誕生日にアマゾンのレビューが一つ送られてきました。

昨日は、さいたま市の私幼連の集まりで先生たちに講演しました。講演前、旧知の清水市長に久しぶりに会い教育長と子ども未来部長を紹介されました。とても、理解し合えそうな、尊敬している人に共通項がある女性の教育長でした。再会が楽しみです。

以前会ったことのある、今度岸田内閣で総理大臣補佐官になった村井英樹議員をそこで再度紹介されました。岸田総理に近い人らしく、紹介してくれたさいたま私幼連の会長とも旧知の間柄だそうです。国の施策の流れに変化があればいいのですが……、祈るような気持ちです。

今日は誕生日で、フェイスブックのタイムラインにたくさんお祝いのメッセージをいただきました。海外からも私の音楽のファンからいただきました。

そして、出版社の良本さんから、アマゾンのレビューが一つ送られてきました。真意をこれほどまでに読み取っていただけると、本当に嬉しいし、ありがたい。柴田久雄様、レビュー励みになりました。

やはり世論が変わっていかないと、子どもが中心にいる国は戻ってこないのです。みなさん、今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1JORBYS7DPDDF/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4907461348

現場職員との意見交換会

02_意見交換会開催のご案内のコピー

 

所沢市用の追加資料です。松居 和

意見交換会ですが、参加対象は 保育士、児童館支援員、こども相談センター職員、 松原学園およびこども福祉課職員で、「愛着障害」と「小1プロブレム」をテーマに講演し、話し合います。配布資料の一部です。

 

 

十一時間保育が壊したもの

最近のDVや児童虐待の報道を見るたびに思う。

かつて、保育がまだ保育らしく、「子どもの最善の利益を優先する」という指針の心が生きていて、園長や主任たちが親を導き、時には叱ることができた頃、どれほど多くのDVや児童虐待が保育の現場で止まっていたか。特に、保護者をお客さん扱いしない公立の園ではそうだった。

「あの園長先生に救われた」。そんな言葉を親たちからたくさん聞いた。この国のモラルや秩序を保育が支えていた時期が確かにあった。

国は子ども・子育て支援新制度(平成二十七年施行)でこども園を増やし、小規模保育の基準をゆるめ、与野党ほぼ一体で長時間保育を促し、乳幼児期の母子分離を進めていった。

審議していた子ども・子育て会議の「専門家」たちは、保育の本当の役割がどこにあったか、これが崩れた時に何が起こるか気づいていなかった。

一緒に「子どもを育てる」という関係が数年間続くことで親と保育士の間に信頼関係が育ち、多くの保育士たちが、(幼児の親という)初心者に近い親たちの親身な相談相手になってきた。その意味と価値を、政府の経済施策を忖度し、無資格者が増えるような規制緩和を許した「専門家」たちは知らない。

「保育は成長産業」とみなすさまざまな閣議決定で、市場原理が持ち込まれ、一緒に育てるという「育ちあいの場」が社会から奪われていった。

保育士たちが親に対して口を閉ざしてしまうような市場原理化を進めておいて、幼児が犠牲になる事件が起こると、すでに人材的に機能不全に陥っている児童相談所や警察に責任をかぶせる。一方で「就学前児童の養護施設入所原則停止」で最後の安全ネットを外し、保育界にその役割を押し付ける。表向きは里親を増やし「家庭に近い環境」で、というのだが、それなら十一時間保育を「標準」と決めるのはおかしい。子育てに関わる施策が悪循環、支離滅裂になっている。

令和元年(二〇一九)六月、動物愛護法が一部改訂され、生後八週に満たない犬猫の販売が原則禁止となる。それまでに母犬から子犬を離すと、噛み付き癖、吠え癖がつくからという理由だった。生後八週は人間なら二歳くらい。一方、人間の乳幼児に対しては、積極的に母子分離を推進する流れとなっている。

なぜ守られるのは犬だけなのか。人間の子を守る法律をまず先に作るべきだろう。

社会学者やマスコミが犬優先の矛盾を指摘しない。気づかないのか、意図的なのか、大人たちの「利権」が優先されている。

1歳児の噛み付き増加が保育園で問題になって十年以上になるのだ。

なぜこういう順番になるのか。優先順位がこれほど狂ってしまったことによって何が起こるのか、把握すべき時だと思う。

すでに平成二十七年(二〇一五)年二月には、NHKの「クローズアップ現代」で、『少年犯罪・加害者の心に何が~「愛着障害」と子どもたち~』が放送されていた。

幼児期の愛着障害が減刑の理由になる事件が日本でも起こっている。欧米では、弁護側が争う重要な論点になる犯罪者の生育歴が、日本でも裁判で争点になる。

関東医療少年院の斎藤幸彦法務教官が語る。

「職員にベタベタと甘えてくる。逆にささいなことで牙をむいてきます。何が不満なのか分からないんですけども、すごいエネルギーで爆発してくる子がいます。なかなか予測ができない中で教育していかなければいけないというのが、非常に難しいと思っています」

養護施設の職員の言葉。

「養護施設に来る子どもたちっていうのはマイナスからの出会いなので、赤ちゃんを抱いているような感覚でずっと接してきました」

母親が妊娠中に、出産後の我が子の預け先を、なんの疑問をもたずに考えはじめることで遺伝子に組み込まれた情報が、福祉という仕組みによって凍結されていくのではないか。政治家も学者も、マスコミも、一度立ち止まって、冷静に考えてほしい。

「世界を信じることができるか?」は乳児期に決まる

「アイデンティティー」の研究で知られる発達心理学者エリック・エリクソンは、乳児期に「世界は信じることができるか」という疑問に答えるのが母親であり、体験としての授乳があるという。それが欠けることで将来起こりうる病理として、精神病、うつ病を指摘する。

子どもは一対一の人間関係の中で「人を信頼する」という能力を身につけていく。

以下は、国立成育医療研究センター「こころの診療部」の部長(当時)の奥山眞紀子さんの証言である。 (NHK「クローズアップ現代」二〇一七年七月二十日放送)

番組のタイトルは、「知られざる“虐待入院”~全国調査、子どもたちがなぜ~」。

病院という中では非常に限られた空間で刺激の少ない生活になりますので、発達に影響を及ぼす危険性というのは非常に危惧されると思うんですね。それからもう一つは、子どもはやはり一対一の人間関係の中で守られるということを通して、「人を信頼する」という能力を身につけていくんですけれども、それがなかなかできない。いろいろな人が関わるけれども、「この人は」という一対一の人間関係ができないということが、後にいろいろな影響を及ぼす危険性というのがあると思います。

──例えばどんな影響が?

やはり困った時に人を頼れないとか、どうしても引きこもってしまうとか、誰にでもベタベタするんだけれどもなかなか本当の関係性が作れないといったような問題が起きてくるということもありますし、将来的に人間関係がうまく作れない状態になるという危険性もあると思います。

──それは数か月こういう状況にあったとしても?

赤ちゃんにとっての数か月は非常に長いですし、まして乳児期の数か月は非常に長いものだと思います。

※引用ここまで

この証言で危惧される入院時の愛着関係の不足が、〇歳で子ども三人に保育士一人、一~二歳の子ども六人に保育士一人という国の保育士配置基準と重なる。「一対一の人間関係の中で守られない状況」が一日十一時間、年に二百六十日。これが数年続くとしたら、「後にいろいろな影響を及ぼす危険性」や「将来的に人間関係がうまくつくれない状態になるという危険性」を広げることは容易に想像できる。

パニックを起こす子

「最近は、昔からいた少し変わった子、思うようにいかないとパニックを起こす子、自分の個性を押さえられない子に、『障害』の診断をしすぎるように思います。障害が認定されると、障害児支援センターは指導の過程で、子どもがパニックを起こさないようにします。カードで指示を出したり、とても変なんです」

講演に行った先の幼稚園で、園長先生が言った。

落ち着いた環境をつくるのはいいけれど、こういう子は将来一人で生きていけるわけではない。園でしっかりパニックを起こさせて、まわりがそれに反応し、学び、切り抜けていく力をみんなでつけていかなければ駄目だと、園長先生は言う。

障害児支援センターは、子どもの起こすパニックを「その子の問題」として対処しようとする。しかし、園長先生は長年の経験から、「みんなの問題」として受け入れようとしているのだ。ここには、大人が子育てを分かち合い、みんなでしっかり見守っていれば、その子がいることで他の子どもたちも社会の一員として育っていく、他の子たちがその子を受け入れる柔軟性を持つことが将来その子にとっても、この国にとっても大切、という視点がある。

保育園に比べて、幼稚園ではまだ気持ちに余裕がある。その幼稚園では、親たちが保育に参加する行事を積極的にやっていた。親たちを園の一員と考え、絆や包容力を育てているのだ。

園が安心感を生むビオトープのような機能をもてば、職員も保護者も安定する。

毎日午後二時には親が迎えにくる。親子が過ごす時間が比較的確保されている中で、「家庭」を土台に保育をしてきたからそういう考え方になるのだろう。

母子関係という基盤があれば、社会は常に柔軟に変化成長し、その柔軟性の中で、時々パニックを起こしてしまうその子が役割を果たすことができる。言い換えれば、みんなの人生が継続的に向き合わなければ「問題」は解けない、ということなのだ。

五歳までの幼児期に、これほど親子が離れ離れにされることはかつてなかった。

人類の歴史始まって以来の、突然の環境の変化に対応できない子どもが増えてきて当然なのだ。

しかし、ニーズと希望の混同を促す保育のサービス産業化によって「伝統的な子育ての概念」から離れてしまった親たちは、必死にその責任を負うべき誰かを探そうとする。それが見つからないイライラと苦しみが、「保育園落ちた、日本死ね」という言葉に象徴される、利他とは正反対の行動になって現れてしまうから、ますます相談者を失っていく。

本来子育てにおける相談相手の第一は、子育てによって引き出されていく自分自身の「利他の人間性」だったのだ。

障害児支援センターは、不足している一対一に近い時間を増やし、子どもを安心させることから入るしかない。しかし、社会保障や福祉に関わる人員はすでに絶対的に不足していて、専門家がいくら頑張っても、その子の人生にとっては束の間のことでしかない。親子や家族の関係に代わることはできない。

子育ては、長い間、学問の領域ではなく、祈りの領域に存在してきた。心を一つにすることがその目的であり、その結果として存在する。その自覚が社会に再び生まれるかどうかがいま、問われている。薬物で落ち着かせるか、絆で落ち着かせるか、選択を迫られるケースが増えている。人類がその選択を迫られているようにさえ思えてくる。

操作された新たな常識と、本能との乖離によって生じる葛藤を自ら把握できないことがイライラの原因であって、幼児の特質ではない。

( 近著「ママがいい!」から)

インタビュー、第五弾がアップされました

新刊「ママがいい!」に付随するインタビュー、第五弾がアップされました。https://good-books.co.jp/blog/blogs/2862/

三十五年間、年に60本くらい講演に行き、師や同志となる園長先生、保育士たちに出会い、役場の人たちと腹を割って話し合ってきたのですから、二時間の講演では話しきれない、本に書ききれないエピソードがたくさんあります。講演後の懇親会や夕食会が、しばしば地元料理を挟んでの質疑応答、お酒が入った意見交換会になる。それを楽しみにしている人たちも多い。

インタビューという形式で、徒然に、色々残しておくことにしました。

(第五弾からの一部です)

──松居さんは講演会に呼ばれる機会が多いようですね。

 

子ども・子育て支援新制度が始まった年は、全国で100回以上講演に呼ばれました。

保育士会の勉強会では、子ども優先の物語をもう一度聴いておきたい、保育の原点の再確認ということもあるのですが、異動してきた新しい課長に現状を知らせるのが私の役割だったりするんです。

 

──新しい課長に現場の現状を知らせる。面白い役回りですね。

 

講演の前に課長が挨拶に来ます。

そこでまず、「今度の新制度、絶対にできるわけがない、ということはわかりますよね」と訊くんです。

課長は一瞬びっくりして、

「でも、国のやっていることだからそんなことはないと思っていたのですが、どうやればできるんだろうか、仕組みとして成り立つんだろうか、と不思議だったんです」と言う。

 

こういう素直で正直な人だから、園長たちも私と会わせたのだと思います。園長たちは、私の周りに立って、必死に頷くんです。その人たちの人柄を見れば、誰がいちばん子どもたちの側にいるかは一目瞭然ですから、課長も真剣に聴いていました。

 

──現場の感覚と国の施策に大きなズレが生じている。

 

そのあとの講演会で、みなの心が一つになるんです。指針が定まると有意義な集まりになる。そこに福祉部長や教育長とか、場合によっては市長がいたりすると話は本当に早いんです。

 

でも、そんな市単位で取り組めば持ちこたえられた状況も、保育者は3分の1が無資格でいい、パートで繋いでもいい、11時間保育を標準とする、という国の矢継ぎ早な施策によって、どんどん崩されている。いい方向に進んでいても、住民が変な市長を選んだら、一巻の終わり。元の木阿弥です。

民主主義というのはそんなものだ、と言えばそうなんですけど、がっかりしますね。

 

祖母の思い出

先日、何かで読んだんです。保育の「専門家」が、「3歳くらいの子どもにみかんの皮を剥いてやっている母親を見た。なぜ、剥きかたを教えてやらないのだ。親は、甘やかすからダメなんだ。保育園に行っていればちゃんと剥けるようになっている」と言う。

本当に腹が立ちます。

保育や経済の「専門家」たちによって、子育てと教育の混同が始まり、子育てに正解があるような気がして親たちが親心を失っていく。子どもたち、保育士、そして教師の順に追い詰められている現状を目の当たりにしている私は、些細に思えるこういう種類の言葉に敏感になっているのです。

その人がそういう考え方をするのはいい。でも、「専門家」のフリをして、正しいことのように言う。すると、人間たちが、親としての幸福感を忘れていく。厚労大臣が「子育ては専門家に任せておけばいいのよ」と言い、経済財政諮問会議の座長が「0歳児は寝たきりなんだから」と言う。それに誰も疑問を持たなくなる。

私の祖母は、私が中学生になってもよくみかんの皮を剥いてくれました。ていねいに綺麗に剥いて、スジまでとって、両手の中でクルクルと回してから、「おたべ」と言って手渡すんです。

もちろん私はその頃みかんの皮が剥けるようになっていました。中学生ですから。でも、祖母が剥いてくれるのをじっと待っていたことが祖母の思い出の中で一番よく憶えているんです。祖母が、とても嬉しそうだったんです。それが私には、嬉しかったんです。

みかんの皮は剥いてもらっていいんです。

 

 

こんな幼稚園は地域の宝。黙っていても地域に絆を生み出します。学校を縁の下で支えます。

「公立幼稚園」は私が好きな形だった。それが無償化で都市部では入園希望者が突然十分の一になり、選択肢のある自治体では一気に廃園に追い込まれている。たった三カ月で、自然に親が育ち、絆が育つ仕組みが壊されていく。
数年前に次のような文章を書いた。

長年地域に根付き、思い出や絆を作ってきた「公立幼稚園」をなくそうとする市長がいます。反対する母親たちから相談にのってほしいと言われ、広島で講演したあと、神戸で会いました。(神戸の市長の話ではありません。)

「公立幼稚園は親にサービスしないから親が育ちます。助け合わなくてはならないので、絆も育つ。もともと二年保育が多いし、このあたりでは二十年前、私立幼稚園の経営を邪魔してはいけないという主旨で、一年保育がありましたよ」と私は、始めに言いました。親たちの民営化反対の意図がどこにあるのか、探ってみたのです。

公立幼稚園は送迎バスもない。給食も、預かり保育もない。保育料は安いのですが、親たちは助け合うしかない、補い合うしかない。「いいですよねえ」と言うと、目を輝かせて、「そうなんです、何もしてくれないんです。しかも、行事や役員など色々押し付けられるんです。そういう園が、私たちは好きなんです。心が一つになるんです」とお母さんたち。ああ、この人たちはわかっている。ちゃんと育っている。こんな幼稚園は地域の宝。黙っていても地域に絆を生み出します。学校を縁の下で支えます。

こういう園の運動会は、部族的で、村社会的で、賑やかで、親身で、公立ですから障害を持っている園児がいたりして、そうすると、みんなで涙を流して応援する。こういう園は、一度失ったら再生不可能な親心のビオトープ、エコシステムなのです。

日本中すべての幼稚園・保育園がこんな感じだったら、私たちはもう一度、あの『逝きし世の面影』(渡辺京二著)の「子どもの楽園」(後述)の章に出て来る本当の日本、百五十年前に欧米人が書き残した「パラダイス」を体験できるのでしょう。それを民営化、こども園化して市長が壊そうとする。目先の選挙のことだけ考えているのでしょうか。

「市長は、こども園のほうが長く預けられるし、無料になるんだ、と言うんです。私達はそんなこと望んでいないのに」と静かに怒る母親たち。「こども園だと無料で、幼稚園だと有料になるんですか?」と私に訊く。

「そんなことはないですね。そこまで嘘を言って民営化を進めたがるには何か別に理由があるはずです」と答える。

聴けば公立幼稚園の職員はすでに六割が非正規雇用化されている。財政も特別悪そうではない。地方の場合、こういう時は、背後に利権がらみの癒着があったりする。そうなると「子どもの最善の利益」などという言葉は通用しない。

ほとんどの自治体で政府の施策によって保育が危険な状況にさらされている中で、公立幼稚園が十園まとまって親を鍛えながら、これだけ親に支持されているのは奇跡かもしれない、というようなお話しをしました。(後略)

 

文科省、無資格でもいい、と全国に緊急で通知

 

「新年度も各地で厳しい『教員不足』の状況が発生しているとして、文部科学省は教員免許がなくても知識や経験がある社会人を採用できる制度を積極的に活用するよう全国に緊急で通知しました。」https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220421/k10013592721000.html

あっという間でした。

保育士の三分の一が無資格でいい、パートで繋いでも構わない、と言うなら、学校もそれでやってみるといい、と本に書いたのです。そうしたら本当にそうなってしまった。なるだろうな、とは思っていました。

一番問題なのは、文科省が「全国に緊急で通知しました」と言っているところかもしれない。

予測できたでしょう、こんなことは。

この状況は、「発生している」のではなくて、政府によって作られたものでしょう。

新刊「ママがいい!」にこう書きました。

「受け皿を増やすことで合計特殊出生率は上がらず、むしろ過去最低を更新した。その事実からどう目を背けられるのか。保育施策はただの選挙対策なのか。待機児童解消を優先し、「子育て安心プラン」という本末転倒な名前を付け、「子どもたちの安心」を犠牲にした規制緩和が次々に進められている。保育現場に無資格者を入れ、わけのわからない付け焼刃の「資格」 をつくり、利益を求める素人の保育事業参加を促した。その結果、保育現場の混沌と愛着障害が深刻化し、義務教育の維持が困難になっている。」

最近、こんな記事もありました。

「児童虐待最多の10万8050人、コロナで潜在化の恐れ…「家にいるしかなく親の暴力ひどくなった:読売新聞2022/02/03」

子どもと一緒にいるとイライラする親がえているのです。

それを学校の教師に押し付けても、解決にはならない。しかも、今の応募倍率では教師の質は保てないのです。

保育課の熱血係長が四面楚歌に

「ママがいい!」の出版社のHPにインタビューの続きがアップされました。

『ママがいい!』著者 松居和さんに聞く④欧米の悲劇・日本の奇跡

本では書ききれなかった風景や、エピソードを語っています。加筆、修正もしていますが、インタビューだから言えたような部分もあります。ぜひ、読んでみてください。以下は、その一部です。

◆保育課の熱血係長が四面楚歌に

最近の保育施策を「ドロ舟」と言い切った女性の係長がいました。

──ドロ舟ですか。いつ沈むとも知れないほど危ういのが今の保育政策だと。

もう沈みかけている、と言うニュアンスですね。彼女は、虐待が疑われる家の前に車を止めて張り込むような烈女でした。

公立保育園の多い市で、いわゆる児相マター(児童相談所案件)が急増し、それにもう対応できないんです。限界を超えている。

すると、保育園が児相と仮児童養護施設みたいな役割を押し付けられる。でも、保育士不足による質の低下が同時に起こっているので、どうしようもない。そんな仕組みの中にいる自分が辛いし、腹が立つんですね。怒っているか、泣いているか、そんな人でした。

本人もシングルマザーで苦労してきた人でしたが、長時間預けることに躊躇しない親たちが、家庭崩壊、虐待へと進んでいく道筋が見えてしまうんです。

そこは、外国人の親も多い市で、みんな綺麗事ばかり言うんですが、予算もないし人材不足で、子どもが守れず、彼女は四面楚歌になっていました。

子どものために動こうとすれば、誰かから白い目で見られる、役場の中でも、なに一人でいいカッコしているんだよ、という感じなんですね。

ーーーーーーー中略ーーーーーーーーー

当時から、野党も与党も少子化対策として「待機児童をなくします」と言っていた。保育園での0歳児1歳児からの長時間預かりを進めていたんですよ。「子ども・子育て新システム」が、三党合意で「子ども・子育て支援新制度」と名前を変えて受け継がれていった。

その結果、ますます少子化は加速したんです。

これだけ子育ては損な役割り、みたいな宣伝をしたら、そうなりますよ。

にも関わらず、少子化によって日本の経済が悪くなっていくことこそが国家的な危機なのだ、と今になって言うんです。政府が加速させた少子化は、もう止まりませんよ。いくら対応策を考えても、最近の度重なる規制緩和を見ていると、政治家と学者がこの国の首を絞めているようなものです。

子どもが減ろうと、経済が悪くなろうと、まず乳幼児の願いを想像する、という原点に立ち戻るしかないんです。

待機児童の主体は0、1、2歳です。
その子たちは、保育園に入りたいなぁ、入りたいなぁ、と順番を待ってはいないんです。「ママがいい!」と叫ぶんです。

私はそういう議員に、4月、国じゅうで起こっている慣らし保育のときの叫び声「ママがいい!」を聞け、と言いたかった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

(インタビュー時の動画の一部です。)

時々、輪になって踊っていればいいのです

ドキュメンタリー映画「シスター・チャンドラとシャクティの踊り手たち」(第41回ワールドフェスト・ヒューストン国際映画祭、長編ドキュメンタリー部門で金賞受賞)からの映像です。

私の質問にシスターが答えます。https://www.youtube.com/watch?v=uoQXhyz0rOg

 

インドの貧しい農村での人々の生活を見ていると、信心も含めて、絆と信頼に守られて暮らしてきた人間たちの確かな営みが見えてきます。

人間は、進化の歴史の99.999%を貧しさの中で過ごしてきたので、そうした状況で幸せになるのが上手なのです。遺伝子が、そのようにできている。

生態人類学的にも、血糖値を上げるホルモンは20種類あるけれども、下げるホルモンはインシュリンしかない。だから、「豊かさ」に弱い生き物なんです、と誰かが以前教えてくれました。

なるほどな、精神的にもそれが言えるのだな、とその時思いました。

「祭り」の意味をシスターは「集まること、祝うこと」と言いました。命をもらったならば、祝わなければいけない。それを繰り返していれば人間は大丈夫。時々、輪になって踊っていればいいのです、と教えてくれました。

シスターはカソリックの修道女ですが、言葉の端々にウパニシャッド哲学の流れを感じるようで面白い。お国柄ですね。絆は、「縁」であって、「円」であること。「祭り」はそれを伝えながら、日々の営みを次の世代につなげていく。人生がその場限りではないこと、「集まっていれば」良い方向に進み始めること、その流れを体感させるのが祭りや儀式でした。

日本の小学校で毎朝子どもたちが「輪になって踊る」、それに親たちが加わることで、つながりを実感出来るようになる。「気」の流れが変わり、人類の進化が正しい方向へ戻ってくる。このコミュニケーションの入口に「0歳児が眠っている」と、私は思っています。

 

インタビューの第三弾

出版社のHPに新刊「ママがいい!」に関するインタビューの第三弾が載りました。https://good-books.co.jp/blog/blogs/2794/

(その一部です)

日本でも、「女性の就労率のM字型カーブ」が日本特有の差別や時代遅れの象徴のように扱われ、「一億総活躍」が叫ばれ始めたころから児童虐待は増え始めて、いま過去最高です。そして、保育所を疲弊させる一番の原因は、いま「親対応」なのです。

本にも書きましたが、「子育てを女性に押し付けるんですか?」という質問をされることがあるのです。

それが「子育てを男性に押し付け返しましょう」という方向に向かうのであれば素晴らしい。理にかなっています。男性にも、より確かな利他の幸せ、道筋を知ってもらいたい。しかし、その質問の先に、それでは経済が回らない。子育てを制度でやればいい、専門家に任せればいい、そうすれば男女平等に子育てから解放されるという意識があるから、困る。この意識が広がったら保育界が持たない。

インタビュー記事の続編が載りました

(出版社のブログにインタビュー記事の続編が載りました。)

『ママがいい!』著者・松居和さんに聞く②悲しき虐待

政府が目指しているのは子どもに対するサービスではなく、親に対するサービス、企業に対するサービスです。保育士不足がこれほど逼迫しているのに、もう40万人保育園で預かれと数値目標を掲げ、それを「安心して子どもを産み育てることができる環境の整備」、「みんなが子育てしやすい国へ」と言うのですからもう支離滅裂というか、論理が破綻しているのです。

こうした厚労省の施策のキャッチフレーズに、ある二代目保育園理事長が顔をしかめて言いました。「安心して産み育てる、じゃなくて、気楽に子どもを産み育てることができる環境整備でしょう。気楽に産んでもいいんだけど、気楽に預けてもらっちゃ困るよね。それでは、子どもの立つ瀬がない。親が育たない」。

「子育てしやすい国づくり」=「保育園を増やすこと」とする考え方にいつの間にか社会が違和感を覚えなくなっている、そこがいちばん問題なのだと思います。

「日本再興戦略」という閣議決定があるんですが、その中で保育分野は「制度の設計次第で巨大な新市場として成長の原動力になり得る分野」、「良質で低コストのサービスを国民に効率的に提供できる大きな余地が残された分野」と書いてある。彼らの言う「国民」の中に幼児たちが含まれていないんですね。投票できない弱者の願いがまったく意識の中にない。