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「心の清らかな人」が輝く時に、その存在に気付かなくなっている
以前、著書「なぜわたしたちは0歳児を授かるのか」に書いた私の言葉が、朝日新聞の「折々のことば」というコラムに紹介されました。
高名な哲学者に、いい言葉を指摘していただきました。
「赤ん坊が泣いていれば、その声を聞いた人の『責任』です。」:松居 和
媚(こ)びる、おもねるといった技巧を赤ん坊は知らない。いつも「信じきり、頼りきり」。それが大人に自分の中の無垢(むく)を思い出させる。昔は、赤ん坊が泣けば誰の子であれ、あやし、抱き上げた。未知の大人であっても、泣く声を聞けば自分にもその責任があると感じた。そこに安心な暮らしの原点があったと音楽家・映画制作者はいう。『なぜわたしたちは0歳児を授かるのか』から。(鷲田清一)
渡辺京二著「逝きし世の面影」を読み、書いた言葉です。(江戸が明治に変わる頃、来日した欧米人がこの国の個性に驚き、文献に書き残したものをたくさん集めた本です。)欧米人たちが時空を越えて私たちに「ほんとうの日本」を伝えようとする意図、人間のコミュニケーション能力の不思議さ、動機を感じます。
第10章:子どもの楽園、にこんな風に書いてあります。
『私は日本が子供の天国であることをくりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない。(モース)』
英国の紀行作家イザベラ・バードは、
『私はこれほど自分の子どもに喜びをおぼえる人々を見たことがない。子どもがいないとしんから満足することがない。他人の子どもにもそれなりの愛情と注意を注ぐ』と書きます。
江戸は玩具屋が世界一多い街、大人も子どもと遊んでいる。朝、男たちが集まり赤ん坊を抱いて自慢しあっている。日本の子どもは父親の肩車を降りない。日本人は子どもを叱ったり、罰したりしない。教育しない。ただ大切にしているだけで、いい子が育ってしまう。そして、江戸という街では赤ん坊の泣き声がしない、と言うのです。
赤ん坊が泣いていたら、そこにいる人が「自分の責任だ」と思う。それが、人間が調和し、安心して暮らしていく原点です。その責任を感じたとき、人間は、自分の価値に気づく。
新聞のコラムを読んだ奈良の竹村寿美子先生(私の第一師匠。元真美ケ丘保育所長)からメールが来ました。
「以前、心の清らかな人が保育園へ来て、子どものなき声を聞いて『あっ、誰かが泣いている!どこ?どこ?』と慌ててうろうろされたことがあった。なき声に慣れていた私たちは反省しきりでした。ありがとうございます!
(追伸)
その人は少し障害を持っていらっしゃる方でした。保育士たちと心が洗われた気になりました」
(ここから私です。)
仕組みによる子育てが広がると社会全体が「子どもの泣き声」に鈍感になる。竹村先生はそれを言いたかったのです。人類に必要な感性が薄れていく。そして「心の清らかな人」の存在が一番輝く時に、その存在に気付かなくなってくるのです。保育に心を込め、人生を捧げてきたひとの自戒の念がそこにあります。
しかし、そういう現場の自戒を無視するように、保育施策が進んでいきます。これほど仕組みが壊されても、乳幼児を40万人保育園で預かれば、「女性が輝く」と首相が国会で言ったことの検証を、誰もしない。
「ママがいい!」という本を書きました。https://good-books.co.jp/books/2590/
「ママがいい!」という叫びを聴いたら、それは聴いた人の責任です。聞き流したり、理屈をつけてその響きに慣れてしまうと、人間社会を支えていた「絆」が薄れ混沌としてくる。
いま、幼児という弱者の扱いが国中で粗雑になっている。それを知って欲しいという思いで書きました。
子どもの貧困などあり得ない。大人たちの「絆」の貧困が広がっているだけ。政府(野党も含め)が、待機児童という言葉を使ってこれだけ積極的に乳幼児期の親子の分離を進めれば、社会全体に優しさや忍耐力が欠けていく。絆の中心にあった幼児の姿が見えなくなって、責任の所在が曖昧になって、一層弱者が追い込まれるということなのです。幼児たちの役割を思い出してほしい。そうしたことを、わかりやすく書きました。シェア、拡散、お願いします。
魂の震え方を、幼児たちが男たちに教える
「ママがいい!」https://good-books.co.jp/books/2590/ より。
父親の一日保育士体験:若い男性園長に言われ、渋々参加したその父親がお昼寝の時間に、息子の背中をトントン叩いて寝かしつけていた。
すると、息子の小さな声が、「おとうさん、ありがとう」。
突然、父親の目に涙が溢れる。
……こういう瞬間に人間が育っていく。父親が一人生まれる、というべきか。父親は、帰り際、園長に向かって、「やって良かった、やって良かった」と繰り返したそうだ。
父親は、自分自身を体験したのだ。自分のいい人間性に気づいた。自分の中には、いい人間がいる。幼児だった頃の自分もいる。(男たちが、園児たちに混じってそういうことに気づくと強い。魂の震え方、信頼を呼び覚ます共鳴の仕方を、幼児たちが男たちに教える。)
男性園長は、その話をしながら、とても嬉しそうだった。
(こうして幼児が父親を育てる時、自立とは対照的な真の「強さ」が、いともたやすく社会に満ちていく。「教育」とは別の次元のところにある「子育て」が、涙とともに目を覚ます。)
コロナ禍の中、「ママがいい!」という本を書きました
コロナ禍の中、「ママがいい!」という本を書きました。https://good-books.co.jp/books/2590/
「子育て」によって支えられ、育まれる信頼関係が、「社会で子育て」と言いながら、実は経済施策で母子分離を進める政府の誘導によって希薄になっていく。子育ての現場で責任転嫁と不信感が生まれ、それがコロナ禍で増幅されている。このまま政府の思惑通り子育てのシステム化が進めば、利他という人間性、絆という自然治癒力が働かなくなってくる。
幼児が「ママがいい!」と言ったら、ママがいいのです。その言葉に真剣に向き合わないと、保育や学校、そして家庭が共倒れになる。限界が近づいています。
幼児の願いを尊重し、幼児たちの側から考える。保育の現場で具体的に行われている信頼関係を取り戻すやり方、例などを本の中に書きました。良いことはすでに行われています。どう広げていくかは現場の決意次第だと思います。
子どもたちに必要なのは、「大人たちの信頼関係」という環境なのです。
子どもたちの役割りは、絶対的弱者であることを宣言し、社会に優しさと絆を生むことなのです。
幼児の保護者に直接講演すると、その反応から、まだ大丈夫とも思えます。説明すれば、幼児と暮らす人たちは理解する。この特別な時間を吟味することの大切さを肌で知っている。本来、子育ては「イライラ」の原因にはなり得ない。
就学前にいくつか行事を重ねれば、幼児たちが「利他」という「幸せの見つけ方」について、親たちに教えてくれる。そこからもう一度「親心」を耕して行くのが一番自然だと思うのです。ぜひ、ご一読ください。
リンクを拡散していただけるとありがたいです。どうぞよろしくお願いします。
「ママがいい!」その言葉を覆すことはできません
7冊目の本がでました。目次はこのリンクで見ることができます。https://good-books.co.jp/books/2590/
「ママがいい!」、この言葉に背を向ける時、人類は監視資本主義の枠組みに組み込まれていきます。デジタル化できない情報発信源、「願い」が、幼児たちの笑顔、はじめの一歩にはあって、それを見て嬉しくなり、それを守るために心を一つにする。
幼児たちの意志は、監視できない次元にあるのです。なぜなら彼らは、無欲だからです。「無欲な人たちが一番幸せそう」その発見が人間社会を調和に導いてきました。
大人の都合が子どもの願いに優先すると、社会からモラル・秩序が失われていきます。欧米先進国で起こっている家庭崩壊についても少し詳しく書きました。
2歳児が「ママがいい!」と言ったらその言葉を覆すことはできない、そこに調和への道筋がある。持続可能な社会への鍵があるのだと思います。
イノベーション(合理化、組織改革)という言葉で一層深まる「欲望」への落とし穴が、人間性の変質を目論んでいる。それを止められるのは、「「ママがいい!」という言葉だけ。
2月24日、演奏します。七時に渋谷のJZ-Bratです。

新刊のお知らせ
7冊目の本が出ました。https://good-books.co.jp/books/2590/
「ママがいい!」、この言葉に背を向ける時、人類は監視資本主義の枠組みに組み込まれていく。デジタル化できない情報発信源が、幼児たちの笑顔、はじめの一歩にはある。それを見て、嬉しくなり、それを守るために心を一つにする。
幼児たちの意志には古(いにしえ)のルールが存在し、遺伝子が導く幸福への道筋と持続可能な社会への鍵があるのだと思います。
過去十年間で保育は、「パートで繋げばいい」「無資格者がいてもいい」というところまで壊されてしまった。国が、保育は成長産業という趣旨で行なった閣議決定、雇用労働施策の一部とされた規制緩和と量的拡大をした時、すでに少子化の流れが、預かればいいという子育て支援では止まらないことを知っていたはず。
「優しさが試される時に、優しさが成長する」南アフリカで人種の融合を訴えたツツ大主教の言葉です。乳幼児たちの存在意義が思い出される時が来ています。
7冊目の本がでました。ぜひ、読んでみてください。
今日、7冊目の本がでました。https://good-books.co.jp/books/2590/ (政治家、行政の方たち、保育関係者だけでなく、保護者の方たちにも読んでいただけたら幸いです。)
子育ては社会に信頼関係と絆を育てる「喜び」だったはず。それが保育を雇用労働施策に組み込み、市場原理にまかせ成長産業と捉える国の方針で、まるでイライラの原因、苦難でもあるかのように言われるようになりました。
このままではすでに保育士不足が限界に達している保育界がもたない、学校教育が破綻します。子どもを優先しない仕組みに嫌気がさして、いい保育士やいい教師が辞めていく。
2歳児が「ママがいい!」と言ったら、ママがいい。その言葉が、実は人類を持続可能にする鍵だった。そろそろ幼児と真剣に向き合わないと、保育と教育、家庭が共倒れになっていきます。
保育界が一つになって幼児たちの願いに耳を傾け、「子ども優先」の引き金を引けば自浄作用は働く。幼児たちの力を信じるしかない。そこに賭けるしかないと私は思っています。
砂場で遊ぶ幼児たち、園庭を走るその姿に憧れ、彼らの願いを尊重して地道な活動を重ねれば、この国はまだ大丈夫。保護者たちに講演すると、その反応と感想文からそう確信できるのです。幼児と暮らすこの人たちはすでに感じている、理解しようとしている。
国が作ろうとしている仕掛けの危うさ、虚しさ、それと同時に保育現場で親心を育てているいい例を書きました。3歳まではなるべく「子育て支援センター」が役割を果たし、子育てが孤立しないよう手助けする。入園してからは親たちを巻き込む行事を重ねていく。卒園してからも、一家の故郷、心の拠り所になれば、失った「地域」を蘇らせることもできるはず。
園で「親心」を耕して行くのが一番自然だと思います。それしかない。
ぜひ、読んでみてください。
よろしくお願いいたします。
令和四年一月二十四日 松居 和
明けましておめでとうございます!
明けましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします
2022年がいい年になりますように、感謝を込めて、講演、演奏、執筆に励みたいと思っています。
七冊目の本が出ます。https://good-books.co.jp/books/2590/
京都から配信したライブを十日間無料で見ることができるようです。よろしければぜひ、ご視聴お願いいたします。
Live performance of the last Year from Kyoto is available for FREEEEEE for 10days. Please check it out! (and spread the link, please.)
Thank uyou
Kazu
文科省が5歳児に「教育プログラム」
コロナ禍のいま、それどころではない、という感じもするのですが、書き残しておくべき重要なことだと思うので、続けます。
文科省が5歳児に「教育プログラム」
最近文科省が始めた施策です。全国的に普及を図るそうですが弊害の方が怖いのではないか。特に保育と教育の混同は危ない。
学習態度・学力ばらつき「小1問題」解消、文科省が5歳児に「教育プログラム」 https://news.yahoo.co.jp/articles/bf08e64b24c984f8db7656e8d13e19070c92e048 (読売新聞)
「文部科学省は、小学校入学時の学習態度や学力の差をなくそうと、5歳児向けの共通教育プログラムを作る方針を決めた。幼稚園や保育園、認定こども園で生活や学習の基盤となる力を養い、小学校入学後の学びにつなげる。近く中央教育審議会で検討を始める。
同省は2022年度からモデル事業をスタートし、効果的な教育活動をプログラムとしてまとめ、23年度以降の全国普及を図る。
幼少期に意欲や根気強さ、協調性などの「非認知能力」を培うと、将来の学歴や所得に大きく影響するとの海外研究もある。」
新制度で、11時間保育を標準と定め8時間勤務の保育士に三十人の五歳児を任せようとした時点で国の施策は常軌を逸している。それを、短時間のパートでつないでもいい、と規制緩和し、今度は「生活や学習の基盤となる力を養い、小学校入学後の学びにつなげる」体制を就学前一年間で作れというのですから、保育の質の格差が広がっている現実を考えれば無謀というか、乱暴に過ぎる。実習に行った学生が、あの園に実習に行くと保育士になる気なくなるよ、と後輩に伝える園が昔からある。毎年二割の保育士が入れ替わったり、園児どころか実習生を育てられない、学生をいじめるような統制の取れていない園もある。そんなバラバラの保育環境に「5歳児向けの共通教育プログラム」を要求したらどうなるか、私には想像がつく。
長い間、実習先であったことは口外してはならない、と学生たちは誓約書を書かされてきたのです。個人情報保護というのは言い訳で、現場の実態を知られたくない意図があったのではないか。その誓約書が、20年間心の縛りになって苦しんだ主任さんがいました。私が生涯忘れない、保育者の涙です。(http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1983 )
特に気にかかるのは、そうした良くない保育現場の現実を子どもたちが見ていること。実習生たちが一週間の実習で、保育士になる気がなくなるほどショックを受け、最近はベテラン保育士でさえ耐えられずに辞めていく光景を、園で過ごす幼児たちが目の当たりにして育っていくこと。その子は虐待を受けなかったとしても、「小さなお友だち」や「実習のお姉さんたち」がそういう扱いをされるのを幼児期に繰り返し見ること、しかも毎朝親によってその場に連れて行かれることが園児たちにどういう影響を及ぼすのか。どの程度の心的外傷になって残るのか。正確に把握することは誰にもできないからこそ、気にかかる。強者が弱者を威圧したり、思いやりに欠ける仕打ちを繰り返す姿を見続けることが、3、4、5歳児の人生に負の影響を及ぼすだろうことは容易に想像できます。その先に義務教育がある限り、誰にとっても「他人事」ではないのです。本来政府が責任を持つべき制度の混迷によって幼児期に植え付けられた不信感が、日本という国を覆っていく。
「5歳児向けの共通教育プログラム」で「幼少期に意欲や根気強さ、協調性を培い」たいなら、そういう風景を減らすことが先決でしょう。子どもの成長過程におけるこういう風景の存在は道徳教育などでは修復できないのです。
こうした風景を無くす、とまでは言いませんが減らすこと、それが、私が推奨している「親の1日保育士体験」の出発点にありました。親と保育者の間に波風を立てずに、一緒に幼児に囲まれることによって自然に育つ信頼関係で「親に見せられない風景」を封じてゆく。これしかないと思いました。
いつでも親に見せられる保育をする、それが原点であり保育の日常なのです。
(幼稚園の場合も一律に論ずることはできない状況になっています。一日五時間保育でお弁当持参、入園時に倍率が出る園もあれば、こども園という枠組みに入り程度の差こそあれほぼ「保育園化」している園もある。補助金を使って強制させられた預かり保育も、毎日2、3人という園もあれば、半数以上が、という園もあります。国の思惑は、保育園並みに子どもを長時間預かり、幼稚園並みに教育をさせようということで、それは幼保一元化やこども園を作った時にそう宣言しているのですが、幼稚園と保育園は「親が育つ」という環境において、子どもたちの成長過程においても、もともと異質のものだった。その異質性は「子育て」には大切なことだった。)
小学校の教師を半分非正規雇用にし、全員パートでいい、無資格者がいてもいい、派遣会社に頼ってもいい、とした上で、「学習態度・学力ばらつきの解消」を、まず学校でやってみればいい、と思いました。(怒っていましたから。)
経緯を見ていると中央教育審議会の学者たちは、所詮、三歳未満児を積極的に母親から引き離そうとする義務教育にとって致命的な国策に異議を唱えない人たち。子育てと教育を混同している。いままで学校で出来ていたことが出来なくなったからと言って、現状を理解しようともせず無責任に、それを保育現場に押し付ける。国の子ども子育て会議(自治体の有識者会議、審議会)もそうです。専門家たちは「小一問題」の本質がわかっていない。いや、わかっていても政治家の顔色をうかがっているだけで、行動しないのか。それとも、「保育園落ちた、日本死ね」的な一方的な世論をいまだに恐れているのか。
彼らの優柔不断な施策によって本当の意味での国力(幸せになろうとする力)が失われていく。
現在進行形の家庭崩壊が進むほど、保育者や教師の「子育て」における役割が重く、大きくなっている。「可愛がる」、「寄り添う」ことでしか救えない子どもたちが、中学でも高校でも増えている。よほどみんなで心を合わせなければ、できないこと。その子の「はじめの一歩」を見て、幼児期を知っている保育者たちとの連携が凍りついた魂を温め生き返らせるかもしれない。今、一体感を持って本気で取り組まないと、限界がそこまで来ています。
「同省は2022年度からモデル事業をスタートし、効果的な教育活動をプログラムとしてまとめ、23年度以降の全国普及を図る。
幼少期に意欲や根気強さ、協調性などの「非認知能力」を培うと、将来の学歴や所得に大きく影響するとの海外研究もある」と書かれている記事の前半部分は文科省が言ったことでしょう。
後半はマスコミが付け加えたのかもしれません。が、モデル事業でうまく行ったから全国普及ができるような状況にはない。子どもの発達や、意欲や根気強さ、協調性などの「非認知能力」に関わるプログラムは、それを実施する側の人間力、優しさ、子どもとの関係や立場、今回の場合は主に年長組を受け持つ幼稚園教諭と保育士ということになるのですが、その人たちの「意欲や根気強さ、協調性など」によって左右される。
公立園をイメージしただけでも、あの市では無理だけど、あの地域ならできるかもしれない、といくつかの自治体の姿が思い浮かびます。主に現場と行政の信頼関係や一体感に基づく判断なのですが、私を講師として呼んだ自治体であってもそうなのです。しかも、あの市ならという自治体でも、市長選挙の結果や部長の異動で状況は突然変わってしまう。幼稚園、保育園では、いまさら親子関係を重視する意見を聞きたがらない園の方が多いかもしれない。それほどみんな疲れ切っている。そういう園でこの「共通プログラム」を無理にやろうとしたら、なお一層保育者(先生)を怖がる子どもが増えるだけではないのか。だからこそ、本来そのあたりのことは、0、1、2歳の時の成長過程を時間をかけて経験し、これから人生を重ねていくその子の親によって成されるべきことだったのです。
(http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2591 :幼児を守ろうとしない国の施策。ネット上に現れる保育現場の現実。)
(家庭型養護施設「光りの子どもの家」の菅原哲男氏の著書「誰がこの子を受けとめるのか」202頁に「子どもと関わる」という章があります。三才まで乳児院で育った子と、いい環境とは言えなくても家で親に育てられた子が家庭型養護施設で高校生になり、乳児と関わった時の実話と菅原先生の考察が綴られています。要約します。
三才まで乳児院で育った世話好きな高校生亜紀は、乳児の由紀が可愛くて仕方ない。その亜紀がある日自分の部屋で哺乳瓶にジュースを入れて飲んでいた。少ない小遣いから哺乳瓶を買って一人で飲んでいた。そして、同じように乳児院で育った高校三年生の嬉は、食欲が落ちてゆき、ある日、保母にリンゴをすってくれと頼む。保母にそうしてもらっている乳児が羨ましかったのでしょう。そして、一歳半の乳児がこの二人には寄り付かない。三歳まで親に育てられた高校生には懐くのに、この二人には懐かない。疑似家族のような関係の中で、施設に入所する以前の乳幼児期の体験の差が「育てる側の立場になった時に」浮き彫りになるのです。
菅原さんが書く、乳児期の「個別的継続的な養育者との関係」の欠如が高校生になっても、人間関係、特に幼児との関係に深い影響を与えている光景を読むと、政府がパートでつなぐ保育を容認し、三歳未満児を長時間預けることを奨励する危うさをひしひしと感じます。
http://www.luci.jp/diary2/?p=1676 愛されることへの飢餓感・荒れる児童)
(ある幼稚園の男性園長が面白そうに話してくれました。「卒園児が、いまはもう中学三年生なのですが、学校でとんでもない『ワル』になったというのです。通っている中学の校長が私の友人で、お前のところの卒園児だが、本当に困り者だと言うのです」
一度見に行ってみよう、園長先生は中学校に出かけました。
そして、私に言うのです。
「見に行ったら、ちゃんとあの子がそこに居ました」
幼児期を知っている園長には、その子の本質が見えたのです。そして、それは変わっていなかった。
幼児期が見える、本質が見える。これが「親であること」。だから、担任が変わり続ける仕組みに親の肩代わりは出来ないのです。「親身」というのは、親の身と書く。こういう時代だから、校長先生たちも親身になることを求められている。そうすると親たちがますます親らしさを失いそうですが、仕方ない。子どもたちはそれを求めている。
中学の校長先生たちに講演する時にお願いします。保育園や幼稚園に年に三日でいい、行って下さい。敷地の中にいるだけでいい。教育的な考えを捨てて、幼児に肩まで浸かる。すると、目の前にいる中学生たちの中にその子の小さい頃が見えてくる。それに話しかければいい。そうしないと魂を導けない。
懇親会の席で、校長先生たちが私の席に来て笑顔で言います。
「松居先生の話、孫が居るので良くわかります」
そして、携帯電話の中に入れてあるお孫さんたちの写真を順番に見せてくれるのです。
「御本尊様ですね」。
教育もまた、時々御本尊を拝みながらするもの。できることなら、生徒たちと一緒に……。)
文科省は、保育者一人で子ども三十人を相手に一年間で「良い子」に育てろ、しつけろ、「学習の基盤となる力を養い、小学校入学後の学びにつなげ」るようにしろと言う。親の協力があっても、以前に増して1クラスに二、三人は発達障害と思われる子どもと、いつでも引き金を引かれる予備軍を抱えている現状では、もう無理なのです。
「子育て」があっての「教育」でした。
「子育て」は、人間が子どもたちの信頼に応えようとすること。大人たちが、子どもたちの信頼を失わないように努力すること。
「教える」というコミュニケーションは、人間の脳が最も発達する3歳までの時期に、子どもたちが、自分が生まれてきた場所は信ずるに足る環境なのだと認識し、初めて成り立つものだった。そう考えるべきです。
学校という仕組みが普及する以前、人類はこの「教える」というコミュニケーションの持つ普遍性に種の存続を賭けていた。その基盤に、数人の大人たちが子どもを囲み、可愛がる、守る、一緒に子どもの幸せを願う、という行いが常識としてあった。双方向に非認知能力が育っていた。
いま、共通プログラムが必要なのは子どもたちではない。親たちでしょう。
「子育て」という大自然から与えられた共通プログラムは、人間が自由や利権を弱者によって奪われることで成り立ち、人間を導いてきた。「自由」や「平等」などという言葉を使ってそのプログラムに反発しても、それは将来を傷つけるだけなのだ、ということに最近の親たちは気づかなくなっている。
疲弊している教師たちが言うのです。「様々な事情を抱えている子どもたちに対応しきれない」と。
ベテラン保育士たちは見抜いています。「様々な親を抱えている子どもたちに対応しきれない」。
老園長が言いました。全ての保育園、幼稚園、学校の門のところに横断幕を掲げて、書いておけばいいんだ。「あんたの子だろ」って。
国は早く方針を転換してほしい。マスコミもきちんと報道してほしい。三歳児神話は、神からの啓示、遺伝子からの要求、そこに調和への道筋が示されているのだと覚悟を持って親たちに伝えてほしい。
学校という仕組みに子どもたちが入っていくための準備をするのは親たちであって、専門家が作った「共通教育プログラム」などではない。
「教育」という言葉で子育てを誤魔化すのは、やめた方がいい。
保育という仕組みをもう一度、人間の営み、という本来の持続可能な姿に近くしていかねばなりません。教育という概念から離れ、保育界に「可愛がる」「寄り添う」の原則を取り戻していかなければならないのです。
三歳未満児を(標準11時間)保育所で預かれば女性が輝く、と言ってしまった政府の施策に、当事者である幼児たちに対する「思いやり」「気遣い」が欠けているのです。政治家の思考の道筋に「非認知能力」が呆れるほど欠けている。ユニセフの「世界子供白書2001」に、三歳までの、親や家族との経験や対話が後の学校での成績、青年期や成人期の性格を左右する、とはっきり書いてある。必ずそうなるとは思いませんが、そうだろうな、と思います。
萩生田さん、田村さん、散々説明したでしょう。保育士に子育てはできません。親が親らしさを失うことが仕組みにとって致命的なのだ、と。あなたたちは理解したはず。今は、コロナ対策で大変でしょう。しかし、コロナ禍の中ですり抜けていく保育、教育に関わる施策が乱暴過ぎます。「短時間勤務の保育士の活躍促進」にしても、「5歳児向けの共通教育プログラム」もそうです。これに反対しない野党も含め、すでに持続不可能になっている仕組みに、政治家たちが、選挙に勝つことを目標にさらに負荷をかけている。
すべての人間が赤ん坊と過ごす時間を数年持つ、それが人類の存続にとって不可欠な「共通プログラム」でした。このプログラムの偉大さに、中教審や子ども・子育て会議はさっさと降参して、少し素直になればいい、そんな風に考えます。
(関連リンクです。)
(いい人になること:「非認知能力」http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=3016 )
(子育てというコミュニケーション: http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=3282 )
(http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=3491 :「短時間勤務の保育士の活躍促進」がいまの政府の姿勢を端的に物語っています)