「学校を、なんとか維持しなければいけません」

「学校を、なんとか維持しなければいけません」

 

 「発達障害」児童を急増させる社会風潮の正体:少子化でも特別支援学級が増える真の理由(東洋経済On Line:https://toyokeizai.net/articles/-/604154) という報道がありました。様々な問題の核心に迫るタイトルです。見方によって道筋が変化します。ゴールをどこに置くのかが重要です。

『文部科学省や各教育委員会が教員不足の大きな要因として挙げるのが、障害のある子どもが通う特別支援学級(以下、支援学級)の増加だ。直近10年間で小中学校全体の児童・生徒数は減少しているにもかかわらず、支援学級の在籍者数は2011年度の約15万人から2021年度には約32万人に倍増している

学級全体に占める支援学級の比率が全国的に高い沖縄県の教育委員会担当者も、教員不足の一因について「支援学級が増えすぎた」と話す。同県で顕著に増えているのが、自閉症など発達障害の児童が通う「自閉症・情緒障害」支援学級の在籍者数だ。

支援学級急増の要因について、「障害に対する理解が進み、保護者も支援学級に入れることに抵抗がなくなったからだ」と文科省や県教委は口をそろえる』

 

政府が経済政策として進めた「子育て支援」を、立場上否定できない文科省や県教委は、記事の背後にある要因に向き合おうとはしない。

少子化対策と言い、0、1、2歳児保育を普及させ、逆に少子化を進めてしまった経済施策と似ている。現場を知らない専門家の助言で手を広げ、質の低下が起こっているのを知りながら、数値目標を掲げて規制緩和を繰り返した。結果、「児童虐待過去最多」というとんでもない事態を生み出してしまった。

視点が一方的に過ぎるのです。乳児保育において、「理解が深まって、預けることに抵抗感がなくなる」と言う道筋は、幼児たちの願いに反していたこと。その願いから遠のけば遠のくほど、学校教育は蓄積された不満と、先送りされた負担に耐えられなくなって、選択肢が狭まっていく。

「新年度も各地で厳しい『教員不足』の状況が発生しているとして、文部科学省は教員免許がなくても知識や経験がある社会人を採用できる制度を積極的に活用するよう全国に緊急で通知しました。」(NHKニュース) https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220421/k10013592721000.html

「てめぇら!」響く保育士の怒鳴り声 “ブラック保育園”急増の背景(週刊朝日) https://dot.asahi.com/wa/2017052400011.html?page=1

この二つの記事を結びつけることは、そんなに難しいことではなかったはず。

そして、もう一つ。これは全国紙の一面でも報道されたのですが、

<保育士逮捕>退職恐れ虐待注意できず 背景に人手不足 千葉市の認可外施設(千葉日報2014年8月)https://www.chibanippo.co.jp/news/national/209909  

園長が、退職されるのを恐れて、子どもを虐待する保育士を注意できない。八年前、すでに保育士不足はそこまで蔓延していました。

 

支援学級急増の要因は、障害に対する「理解」が進んだからではなく、0歳児を躊躇なく預けるように仕向けた、雇用労働施策がその根底にある。ここで言われる「理解」が、専門家に任せた方がいい、ということにつながるのだとしたら、それは理解とは言えない。学問が仕掛けた「誤解」と思った方がいい。

乳児保育と似て、支援学級は「手法」ではなく「人間性」(人柄)で成り立つもの、学校は絶対に受けきれない。専門家に子育てはできないという現実に必ずぶつかる。

「手法」で対処していると、子育ての本来のあり方、育てられる側が、育てる側の人間性を育て、幸せにする、というルールに沿わなくなるのです。

母子分離主体の「子育て支援」を経済施策の柱とするなら、支援学級の在籍者数が十年で15万人から32万人になることを予測し、準備しなければならなかった。「支援学級に入れることに抵抗がなくなった」、と「0歳児を躊躇なく預けるようになった」が、危ういところで重なることは想像がついたはず。

アメリカでは小学生の十人に一人が学校のカウンセラー(専門家)によって「薬物」を処方されます。「薬物」に対する理解が進んだのではない。学校が勧める薬物が、将来、麻薬中毒、アルコール中毒につながっている、背後にあるのは製薬会社の利権、という研究さえ、すでに終わっていた。

子育てのたらい回しが行われ、それが、「薬物」で行き止まりになっただけなのです。

義務教育を維持するため、教師の精神的健康を保つため、子どもに薬物を使っても、政府が一生支給し続けてくれるわけではない。どこかで何かがキレて、壊れていく。

コロナウイルス騒動が始まり、日本でトイレットペーパーやマスクが品切れを起こしていた頃、アメリカでは、まず拳銃と弾薬が品切れを起こしていた。

そして、最近の世論調査で、アメリカ人の三人に一人が「政治的な目的をかなえるために、暴力は必要だ」と答える。子育てのたらい回しを容認する社会で、人種差別による分断と不信を土台に、連邦議会襲撃につながった一連の流れが肯定され始めているのです。

ここ数年、警察官による暴力や殺人が、あれほど問題になり批判されてているのに減らないのです。ボディーカメラの装着が義務付けられ、指導や訓練を実施しても、警察官による暴力的な事案が増えている。いま毎日三人、警察官によって殺害され、犠牲者の三分の一から半数が精神的に問題がある、と分類される。

器具(カメラ)や薬物、法律、教育ではもう取り締まれない、異次元の崩れ方が始まっているのです。これに、解釈が定まらない「民主主義」が加わったら、どうなるのか。アメリカ人でさえ、固唾を呑んで見守っているのです。

支援学級急増と教師不足が、向精神薬に頼ろうとする「子育て」に拍車をかけ、その場しのぎの「教育」が「社会で子育て」の本質を暴いた頃には、すでに後戻りができなくなっている、そんなことにならないように、子どもたちの信頼に応えることを優先しなかった先進国から、日本は学んでほしいのです。

確認です。

私は特別支援学級に子どもを入れることを問題視しているのではないのです。

手厚い配置と責任ある人選ができるなら、支援学級はいい教師が育つ、集団から離れて子どもが安心し、集中できる、親と教師が心を一つにする、本当の学校の姿がそこに出現してくる不思議な場所になる、と思っています。

私が問題視しているのは、在籍者数が十年で15万人から32万人になったことの意味を考えない、それに対処しようとしない国の「子育て支援」施策のいい加減さ、なのです。「保育は成長産業」という閣議決定で、「安易なビジネスチャンス」のようにしてしまった経緯については、「ママがいい!」に書きました。

そしてもう一つ、大事なことがあります。

「支援学級で、少人数の子どもに教えていたい」と願う教師もいる。保育士の中に、0歳児と居るのが好きな人がいるように。

俯瞰的に見ると、無理なこと、やってはいけないこと、でも、この先生や保育士の気持ち、私にはわかるのです。人類を支える、根っこのような気持ちですね。別の命と無心に一体になる充実感を知っている。一人では生きられない人と過ごし、静かに自分の心を手直ししていく。こういう、0歳児と満ち足りた時間を過ごせる人、親のような「心」を持つ人たちを大切にしなければいけない。

子育ては、「成果」ではない。体験です。自分が必要とされている、という体験です。

教育も、そうでなければいけない。

 

20年、30年前、保育士の大会によく呼ばれました。欧米の例を挙げ、家庭崩壊が福祉によって始まり、その結果、福祉や教育を追い詰めていく、という話を私はしていました。

「福祉」が親たちを変え始めたことに、保育士たちは気づいていました。「子育て支援」が「子育て放棄支援」になる、エンゼルプランは虐殺プランです、と公言する保育士会の幹部たちがすでにいました。だから、あれほど多くの大会に呼ばれたのです。

現場の危機感は、「ママがいい!」と言っている子どもたちの側にあったのです。

なぜあの時、私が会った政治家たちの中に、もう少し、ことの重要性に気づく人がいなかったのか、と悔しい思いでいます。自民党の少子化対策委員会、厚労部会、当選一回の議員の勉強会、党大会の女性局で講演した後は全国十七県連で呼ばれ、講演しました。あの人たちは、それなりに理解しようとしていたんです。でも、乳幼児期の母子分離は経済政策に不可欠なもの、と見なされ、様々な閣議決定がされていった。

親であることの充実感が、子どもたちの、「人を信じる力」につながります。

この「人を信じる力」を特別支援学級で育てることができるのか。そこを真剣に考えて欲しいのです。

可能性はあると思う。

保護者と教師が常に心を一つにする仕組みをつくっていくこと、が鍵ですが、できると思います。

子どもが言葉も喋れず、まだ寝たきりの幼い頃から、親たちの意識を「子育て」における連帯感や充実感を感じる方向へ導いていくことは可能なのです。やっている保育者たち、保健士さんたちがいますし、人間の遺伝子はそのように仕組まれているのです。ほんのちょっとしたヒントや導きで、親心という人間性は生き還ってくる。すると、親子の「気配」が変わってくるのです。0歳児からの「ママがいい!」というメッセージを、まだそれが言葉になっていないのに、勲章として受け取るようになるのですね。

その「気配」が変わる瞬間が特別なものだから、もし学校を立て直そうとするなら、保育園のあり方、幼稚園、子育て支援センターの役割が重要になってくる。

学校を守るために、子どもを優先する親たちの絆を耕すことは、そこでしかできないと思う。教員不足がこれほど早く限界に達してしまったら、親たちの子育てに対する意識、視線で、バランスをとって行くしかない。(環境づくりに関しては、「ママがいい!」に詳しく書きました。)

 

「母親を叱れなくなったら、それはもう保育ではない」、と園長先生に言われたことがあります。保育所保育指針にも、そう書いてある。でも、急速な保育の市場化とマスコミの論調が、それを不可能にしてしまったんですね。

このままでは特別支援学級が「親へのサービス」という位置付けにされていく。

 

席に座っていられない子を指導する不思議な塾があって、そこの先生が言ったんですね。連れてくる親に、まず挨拶の仕方、礼儀作法を教えるんです。それで、ずいぶん子どもは座っていられるようになります。

もう亡くなりましたが、忘れられない私の同志、宝塚の中学で校長をしていた中村諭先生という凄い人がいて、ひたすら靴箱の生徒の靴を揃えて、荒れている学校を鎮めるんです。私が「家庭崩壊、学級崩壊、学校崩壊」という本を出した頃、先生は「学校崩壊?それがどうした」という本を出していて、大笑い。一緒に講演し、お宅に伺ったりしていたのです。「学校」を守る番人、守護神のような人でした。

亡くなった時、私は泣きました。葬儀には教え子や親たちが数千人集まりました。

公教育の一部でもある特別支援学級で、今、もう一度、形(かたち)を整えていくことができるのか。

特別な役割の子どもたちがそこにいるからこそ、ひょっとして、「教育」を根底から浄化することが可能かもしれない。そんなことを思うのです。

学校教育を「欲の資本主義」から解放しなければいけません。

先日、区役所で「原爆展」を見たのです。

そこで、「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」に刻まれている正田篠枝さんの短歌を知りました。

思い出し、泣きそうになり、胸がドキドキするのです。

「太き骨は先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり」

学校を、守らなくては。

 

 

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浦和の紀伊國屋で、店長さんが並べてくれました。

紀伊國屋新宿本店のディスプレイです。どうぞ、よろしくお願いいたします。