太古の調和かもしれない……。

マイルス・デイビスと民主主義

 アメリカという国で誕生した「ジャズ」という音楽に、巨大な足跡を残し、大統領さえ一目置く男、世界中で、一番名の知れたミュージシャンだったかもしれない。
それでも、シェリフは、気が向くと待っていて、「止まれ」と命じた。

彼が演奏している音楽は、はじめは混沌のように聴こえ、バンドメンバーが持つそれぞれの意思で、いきなり旋律から遠ざかっていく。
しかし、同じ森の中にいるかのように、そこには一体感がある。
この魅力は何だろう。
現代音楽の苦悩に近いハーモニー(調和)とは出所が違っている。
やすやすと飛び越えてくる。
太古の調和かもしれない……。

(追記)
マイルスの音楽が、畑の中の公民館で、一斉に「解放」される保育士たちの思い出と、いまでも重なる。
彼女たちの「生きる動機」は、それほど変わってはいない。

「制度」や「仕組み」を考える人々の意識の中に、音楽でマイルスが探した道筋が現れてこないことが、私たちを、「母子分離」政策というとんでもなく非人間的な政策と対峙しなければならない状況へ追い込んでいる。

「マイルス・デイビスと民主主義」

松居和チャンネル第29回は、

「マイルス・デイビスと民主主義」 ~利権と、音楽の狭間で、探し物をした人~

私の音楽人生を振り返りながら、ピアニストのジョー・サンプルとの話から入ります。

黒人ミュージシャンにとっての「差別」の現実。私自身、その中で、闘った記憶。

日本語の、「敬語の使い分け」における「縛り」が、モラルと秩序を支えていること。それが、弱者、特に子どもを優先する社会を維持するのに役立ってきたこと。

そのあたりから、伝説のトランペッター、マイルス・デイビスの音楽と、民主主義の関係について話が進みます。

「自由」の感触に、階級闘争の次元ではなく、「音楽」という手段で、もっとも近づいたかもしれない男が、白人の保安官(シェリフ)の嫌がらせを止めることができない。警察官(ポリス)なら止められたはず。でも、同じ色の車に乗っていても、選挙で選ばれた地元の保安官が相手では、逃げられない。

……皆がそれを知っている。

それが、その国の仕組みでした。

「解放」とは、制度や仕組みの縛りから、古(いにしえ)のルールに戻ること。そう考えた方が、いい。

そのマイルスの、音楽における「探し方」が、畑の中の公民館で、一斉に「解放」された保育士たちの思い出と重なって、私は、今でも彼女たちと、「その瞬間」を体験することができる。

音楽は常に背後に流れていて、彼女たちの「生きる動機」も、変わらない。

「制度」を打ち破る時に必要な、弱者を慈しむ人間の本能は、ずっと存在している。

その秘密について、ぜひ、チャンネルを開いてみて下さい。

制度を支配する理論や理屈を離れる「手段」として、私たちは、すでに「音楽」を手にしている。

道筋を照らす者たち、幼児を授かり続けること、と同じです。

子ども扱いするということは、「神様扱いする」ということ

先日、新潟で行われた神社保育の研修大会で、私の講演の前に、「日々の誓い」が読まれました。
それが、とっても良くて、感動しました。
そう、保育は、子育てです。そして人類は、「子育て」を中心に、日々、生きる誓いを立ててきた。

「日々の誓い」

私たちは次の三ヶ条を誓い、
日々その実践に努めます。

一、  私たちは、
授かった子どもを神さまといつくしみ、
ともに和み(なごみ)つつ
保育にいそしみます。

一、  私たちは、
鎮守の森のすばらしさにふれ、
生命(いのち)の尊さとつながりに
気づかせるようにつとめます。

一、  私たちは、
日本の歴史や伝統を大切にし、
誇りと思いやりをもって
子どもたちに接します。

(ここから私)
「授かった子どもを神さまといつくしみ、ともに和み(なごみ)つつ」、と誓っている。そうだ、保育は、神様たちと「和む」ことなんだ。
もちろん、親もそうでなくては、いけません。

新しく教わったのは、幼稚園、保育園は、「鎮守の森」だということ。人間たちの、魂を鎮め、守るところ。「生命(いのち)の尊さとつながりに、気づかせる」ところ。

そして、保育者たちが「日本の歴史や伝統を大切にする」と誓う。
これは、子ども中心に、子どもを可愛がるこの国の文化、習慣、子どもたちを優先する、利他の伝統を大切にする、ということ。保育指針にも、書いてある。

その「歴史や伝統」を政治家たちが忘れているから、母子分離策が、政府の方針として広がって、いよいよおかしなことになっている。子どもたちと「和む」伝統を、「誰でも通園制度」などと言って、無理に壊そうとする。
そこに、愛国心がない。

その晩の懇親会で、園ごとの「出し物」がありました。
保育団体の懇親会における保育者たちの出し物は、いいんです。気持ちがこもっているんです。真剣で、楽しそう。いつも、園児たちに教えているから、本気で踊ることが習慣になっている。
来賓や、他園の理事長や、神社庁の長官を「踊り」に誘い出す。それが、上手い。私も、講演で使い果たしたエネルギーを搾り出して、一つ、踊りました。
そして、気付いたのです。

人間を、子ども扱いするということは、「神様扱いする」ということらしい……。

 

「血のつながり」というインクルーシブ

欧米社会で、急速に、「血のつながり」という意識が失われていく。「血縁」に基づく「インクルーシブ」が消えてゆく。その流れを見ていると、子育てや家庭に関係する「制度」、「新たに作られた仕組み」の怖さを感じる。

今回の松居和チャンネル、第28回のテーマは、「制度が「血縁」を壊す」としました。副題は、~FAS(胎児性アルコール症)と子育ての社会化~です。

欧米で、里親、養子縁組制度が当たり前になってくる中で、妊娠中の胎児の発達障害が、人間の意識から「先祖」が消えることの危険性に、警告を発する。

保育制度も然り。一度、負の連鎖が始まり、それに市場原理が加わると、さらに「制度」で対応していくしかなくなってくる。一度設定した「量的」要求を満たすために、規制緩和が行われ、その過程で、「育てる人材」が質的にも、量的にも確保できなくなってくる。

「親らしさ」が失われると、子育てを「制度」で代替するしかなくなってくる。それが人類全体に起こっている未体験の「危機」。

母子分離政策で、少子化を進めるのが、「子どもの権利条約」違反であるように、子どもたちの「生きる力」を、政府が義務教育や保育制度で奪ってはいけないのです。最近の教師不足や、小学校の教室及び職員室における混沌を見ていると、「会話」が噛み合っていない。乳幼児期に、一対一で理解しようとしてくれる人がいない時間が長く続くと、言葉を超えた、「気持ち」でコミュニケーションすることが苦手になる。そういう人たちが、すでに、教師や保育者になって、愛着障害と思われる子どもたちとぶつかっている構図が見えてくる。

欧米に比べてはるかに状況がいいのに、日本では、政府に促され、幼児期の自分の子と日に11時間、年に260日離れる道を選ぶ親が半数近くになり、仕組みが限界に来ている。「子育て」に対する意識の変化は、人類にとって最大の危機になることに気づいてほしい。

制度で「血縁」を壊しておいての「インクルーシブ」は、偽物、見せかけの「言い逃れ」「誤魔化し」でしかない。日本のように、まだ家庭に実の父親がこれだけいる「血縁に準ずるインクルーシブ」が本来の姿だと思う。

 

命の誕生を祝う

全国仏教保育、埼玉大会で講演した後、新潟へ。
全国神社保育団体連合会、東北北海道ブロック研修大会で講演。講演の前に、新潟神社で正式参拝をしました。
子育ては、「祈り」。
それが原点だと思います。
先週は、唐津のルーテル幼稚園でも講演しました。
仏教も、神道も、キリスト教も、信心はすべて、しゃべれない赤ん坊の声に耳を傾けることから始まっているのです。
それが、少しずつ、「ママがいい!」という言葉になっていく過程で、親心、利他の心が社会に満ちていく。
命の誕生を祝う、その風景が本当の絆をつくっていく。
政府の母子分離政策は、この小さな声に、全く耳を傾けようとしていない。祝おうとしていない。

「未来の教育現場を整える」松居和チャンネル 第27回

松居和チャンネル 第27回 テーマは、「未来の教育現場を整える」

副題は、「14歳の女の子たちは、『母の顔』に。男の子たちは、『子どもに還る』」です。

長野県のこすずめ保育園から送られてきた、私の講演に対する「感想文」から始まります。

保育士と保護者、行政や議員など、みんな一緒に講演を聴いてくれた。互いの顔を見ながら、頷き合う。

子どもたちが学校に上がる前に、親たちが、どういう絆をつくって、どういう心持ちになっているのが自然なのか、具体例を挙げて説明します。

子どもたちの「育つ土台」、「安心する絆」を就学前につくって、その後も、幼稚園や保育園が地域の「故郷」になれば、成人式に、卒園児たちが「晴れ着姿」で還ってくる。それで、「親心のビオトープ」が完成。

そんな話をします。

「子育て」は、みんなで子どもたちの「晴れ姿」を祝いたい気持ちを、育てる。

自分の持って生まれた「いい人間性」を感じる以外に、自分を評価する方法はないのです。

 

 

「珠玉の絵本と児童文学リスト」(松居和版)

講演が続きます。
絵本と児童文学について話した焼津。(配られた、私の「珠玉の絵本リスト」を添付します。)特に、児童文学のリストは、私の考え方を今でも形作っている本たちです。絶版になっているものもありますが、図書館に行けばあると思います。焼津の図書館にはありました。
その後、宮崎の大きな保育園、唐津のキリスト教の子ども園、佐賀市で行われた「いのちを大切にする会」の講演会には、中学生、高校生が70人ボランティアで来てくれて、講演に一生懸命に、耳を傾けて(心を傾けて)くれました。(国会議員や市長さん議員たちと一緒に。)
今日は、午後、宗像の私立幼稚園協会主催で保育者たちに話します。
保育界も教育界も、人材不足と政府の母子分離政策によって、大混乱の時を迎えています。だからこそ、幼児たちの役割、この人たちを優先することで社会が整うのだ、という原則を言い続けなければなりません。

『社会復帰』?

「子どもが小学校に行くようになって手が離れたので、仕事を始めて『社会復帰』しようと思います」と言われた時代があった。その言葉が通用しなくなっている。教師が集まらない。こんな状況で「手を離す」ことは、もうできない。

子育てをしている母親を「社会」の一部と見做さない、国や経済学者の馬鹿げた「論理」がマスコミで広まり、子どもたちの「人生」が宙に浮いている。

その結果、親たちは、自分で子どもたちを守るしかない状況に追い込まれている。それでいいのかもしれない。仕組みに子育てを頼ろうとしたことの矛盾と、保育や学校教育の「制度疲労」が、人類に「子育て」を突きつける。

 

「集まること」、その中心に親子がいること。

児童虐待最多の10万8050人、コロナで潜在化の恐れ…「家にいるしかなく親の暴力ひどくなった:読売新聞」という記事がコロナ禍の中であったのです。
 国のあり方、いく道筋の危うさ、義務教育が存在する限り、全ての人の人生に連鎖し、影響してくる問題だったのです。
 これで国会が紛糾してもいい。
 それが、人々の意識の中で一過性の話題になっている。
 本来なら災害や困難は、人々を結束させ、思いやり、助け合いを生み、家族という理屈抜きの絆に感謝する機会だった。
 それが、児童虐待最多という社会の流れの中で、そういう働きをしなくなっている。
 反対に、親の暴力を誘発しているというのです。
 社会全体を鎮める道を、そろそろ歩み始めなければいけない、と思うのです。小さな単位でいい。「集まること」、その中心に親子がいること。

 ~子育て支援センターから、部族へ~

https://youtu.be/SZBhNioFrPo

 

子守唄が人類を導く

~義務教育の中に、幼児たちとの会話を~

https://youtu.be/cdq-2w3aJZE

「ちくちく言葉の破壊力」

「ちくちく言葉の破壊力」

を園内研修に使った園長先生が、「うちでは起こり得ないと思っていたのですが、数人が下を向いて固まってしまった。身に覚えがあるようで、ああ、研修やって良かった。他の保育士たちもホッとしただろう」と感謝されました。

保育士による「ちくちく言葉」、特に3歳までの保育でそれが日常化すると、脳の発達という意味で、子どもの一生に影響する。その意識を徹底させるにも、園内研修で使ってほしい。「これは駄目」という線引きをしないと、いい保育士が辞めていく。