「子育ては自由だから」

 

「ママがいい!」という言葉は、ある条件が整った時に生まれる言葉です。

その条件を出発点に、様々なことが起こり、個々の人間と集団が成長し、種の存続に不可欠な絆を作っていった。

人類学的に言えば、家族という、男女共同参画社会の最小単位が「活き」「活かし」続けなければ、獲得できない、勲章のようなものでした。

この言葉を優先すれば、社会は整う、と、私は書きました。

 

この言葉が発せられた時に、「どういう動機が次に働くか」が大切です。それによって社会全体の形が変わってくる。

例えば、その時に「パパはどうなんだ!」みたいな発言が、冗談ではなく、本気で言われたら、動機は競争原理に取り込まれていて、百年前ならあり得なかった。昔は、「そうだ、そうだ、そうだよな」という笑顔があって、その動機は助け合いや調和へ向かうもの。

哺乳類ですから、仕方ない。パパとママは「平等」を競うものではない。

経済界や政府が仕掛けた「子育て支援」という名の労働力の非正規雇用化、11時間保育を「標準」と名付けた誘導によって、この言葉から目を背ける人が増えている。

一生に一度も結婚しない男性が三割に近づき、最近の調査で、男性の17%、女性の14%が結婚しない、と決めているという。

(「一生結婚するつもりない」男女で過去最高…「いずれ結婚するつもり」は最低:https://news.yahoo.co.jp/articles/54b375c4e732c8234bea6a5ded965aa310c15ef4)

これが、政府の「子育て支援」の結果です。

施策の動機が良くないと、こうなる。

 

子育ては大変だから、0歳から預けられるようにする、規制緩和で、旧認可外保育施設にも認可と同様に補助金を出す、無償化にする、様々な「子育て代行」施策を実行した結果、それなら辞めておこう、という若者が増えた。

「子育ては大変だから」というイメージが先行して、子育ての楽しみや、その時間の価値が埋もれていき、むしろイライラの原因のように想像してしまうのです。

そして、想像や予測は現実を変えていく力を持っている。実際にそうなってしまうと、子どもたちには辛い。子どもを実際に育てている保育士たちにも、辛い。

私が、本の中で使った「ママがいい!」という言葉は、保育園や幼稚園の「慣らし保育」で幼児たちが叫ぶ、「願い」から来ているのですが、0歳児から預けてしまえば、それを言う機会さえ失われていくのです。そうなることを、政府が仕組みを作って奨励している。

子どもの最善の利益を優先していない政府の一連の施策は、明らかに、「子どもの権利条約」違反です。条約にはもう一つ、「子どもの意見を尊重する」とありますが、しゃべれないうちに、意見を持つ機会さえ国は奪っている。

その結果が非婚化なのであれば、若者たちの感性は間違っていない。

(「ママがいい!」、ぜひ、読んでみてください。)

 

「嬉しいメール」

(障害児の施設で働くのが好きで、そこで子どもたちとかけがえのない時間を過ごし、でも、繰り返される指示語の強さと、それが発せられる風景に耐えられなくなってある日辞めていった、感性豊かな人からメールが来ました。

いまは結婚して子どもがいます。「子育ては自由だから」という言葉に、彼女が手に入れた世界を感じます。)

こんにちは!

春ですね!お元気ですか?

息子は8カ月になり、人間みたいになってきました。かわいいです。

子育ては祈りの連続なんですね。そして私は親からのたくさんの祈りで大きくなってきたんだなぁとしみじみしています。

施設で働いていたときみたいに、子育てでいろいろな景色をみています。

働くといろんな制約やきまりがあるけど、子育ては自由だから楽しいですね(笑)

寝不足だけどがんばります。

かずさんも講演がんばってください。

(「子育ては自由だから」という言葉が、すがすがしく、心に残ります。多分、私はそういうことを言いたかったのだな、と思います。

永遠とか、生き甲斐とか、責任とか、祈りとか、思い出とか、自分の価値を浮き彫りにする、「本当の自由」がそこにあって、人間は、幼児を抱き、守ってきたんだ、と読み取ります。

こういう言葉に接すると、いい翻訳者、伝令役にならなければ、と身が引き締まる思いがします。)

 

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