「教え子が送ってくれた言葉」(トルコからの手紙)

「教え子が送ってくれた言葉」

ご主人の海外勤務で、トルコに4年間住んでいた教え子が以前メールを送ってきて、いろいろ教えてくれました。

保育と子どもの発達をテーマに博士論文を書いていた彼女は、本もよく読んでいて本来は理論派なのですが、独特な感性があって、特に、子育てをしている女性は多分遺伝子が勢いよくオンになってきているのでしょう、遠くを見通すその視線がすごいのです。

トルコ語も積極的にマスターし「昔から続いてきた人間社会における子育ての役割」について貴重な報告をイスタンブールから伝えてきたのです。

人間同士の育てあいが作る安心のネットワークと、親としての絆の役割りを、祈りの次元で眺めることが出来るひとでした。

学生時代日本にいたころから討論を重ねたこともあって、私は彼女の報告を、自分がその場に居て見ているように実感したものでした。ご主人が、一流企業に勤めていながらトルコ人仲間とサッカーに熱中しているような、子煩悩な人だったことも観察の手助けになったのだと思います。

一時帰国も出来たのに、彼女はトルコで第一子を出産しました。おかげで、トルコ人の(または昔の人の?)、命の誕生や、赤ん坊に対する思いを肌で感じて、その目線に囲まれて育つことの意味を新鮮な驚きとともに報告してくれました。

 

(最後のメール?)

菜々はすっかり、「全ての大人は自分を愛してくれるもの」だと思っています。

トルコ人から愛情を受けるのが当たり前になっている彼女。

ありがたいやら、今後がおもいやられるやら。

そして改めて、トルコ人がどんな状況でも、祖国や自分、家族といった自分の基盤となる部分を積極的に肯定し、是が非でも守る理由がわかります。幼い頃、こんなに誰にでも愛されていれば、何があっても自分を否定しない。人や自分を愛する力がつくんですね。

里映

 

(その二年前のメール)

トルコで菜々を抱えていると、1メートルもまっすぐ歩けない位、沢山の人に声をかけられます。皆、菜々に話しかけて触って、キスをしてくれます。トルコの人たちは、赤ん坊がもたらす「いいこと」をめいっぱい受け取っていると思います。菜々のお陰で、私は沢山の人の笑顔に触れられて、沢山の人から親切にされて、幸せです。日本に帰るのが少し怖いです。

里映

 

(四年前のメール)

「トルコ語に『インアシャラー(神が望むなら)』という言葉があります。イスラム圏全体で通じる言葉でしょうか?

停電がしょっちゅうあるので、私が近所の人たちに色々聞きに行き、『あと少しで回復するかな?』と聞くと、『インアシャラー』と言われたりします。この言葉がよく使われるように、トルコでは、自分(人間)がどうにもできないことがあるという前提で物事を考え、そういうことが起こったら、じたばたせずに神様が導いてくれるのを穏やかに待っているようなところがあります。その分楽天的で、ひやひやすることも多いのですが」

やはりポイントは、自分、というより人間には、自分自身で解決できないことがあるということを前提にしているというところでしょうか。何もできないということと、幸せであるということは、裏表なのでしょう。松居先生の、0歳児が完璧な人間である、ということと近いと思います

里映

(教え子がしている体験が伝わってきます。私もトルコに行ったことがあるのです。

最初は二十歳の時でした。インド、ヨーロッパ、シルクロード、そして再びインド、一年半の旅の中でロンドンからインドまでボロ車で走った、その途中でした。

当時、フラワーチルドレンの生き残りたちが、ある者は、トールキンの「指輪物語」を手に、ある者はヘリゲルの「弓と禅」(Zen In The Art of Archery)に影響を受け、ああ、そうそう、それをもじった「オートバイ整備と禅」(Zen and the Art of Motorcycle Maintenance)というのもありました。ダイセツ・スズキ、コードー・サワキという名が語られ、クリシュナムルティまで読み進む「旅人」たちもいた。時代が、自らを検証するために産み落とした世代だったのかもしれません。

目標への近道は、国という概念を捨てること、そんな雰囲気がありました。あの旅が、いまだに続いているように思える私にとっては、つい、このあいだの事なのです。

教え子がメールで伝えてくる「文字」の存在に感謝し、感動します。

人間は絆を深め、時空を越えて体験をわかちあい守りあうために「文字」を創った。四十年以上前の自分の旅がこうして彼女のメールと重なる。それを日本の保育者たち、保護者たちとわかちあえたら、とコミュニケーションの不思議さを感じます。

「逝きし世の面影」(渡辺京二著)の第10章、「子どもの楽園」を読んだ時にも感じた感動です。百五十年前の欧米人たちが、自分たちが見て「パラダイス」と驚いた日本について、「子どもの楽園」について文字に書き残し、私たちに教えようとする。伝令役を果たそうとする。

子育ての絡まない比較文化論は、私にとって意味がないのです。その文化が何を信じているか、いわば幸福論の柱が見えてこないからです。

『インアシャラー』という言葉の中に、自分ではなく子どもを、神を、優先することによって人生を確固としたもの、嬉しい体験にしようとする人たちを感じます。この言葉が、子どもを笑顔で見つめるための「おまじない」なのです。子育ては、うまくいく、思い通りにいくものではないのです。

社会に、信じること、祈ることが存在し続けていたら、大学も専門家もこんなに存在しなくていいし、こんなに物差しが混乱しなかったはず。

「日本に帰るのが少し怖い」という彼女の言葉に、子どもをみんなで大事に守った母親の本能と不安が垣間見えるのです。勇敢な彼女だからこそそれを感じ、予知するのでしょう。

日本で確実に増えている、義務教育の中で子どもを守りきれない、信じることができないものに「子育て」を手渡す母親たちの葛藤が、その言葉に表れているのです。「最近の義務教育」の中で、良くない同級生、良くない担任に当たった時の親子のショックを知っているから、親と子の、途方に暮れた後ろ姿、孤立無援の悲しみを、私はそこに感じる。

人間は全員が発達障害で、運命的な欠陥をを補い合って生きていく。男女、親子がその典型ですが、補うことで自らの幸せは全体の幸せで成り立つことを知る。そのパズルを組むための凸凹が、義務教育の「義務」という名の下で、または「平等」という名を冠した闘いの中で、摩擦の原因になっていく。一生後悔してもし切れない判断を母親に迫っている。

先進国社会において、神の作った秩序と人間の作った秩序が闘っています。本来次元の異なる、住み分けが出来るはずのものたちが競い、闘い始めています。

子育てで一番大切な言葉が、「神が望むなら」なのかもしれません。その言葉は、みんながそう思って初めて生きてくる。「神が望むなら」という生き方を親たちが身につけるために、幼児、特に未満児が存在するのでしょうね。だから、幼児期の子育てを手放してはいけないのです。)

続く、 

 

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