子どもたちだけが、正直だった

「愛されている」、そう思う子に育ってほしい、という親たちの願いが道筋をつければ、社会は落ち着いていく。その落ち着きが、それぞれの自分に還ってくる、と前回書きました。

「アイデンティティー」の研究で知られる発達心理学者エリック・エリクソンは、乳児期に「世界は信じることができるか」という疑問に答えるのが母親であり、体験としての授乳があるといい、それが欠けることで将来起こりうる病理として、精神病、うつ病を指摘しました。いまの状況を知っていたら、それが連鎖すること、相乗作用を持っていることまで言ったかもしれない。

当時の発達心理学は文化人類学にも似ていたって正直です。立場やしがらみに囚われない意見を、フィールドの観察と実体験に基づいて言えたのですね。子育ての主体は、十八ヶ月までは母親、三歳までは両親、五歳までは家族、と言い切ります。後に、イェールやハーバード大学でも教えたエリクソンは、学位を持っていない。そこがまた良かったんでしょうね。実体験とフィールドから入って行った。そこにとどまって考えた。

性差(ジェンダー)を、種の存続に不可欠な、受け継いでいくべき概念、大自然の一部として捉えていた。だから、「疑問に答えるのが母親であり、体験としての授乳がある」と躊躇せずに言えた。

こうした誰が見ても当たり前のことを、最近、言えなくなっているところに問題があるのです。

子どもが「ママがいい!」と言ったら、ママがいい。

ありがとうね、と言って、自分の存在を褒めればいい。パパはどうなんだ、みたいなことを言う人がいますが、いいママに子どもは当たった、と喜び、感謝する、まずはそれでいいでしょう。

子育ては一人で始まるものではないし、できるものでもない。哺乳類の場合は、性的役割分担が原点にある。それがアイデンティティーの出発点。出産後、しばらくは母親主体の子育てが続き、乳幼児を真ん中にして、育てる側が信頼の絆を広げていく。それが「親の責任」だった。

でも、私でさえ、本のタイトルとして、「ママがいい!」を提案された時、躊躇したのです。これは、危ない。

「ママがいい!」と叫んでいるのは子どもたち。そこに悪意などない。どんな理由があるにせよ、まずは嬉しく、真剣に受け止めなければいけない言葉です。

人類の羅針盤です。そう納得するまで、私も、二日かかりました。

パワーゲームの裏返しと言っていい「平等」という名の闘いと、勝つことに意義を求める洗脳は、人間の考える力を相当抑え込んでいる。そう気づかせてくれた編集者の良本さんに感謝です。

このタイトルを見て、涙が出ました、と言う園長先生がいました。みんな、抑えていたのです。

子どもたちだけが、正直だったのです。

 

昨日の朝日新聞の朝刊です。

まず、可愛がる。

講演で、お母さんに質問されることがある。

「どうやって子どもを育てたらいいんでしょう?」

うーん、これはその子に会ったこともない他人に尋ねることではないですよね。

以前過ごしたインドの村の風景を思い出します。そこではあり得ない質問だということがわかるんです。

私は、言います。

「可愛がって、甘やかしていればいいんですよ」

「甘やかしていいんですか?」

いいんです。

そして、「子どもが喜びますよ」と付け加えます。心の中で、、神様がうなづきますよ、と囁く。

 

以前、保育の専門家に、可愛がると、甘やかすは違いますよね、と言われ、じっくり考えたことがあるのです。ニュアンスは少し違います。でも、その学者は「甘やかす」の方を、良くないと思っている。境界線はどこにあるのか。それが、「おじいちゃん、おばあちゃんは孫を甘やかすから、ダメ」という母親の発言につながっているのかもしれない。だとしたら、結構ここに問題点がある。

私は、考えました。可愛がる、は、それをする人がいい人間になりたい、と思っている証拠です。「甘やかす」は、子どもたちへの感謝の気持ちが、拝む、に近くなっているのかもしれない。

おじいちゃん、おばあちゃんを思い出しながら、そう考えたのです。

私が尊敬する園長先生たちは、みんなおばあちゃんの心で保育園をやっていました。そういう顔をしているから、親たちは本能的に言うことを聞く。

専門家は色々言いますが、子どもがどう育つかなんて予測がつくことではない。こうすればこう育つ、ということが本当にあるのなら、人類はとっくにそれを発見しているでしょう。専門家が現れて、正解があるようなことを言い始めて、みんな迷路に入っていった。そして、厚労大臣が、子育ては専門家に任せておけばいいのよ、などと言うようになり、その言葉に人々が疑問を持たなくなった。

大雑把に見れば、子育ての手法には色々あって、宗教や文化、階層や家庭によってもそれぞれ違うのでしょう。しかし原点は、いい人たちに囲まれて育って欲しい、と、運を天に任せるようなもの。

まず、自分がいい人になろうとすることの方が先にあるべきで、その方が具体的ですし、確実なのです。

だから、まず、可愛がる。

子どもが喜ぶことをやっていれば、人類はだいじょぶ、そういう仕掛けになっているのです。そして嬉しいことに、それが日本という国の伝統文化だった。「逝きし世の面影」第10章(子どもの楽園)を読んでいるとよくわかります。父親も母親も、特に父親が、とにかく子どもを可愛がる、甘やかす、叱らない。つい150年前、日本はそういう国だった、それに欧米人が驚いて、様々な文献に書き残した。パラダイスと呼んだ。http://kazumatsui.m39.coreserver.jp/kazu-matsui.jp/?p=1047

(「逝きし世の面影」より)

『私は日本が子供の天国であることをくりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない。ニコニコしているところから判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい(モース1838~1925)』

 

『私はこれほど自分の子どもに喜びをおぼえる人々を見たことがない。子どもを抱いたり背負ったり、歩くときは手をとり、子どもの遊技を見つめたりそれに加わったり、たえず新しい玩具をくれてやり、野遊びや祭りに連れて行き、子どもがいないとしんから満足することがない。他人の子どもにもそれなりの愛情と注意を注ぐ。父も母も、自分の子に誇りをもっている…(バード)』

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最近は、子どもをどう育てるか、という気持ちが、自分がいい人でいたいという気持ちに先んじる傾向があるんですね。これでは順序が逆です。

子どもに、いま、幸せな時間を過ごしてほしいと願えば、育て方で悩むことはそんなにない。可愛がって、寄り添うことが自分の幸せだと気づくようになる。結局のところ、自分が育てられるのは自分自身だけ。

「愛されている」と思う子に育ってほしい、という親たちの願いが道筋をつけていけば、社会全体が落ち着いていく。その落ち着きが、それぞれの自分に還ってくる。

 

 

「ママがいい!」いい推薦文をいただきました。

(出版社の良本さんからのFBへの報告です。)
『ママがいい!』、今日もAmazon1位でがんばっています。
著者はじめ、多くの方々のシェアのおかげです。
この本、著者の松居和さんに、はじめ「僕を生け贄にするつもり?」と言われ、いや「日本はまだ間に合うかもしれない」と生け贄になることを自ら引き受けられて出版した本でした。
だから、カテゴリーランキングでもAmazon1位は本当に嬉しい。
世界の潮流や政府の保育政策に真っ向から疑問を呈したとんがった本ですが、長い人類史と叡智に根ざしているのはこちらのほうですし、タイトルだけ見て嫌悪感を抱いたという女性もいますが、本当は女性の応援歌です。
乳幼児のそばにいる方々に、アメリカ社会を見てきた著者の、全国の幼児教育の現場を長年歩いてきた著者の、渾身の主張を、ぜひ知ってほしいです。
以下は、Amazonレビューに寄せられた素晴らしい書評(柴田久雄さま)です。
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アメリカにおける学校教育の危機、家庭崩壊の現状を見て帰国、以来30年以上に渡り欧米の後追いをする日本に警鐘を鳴らし続ける。音楽家で作家、元埼玉県教育委員長でもあった一風変わった経歴の持ち主、現場を知り問題の本質を知る日本の心を持った著者の訴えに深い共感を覚える。
これから子供を持とうとする夫婦、乳幼児を持つ夫婦、小さな孫を持つおばあちゃん、おじいちゃんなど多くの日本人に読んで欲しい、何よりも政治家にこそ読んで欲しいと強く思う。
数年間の義務教育学校現場で不登校や適応障害などの様々な問題を抱えた子ども達に関わったが、少子化は進んでいるのに何故そのような子ども達の割合がむしろ増えているのか?私の疑問に本書は見事に答えてくれた。
それは、0歳児から11時間保育を基準とする経済活動優先の保育政策が母子分離に拍車をかけているという現実だった。義務教育で問題を抱える多くの子ども達が愛着障害に関係があることは感じていたが、子どもの発育にとって最も大切な決して取り戻すことの出来ぬ母と子の時間が今の保育制度の下で失われている現実を知り衝撃を受けた。
保育産業化を進めるような経済偏重の政策が続けば子ども達の将来は危うい、そして日本社会も危ういと心底思う。
読み進めると、驚愕、義憤、哀しみ、あまりにも酷い現実を知らされ暗澹たる気分になったが、最後の二章では希望と勇気が湧き嬉し涙が出た。その根底にあるのは、子ども達、母親、父親、家族、そして日本人と日本に対する溢れんばかりの愛だ。何度も出てくる「利他の心」という言葉。「逝きし世の面影」(渡辺京二著)に触れ、欧米人が見て子供の楽園パラダイスと書き残したかつての日本の風景こそが母性的な「社会で子育て」の真の姿であるという著者の想い。私の想いもシンクロした。
二度読み終えて再び著者紹介を見る、なんと私と同い年という偶然に気づいた。ママという呼称とは無縁な私にも本書のタイトルは深く突き刺ささる。
(https://good-books.co.jp/blog/blogs/2768/
フェイスブックでのシェア、ツイッターでのリツイート、様々な拡散、ありがとうございます。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。)

「だいじょうぶ、だいじょうぶ」

少子化対策で加速したさらなる少子化で待機児童がいなくなり、都市部では作り過ぎた保育園の存続が危うい。「成長産業」と名付けて民間参入を促してきた政府の施策に便乗し、「制度でも子育てができる」「親の代わりができる」と言い続けてきた業者が、今度は、働いていなくても預けられるようにするべきと言いだしている。

先日、「保育園等を利用していない未就園児(無園児)家庭の方が子育てで孤独を感じている」という民間会社のアンケート調査を紹介し、「保育園は働いてなければ入れない、と言う制限があるのがおかしい」と学者が発言している記事が、それに首を傾げる別の学者から送られてきました。少子化は分母になる親たちの減少と、結婚しない男たちの増加がベースにあるので、産む子ども数が突然奇跡的に増えても止まらない。それはもうみんな知っているのです。無償化や制限の撤廃は、短期的な業者の生き残り策、または次の選挙のことしか考えない政治家の集票作戦でしかない。でも、その集票作戦で、投票できな子どもたちの意見が無視されることが当たり前になり、保育の仕組みが歪められてきたのですから、選挙というのは馬鹿にできない。

どの地域の何人くらいを調べたのかは知りませんが、もし「子育てをしていると孤独感を感じるような社会になってしまった」のなら、それは子育てが問題なのではなく、子育ては損な役割と思い込まされ始めた社会が問題なのです。

少子化で廃園を迫られた園を、子育て支援センターに切り替え、親たちが「子育てをしていても」孤独感を感じないようにしていく、親子を切り離さない(特に乳児期は)仕組みにしていけば良いだけのこと。直接給付と組み合わせたとしても、いま以上に財政に負担になることではない。

それを、いきなり子育てに不安を感じたら、保育園がありますよ、預ければ孤独を感じなくて済みますよ、では、短絡的に過ぎる。

 

人間が悩むのは悪いことではないのです。真剣に生きている証拠かもしれない。加えて、孤独感というのは、意味のある感覚で、宮沢賢治の童話を読めばそれがよくわかります。そこに「子どもの幸せを願う」という意識があれば、むしろ大切な道しるべなのです。

 

突然、「こんとあき」という私が大好きな絵本を思い出しました。林明子さんの本です。

あきは、ぬいぐるみの狐のこんとおばあちゃんの家に行くのですが、途中で、色々出来事が起こります。その度に、こんが「だいじょうぶ、だいじょうぶ」とあきに囁く。その感じが、0歳児が母親に「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と言葉ではない言葉で言い続けるのに似ている。

0歳児のその言葉が聴こえるようになるために、母親の孤独はあったのかもしれない。この子が大丈夫だったら、自分はだいじょうぶ、という心境に進むために、そして自分はすでに一生孤独ではないことに気づくために、二人きりの時間があるのかもしれない。

 

「誰でも望めば預けることができるようにするべき」。そこまで言うなら、無資格者でも、パートで繋いでもいいと規制緩和した「保育の質」がその前にまず問われるべきでしょう。0歳から入園制限なし、とした時に、いまの保育界はそれを受けきれるのでしょうか。十一時間保育を標準と名付けて、子どもたちに「自分は愛されている」という気持ち、人を信じる力を持たせることが本当にできると思っているのでしょうか。この最後の規制緩和は、子どもの気持ちを犠牲にした、短期的な利権の確保でしょう。

子どもの願いが聴こえていない。

「子どもの願いに耳を傾ける」(子どもの意見を尊重する)ことは、子どもの権利条約で「権利」として保証されています。批准している日本はそれを守らなければいけない。それ以前に、人間が人間であるための条件のはず。しゃべれない0歳児も、この権利を持っている。だから多くの人にその声が聞こえるようにすること、利他の気持ちを弱者の存在から学ぶことが大切なのです。

 

尊重すべき子どもたちの「意見」の始まりにあるのが、「ママがいい!」です。

保育界は毎年、慣らし保育の時期に、悲鳴にも似たその声を聴いてきたはず。その叫びを真摯に受け止め、その願いに沿って制度を改めていけば、まだなんとかなるかもしれない。保育の現場に優しさや調和が戻ってきて、小学校も、少し落ち着くかもしれない。

 

「ママがいい!」という言葉を喜びとするか、それから目を背けるか、で社会の空気が変わってくるのです。

 

以前書いた「トルコからの手紙」の風景を思い出してほしいのです。平均収入が日本の10分の1という国で、人々は助け合い、分かち合い、子どもを囲んで嬉しそうに生きている。http://kazumatsui.m39.coreserver.jp/kazu-matsui.jp/?p=4319

全員が一生「未就園児」で終わる社会で、人間たちが過ごす時間を、私の教え子はこんな風に伝えてきました。

 

『トルコで菜々を抱えていると、1メートルもまっすぐ歩けない位、沢山の人に声をかけられます。皆、菜々に話しかけて触って、キスをしてくれます。トルコの人たちは、赤ん坊がもたらす「いいこと」をめいっぱい受け取っていると思います。菜々のお陰で、私は沢山の人の笑顔に触れられて、沢山の人から親切にされて、幸せです。日本に帰るのが少し怖いです。』

 

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新刊「ママがいい!」

Amazonのジャンル1位になりました! 先週ですが……。

シェア、拡散、どうかよろしくお願いいたします。0歳児の言葉が誰にでも聞こえてくる社会にするために。

 

 

 

Amazonのジャンル1位になりました!

「ママがいい!」

Amazonのジャンル1位になりました!

 

新卒が数年で辞めてしまう。忍耐力がない、責任を持ちたがらない。保育や教育現場だけでなく、多くの分野で言われるようになりました。

若者の引きこもりが五十四万人。始まる年齢は二十~二十四歳が三四・七パーセントで、十六~十九歳が三〇・六パーセント。明らかに逃げている。

「忍耐力に欠ける」と分析するのは簡単ですが、もっと深いところで生きる指針、幸せの物差しを見失っているのだと思うのです。

それが結婚しない、家庭を作ろうとしない、という傾向に明確にでているのに、政府は、経済優先の少子化対策で、ますます少子化を進めるのです。

安心感の源を体験的に把握していない。周りを信じることができない。損得勘定が破綻すると簡単に引きこもってしまう。周りの人間と一緒に乗り越えていく関係ができていないのです。

 

https://good-books.co.jp/books/2590/  

「教え子が送ってくれた言葉」(トルコからの手紙)

「教え子が送ってくれた言葉」

ご主人の海外勤務で、トルコに4年間住んでいた教え子が以前メールを送ってきて、いろいろ教えてくれました。

保育と子どもの発達をテーマに博士論文を書いていた彼女は、本もよく読んでいて本来は理論派なのですが、独特な感性があって、特に、子育てをしている女性は多分遺伝子が勢いよくオンになってきているのでしょう、遠くを見通すその視線がすごいのです。

トルコ語も積極的にマスターし「昔から続いてきた人間社会における子育ての役割」について貴重な報告をイスタンブールから伝えてきたのです。

人間同士の育てあいが作る安心のネットワークと、親としての絆の役割りを、祈りの次元で眺めることが出来るひとでした。

学生時代日本にいたころから討論を重ねたこともあって、私は彼女の報告を、自分がその場に居て見ているように実感したものでした。ご主人が、一流企業に勤めていながらトルコ人仲間とサッカーに熱中しているような、子煩悩な人だったことも観察の手助けになったのだと思います。

一時帰国も出来たのに、彼女はトルコで第一子を出産しました。おかげで、トルコ人の(または昔の人の?)、命の誕生や、赤ん坊に対する思いを肌で感じて、その目線に囲まれて育つことの意味を新鮮な驚きとともに報告してくれました。

 

(最後のメール?)

菜々はすっかり、「全ての大人は自分を愛してくれるもの」だと思っています。

トルコ人から愛情を受けるのが当たり前になっている彼女。

ありがたいやら、今後がおもいやられるやら。

そして改めて、トルコ人がどんな状況でも、祖国や自分、家族といった自分の基盤となる部分を積極的に肯定し、是が非でも守る理由がわかります。幼い頃、こんなに誰にでも愛されていれば、何があっても自分を否定しない。人や自分を愛する力がつくんですね。

里映

 

(その二年前のメール)

トルコで菜々を抱えていると、1メートルもまっすぐ歩けない位、沢山の人に声をかけられます。皆、菜々に話しかけて触って、キスをしてくれます。トルコの人たちは、赤ん坊がもたらす「いいこと」をめいっぱい受け取っていると思います。菜々のお陰で、私は沢山の人の笑顔に触れられて、沢山の人から親切にされて、幸せです。日本に帰るのが少し怖いです。

里映

 

(四年前のメール)

「トルコ語に『インアシャラー(神が望むなら)』という言葉があります。イスラム圏全体で通じる言葉でしょうか?

停電がしょっちゅうあるので、私が近所の人たちに色々聞きに行き、『あと少しで回復するかな?』と聞くと、『インアシャラー』と言われたりします。この言葉がよく使われるように、トルコでは、自分(人間)がどうにもできないことがあるという前提で物事を考え、そういうことが起こったら、じたばたせずに神様が導いてくれるのを穏やかに待っているようなところがあります。その分楽天的で、ひやひやすることも多いのですが」

やはりポイントは、自分、というより人間には、自分自身で解決できないことがあるということを前提にしているというところでしょうか。何もできないということと、幸せであるということは、裏表なのでしょう。松居先生の、0歳児が完璧な人間である、ということと近いと思います

里映

(教え子がしている体験が伝わってきます。私もトルコに行ったことがあるのです。

最初は二十歳の時でした。インド、ヨーロッパ、シルクロード、そして再びインド、一年半の旅の中でロンドンからインドまでボロ車で走った、その途中でした。

当時、フラワーチルドレンの生き残りたちが、ある者は、トールキンの「指輪物語」を手に、ある者はヘリゲルの「弓と禅」(Zen In The Art of Archery)に影響を受け、ああ、そうそう、それをもじった「オートバイ整備と禅」(Zen and the Art of Motorcycle Maintenance)というのもありました。ダイセツ・スズキ、コードー・サワキという名が語られ、クリシュナムルティまで読み進む「旅人」たちもいた。時代が、自らを検証するために産み落とした世代だったのかもしれません。

目標への近道は、国という概念を捨てること、そんな雰囲気がありました。あの旅が、いまだに続いているように思える私にとっては、つい、このあいだの事なのです。

教え子がメールで伝えてくる「文字」の存在に感謝し、感動します。

人間は絆を深め、時空を越えて体験をわかちあい守りあうために「文字」を創った。四十年以上前の自分の旅がこうして彼女のメールと重なる。それを日本の保育者たち、保護者たちとわかちあえたら、とコミュニケーションの不思議さを感じます。

「逝きし世の面影」(渡辺京二著)の第10章、「子どもの楽園」を読んだ時にも感じた感動です。百五十年前の欧米人たちが、自分たちが見て「パラダイス」と驚いた日本について、「子どもの楽園」について文字に書き残し、私たちに教えようとする。伝令役を果たそうとする。

子育ての絡まない比較文化論は、私にとって意味がないのです。その文化が何を信じているか、いわば幸福論の柱が見えてこないからです。

『インアシャラー』という言葉の中に、自分ではなく子どもを、神を、優先することによって人生を確固としたもの、嬉しい体験にしようとする人たちを感じます。この言葉が、子どもを笑顔で見つめるための「おまじない」なのです。子育ては、うまくいく、思い通りにいくものではないのです。

社会に、信じること、祈ることが存在し続けていたら、大学も専門家もこんなに存在しなくていいし、こんなに物差しが混乱しなかったはず。

「日本に帰るのが少し怖い」という彼女の言葉に、子どもをみんなで大事に守った母親の本能と不安が垣間見えるのです。勇敢な彼女だからこそそれを感じ、予知するのでしょう。

日本で確実に増えている、義務教育の中で子どもを守りきれない、信じることができないものに「子育て」を手渡す母親たちの葛藤が、その言葉に表れているのです。「最近の義務教育」の中で、良くない同級生、良くない担任に当たった時の親子のショックを知っているから、親と子の、途方に暮れた後ろ姿、孤立無援の悲しみを、私はそこに感じる。

人間は全員が発達障害で、運命的な欠陥をを補い合って生きていく。男女、親子がその典型ですが、補うことで自らの幸せは全体の幸せで成り立つことを知る。そのパズルを組むための凸凹が、義務教育の「義務」という名の下で、または「平等」という名を冠した闘いの中で、摩擦の原因になっていく。一生後悔してもし切れない判断を母親に迫っている。

先進国社会において、神の作った秩序と人間の作った秩序が闘っています。本来次元の異なる、住み分けが出来るはずのものたちが競い、闘い始めています。

子育てで一番大切な言葉が、「神が望むなら」なのかもしれません。その言葉は、みんながそう思って初めて生きてくる。「神が望むなら」という生き方を親たちが身につけるために、幼児、特に未満児が存在するのでしょうね。だから、幼児期の子育てを手放してはいけないのです。)

続く、 

 

拡散、お願いいたします。

「家にいるしかなく親の暴力ひどくなった:読売新聞」

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児童虐待最多の10万8050人、コロナで潜在化の恐れ…「家にいるしかなく親の暴力ひどくなった:読売新聞」という記事。

いま、一番注目しなければいけない記事のはず。これで国会が紛糾してもいい。国のあり方、いく道の危うさ、義務教育が存在する限り、全ての人の人生に連鎖し、影響してくる問題なのです。

それが、人々の意識の中で一過性の話題になっている。

本来なら災害や困難は、人々を結束させ、思いやり、助け合いを生み、家族という理屈抜きの絆に感謝する機会だった。それが、児童虐待最多という社会の流れの中で、そういう働きをしなくなっている。反対に、親の暴力を誘発しているというのです。

児童虐待最多はコロナに関係なくずっと更新されてきた、現在進行形の問題なのです。なぜ進行しているのか、家庭や子育てのあり方、という側面から、真剣に考えなければいけないはず。

「家にいるしかないと親の暴力がひどくなる」という記述が憶測であっても、報道されるからには、近年の親子関係の変質に皆気づいている。それを、だから福祉や教育を使って親子を切り離せ、というのはあまりにも本末転倒なのですが、そういう議論がすでにある。アメリカで、母子家庭に任せておくと犯罪が増えるから政府が孤児院で育てよう、というタレント・フェアクロス法案が連邦議会で論議された時のことを思い出します。施策や仕組みで家庭を壊しておいて、それを施策で補おうとする。それが、一層問題を大きくしていく。

家族というつながりの中で長い間伝承されてきた「忠誠心」のようなものが、国がつくる仕組みの中で、特に子どもの気持ちを無視した母子分離政策の中で急速に失われているのです。

優しさと忍耐力、そして本能的な忠誠心を育ててきたのは誰なのか。

もちろん、幼児たちです。この人たちを中心に向き合うこと、この人たちを可愛がること、育てること、は人類にとって「必須」だった。

人間たちの意識の中心に常に二歳児がいて、彼らの存在に酔っていれば、人類は大丈夫だった。

この人たちが居てくれることを、喜びと感じるか、イライラと感じるか、そこが分水嶺で、その「選択」によって人間社会の道筋が決まっていくのでしょう。

それは「自らの選択」です。

親を見つめる保育士たちが言うのです。子どもと一緒にいるとイライラする親が増えている。当然、子どももイライラしてくる。すると、保育士も教師もイライラしてきて……、そうやって、穏やかに過ごすための絆を、みんなで少しずつ失っていく。

それでも、政府は行政を使って、母子分離に拍車をかけるのです。

「子ども家庭庁」など推して知るべし。「子ども・子育て会議」が作られた時のことを思い出します。

政府によって選ばれたメンバーが十一時間保育を標準と名付け、保育界の産業化、そして規制緩和を進めていった。保育は成長産業という閣議決定が後ろにある限り、そして保育施策が雇用労働施策の一部であり続ける限り、「子ども・子育て会議」も「子ども家庭庁」も、誤魔化しの道具に過ぎないのです。

二十年前、0歳児、1歳児を預けにきた親に、「いま預けると、歳とって預けられちゃうよ~」と言ってやんわり脅していた園長がいました。

その言葉が、ますます真実味を帯びている。

古(いにしえ)のルールの伝承が、あちこちで途切れようとしているのです。

 

「やくそく」

「やくそく」

先週、熊谷市のなでしこ第二保育園で講演をしました。長い付き合いで、これが四回目です、と言われました。保護者と保育士たちが一緒に聴いてくれる、というのが嬉しい。一緒に拍手してくれたのが、励ましになりました。

七十人くらいを前に、第一と第三なでしこをズームでつなげて、そちらでも親たちと保育士が聴いていて、あとでホームページにアップして当日聴けなかった人も聞けるようにしてくれました。

講演後、給食ランチを十人くらいでしていた時、保護者会の会長さんが、「小風さんは、松居先生の妹さんですよね」と訊くので、そうですよ、と答えると、「光村図書が出している小学校一年生の国語の教科書に、『やくそく』という話を書いているのをご存知ですか?」と言う。

すみません、知りませんと答えると、「とってもいい話なんです、今度先生たちの集まりで研究会をやるんです」。そう言って、話の内容を説明してくれました。あおむしが三匹でてきて、喧嘩をしているうちに、木に怒られて、てっぺんまで登るときらきら光る海が見えて、いつか一緒にそこまで飛んで行こう、とやくそくする、という話なんです、と興奮気味に語ってくれたのです。

妹は、結構有名な絵本作家で、講演でそれを言うと保育士たちはびっくりするのですが、一年生の国語の教科書というのですから、これはまた格別です。

家に帰って、妹に電話して、教科書に話を書いたか、と訊くと、書いた、書いた、というのです。今日、保護者会の会長が研究会をすると言っていたぞ、というと、ゲタゲタ笑って、「研究されちゃうんだ」とか言うのです。

ネットで調べると、そのままの文章は載っていなかったのですが、「範読」というのが出てきて、この言葉もそのとき初めて知ったのですが、ユーチューブに載っている上に、このお話で、どういう風に授業をやったか、みたいなのまで映像で載っている。

これが、なかなか、深い、いい話で、これは研究されるかもしれない、と頷きました。

そして、寒川道夫先生を思い出したのです。

妹が、神と言っている、小学校の担任で国語の先生だった寒川道夫先生が、赤いほっぺたを膨らませて喜んでいるだろうな、とイメージが浮かんできました。

あの伝統が受け継がれている。先生の授業がこうやって作品として受け継がれていく。子どもたちの人生を介して生きていく。

どっこい寒川先生は生きている。

ちなみに私の五、六年生の担任は、後に自由の森学園を創った遠藤豊先生で、その理科の授業で染み込んだ、囚われず自分で考える、という姿勢が今でも私の中に生きているのがわかります。

自由の森学園を遠藤先生が創った時に、私は、教育に自由という言葉を使うことの解釈をめぐって遠藤先生と激突したのです。先生のすごいところは、それを知っていて、学園創設直前の教師たちの研究会で私に講演させたところです。自分の理科の授業が、この天敵をつくったと知っていたのでしょう。そして、記念すべき第一回の入学式で私に尺八の演奏を頼んだのです。

翌年、生徒たちにも講演させました。講演後、生徒たちと「自由」という言葉の危うさとまやかし、誤魔化しについて話し合いました。私に、しっかり考えなさい、と担任がフィールドを与えてくれたのです。

アメリカという国を見ながら、義務教育の存在自体の危険性や、0、1、2歳児の存在意義が忘れらていくことに気づいたのも、あの理科の授業があったからかもしれません。

遠藤先生は、師であり、同志であり、いつまでも私の担任でもあるのです。

寒川道夫先生が、妹にとって神であるように。

「やくそく」は続いていくのです。

 

 

「やくそく」範読 音読指導 光村図書こくご 1″ YouTube で見る

https://youtu.be/ZfYQAXckd-o

「ある夕方のこと」

「ある夕方のこと」

子どもの発達を保育の醍醐味ととらえ、保育士たちの自主研修も月に一回やり、親を育てる行事をたくさん組んで保育をやっている保育園で…。

園長先生が職員室で二人の女の子が話しているのを聴きました。

「Kせんせい、やさしいんだよねー」

「そうだよねー。やさしいんだよねー」

園長先生は思わず嬉しくなって、「そう。よかったわー」

「でも、ゆうがたになるとこわいんだよねー」

「うん、なんでだろうねー」

園長先生は苦笑い。一生懸命保育をすれば、夕方には誰だって少しくたびれてきます。それを子どもはちゃんと見ています。他人の子どもを毎日毎日八時間、この人数で見るのは大変なのです。しかも、園長先生は保育士たちに、喜びをもって子どもの成長を一人一人観察し、その日の心理状態を把握して保育をしてください、と常日頃から言っています。

問題がある場合は、家庭の状況を探ってアドバイスをしたりしなければなりません。子どもの幸せを考えれば、親と一緒に子育てをしているという意識は常に忘れてはいけない。そして、良い保育をしようとすれば、それは「日々の生活」であって完璧・完成はないのです。

保育士に望みすぎているのかもしれない…、と園長先生は思いました。

それでも、いま園に来ている子どもたちのために、選択肢のなかった子どもたちのために、できるところまでやり続けるしかない。

そう思いだした時、職員室での子どもたちの会話が、保育士たちへの励ましのように聴こえたのでした。

 

(アメリカの小学校で痛ましい銃の乱射事件がありました。教師も銃を持てばいい、と言う人たちに私の親友が書いた反戦の「詩」です。三十年間小学校で教え、全米Teacher of the yearにも選ばれた、私のソウルメイトのような人。)

 

A Teacher’s Arms

 

(On the suggestion, by some, that teachers carry guns)

These arms 

were not designed to 

hold 

cold

steel 

were never meant to

wield

or carry

or pull

or aim.

These arms 

will not be armed!

These arms 

were made to

embrace  

the tearful child

to shoulder

the pain of playground

misunderstandings 

and to place

a Band-Aid 

on the scraped knee

when it

hurts.

  • Kim Labinger

「父親からの手紙」

子どもたちの幸せを願う園長は、私の講演のあと、親たちに一週間くらい時間を与えて感想文を書いてもらうのです。耕した畑に雨が降って土が穏やかになっていくように、文字にすると自分の心が定まってくる。

そして、そのコピーを私に送ってくれます。親から直接メールをもらうこともあります。そうした言葉が私を癒し、元気づけ、生き甲斐になってくれたりする。

ここに、父親からもらった一通のメールがあります。

手紙を読んで、ふと何かが完結したような気がしました。赤ん坊がいる風景の中で、一人の父親から私がこの手紙をもらうことで、何かが完結する。私も含めて命がつながっていく、絆の循環が始まっているように感じたのです。

人間は、自らがこの世に生み出した新しい命を世話しながら、一回自分を捨てるのかもしれない。我欲の世界から、利他の心持ちに移っていく。

救われていくのかもしれない。

「父親からの手紙」

松居様

 

昨日、講演を聞いた者です。

何か、表現し難いものに興奮し、また感動し、寝付けずにいます。

 

結論から言えば。

子供を持ち、親になったことで得られたことがあると強く感じます。

今年35歳になりますが、まだ独身でいる友達が両手に余ります。

正に非論理的盛りの2歳児を育てながら、今、ここに、幸せが手の中にあるような、、、

目に見えない形のないものを実感しています。

 

独身の頃には、時間もお金も好きなように使えて(自由にとは言いませんが)、それが結婚したら。

この時代の夫は、家事を手伝い、小遣いは十分の一、輪を掛けて休みの日には子供の面倒を見なくては、しなくてはならない。

子供が生まれて1年半で、10キロ吸い取られるように痩せました。

この話をすると、現在50代のお父さんたちは、「時代が違う」と後悔か懺悔かをにじませ言います。

それでも、この不自由の中にも確かに幸せを感じられました。

先生のような悟りや確信を得られた訳ではありませんが。

 

一番強く思ったのは、「俺もこうだったのかな」と。

長年父親に対して様々な思いを感じたことが浄化したような。

俺の親父も、こうやっておむつを替えて、チンチンに付いたうんこを拭いてくれてたのかなと。

刺し違えてでも母と妹を守る、とさえ思ったことのある親父のことを、自分勝手に理解し合えたような、不思議な満ちた感覚を得ました。

 

何か大きなものをもらった時に、自分も何か言い返したいというか、訴えたいというか、言いたいことを言っている人は、エネルギーに満ちているし、若く見える。先生もそんな感じでした。

そんなまとまらないお礼を言いたいと思ってメールしました。

 

p.s. 仕事が多少忙しいですが、9月に一日保育します。

 

(そしてもう一通、「保育士からの手紙」)

松居先生、ご無沙汰しております。お元気でいらっしゃいますか?

6月18日より、1日保育士体験を始めました。まだ、3人の方の実施ですが、その方々のご意見は、まさに先生がおっしゃっていたとおりでした。

どのかたにも、5歳児の子どもに読み聞かせをしてもらっていますが、それも大好評です。保育士も体験の保護者が来られると、嬉しいですし、子ども達は大喜びです。先日、理事が様子を見に来られました。(先生とお食事をご一緒したときに先生の向かいに座られた華奢な方です)市をあげて実施する方向へもって行きたいと後押ししてくださっています。

そこで、先生にご相談なのですが、公立保育所の職員対象で研修をお願い出来ないでしょうか?そして、誠に情けないのですが、交通費が出ませんので、先生が西日本方面へ来られるような時に、寄っていただけるようなスケジュールの時はありませんでしょうか? いつもいつも、無理を言ってすみません。また、お返事を待っています。よろしくお願いいたします。

(私は、いつでも行きます。ありがとうございます。)