どなたでも参加できる講演会です。5月20日、愛星幼稚園、小石川白山教会礼拝堂(文京区)です。ぜひ、ご参加ください。お問い合わせは、03ー3813ー8617(愛星幼稚園まで)
子供から、無償の愛をもらっている
松居和チャンネル 第67回です。
前回の、看護学校で講演した感想文の続きから始まります。
「親から無償の愛ではなく、子供から、無償の愛をもらってるというのは共感です。
途中で何度も涙と鼻水が込み上げてくる程に力強く、心に響くお話を聞くことができて、非常に貴重な経験をさせて頂いたと感じています。」
そして、特別支援学校で、生徒が先生を育てていた話が続きます。私が、埼玉県の教育委員長をしていた時のこと。特別支援学校の視察で、教師たちが重度の障害を持った子どもたちに「育てられている」姿を見たのです。
身動きが満足に出来ない中学生が、言葉にはならない言葉で、教師をゆっくりゆっくり育てている。その日教えたことが、次の日には無になっているように思える関係だからこそ、結果を求めず、教える側の人間性が育っていく。
乳幼児が親を親らしく育てる「風景」と重なるものでした。
私が、そう感想を言うと、
「そうなんです、私たちが育てられているんです」と涙を流す先生がいました。

「親心」とは、心の底で、静かに損得勘定から離れること。
教育も、そうだったのかもしれない。
「家庭」があって、その先に「村(むら)社会」がある。だから「頑張る」ことが、「祝う」ことに、生まれかわっていく。
本気で、将来の「経済」を考えるなら、村(むら)社会的な役割を、会社という単位で、再生してほしい。
そして、保育園、幼稚園が、百人くらいの単位で、「絆」を、耕していく。
方法は、「ママがいい!」に書きました。このチャンネルでも言いました。幼児が風景の中にいる、一つ一つの「園」や「会社」が、それをして、「国」が成り立っていくのです。そこに、「国」の存在意義があるのです。
みんなで喜ぶ、可愛がる。祝う。
成人式には、卒園児たちが全員、晴れ着姿で戻ってくる園があります。
「親心のビオトープ」を作るのは、難しいことではない。自然な風景に、還してあげればいいだけ。
きっと、それが、この国の経済にもいいはずなのに。

「母の友」休刊。 看護学校で卒業生に講演。
松居和チャンネル 第66回、(テーマは)「母の友」休刊。
副題:看護学校で卒業生に講演。感想文に感激、
です。
「母の友」は、私が生まれる前の年に、父が創刊した月刊誌です。
絵本の「ぐりとぐら」や、児童文学「魔女の宅急便」など、数々の名作が、そこから世に出されました。「こどものとも」より数年、創刊が早いのです。70年経って、「休刊」になったと新聞で報道されました。タイトル故の紆余曲折、葛藤を経て……、終わったのです。
その時、私が、「ママがいい!」という本を出していて、Amazonで、ジャンル別で、一位になっている。
「受け継いだ」って、感じがする。「ママがいい!」は、「母の友」とも理解できる。
「母性」が、主体になる社会の方が鎮まる、と父も、思っていたのではないか。
太平洋戦争を、命と重ねて体験した世代です。父は、軍国少年でした。あの頃、真面目な少年は、だいたい軍国少年だったのです。お兄さんを二人、戦争で亡くしています。日本が負けた時は、辛かった、怒っていたと思う。
その父が、戦後10年経たないうちに、「母の友」を出版した。
その辺りのことは、「伝記」が、ミネルヴァ書房から出ています。(松居直自伝:「軍国少年から児童文学の世界へ」)

父のことをチャンネルで少し話し、尼崎で、看護師さんの養成校の50周年記念、卒業記念講演をした時の話を、今回はしました。
二度、別の看護学校の卒業式で講演したことがありますが、ほぼ全員女性。高校生の時に、人生に向き合い、道筋を決めた人たち。(私は、女性たちの集まりに呼ばれることが多いのです。女性が結束する時の「思い」と、「ママがいい!」の次元が重なるのだと思っています。)
いつか子どもが産まれれば、この人たちも、「ママがいい!」という言葉と直面しなければならない。それが、「分岐点」になるかもしれない「職業」を選んだ人たちです。
単純で、しかし深い所で、耳を傾けてくれる人たち。一生懸命話します。
保育団体、園長先生たちの勉強会で、講演を頼まれても、私は、保育者養成校の卒業式に呼ばれたことはないのです。
「社会で子育て」、専門性で「子育て」ができるという授業を、覆すようなことを言うからでしょう。私を仕込んだ、四十年前の祖母心で保育を考える園長たちの遺言を、伝えようとするからでしょう。
質疑応答の時でした。
実習先で、背中をトントンして、幼児を、寝かしつけていたら、「ママがいい!」と小声で言われた。
その学生さんの顔には、少し、戸惑いがあって、迷路の分岐点に立っている、声でした。
「そんな時は、嬉しく思って下さい。いい、ママがいるんだね、良かったね」と、心の中でつぶやいて下さい、と言ったのです。
すると、会場に、拍手が湧き起こったのです。湧き水のように溢れ出る、自然な拍手でした。
人間の美しさ、に対する拍手だったのかもしれない。
ああ、この学生たちは、看護師さんたちだ、と涙が出そうになりました。
看護学校は、感想文が来るのが、早い。😀
しかも、50周年記念講演だったので、卒業生だけでなく、年配の看護師さんたちからも届きました。
「子どもが生まれてからのことを思い出し、泣きながら講義を聞いていました。
子ども達が幸せをもたらしてくれていたことと、親として成長出来ていないことと、後悔と。」
「世の中が、パズルの組み合わせで、出来ていて、どんな人でも必要なピースとして存在している ということを感じることが出来ました。
これから病棟で多くの高齢者の方々とお会いすることになると思うのですが、誰一人欠けることのないピースである、と意識して接していきたいと思います。」
「乳幼児が大人に与える影響について、私の想像を越えたお話を頂き、大変勉強になりました。子供を看護する状況になった時に、思い出そう、という気持ちになりました。」
「言葉では表せない、どこか異空間にいるような話で、興味深かった。普段現実的な性格で想像豊かになることがないため、いい経験になりました。
とにかく可愛がることが大切だと学びました。」
「異空間」。
012歳がいる「風景」は、「異空間」なのです。言葉では表せない、魂の、コミュニケーションが生まれるのが、その空間で、その風景。
012歳は、半分、あっち側にいる人たち、なのです。

「こども誰でも通園制度」は「経済対策」
「A.I.」も、三歳未満児保育は「気をつけろ」と言う
世界中のデジタル化された情報が入力されていると言われる「A.I.」が、三歳未満児を預けることについて質問すると、「気をつけろ」と言う。(詳細は、松居和チャンネルを)
「『安心して預けられる』と実感できる環境かどうか、注意して、確認して」と言う。
それを、政府が「いつでも誰でも預けられる仕組みにする。それが、子育て『安心』だと言うのだから話にならない。誰の安心なのか、本末転倒になっている。
そして、その「質を問わない」皺寄せが、致命的な教員不足に、危機的に連鎖している。
以前、80万人いる「潜在保育士」(資格を持っていながら、保育をしていない人)を、掘り起こせ、と言った厚労大臣がいた。自らを埋めた人、そのまま埋めておいて欲しい人がほとんど。

保育は資格(専門性)でするものではない。「人間性」でするもの。そこを理解しない限り、保育士も教員も、返ってこない。
三歳未満児保育について、「A.I. 」対「学問」
松居和チャンネル 第65回(テーマは)「ママがいい!」って、国連さえ言っていた。
そして、副題は:A.I. 対「学問」、にしました。
A.I.に「三歳未満児保育の賛否を尋ねると」、こんな答えが返ってきました。(全文はチャンネルに)
『3歳未満児保育が子どもの発達に与える影響は、保育施設の質や家庭環境との組み合わせ、子どもの個性などにより異なります。(中略)もし保育を選択する場合には、施設の見学やスタッフとのコミュニケーションを通じて「安心して預けられる」と実感できる環境かどうかをしっかり確認することが望ましいでしょう。』
A.I.でさえ「しっかり確認することが望ましい」と言っている。
前回のテーマにした東北大の研究、「発達に悪影響はないので安心して預けてほしい」などと、安易に無責任なことは、言わない。
A.I.ですから、この問題で失敗し、家庭崩壊が日常になってしまった「欧米諸国の研究」を参考にしているのでしょう。これが、人類が、とりあえず行き着いた「グローバルスタンダード」と言ってもいい。
女性の社会進出が常識になっている欧米でさえ、「『安心して預けられる』と実感できる環境かどうか、注意して、確認して」と示唆している。
三歳未満から「安心して預けろ」という研究発表に携わった東北大の学生たちに、言いたいのです。保育界の現場を知っているのか、調べたのか、と。
市場原理に取り込まれ、政府の母子分離政策を手伝うより、破綻寸前の学校教育から、なぜ教師たちが去っていくか、考えて欲しい。研究すべき「流れ」と「現実」は、そちらの方にある。
これを担当した教授が既に決めているであろう、「安心して、預けろ」の、「安心」は究極のグレーゾーンであって、「誰の安心?」かさえ、定かでない。その現実を、「発達」という言葉を使って誤魔化し、保育を歪曲化している。
(チャンネル第59回『一人の、正直な「学者」』ぜひ、ご覧下さい。)

「経済論」では見えない「本質」」が、保育室にはある。こういう研究、発信をするなら、三時間でいい、そこで過ごしてみてほしい。三歳未満児が、何を探しているのか、自分の人間性で、見極めてほしい。
どこの保育科も定員割れを起こし、養成校が次々に潰れていく。なぜ、そうした仕組みの「根っこ」が崩れようとしているかが見えてくるはず。
保育士たちは、ずっと政府の母子分離政策に「違和感」を感じてきたのです。それが、最近ますます強くなっているのは、こういう国立大学の研究、それを後押しするマスコミ報道を鵜呑みにし、「気楽に、預ける親たち」「後ろめたさを感じない親たち」が増えてきたから。
国連さえ言っている「子どもたちの権利」が、隅に押しやられ、誰でも、預けられること」が、「子育て安心」(プラン)だと、政府は、言うのです。
その矛盾した論理に、なぜ、マスコミや保育学者が抵抗しないのか。
心ある保育士たちは、ここまで頑張ってきた。
それが、限界を越えようとしている。
意識改革が、必要です。

大酋長ジョセフからの伝言

「大酋長ジョセフの言葉」
ジョセフは、白人の学校などいらないと答えた。
「なぜ学校はいらないのか?」と委員が尋ねた。
「教会をつくれなどと教えるからだ」とジョセフは答えた。
「教会はいらないのか?」
「いらない。教会など欲しくない」
「なぜ教会がいらないのか?」
「彼らは神のことで口論せよと教える。われわれはそんなことを学びたくない。われわれとて時には地上のことで人と争うこともあるが、神について口論したくはない。われわれはそんなことを学びたくないのだ」
(『我が魂を聖地に埋めよ』ブラウン著、草思社)

4月26日(日) 16:00 縄文をテーマに演奏します。
この国を、子どもたちのために、守らなければ
欧米を追いかける「家庭崩壊」がこの国でも始まっています。だからこそ、保育士や教師という仕事は大切で、やり甲斐のある仕事で、頑張ってほしい。この人たちの幸せを必死に支えなければいけない。それには、「あんたの子だろ」と、必要な時に園長が親に言える雰囲気を、現場に残しておかなければいけない。
募集しても倍率が出ない、保育士の給料がすべての職種の平均より月10万円も低いなどという仕組みでは到底無理だということを、まず、最初に親たちが認識して欲しい。
衆議院調査局「RESEARCH BUREAU 論究第16号に少し丁寧に書きました。ぜひ、読んでください。
本来、非認知能力が育つ土壌は、子どもの周りで生きている人々が心を一つにして、「可愛がる」という風景であって、子どもを拝み、楽しみながら受け継がれていくものでした。それを、学問が壊そうとしている。
私が以前インドで見た風景が、今でも語りかけてくるのです。
親が子どもの幸せを願い、子どもが親の願いをかなえようとする、それが世代を超えて、糸車のように回っていく。
私の作ったドキュメンタリー映画からです。
この風景を見て、貧しい村人の親子の「持参金」をめぐる発言を、無教養だから、教育を受けていないから、と言う人もいるでしょう。
それは確かにそうでしょう。しかし、学問よりも深く、より単純な法則がそこにはあって、DNAの中に仕組まれた伝承の力が「子育て」を柱に、その法則をつないできた。これを忘れるとすべての制度や仕組みが人間性(非認知能力)を失っていくのだ、ということも事実です。
「いい人」とは? と言う問いかけが残ります。
キリスト教では「愛にあふれた人」と言い、仏教では「慈悲深い人」という言い方になるのでしょうか。普通の人、ふつうの親、ということです。
(このドキュメンタリーの上映会をご希望の方は、matsuikazu6@gmail.comまで、ご連絡ください。無料です。)
「ママがいい!」、再び、Amazonのジャンル別1位になっています。
ぜひ、ぜひ、周りの方たちに、一読するよう、薦めて下さい。この国を、子どもたちのために、守らなければ。

欧米の家庭崩壊に関しては以下のリンクを参照にしてください。
http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1413 (捨てられる養子たち)
http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1428 (米国におけるクラック児・胎児性機能障害(FAS)と学級崩壊)
衆議院調査局「RESEARCH BUREAU 論究第16号 2019.12」
「選択的夫婦別姓について」。「対立と分断の時代」
▼松居和チャンネル、第64回のテーマは、「選択的夫婦別姓について」。副題は、「対立の時代」、「分断の時代」、としました。
冒頭、いきなりsayaさんに、「聞いてみたい、ことがあったので」と言われ、「選択的夫婦別姓、について。親にとっては『選択的』だけども、子どもにとっては、強制的じゃないか、と反対している方が多い。子どもが大きくなった時に、家族の一体感はどうなのか。戸籍を廃止する動きにつながってくるのではないか。」と訊かれました。
夫婦別姓問題に関しては、家族の崩壊につながる「確率が高まる」ことだと思います。それが、すでに進んでいる家庭崩壊の流れに拍車をかける、それは、避けたい。
その思いが、まず第一。
しかし、「男女平等とか、民主主義という理念があって、その『理念』をどこまで通すのがいいのか。
そのあたりから、根深い「対立と分断」が起こっている。
私は、012歳が安心して、安定した『時』を過ごせること、それを、社会の動きを考える、第一の視点にしています。
『子どもの最善の利益を優先する』という、(これは、人類存続の第一条件)子どもの権利条約に書いてあることが、物差しの根本なのです」。そうsayaさんに答えて、対談が始まりました。
私にとっては、「夫婦別姓問題」は、所詮大人たちの「権利意識と、生活スタイルにおける都合、「選択肢」の問題なのです。
大人たちにとっては、「選択できる」こと。
「012歳を、母親から引き離すこと」とは、次元が違う。
母子分離は、子どもたちの側に選択肢がない。喋れないのですから。だからこそ、ルールは、何万年も守られてきた。その、人類の進化の条件が、突然、ないがしろにされているのです。
絶対に逃れられない「性的役割分担」を不平等であるとして、利権争いの場に引き出せば、「闘う意識」が争点そのものになっていく。分断の「力」が、増すばかり。「法的な問題」を象徴的な事例で争うことで、「人間としての優しさ」「許容力」が消えていく。その方が心配です。
欧米がそうだった。性的役割分担を否定して、「平等」というものに近づけようとしても、潜在的、絶対的な無理、矛盾がある。それは確かに、家庭崩壊につながっていった。しかも、それは許さない、という位置に、いま、回教徒たちがいる。
そんなことも話しました。
私の発言が、正しいというわけではありません。こういう視点がある、ということを、理解していただくことを願うしかありません。最近の「分断と対立」を求める動きは異常です。012歳という、仲裁者の存在意義が弱くなっているからです。
どうぞ、よろしくお願いいたします。


