現場職員との意見交換会

02_意見交換会開催のご案内のコピー

 

所沢市用の追加資料です。松居 和

意見交換会ですが、参加対象は 保育士、児童館支援員、こども相談センター職員、 松原学園およびこども福祉課職員で、「愛着障害」と「小1プロブレム」をテーマに講演し、話し合います。配布資料の一部です。

 

 

十一時間保育が壊したもの

最近のDVや児童虐待の報道を見るたびに思う。

かつて、保育がまだ保育らしく、「子どもの最善の利益を優先する」という指針の心が生きていて、園長や主任たちが親を導き、時には叱ることができた頃、どれほど多くのDVや児童虐待が保育の現場で止まっていたか。特に、保護者をお客さん扱いしない公立の園ではそうだった。

「あの園長先生に救われた」。そんな言葉を親たちからたくさん聞いた。この国のモラルや秩序を保育が支えていた時期が確かにあった。

国は子ども・子育て支援新制度(平成二十七年施行)でこども園を増やし、小規模保育の基準をゆるめ、与野党ほぼ一体で長時間保育を促し、乳幼児期の母子分離を進めていった。

審議していた子ども・子育て会議の「専門家」たちは、保育の本当の役割がどこにあったか、これが崩れた時に何が起こるか気づいていなかった。

一緒に「子どもを育てる」という関係が数年間続くことで親と保育士の間に信頼関係が育ち、多くの保育士たちが、(幼児の親という)初心者に近い親たちの親身な相談相手になってきた。その意味と価値を、政府の経済施策を忖度し、無資格者が増えるような規制緩和を許した「専門家」たちは知らない。

「保育は成長産業」とみなすさまざまな閣議決定で、市場原理が持ち込まれ、一緒に育てるという「育ちあいの場」が社会から奪われていった。

保育士たちが親に対して口を閉ざしてしまうような市場原理化を進めておいて、幼児が犠牲になる事件が起こると、すでに人材的に機能不全に陥っている児童相談所や警察に責任をかぶせる。一方で「就学前児童の養護施設入所原則停止」で最後の安全ネットを外し、保育界にその役割を押し付ける。表向きは里親を増やし「家庭に近い環境」で、というのだが、それなら十一時間保育を「標準」と決めるのはおかしい。子育てに関わる施策が悪循環、支離滅裂になっている。

令和元年(二〇一九)六月、動物愛護法が一部改訂され、生後八週に満たない犬猫の販売が原則禁止となる。それまでに母犬から子犬を離すと、噛み付き癖、吠え癖がつくからという理由だった。生後八週は人間なら二歳くらい。一方、人間の乳幼児に対しては、積極的に母子分離を推進する流れとなっている。

なぜ守られるのは犬だけなのか。人間の子を守る法律をまず先に作るべきだろう。

社会学者やマスコミが犬優先の矛盾を指摘しない。気づかないのか、意図的なのか、大人たちの「利権」が優先されている。

1歳児の噛み付き増加が保育園で問題になって十年以上になるのだ。

なぜこういう順番になるのか。優先順位がこれほど狂ってしまったことによって何が起こるのか、把握すべき時だと思う。

すでに平成二十七年(二〇一五)年二月には、NHKの「クローズアップ現代」で、『少年犯罪・加害者の心に何が~「愛着障害」と子どもたち~』が放送されていた。

幼児期の愛着障害が減刑の理由になる事件が日本でも起こっている。欧米では、弁護側が争う重要な論点になる犯罪者の生育歴が、日本でも裁判で争点になる。

関東医療少年院の斎藤幸彦法務教官が語る。

「職員にベタベタと甘えてくる。逆にささいなことで牙をむいてきます。何が不満なのか分からないんですけども、すごいエネルギーで爆発してくる子がいます。なかなか予測ができない中で教育していかなければいけないというのが、非常に難しいと思っています」

養護施設の職員の言葉。

「養護施設に来る子どもたちっていうのはマイナスからの出会いなので、赤ちゃんを抱いているような感覚でずっと接してきました」

母親が妊娠中に、出産後の我が子の預け先を、なんの疑問をもたずに考えはじめることで遺伝子に組み込まれた情報が、福祉という仕組みによって凍結されていくのではないか。政治家も学者も、マスコミも、一度立ち止まって、冷静に考えてほしい。

「世界を信じることができるか?」は乳児期に決まる

「アイデンティティー」の研究で知られる発達心理学者エリック・エリクソンは、乳児期に「世界は信じることができるか」という疑問に答えるのが母親であり、体験としての授乳があるという。それが欠けることで将来起こりうる病理として、精神病、うつ病を指摘する。

子どもは一対一の人間関係の中で「人を信頼する」という能力を身につけていく。

以下は、国立成育医療研究センター「こころの診療部」の部長(当時)の奥山眞紀子さんの証言である。 (NHK「クローズアップ現代」二〇一七年七月二十日放送)

番組のタイトルは、「知られざる“虐待入院”~全国調査、子どもたちがなぜ~」。

病院という中では非常に限られた空間で刺激の少ない生活になりますので、発達に影響を及ぼす危険性というのは非常に危惧されると思うんですね。それからもう一つは、子どもはやはり一対一の人間関係の中で守られるということを通して、「人を信頼する」という能力を身につけていくんですけれども、それがなかなかできない。いろいろな人が関わるけれども、「この人は」という一対一の人間関係ができないということが、後にいろいろな影響を及ぼす危険性というのがあると思います。

──例えばどんな影響が?

やはり困った時に人を頼れないとか、どうしても引きこもってしまうとか、誰にでもベタベタするんだけれどもなかなか本当の関係性が作れないといったような問題が起きてくるということもありますし、将来的に人間関係がうまく作れない状態になるという危険性もあると思います。

──それは数か月こういう状況にあったとしても?

赤ちゃんにとっての数か月は非常に長いですし、まして乳児期の数か月は非常に長いものだと思います。

※引用ここまで

この証言で危惧される入院時の愛着関係の不足が、〇歳で子ども三人に保育士一人、一~二歳の子ども六人に保育士一人という国の保育士配置基準と重なる。「一対一の人間関係の中で守られない状況」が一日十一時間、年に二百六十日。これが数年続くとしたら、「後にいろいろな影響を及ぼす危険性」や「将来的に人間関係がうまくつくれない状態になるという危険性」を広げることは容易に想像できる。

パニックを起こす子

「最近は、昔からいた少し変わった子、思うようにいかないとパニックを起こす子、自分の個性を押さえられない子に、『障害』の診断をしすぎるように思います。障害が認定されると、障害児支援センターは指導の過程で、子どもがパニックを起こさないようにします。カードで指示を出したり、とても変なんです」

講演に行った先の幼稚園で、園長先生が言った。

落ち着いた環境をつくるのはいいけれど、こういう子は将来一人で生きていけるわけではない。園でしっかりパニックを起こさせて、まわりがそれに反応し、学び、切り抜けていく力をみんなでつけていかなければ駄目だと、園長先生は言う。

障害児支援センターは、子どもの起こすパニックを「その子の問題」として対処しようとする。しかし、園長先生は長年の経験から、「みんなの問題」として受け入れようとしているのだ。ここには、大人が子育てを分かち合い、みんなでしっかり見守っていれば、その子がいることで他の子どもたちも社会の一員として育っていく、他の子たちがその子を受け入れる柔軟性を持つことが将来その子にとっても、この国にとっても大切、という視点がある。

保育園に比べて、幼稚園ではまだ気持ちに余裕がある。その幼稚園では、親たちが保育に参加する行事を積極的にやっていた。親たちを園の一員と考え、絆や包容力を育てているのだ。

園が安心感を生むビオトープのような機能をもてば、職員も保護者も安定する。

毎日午後二時には親が迎えにくる。親子が過ごす時間が比較的確保されている中で、「家庭」を土台に保育をしてきたからそういう考え方になるのだろう。

母子関係という基盤があれば、社会は常に柔軟に変化成長し、その柔軟性の中で、時々パニックを起こしてしまうその子が役割を果たすことができる。言い換えれば、みんなの人生が継続的に向き合わなければ「問題」は解けない、ということなのだ。

五歳までの幼児期に、これほど親子が離れ離れにされることはかつてなかった。

人類の歴史始まって以来の、突然の環境の変化に対応できない子どもが増えてきて当然なのだ。

しかし、ニーズと希望の混同を促す保育のサービス産業化によって「伝統的な子育ての概念」から離れてしまった親たちは、必死にその責任を負うべき誰かを探そうとする。それが見つからないイライラと苦しみが、「保育園落ちた、日本死ね」という言葉に象徴される、利他とは正反対の行動になって現れてしまうから、ますます相談者を失っていく。

本来子育てにおける相談相手の第一は、子育てによって引き出されていく自分自身の「利他の人間性」だったのだ。

障害児支援センターは、不足している一対一に近い時間を増やし、子どもを安心させることから入るしかない。しかし、社会保障や福祉に関わる人員はすでに絶対的に不足していて、専門家がいくら頑張っても、その子の人生にとっては束の間のことでしかない。親子や家族の関係に代わることはできない。

子育ては、長い間、学問の領域ではなく、祈りの領域に存在してきた。心を一つにすることがその目的であり、その結果として存在する。その自覚が社会に再び生まれるかどうかがいま、問われている。薬物で落ち着かせるか、絆で落ち着かせるか、選択を迫られるケースが増えている。人類がその選択を迫られているようにさえ思えてくる。

操作された新たな常識と、本能との乖離によって生じる葛藤を自ら把握できないことがイライラの原因であって、幼児の特質ではない。

( 近著「ママがいい!」から)