父親からの手紙/市場原理

2012年7月15日

保育はサービス産業ではない

  新聞にいまの参議院を通るかもしれない、あぶないなあ、と思う法案が載っていました。消費税を通すための三党合意の中で、駆け引きに使われたのでしょうか。株式会社が認可保育園の条件を満たし、その地域に待機児童がいれば自治体は株式会社の認可申請を受理しなければならない、という法案でした。

 当たり前だろう、と事情を知らない人は思うかもしれないこの法案の裏側に、いまの保育界を根底から揺さぶる、ひょっとするとこの国の「保育」「子育て」の概念を変えてしまうかもしれないせめぎ合いが見えます。

 現在ある認可保育所の国基準は、心ある園長たちが「最低基準」と呼んでいる「最低」のもの。たとえば、保育士は三人に二人が資格を持っていればいい、というのが国基準ですが、多くの自治体で「11時間開所を可能にするために必要な2時間3時間のパートを除けば,基本的に全員資格を持っていること」を基準にしています。(東京都は逆に認証保育所という新たな仕組みを作り、三人に一人資格を持っていればいい、としています。)乳幼児に関しては国基準以上の保育士の加配を自治体主導で行っているところがまだたくさんあります。現場からの「いまの基準でもまだまだ足りない」という声に耳を傾けてきたからです。

 加えて、法的に参入が可能な株式会社には確かに理不尽で不公平かもしれませんが、保育はなるべく社会福祉法人でと暗に決めている自治体もあります。これは、株式会社が入ってくると、親をサービスの相手、お客さんと考えることで、積極的に長時間預かったり、夕食を出したり、長い目で見ると子どもの幸せにはつながりそうもない市場原理がはたらくことを恐れているからです。そうした「保育・子育て」をめぐる意思表示も自治体に認可の権限があったからできました。これが取り払われると保育界における市場原理の参入を食い止めるのは、もはや市場原理しかない、ということになってくる。ちょっとややこしいことを言いましたが、なるべくわかりやすく説明してみます。

 大学や専門学校の保育科で軒並み定員割れが起こっていて、幼稚園も含めてここまで保育者が足りない状況が蔓延している中、いま市場原理において勝ち負けを決めるのは、「保育者を確保した方が勝つ」という保育者の獲得競争です。すでに株式会社系はヘッドスタートしていて派遣会社もラジオに宣伝を打っています。学校ごとに急激な青田刈りが行われています。

 保育園でハローワークに一人求人を出せば応募はゼロ、次の日に派遣会社から「うちから雇いませんか?」という電話がかかってくる、それが歪んだ現状なのです。保育はただ預かっていればいいという託児ではない。小学校の先生が半年ごとに変わる派遣会社の職員だったら社会問題になるはず。乳幼児期に子どもが育つ環境が、将来のこの国の経済や安心感を支えるのだということはちょっと考えればわかるはず。派遣や短時間のパートで回していく保育では将来この国を支えきれないのです。

 確かにいままでの保育界は、社会福祉法人という一つの利権の上にあぐらをかいていた側面がありました。だからこそ、「子ども・子育て新システム」の議論の中で保育界が一体になれなかった。子どもの生活が第一と、考えれば幼稚園の団体と保育園の団体が一体になって反対することだって出来たはず。いま保育が市場原理に取り込まれようとしている時に、保育界が先頭に立って「子どものため」「子ども優先」と言わなければいけないのに、それができていないのは保育界が保育業界でもあった証でもあります。だから私もいまのままでいい、とは思いません。しかし、いまこの時点で、保育へのビジネスの参入を許すのであれば、「待機児童は、購買意欲を煽るように、意図的に増やすことができる」ということ。そしてもう一つ、「幼児とつきあうことで、人間社会にモラル・秩序、絆が生まれる。一緒に育てることが夫婦、そして社会に信頼関係を生む」この2点だけはしっかり肝に銘じておいてほしいと思うのです。

 子育ての社会化は男女間の信頼関係を希薄にし、真の意味での男女共同参画社会を崩してゆきます。

 人間は一人では生きられない、というメッセージを幼児たちからもらい続けることが人間という種の進化の根幹にあったのです。

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 幼稚園のキモチ(子どもの居場所新事情)という新聞記事の見出しに「共働きも(幼稚園に)預けたい国に」「教育も保育も進化型続々」「教育の場、なお変革に壁」といった言葉が踊ります。いまの保育・教育、子どもたちを囲む現状を考えると、30年前に比べ良くなっているとは思えません。「進化」「変革」という言葉が、実は子ども主体から親主体、心主体から経済主体の道を進んでいることは「預けたい国に」という見出しに現れています。それがいかに不自然かということになぜ気づかないのか。

ーーーーーーーーーー父親からの手紙ーーーーーーーーーーー

松居様

昨日、講演を聞いた者です。

何か、表現し難いものに興奮し、また感動し、寝付けずにいます。

結論から言えば。

子供を持ち、親になったことで得られたことがあると強く感じます。

今年35歳になりますが、まだ独身でいる友達が両手に余ります。

正に非論理的盛りの2歳児を育てながら、今、ここに、幸せが手の中にあるような、、、

目に見えない形のないものを実感しています。

独身の頃には、時間もお金も好きなように使えて(自由にとは言いませんが)、それが結婚したら。

この時代の夫は、家事を手伝い、小遣いは十分の一、

輪を掛けて休みの日には子供の面倒を見なくては、しなくてはならない。

子供が生まれて1年半で、10キロ吸い取られるように痩せました。

この話をすると、現在50代のお父さんたちは、「時代が違う」と後悔か懺悔かをにじませ言います。

それでも、この不自由の中にも確かに幸せを感じられました。

先生のような悟りや確信を得られた訳ではありませんが。

一番強く思ったのは、「俺もこうだったのかな」と。

長年父親に対して様々な思いを感じたことが浄化したような。

俺の親父も、こうやっておむつを替えて、チンチンに付いたうんこを拭いてくれてたのかなと。

刺し違えてでも母と妹を守る、とさえ思ったことのある親父のことを、自分勝手に理解し合えたような、不思議な満ちた感覚を得ました。

何か大きなものをもらった時に、自分も何か言い返したいというか、訴えたいというか、言いたいことを言っている人は、エネルギーに満ちているし、若く見える。先生もそんな感じでした。

そんなまとまらないお礼を言いたいと思ってメールしました。

p.s. 仕事が多少忙しいですが、9月に一日保育します。

ーーーーーーーーー保育士からの手紙ーーーーーーーーーー

 松居先生、ご無沙汰しております。お元気でいらっしゃいますか?

 6月18日より、1日保育士体験を始めました。まだ、3人の方の実施ですが、その方々のご意見は、まさに先生がおっしゃっていたとおりでした。

 どのかたにも、5歳児の子どもに読み聞かせをしてもらっていますが、それも大好評です。保育士も体験の保護者が来られると、嬉しいですし、子ども達は大喜びです。先日、理事が様子を見に来られました。(先生とお食事をご一緒したときに先生の向かいに座られた華奢な方です)市をあげて実施する方向へもって行きたいと後押ししてくださっています。

 そこで、先生にご相談なのですが、公立保育所の職員対象で研修をお願い出来ないでしょうか?そして、誠に情けないのですが、交通費が出ませんので、先生が西日本方面へ来られるような時に、西宮に寄っていただけるようなスケジュールの時はありませんでしょうか?いつもいつも、無理を言ってすみません。また、お返事を待っています。よろしくお願いいたします。

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 去年の11月のフジテレビ朝の番組で、主に0歳児の保育園における過密状態の報道がされていました。

 番組が、100名の保育士たちに意見を聴こうとしたところ、1200名から回答があったと言うのです。ここに、現場の状況を一番良く知る保育士たちの叫びがあります。それを聴いてほしい。自分で、言葉で話すことができない子どもたちに毎日接している保育士たちの叫びは、子どもたちの叫びでもあるのです。過密は噛み付きにつながる状況もちゃんと語られていました。

 最後に女性のコメンテーターが「若い母親たちはそれでも頑張っている」と言って、まとめられてしまいましたが、子どものために一生懸命発言してくれるのは結局保育士たちだけのようです。

 ある大臣は「子育ては専門家に任せとけばいいのよ」と言う。そして、「あなたたちが365日保育園を開けとかないから、女性が働けないのよ」と保育団体の理事に向かって言うのです。

 ある役人は「閣議決定されたらしかたないでしょう。内閣を選んだのは国民じゃないですか」と私に言うのです。

 起業家は「市場原理を導入すればサービスは向上する。保育所で夕食を出せばいいのに、役所がそれを止めようとする」と文句を言います。この場合のサービスは、親に対するサービスです。夕食は、出せばいいというものではない。わかちあう、食卓を囲む、料理をする、待ち望む、様々な行為が人間関係を育てるためにあるのです。

 サービス産業として保育に目をつけ、ビジネスを始めた創業者が新聞のインタビューに答えて言います。一年目は保育士の離職率が5割だったのを2割にまで減らしました、と自慢げです。株主や経営者の心を持ったひとたちは、それはなかなか良くやったと思うのでしょう。しかし、保育の現場を知るひとたちは思うのです。「離職率が5割だった時も、子どもたちは一生に一回きりの大切な一年をそこで過ごしていたんだ」。5割の保育士が子どもを置いて離職する環境、それがどういうものなのか、親たちは、知らずに「頑張って」いたのでしょうか。

 未満児は報告が出来ない。保育は見えない部分に存在するのです。想像するしかないのです。

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船中八策(私流)/子ども中心に

 もうすぐ夏休み。新入園児たちの生活も落ち着き本当の意味で保育園の生活がはじまっています。最近毎週二つ保育園に講演に行くので、都会から田舎まで、子どもたちの楽しそうな声に何度も囲まれます。
 しかし同時に、0、1、2歳が、親の知らないところで苦しんでいる風景がなぜか集中して私に告げられます。親の目の届かないところにいる子どもたちが増えているからでしょう。この国はまだ大丈夫、と25年間言い続けてきた自信がふと崩れそうになる時があるのです。
 数字を見れば、欧米に比べ奇跡的に状況は良いのです。半数の子どもが未婚の母から生まれ家族という形が社会の基盤ではなくなり福祉が限界にきているフランスや北欧。人口の100人に一人が刑務所の中にいて、教師の質が低下し高卒の2割が社会で通用するだけの読み書きができないアメリカ。半世紀にわたる子育ての社会化により家庭の力が弱まりシステムそのものが疲弊し経済不況がそれに追い打ちをかけているのが先進国社会に共通した現状です。
 しかし、比較して欧米よりいいからというのはもはや気休めに過ぎません。日本も引き返せないぎりぎりのところまで来ています。

 保育の現場で職員に欠員が出ても保育者がなかなかみつからない。
 規制緩和が進み、家庭保育室という名で100人規模の認可外保育所がつくられている。
 二つの動きのうしろにある動機の方向性の矛盾を考えれば、子どもたちが育ってゆく環境に明らかに無理が生じているのです。
 公立の保育士の6割が非正規雇用、多くの保育士が、生活保護受給者より低い手取り賃金で国の魂のインフラに関わる仕事をしています。一部の都会を除けば親たちへの対応も、年々厳しくなってきています。
 派遣会社が保育科の学生の青田刈りをし、株式会社はサービス産業と企業の論理を保育士に教えようとします。
 競争原理は保育界においては成り立たない。成り立ってはいけないのです。
 サービスの相手が親たちであって子どもたちではないからです。そのことに気づいた保育士たちは生き甲斐を失い離れてゆく。実習で気づく学生もいます。ビジネス主体に保育を考える人たちは、子どもたちの笑顔に囲まれていたい保育士たちの幸福観を見誤っています。

 役場の職員が止めても、いい事をしているつもりで「三人目を産めば保育料無料」という施策を進めた町長がいました。山の中の小さな町です。0歳から預ける親が一気に増えます。得した感じがするからです。福祉が社会から人間性を奪う仕組みに町長は気づいていない。この町に生まれた三人目の子どもは、三人目というだけで親と過ごす時間を奪われる可能性が高くなったのです。つい最近まで政府が進めようとしていた「子ども・子育て新システム」も、5年以内に三歳未満児を25万人あずかろうという目標を始めに掲げた雇用労働施策でした。子どもの願い、保育士の思い、現場の窮状を理解していないのか、理解したくないのか。衆議院と参議院のねじれがなくそのまま通っていたら、と思うとヒヤッとします。この国は運がいいと思うのです。
 児童養護施設が虐待を受けた子どもたちでいっぱいです。これ以上引き受けられない状況が続きます。この親子はあぶないと思ってもすぐに受け皿がない。保育園が代わりの施設として使われはじめています。親子を引き離すことで子どもを守らなければならない状況を作り出すことがどれほど高コストとなって還ってくるか、国全体が理解していい頃だと思うのですが。
 役場の職員も、保育者も、教師も、限界に近づいています。システム自体がすでに矛盾を抱えおかしくなっているのに、それを担っている人たちがそれを職業にしていることで落ち度を批判される。「いじめ」は、父親同士が友だちかもしれないという意識を子どもたちが持っていたらまず起きません。起きたとしても容易に止められます。
 子どもたちが起こす問題の多くが、大人たちが絆を作っていないことに対する子どもたちの警告です。大自然からのメッセージです。子どもたちを監視し指導しても解決はしません。

 「子育て」が中心にあった人間社会の心の動線が迷路に入っています。

 園で写真を撮る仕事をしている人から告げられたのが最近
の報告でした。時間以内に済ませるためでしょう、泣いている子どもの口に保育士が食べ物を押しこみ続ける、可哀想で見ていられない。そんな園で、親に渡すアルバム用に写真を撮ってくれと依頼される。もともと感性で仕事をしている人間が悪意のない利害関係のなかで
この光景を見せられる。シャッターを切るべきなのか、そうでないのか。
 社会全体が人間性を失い、人の動きがシステム化し無感覚になりはじめている。その無感覚さが子どもたちを包んでいます。この先この子たちがどう進化してゆくのか心配です。
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誰が育てた子なのでしょう

 

 都内の小学校のPTAで講演しました。講演後に、どうしても、と個人的に質問をされた方が数人いました。

 小学校の低学年の子どもがいるということは、結婚して十数年、子育てして7、8年、この時期の悩みは深刻です。問題があると、それがそろそろ固定化してきていて、しかも解決方法がわからない。相談相手がいない。家庭内で起こる人間の心の様々なひずみやすれ違いが、DVや児童虐待に進んでいることもあります。心療内科が認知され、母親が向精神薬を飲むケースも増えています。「子はかすがい」ではなく「子育てがかすがい」だったのに、様々な理由で充分に一緒に子育てを体験しなかった夫婦関係にほころびが見え始めるのがこの頃です。

 一緒に子どもを眺める時間の大切さに気づかなかったこともありますが、父親が乳児に人間らしく育ててもらえなかったことが第一の原因でしょう。父親が子どもを授かって最初の三年間、毎日5分でも赤ん坊を抱いていれば、自分を信じきって頼りきって生きている命を実感していれば、ずいぶん一家の人生が違っていたはずです。

 子育ては,人間たちがお互いを眺め合い信頼し相談相手をつくるためにある。男性と女性、若者と年寄りが心をひとつにするためにあるのです。

 経済界がこの点に気づいて真剣に対策を考えないと何をやってもこの国の活力は戻ってこないでしょう。小さい頃、自分が育った時に見ていた父親が生き生きしていなかったのでしょう。20代の男たちが結婚しなくなってきている。男たちが家庭に魅力を感じなくなっているのです。

 学校教育においても、自立とか夢(欲)を持つことを奨励するよりも、人間は自分のためにはなかなか頑張れない、誰かのためなら頑張れる、そして利害関係のない絆を持つことの大切さ、そういう原点のことをもう一度しっかり考え、子どもたちに教える必要があります。自立は孤立につながってゆく。そして福祉はやがて行き詰まる。

 PTAで講演したあとのこと。

 ドキッとするのは、「そんなことをあかの他人の私に尋ねてもわかるはずがない、返事のしようがない」種類の質問を母親から受ける時です。

 カウンセラー、専門家、相談員なら平気で答えるのでしょう。プロですから。仕事ですから。わかりもしないことでも、彼らは一応答えるのです。

 一緒に祈りましょう、とは絶対に言わない。

 専門家が増えると社会に絆が薄れ薬物依存が始まり犯罪が急増する。

 アメリカは、学校のカウンセラーが生徒にすすめる薬物でかろうじて画一教育を維持し教師の精神的健康を保とうとしています。背後には製薬会社の利権が見え隠れします。学校がきっかけで始まる薬物依存が麻薬やアルコール依存症につながってゆく、そんな分析は15年前にアメリカで終わっています。それでもなぜ欧米が薬物依存から抜けられないのか。社会の動きを決定する意識に「相談相手をつくろうとする方向性」が欠け始めている。

 相談相手をつくろうとする意識の中心にあったのが「子育て」です。子育てを幼稚園・保育園・学校が肩代わりすればするほど、絆をつくる力が社会から消えていきます。

 人生は相談相手がいるかいないかが鍵です。相談相手から良い答えが返ってくるかどうかはではないのです。

 小中学生の親たちの一部に、0歳1歳2歳児とつきあっていれば育っているはずの感性や想像力、「祈り」という次元も含めて、コミュニケーション能力が著しく欠けている。客観的に見れば軽度の発達障害ととられても仕方がない程度まで進んいる。

 (大切な部分なので繰り返しますが、人間は全員なんらかの発達障害で、それを補い合うこと、補い合って人間関係をパズルのように組んでゆくことに幸せを感じてきたのです。その補い合う能力を、非論理的で理不尽な0、1、2歳児とゆっくりつきあうことで身につけてきたのです。補い合う力と意思が希薄になるばなるほど、本来誰でもが持っている発達障害的要素が、人間関係、「絆」や「縁」を育ててゆくための「障害」になってくるのです。)

 一人の母親が聴くのです。

 小2の子どもがどうしても言うことを聞いてくれない。学校から帰ったら宿題をやる、とか、色々ルールを作ってきちんと守らせようとしているのに、嫌だ、という。なぜだかわからない。なぜなんですか?

 母親は、落ち着いて丁寧に説明します。

 「どうしていいかわからない」と言う以前に、「なぜだかわからない」と言うのです。

 子育てをしながら、いまだに論理性で考えているのです。

 0、1,2歳とつきあっていれば、とっくに飛び越えているはずの壁です。人間は多くの思うようにならない者(物)(事)との関係性の中で生きている。じつは、「なぜだかわからない」ことに囲まれて生きているのです。突然地震が起こったり、洪水や干ばつがあったりします。それが人生であって、宇宙であって自分はその一部に過ぎないことを学びます。私はそれを0、1,2歳とつきあうことで幸せを伴いながら学ぶのが一番いいのではないか、と言っているわけです。

 そして、その宇宙の一部でしかない自分が全てと関係性をもっているということをいつか理解し、全体と一部が同一だ、という感覚まで進もうとする。ここまで来ると、ほぼ昔仏教の原点になったウパニシャッド哲学みたいなことになってしましますが、簡単に言うと、水を汲んで運んでくるという作業がないと、水との関係性が希薄になってくるのと似ています。(『簡単ではないですね。すみません。』)

 理性的に見えるお母さんの真面目な相談でした。

 聴けば、0歳から子どもを保育園に預けたそうです。

 私には、その子を育てた園がどんな園かわからない、育てた人がどんな保育士だったかわからない。その子を担当した保育士は五年間に十人はいたでしょう。8時間以上預ければ必ず一日二人以上。そして、毎年担当が代わるでしょう。乳幼児の時、担当制だったのか複数担任制だったのかさえもお母さんは知りませんでした。

 父親は仕事に忙しく週末も子どもの相手をしようとしなかった。いまになって夫に相談しても、母親の責任だろう、と言われる。そして、講師の私にたずねるのです。「なぜですか?」と。

 たぶん、その子がどういう育てられ方、育ち方をしたのかを知る人は地球上に一人もいないのです。つまり、このお母さんには、確かな「相談相手」が現在一人もいないのです。(神様か仏様にでも相談していればまだなんとかなったはずですし、なるはずです。)そのことに本人が気づかなければどうしようもない。子育ては、育てる側にコミュニケーション能力がどう育つか、育てる側にどう絆が生まれるか、が第一の目標であって、子どもがどう育つか、はその後に来るのです。

 

 (専門家は専門家の振りをする専門家。ラジオの子育て相談番組を聞いていればわかります。顔を見ないで、子育てについて電話で相談、というのは乱暴でしょう。「専門家」だったらしてはいけないこと。医療的な知識など役立つこともありますが。)

 

 その場のお母さんの雰囲気から判断し、これから自分が自分の相談相手になれるように、まず子どものわがままを全部受け入れるところから再出発するのがいいかもしれませんね、と話をしました。祈るような気持ちで。

 そうすれば、理性ではなく感性が蘇ってくるかもしれません。

 あきらめ、でもいいのです。それも大切で、確かな出発点なのです。

 

 もちろん、そのまま、特別なにもしなくても子どもは育って行きます。子育てや人生に正解はありませんし、決まっている道筋もありません。親が子どもを心配する気持ちさえあれば道はつながるでしょう。そして、このお母さんにはそれがあります。無関心にさえならずにオロオロと時間をかければ状況は必ずいい方向に変わっていくものです。

 運良く,子どもが学校や塾で信頼できる大人に出会うかもしれない。ある歌手の唄っている歌の詩や、一曲の音楽、一遍の小説、一本の映画が子どもの感性を揺さぶるかもしれない。事故や事件、天災、異常に悲しい体験や苦しみが突然視点を変化させ強い絆が生まれる可能性だってあるのです。わざわざ残って私に相談して来るような親はまず大丈夫なのです。

 (当分変わらないのはその父親くらいでしょう。だから、私は父親の一日保育者体験を早目に、と園をまわって薦めるのです。)

 

 子育ては、親子という選択肢のない関係にある人間たちが時間をかけ試行錯誤を繰り返し、絆を少しずつまわりに増やしながら、たがいに育て育ちあうのが基本です。

 「選択肢がないこと、逃げられないこと」が重要な条件でした。

 利便性に支えられたシステム(福祉,サービス産業)と体験に基づかない言葉(学問、知識)に支配され、多くの人間が、その大切な条件を放棄してしまう。それが、義務教育が普及した後の現代社会の欠陥です。

 そのお母さんが真面目で良さそうな人だっただけに、可哀想だな、と思いました。しばらくすると目に涙を浮かべ、「0歳で子どもをあずけた時には深くは考えなかった、そのときの流れでそうなったんです」のです、と言うのです。

 話を聴きながら、「その子の乳幼児期に関わった、責任を少しでもわかちあう相談相手が一人でもいれば、いまこの人の心持ちはずいぶん違うのだけれど」とふたたび思いました。夫でも、祖父母でも,園長でも、ママ友でも良かった。人生はちょっとした出会い、運で変わってくるのです。

 いまだに言葉というコミュニケーションレベルで解決すると思っているこのお母さんの勘違いを目の当たりにすると、心の絆に欠ける社会で起こりがちな不運としか言い様がありません。

 小野省子さんの詩「おかあさん、どこ」に描かれている、魂のレベルのコミュニケーション能力を身につけていればそんなに難しい対立ではないのです。(http://kazu-matsui.jp/diary/2011/01/post-86.html)
 まだ子どもは2年生、視点を変えれば育ちあう機会はいくらでもあります、と私は言いました。子育てで自分が育つのだ、と少し意識し、子どもの命に感謝すればまわりに起こる様々なことの意味が見えてきて、求めている親子の一体感が生まれるはずです。
 そして、心の中でもう一度言いました。でも、あの子とのあの時期は戻ってこないんです。あの子がその時期をどんな人と過ごしたか、もう誰も気にする人はいない。

 (幼稚園も保育園もないインドの村の子どもたちの姿を思い出します。貧しいのに、一律育ちのよさそうな、いつも学び受け入れる姿勢になっているあの子たち。教師の経験もないシャクティの踊り手たちが、苦もなく教えることができる子どもたち。親子関係が土台にあるとしか考えられないのです。)
http://www.youtube.com/watch?v=_uUnaHuViqk&feature=youtu.be

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子育てと自分の人生

 

 新聞に載っていたのですが、「子育ても大事だけど,自分の人生も大切にしたい」、◯か×か、という調査が民間企業によってされていました。こういう手法は良くない。入ってくる活字の情報を素直に受け入れてしまう若者たちがこういう設問に簡単にひっかかるのです。

 「自分の人生を大切にしたくない」人なんていません。

 「子育てをしていると」それが、出来ないなら、人類はたぶん二万五千年前に滅んでいます。

 自分の人生は家族の人生でもある、と時間を重ね合わせて考えた方がより安全で安心で快適でしょう。

 自分の人生を大切にすることが、幼い子どもを十時間保育園にあずけて働き続けることだと判断する人がいたってもちろんいいです。ただ、経済競争に多くの人たちを引き込むことによって利益を得ようとしている人たちがしかける強者のトリックにひっかからないように気をつけてほしいと願います。経済競争は一部の勝者しか生まない。そこにギャンブル的な妙な魅力が潜んでいるのです。子育てはその場の損得勘定で計るものではないし、実はたぶんに損得勘定を捨てるところから始まる。

 これは中々対照的な二つの選択肢です。

 決める時にくれぐれも子育てを面倒なもの、専門家に任せておけばいいもの、とは思わないでほしい。なぜなら「その時期」は二度と取り戻せない特別な時間だからです。そして、絶対に忘れてはならないのは、乳児を十時間も他人に、しかもよく知らない人にあずけることは、人類の歴史上あり得なかったことだということ。

 こうしたアンケートや新聞雑誌の見出しに影響され、人生を「大切にしてみて」10年たって、何を大切にしてきたのかわからないまま、気づいた時には子どもは10歳になっている。子どもがどういう風に育ってきたかさえ知らない。わからない。そうならないよう子育てと大切な人生を同一視する人たちの話にも耳を傾けてから決断してもらいたいのです。保育園という仕組みが出来るまで、ほとんどの人間たちが何万年も共有してきた特別な人生の体験を本当に放棄してもいいのかどうか、自分の感性と理性で考えてほしいのです。

 一度失ってしまうと、幼児という不思議なメッセンジャーたちと過ごす人生の魔法の時間は取り戻せない。孫が出来るまで待つしかない。運よく孫を授かれば、のはなしですが。(「保育園に毎日十時間も何年も預けられた子どもは、結婚や子どもを育てることに何の魅力も感じないから、まず結婚したがらないし、子どもを産んでもそれでイライラするようになりますよ」「そういう子は年とった親の面倒なんか見ないし、生きる力が育ちませんよ」とおっしゃる保育園の園長先生だっているのです。)

 しかし、埼玉県では子どもを保育園に預ける親は27%ですから、この時間はやはり人々を魅きつけるのだと思います。幼児と過ごす時間に魅かれるのは、人間の本能だと思います。

 もう二十年も前に書いたアメリカにおけるベトナム難民のことを思い出したので引用します。

 「十数年前、ロサンゼルスの公立高校を成績優秀者で卒業する子ども達に、ベトナム難民の子どもが異常に多い、という報告がされました。数年前まで英語も満足に喋れなかった難民の子ども達が、20%の非識字率を出すアメリカの公立学校を、成績優秀で次々に卒業して行くのです。アジア系の子どもは一般に勉強が出来ます。アイビーリーグなどは既に四人に一人がアジア系の学生だと言われています。これは別に頭が特別良いわけではなく、家庭がしっかりしているからなのですが、その中でもなぜベトナム難民の子どもに偏ったか。ベトナム難民の親子は、戦争、難民という辛い体験を親子で乗り越えてきた人達です。親子で苦労したことによって家族の絆が非常に強くなっている。。「言葉」というのは人間関係によって質も重さも変わってきます。ベトナム難民の親が言う「勉強しなさい、頑張りなさい」という言葉は、普通の親が言う言葉よりはるかに重みがあるのです。そして、ここでもう一つ見過ごしてはならないのは、子どもが親の言うことをある程度無条件に受け入れる親子関係があれば、アメリカの学校が今のままでも機能する、ということなのです。」

「家庭崩壊・学級崩壊・学校崩壊」より。


船中八策


 維新の会とかいろいろあって、船中八策という言葉を最近目にします。私も龍馬けっこう好きなので、この国を土台から立て直す策を一人で練ってみようと思いました。

 1。保育士と親たち、一緒に育てるひとたちの間に信頼関係を築き、いつでも親に見せられる保育の質を保つため「一日保育者体験」をすべての幼稚園保育園で実施する。相談相手のいない「子育て」にならないようにする。
 2。保育者を募集した時に倍率が出る状況をつくる。(最低賃金を時給1300円くらいまで引き上げる。)倍率が出ないということは、園長が保育に責任を持ちきれないということ。
 3。三歳未満児はなるべく親が育てられるように,子育て手当を支給する。(月額五万円くらい。可能なら七万円くらいでしょうか。)同時に、子育て支援センターを使って孤立する親をつくらないようにする。
 4。在園児が減っても、既存の幼稚園保育園が成り立つようにする。保育のサービス産業化(親への)を防ぎ、子ども主体の保育を維持する。
 5。子育てが生きる力の中心にあると考えて、将来の国の活力を保つためにも、経済界が未満児を持つ親の残業を制限する。
 6。保育の位置づけを義務教育並みにし、幼児期の親との関係が双方向への育ちあい、育てあいであることを理解し、この時期の親子関係が安定することを国の安定とする。
 7。小学生から大学生までの幼児との体験を意識的に増やす。
 8。少子化対策の根幹に、子育てを通した男女の信頼関係の復活を据える。

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 いなかの田んぼのなかの公立保育園で講演しました。いいことをしようと思った町長が四つある公立園に看護士を一人ずつ配置してしまったのです。

 職員室で看護士がため息まじりに言うのです。「私がここにいるから、園で子どもが熱を出しても親が迎えにこない。来ようとしない」

 病気に素人の自分が会社に頭を下げて迎えに行って連れて帰るより、看護士がいる保育園に置いておいた方がいいでしょう、という理屈です。正論です。ただし、熱を出している「子どもの気持ち」が親に見えない。看護士さんが心配するのはそこです。理性が支配し、感性が育っていない。

 最近の子どもたちが、登園時に熱を下げるために親が貯めている薬で抗生物質漬けになっている、ひょっとして男の子の草食系化はこのあたりに原因があるのでは、という「不都合な真実」について話していたときです。看護士さんが怒って言います。

 「小児科でもらってくる薬だったら、まだいいです。最近の親は内科で抗生物質をもらってくるんですよ。内科。しかも、それをちゃんと私に言わないから怖い」

 薬事法違反みたいなことを、子どもを保育園に置いてゆくための手法、手段として、親たちが気軽にするようになってしまった。田んぼに囲まれた田園風景のなかで。

 「私が、ここにいないほうがいいんです」


 待機児童もいない田舎の町で、大人の都合で子どもたちがわけもわからずに薬を口にする。親を信じて口に入れる。それが小児科でもらった薬でないことが、この国の何かを決定してゆくことを看護師は知っている。だから怒っているのです。子育ては専門家に任せておけばいいのよ、と言った厚生労働大臣の声が遠くで聞こえます。

 看護士の「私が、いないほうがいいんだ」という思いが、やがて、保育士の「私が、いないほうがいいんだ」という思いになり、それがいつか子どもたちの「いないほうがいいんだ」という声につながってゆく気がしてなりません。

 私たちから、自分一人では気づきようがなかった掛け値なしの自分を引き出してくれる不思議な人たちを、こんな風に騙していいわけがない。


 保育者が不足しています。公立の正規採用でもないかぎり、ハローワークに募集を出しても、一人応募してくるかこないか、というのが全国的な現実です。あぶないな、大丈夫かな、と思ってもとりあえず雇うしかない。ひやっとする出来事が増えています。雇ってから、しまった、と思っても解雇するのはなかなか大変です。

 その保育士のせいではなく、資格を取る前にふるいにかけられなけばいけなかったケースが増えています。この仕事に
は向いていない性格の人がいるのです。こういう人を解雇するのは本当に気まずいのです。園長主任の心労がたまってゆきます。


 特定の保育士に怯える子どもたち。


 (保育士を募集したときに、1.5倍くらいの倍率が出るようにしなければ、保育の質は保てません。そこに居てはいけない人を排除することさえできません。大学や専門学校の保育科が軒並み定員割れを起こしています。願書を出せば全員国家資格をとる。有資格者の質が急速に悪くなっているのです。教師の非正規雇用が時給二千六百円なのに保育士は八百五十円、九百円でやっています。その保育士たちに私は、子どもたちのために親子関係にまで踏み込んで下さいとお願いして歩いているのです。告示化された法律、保育指針にもそれが保育園の役割と書いてあるのです。)


 待遇面での改善がすぐに望めないなら、状況を変えるために、まず第一歩として親たちが保育園に感謝してほしい、というと、何言ってんだ当然の権利なんだよ、と笑う親がいるのです。彼らは、保育界が保育士不足で危険水域に入っていることを知っているのだろうか。それは国の責任だ、と言っても良い保育士たちは戻って来ない。


(私は、新刊「なぜ、私たちは0歳児を授かるのか」に、4年前「保育士やめるか,良心捨てるか」という章を書きました。それが、いま起こっていることなのです。)

親心を育む会/覚悟の伝承

2012年6月

月に一度、もう四年熊谷市のなでしこ保育園で集まっている「親心を育む会」で、ときどき若手保育士お悩み相談会をやります。若手保育士が班ごとに分かれて他園の園長先生主任さんに保育の悩みを相談します。他の園ではどうやっているか、おたがいにお知恵を拝借するのです。私はその日、会の重鎮門倉先生の班に入ろうか、若手論客で恐れ知らずの高木先生のところにしようか、北の魔女の園部先生にしようか迷ったあげく、保育界のチャネラー大島先生の班に加わりました。(大島先生は園長で、実はまったくチャネラーではないのですが、なんとなくそんな感じがするので私が勝手にそう呼んでいるのです。衆議院の委員会で発言した時も後ろに座ってもらいました。)

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 噛みつく子が増えているという話題になりました。先日、テレビ報道の中でインタビューされた園長が「一歳は噛みつくころだから」とポロッと言っていたのを思いだし、
 「一歳は噛みつきませんよね、普通」と私が確認するつもりで質問すると、
 「でも一部屋に20人も入れたら噛みつきますよ」と一人の園長先生がいいました。「どんなに仕切りで分けて、コーナー保育をしても同じ空間に20人もいるとストレスがたまります。それが一日10時間、年に260日ですからねぇ」
 こんな状態は、乳幼児とはいえ、人間が生きてゆく姿としてはかなり不自然です。居場所に静まるときがないのです。魂が鎮まらない毎日を、本当はぴったり母親にくっついていたい乳児に保育という仕組みが強いている。それが、ますます規制緩和され、保育士の願いに逆行するように、親と政治家の都合で環境が悪くなっていきます。
 (小一プロブレム、いじめや不登校。学級崩壊。教師は様々な問題を抱え、東京都で休職している先生の7割が精神的病で休職しているといわれます。児童養護施設が虐待された子どもたちでいっぱいになり、職員がその対応に以前よりもはるかに身の危険を感じている。働く意欲のない若者たちが増え続け、新卒で採用されても簡単に職を去るケースが急増している。一生に一度も結婚しない男が二割を超え、10年後には三割になるという。ひきこもりの平均年齢が34歳。男たちから生きる力を失われてゆく。そして、孤立する老人たち。
 自らをうまく主張出来ない0歳、1歳、2歳児の願いを想像し優先しないから、人間たちから本来の人間性と生きる力が欠けてゆくのだと思います。この国もぎりぎりのところに来ています。このままいったら戻れない。)
 いくら保育士が悩んでも、制度上解決出来ない環境に多くの保育園が置かれています。だから、「一歳は噛みつく頃」という発言が当たり前のように保育界からも生まれてくるのです。
 「過密は噛みつきにつながる」共励保育園の長田先生の口癖です。
 集団保育の不自然さは、インドの田舎の風景を知っている私にはわかります。
 同年代の子どもが乳幼児期に5人以上集められて一人の他人に世話されて一緒に過ごす、しかも毎日。これはその遺伝子がつくられた長い人類の歴史の中でほとんどあり得ない風景だった。長い目で見れば必ず無理が生じて来ます。親が育たない、子どもたちが噛みつくようになる。結婚しなくなる。子育てを共に体験しないことによって男女間の信頼関係が崩れてゆく。日本という先進国の中では奇跡的に男女が(経済競争以外のところで)共同参画していた社会が、「待機児童をなくせ」というかけ声の元に崩れてゆく。これも人類の運命なのか、一度は通らなければならない道なのか、とも思いますが、やはり子どもたちが可哀想です。

 ほぼ一日中暴れる、言うことを聞かない、ひっくり返る、泣き叫ぶ、それも毎日、という子を担当している若手保育士が、もう、どうしていいかわかりません、と言いました。親のこと、祖父母のこと、いろいろ聞いてみましたが、特に明らかな問題があるとも思えませんでした。軽度の発達障害児、なんて決めてしまってはそれ以上何も進みません。人間は全員軽度または軽軽度の発達障害者です。それを個性というのです。命、というくくりでは平等です。その子の命には必ず居場所があり意味があります。
 班に分かれていた話し合いが全体会に戻って、司会の高木先生がこの悩みを聞き、「だれかこういう子の担当をしたことある人、いますか〜?」と聞いたのです。
 するとなでしこ保育園の主任の(なでしこ四天王と私が敬意を込めて呼んでいる一人の)渡辺先生が、はーい、と手を挙げました。
 「対応は、どうしました?」と高木先生。
 「保育士が一人ついて、徹底的にわがままにつきあうんです。抱っこしたりおんぶしたり、外に行きたいと言えば行く、何でも言うこときくんです。おさまりますよ」
 「どのくらいやるんですか?」
 「二年くらい」
 あっけらかんと言う渡辺先生の微笑みに、私は口を開けてしまいました。凄いなー、と鳥肌がたちました。思わず、(冗談で)「保育料、同じですよね」と訊いてしまいました。
 すると、部屋中から「同じ、同じ」の大合唱。なぜか、みんなが嬉しくなりました。
 その若手保育士が、
 「本当は、くたびれちゃって保育士辞めようかなと、ちょっと思って、揺れていたのですが頑張ります」と笑顔で言いました。みんなで大拍手です。
 子育ては、知識の伝承ではなく、覚悟の伝承です。
 保育士たちの心意気に、子育ての原点を感じます。
 一人の保育士が一人の子どもに徹底的についたら、他の保育士の負担が増えます。変な話、国基準が崩れる。認定された障害児加配がついたって三人に対し保育士一人です。それでも、やはり保育士は明るく、「二年くらい」と言うしかない。それが保育なのです。
 保育士のなり手がいなくて、公立の正規採用でもないかぎり、求人しても応募が一人来るか来ないかという状況が続いています。かなり厳しい基準で保育士を選んできた園長でも、危ないかな、という保育士を雇わざるを得ない状況に追い込まれている。履歴書だけではわからない、試験期間を設けても簡単には見抜けない。そんな現状のまっただ中で、軽々しく幼保一体化を言ったり、無責任に待機児童解消を叫ぶ連中に、見せたい風景でした。あなたたちの無責任な提案を現場がどういう思いで受け入れているか。待機児童解消は、親の子育てに対する「覚悟」を育てることで解消してゆくのが本来の姿であるはず。
 8時間保育が11時間開所になった時、シフトを組むため勤務時間がずれ、全員が集まってお茶を飲む時間が保育界から失われた。育ち合い励まし合う覚悟の伝承の風景が消えていった。こういう保育の本質を支える肝心なところに政治家も行政も気づいてない。子育ては、サービスやシステムが代われるものではない。人間社会において当たり前のように行われてきた「覚悟」の伝承だったのです。
 親の働き方によって、当然子育てに差は出る。それを他人に預けて、その預けたシステムを(幼稚園と保育園を)一体化して、同じだ、平等だと考えることの無責任さ。地球を見渡せば、子育てにおける格差や不平等はいくらでも存在します。私がドキュメンタリー映画をつくったインドのシャクティセンターの近隣で、貧しい村々の子育てを見ていると、119番を回せば救急車が飛んで来る環境だったら親はそれだけで感謝しなければいけない、と思います。あとは、親の「覚悟」が同じならば、それでいいのです。
 いま、覚悟の伝承という、人間たちに真の絆を意識させる幸福感が保育の現場から薄れています。
 保育科の学生たちが実習に行った先の職場の雰囲気に何か違和感を感じ、そこで働くことを躊躇しはじめている。ある専門学校の保育科で卒業生が一人も保育者にならなかったらしい、なんていう冗談みたいな話が伝わってきます。全国で大学や専門学校の保育科が定員割れを起こし、危ないかな、という保育士を雇って事故が起こった時に、本当に苦しみ、一生の悲しみとして生きてゆかなくてはならないのは、「親心を育む会」に来ているような、親子思いの園長たちなのです。
 育む会に出ていると、集めることではなく、集まることの大切さ、わかちあうことの意味を思います。それはきっと子育てと永遠につながる人間たちに与えられた幸せと美しさなのだと思います。シスターが以前、教えてくれました。
http://www.youtube.com/watch?v=uoQXhyz0rOg (集まること)
http://www.youtube.com/watch?v=SUaQXFUp1_M&feature=youtu.be (わかちあうこと)
 先週、福井市で保育士に講演をしたとき控え室で県知事に会いました。20分くらいあったので陳情しました。すると、私の講演を聴くために部長さんを一人残して行ってくれました。次の日、岡山県の玉野市で保育士会主催の勉強会があり、そこには市長さん福祉部長さん子育て支援課長さんが来て私の講演を聴いてくれました。園長先生たちが頼んだのでしょう。この役の三人が揃うと話が早い。次の日、大阪の前市長が私の本を読んで、会いたいと言ってくれたので会いました。なかなか楽しいお昼ご飯でした。そのまま夕方京都に行って、久しぶりに陰山先生に会いました。いま、大阪府の教育委員長をしていて、あの橋下市長とガチンコ勝負をしているのです。私が先週国会でしゃべった話をすると、お互いに不思議な人生だよねー、ということになりました。橋下さんとガチンコ出来るのは百マスの明るさしかない、という深い話と激励をしました。

http://www.youtube.com/watch?v=uiTxamfg6iM (衆議院の委員会で)

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Dear Kazu San

How are you? How is Yoko San and our Maharaja Ryo .

Convey our regards to them. We can understand your busy schedule and

your inability to come to India. Thank you very much for the photo.

We are doing well. We had our summer camp with 250 children.

Also this year we had arranged three days seminar for the youth.

During this summer we happened to be very busy with our camp, seminar,

As usual Folk arts training took place for a week and 16 performances we had.

This summer was very hot. But we some how managed the whole thing.

Looking back we feel very happy about the way we each one worked hard.

Our girl Uthirai selvi’s wedding today. Please do remember her in your prayers.

She is from a very poor family. No father. She has only her mother and grand mother

with her. She asked me to inform you. She needs your prayers and blessings.

With much love

Sr.Chandra

 

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公聴会を終えて

 先週、衆議院の社会保障と税の一体化特別委員会の公聴会で発言した反響が届いています。15分という限られた時間であっても、小野省子さんの詩を読んで良かったと思います。問題は制度を決める上で、この次元「生きている実感」が欠けていることなのですから。

 私が様々なことを教わった園長先生たちの思い、そして幼児たちが園長先生たちに伝えた意識、詩を書く母の思いと発見、そしてアメリカだけでなく世界中で小さな子たちが叫んでいる人間たちを育てたいという叫びが一体になって私をしゃべらせたのだと思いたい。私は伝令役です。あそこに座っていた政治家たちはその思いと叫びを確かに聴いたのです。もう知らなかったとは言えないはず。

 数日後、私は奇跡的な偶然が重なり、ずっと以前から尊敬している保育士の悲痛な叫びを聴きました。現場で起こる他の保育士たちの子どもたちに対する良くない扱いと、それを見るに見かねて指摘した時の保育指針も読んでいない子育て支援課長の対応に、とうとう精神のバランスを崩した同志の涙を見ました。これからなのです。現場も役場も政治家もあらゆる次元で立て直しが必要なのです。

 保育界の意識と子育てに関わる制度の立て直しがいまどれほどこの国にとって大切か、政治家もマスコミも理解してほしい。この国の魂のインフラを支える、一番大切な施策を幼児の、特に三歳未満児の幸せを中心にしっかり作ってほしいのです。しゃべれない者たちの思いを優先し想像して進めば人間はだいじょうぶ。その想像力が自浄作用になるからです。

 二十年先のことを考えるなら、子育てと保育の状況を整えずに経済について語るなど馬鹿げています。

 幼稚園と保育園、私立と公立、ビジネスと子育て、権利と利権、福祉と教育、関心と無関心、祈りと仕事、そして男と女、こうした様々な要素と次元が絡み合って保育界は成り立っています。そして、確かにある一定の規則をもった制度の下に、子どもたち、親たち、保育者たちの心と意識が何かを求めて動いてゆくのです。

 茅野でいいはなしを聴きました。保育者体験をした中学生が父親に幼児との嬉しかった体験を話したのです。その表情と心に感動したのでしょう、父親が夜電気もほとんど消えた役場の子育て支援課に感謝を伝えに来たのです。

 「幼児が中学生を育て、中学生が父親を育てる。そして、父親が子育て支援課を育てているのですね」と係長が私に話してくれました。

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突然のメール失礼いたします。

  本日の衆議院特別委員会の公聴会を拝聴し、どうしても一言申し上げたく、メールさせていただきました。

 私は、子ども子育て新システムの検討経過や子ども子育て関連法案の審議をある程度近くで詳しく追っておりましたが、ずっと物凄い違和感が拭えずにいました。それは、本当の「チルドレンファースト」は幼い子どもと親が一緒にいること、それが実現できるように働き方や社会の在り方を変えていくことであるはずなのに、その理屈抜きの大切さがほとんど議論されないまま、ここまで来てしまったと考えていたからです。

 本日、松居先生のお話を伺い、自分はこういう議論が聞きたかったのだと実感いたしました。公聴会の性質上、待機児童の解消や保育への株式会社参入などに質疑が集中してしまいましたが、政府と議員の方々にはここに至るまでに何よりもまず、親と子の在り方について十分に議論していただきたかったです。

 赤ちゃんや小さい子というのは、そこにいるだけでこちらを幸せにしてくれる凄い存在だと思います。

 私は結婚も出産もまだ経験したことはなく、幼稚園や保育所、政党や各種団体などの関係者ですらありません。まずは先生の御著書を読ませていただこうと思っておりますが、こうした将来の親予備軍のような者にも御講演を伺う機会があれば嬉しいです。

 このような自分の感想を有識者の方にお送りすることが滅多にないため、乱筆乱文お許し下さいませ。

 公聴会で貴重なご意見を述べていただき、どうもありがとうございました。

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私、先生のお話し聞いていてなぜか涙がでるんですよね。

実は母も一時期つらい母子家庭時代をすごし、私たちを育てましたから

私も小さいころの肌そのままでわかってるんです。

細胞のすみずみにしっかり残っています。

子どもは母1人だけじゃ育てられない。母も子もたくさんのあたたかい愛に囲まれてなきゃって。

そんなことを想いながら聴かせていただきました。

政治家の皆さんはいろんな保育の現場や生き生きしたいのちの現場を

いい環境のところもそうでないところも1日体験されたらいいのに。

見学じゃだめです。1日いっしょに泣いたり笑ったり生活するのです。

そうしたら今の子どもたちに、家庭に、地域に、何が必要かすてきな答えがみつかるはず。

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貴重な持ち時間を私の詩のために割いて下さいまして、ありがとうございました。

わが子の小学校や、仕事先の幼稚園で、小さな子どもをもつ親御さんと話し合う機会が多い日々です。

親として育っていく大切さを日々感じています。

                                    小野

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これを機会に少しでも政府の意識が変わりよい方向に向かって欲しいと

願うばかりです。

最後の詩の朗読の部分では、夫婦して涙しておりました。

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http://www.shugiintv.go.jp/jp/index.php?ex=VL&deli_id=41883&media_type=fp

公聴会の映像が衆議院のホームページに載っています。



国会ではじめての公述人をしました。

 週末、エルミタージュ展を見たあと、石垣島のみよし保育園の宮良先生が上野の不忍池の野外音楽堂で旗を持って石垣の祭りの再現をするというので雨の中見に行きました。いつも石垣島ではお世話になっているので、旗が倒れないかとひやひやしながら一家で応援しました。旗の先から二本ある綱の一つを先生が持って、倒れないようにひっぱるのですが、かなり危ない感じもしました。登場したミルク(弥勒菩薩)さんに、いくつかお願い事をしました。

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 そして、今日は社会保障と税の一体化特別委員会に公述人として国会に呼ばれ、衆議院の委員室で15分話したあと2時間質疑に答えました。たぶん、鴨下さん、田村さんが推薦して下さったのでしょう。私の他に、横浜市長の林さんと幼保一体化PTの座長の大日向さんともう一人大学の先生が答えたのですが、各党から一人ずつの質問者、はじめほとんど私に質問が出ませんでした。どうも、私だけが反対っぽい感じだったのですこし避けられているようでした。しかし、馳さんが口火を切り、途中からいくつか私に対しても質問がでたので良かったです。ありがたかったです。最初の15分ではちょっと説明不足でしたから何度か補足が出来て助かりました。小野省子さんの詩、「愛し続けていること」を朗読しました。委員会での朗読はちょっとおかしいかな、と思ったのですが、昔は政治家も学者もきっと詩心を持っていたはず、こういう次元こそいま必要なんだ、と考えたのです。
 随行人、という秘書とか助手がすぐ後ろに座る仕組みがあったので、共励保育園の長田安司理事長、朝霞たんぽぽ保育園の大島美弥子園長、江戸川双葉幼稚園の菅原久子園長先生に来ていただいて応援の「気」を後ろから送っていただきました。仲間や同士がそばにいると心強くありがたいです。保育会全体の問題ですから、久しぶりに緊張しました。今朝の新聞に「民主、総合こども園撤回」という記事があったので、気分的にはずいぶん楽でした。
 終わって、三人に「よくやった」と褒めてもらい、まずはホッとしました。会場に来ていた松伏の若盛先生もすぐに電話をくれて、あれでいいんだ、と言ってくれました。インターネットで中継されていたのを見た熊本の本堂先生から「よかった。経団連のところでは拍手した」とメールが来ました。その直後のNHKのニュースに映像が載ったらしく、何人かの友人や園長先生からメールが入ってきました。編集されてしまうと誤解されることもあるので、委員会のすべての内容がネットで見れるようになると良いのですが。
 終わったあと、4人で帝国ホテルのロビーの喫茶店で打ち上げをしました。幼稚園園長の菅原先生は、大島先生と長田先生の、いわゆる保育園長の気迫と論客ぶり、特に保育園では現状のきびしさから、子どもたちを守りたいという思い入れは激しいですから、福祉と重なる諸問題に関する二人の熱い思いに驚いておられました。コーヒー、紅茶、けっこう値が張りましたが、長田先生が「ここは僕が」と言って払ってくれました。
 7月2日にディジュリドゥー奏者のノブ(Knob)君が、長田先生の共励保育園で園児たちに奉納演奏をします。どちらかと言うと、園児を神様に見立てている様子です。私も見学に行こうと思っています。「その晩の蛍狩りにもディジュリドゥーがあるといいですね」と長田先生が言いました。
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(衆議院特別委員会で公述人として話した映像が以下のアドレスで見ることができます。

最初15分話したあと、質疑応答もありました。質疑応答のところでは、もう少し具体的な内容で説明することができたと思います。やはりちょっと緊張して早口になりました。保育界の人たちには喜んでもらえました。もう少し、奏でようと思ったのですが、修行が足りません。)

http://www.shugiintv.go.jp/jp/index.php?ex=VL&deli_id=41883&media_type=fp

唄わない母親(子守唄)

 最近講演先である保健士さんから、0才児にまったくはなしかけない母親がいるんです、という話を聴きました。しゃべれないんだからはなしかけても無駄だというそうです。母親も無表情だそうです。いったいどうしてそんなことになったのでしょうか。何がそうさせているのでしょうか、と質問されました。

 この母親は一人で唄もうたわないのでしょうか。つぶやくこともないのでしょうか。0才児に話しかけるということは自分に話しかけること。子守唄は宇宙との会話。自分との会話を忘れてしまったのでしょうか、環境に合わせて生きるために拒否しているのか。色んなことを考えます。

 誰かが、子守唄をうたいなさい、と教えれば一週間くらいで変わるのかもしれません。音楽には人間に必要な魔力があります。0歳児というむき出しの現実と直面するには「歌」のようなものが必要なのだと思います。感性と理性の間には、必ず体験が存在します。体験を含んで魂というのかもしれません。

 産後、子育てで鬱になる母親のなかに、十代で鬱を経験している人が多い、とも言っていました。さかのぼってゆくと、幼児期の体験に行き着くような気がします。人間の人生はすべて幼児期の体験に遡るというのは、あたりまえなのですが、幼児という、世界を「祈り」で満たそうとして存在しているひとたちが、その役割を果たすことが出来なかった、そこに原因があるような気がします。

 「子守唄」が、人類が抱える様々な問題の解決策になる日は来るのでしょうか。保育士たちに頼みます。未満児を持つ母親に父親に「子守唄をうたいなさい、良く育ちますから」と声をかけてください、と。

 大切な循環が止まり始めている。それはたぶん0歳児が繰り返し起動させてきた循環で、私は時々それをシャクティの世界に取り戻しに行こうとする。

 まだ今年は行っていません。感性と理性をつなげる旅に。


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園との絆を大切に

(メールをいただきました)

私も「なぜわたしたちは0歳児を授かるのか」のご本読んでおります。

足かけ16年の公立保育園生活を今春終えました。

実は子どもはおっぱいなしでもお胸トントンで眠れるということを知ったのも

おむつが自然に外せたのも、おはしを上手に使えるようになったのも

シャツのボタンは自分ではめれるとかっこいい!ということも

おともだちとケンカしちゃったあとにごめんねと言える勇気も

「11:30はお昼ごはんを食べる時間」と腹時計でわかるようになったのも

みーんな保育園でおそわりました。

保育士の先生は、すごいね!すごいね!の16年間でした。

1年生の息子もだいぶ1年生が様になってきましたが

「保育園行きたいなー○○先生に会いたいなー」と時々つぶやいています。

信頼できる大人の背中を見て育った子どもたちは本当にしあわせです。

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(この子のつぶやきを、保育園の先生たちが聴いたらどれほど喜ぶでしょうか。電話でもメールでもファックスでもいい。小さな連絡が人類を救うかもしれません。宇宙はそういう微粒子の連鎖で成り立っているようです。保育園や幼稚園は親子にとって、ふるさとの役割を果たすことができます。たとえば、卒園児のためにゴールデンウィーク明けに第一回の同窓会をするといいのです。子どもは、古来、幼児期の成長を毎日見守った人たちの目線を感じながら信じながら生きていくのがいい。

 卒園児は中学を卒業するまで年に一度必ずコンタクトをとる園長先生がおられます。その視線を意識することが子どもを育て守る。絆とか縁は、仕組みによってつくられることが多いのですが、仕組みによって支配されるものではないのですから、特に子育てで出来た縁は意識的に大切にするのがいいのです。こんな時代だからこそ、一家と保育園や幼稚園との縁がなるべく一生切れないように、そして子育ての意識が伝承してゆくと良いのです。)

三日間/違った場所で一つの話を(所沢、永田町、岩国)

いのちのちから

 

 ベイビーズ(いのちのちから)という映画を見ました。NHK国際部の佐藤百合さんに薦められたのです。この人に薦められたら、さっさと実行に移したほうがいいという人が幾人かいます。百合さんはそんな人です。ご主人の佐藤さんも、松居さんに教えといたほうがいいんじゃない、と言っていたというのです。見ないうちから、伝言ゲームのように共励保育園の長田先生に伝えてしまいました。

 アフリカ、日本、モンゴルとアメリカ、四つの違った文化圏の0歳児の人生最初の一年を追った単純なドキュメンタリー映画です。解説もほとんどない、それだけの映画なのです。

 まず単純に、「人間は、0歳児と母親の生きる姿を一時間半じっとみていることが出来る」ということにホッとしました。これが人類の生きるちからになってきたのだと思います。ポスターを読んで、この映画がアメリカでヒットした、というのを知って人類規模でホッとしました。映画の中で何か事件が起こるわけではないのです。確かに文化の違いはありますが、結局子育ては子育て、何千年もそんなに変わっていない、そんな印象を持つのです。そして、人間は幼児を眺めていれば大丈夫。人間はそれだけで満足するのです。母子の姿に「絆」の根源を映して、安心するのかもしれません。生きるということは、輝くこと、そして光りが一体になること、深く考えると、そんな感じでしょうか。人間の意思と宇宙の意思が重なって進んで行きます。

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 次の日、永田町の衆議院議員会館で15人くらいの議員さんに短い時間ではありましたが話す機会をいただきました。花園第二保育園の高木園長、行田保育園の園部園長と三人組で多目的ホールの一番前に並んで話しました。ふと、トミー・ウンゲラーの絵本「すてきな三人ぐみ」を思い出しました。そう言えばあの三人組もちょっと変だし、子どもたちのためにがんばったな、と気づきます。
 滅多にない機会です。安倍さん、中曽根さん、下村さん、小坂さん、そして衛藤晟一さんがおられます、集中し気力を込めて話しました。厚労省の虐待防止対策室長、文科省の男女共同参画学習課の人もいました。一般の傍聴席には江戸川双葉幼稚園の菅原久子先生のお顔も見えました。
 保育園も学校も福祉も、親が親らしいという前提のもとにつくられている、親心は主に幼児が育てる、幼児の役割の大切さ、この人たちとしっかりつきあって、人間はお互いに育てあい、認めあい、受け入れあう能力を磨く、それが人間社会の土台を作っていると話しました。(盆栽やペット、人形なども同じ天命を負っているのですが、幼児が育つ速度と人間の遺伝子がオンになってくる速度の相性がいいのです。)
 高木先生と園部先生が現場から感じる不安と親の変化の現実を率直に訴えました。
 大きな流れがゆっくりと変わるといい、祈るばかりです。
 現場の様々な状況を知らずに政治家や行政が流れを急に変えようとすると、幼児が犠牲になりますから特に気をつけて下さい、と会のあと衛藤先生にお願いしました。よろしくお願いします、と心の中で唱えます。
 そのあと霞ヶ関ランプから高速に乗り春日部市に行き学校の栄養士さんたちの勉強会で同じことを話しました。インドのカレーの話をするのはどうだろう、と一瞬思ったのですが、普通に話しました。大笑い。今年は家庭科の先生、助産師さんたちにも話す機会があります。マサイ族が導く、いつものはなしをするつもりです。
 翌日、山口県の岩国市に行き、曙保育園で20人ほどのお母さんたちに話しました。黄檗宗のお寺です。心がひとつになりすぎて、小野省子さんの詩を朗読するところで泣きました。女性の刑務所に勤めているお母さんが二人聴いていて、講演のあと来て話をしながら一番泣いていました。
 不思議な三日間、違った場所で一つの話をして、この二人の涙をどうしたらみなで分かちあえるのか、ふと次元の複雑さに考え込んでしまいます。
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 岩国で、ホテルの前に、澄んだ水の川が流れていて錦帯橋という有名な橋が架かっていました。もう温かく静かな山の景色と絶ない川の音。白鷺が飛んで、山の上に小さな城が見えました。講演が始まるまでの一人の時間は川を眺めながらむしょうに淋しかったのですが、講演すると元気になりました。
 子どもたちが発する光りが一押し一押し私たちの時間を進めます。その光りを母親たちの涙が守ります。ありがとうございます。

助産師さんからの講演依頼/マサイ族の連鎖

  講演依頼とともに嬉しいメールをいただきました。励みになります。いまの仕組みの中で、こういう命の体験に育まれた感性を持っている人たちこそが真の子育てアドバイザーになれる人たちだと思います。一緒に体験する。そして「寄り添うこと」が絆の原点だと思います。

 (去年ブログに書いた「栄養士さんからの講演依頼」、来週実現します。)

助産師さんからのメール

 私たちはおもに妊産婦さんの健診や出産に携わり、幼児〜思春期の性教育にも取り組み、生まれたての赤ちゃんとお母さん宅への訪問、子育て&不妊不育電話相談などなど小さな赤ちゃん・子どもたちのいる周辺で仕事をしております。(市内では助産師が1年間に4000件以上の母子訪問に携わっています)

  私たちの願いは、出産や子育てが人生の喜びになりお母さんたちが笑顔で生活できること。未来につながる子どもたちが豊かな感性を感じながら成長していくことです。そのためにお母さんや子どもの心に寄り添いたいと日々活動しております。

 最近仲間で話題になるのがメンタル面で非常に敏感なお母さんたちが増えていること。生まれたての小さな命を前に不安をひとりで孤独に抱えている方や、2子以降の出産後に、上の子供たちへの子育てに息苦しさを感じているお母さんたちが増えていることです。イライラしながら悶々と過ごすお母さんたちの声に耳を傾けアドバイスもしますが、日々の生活で、人と人がつながり・思いやり・関わりあうことでしか解決できないのでは?という問題に直面しております。

  先生の講演「子育ての真実」のDVDを拝見しました。笑いながら泣きました。見終えてこころがほっとしました。遠くに飛んでいた魂が戻ってきたような・・・。

 私自身、17歳を筆頭に3人の男の子のお母さん。思い当たることが多々あったからです。授乳期間は自由にならず、おっぱい・うんち・おしっこ・だっこ・またおっぱいの繰り返しで寝不足で24時間休みなし。うちの子とってもかわいいけど、正直しんどいなと思うこともありました。自分の生きている時間をこの子に捧げようと気持ちを切り替えたら、何かが変わりました。子どもの笑顔が神々しく思えました。些細ないろんなことがありがたく感じました。まさに損得勘定抜きの祈りの日々だったのですね。あの頃のなんともいえない幸福感は今でも私の中にしっかり残っています。たぶん子供たちの中にも。

 そして。「あ、これだ!」「沢山の助産師に聞いてほしい!」とすぐひらめきました。ながながとすみません・・・。講演のお願いをする動機でした。

 どうぞよろしくお願いします。

 

追伸

マサイ族の件は早速ためしてみました。大草原で夕日をながめるところを想像したら、訪問先のはじめまして♪の赤ちゃんは5秒ぐらいで泣き止みました。イライラした時に自分にも試してみたら、まあいいか!と気持ちが楽になりました。助産師の世界で流行らせようと思っています(笑)。先生の書かれたご本にも大変興味がわきましたので、さきほど注文しました。また泣かせていただきます。


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トルコ帰りの教え子さとちゃんが、最近、言いました。
日本に帰ってきて、親切を受けるのは殆ど女性からです。

男性が父親になっていないのだと思います

トルコでは10歳にもなれば、男は皆父親でした
すごいなあ、このコメント。直感的に理解出来ます。
それはもう「信頼関係ってなんですか?」ってだれかに質問された時に、私が「私がインドで質問した時に答えたセルバの顔」って答えてしまようなものなんですが、そんなこと言ったって普通はまったく答えにならない。でも共通の次元というか、コミュニケーションの共通項を持っていたり、体験したりしていると言葉自体よりもそのまわりが振動して理解出来る。
しかも「セルバの顔」に関しては、幸いなことに私はそれを映像で見せることが出来る。 http://youtu.be/h3OpPP_JY_g
不思議な人生と出会いのおかげ…。
つまり、コミュニケーションは本来論理性を越えるものなんですね。セルバという人間のこの一瞬を映像で見ることが出来れば、たとえば「信頼関係とは人間の美しさ」などという言葉も少し震え始める。人間は互いに表現しあうというか、相対性の中で生きているので、助産師さんたちとマサイ族の風景でつながることさえ可能になる。しかも、それは常時可能なのだ。(マサイ族の風景は、私が時々講演で言う、生後三ヶ月までの赤ん坊が泣き止むために存在する風景です。)
 もちろん多くの場合、信頼関係の斜め後ろぐらいには、必ず裏切りのようなものが居るし、見える。それがわかるだけに、なお一層人間は「美しさ」という物差しに還ってゆこうとするのかもしれない。もう少し言えば、ともに抱く不信感やともに抱く不安感もまた信頼関係を支える。夫婦でやる子育てなどは、男女がともに「オロオロする」体験から人間社会の土台が作られる、ということ。
 セルバの場合は大丈夫だった。セルバを美しくしていた親子の信頼関係は、ちゃんと引き継がれていた。私はそれをちゃんと確かめにいったし、またいつか確かめに行くだろう。人間社会の美しさの可能性を確認するために。切符を買い、シスターに電話すればいつでも行ける。こうした可能性をいくつか持つことはいい事だと思う。それこそが人生だと思う。

パズルの組み方が上手になること/一日保育士体験、高知県教育委員会の取り組み

2012年4月

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 埼玉県の特別支援学校で教師による虐待があったのでなないか、という報道がありました。状況を録音した音がテレビから流れて来ました。罵声と何かを激しく叩く音。怒鳴る相手が、母親にうまくその出来事を伝えられる能力のなかった、障害を持っている子どもだったことを考えると、その女性教師の叫び声はまさに異常でした。見るに見かねた職員によって録音されなければ、親にも知れず、そのまましばらく過ぎて行ったかもしれない。それが本来の人間の絆で成り立っているわけではないシステム・仕組みの恐ろしさだと思います。社会が子育てに関わることの恐ろしさだと思うのです。社会の実態が「人間たち」だったら良いのですが、システムが社会そのものになってゆくと必ず弱者を守りきれなくなる。だから、現実的問題は色々あったとしても、親の代わりはいない、ということを私たちは一つの常識として意識し続けなければいけないと思うのです。

 一昨年までその仕組みの一員として県の教育委員を4年つとめた私には、身内で起こった出来事のようで報道を見ながら呆然としてしまいました。無力感を感じました。

 保育士による虐待が家で報告出来ない三歳未満児によく起きるように、発言能力が著しく低い者たちに対してしばしば人間はこういうことをする。だからこそ、まわりの人間が気をつけて、いつでもどんなことでも話し合える絆をたくさんお互いに持っていなければならない。システム依存から起きる信頼関係の欠如が進み、社会全体の生きる力が著しく疲弊している状況のなかで、あってはならないことが起こっています。それを私たちは知っているはずです。

 児童養護施設でも、学童でも、老人介護の現場でも毎日どこかで起こっている。この国の根幹を崩してゆく不信感の連鎖です。それをどこで止めるのか。間に合うのか。

 でも一番はっきりしていることは、これからも幼児たちは生まれてくる。そして私たちには努力する責任がある。

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 私たちからいい人間性を引き出し、言葉の通じないコミュニケーションを私たちに強いることで想像力や理解力を高めてくれるはずの人たちが、虐待され始める。30年前にアメリカで私が見た福祉の現場が人間性を失ってゆく風景そのままです。性的虐待が高齢者福祉から始まり低年齢層に降りてゆく。そして、少女の5人に1人、少年の7人に1人が近親相姦の犠牲者という状況まで進むと、もはや止めることは至難の業です。人間たちに絶対的に必要な「絆」がゆがみだすと、強者が幸せを求めることが弱者の不幸につながりはじめる。家庭が原点になり学校教育が崩壊してゆく。優秀な教師、良識のある人材がある日突然ベッドから起き上がれなくなり、 教育現場から去ってゆく。そして、急速にシステムは心を失い形骸化してゆく。そのスパイラルが、日本にも確実に起こり始めている。その方程式に日本も組み込まれ始めているのです。


 「子育て」という選択肢のない一つの「苦労」が社会に信頼関係と祈りと絆を生む、という自然の流れが止まりつつある。

 数年前、埼玉の特別支援学校で、教師たちが重度の障害を持った子どもたちに立派に育てられている姿を見ました。身動きが満足に出来ない中学生が、言葉にはならない言葉で、教師をゆっくりゆっくり育てている風景を見ました。その日教えたことが次の日には無になっているような関係だからこそ、結果を求めず、教える側の人間性が育つ。

 親心とは心の底で損得勘定から離れること。特別支援学校で私が見た教師と生徒の関係は、親が乳幼児を育てる風景、乳幼児が親を親らしくする風景と重なるものでした。

 視察のあとに私が、そう感想を述べると、そうなんです、私たちが育てられているんです、と涙を流す先生がいました。だからこそ今度の出来事は悔しいし、腹が立つ。管理する者たちの手で止めることが出来たはずだから、言い訳がなりたたない。言い訳してはいけない。

 こうしたことが起こっていることが現在の子どもたち、特にコミュニケーション手段を制限された弱者を囲む環境なのだということを社会全体で認識し、福祉や教育といったシステムが人間性を育む場、教師や保育者と親たち祖父母たちの間に信頼関係が育つ場になるように変えていかなければなりません。一緒に幼児をながめれば、かならず人間の心は一つになります。それがスタートだったのです。

 

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 障害児、障害者、認知症のお年寄り、0才児も含めて寝たきりの人、一人では生きられないであろう弱者はどんな時代にも社会の一部として存在しました。最近専門的な名前がついただけで、以前は名前をつけて分けなくてもいいくらい普通に一員として居ました。人間社会はいつも様々な命の組み合わせで成り立ってきたのです。

 古典落語の重要な脇役与太郎や若旦那は非生産的愛すべき人間です。そして、日本の昔話や民話の主人公に意外に多いのが怠け者。三年寝たろう,眠りむしじゃらあ、わらしべ長者。一見まわりの負担になったり、一人ではなかなか生きられそうにないひとたちと、パズルのように組み合わさって私たちは生きてきました。彼らを愛し、

 受け入れること、が幸せだと知っていたのでしょう。母性の国なのかもしれません。幼児たちから日常的に学んだのかもしれません。この人たちがいないと人間は淋しさに包まれる。生きている意味が見えにくくなる。自然を見つめ、自分の弱さを自覚出来ないとパズルの楽しささえ見えなくなる。ほんとうに様々な次元で、お互いに少しずつ教えあい、助け合い、生き甲斐を交換しあい、感性を育てあうのがこの国の伝統だったのです。

 そのパズルの組み方が上手になるために、なるべくたくさんの人たちが、0歳から5歳までの幼児とゆっくり時間をかけて付き合うことが必要だと思うのです。とくに0歳から3歳までの人間たちは特別です。この人たちを理解すること、否、「理解しようとすること」が人間社会が調和する元にあった。一つ一つの命の存在意義と存在理由を人間たちに、それとなく教えてきたのだと思います。

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 親と保育者、教師の心が「子育て」で一つになっていれば、保育者や教師による虐待は起こらない。だからこそ見張り合いではない信頼関係の土壌を耕す意味で、「一日保育者体験」を進めていかなければならない、と思います。

 2年前、全国教育委員長教育長会議の分科会で目の前に座った高知県の教育長に、私は一日保育者体験について熱心に説明しました。分科会での教育長の発言を聴いていて、情熱の人だ、この人には通じる、と思い、気合いを入れて説明しました。一ヶ月後に高知県の教育委員会から埼玉の教育委員会に部長さんと課長さんがやってきました。埼玉県の福祉部が作った事例集やポスターを見せて説明したのだと思います。(この辺りは、もうよく憶えていないのですが、高知県のホームページを見ていると品川区の影響もあるような気がしますし、埼玉県の事例集の影響があるような気もします。はぐくむ会の雰囲気も取り入れています。本来仕組みというのは、互いに育てあい育ちあう証。改良しあう、進化してゆくのがいいのです。子育てに正解がないように、仕組みにも実は正解がないのです。子どもたちのために、という物差しを中心に、確認しながら進化してゆくのがいいのです。)

 高知県から来たひとたちが「親心をはぐくむ会」に参加している園に、実際に「保育士体験」の見学にこられました。「はぐくむ会」から花園第二保育園の高木園長先生が代表で高知県まで説明に行きました。そして、最近になって、高木先生のところにきれいな高知の「事例集」が送られてきました。すぐに、それを高木先生が「速達」で、私に送ってくれました。とてもわかりやすく、取り組みの成果と意気込みが載っていました。良かったという親たちの感想と、よかったという保育者たちの感想が各園ごとに並んで載っていました。両者の思いの上に、子どもたちの日々の生活があるのです。すごい、すごい、と高木先生と電話で喜びを分ちあいました。

(「プロセスと目的は一体でなければならない」:マハトマ・ガンジー。)

 一日保育士体験の元にあるのは、「弱者が強者から善性をひき出す」というガンジーのサティアグラハ。保育士体験をした親たちの感想文を読むとそれがよくわかります。父親たちの感想文を読むといっそうわかります。親心をはぐくむ会のホームページにその瞬間がたくさん積み上げられています。


一日保育者体験/

高知県教育委員会の取り組み



保護者の一日保育者体験推進事業

http://www.pref.kochi.lg.jp/soshiki/311601/hogosyanoitiniti.html

一日保育者体験実施園一覧表

http://www.pref.kochi.lg.jp/soshiki/311601//hogosyanoitinitijisien

保護者の一日保育者体験実施マニュアル

http://www.pref.kochi.lg.jp/uploaded/attachment/53460.pdf

茅野市の取り組み

http://www.city.chino.lg.jp/ctg/03091001/03091001.html

茅野市の保育士たちの感想文

http://www.city.chino.lg.jp/ctg/Files/1/03091001/attach/hk_taiken_9.pdf

品川区の取り組み

http://www.city.shinagawa.tokyo.jp/hp/menu000011100/hpg000011037.htm

 他にも、さいたま市、春日部市のホームページでも「一日保育士体験」の取り組みが紹介されています。「子どもたちが喜ぶからやる」それが根幹です。大人たちの心が一つになる原点です。

 埼玉県議の森田俊和さんの県議会での「一日保育士体験」に関する質問と福祉部の答弁は以下のページで見ることができます。森田議員は子どもが「育む会」の会場にもなっている熊谷のなでしこ保育園に通っていて(今年卒園?)、育む会の准メンバーといってもよい人、三度に一度くらい毎月の勉強会にこられます。

http://www.pref.saitama.lg.jp/page/gikai-gaiyou-h2206-j030.html

映像で見る一日保育士体験

 http://www.youtube.com/watch?v=jvu4mKfzmJU