道祖神たちの遺言を伝えておきたい

一人で六人の一歳児を受け持って、望み通り「抱っこ」してたら腰を痛めてしまうとベテラン保育士が言いました。考えてみれば当たり前で、大自然の法則に照らし合わせても人類には無理な要求なのです。それを数十年やらせてきたのが国基準の保育。当然のように「疲弊し」、子どもたちの信頼を失いながらよくない記憶が蓄積し次世代に負の遺産として受け継がれていく。

自分でやってみないで国基準を考えた人たちがいた、ということ。

そうした既存の「無理」に加えて、ここ十数年政府や子育ての専門家会議が三歳未満児保育を補助金を使って奨励し、十一時間保育を「標準」と名づけ八時間勤務の保育士に押し付ければ、保育士不足は当然のように起きる。そして、保育士を人柄で選べなくなった。

学者たちは一度真面目に考えるといいのです。あなたたちは保育資格くらい簡単にとれる人たちでしょう。でも、他人の三歳児を二十人、八時間、一週間でいい、笑顔で世話できますか? あなたたちの「人柄」はそういうことには向かない。資格は取れても保育は「出来ない」。(私もその一人です。)その現実を把握できないから、資格を持っている潜在保育士が80万人いるから掘り起こせ、などと大臣が馬鹿げたことを言う。「保育はバートで繋げばいいんだ」というとんでもない規制緩和をするのです。

保育は選ばれた、利他の天性を持った人たちがやるもの。子どもたちの要望に応えるのは「人柄」や「生き方」であって学問、知識、学力ではない。

保育に向いていない人たちを責めているのではありません。人類は役割分担で生きるのです。それぞれの役割を探せばいいし、それぞれの絆で補い合えばいい。その方がお互いに嬉しいし、絆が深まれば安心できる。問題なのは、向いていない人たちが「保育に関わる施策」(この国の人間性を左右する施策)を決めてきたこと。保育をできる人ではなく、保育を必要とする人たちが保育施策を考えてきたこと。

もう一つの(素晴らしいと言いたくなるような)問題は、保育に向いている人たち(私が頭に描く園長たち、特に道祖神園長と呼んで、携帯の中に写真を溜め込んでいる人たち)、子どもの日々を優先し、歳を取っても子どもたちに育てられることに喜びを感じる女性たちが競争社会に向いていないこと。自分たちが一人前だと思っている専門家たちが集まる場や会議で本領を発揮しにくい人たちだということです。子育てが「祈り」の領域から学問の領域に入ろうとしているとき、この人たちの遺言を伝えておきたい。私はこの人たちに保育について教わった、いわば伝令役、通訳、翻訳者だと思っています。

幼児たちは、その人生に関わる周りの人間たちの「人間性」を問い、育てるために存在する。特に乳児は、人類の存続に関わる善循環の原点にいる人たち。そして、嬉しいのは、人間は一人残らず全員が「その人たち」だったこと。しかもその人たちと一対一で関わっていれば、ほとんどの人間が、もちろん男たちも含めて、「子育てに向く人たち」になれたということ。まずはその古(いにしえ)のルールだけでも思い出すことです。 

聖母子像

(タミルナード州、ダリットの村で撮りました。)

 追記:「問題なのは、向いていない人たちが『保育に関わる施策』を決めてきたとこと」と書いたのですが、その背後に、その人たちが「経済に関わる施策と外交に関わる施策を決めてきたこと」があって、現在の世界全体の混沌、近年異常に増え続けている幼児虐待と難民の原因になっている、と私は思っています。

https://good-books.co.jp/books/2590/ (新刊、「ママがいい!」の紹介ページです。道祖神たちからの遺言がたくさん載っています。)