「ある夕方のこと」
子どもの発達を保育の醍醐味ととらえ、保育士たちの自主研修も月に一回やり、親を育てる行事をたくさん組んで保育をやっている保育園で…。
園長先生が職員室で二人の女の子が話しているのを聴きました。
「Kせんせい、やさしいんだよねー」
「そうだよねー。やさしいんだよねー」
園長先生は思わず嬉しくなって、「そう。よかったわー」
「でも、ゆうがたになるとこわいんだよねー」
「うん、なんでだろうねー」
園長先生は苦笑い。一生懸命保育をすれば、夕方には誰だって少しくたびれてきます。それを子どもはちゃんと見ています。他人の子どもを毎日毎日八時間、この人数で見るのは大変なのです。しかも、園長先生は保育士たちに、喜びをもって子どもの成長を一人一人観察し、その日の心理状態を把握して保育をしてください、と常日頃から言っています。
問題がある場合は、家庭の状況を探ってアドバイスをしたりしなければなりません。子どもの幸せを考えれば、親と一緒に子育てをしているという意識は常に忘れてはいけない。そして、良い保育をしようとすれば、それは「日々の生活」であって完璧・完成はないのです。
保育士に望みすぎているのかもしれない…、と園長先生は思いました。
それでも、いま園に来ている子どもたちのために、選択肢のなかった子どもたちのために、できるところまでやり続けるしかない。
そう思いだした時、職員室での子どもたちの会話が、保育士たちへの励ましのように聴こえたのでした。
(アメリカの小学校で痛ましい銃の乱射事件がありました。教師も銃を持てばいい、と言う人たちに私の親友が書いた反戦の「詩」です。三十年間小学校で教え、全米Teacher of the yearにも選ばれた、私のソウルメイトのような人。)
A Teacher’s Arms
(On the suggestion, by some, that teachers carry guns)
These arms
were not designed to
hold
cold
steel
were never meant to
wield
or carry
or pull
or aim.
These arms
will not be armed!
These arms
were made to
embrace
the tearful child
to shoulder
the pain of playground
misunderstandings
and to place
a Band-Aid
on the scraped knee
when it
hurts.
- Kim Labinger