宇宙の相対性の中で/公園に幼児と座っていると






 私が一人で公園のベンチに座っていたら「変なおじさん」で、

 三歳児と二人で並んで座っていたら、「いいおじさん」です。

 宇宙の相対性の中で、三歳児は、そこにいるだけで私をいい存在にする。

 それが、人間を進化させる一番揺るがない絶対的な法則のはず。

 その繰り返しが、人間たちを育ててきたのだと思います。

 

 幼児たちは、自分がいれば、周りの人間がいい人間になるんだ、ということを感じ、その感覚を身につけて育ってゆく人たちだった。ひとをいい人間にする、という役割りを身につけ、できればそれを感じ、理解し、社会は成立していた。

 

 世論調査で動く政治家、ところが世論調査は乳幼児の思いを反影していない。

 有識者は情報を学んだり数字を分析しますが、幼児の願いを知識として持ち合わせていない。幼児の願いは感性、つまり想像力の領域に存在するものだからでしょう。

 弱者を見つめ、人間は想像力を磨かれ、その想像力の積み重ねで生きる指針と心を得てきました。


 以前、経済財政諮問会議の座長をやっていた学者が「乳児は寝たきり、幼児は野蛮人」と私の目の前で言った。

 厚生労働大臣が、「子育ては専門家に任せておけばいいのよ」と言ったり、25万人の乳幼児を母から引き離す施策を、総理大臣が国会で「党の真骨頂」と言う。

 子育ての仕組みを変える「新システム論争」の中心にいて、「これまで親が第一義的責任を担い、それが果たせないときに社会(保育所)が代わりにと考えられてきましたが、その順番を変えたのです」と言っていた学者が、今度は国民会議のメンバーに選ばれる。

 選挙のために、テレビの討論が繰り返され、次の世代を育てることではなく、年金の多寡で将来の幸せを量ることが当然のように意識のなかに広がってゆく。選挙という闘いが、人々の意識を利権争いに導いてゆく。

 弱者というのは貧しいひとたちを言うのではないのです。貧しき者は幸いなれ、と聖書にもあります。欲を捨てて貧しさに釈迦は身を投じました。弱者というのは、一人では絶対に生きられないひとたち、そこにいるだけで人間をいい人間にするひとたちを言うのだと思います。




母子像の意味。/三人目は保育料無料?

 カソリックの教会に祈りの対象として母子像が置いてあります。イコンなどにもよく描かれていますが、幼子イエスを抱く聖母マリアの姿です。もともと偶像崇拝を避けていた人たちが、どうして母子像を拝みたくなったのか。戦乱や貧困があたりまえだった時代、人間の本質を疑いたくなるような苦しみや悲しみの出来事のなかで、幼子を抱く母の姿は慈悲の象徴だったのでしょう。日常生活のなかでも目にすることができるその風景に根源的な救いを求めたのではないでしょうか。
 子を抱く母は、人類にとって特別の意味を持つ風景なのです。人はその姿を見ると、過去と未来に温かさを感じ、怖れが遠のくのでしょう。人間は、母子を守ることで心を一つにし、生き甲斐や、幸せを感じ、育ってゆくのです。守る側の心と絆が育ってゆくのです。
 人間が人間性を追い求めるとき、母と子の姿はその意識の起点になっていたのではないかと思います。

 いまの少子化の一番の原因は男たちが結婚しなくなっていることです。
 男は元来、自分のためなんかには頑張れない、誰かのために頑張るのが普通なのでしょう。そういう風につくられたのだと思います。最近、新卒の男子が使いものにならない、女子だったら大丈夫、という声を聴きます。草食系男子が増えている、というのもどうやら現実のようです。フィギアと一緒に旅行に出かける大学生もいるそうです。それ自体は悪いことではない。むしろその方が平和なのではないかとさえ思います。
 しかし、もしこの国が、もうしばらく経済的に先進国の中で優位を保ちたいのなら、もう少し人口を増やしたいのなら、男たちが生きる力を取り戻す方向に施策をもってゆく必要があると思います。
 母と子を引き離しては、多くの男たちは何を起点に生きていいかわからなくなる。
 そういう男女の幸福観の違いを重視する視点で、いまの親子を引き離す施策をもう一度考え直すといいのです。しかし、いまはまだ誰も施策の中でそういう人類学的な幸福論を言いません。昔だったら当たり前だった、陰陽の法則が忘れられているような気がします。
 いずれ、考え直さなければならない時は来ます。このままこの方向に進めば、保育園も、学校も、家庭さえも、子どもが育つ場としては相応しくない場になってしまう。福祉それ自体が人間性を失っていく。
 方向転換がいかに早く来るか、それがこの国の運命を左右するのだと思います。

 選挙が始まろうとしています。もう何がなんだかよくわかりません。
 民主党が、駆け込みで保育園を増やす予算を組みました。最後にいい事をやっていることを見せたいのでしょう。保育士もいないのに…。箱ものをつくって中身のことをよく考えない。
 子どもの日々の生活と安心がこのお金でどれだけ崩れてゆくか。それがどれほど日本の将来に長期的に悪い影響を及ぼすか。子育ての質をどれだけ悪くするか。現場を見ない思いつきの政治家と学者たちは何もわかっていない。

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 子どもを三人産むと、三人目は保育料無料、という奇妙なことをする自治体の首長がいます。現場の保育士たちが嘆いていました。

 無料にすると、三人目は0歳から簡単に保育園にあずけてしまう親がたくさんいるのです。

 三人目に産まれた子どもは、三番目というだけで、そして、偶然この町長に当たったおかげで、母親にくっついて一緒に人生の最初の数年を過ごす、という人間が何十万年もやってきた運命的な体験を二度と経験することはできない。こんなのはもう人権問題です。子どもの人権を守る、ということはどういうことか、社会全体で考えるべきだと思います。
 どうしようもない理由があって、それが母親の苦渋の決断であったり、しゃべれない、主張できないその子の悲しみを誰かが想像し、魂に寄り添うように一緒に悲しむ心がまわりにあれば、たぶんそうしたっていいのでしょう。しかし、ただ浅はかな町長の「福祉」はいいことなんだ、という単純な認識が原因になって行
われるのであれば、子どもの思いや願いを想像できない人間たちの判断の積み重ねが、やがて人類を滅ぼすのかもしれない。滅ぼさないまでも、家庭という定義を失って犯罪や虐待に苦しむ欧米のようになってしまう。

 私は講演で「福祉が進めば必ず家庭は崩壊し、幼児虐待と女性虐待が爆発的に増える。それは欧米の数字を見ればあきらかだ」と言います。福祉がそれほど危険なものであることは、北欧では周知の事実で日本語に訳された本も15年前くらいから出ています。
 民主主義の危険なところは、感性と理性のととのった人間が必ずしもリーダーにならないということ。最近の政界のバトルを見ていると、程度に差こそあれ、パワーゲームに明け暮れて感性と理性のバランスを失っている人が多い。これが終わって落ち着いた時に、何か変化があれば良いのですが。

いじめとバンジージャンプの意味

 いじめについて、講演で話して下さい、と言われます。一月にも小学校のPTAで話します。

 いまこの国で、いじめに会った子どもの悲しさは、ひょっとすると親子の絆が強く存在する状況での戦時体験よりも、深く大きいのだと思います。子どもたちにとって毎日がすべてで、貴重な人生体験です。自分の小学生時代を思い出しても、大人の一日とは質量が違うのだと感じます。ですからやがてこの子たちが30年40年この国を支えてゆくのだと思うと、これはいま一番重要な問題と言ってもいい。そこから現在のすべてが見えてくるし、解決方法が経済競争やシステムにコントロールされつつある人間社会を救う道でもあるのです。

 いじめをあってはならない、と見ては意味がありません。子どもがこういう良くない行動をする時は、取り囲む環境、だいたいは大人の社会(人間関係)に問題があって、それを治そうとしている、警告を発しているのだと考えるべきです。子どもはいつも誰かを育てようとしている。そして、育つことで誰かたちの心を一つにしようとしている。そう考えなければいじめが存在する意味がありません。
 風邪をひくと熱が出る。熱をたた下げるだけでは風邪は治らないですし、熱が出るから風邪がわかる。

 なぜバンジージャンプを人間はするのか。なぜ、エベレストに登ろうとしたのか。なぜ、0才児に話しかけるのか。自分を発見し、体験し、絆をつくるためでしょう。
 いじめは社会の一部であると同時に、ひとり一人の人間の一部、そして人間の命は社会全体としても命、と考えなければなりません。社会全体に欠けてきていることが何かを考えれば、そこに解決策があるのに、大人たちは、誰かのせいにしようとする。子どもたちを叱っていじめがなくなるわけではありません。教師を責めてなくなるのでもない。教育委員会を批判するなど馬鹿げている。教育委員会や教師たちの隠蔽体質と言いますが、親と教師の間に信頼関係がないからそういう体質が生まれるのであって、信頼と絆をつくろうとせずに体質を責めても本末転倒、意味はない。ますます信頼関係が希薄になるだけです。

 「誰かの責任にしようとしている」これが、子どもたちからの警告の中身なのでしょう。

わかちあうこと
http://www.youtube.com/watch?v=SUaQXFUp1_M&feature=youtu.be

シャクティ震災日の丸.JPG

 先週行った講演会で講演後、ひとりの保育士さんが、「みんなでシャクティのドキュメンタリーを見ていたら、字幕もわからないのに、年中の子どもたちが来て、最後まで集中して一緒に見たんです。びっくりしました」と報告してくれました。
 嬉しいです。人間がやはり、あの風景の中には未来や過去とつながる何かがあるのだと思います。その風景を見て、子どもたちは育ってきたのだと思います。言葉や文字がわからなくても、感性はいつも働いている。育っています。だからこそ、大人たちは、子どもたちと、たとえそれが乳幼児であっても、時空を共有しているんだということを忘れてはいけません。聴いていないようで、聴いている。見ていないようで、見ている。感じている。

偽メールにご注意ください。

 私の名前で、英文の偽メールがフィリピンから出されました。

 私は、元気で日本にいます。
 ご迷惑、ご心配をおかけして申し訳ありません。
 

いじめをなくすために。(大人たちが絆と信頼関係をつくる)

 子どもたちと親たち、そして教師たち(保育者たち)と親たち、ともに育てあい育ちあう関係にあるひとたちが今の仕組みの中で、三すくみの状況になっていることを前回のブログに書きました。どのように不安を表現していいかわからない子どもたちが、警告として発信しているのが「いじめ」という現象のように思います。
 いじめる側の心の問題、じめられる側を支えなければならないひとたちの絆の問題、様々に存在して一概にこれが原因と断ずることの出来ない、人間たちのあまり良くない人間関係の複雑な状況と社会を覆う空気が、「いじめ」という形になって出て来ているでしょう。
 「いじめ」をなくすにはどうしたらいいのですか、という質問をされ私も考え込んでしまうのですが、私が知っている今の「問題のある仕組み」の中で、こういう方向へ進んで行けばなくなっていくのではないか、ということを今日、いま三つ書くと、
 子どもたちが、その子の小さい頃を知っているひとたちの目線に見守られて育ってゆくこと。(本質は善ですから、良い自分を知っているひとたちの前では、そうであろうとする。)

 父親たちが、自分の子だけではなく、ほかの子たちにも責任があると感じる。(これは、部族の男たちの「生き甲斐」でもありますから、遺伝子のなかに組み込まれていることで、オンにしてやればいいだけのこと。父親の一日保育者体験をすべての園でやれば出来ます。)
 母親たちが、我が子の命に感謝するひとたちを意識的に増やしてゆく。(身近な、一番自然なスタートは、子どもが幼児期に祖父母心を育てることができる機会をなるべくつくる。意外と、こういうことが人間社会の魂のインフラになっているようです。母親の心の中で繰り返される「この子をよろしくお願いします」という言葉が共鳴しあって、宇宙の一部としての人間社会があるようです。)
 

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子どもは騒音? 

 東京版の新聞に、「騒音」に苦情 悩む保育園(ペアガラス「開かずの窓」・園庭使用制限)という記事がありました。
 保育園に対する騒音などの苦情が多く、待機児童をなくすために園を新設しようとしてもなかなかできない、という区長の嘆きが反響を呼んでいるというのです。
 まわりに畑でもあれば良いのでしょうが、密集して家が建っている地区では、毎日子どもたちの声を聴いているのもたしかに苦痛かもしれません。原点に還って考えてみれば、幼児をこれほどたくさん一カ所に集めることが、すでに相当不自然です。しかし、幼稚園・保育園は以前からありました。そして、保育関係者から話を聴くと、いまほど幼稚園・保育園が迷惑がられる時代はかつてないのです。運動会を開くにもびくびくし、園庭で焼き芋でも焼こうものなら、いきなり消防署に通報されてしまう、そんな話を現場で聴くのです。
 現代社会、というかなり不自然に造られた現実を踏まえたうえで、あえて別の視点で私は言いたいのです。
 幼児を保育園で一日平均十時間、年に260日も「人類」から隔離していれば、神様たちが「騒音」に聴こえるようになったからと言ってもしょうがないのではないか.子どもと接する機会が、すべての年齢で激減していることが現代社会の人間関係を荒々しくしている。
 人間性を育て、忍耐力を社会に授け、過去と未来をつなげる役割を担っている小さな弱者たちに、その持って生まれた大切な役割を果たさせないように国が動いていれば、人間たちの耳に幼児たちの声が「騒音」と聴こえるようになってもしかたない。
 しかし、ペアガラスを使って防音し、それを「開かずの窓」にし、日々の園庭使用制限をして幼児を閉じ込めても、根本的な問題解決にはならないと思うのです。こういう方向へ解決しようとすること自体が、なお一層そういう方向へ社会を進めることになります。幼児はそのうちその存在意義を忘れられ、「金庫」にしまわれてしまうんではないか、と心配になります。
 (アメリカで、母子家庭に任せておくと犯罪者が増えるから孤児院で子どもを育てよう、という法案が14年前に提出されたことを思い出します。「タレント・フェアクロス法案」。この法案に「24時間開所の保育所と考えればいいんだ」と発言し賛成していたのが当時の下院議長、今年の大統領選に共和党から立とうとしたギングリッジ氏です。ロムニーさんで決まった時は、正直言ってホッとしました。)
 人間たちの間をしょっちゅう幼児たちがすり抜けて、大人たちが、「頼りきって、信じきって、幸せそうな人たち」を日常的に眺めながら、「自分はいつでも幸せになれる」「自立を目指すなんて馬鹿げている」「信じあうことがいい」と実感して暮らしていれば、たぶん、幼児を隔離し閉じ込めなくてもいいのです。どこかで孫も迷惑をかけているかもしれない、ひょっとして自分も三歳の時には……、そんな想像力が人間社会には必要です。何万年も人類は幼児と居て大丈夫だったのです。
 この特殊な「騒音」が、騒音に聴こえなくなるような方向へ社会づくりをする。それが人間性を先進国社会に取り戻す道です。しかし実際は、幼児がイライラの原因になるような仕組みを作って、ますます子どもが騒音になるような施策を進めている。
 「待機児童をなくせ」という声が、0、1、2才の幼児たちにどういう風に聴こえているか、想像してみるといいのです。小学校の授業で、子どもたちに尋ねてみるといいのです。
 そういう想像力がいつか平和な世界をつくるのでしょう。
 
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犬にはちゃんと法律ができたのに/詩の力

「生後56日までの子犬子猫、販売引き渡し禁止へ」

 ペット店での幼い子犬や子猫の販売を規制する動物愛護法の改正を巡り、民主党は22日、生後56日(8週)まで販売目的の引き渡しを禁止する方針を固めた。

 自民党や公明党などとともに改正案を提出し、今国会での成立を目指す。

 ただし、ペット店に対する移行措置として、施行後3年間は規制を生後45日までに緩和する。その後も子犬や子猫を親から引き離すことについての悪影響が科学的に明確になるまでは、規制を生後49日までとする。

 環境省によると、ペット店では年々、幼い犬や猫を販売する傾向が強まっており、動物愛護団体は「親から離す時期が早すぎると、かみ癖やほえ癖がつく」として規制強化を求めていた。

(読売新聞 2012年8月23日

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 寿命が人間より短い犬にとっての56日は、人間にしてみれば一年くらいになるのかもしれない。生まれて56日目の子犬は、もうちょこちょこ歩いていますから、ひょっとすると人間の2才くらいかもしれません。

 人間の幼児にもしっかりこういう法律を作ってほしい。同じ哺乳類ですから。母子の愛着関係に関しては、三歳くらいまでは配慮する、と法律で決めてもおかしくないはず。

 霊長類の親子の愛着関係はとてもデリケートで繊細なも、とチンパンジーの研究で知られるジェーン・グッデルも言っています。成長過程や生活習慣におけるちょっとしたバランスが崩れることによって、霊長類の暴力的行為、子ども虐待が、始まることがあるのです。ジェーンの場合、それは「餌付け」でした。観察をしやすくするために、野生のチンパンジーに餌付けをしたことで、ジェーンの研究した群れにだけ、小猿殺しや共食いが始まった可能性が強いのです。平等に餌をもらうこと、競争を無くすことによって、その遺伝子が何十万年に渡って育まれて来た「条件」が変わる。そして、それが突然いままで起きていなかった、種(群れ)の存続に関わるような負の行為に発展するのです。


 もちろん簡単に比較するわけにはいかないのですが、国会で論議されたように、子犬に、親から早く引き離すことにによって「かみ癖やほえ癖」がつくのなら、75%の遺伝子を共有する人間にも似たような可能性があるかもしれない、そう考えるのは的を外していないと思います。最近、日本の保育園で、以前はなかった一歳児の噛みつきが不自然に増えている問題、そして、ほえ癖とは言いませんが、ひょっとして人間でいうところの「いじめ癖」が将来顕著になるのも、早くから親子を長時間離し過ぎるのがその一因かもしれない。

 一歳で噛みつく子に、一人の保育士が一日10時間一週間、一対一つきっきりで保育すれば噛みつかなくなる。その時に対応しないと、4才、5才になってからでは遅い、と言われる園長先生もおられます。保育施設の普及から来る親子の愛着関係の不足は、やがて子どもたちが必ず入ってゆく学校教育を成り立たせなくするような気がしてなりません。

 最近、学校の先生やPTAの役員のひとたちに講演したのですが、いじめの質、ということではここ五年くらいちょっと尋常ではないような気がすると、何人もの方が言われます。私も実際にいじめる子たちの顔つきを見て、異様さを感じることがあります。特別暴力的になっているというよりも、子どもたちの表情に、冷たさを感じるのです。


 子犬に関する法律が現場の意見を反映し、与野党一致で法律として通り、なぜ人間の乳幼児の親との愛着関係を守る法律は提出されないのか。人間が豊かさという環境の変化の中で、本能(人間性)を忘れ、選挙とか民主主義、法律という、部族を超えたパワーゲームと経済活動が生んだ人工的なルールに判断を委ねようとしているのではないか。


(民主主義は、親が親らしい、人間が人間らしいという前提のもとにつくられています。同時に選挙権が成人(親)にしかない、という重大な欠陥を持っています。しゃべれない乳幼児が何を望んでいるか、願っているかイメージする想像力が欠けてくると、この制度はいまのままでは、人類の存在を揺るがすような負の連鎖、絆の崩壊に導きます。)

 人間は、時々、動物や植物や大自然をよく観察し、自分たちの進化してゆく方向性を大自然の一部として考え、起こっている不自然な出来事を注意して見極めないと、結局自分で自分の首を絞めるようなことになってゆく気がします。

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 この報道を読んだ時、ふとインドの野良犬たちのことを思いだしました。インドでは、都会でも田舎でも、「飼い犬」はあまり見かけません。たぶん、犬を売り買いするひとたちは、人口の1%もいないかもしれない。

 犬たちは人間社会と古い自然界の中間あたりをうろうろし、昼間は暑さと闘わずにぐったりと寝そべっている。そして、ときどき身の回りに昔からある人間社会と必要に応じて交流する。夜になると野生の血が騒ぐのか、元気に走り回ったり縄張り争いをしたりして、満月の晩などは遠吠えをしたりします。ふと思ったのです。この犬たちが今度日本の国会で審議され。通るであろう法律のことを知ったらなんと吠えるだろうか。ありがとう、と言うのか。

 親犬の気持ちはどうなるんだ、と言われたら人類は応えようがない。

 そのあたりまで想像力を働かせないとはっきり見えてこないではないか、と「動物会議」という児童書で主張したのは詩人で思想家のケストナーでした。

 こちらからも必要に応じて私たちの母体である自然界の法則とは交流し続けなければいけません。



 (国会で0増5減、定数削減、そんな些細な問題で大騒ぎするより、子犬の将来を心配してつくった法律を、人間の子どもにも適用するような法律をつくることの方がはるかに重要だということを、この国の政治家やマスコミはいつ理解するのでしょうか。)


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こんにちは。


今日、さいたま市在住の子育て中のお母さんから、メールが届きました。

子育てジャーナル(埼玉県私立幼稚園連合会が11万家庭に配っている機関誌)で、松居さんが書いて下さった私の詩を読み、泣いてしまったという内容でした。

第三者から見ればほほえましいような、でも当人にはとてもつらいのだろうと思える悩みがせつせつと綴られていました。

そして、最後は、メールを書いてすっきりしました、としめくくっていました。

私はこういうお母さんに詩を読んでほしかったんだ、ととても嬉しくなりました。

松居さんがあちこちで私の詩を広めてくださり、私のやりたかったことが実現できて本当にありがたいです。

ありがとうございます。

メールを送ってくれたお母さんは、同じようなお母さんにこの詩を広めたいと仰って下さいました。



                                        小野 省子


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小野さんの詩二つ



自分のために

 

トイレのドアをたたく

よちよち歩きの小さな手

「ままーままーままー。どこーどこー?」

 

一分間だけ・・・ 耳をふさいだために

今日一日が・・・ 罪悪感で埋まる

 

ああ 不満や不安はこぼれ落ちて

手の平には 喜びだけが残りますように

涙やため息は結晶となって

胸の中で メダルのように輝きますように

 

子供のためだけに過ごした

今日一日の最後に

私は 自分のためだけにお祈りをした

 


姉弟

 

「幼稚園でもらっためずらしいおやつ、

こうちゃんにもあげたかったの」

お姉ちゃんがそっと小さな手を広げると

にぎりしめたワタアメが

カチカチにかたまっていた

 

「ひかりちゃんがいないと、つまんないわけじゃないよ

ただ、さびしいだけ」

私と二人だけの部屋で

弟は たどたどしくうったえた

 

人間は

かたわらにいる人を 愛さずにはいられない

幼い子供から それを教わる

 

 小野省子HPhttp://www.h4.dion.ne.jp/~shoko_o/newpage8.htm

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 子どものためだけに過ごした一日。信じきってもらい、頼りきってもらい、最後に祈る一日は、私たちの魂を清めるのかもしれない。


「親心を育む会」著で、「一日保育士体験のすすめ」(大修館書店)が出ました。

 「親心を育む会」のメンバー共著で、「一日保育士体験のすすめ」が大修館書店から出版されました。

 園長、主任、保育士、保育の現場からの子どもたちの心を代弁したメッセージです。(親に向けて、保育士に向けて、社会に向けて)
 いま政局が混乱混迷するなか、日本全体が淋しさと焦りの中で絆を探して迷走しているように思えます。
 わからないから闘う、そんな方向でどんどん社会が動いて行きます。たしかに「闘い」は心を一つにする作用があります。
 しかしそれでは日本人ぽくない。子育てが、まわりに相談相手をつくろうとする力(force)の中心にあったことを思い出し、大人たちの一緒に幼児を眺める目線がこの国に信頼関係と絆を育てて来たことをもう一度確認し、子育ての現場から一歩一歩、子どもたちの願いを第一に感じ、進めてゆくしかありません。

高校の家庭科の先生たちに講演しました。

高等学校の家庭科の先生たちに講演しました。インドの村人の生活の中に、「わかちあう」という家庭の原点を見ます、というお話しをしたところ、シャクティのDVDを授業で使ってみたいとメールをいただきました。

(私の返信)

ありがとうございます。

http://kazumatsui.com/sakthi.html

ここに、解説が載っています。

 私がこの作品で日本の高校生に伝えたいことは、だれが幸せそうか、だれが美しいか、それを理性ではなく感性で見極めてほしいのです。聴き分けてほしいのです。そんなに難しいことではないのです。なるべく体験に基づかない情報や既成概念に捕われないようにして、自分の感性を自然に開き解放し、そして判断する。次に、なぜ幸せなのか、どうすればいいのか、など自分自身の理性を使って考えてほしい。そうしているうちに、幸せと美しさが必ずしも一致するわけではないこと。幸せと楽しさ、幸せと豊かさが一致するものでないこと、を思い出してほしいのです。幼児期を過ごした彼らはもうすでに知っているはず。もう知っているということを思い出させてあげて下さい。

 宮沢賢治、新美南吉、ローラ・インガルス・ワイルダーなどを読むといいのですが、ワイルダーの「長い冬」「はじめの四年間」などを読んで、家庭について絆について、ゆっくり考え、話し合うといいのです。

 高校生でも、いい本を読み聴かせてあげるとずいぶん落ち着いてきます。耳を傾ける、という姿勢は社会に静けさを取り戻すのに一番いいのです。

 そうやって、いい本の読み聞かせをしてあげたり、文章を書かせたり、幼児との体験を積み重ねたり、じっくり家庭科をやるには、週に4時間くらい必要ですね。

 でも、それをやれば経済力を含めて日本をもう一度いい国に立て直すことは難しいことではないのですけれどね。

 ひょっとすると、一番役に立つ、この国を救うかもしれない学科の時間が減らされてゆくのですから、悲しくなりますね。

 いつになったら、気づくのでしょうね。

 大切なことは、静けさの中で育つ、ということ。

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http://www.youtube.com/watch?v=_uUnaHuViqk&feature=youtu.be

 ここをクリックすると、シスターの新しい試み、第一回シャクティセンター・サマーキャンプに向かう子どもたちの映像が見えます。

 ダリットの少女たちは、学校に行かせてもらえない場合が多いのです。労働力という側面も確かにありますが、それよりも母親たちが娘を守ろうとする意識の方が強い。学校の中での差別、そして行き帰りの道など、安全ではない、ということも大きな理由です。娘たちに何かあっても泣き寝入りするしかないのです。

 サマーキャンプに向かう子どもたちの姿には、「こういう子どもたちに教えることが出来たらきっと毎日が幸せだろうな」と思わせる、学校の原点があります。「教えること」で先生たちが幸せを感じる。「教える側の幸福感」を基盤に、本来、伝承は成り立っていくのです。教える側の動機がなければ始まらない。教えることがある、のを知っているのは教える側だからです。

 そして、子どもたちが、教え手を育てる、それが親子関係の本質です。シャクティセンターに向かう子たちのように、明るく、潔く、堂々とした表情が、そして草原を並んで歩く風景が、学校に命を吹き込むのです。この子たちは、貧しいけれど、とても「育ちがいい」感じがします。見事です。親心に育まれた、安心した表情です。まわりにその子の命に感謝し、その子に幸せにしてもらっている人間が数人いれば、そして常にその視点に見守られていれば、必ず子どもはこんな感じに育ちます。育て方ではないのです。育ち方、環境です。一組の親だけでつくりだせる環境ではない。子どもを見つめる目線が、感謝と憧れの目線だといいのです。

 そして、シャクティセンターの先生たちはシャクティの踊り手たち。十代後半の、教職の免状もなければ教え方を教わった娘たちでもありません。でも、任せられるのです。村の生活の中で、特に娘たちの間に,いつの間にか「教え、教えられる関係」が育っている。

 そして、たった8日間のサマーキャンプから生まれる「美」。それは技術を習ったのでもなく、情報を勉強したのでもなく、「意識」を身につけたのだと思います。家族、村、そしてシャクティセンターを包み込む人間たちの「信頼関係」が、たった8日間のサマーキャンプに、「真の学校」を映し出すのだと思います。

 不思議なのは、シャクティセンターのサマーキャンプは、読み書きや人権の真ん中に「踊ること」があるのです。教えることの中心に「和」があるのです。日本の学校も、一日1時間は必ずみんなで輪になって踊る。そんな方向に、遺伝子から湧き出るような教育改革が出来たら、きっと日本は、以前のように絆で結ばれた美しい社会に戻るのだと思います。決して不可能なことではない。そういう視点を取り戻せないほどに、感性が鈍ってしまっているだけです。人間がシステムを作っているうちに、いつの間にか、システムが人間を作るようになってしまったのです。

 







省子さんの詩/理科の点数/自立

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 茅野市で、小児科や産婦人科の医院で小野省子さんの詩集「おかあさんどこ」を置いてくれることになりました。(http://kazumatsui.com/genkou.html:原稿集のページからダウンロード出来ます。)
 これは、市役所で作ってくれたフォルダーの写真です。母親が訪れそうな場所に小野さんの詩集を置く試みは所沢市でも始まっています。こつこつと、ことことと、意識が一つになってゆくといいのですが。
 子どもが意識の中にいると、人間たちが育つ。絆が育つ。
 詩集から二つ、解説してみます。

つながりのあるだれか(東日本大震災)

 

避難所をうつすテレビの画面に向かって

五歳の息子は叫んだのだ

母親にしがみつく 小さな男の子を指さして

「あれはぼくのお友達だよ!」

「違うよ。よく似ているけれど違う子だよ」

なだめる私に首をふり

以前公園で遊んだ、名前を知らないお友達だと

何度も悲しげに繰り返すのだった

「あれは僕のお友達だよ!

 あれは僕のお友達だよ!」

繰り返しひびく息子の声が

私の心を小刻みにゆらす

 

そうかもしれない そうなのかもしれない、と

いつのまにかつぶやきながら

私は、まばたきもせずに

唇をかんだ

 

(解説:真実というものの領域が広ければ人間の思考能力、想像力、許容する力が育っていきます。母親が、事実や現実を離れた「真実」を子どもとの会話の中でひろげてゆく。こういう領域が子どもを中心に文化として存在した。それが昔話やおとぎ話、ピーターパンの中に見えるのです。「真実」を未来にとって必要なものにしていた。

 こういう非論理的な理解力を体験する瞬間に育ってゆく人間の能力を、「子育て」の中に見ようとしないから、思考する力、想像する力、許容する力が減少してゆくのです。それを学校教育の責任にしているのですから、教育を取り巻く者たちは、人間が育つことの意味を理解していないように思えます。理科教育や応用力は、一才児が「噛みつく」という表現方法で主張をしはじめた時に、すでに衰え始めているのです。)

 

一人でできることが

 

「一人じゃなんにもできないくせに!」

そうののしった私を

幼いあなたは

決して忘れはしないでしょう

 

そして未来のあなたは私のことを

「一人じゃなんにもできない人だったのだ」と

そう思い出すでしょう

 

そうです

子供にそんなことを言う大人は

一人じゃなんにもできない人です

お母さんはそういう人でした

だけど あなたのおかげで

一人でできることが

一つずつ 一つずつ ふえていったよ


(解説:子育ての目的は、人間が一人では生きられないことを、双方向に、幸福感を持って自覚すること。自立なんていう言葉が、目標のように語られるようになったのも、幼稚園・保育園・学校という最近の仕組みが、子育てを人類から奪ったことにあるのでしょう。自立を目指せば、孤立し、絆は生まれない。自己責任は多くの場合自己嫌悪につながります。自己嫌悪が人間には致命的なのです。)