泣き声センサー/保育の本質が忘れられる



 泣き声に反応し、メロディや童謡、クラシック音楽、胎内音が流れる「泣き声センサー」を保育に取り入れたいという園からの要望に、行政の人から「保育崩壊、いえ保育壊滅です」と嘆きのメールをもらった。

 「保育資格者がこんなことを言い始め、幼児の心はいつ育つのでしょう」。「保護者は気付いてほしい。大切な我が子がどんな保育をされてるのか」と結ばれていました。行政にも繊細で、出来事の本質を理解する敏感な人が居て、保育という仕組みの中で人間の心が反応するのを求めて泣いている幼児たちの無言の主張をメールで知らせてくるのです。幼児たちの泣き声は、センサーをオンにするための声ではない。人類の人間性をオンにするための音。

 以前このブログに、抱っこしなくて授乳できる哺乳瓶ホルダーの売り込みが保育園に来て、驚いていた園長先生の話を書きましたhttp://kazu-matsui.jp/diary/2015/01/post-262.html。法律でもある「保育所保育指針」の主旨を読めば、哺乳瓶ホルダーも泣き声センサーも法律違反だということがわかるはずです。乳幼児の存在理由が利便性や市場原理の間でますますわからなくなってきている。麻痺している。育てる側に「可愛がる心」を育て、遺伝子に組込まれた人間の「優しさ」をひき出すという乳幼児の命の意味が見えなくなってきている。

 「保育園にお願いする」が、「保育園でもいいんだ」、「誰でもいいんだ」、そして「機械でもいいんだ」と、どんどん進んできているような気がして怖い。それを保育士が言い始めることの危険性をこの市の保育行政の一人は知っている。政府の幼児の気持ちを無視するような心ない施策に必死に毎日抵抗し、現場を見張ってきたからこそ、仕組みから心が消えてゆくことに虚しさを感じるのです。怒りさえ覚える。

 こんな、幼児の気持ち優先に考える役場の人が最近その人の身の回りにも少なくなってきた。だからこそ、「保育壊滅」という言葉が出たのでしょう。

 保育士が資格を取る時に、子育ての本質を学んでいないのか、保育指針を読んでいないのか、と首を傾げたくなります。そして、「資格」という言葉に安心を求めようとしている現代社会の危うさをひしひしと感じます。

 弱者に関わることで生まれる人間社会の本質的な連帯が短時間に加速度的に希薄になり、結果、弱者の孤立化に拍車がかかっている。この孤独感は、すでに福祉とか教育で補える限界を超えている。子育ての意味が、福祉と教育(仕組み)で見失われてゆく。



和先生、こんばんは。

 

 あまりに哀しい出来事があったので、聞いてください。

 監視カメラの次は、泣き声センサーを取り入れたいと言ってきた保育園が現れました。

 「保育崩壊」、いえ「保育壊滅」です。

 自宅向けの商品が人気だとは聞いていましたが、まさか保育資格者が使う時代が来るとは。泣き声に反応して、洗練された遊具からメロディが流れる。クラシックから胎内音に似た音楽まで。機械化した人間から、機械的に育てられたこどもたち。心はいつ育つのでしょう。

  そんな保育を見たら、1保育士は気付いてほしい。自分たちの仕事はなんなのか。2保護者は気付いてほしい。大切な我が子がどんな保育をされてるのか。

 一部の保育園かもしれませんが、氷山の一角なんだと思います。こんな時、監視カメラがあったら、保護者は目新しいと喜んでしまうかと思うと恐ろしくなります。

 以下、メーカーの宣伝を送ります。

   ベビー用品を販売するコンビは、泣き声に反応して動きだす機能付きの「メロディいっぱい!みまもりセンサーメリー」を、全国のベビー用品専門店、玩具専門店、百貨店などで20153月下旬に発売する。赤ちゃんの泣き声に反応し自動で動きだす「みまもりセンサー機能」付きで、感度調整も出来る。メロディは豊富な12種類、童謡からクラシックまで赤ちゃんの気分に合わせて選べる。胎内の音を再現したという「あんしん音」も。肌に優しいふわふわとした下飾りのおもちゃは取り外し可能で洗濯できて、ラトルとしても遊べる。育児や家事に忙しいママをマルチにサポートする。  

 価格は8500円(税抜)、対象月齢は0か月から。単3形アルカリ乾電池4本使用(別売)

 

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 びっくりですね。

 保育所からの要望ですか?

 韓国で監視カメラの保育所における設置が国会で法案として義務付けられた、という記事の紹介を先日ブログでしましたが、それは保育士による虐待を防ごうというのが主旨でしたが、これは保育者が機械で保育をしようということですよね。

 抱っこしなくて授乳できる哺乳瓶ホルダーの売り込みが保育園に来て、驚いていた園長先生がいましたが、乳幼児の存在理由が本能的にわからなくなってきていますね。

 可愛がる、という心を人間の中に育て、遺伝子に組込まれた「優しさ」とつながる本能をひき出すという乳幼児の命の意味が見えなくなってきている。

 「保育園にお願いする」が、「保育園でもいいんだ」、「誰でもいいんだ」、そして「機械でもいいんだ」と、どんどん進んできているような気がして怖いです。人間社会の本質的な連帯が短時間に加速度的に希薄になって、弱者の孤立化に拍車がかかっているいま、政府は「社会で子育て」と言いますが、福祉とか教育で補える限界をすでに超えているんだと思います。子育ての存在意義が、福祉と教育で見失われてゆく感じですね。

 昨日は、群馬の保育協議会で話してきました。同じ時間帯に、長田先生は函館の保育士の集まりで講演していたそうです。反応はとても良かったです。

 保育士たちと保護者に、繰り返し幼児からのメッセージを伝えていくしかないです。

 頑張りましょう。

 

松居

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 この話を聴いた別の園長が言いました。

「作った人は、いいと思って作ったんでしょうね。保育はサービスという厚労省もそうですが、幼児の発達の意味がわかっていない」


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 厚労省が出した保育所保育指針解説書というのがあります。その一番最後にこう書いてあります。

保育所は人が『育ち』『育てる』という人類普遍の価値を共有し、継承し、
広げることを通じて社会に貢献していく重要な場なのです。」


 そうであってほしいと思いますし、そうでなければ人類が危ない、と思います。人類普遍の価値を人間に教えてくれるのが幼児たちだということに、再び、気づかなければいけません。