「家にいるしかなく親の暴力ひどくなった:読売新聞」

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児童虐待最多の10万8050人、コロナで潜在化の恐れ…「家にいるしかなく親の暴力ひどくなった:読売新聞」という記事。

いま、一番注目しなければいけない記事のはず。これで国会が紛糾してもいい。国のあり方、いく道の危うさ、義務教育が存在する限り、全ての人の人生に連鎖し、影響してくる問題なのです。

それが、人々の意識の中で一過性の話題になっている。

本来なら災害や困難は、人々を結束させ、思いやり、助け合いを生み、家族という理屈抜きの絆に感謝する機会だった。それが、児童虐待最多という社会の流れの中で、そういう働きをしなくなっている。反対に、親の暴力を誘発しているというのです。

児童虐待最多はコロナに関係なくずっと更新されてきた、現在進行形の問題なのです。なぜ進行しているのか、家庭や子育てのあり方、という側面から、真剣に考えなければいけないはず。

「家にいるしかないと親の暴力がひどくなる」という記述が憶測であっても、報道されるからには、近年の親子関係の変質に皆気づいている。それを、だから福祉や教育を使って親子を切り離せ、というのはあまりにも本末転倒なのですが、そういう議論がすでにある。アメリカで、母子家庭に任せておくと犯罪が増えるから政府が孤児院で育てよう、というタレント・フェアクロス法案が連邦議会で論議された時のことを思い出します。施策や仕組みで家庭を壊しておいて、それを施策で補おうとする。それが、一層問題を大きくしていく。

家族というつながりの中で長い間伝承されてきた「忠誠心」のようなものが、国がつくる仕組みの中で、特に子どもの気持ちを無視した母子分離政策の中で急速に失われているのです。

優しさと忍耐力、そして本能的な忠誠心を育ててきたのは誰なのか。

もちろん、幼児たちです。この人たちを中心に向き合うこと、この人たちを可愛がること、育てること、は人類にとって「必須」だった。

人間たちの意識の中心に常に二歳児がいて、彼らの存在に酔っていれば、人類は大丈夫だった。

この人たちが居てくれることを、喜びと感じるか、イライラと感じるか、そこが分水嶺で、その「選択」によって人間社会の道筋が決まっていくのでしょう。

それは「自らの選択」です。

親を見つめる保育士たちが言うのです。子どもと一緒にいるとイライラする親が増えている。当然、子どももイライラしてくる。すると、保育士も教師もイライラしてきて……、そうやって、穏やかに過ごすための絆を、みんなで少しずつ失っていく。

それでも、政府は行政を使って、母子分離に拍車をかけるのです。

「子ども家庭庁」など推して知るべし。「子ども・子育て会議」が作られた時のことを思い出します。

政府によって選ばれたメンバーが十一時間保育を標準と名付け、保育界の産業化、そして規制緩和を進めていった。保育は成長産業という閣議決定が後ろにある限り、そして保育施策が雇用労働施策の一部であり続ける限り、「子ども・子育て会議」も「子ども家庭庁」も、誤魔化しの道具に過ぎないのです。

二十年前、0歳児、1歳児を預けにきた親に、「いま預けると、歳とって預けられちゃうよ~」と言ってやんわり脅していた園長がいました。

その言葉が、ますます真実味を帯びている。

古(いにしえ)のルールの伝承が、あちこちで途切れようとしているのです。