても、安心できない。これでは、まるで「子どもが心配なら家で(母親が)みろ」と言わんばかりの環境ではないか。筆者の問題の出発点はそこにある。保育が貧困なことで、女性の就労が断たれる現実がある。

 保育所の見方は立場によって変わる。働く側から見た保育所という職場はどうか。

 筆者は機会あるごとに保育士の労働問題に触れてきたが、このように保育の質が低下しているのは、待機児童の解消ばかりに目が向き、両輪であるはずの保育の質、その根幹となる保育士の労働条件が二の次、三の次となっているからだ。

 保育所で働いている保育士は、約40万人いる一方で、保育士の免許を持ちながら実際には保育士として働いていない「潜在保育士」は、約60万人にも上る。その多くは、仕事に対する賃金が見合わない、業務が多すぎることを理由に辞めている。

 特に、株式会社の参入は保育の質の低下を著しくしたのではないか。これまで保育の公共性の高さから社会福祉法人が民間保育を担ってきたが、2000年に株式会社の参入が解禁され、その影響は大きい。その直後に発足した小泉純一郎政権は、雇用だけでなく保育の規制緩和も次々と推し進めていたのだ。そのことで、現在の親世代の雇用は崩壊し、生まれた子どもたちの保育は崩壊しつつあるという、親子で危機的な状況にさらされている現状がある。国の未来を左右する子どもの保育の予算は、国家予算のなかで国と地方を合わせてもたった0.5%ほどしかない。

 2015年度から、「子ども・子育て支援新制度」が始まり、保育所の仕組みががらりと変わった。政府は特に「認定こども園」を推進するが、本当に利用者や働く側に立った制度なのか。

 どの保育所であっても、教育を受けて現場でも経験を積み、プロとしての保育を実践できなければ、運・不運で親子の一生が左右されかねない。その状況を変えるためにも、今、保育所で起こっている問題を直視し、周囲の大人に何ができるかを考えたい。

 保育士も親子も笑顔で過ごすことができるように。

 

 

第1章

保育の現場は、今

 

 

地獄絵図のような光景/エプロン・テーブルクロス/「ほいくえん、いや。せんせい、こわい」/失われる生活の質/3週間、お散歩ゼロ/転園して赤ちゃん返り/オムツかぶれ/保護者の立場の弱さ/密閉状態の中で/定員オーバーの公立保育所/この保育所に預けて良いものか/怖くて入れられない/子どもの代弁者になれるのは誰か

 

 

 

第2章

保育士が足りない!?

 

 

いきなり1歳児の担任に/ひたすら慌ただしい毎日/安全を保つのがやっと/「もう、これは保育ではない」/”ブラック保育園”/そして、「潜在保育士」に/子どもを産めない/保育士に多い”職場流産”/恐ろしくて働けない/看護師からみた保育所/公立の保育士まで非正規化/非常勤は保護者と話すな/複雑化するシフト/園長にとっても”悲惨な職場”/元園長でも時給850

 

 

 

第3章

経営は成り立つのか

 

 

徹底したコスト削減/狙われる人件費/いかに儲けるか/管理、管理、管理/空前の保育士不足/人材集めの実際/人手不足が何をもたらすか/正社員ゼロの保育所/17人中採用は8人/認可外保育所の経営実態は/役所に踊らされる

 

 

 

第4章

共働き時代の保育

 

 

共働き世帯が増加するなかで/「働かなければ育てられない」のループ/病児、障がい児保育の少なさ/保育は親へのサービスか/認定こども園の実際/大きすぎる文化の違い/秋に出産して悩む母たち/園児に母乳は贅沢なのか/母乳の知識

 

 

 

第5章

改めて保育の意味を考える

 

 

人気取りの待機児童解消/消費税バーターというやり方/新制度は始まったが/補助金の構造問題/OECDは、規制を強化すべき/声をあげる現場/基盤は保育士のワーク・ライフ・バランス/改めて保育の意味を考える/子どもといることの楽しさ

 

(ここから私見です。)

 私も、こういう状況を長い間見たり聴いたりしてきました。子育ての現場だからこそ、社会全体の心のひずみ、制度のゆがみが鮮明に顕われてくる。

 以前から続くこういう状況を厚労省は把握している。次官の村木厚子さんも、元雇用均等・児童家庭局長、現在の政策統括官石井淳子さんも知っている。私は直接説明した。それでも、この人たちは政治家や経済界と一緒になって新制度を進めた。そこがどうしてもわからないのです。政治家は、現場を知らない人が多いのですが、役人のトップは知っている。知っていた。

 

 訓練する人は無資格でいいという規制緩和で始まり、利潤を目的に増え続ける障害児デイや学童の一部で、虐待まがいの状況が増え、特に酷いことになっている。(親身な、いい保育をしている人たちも居ます。ごめんなさい。)辞めた人たちの証言を最近繰り返し聴くのです。

 幼児や障害児に対して「訓練」という言葉は本当に恐ろしい。それが他人の子どもに対する「仕事・職業」になってしまうと、訓練する側の人間的成長が断ち切られ、親や、他の保育施設との連携が消えてゆく。http://kazu-matsui.jp/diary/2015/02/post-268.htmlに、詳しく書きました。

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 一見普通に保育が出来ている保育園や幼稚園でも、実は様々な問題を抱えています。以前、このブログに「待つ園長と待たない園長の話」http://kazu-matsui.jp/diary/2013/11/post-219.htmlを書きました。

 保育園でしつけをしてくれという親たちの役場に対する要望に、それでは本当の保育は出来ないと感じ「待つ園長」。一方で、行事はいやだという親の主張に耳を貸さず、子ども優先で「親参加の」保育を進める「待たない園長」の話です。どちらも子どもの成長を優先に考える園長先生です。ここ数年、こういう種類の園長先生たちが、政府の言う「保育はサービス」という言葉に負け、生きる意欲を失ない、去ってゆく。

 幼児をはさんで、育てる側の心が様々にすれ違います。他人の子どもを集団で育てる(管理する)仕組みの宿命とはいえ、「育てる側の心が一つになる」という子育ての本来の目的が、いつの間にか忘れられ親や企業向けのサービスになっていく。

 それが、親子にとって、学校教育にとって、この国にとってどれほどの損失か、多くのひとが理解しないと、この国も欧米のように家庭から崩れてゆく。

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 こんな記事がありました。

 

「女性が輝く社会」に専業主婦は不要か

(プレジデント http://president.jp/articles/-/15180?utm_source=0429

「戦後の日本において、家事や育児、介護の多くを期待されてきたのは専業主婦だ。1978年の『厚生白書』で「同居は福祉における含み資産」とされたことからもわかるように、社会制度もそれを前提として設計されてきた。専業主婦が担ってきた日常生活、いわゆるプライベートは、市場経済のようなパブリックには直接登場しない領域である。いってみれば、現代社会は専業主婦の「見えない貢献」を前提に成り立ってきた。この事実を踏まえると、安倍晋三首相が推進している「すべての女性が輝く社会」は、専業主婦の貢献を「見えない」状態にしたまま議論が進んでいるように見える。」(後略)

 

(ここから私見です)

 子育てに関して、イデオロギーの対立や経済といった一面的なものさしではない、バランスの取れた記事・報道が出てきました。もっと増えてほしいと思います。安倍首相が言った「すべての女性が輝く社会」という曖昧な目標と施政方針演説の賜物かもしれません。えっ、という反応とともに、人々が「騙されているのではないか」と考え始めている。幸福論から、幼児(弱者)の役割まで思考がたどり着けば、まだ、間に合うのかも知れない。この国にはチャンスがある。

 ここにある、「同居は福祉における含み資産」。こういう真っ当なことが1978年の「厚生白書」に書かれていた。その辺りがこの国の賢さだったと思うのです。経済を金の動きという一面だけで見ない、もっと人間の心理、幸福論まで含む経済論が確かに存在していた。その知恵や常識が、子育てを雇用労働施策に取り込んだあたりから崩れはじめ、いつの間にか次元がとても平板に、白か黒かみたいなことになってしまっている。

 以前、経済財政諮問会議の座長が「幼児は寝たきりなんだから」と私に言いました。雇用均等・児童家庭局長に「子育てを女性に押し付けるんですか?」とも言われました。雇用均等と児童家庭が同じ局で語られることが不自然で、無理があるのですが、日本国民である幼児たちの気持ちを施策の上で感じようとする人がいない。

 

 

 

認可外保育施設の現況

 

 雇用均等・児童家庭局 保育課による報道機関に対するプレスリリース、「平成25年度 認可外保育施設の現況取りまとめ」〜施設、入所児童数ともに増加、ベビーホテルは減少〜 http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/0000080127.html、を読みました。

 平成25年度、ベビーホテルの新設・新設把握158カ所、廃止・休止158カ所。その他の認可外保育施設は新設・新設把握474カ所、廃止・休止331カ所とあります。これを、「ルポ 保育崩壊」(岩波新書)で語られる保育の質の低下の実態と照らし合わせてほしいのです。以前、著作に書いたことがあるのですが、なぜこれほど新設と廃止が多いのか。この仕事は、単なる思い込みや儲け主義では成り立たない、幼児の成長や家族の人生に関わる仕事です。だからこそ計画通りにはいかないし、人材が集められなければやってはいけない。コンサルタント会社が儲け話として煽るような種類のビジネスではないのです。(http://kazu-matsui.jp/diary/2014/11/post-193.htmlhttp://kazu-matsui.jp/diary/2015/01/post-261.html

 「把握」ということばが使われているのは「把握」していない状況がかなりあるということ。コンビニならまだしも、保育施設がこれほど不安定な状況でいいはずがない。そこに明らかな無理と不自然さが読み取れるのです。保育所はどんな形であれ、日々の乳幼児の成長、日本の未来に関わる施設なのです。

 もっと驚くのは「立入調査の実施状況」です。

 ベビーホテルの未実施数が26%、その他の認可外も26%。繰り返し全国紙で事故や事件が報道されているのに、未だに「未実施」がこれだけあるなどあり得ない話です。不手際というより、怠慢。幼児に対する人権侵害、あまりにも雑な保育行政です。国の安全保障については毎日報道されるのに、乳児の安全保障に関しては以前からずっとこんな状況です。

 保護者たちに知ってほしいのは、この報告書に、立入調査を行った施設に関して、指導監督基準に適合していないもの、ベビーホテルが50%、それ以外の認可外保育施設が37%と書いてあること。それに対する指導状況は口頭指導文書指導がほとんどで、公表:0か所、業務停止命令:0か所、施設閉鎖命令:0か所です。こんな状況だから、ルポ 保育崩壊で報告されているようなことが起っているのです。

 保育園に対する行政の立入り調査は抜き打ちではありません。前もって準備や手立て、隠蔽が可能な立入り調査です。調査官の目の前で子どもを叩いたり怒鳴ったり、口に給食を押し込んだりする保育士はいない。つまり保育の実態は、事実上ほとんど把握できていないのです。それでも確信犯的に乳幼児の日々の安全、安心を脅かす違反がこれだけあって、公表も業務停止命令も施設閉鎖命令も行われない。こんな仕組みだから宇都宮のような事件が起り、それが賠償訴訟になる。http://kazu-matsui.jp/diary/2015/03/post-273.html

 (保育それ自体の質を行政が現場で確認できないなら、保育施設における正規、非正規、派遣の割合い、どのくらいの頻度で保育士が辞めてゆくか、その理由くらいは調査し、保護者に発表すべきです。)

 こんな現状でさらに保育のサービス産業化、一層の規制緩和を進め、総理大臣が、あと40万人保育施設で乳幼児を預かります、女性が輝く社会を実現します、と国会で宣言すること自体がおかしい。

 子ども・子育て支援新制度を進める内閣府のパンフレット、その「すくすくジャパン」というタイトル、そして「みんなが、子育てしやすい国へ」というキャッチフレーズが馬鹿馬鹿しく、虚しい。保育の質を整えず、ただ子どもを親から離し保育施設で預かる数を増やせば、それが「子育てしやすい国」なのだと政府が言う。この国は、そんな国であってはいけない。愛国心などと軽々しく言わないでほしい。愛国心とは、すべての子どもたちに責任があると人々が感じる心。政府の子育て施策に愛国心が欠落している。

 

 

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(韓国で)保育園の監視カメラ義務化法、国会本会議を通過

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150430-00000081-wow-kr

 日本もしっかりやれば良いと思います。しかし、監視カメラで作る信頼関係など、実は、信頼関係ではない。本来なら一日保育者体験(親が年に一日8時間、一人ずつ順番に保育を体験をすること)を義務化するような方法で信頼関係を築ければもっといいのです。しかし、そいういう方向で国政が動こうとしないなら乳幼児の安全を守り、子どもの最善の利益を優先するという保育指針を遵守し、すぐにでも全ての保育施設に監視カメラ設置する法案を国会で議決すべきです。

 保育という仕組みは、それが存在する全ての国で、問題の大小こそあれ、いずれこういう状況を生み出すのです。子どもを優先して考えれば、仕組みで子育ては出来ない。集団保育で子育ては出来ない、ということ。喜びと、祝う気持ちに囲まれて、子どもは輝く。それを見て大人たちが輝く。それをまず家族という単位でしていないと、「仕組みで子育て」には不信感という霞が、必ずかかってくる

 日本は別の方法を探ってほしいと思います。しかし、新制度で、もう40万人保育施設で預かると公約し、保育士不足が蔓延し、国がすべての園に立入り調査をする姿勢がないのなら、保育士がのびのび保育できない、などと理想論を言ってはいられません。監視カメラで守るしかない。誰にでも見せられる保育の確保、そこから再出発しないと大人たちの疑心暗鬼で回り始める保育崩壊は止められないのでしょう。

 保育や学校、福祉や民主主義という新しい仕組みは、親が親らしいという前提の元に作られています。その前提が「子育ての社会化」によって崩さされつつある現在、監視カメラででもいい。とにかく、まずは幼児を守らなければいけない。そうしないと、いつか必要になってくる出発点が失われる。

 

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(四年前のブログです。この頃に一日保育者体験が法制化されていたら、いまこの国はどうなっていただろう、と時々思います。http://kazu-matsui.jp/diary/2011/07/post-116.html)

 

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保育園の監視カメラ義務化法、国会本会議を通過

WoW!Korea 4月30日(木)19時26分配信

保育園の監視カメラ義務化法、国会本会議を通過

韓国の国会が30日に本会議を開き、保育園の監視カメラ設置を義務化する内容の「乳幼児保育法」改正案を議決した。(提供:news1)

韓国の国会が30日に本会議を開き、保育園の監視カメラ設置を義務化する内容の「乳幼児保育法」改正案を議決した。

 国会は、ことし2月に臨時会で乳幼児保育法改正案を審議し、本会議で予想外の反対・棄権票が続出して法案処理に失敗した。

これに対して世論の批判が高まると、与野党指導部は一斉に責任を痛感し、4月の臨時会で乳幼児保育法を最優先事項に再合意し、29日に改正案が法制司法委員会全体会議を通過した。

30日に乳幼児保育法は本会議で在籍190席中、賛成184・棄権6で可決した。

改正案は全ての保育園に監視カメラの設置を義務化し、録画した映像を60日以上保管するようにする内容が含まれている。

騒動となったネットワークカメラ設置の場合、保育園の園長と保育士、保護者の同意の下で選択的に設置することができるようにした。

「ネットワークカメラを設置すると、監視カメラを設置したものとみなす」という趣旨の内容も改正案には含まれている。

ただ、監視カメラ設置は義務化されたため、政府が設置費用を支援するが、ネットワークカメラは選択事項であるため、国家の支援対象から除外される。

政府や行政が知らない次元で保育は成り立つ

政府や行政が知らない次元で保育は成り立つ

 

 ある園長から聴いた、その園での話です。

 定員90名の保育園で、土曜日保育に25名来るのです。潜在的な保育士不足に加え、ベテランを確保しようとすれば財源不足になります。異年齢の保育士をバランスよく確保しようとすれば、支出の8割を人件費に廻さないとできません。しかも、11時間以上開所しろとなるともはやシフトが組めない。職員の週休二日制が崩れるのです。

 園長は、幼児の日常に責任があります。それぞれの子どもの充実感や楽しさにも責任があるのです。政府は簡単に仕組みを押し付けてきますが、単に土曜日だけ別の保育士たちにする、というわけにはいかない。

 親たちに、「このままでは職員の健康が保てません。保育は職員の健康に掛かっているんです」と少しきつめに言うと、土曜日保育25名がすぐに8名になったそうです。


 保育や子育ての問題の7割は、仕組みと権利意識が広まり、お互いに親身な会話が出来なくなっていることにある。子ども優先に気持ちを込めて話し合えば、いま保育界を窮地に追い込んでいる数々の問題が解決できるかも知れない。

  土曜日も市が就労証明をきちんと取って、政府が保育をサービス産業化しようとしなければ、子どもはなるべく自分で育てようという哺乳類としての常識が、保育という仕組みを守ってこれたのですが、こんなことを親たちにハッキリ言える園長はもう稀です。親とのトラブルや行政からの変な指導を避けているうちに、子どもの日々を優先し、保育士の健康を体を張って守ろうという園長さえ少数派になってきている。

 

 「保育士と一生の友達になるつもりで」と親たちに言います。

 一緒に育てた人たちなのです。ひょっとするといつかどうしてもわからなくなった時、大切なヒントを教えてくれるのはその人かもしれない。子育てに関わる唯一の相談相手かもしれない。そして何より、幼児期を知っている人に囲まれて子どもは育ってゆくべきなのです。20万年くらい、それが当たり前だったのです。一番輝いていた頃を知っている人たちの目線が必要な時が来るかもしれない。

 

 「遅れて迎えに来た親には超過料金を取ればいい」と一人の園長が言いました。

 別の園長が「それでは、お金の関係が成立してしまう。私は取らないで説教する。他人に迷惑をかけてはいけない、と。お金がすべて解決する、という気持ちが育ってはいけないんです」。

 そうですね、と園長たちが頷く。一緒に子どもを育てているかぎり、それはお金の関係であってはいけない。信頼が育つ関係でなければいけない。政府や行政が知らない次元で保育は成り立ち、会話が成立する。

 

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 挨拶をしない実習生が居て、いちいち指導しなければならない、と嘆く園長。そのまま自然に、挨拶をしない親たちの話になる。積極的に自分からするしかない、と保育士を指導すると、親から園長に「保育士に挨拶させないで下さい。話しかけないで下さい」と苦情。

 「無理です!」と強く言うと、役場に「あの園長こわい」と訴えたそうです。この親も実習生も、幼稚園か保育園に通っていた頃は挨拶をしていたはず。心に内在する人間不信が自己主張が出来る小学校高学年くらいから表れ、親になる。

 

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 モラル・秩序が育たなくなってきた社会で、政府の言う「社会進出」してみても、輝くかどうかはわからない。人間の幸せは、身近な人間関係と安心感による部分がほとんど。

 幼児に全身全霊で頼り信じてもらって人間はひとまず安心する。


 自立を目指せば孤立につながり、幼児期の愛着関係不足が不満となって園長や保育士にぶつかることが増えた。園での信頼関係が崩れると負のサイクルが増幅。優しさと重なる常識が消えてゆく。

 そうした信頼の土壌を壊していくような政治家の施策では、欲のある人がギラギラ輝くチャンスを増やすだけだと思う。

 

 

 

小野省子さんの詩が組曲に。三月十四日18:30に東京オペラシティで演奏会があります。

 私がいつも講演で「おかあさんどこ」と「愛し続けていること」の二つの詩を朗読し、詩集を毎回、全部合わせたら四万部くらい配らせていただいている小野省子さんから連絡が入りました。小野さんの詩に窮地を救われたり、ホッとしたり、人生の意味を教えてもらった人はたくさんいるはずです。私も、いまだに朗読していて泣きそうになることがあります。

 

「母になって、気づいた、せんぱいママ、重み、愛し続けていること」が、組曲になりました。女声合唱とピアノのための組曲です。作曲家の松下耕さんが作って下さいました。

3/14に東京オペラシティで演奏会があります。

3/14(土)東京オペラシティ:リサイタルホール 18:30

旭が丘女声合唱団 第9回演奏会)(2000円、お問い合わせ:宇賀神 090-6038-2708

 

 

母になって

 

時に私は

絶対君主の王となって

腰に手をあて、有無を言わさず、

叫ぶ

なぜ?という問いかけなど無駄だ

「今すぐおもちゃを片付けて

テーブルにつきなさい!」

 

時に私は

彼らの下僕となって

雑巾を持って床をはいずり

彼らの食べかすを拾い集める

 

排泄のたびにパンツをおろし

夜中に目を覚ませば水を運び

眠りにつくまで歌を歌う

 

そうして彼らは

毎晩ふとんの上で

神様になる

私の背中に頬をよせ

私の胸に鼻をうずめ

ぴったりとくっついてくる小さな体

 

私は彼らの存在が

私の過去の過ちを

すべて許してくれたのだ、と信じこみ

しみこんでくる鼓動や

ささやくような温もりに

感謝の祈りを捧げる

 

 

 

気づいた

 

何かを失ったと思っていた

何かを奪われた、と

だけど今、

光の粒をふきあげる噴水のように

キラキラと笑うあなたを見て

あなたが幸せになるなら

私の幸せを全部あげてもいいと思った

 

何かを失ったと思っていた

何かを奪われた、と

だけど今、

公園の芝生の上 両手をひろげて

小鳥のように走ってくるあなたを見て

失ったものなどひとつもない、と気づいた

あなたがあなたの幸せで

私を満たしてくれたんだ、と気づいた

 

 

せんぱいママ

 

大切なのは

愛情よりも根性なのだと

その人は笑った

 

こぼれ落ちるほどの

愛情に満ちた笑顔で

 

根性のない愛なんて

ただの泣きごとなんだと

その人は笑った

 

まぶしい黄色のタンポポが

やわらかな綿毛に変わるように

その人はふいに笑うのをやめて

「だけど、私もいっぱい泣いたよ」と、

やさしく言った

 

重み

 

自分が少し悲しむと

お母さんがすごく悲しむから

それがつらいと娘が言った

 

自分が泣いていると

お母さんがすごく気にするから

それが嫌なんだと 私をにらんだ

 

ああ こうして親たちは

やわらかな手かせ足かせとなるのだろう

あたたかな鎖をからませるのだろう

 

多くの子供たちが その重みで

何かを思いなおすのだろう

何かを思いとどまるのだろう

投げやりに進み始めた歩みは止めて

声をあげて引き返すのだろう

 

 

 

愛し続けていること

 

いつかあなたも

母親に言えないことを

考えたり、したりするでしょう

 

その時は思い出してください

あなたの母親も

子供には言えないことを

ずいぶんしました

 

作ったばかりの離乳食をひっくり返されて

何もわからないあなたの細い腕を

思わず叩いたこともありました

あなたは驚いた目で私をみつめ

小さな手を

不安そうにもぞもぞさせていました

 

夜中、泣きやまないあなたを

布団の上にほったらかして

ため息をつきながら

ながめていたこともありました

あなたはぬくもりを求め

いつまでも涙を流していました

 

私は母親として 自分をはずかしいと思いました

だけど、苦しみにつぶされることはなかった

それは、小さなあなたが

私を愛し続けてくれたからです

 

だからもしいつか

あなたが母親に言えないことを

考えたり、したりして

つらい思いをすることがあったら

思い出してください

 

あなたに愛され続けて救われた私が

いつまでもあなたを

愛し続けていることを

 

 

 

 

 

“Family Breakdown in Developed Societies” by Kazu Matsui

Family
Breakdown in Developed Societies

Kazu
MATSUI

chokoko@aol.com

Summary:

Child-rearing,
in particular raising children in their early childhood, has as its
first objective, how the human qualities of the nurturer are
cultivated, and how the hearts and minds of those who are raising the
children can become as one. Raising children gives rise to the morals
and order of human society.

When
we forget the fact that how patience, kindness and the measure of
happiness of the teachers are fostered, is more important than what
is learned by those who are being taught, the activities of human
society starts to become distorted.

When
the nurturers’ view of happiness ceases to develop on the part of
the parents, this leads to abandoning the family, and compulsory
education in itself becomes unviable. (Welfare can also further the
problem of family breakdown, eventually making it financially
unviable.)

Main
Text:

When
I was 20 years old, I lived for several months in the countryside of
India, and then I moved to the United States in 1975. I asked a
younger female cousin who was in the fifth grade, what sort of things
she talks about with her friends at school.

She
said, “There’s a lot of talk about, ‘my new father this time…,’
and ‘my new mother this time…’ “

Has
there ever been such a time as this in human history?

Some
nursery teachers in Japan also got a foretaste of the breakdown of
the family, characteristic of societies of developed countries that I
had seen. The more cases I heard about, of what was taking place in
the field, the more I realized that the “loss of parental feelings”
had already started to grow in Japan as well.

View
of Children Under a Year Old

I
give talks on the title, “Why did the universe give us children
under a year old?” There is meaning in the fact that a zero year
old is a zero year old.

“The
universe gives us human beings, children under a year old, saying,
‘You should experience inconvenience, and you should be happy.’
Without
the
babies
taking
away our freedom, and if there were no happiness in offering our
freedom, humankind would have been destroyed long ago.”


In
a country where education is widespread, sometimes people can be
bound by the ‘word’ or concept of ‘freedom.’ In my talks, I try to
explain the role of little children to parents, who, by being
conscious of this concept of freedom feel ‘inconvenienced’ [the
Japanese word for this,
fu-jiyuu,
is written with characters meaning, ‘without freedom’] and
discontented.

Human
beings have originally felt happy about being a little
inconvenienced. This is what I call a ‘bond’ between human beings.

At
times
, we feel that having
a bond is bothersome.
Yet,
originally, people feel happiness in depending on each other,
trusting each other, creating bonds and becoming one in heart. If we
feel that inconvenience is not good, for example, it would be
difficult to marry at all. Marriage is to voluntarily choose to
become ‘inconvenienced.’

When
we become anxious or worried, whether there is someone who will help,
or that we can confide in, is what gives us the “strength to
live.” There is not one person in this world who is totally
independent. Even a person who appears to be very independent had to
be helpless when he or she was a baby.

To
give birth to a child means to become even more inconvenienced [or
,
without
freedom
]
than in marriage. The reason why we are able to be alive here today
is because most of our parents felt happy to be inconvenienced by us,
and felt happy to offer their freedom to raise us up.

The
Happiness
of
Not
Having
a
Choice

In
raising a child, there is no choice as to what kind of child we will
have, or what kind of parents we have. People have felt happy indeed
by
the fact that there was no choice. If there is no choice, all we can
do is to raise each other up, and grow together with each other. I
believe that human beings like to work out each other’s roles as if
putting a puzzle together. It is as if we have this mutual, relative,
developmental disorder so that we can confirm the fact that humans
cannot live alone by themselves. This is particularly so
,
between a man and a woman. Because we are not complete, and have
shortcomings, we
truly
need each other.

To
build relationships with infants of 0 to 2 years old, is to become
good at putting puzzles together. When we get to know such babies,
most people, after a year, begin to realize that there is meaning in,
for instance, the existence of a bedridden grandpa, and society as a
whole begins to realize that without such people, the puzzle cannot
be completed. Getting to know a 1 to 2-year-old baby, is like being
with someone who has a developmental disorder, as well as a mental
disability, in terms of behavior patterns. Most people spend an
amazing and wonderful couple of years with babies, and realize that
there is a role to play for people with disabilities also, and that
human beings are meant to raise each other up mutually. Thus,
everyone settles into their roles. However, when we stop dealing with
babies, we tend to lose touch with how to put puzzles together. It is
easy to compartmentalize our thinking, so that the bedridden go here,
the demented go there, the disabled go here, and babies go there.
Yet, social welfare is not able to supplement what is missing. It is
then that human society can begin to fall into disrepair.

The
First Smile

When
a baby grows to about three months old, he or she smiles for the
first time. People who see a baby laugh, feel joy. They feel happy
also, realizing that they themselves are good human beings. They
experience the goodness of their own human nature. And the people who
watch the baby laugh together, can become one in heart.

To
raise a baby is to try to understand daily, how he or she feels,
which the baby cannot teach you or tell you in words. Humankind has
found peace, not in understanding, but in trying to understand
others.

If
I am sitting alone in a park, I could be seen as a strange man. But,
if I’m sitting together with a two

yearold
child, it
is easy to see me as a “good man.” Just by sitting next to
me, the
child,
within the relativity of this universe, makes me a “good man.”
There aren’t too many people who can do this for you. This is not the
will of the two-year-old, but we see the intent of the universe here.

Children
Bring Out One’s Goodness

Why
do people have to observe children in order to live?

I’ve
decided that the most complete human being in my opinion, is a
four-year-old. This is because they trust completely, rely
completely, and on top of it, they seem very happy! This is the ideal
state of a human being that religion seeks for. If you watch children
in the playground of a kindergarten or nursery, you can understand
what I mean. People who look at these children and feel envious, I
believe, have not yet lost sight of their life goal.

Perhaps
the word ‘complete,’ is not the most appropriate. I should probably
describe it as a state of a human being, or a state of mind, that we
should aspire to as a goal.

Young
children trust completely, depend completely, and bring out ‘good
human nature,’ or the ‘goodness of man’ in different kinds of people.
They come together and play, easily express their joys, and teach us
that happiness is not something that we take away, or gain by
winning, but they teach us that “it is how you hold the measure,
the yardstick.” Children playing in a sandbox teach us adults,
“You can be happy with the sand.
If
you can just hold a
yardstick
as we do
, people can
always become happy.” As long as human beings watch playing
children, they will not lose sight of the way. They will be fine.

In
the past, to look at young children, was to see Buddha, to see God,
it was to look at oneself.

The
‘strength to live,’ is not to aim for the independence of the
individual, but it is the strength to build ‘bonds.’
To
trust in each other, and rely on each other, is the ‘strength to
live.’

All
you can do in raising children is to do your best, and for the rest
of the time, to pray. If you have someone who will pray with you,
people will be fine.

“Empathy”
is a Gift from Children

Until
not long ago, human society was quite full of parental feelings. You
could say that society was full of good human nature, which was
brought out by the weak and vulnerable, and with experiences in which
people felt happy about being kind and generous. The great Mahatma
Gandhi of India (1869-1948) advocated nonviolence, and tried to
appeal to the goodness of others, by showing

with dignity
how weak one
was
,
to
an
opponent. His approach to social reform was in accordance with the
laws of a parental heart, the laws of childrearing, the laws of the
universe.

The
role of the wonderful environment of a nursery, or a kindergarten, is
to let the children fulfill their role of “bringing out the
goodness in people.” It would be good to have a parent see
children playing together, repeatedly, and also play together with
them. I would recommend that an adult have this experience, one
person at a time. He or she can be asked, for example, to pull weeds,
while being surrounded by children, or to take care of their toys. He
could even enjoy a little drink …or
whatever
activity is
possible.

I
have witnessed the life of parents change by playing games like
‘Let’s Pretend’ with two-year
olds,
following the policy of a nursery. I have seen, for instance, a
father who was hardened by competition relax, and his face soften
with an indescribable smile. When we are reminded of the yardstick of
happiness that was forgotten, and realize the goodness within
ourselves, parents actually feel relieved. I know of many good
nurseries like this, that “nurture the parental heart.”

Currently,
we are promoting a “one-day nursery staff experience.”
Parents come one by one to a kindergarten or a nursery and spend the
day surrounded by young children. Some cities and prefectures are now
beginning to adopt this approach.

Spread
of Compulsory Education and Breakdown of the Family

In
the United States, it is reported that one out of three children are
born from unwed mothers (40% in the UK, 50% in France). The burden of
childrearing on women has grown abnormally, and opportunities for the
father to be in contact with the children are rapidly and abruptly
dwindling. Kindness and patience seem to be disappearing from
society.
When morals
and order that were being maintained with parent-child relationships
as the pillar of society begin to disappear, education, police, or
the law become powerless.

It is reported that 40%
of the parents
in the US
are divorced by the time a child reaches the age of 18. Children are
no longer the link between parents, as the saying goes; however,
childrearing used to be the link between the parents. For a man and a
woman (husband and wife), the smallest unit of a society, to raise a
child is to confirm that each of them is a “good person.”
This is the starting point of trusting relationships within human
society.

In
1984, the American government identified the issue of children’s
education as the most urgent and important task in the survival of a
nation, and this was big news for about a year.

During
this year, an unprecedented report in American history was made, that
the average
education
level of the children had
become lower than that of their parents. The high school graduation
rate of 35 years ago in the parents’ generation, which was at 50%,
had increased to 72%. This should mean, of course, that the academic
ability of that generation should be greater. The concrete goal of
the spread of compulsory education as a system was being achieved,
but the content of the investigation unfortunately showed the
opposite result. More than 20% of high school graduates could not
read and write adequately enough to work in society.

Our
eyes then turned to the family behind the schools. I wondered if 20%
of parents in the U.S. perhaps had too little interest in the future
of their children, as this illiteracy rate of 20% was found among
“high school graduates.” Although education was compulsory,
28% of the children that year did not graduate from high school. When
these figures are added, I wondered if it meant that nearly 40% of
the parents were indifferent about their children?

When
a system of education becomes widespread and established over a
period of about 50 years, the parents naturally become dependent on
the educational institutions to raise their children. And when time
spent with children decreases greatly, the human relations between
parents and children suffer and weaken. Some parents can become
detached from their children. As the breakdown of the family
advances,
order and
morals rooted in a view of happiness, that is learned through
‘childrearing,’
begins
to disappear. It is impossible for new systems or concepts such as
the law, welfare, school or feelings of happiness gained from power
games, to replace the order or morals rooted in a view of happiness,
that is learned through ‘childrearing.’

It
is good for human beings to be trusted by children, to be grateful
for the time they are trusted, and to live, longing for children.

When
we are confused by the progress of technology or systems, we start
failing to recognize that overly rapid progress atrophies human
sensitivity, which is something that has been nurtured over thousands
of years. I believe it is good to affirm once again, that people are
born to believe in each other, by parents observing children in the
nursery or educational environment.

To
bear and raise a child is the most precious task that human beings
have been granted by the universe. This act is to dialogue with the
universe, and to experience oneself. It is a way to feel deeply one’s
living self, and also a way to understand the meaning of life. People
are satisfied by coming to know their own value in life.

What
is even more valuable, is that the children raise up the parents.
This is the course of the universe itself, and it is to substantiate
oneself. It is to declare that one cannot live by himself or herself,
and to show the way of real altruism. It is to heal those who have
realized that
,
to know is to seek.

A
human being’s instinct and will are what lead parents to raise a
child.

We
see the will and the image of the universe, in a child, raising up
the parent.


—–

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児童発達支援と放課後等デイサービスを始めた人からの相談

2015年2月19日

 身体的障害、知的障害、発達障害と、ひとり一人違う障害児(またはすべての乳幼児)とつきあうことは、仏教的に言えば、生きている仏性をすべての中に見るための一番身近な道。その子たちの役割り、必然性に深く気づかなければ社会の成り立ちは理解できない。だからこそ「訓練」という言葉とはほど遠い「営み」が試されるのです。

 

児童発達支援と放課後等デイサービス を始めた人からの相談がありました。)

Q

 雇った音楽療法士(経験なし24) 、子どもに対して言葉かけが最悪です。虐待に匹敵でした。日頃から見え隠れしていたのですが、まさかあそこまでとは思っていなくて……。急に手が足りなくなって、半日子どもを見ていてもらったのですが、30分の音楽療法ではハッキリしなかったことが、すべてわかりました。人間性の問題です。すぐに解雇したほうがいいですね。

A

 保育士や教師でも同じことなのですが資格と人間性は無関係、それが明らかになる時代です。音楽療法士は国家資格でもない。定義さえ曖昧なほぼだれでも取れる非常にゆるい資格です。通常人間性のチェックは行われないし、すでに市場原理の中に組込まれています。発達障害児や乳幼児は世話をする人の「人間性」に反応するのが役割ですから、現在政府が進めようとしている子育ての「仕組み」とは相容れない動機を持っている。

 

 「仕組み」が資格を要求するのですが、その「資格」が人間を錯覚させる。

 でも幼児の要求は誤摩化しが効かないし、彼らが生まれてくる限り人類はその要求から逃げようがないから、仕組みを成り立たせようとすると、意識的に感性を失うという、後戻りしにくい負のスパイラルが始まってしまうのです。

 いまの保育者養成校や、安易に資格を出して商売している団体の意図を知れば、資格者に人間性を要求するのはもう無理な時代だと思います。当たればラッキー、くらいに考える方がいいでしょう。今の「保育(子育て)は成長産業」と位置づけた閣議決定がこの国を土台から崩してゆくのを止めるには、親たちに、子どもとの関係が双方向に相対的なものだということを知ってもらうしかない。つまり、子どもを育てることが最終目的ではなく、親子が双方向におたがいを体験しあうことが目的だということをまず知識、意識として知ってもらうしかないと思うのです。

 子育ては体験だということを政府や行政、学者やマスコミの多くの人たち忘れていることが、今の仕組みを作り出しているわけです。皮肉なことですが、「子育てに関わる仕組み」が、存続をかけて、そのことを親たちに思い出させることが最優先だと思います。

Q:

 でも、このまえ母親に、子どもに規則正しい生活をさせて下さい、と言ったら激怒されて、役場に通報されてしまったんです。そんなことを言われる筋合いはない、と。

A:

 法律でもある保育所保育指針などには、子どもの最善の利益を考慮し親を導くことが保育の役割りの一つ、とハッキリ書いてあるのですが、これをすることは往々にして、(親への)サービス産業としての「仕組みの存在」を否定する場合がある。それを役場が理解せずに、ただの産業促進の観点でデイサービスを見てしまうと、子どもたちを囲む環境がどんどん悪くなっていく。やはり親を導くことが子どもたちの願いですから、大きな目標を「親子が生かしあうこと」に置いて、指導員は、その主旨を理解してくれる人を探すか育てるしかない。それが本来の姿ですが、これだけ人材が不足していると、長年保育をやっていて、保育士が育て育ちあう関係が出来上がっている施設でもないかぎり難しいですよね。

 親側の愛が強くて周りが見えない、それでモンスターペアレンツになっているのであれば、長い目で見て大丈夫ですが、規制緩和で生まれているいい加減な施設で子どもがどういう日常を送っているか知らない、知ろうとしない親が増えているのはとても危ない。誰しも不安からは逃れたい、目を背けたいもの。専門家に任せておけば大丈夫、という親の不自然な安心感が、親の身勝手、無関心に移行してゆくことが増えています。でもやがて、それはより大きな不安となって親自身に還ってくると思う。「社会で子育て」(仕組みで子育て)と、出来もしないことを言っている人たちの将来にわたる罪は大きいと思います。

 その療法士との関係の意味を考えてみること。その人の幼児期をイメージすることもいいかもしれません。その療法士もいまの仕組みの中で、育つことを阻まれた人なのですから。

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 (児童発達支援と放課後等デイサービスについて大阪で)

 「自分で育てるつもりないよ」と平気で言って、週末1000円で子どもを置いて遊びに行っていってしまう母親がいて、こんなところでは働けない、と障害児デイサービスを辞めた指導員の話を一昨日大阪の教育者たちの集まりで聴きました。障害児手帳を持っていなくてもほとんど審査無しで入れるし、障害者自立支援法で親側は十分の一負担、月額の上限が4600円。すでに飽和状態になりつつある自治体では顧客獲得競争が起っていて、業者側は、保育園より安いですよ、と親を勧誘する。

 「乳幼児は見方によってはみんな発達障害に見えるし、便利だからと言ってデイを利用する母親の子は愛着障害も重なっていることが多いから、簡単に入れるんですよ。でも指導員に専門家を雇えるところなんかほぼ皆無ですし、訓練施設ですから、どうしていいかわからない指導員が虐待まがいの訓練を強いる。子どもが怯えているんです」と憤る。

 先月、熊本県の保育園の園長先生たちが言っていた話と重なる。発達支援でデイでの訓練を終えて園に戻ってきた子どもが暴れる、キレる。どんな訓練をしているのか問い合わせても教えてくれない。その上、親に、「『専門家』(デイの指導員のこと?)のところではおとなしく出来ているのよ、だから素人(保育園)は駄目なのよ」と言われ本当に頭に来た、と話してくれた。

 その子を長い間保育して来た苦労が、こうした親たちの心ない言葉と、専門家のフリをしているにわか訓練士の普及によって、虚しい思いに変わってゆく。親、デイの指導員、保育士、子どもを一緒に育てているはずの三者の心が利害関係の経済論の中で、ますますバラバラになってゆく。心が一つにならない。その狭間で、親との愛着障害どころではない、人間に対する不信感が子どもの人格を形成してゆくのです。こうした状況で育てられた日々の体験は、それがたった一日のことであっても、時に刻印として子どもの心に残り、周りの人々の人生に影響を及ぼし続ける。これが閣議決定された「子育て支援は成長産業」「市場原理」で生まれる不信に満ちた社会の出発点なのです。最近の理解し難い、残酷な事件の傾向を見れば、その背後にこうした「子育て」の状況があることはもう明白でしょう。それでも政府は親子を引き離すことをやめようとしない。

 (愛着障害と犯罪の関係については、NHKクローズアップ現代の報道を踏まえて前々回のブログにすでに書きました。http://kazu-matsui.jp/diary/2015/02/nhkde.html)

 もちろん、部族的な絆が希薄な現代社会で、こういう仕組みを本当に必要としている親子もいる。この仕組みがあったために救われた一家もある。指導員といい関係を作って、人生にゆとりが生まれ、成長できた家族も知っています。発達障害児を育てた親たちが、自分たちの経験を生かし指導員になって和気あいあいと家族のようにやっているところもある。しかし、いまの市場原理にのみ込まれ儲けを主眼にした保育施策は、本当に必要な人たちの福祉さえ踏みにじってしまう方向に動いているのが現実です。

 もう何年も前からこうした発達障害児専門の塾をしている女性が、最近の安易に作られる「訓練所」に対する憤りを語ってくれました。どこへでも証人として出ます、と言っていた。3年前に彼女の塾に見学に行った時に教えてくれたことを思い出します。いわゆる発達障害といわれるこどもを指導する時に、まず親の挨拶の仕方から入るのだ、ということ。親が子どもを連れて来た時に、きちんと挨拶ができるようなると、それだけで子どもが落ち着くというのです。

 一日保育士体験で親が変わると、保育園に対する苦情や文句が一気に減り、子どもたちが落ち着く、という現場を見た私にはよくわかるのです。親の礼儀作法が子どもの成長に不可欠な心の安定に意外と大切なのです。一日保育士体験では、特に父親が「幼児たちと一緒にいる幸せ」に気づくと、子どもたちはみるみる明るくなる。父親が、自分は他の子たちにも責任があるのではないか、という部族的な感覚に少し目覚めるだけで、集団としての子どもたちが輝いてくる。子どもたちの世界は大人が気づいている以上にリンクしている。家庭という基盤が一定の秩序を保っていないと、それは他の子どもたちにも確実に影響してゆくのです。

 すべての人生はリンクしていて幼児たちはその最も大切な、大事にしなければいけない要素なのだということに政府が気づかない限り、いま急速に起り始めている負の連鎖は止まらない。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

放課後等デイサービスは、主に小学生以上から高校生までの学校に通っている障害児が学校の帰りや土曜日、日曜日、祭日などの学校休業日や夏休み、冬休みなどの長期休暇に利用する通所訓練施設児童発達支援は、障害を持つ未就学児を対象にした通所訓練施設。療育や機能訓練に特化した施設、もしくは、幼稚園や保育園の代わりに、ほぼ毎日通う施設として、児童発達支援のサービスを利用するケースがある。平成244月の障害者自立支援法、児童福祉法の改正により、多くの民間企業や一般社団法人が、障害児通所支援事業である放課後等デイサービスや児童発達支援へ参入しやすくなった

(株式会社・合同会社・NPO法人・社団法人、財団法人・社会福祉法人・医療法人)法人であれば、どのような形態の法人でも事業を行うことが可能。指導員は特に資格要件無し 

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シスターから手紙が着ました。久しぶりにシスターの語る言葉に耳を傾けました。https://www.youtube.com/watch?v=SUaQXFUp1_M

「わかちあうこと」とシスターはいつも言っていました。「わかちあうこと」が人間の美しさであり、生きてゆく目的。

特に子育てをわかちあうこと、がいま日本に必要なことだと思います。

 

Dear loving kazu zan,
How are you . Our best wishes to Yoko zan and Rio zan.
We are having our program at New Delhi on 3 Mach.
We are travelling on 28th. 2nd evening we may have the rehearsal.
The concert title is Sound of Freedom.
We are back to Dindigul on the 6th march.
Many of our girls are preparing for their examination.
3 are to complete 8 std, 4 are to write 10th std, 5 are preparing for 12th std
And 5 are doing their college study.
All of them are having their exams in March.
Do remember them all.
Some of them have not seen you. Please do come once.
We look for your arrives.

With love

Sakthi sisters Sr Chandra and Felci


子育てを中心とした「伝統的家庭の価値」(インタビューから)

子育てを中心とした「伝統的家庭の価値」(インタビューから)

 私は時々「伝統的家庭の価値観を取り戻さなければならない」という話します。一部の学者や文化人は「性別役割分担の押し付けだ」と言うのですが、違います。

 家庭崩壊は先進国社会で共通に起こっている人間の欲の問題に起因していると考えています。幸福感の主流が自己の欲に基づくものになってしまい、「利他」ではなくなっている。日本が社会秩序の面でも経済的な面でもうまくやってきたのは、「利他の幸福感」があったからだと思います。そして利他の幸福感は、親心の幸福感と重なっていた。特に幼児を眺め、育てることは、親だけでなく社会全体に利他の心が育つことなのです。

 伝統的家庭の価値観というのは、イスラム教の国、ヒンズー教の国、仏教の国と、各々違います。共通しているのは「子育てを中心とした」価値観です。家族の真ん中に子育てという営みがある。これが共通しているのです。

 欧米と違った日本の伝統的家庭の価値観は、『逝きし世の面影』(渡辺京二著)などを読むとわかるように、父親たちが一様に子育てに深く関わることでした。しかもその姿は子育てというより、子どもを崇拝するような行いだった、と欧米人が書き残している。そして、その風景が国中にいき渡っているのを見た欧米人が百五十年前、この国を「パラダイス」と呼んだのです。江戸で男たちが並んで幼児を抱えて自慢話をしている姿を見て、すでにインドや中国を見た欧米人が、その様子に憧れた。日本の父親は幼児と離れなかった。究極の他力本願、文明の底に流れる独特な易行道だと思います。

 元々働く理由の中心は「子どもを育てるため」というように、子ども優先でした。私にとってはそれが「伝統的家庭」であって、「男が競争社会で働き、女は家で子供を見ていればいい」というのはこの国の伝統的家庭の価値ではありません。

 歴史的に、絆を作る中心にあったのが子育てです。特に〇、一、二歳児という神様のような幼児と付き合うことによって心が一つになっていたということを、もう一度思い起こすべきです。幼児の人間社会における役割分担、人間を「良い人間」にしていくという役割を理解しない限り、家庭崩壊、教育の崩壊、生きる力の喪失、という問題は続くでしょう。

 幼児と触れ合う時間を増やしてほしい。一歳児、二歳児が歩いている姿を見るだけで、人間は遺伝子がオンになる。一緒に座っているだけで、自分がいい人間だと気づく。カトリックは聖母マリアの母子像を崇拝してきました。母子の関係に崇拝すべき何か、利他の美しさを見てきたわけです。仏教でも、良寛様は子どもの中に仏が宿っていると言います。伝統的に、乳幼児は、我々に共通に与えられている「神様、仏様」なのです。乳幼児を眺める時間を全ての人間が毎日持てば、一人前の人類になれるのではないかと思うのです。

 夫婦が子育てを通じてお互いの良い人間性を確認し、育て、信頼関係をつくり、損得を離れた絆を社会に育み続けるために子育ては存在する。子育てを「社会化」すると、地域の絆どころか、夫婦揃っての子育て、社会の最小単位である「夫婦」の絆が崩れていきます。

 何万年と続いてきた子育ての第一義的責任を親から社会へ代えるのであれば、それは人類の進化の根本にあった心の動きと親子の育て合いを放棄することになります。ヒトの遺伝子の組み換えでもしないとこんなことはできないと思います。

 先日、新聞に掲載されたアンケート調査で、二人目の子を生まない理由として最も多かったのが「父親が子育てに参加していない」でした。「経済的に厳しい」というのは三番目以下でした。これには私も納得しました。

 子育ては、男女がお互いの人間性を確認する場です。父親が参加しなければ子育ての本来の意義が失われてしまう。夫婦がお互いに「あの人は良い人だ」と確認し、それが社会全体に広がる。男女でそれをしないと、父親に「責任を感じる幸福感」「我が子に何かを教える幸福感」がなくなっていきます。

 いま日本という不思議な国が目指さなければならないのは、乳幼児の天命をなるべく果たさせる方向に社会の仕組みを持っていくということです。人間社会における彼らの特殊で大切な役割を果たさせてあげる。なるべく多くの人が乳幼児と関わることによって、自分は良い人間だということを実感する体験を増やし、その積み重ねで絆を深めるということですね。幼児の集団は、「頼りきって、信じきって、幸せそう」な、最も完成された人間集団で、そこに漬かっていると遺伝子がオンになって来るのです。

 親であることに幸せを見つけることを「子育て」の第一義とし、「育てたい」「守りたい」という気持ちが社会にモラルや秩序、意欲や絆を生む原点だということに気づかない限り、いじめも不登校も、児童虐待もDVも止まりません。

 最近、道徳教育が議論されていますが、私は「道徳心は幼児から学ぶ」「幼児たちを眺めて生まれる」と思っています。



クローズアップ現代(NHK)〜「愛着障害」と子供たち〜(少年犯罪・加害者の心に何が)



 クローズアップ現代(NHK)で、〜「愛着障害」と子供たち〜(少年犯罪・加害者の心に何が)という番組が放送されました。発育過程で家庭で主に親と愛着関係が作れなかった子どもたちが増えていて、それが社会問題となりつつある。殺人事件を起こした少女の裁判で、幼少期の愛着関係の不足により「愛着障害」が減刑の理由として認められたという内容です。

 さっそく、保育園の園長先生から電話がありました。

 「問題はここですね。保育の現場で私たちがずっと以前から気づいていたことです。肌の触れ合いや言葉掛けが減ってきて、一歳から噛みつく子がますます増えています。保育士が補おうとしても限界があります。手も足りません」。保育士たちが日々保育室で目の当たりにしている光景、いわば愛着障害予備軍の幼児たちなのです。

 行政の方からも電話。「この番組を見て、政府は4月から始める『子ども・子育て支援新制度』をすぐにストップしてもいいくらいだと思います。幼児期の大切さをまるでわかっていない」。

 役場の子育て支援課長がここまではっきり言うのも、今回の新制度は、首相の「もう40万人保育園で預かります。子育てしやすい国をつくります」という二つの矛盾した考えから始まっているからです。3、4、5歳に待機児童はほとんど居ません。幼稚園と保育園でほぼカバー出来ている。首相の言う40万人は自ら発言出来ない、三歳未満児が中心で、番組で言われていた愛着関係の濃淡に最も影響を受けやすい、脳科学的にも人間性の基礎が形成されると言われている一番大切な発育期にある子どもたちなのです。

 政府が経済最優先で進めている改革の中身は、認可保育園での三歳未満児保育を増やす、認定こども園、小規模保育、家庭的保育事業と、市場原理を利用しながら「乳幼児たちと母親を引き離すこと」なのです。そして、すでに小学三年生までの保育でアップアップの学童保育を四月から一気に六年生まで引き上げろと言うのです。指定管理制度の中で抵抗出来ず、行政から言われる通りにやるしかない非正規雇用中心の指導員に、様々なレベルの愛着障害の子どもたちに対応するだけの余力は残っていない。一週間程度の座学で誰でも資格をとれる子育て支援員で誤摩化せるはずもありません。以下、放送された内容です。

(全テキストは)http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail02_3613_all.html

201529日(月)放送

少年犯罪・加害者の心に何が

〜「愛着障害」と子供たち〜

 

 一昨年(2013年)、広島県で起きた少年少女による女子生徒殺害事件。

 事件を主導したとされる少女に1審判決が下り、その背景として、ある障害が指摘されました。今、その障害がさまざまな少年犯罪で要因の1つになっているのではないかと注目されています。(中略)

 「良い行いをして褒めても響かない。悪い行いをしたときに逆ギレしてパニックをよく起こしてしまう。」(中略)

 ”犯行動機に被告人の不遇な成育歴に由来する障害が影響している。裁判では、少女が幼少期に虐待を受け続けたとし、そのことで怒りをコントロールできなかったとしました。精神鑑定で指摘されていた、「愛着障害」の影響を認めたのです。(中略)

 16歳とは思えぬ幼さと粗暴さを感じたといいます。(中略)

 長年、少年院で子供たちと向き合ってきた医師は、今起きている多くの少年事件の背景に、虐待や愛着の問題が存在するといいます。(中略)

 

 関東医療少年院 教育部門 斎藤幸彦法務教官「職員にベタベタと甘えてくる。逆にささいなことで牙をむいてきます。何が不満なのか分からないんですけども、すごいエネルギーで爆発してくる子がいます。なかなか予測ができない中で教育していかなければいけないというのが、非常に難しいと思っています。」(中略)

 愛着障害特有の難しさに加え、さまざまな事情が複雑に絡むので、更生といっても従来の対処法だけでは困難な面があるといいます。(中略)

 

 関東医療少年院 医務課長 遠藤季哉医師「愛着の問題は虐待と関連がありますけど、これは虐待、これは(先天的な)発達障害、みたいに単純には割り切れない。いろんな問題、要素が絡んで本人の複雑な症状をつくり出している、非行をつくり出している。」(中略)

 


高岡健さん(岐阜大学医学部准教授) 愛着っていうのは、しばしば船と港の関係に例えられます。港、すなわち親や家族が安心できる場所、安全な場所であると、船である子供は外の海に向かって悠然と出かけていくことができます。そして燃料が少なくなってくると、また安心な港に帰ることができます。ところが、もしその港がうまく機能していない場合はどうかといいますと、子供はまず、常に裏切られた経験というのを積み重ねてしまった結果、自分を分かってくれる大人なんかいるわけがないという、そういう気持ちに陥りがちです。これが、褒められても喜ばないということですね。(中略)

 むしろ子供の行動や気持ちに対して、必ず応えてあげてることがあるかどうか。私どものことばでは「応答性」と呼びますけれども、応答、すなわち応えてあげてるってことがとても大事なわけです。(子供のほうから声をかけてきたときに親がきちっと向き合うこと?)おっしゃるとおりです。逆にそれを無視してしまいますと、いくら長い時間つきあっていても、それは意味がなくなってきます。

●愛着形成の期間、何歳までが大事?

これはあくまで目安という意味ですけれども、大体3歳ぐらいを過ぎますと、自然にその港から外に行く時間が長くなってきます。(中略)

 

養護施設の職員「養護施設に来る子供たちっていうのはマイナスからの出会いなので、赤ちゃんを抱いているような感覚でずっと接してきました。ここ11年間、それは大変でした。」

 

(ここから再び私見です)

 この番組で指摘されている「幼さ、粗暴さ」、「何が不満なのかわからない」「逆切れしてパニックを起こす」、講演先で出会った中学の先生たちが、最近の中学生の全体像の中で言われた特徴と重なります。犯罪を犯したりする子どもたちは氷山の一角で、似たような子どもたちは程度の差こそあれ確実に増えていて、学校におけるモラルや秩序の維持に影響を与えている。対応する教師たちが限界に近づいている。

 クラスに1人くらいだったら、それはもう人間社会では当たり前のこと、育てる側に絆さえあれば対応出来るのかもしれない。3、4人の軽度の愛着障害+発達障害の子どもと、予備軍的生徒が数人がいると、時に教室の空気、雰囲気は子どもたちにとって調和のとれない辛いものになってゆく。学級崩壊は、その学級の子どもたち全員の人生に影響を及ぼしてゆくのです。このまま無理な施策を進めて行けば連鎖が始まり、何かが一気に崩れ始める。そんな漠然とした不安が教師たちの将来の展望を重くしている。先が見えないのです。

 番組の中で「様々な事情が複雑に絡む」と言われているように、厳密に言えば、すべての人間が愛着障害と発達障害の組み合わせで成り立っている。しかも、その見分けは困難で、だからこそ、成長発達の過程である一定の環境、伝統的家庭観と言ってもいいかもしれませんが、歴史のなかで育まれて来た常識を簡単に崩してはいけない

 (人間の行動は、単純に発達障害+愛着障害+環境、というよりも、発達障害×愛着障害×環境かもしれず、それが学問では予測出来ない人類の歴史を生んできた。それでいいのだと思います。しかし、現在先進国社会で起っている愛着障害の急激な増加は、人類が経験したことのない領域で、あまりにも振れ幅が激し過ぎる。それはつまり欧米先進国で3割から5割の子どもが未婚の母から生まれていること、父親たちが幼児と関わる時間が異常に減少していることに起因していると思います。)

 幼児期の体験は相当決定的で道徳教育などで対応出来る種類のものではない。それはユニセフのこども白書や国連の人権条約などでも言われていたこと。それがあらためて、夜七時半の全国放送で裁判所の判断と共に放送されたのです。

 クローズアップ現代は有名ですし、私は質の高い報道番組だと思って見ています。ここまではっきりと報道されている三歳までの愛着関係と「応答性」の大切さの指摘を、子ども・子育て支援新制度でもう40万人三歳未満児を親から引き離そうとしている首相はなぜ理解しようとしないのか。十年以上前、厚労省が「長時間保育は子どもによくない」と保育界に向けて研究発表した時の長時間が8時間だった。それをいま13時間開所を保育所に要求し、11時間を標準保育、8時間を短時間保育と名付けて進める新制度の意図が、子育ての現場を追い込んでゆく。政府が、この国の親子間の愛着関係を土台から壊し始めている。親を客と考える市場原理を使ってこれを進められては、児童相談所も、学校も養護施設も少年院も対処しきれない。この制度で始まる負の連鎖は長く将来に影響を及ぼすことになる。

 今回の新制度が民主党政権によって新システムと呼ばれ始まった頃、厚労省の人に「私たちもおかしいと思う。財源が確保されていない。人材的にも無理。でも、閣議決定されたら仕方ない。内閣を選んだのは国民でしょう」と言われたことがあります。国民は直接内閣を選んではいないし、選挙に出る候補者を選んでもいない。しかし、この問題に関しては、すべての政党が「待機児童をなくせ」と、幼児の気持ちを考えずに言っているのですからどうしようもない。政治家は、待機児童を無くせというマスコミの論調に踊らされ、乳幼児の姿が見えなくなっているのかもしれない。

 いや、そうではない。もしそうなら、2万1千人の待機児童数と40万人保育所で預かりますという首相の発言の矛盾が説明出来ない。経済の仕組みの本質が幸福論にあることを理解していないか、すっと先のことまでは見ようとしないのか。

 クローズアップ現代のように、間接的ではあるけれど、よく考えれば、ほぼ直接的に新制度の危うさをマスコミが報道してくれる場合もある。あとは親たちの問題、と言い切るのは酷だろうか。子育ての責任回避の傾向はもう仕組みが引き受けられる一線を越えてしまったのか。あの番組の最後に、「そして、今政府は40万人の乳幼児を保育園で預かる施策を進めています」と国谷さんが言わなかったから、みんなことの重大性に気づかなかったのだろうか。

 まだ、大丈夫だと思う。埼玉県や横浜市だけでなく、選択肢のある自治体では7割以上の親たちが三歳未満児は自分で育てるという選択をしている。


 以前、乳幼児は両親、兄弟、祖父母など4、5人の人たちに囲まれ見つめられ、「応答」してもらって育っていた。保育園で、一人の保育士が六人の一歳児を育てるということは、その応答性が、単に6分の1ではなく、人類が本来家庭という場で経験して来た平均の20分の1程度になるということ。それも、家族並みに乳幼児に話しかけてくれる保育士に当たってのことなのです。そのことに親たちも気づいて欲しい。

 そして、今の保育施策はすでに決定的な保育士不足を生み出し、現場に「子どもに話しかけない保育」さえ生み出しているのです。

http://kazu-matsui.jp/diary/2013/12/post-225.html「子どもに話しかけない保育」

 そして、幼児に話しかけない親たちも生み出している。

http://kazu-matsui.jp/diary/2015/01/post-262.html「話しかけない親たち」

 園庭もない保育室で、一日中音楽をかけ続ける保育を見たことがあります。

http://kazu-matsui.jp/diary/2014/04/post-247.html

 政府の幼児の日常を大切にしない、親や経営者の利便性のみを追求した経済優先の保育施策が、乳幼児の過ごす時間の質を考えようとせず、保育園を安易に選択する親を生み出しているのです。

http://kazu-matsui.jp/diary/2014/03/post-241.html

 一歳児の噛みつきと、親身な保育園の奮闘について

http://kazu-matsui.jp/diary/2012/06/post-149.html


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相の所信表明演説から再び

 「子育ても、一つのキャリアです。保育サービスに携わる『子育て支援員』という新しい制度を設け、家庭に専念してきた皆さんも、その経験を生かすことができる社会づくりを進めます」

 子育てという仕事、労働をやったことある人なら、他の子どもの保育も出来るだろう、という考え方です。労働と子育ては次元が異なることがわかっていない。「家庭に専念してきた皆さんも、その経験を生かすことができる社会づくり」と簡単に言いますが、家庭に専念とは一体どういう意味なのか、イメージを持ってしっかり考えてから発言した方がいい。家庭に専念してきたことが、キャリア的に「他人の子どもを、しかも愛着関係とか発達障害があるかもしれない子どもを含めて6人、4、5才児なら30人、8時間保育すること」に役立つと思っているのなら、あまりにも考え方が甘い。保育を知らない。しかも保育士は、嫌になったから簡単に辞めていい種類の職業ではない。


子育てはキャリアではない。「愛着」の意味がわかっていない。

 




0歳児の家庭保育支援/1人に月額数万円給付

 こんな動きが始まっている。今の保育界を支える財政や保育士不足を考えれば、当然こうなってゆくしかないと思う。その第一歩がたぶんあちこちで始まっているはず。そう願いたい。現場で子ども優先に、そうでなくても現実を知る首長や行政が本気で住民のことを考えれば、遅かれ早かれ家庭に子育てを返してゆくしか方法はない。中央政府の政治家の面子や意地(選挙や??)がこの国の伝統的家庭観を壊してしまう前に。


伯耆町、0歳児の家庭保育支援 1人に月額数万円給付保育業界ニュース

http://hoiku-news.blogspot.jp/2015/02/blog-post_5.html

 鳥取県伯耆町は、保育所に預けずに家庭で0歳児を育てる場合、子ども1人につき月額数万円を給付する制度を新年度に創設する方向で検討に乗り出した。出産後、早期に職場復帰して0歳児を保育所に入れる保護者が増える中、経済的支援をすることで、発達上重要とされる0歳児期に家庭で育児ができる環境を整える。家庭保育が進めば、保育士確保の負担も軽くなる。町によると全国的にも珍しい施策という。

 町内で年間に出生する70人前後のうち、60人程度が新制度を利用すると予測した上で、制度設計を進めている。予算は約2千万円を予定し、地方創生関連の国の交付金を充てる見通し。生活保護世帯の0歳児1人当たりに払われる手当の額などを参考にしながら、給付額を詰めている。

 親が家庭で世話をする場合に加え、祖父母ら家族に保育を頼んで親は働きに出るといった形でも給付を認めたい考え。施設に預けたり、ネグレクト(育児放棄)の状態に陥っていたりする状況が確認されれば、支払いを打ち切る。保健師の家庭訪問などを通じて、不適切な支給を防ぐ。

 景気低迷の長期化や、サービス業などを中心とする人手不足などを背景に、町営の保育所に預けられる0歳児は、6年ほど前に比べてほぼ倍増している。子どもと家族との愛情形成を図る上で、0歳児は家庭で保育するのが望ましい在り方だと判断した。

 0歳児の家庭保育が進めば、保育所運営の円滑化にも役立つ。

一般に3歳児は20人につき保育士1人の配置が求められているのに対し、片時も目が離せない0歳児は3人に対し保育士1人を充てる必要がある。0歳児の受け入れが減れば、保育士の慢性的な不足傾向の緩和にもつながる。

 同町の谷口仁志福祉課長は「ここまで踏み込んだ手当の給付は画期的だと思う。発達上の良い影響が見込める上、もう一人産むという方向にもつながるのではないか」と話している。