0歳から「仕込めば」、色々とできるようにはなる

「0歳からの保育施設利用は子どもの発達に好影響 – “3歳児神話”に提言」という、東北大の調査に基づいた、と言われる記事。
「発達」、人間はいつから、こんな愚かな物差しを持つようになったのか。これが「市場原理」というやつか、学校教育の弊害か。
保育園で、0歳から「仕込めば」、色々とできるようにはなる。それを、家庭で、可愛がられた「何もできない」子どもと比較して、「好影響」と結論づけるのだから、この研究チームは、保育を理解していない。
 内村鑑三の言葉を思い出す。「教育で専門家は育つが、人は育たない」。専門家は、感性を捨てている、ということが言いたかったのではないか。
 そして、アインシュタインは、「情報が知識なのではない、体験が知識なのだ」と言った。
 東北大の調査チームの学生たちに言いたい。
「市場原理に取り込まれ、0歳児の母子分離を手伝うより、なぜ、破綻寸前の学校教育から教師たちが去っていくか、考えてみてほしい。」
最近、こんなニュースが流れてきた。
「うつ病などで休職した教員 初の7000人超 過去最多 文科省調査 | NHK 」
この記事が、あなたたちの言う、「好影響」の結果なのだ、と肝に銘じてほしい。
うつ病などで休職した教員 初の7000人超 過去最多 文科省調査 | NHK
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20241220/k10014673801000.html

0歳からの保育施設利用は子どもの発達に好影響 – “3歳児神話”に提言https://news.mynavi.jp/techplus/article/20241210-3082713/

オレオレ詐欺が成り立つ国は、実は、いい国

オレオレ詐欺が成り立つ国は、実は、いい国なのです。成人した子どもを助けようとする親たちが、まだ多くいる。

少なくとも、オロオロする。だから、「オレオレ」が成り立つ。

その「良さ」を、失わないように。

詐欺は、いいことではない。しかし、それが成り立つ「意識」は、いいことだと、忘れないように。

 

 

 

「寅さん、なぜ、妹が謝る?」

チャンネル48回、引き続き、日本特有の「連帯責任」について、です。

副題は、「寅さん、なぜ、妹が謝る?」、そして、母性が支える「絆」、です。

日・米社会の違いは、「子育ては、親の責任」ということを、社会が空気感として、強く、保っているか、いないかだと思います。

実の親子、「血縁」というつながりが薄れてしまった欧米に比べ、一見非論理的な、本能的とも言える連帯感、責任意識が、日本の親子関係にまだある。

昨今のアメリカ社会の混乱と混沌、その中で、指針を失い、彷徨っている子どもたちの姿を見ていると、親子間、夫婦間の連帯意識なしでは、人間社会は機能しないことがわかります。それは、つまり、体験としての「子育て」が、保育や学校という仕組みによって、消えていくことの怖さ、ということです。

「親の顔が見たい」という言葉が、社会に生き続けることを祈るばかりです。

 

 

 

「子育て支援」は、「子育て放棄支援です」

「ママがいい!」という子どもたちの叫びを無視して、いまだに進む政府の「母子分離施策」。誰でも、いつでも、知らない人に幼児を預けられることが、「子育て安心」なのだ、というこども家庭庁の稚拙なトリック。保育士や教師が、急速に去っていく状況を見れば、この「罠」の結末は見えているのです。

政府の「子育て支援」は、「子育て放棄支援です」と叫んだ園長先生たちの訴えを、なぜ、三十年前に真剣に聴かなかったのか。私は、政治家たちに伝えた。知らなかったとは言わせない。現場の「思い」から離れた、子どもたちの「願い」を無視した「保育施策」が、政治家と保育学者によって進められた。定員割れを起こしている保育科に、「専門性」など教えられない。

 

 

母子分離と義務教育は、絶対に両立しない

今の政府の対応は、15年遅れている。
学校を立て直す気があるなら、出来ることはあったし、何人かの大臣にも伝えた。
何より、教師の応募倍率の劇的な低下を見れば、義務教育が立ち直れない事は明らかだった。
母子分離と義務教育は、絶対に両立しないのです

父性の論理性より、母性の献身性

母子保健推進協議会で講演しました。乳幼児と母親の相談に乗ったり、援助するボランティアの人たちの集まりです。

先日講演した助産師さんの大会でも感じました。民生委員や保護司、ファミサポもそうですが、日本の子育てはこういう善意の人たちの「母性と献身」で守られてきた。父性の論理性より、母性の献身性で秩序を維持してきた。

それに気づかずに、感謝せずに、政治家や経済界が安易で短絡的な経済論、母子分離政策で、子どもが育っていく環境を壊すやり方に、男たちの愚かさを感じる。一縷の望みが絶たれていく、焦りを覚えるのです。

 

翌日、多久市子育て支援センター「でんでんむし」 で講演。

廃校を利用した大きな支援センターでした。

親子を引き離さない仕組みを増やしていけば、そのうち「学校を見限った親子たち」の居場所になるのかも知れません。親が育てればいいのです。😀

不登校児の増え方、愛着障害と思われる教員の増え方とコミュニケーション能力の欠如を考えると、子どもを大事にする親たちは、義務教育を見限る準備を始めた方がいい。

そのためには、子どもたちに信じてもらうことに、幸せを感じる、生き甲斐を感じることです。その姿勢を、入学までに作り上げる。原点に戻ることを考えた方がいい。

「連帯責任」で守りあう

松居和チャンネル、第47回は、

(テーマ)人類は、「連帯責任」で守りあう

副題:法律は十七ヶ条くらいで、あとは「常識」で鎮まるのがいい。

今回は、アメリカと日本の、「連帯責任」、責任の取り方の違いについて、ワシントン市長と、勝新太郎さんの事件を例に挙げ、面白い現象を説明します。

どちらも麻薬で逮捕され、ワシントン市長は捜査手法の違法性を訴え、開き直った。マスコミの批判で辞任しましたが、服役した後、選挙に出て当選した。

「民主主義」の怖いところは、正しいか、正しくないか、ではなく、利権争いで動くところ。

投票する過程で、倫理観ではないものが動いている。学校教育と民主主義が相容れなくなっている。それがアメリカ社会。そこに、日本人には想像もつかない「分断」がある。

一方、日本では、女優の奥さんが謝りまくった。この非論理的な連帯責任が、利権争いとは違った、「情緒的な次元で」動く。

私が、日本という国に、悪くなったとはいえ、希望を持てるのは、「夫婦」と同じように、「親子」という情緒的、本能的な概念に、倫理観の土台を求めることがまだ可能だからです。

法律は、本来、十七ヶ条くらいで、あとは、人々の情緒、「常識」で保たれるのがいい。それが人間社会の、本来の姿なのです。

 

子どもが一番に覚えるのは『諦める』こと」

以前、

「慣らし保育」における「ママがいい!」という子どものすすり泣きを「可哀想に」と思ってしまう元大学の教師に関して、投書と共に、私の意見を書きました。

保育を学問として捉えていた人が、現場で、子どものすすり泣きを聴いて、人として目覚める。嬉しい、投書でした。すると、Twitterの側から来た返信にこうありました。

「これが本当に現実です。保育園で、子どもが一番に覚えるのは『諦める』こと。なかなか諦めることができない子どもは、ずっとずっと泣き続ける。どうしても『可哀想』と思ってしまう。だから保育園を辞めました。」

人生の始まりに、「諦める」ことを覚えさせられる子どもたち。心ある保育者(人間)たちが、その風景に慣れることができず、辞めていく。

今、この国が進もうとしている道筋を象徴する出来事です。

西洋の学問と、東洋の祭り(哲学)が対峙しているように思える。まだ、チャンスはある。

午睡の時間にしのび泣く乳児クラスの男児に「頑張れ」と言うのは、人間性を逸脱している。「可哀想だ」と感じたら、それを口にし、周りを見渡す。人間社会は、そこから始まる。

 

 

「シスター・チャンドラとシャクティの踊り手たち」の上映会

12月14日に、私が制作、監督したドキュメンタリー映画、「シスター・チャンドラとシャクティの踊り手たち」の上映会が16時からヘルシーカフェのら、であります。(お問い合わせは、norakomine@yahoo.co.jp までどうぞ。)

アメリカのインディーズの映画祭で金賞をとった作品です。ぜひ、おいでください。千円、ワンドリンク付きです。私の解説、演奏もあります。私たちが学べる原風景が、そこにはあって、特に家族の関係は興味深いです。

この映像は、「踊り手たち」が来日した時、NHK国際放送で放映されたものです。

「不登校児童の少ない小学校」

松居和チャンネル第46回のテーマは、「人生の道筋がすっきりと見えてくる」瞬間。

副題が、「不登校児童の少ない小学校」です。

講演に行った、ある小学校、不登校児童が少ないのです。津々浦々講演に行きますが、どこでも一割が不登校。学校に対する強烈な不信感が全国に広まっていて、石垣島でもそうでした。政府が母子分離をすれば、こうなるのです。

その向こうに、「行きたくない子どもたち」が、二、三割居て、我慢している。その我慢が、一番怖い。精神的な後遺症になったりする。小学校時代のPTSDは、高校生になって爆発したりする。

その小学校は生徒が二百五十人でしたから、二十五人不登校でもおかしくないのですが、九人です。

すでに話題にもなっていて、訪れる人もいる、と校長先生が言っておられました。

その小学校は、特別支援学校と同じ敷地内にあって、小学生が、そこの中学生と交流している、それがいいのではないか、と女性の校長先生が言うのです。

その小学校へ、卒園児たちが行く幼稚園の園長先生、保育園の園長先生、そして校長先生と私。四人で夕食をしながら話し合ったのです。特別支援学校と小学校が交流する意味について。こんな組み合わせがいい。卒園児たちのことを、いつも心配している園長先生たちも、しきりに頷く。

講演会前後の懇親会は情報を交換し合う、お互いにとっての学びの場で、私も楽しみにしています。その晩も、垣根を越えて、会話が弾みました。

先生が、一対一とか、一対二で、いわゆる「グレーゾーン」の子どもに授業をする特別支援学級とは違い、特別支援学校は、もっと重度の、肢体不自由児とか、知的の問題とか、中学生であっても、先生にすれば二歳児三歳児を教えているような、一人一人みんな違うので、一律には言いにくいのですが、例えば、今日教えたことを、明日は覚えていない、ような子どもたち、身動きが取れない子どもたちがいたりする。

その子たちと交流をしていると、不登校児童が減る。小学生に「生きる意欲」が生まれてくる。私が、「幼児との交流」が人間には必要、と言っている趣旨と同じなのです。

012歳児が、人間性の土台を育てる、「生きる力」に関わるような「働き」が、一人では生きていけない中学生たちにあるのではないか。

そこで人間は、「常識」を手に入れるのだと思うのです。