政府や行政が知らない次元で保育は成り立つ

政府や行政が知らない次元で保育は成り立つ

 

 ある園長から聴いた、その園での話です。

 定員90名の保育園で、土曜日保育に25名来るのです。潜在的な保育士不足に加え、ベテランを確保しようとすれば財源不足になります。異年齢の保育士をバランスよく確保しようとすれば、支出の8割を人件費に廻さないとできません。しかも、11時間以上開所しろとなるともはやシフトが組めない。職員の週休二日制が崩れるのです。

 園長は、幼児の日常に責任があります。それぞれの子どもの充実感や楽しさにも責任があるのです。政府は簡単に仕組みを押し付けてきますが、単に土曜日だけ別の保育士たちにする、というわけにはいかない。

 親たちに、「このままでは職員の健康が保てません。保育は職員の健康に掛かっているんです」と少しきつめに言うと、土曜日保育25名がすぐに8名になったそうです。


 保育や子育ての問題の7割は、仕組みと権利意識が広まり、お互いに親身な会話が出来なくなっていることにある。子ども優先に気持ちを込めて話し合えば、いま保育界を窮地に追い込んでいる数々の問題が解決できるかも知れない。

  土曜日も市が就労証明をきちんと取って、政府が保育をサービス産業化しようとしなければ、子どもはなるべく自分で育てようという哺乳類としての常識が、保育という仕組みを守ってこれたのですが、こんなことを親たちにハッキリ言える園長はもう稀です。親とのトラブルや行政からの変な指導を避けているうちに、子どもの日々を優先し、保育士の健康を体を張って守ろうという園長さえ少数派になってきている。

 

 「保育士と一生の友達になるつもりで」と親たちに言います。

 一緒に育てた人たちなのです。ひょっとするといつかどうしてもわからなくなった時、大切なヒントを教えてくれるのはその人かもしれない。子育てに関わる唯一の相談相手かもしれない。そして何より、幼児期を知っている人に囲まれて子どもは育ってゆくべきなのです。20万年くらい、それが当たり前だったのです。一番輝いていた頃を知っている人たちの目線が必要な時が来るかもしれない。

 

 「遅れて迎えに来た親には超過料金を取ればいい」と一人の園長が言いました。

 別の園長が「それでは、お金の関係が成立してしまう。私は取らないで説教する。他人に迷惑をかけてはいけない、と。お金がすべて解決する、という気持ちが育ってはいけないんです」。

 そうですね、と園長たちが頷く。一緒に子どもを育てているかぎり、それはお金の関係であってはいけない。信頼が育つ関係でなければいけない。政府や行政が知らない次元で保育は成り立ち、会話が成立する。

 

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 挨拶をしない実習生が居て、いちいち指導しなければならない、と嘆く園長。そのまま自然に、挨拶をしない親たちの話になる。積極的に自分からするしかない、と保育士を指導すると、親から園長に「保育士に挨拶させないで下さい。話しかけないで下さい」と苦情。

 「無理です!」と強く言うと、役場に「あの園長こわい」と訴えたそうです。この親も実習生も、幼稚園か保育園に通っていた頃は挨拶をしていたはず。心に内在する人間不信が自己主張が出来る小学校高学年くらいから表れ、親になる。

 

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 モラル・秩序が育たなくなってきた社会で、政府の言う「社会進出」してみても、輝くかどうかはわからない。人間の幸せは、身近な人間関係と安心感による部分がほとんど。

 幼児に全身全霊で頼り信じてもらって人間はひとまず安心する。


 自立を目指せば孤立につながり、幼児期の愛着関係不足が不満となって園長や保育士にぶつかることが増えた。園での信頼関係が崩れると負のサイクルが増幅。優しさと重なる常識が消えてゆく。

 そうした信頼の土壌を壊していくような政治家の施策では、欲のある人がギラギラ輝くチャンスを増やすだけだと思う。

 

 

 

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