ホームスクールという選択

小学校で担任が足りない現象、その向こうに、人類未体験の「家庭崩壊」がある、とアメリカで三十年前に起こったことを前回書きました。

 

その国で、「ホームスクール」という特別なやり方で、学校という仕組みから子どもを守ろうとする親たちがいます。

ダーウィンの進化論が聖書に反するという理由で公教育に子どもを任せない親たちの存在は、大統領が聖書に手を置いて宣誓する国で、ある種の賞賛を以て容認されてきました。そのホームスクールの存在理由が急速に変わっていった時期がある。

1970年に12500人の子どもが家庭で教育を受けていました。それが、1990年に30万人、2000年に150万人、三十年間で100倍以上に増えていった。

この時期のこの変化は、児童虐待の数、少年犯罪やDVの増加など、様々な事象と連動していて、親による虐待で重傷を負う子ども、病院に運ばれる子どもが七年間に四倍(年間十三万人から五十七万人)になったのもこの時期でした。(虐待かを判断する仕事に嫌気がさし、小児科を希望する医師が減っている、というリアルな報道もありました。)

人間が、人間性を手放していく過程で、「義務教育」が「家庭」と激しくぶつかり合うのです。

 

人類の在り方が決定づけられて行くような三十年でした。結果として、と私は考えていますが、その後の二十年間、経済の不確実性が増し、格差と混沌が拡大していった。「平等へ向かう道」など、誰にも見つからなかった。

ハイチという国を「クソ溜め」と公の会議で発言し、「金さえ持っていれば、女はどうにでもなる」と言う人が大統領に選ばれ、その発言が小学校の休み時間に人種差別と女性蔑視を助長する。

子どもたちは時に、残酷です。

弱い子が、「クソ溜めに帰れ!」、「壁の向こうに行け!」と、肌の色でいじめられ、それを、教師が溜め息をつきながら見ている。

「大統領がああ言ったら、独立宣言や憲法は教えられない。子どもたちは、もう、大人を信用しない」と友人の教師が嘆いていました。

大統領の人柄から生まれた馬鹿げた発言は、人種や格差の問題をリアルタイムで抱える教室で、刃物となり、弱者の心に刻み込まれました。

 

偏見と分断が、教室を介して野火のように広がっていきました。

日本の首相が同じ発言をしたら、辞めさせられる……、はず。

こういう発言をする大統領や首相、もっと酷いことをする政治家やリーダーは世界中にたくさんいます。元下院議長ギングリッジ氏は、日本人をイエローモンキーと蔑んだ人ですが、「クソ溜め」発言の大統領の国務長官候補になっていた。

民主主義における「選挙」で、これを肯定してしまえば、どこかで、民主主義のタガが外れる。

こういう発言を首相が公の場でしたら、辞めるしかない、という国が私は好きです。

それを許さない国民は、いい国民だ、と思う。そういう国の方が、学校の先生はやり易いだろうな、ということです。

「学校の先生が、健康でいられる国」、これは、具体的目標になる。

少女の五人に一人、少年の七人に一人が近親相姦の犠牲者という歪んだ関係の中で、子どもたちが訴えた、

「そういうことをされている時は嫌だった。でも、土曜日や日曜日に動物園や遊園地に連れて行ってくれるお父さんは好きなんです」という言葉が、いまでも私の耳に残っています。

 

ものごとが、以前より、ずっと複雑になっている。

司法で取り締まれることではない。

混沌の中で、子どもたちが、家族の絆を自分を犠牲にしてまで繋ぎとめようとする。その健気さ、一途さが悲しく、そして虚しく、様々に際立った三十年だった。

乳児との会話に価値を見出さなくなった時、愛とか絆は、歪んだ形で連鎖する。

もう一つ、常識的な「家庭観」が崩れると、人間が、幸せを追うことで、不幸が生まれていく例があります。

増加した十代のシングルマザー、特に十四、十五、十六歳を調べると、産みたくて妊娠するケースが意外と多いという。少女たちが「家庭」に憧れ、妊娠する。この年齢で、すでに、よほど辛い人生だったのでしょう。

伝統的な「家族」という定義を飛び越した、新たな動機と道筋が生まれているのです。

しかし、子育ては仕組みの助けを得ても一人では難しい。必要なのは忍耐力。そして、それを補う「家族という形」です。低年齢ということもあって、また虐待が繰り返される。

この虐待の連鎖に火に油を注いでいるのが、少女たちが、幸せになりたいと思う気持ちだ、と気づいた時、私は、愕然としました。

伝統的な家庭観(Traditional Family Value)の喪失が、生き方に、多様性を生む。

しかし、そこに「子育て」を加えようとすると、その多様性に仕組みは対応できない。

欧米では三十年前に言われましたが、負の連鎖が進み過ぎていた。家庭に子育てを返そうという試みは、犯罪や虐待の増加につながってしまい、不可能になっていた。

日本でも、保育の拡充を言うときに、「価値観の多様性」とか、「多様なニーズ応える」という言われ方をする。しかし、豊かさによって与えられた「選択肢」が、いかに退路を断ち、道筋を狭く、限られたものにしていくか、欧米を見て、よく考えて欲しいのです。

「働きたいけど預ける場所がない」という問題と、「乳幼児たちの願いに、多くの人たちが気づかない」という問題では次元が違います。どちらが「社会」にとって、またはもっと想像力を働かせて「日本の将来の経済」にとって大切かということを見極めて欲しい。

数字的に、日本はあの三十年間が始まる数歩手前に居る、いまの欧米の五十年くらい前にいる、と私は考えています。

まだ、この国には、利他の心を思い出し、耕し直すチャンスがある。欧米とは異なる土壌がある。

 

(続く。)

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