「村人が通るだけで」・「訴訟と保険で崩壊してゆく福祉社会」・『先進国社会で「子育て」を奪われた人間たちが孤立している』・嬉しいメール「子育ては自由だから」

2016年4月

 

「村人が通るだけで」

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更生施設の所長が懇親会で話してくれました。以前、学校が荒れ、校内暴力が蔓延していたころ、まったく荒れていない中学校があったそうです。その中学校は、村人の通り道になっていて、日常的に村人が校内を通り抜けていたのです。それだけのことで、校内暴力がまったくない学校が維持されていた。

こういう実話や、そこから何かを感じた人たちの伝聞に先進国社会の子育てに関わる様々な問題の解決策がそっと埋まっています。人間が一見無意識に作り出す風景の中から、何かを学び、美しさ感じ取っていれば、そうそう間違わない。伝達メディアの発達とコミュニケーションツールの進歩で、「風景が人間を育てる機会」が減ってしまったのだと思います。

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 人間は、日々の風景、特に「調和」を感じる風景によって、その感性を身につける。
 そして、「育つ」ということは「安心する」ということだった、と気づくのだと思う。
 
 日々の風景が環境となって、人間の心に何かをコツコツと刻み込む。安心の仕掛け、遺伝子の働き、それらが、人々が作り出す風景として現れ、脳裏に刻まれ、人間は本来の自分をより深く体験する。その内側を知る体験が幸福だったから、人類はここまで来たのだと思うのです。
 
 一人の良くない保育士の、手のかかる子に対する扱いが保育室の風景になることを忘れてはならないのです。それを見て、心を痛め辞めてゆく保育士の陰に、その風景を毎日見続ける幼児たちがいることを決して忘れてはいけない。それが保育という仕組みの恐いところだと思ってほしい。

 

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政府が施策として、三歳未満児をあと40万人保育園に預けることを「女性が輝く」「一億総活躍」と言って奨励するのであれば、その子育てを代行する保育士たちが「子どもに親身なる権利」は絶対に守られなければいけなかった。しかし、そこが「保育は成長産業」という閣議決定で崩れていく。日々子育てをしている保育士が輝く権利、活躍する権利が、親たちの「預ける権利」によって奪われようとしている。

子育てをしている人たちが輝かなければ、子育てはその本質を失う。親身になることで輝く人たちが、この国を支えてきた伝統文化そのものだった。

保育士が子どものために親に苦言を呈することが出来る権利、権利というより空気、または常識、人が生きる術といってもいい、それだけは守らなければいけなかった。

それがあったから、保育はかろうじて、ぎりぎり「家庭」の役割を代行することができた。「保育はサービス」という言葉でそれが消えてゆく。

「親身になる権利」と「預ける権利」は存在する次元が違うのです。「遺伝子の法則」と「近頃、人間が作った法律」ほどの違いがある。「宇宙の法則」と「個人情報保護法」くらい深さが違う。混同してはいけない。ぶつかりようがないのだから。「利権(りけん)」になりやすいほうが偽物。いま、そっちが優先されている。

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人間にとって、国にとって、子どもたちの幼児期の過ごし方がどれほど大切なことか理解していないいくつかの閣議決定が、三歳未満児を保育園で預かることを雇用労働施策として掲げるから、そして県の説明会で「財源はあるのですか?」という園長の質問に厚労省が「努力しています」としか答えられないから、市町村の保育課長たちと現場の保育士たちの溝がますます広がってゆくのです。

二年前、「人材はどうするのですか?」という質問に、「掘り起こせばいいのです」と大臣が答え、「70万人潜在保育士がいるのです」と社会学者が言った。ところが実際に県や都が主催しても、「掘り起こし大会」にはパラパラとしか潜在保育士はやって来ない。人材を探す保育園の数の方が多いくらいの不可思議な光景だった。その光景が、今の国の施策を暗示している。国も専門家も現実を知らない。

潜在保育士の多くは専門学校や大学で保育実習を体験し、資格を取ったとしても自分には無理、と自らを埋めてくれた人たち。「掘り起こさないでほしい。できることなら、一生埋めといてほしい」と現場が願っている人たちです。保育は資格さえあれば誰にでもできる仕事ではない。そういう実態を国や学者はわかっていない。保育士不足で、仕方なく「三年前、やっと埋めた保育士を掘り起こさなければならない」という市役所の保育課長さんの嘆きを理解できる人が、施策を考える人たちの中にいない。いまの保育崩壊は学者や政治家の勉強不足の結果だと思う。

(資格者を募集すれば倍率が出る、正規、地方公務員として面接し雇っても、ハズレが出る場合はあるのです。この場合「埋める」ということは、現場から外す、少なくとも幼児と接する仕事から異動させる、ということ。)

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「訴訟と保険で崩壊してゆく福祉社会」

 制度を市場原理化すると、保険料と訴訟がその仕組みの危険度のバロメーターになる。危ない事業には保険会社が手を出さない。渋々手を出しても、補償の額を極端に下げるか、保険料を極端に上げてくる。

 日本経済新聞に以前「小規模保育」に関して記事が載っていました。この記事は、小規模保育も保険に入れるから大丈夫、と言っているように見えたのですが、支払われる補償額の低さと、日本も訴訟社会になり補償が長く続いてゆくことを考えると、危うい感じがしたのです。

 

 アメリカの大都市で保険料が払えなくなって産婦人科医が次々と撤退していった頃のことを憶い出します。30年くらい前のこと。訴訟大国で訴訟対象になりやすい職種が保険会社のリスク算定によって採算がとれなくなってくるのです。

 「子育ての社会化」に関わる仕組みが、市場原理で広まり、やがて「保険」という別次元の市場原理によって排斥され淘汰されてゆく。これは信頼関係がまだ土台にある日本という国が未体験の、弱者切り捨ての市場原理です。いま政府が保育園で預かる子どもの数を雇用施策の一環として増やしても、数年後、その仕組みの質が保てなくなり、保険制度という市場原理の中で存続出来なくなってきた時に、「家庭」という、何十万年にもわたって培ったきた遺伝子に適う仕組みを取り戻すのは非常に難しくなっている。

 規制緩和を進める政府は、遺伝子に沿っていた常識や伝統を一気に壊そうとしているのだ、ということを理解していないのではないか。

 経済論が幸福論の主体になりうるのであれば、いままで主だった宗教の言っていたことは何だったのか、と思います。(来日したムヒカ元大統領も言っていましたが)幼児を産み育てることは、自由を失うことに幸せを感じる、利他の心持ちでモラルと秩序を保つ、人間社会に必須の自己発見の道筋ではなかったのか。

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先進国社会で、「子育て」を奪われた人間たちが孤立しています。

 奪われたというより、子育ての意味を伝承されないまま自ら放棄した、という方が正しいのかも知れません。ほとんどの場合、そこに別の選択肢はあったのですから。

 孤独ほど人間たちにとって辛いものはありません。人間は一人では生きていけない。一人では生きていけないことを自覚することに「幸せ」を見いだすように出来ている。幼児を眺めることで自然にそれを学んできたのだと思うのです。

 いま、日本で一人きり家庭が三割になるという。若者も老人も、いる。一人で生きていけることは、人類未体験の「豊かさ」の弊害なのです。保育の問題と同じで、実現が可能になることで「心」の問題が後回しになった。

 若者も老人も、政府の三歳未満児を保育所でもう40万人預かれという意図に現れる経済論と、子どもたちを集団にして長時間家庭から離す仕掛けによって、集まる意味、絆の中心を失い、ますます孤独になってゆくのが見えるのです。(福祉が進んだと言われた北欧の老人たちのインタビューを見たことがありますが、老後、弱者になった時の孤立感は苦しい。)寂しさの中で生きようとするもがきが犯罪の低年齢化や自死につながる。

 子どもたち、特に男の子たちの弱さ、いじめや不登校も、社会から分かち合うこと、集うことが欠如していることから生まれる現象だと思います。これ以上人間たちから「子育て」を奪わないでほしい。しゃべれない乳幼児を眺めていないと、人間たちは想像力を失ってゆくのです。乳幼児を育てるということは、日々、言葉では教えてくれない人たちから、「理解しようとすること」の重要性を学ぶこと。「理解すること」ではなく、「理解しようとすること」が人間を調和に導いた。乳児との会話は、想像力の中で、自分を体験することだった。

 

 「社会で子育て」と言いながら、社会の原点である家庭を壊してゆく人たちの意図がわからない。しかもそれで経済が上向くと思っているのだとしたら、人間の本質を理解しない、浅い経済論でしかない。孤立すると人間は必死に生きてゆくために、最後の力を振り絞って競争する。それはわかりまます。(アダムスミスが言った資本主義社会のエネルギー。不安と不満。)しかし、それは同時に男女という社会の最小単位が信頼関係を失うことでもある。(欧米先進国では、すでに3割から6割の子どもが未婚の母から生まれている。)家庭が吸引力を失い分裂すれば、一つでよかった炊飯器が二つに、冷蔵庫も二つに、冷暖房も二つになり、しばらく企業は儲かるかもしれませんが、地球温暖化や異常気象も、家庭崩壊が大きな原因になっている。

 助け合う絆がないと、すべての人間の持つそれぞれの欠陥、それぞれの発達障害と呼んでもいい、パズルを組むために必要な不完全さに、自分1人では対応できなくなって、自己責任に耐えられなくなった人間たちは精神的なバランスを失ってゆく。

 

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ママ、あんなところに行きたくない!?子どもを蝕む「ブラック保育所」急増の裏側

ジャーナリスト・小林美希「ルポ保育崩壊」の著者

http://diamond.jp/articles/-/74296?page=5

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「嬉しいメール」

(障害者の施設で働くのが好きで、そこで子供たちとかけがえのない時間を過ごして、でも、繰り返される指示語の風景に耐えられなくなってある日辞めていった、感性豊かな女性からメールが来ました。いまは結婚して子どもがいます。「子育ては自由だから」という言葉に、彼女が手に入れた広い世界を感じます。)

こんにちは!
春ですね!お元気ですか?
息子は8カ月になり、人間みたいになってきました。かわいいです。
子育ては祈りの連続なんですね。そして私は親からのたくさんの祈りで大きくなってきたたんだなぁとしみじみしています。
施設で働いていたときみたいに、子育てでいろいろな景色をみています。働くといろんな制約やきまりがあるけど、子育ては自由だから楽しいですね(笑)
寝不足だけどがんばります。
かずさんも講演がんばってください。

「小学校には待機児童がいないでしょ」・政府の緊急対策・保育士不足がどのように保育の質を低下させるか、公立と私立ではずいぶん違う・地域限定保育士制度・介護業の倒産過去最悪という記事

「小学校には待機児童がいないでしょ」

「保育園落ちた日本死ね」ブログ以来テレビのニュースやワイドショーでも関連した報道が続きます。新聞報道の方は、それなりに核心に近づいていますが、テレビはその内容が、まだまだ表面的で雑な感じがします。保育の専門家みたいな人が先日も待機児童問題で、「小学校には待機児童がいないでしょ。お金さえかければ保育でも出来ること」と言っていて、唖然としました。

ふむふむ、そうだそうだ、税金を払っているのにお金をかけない政府がいけないんだ、と思ってしまう人が居てもおかしくない。

誰かが「小学校は11時間預からないでしょう」とか、「6歳でも当初は半日です」「学童は待機児童いる」、「三歳未満児と小学生は違うでしょう」。

「喋れない乳幼児だから余計に気をつけて、大切にしなければいけない」

「0、1歳児は抱っこでしょう」と言えば、ほとんどの人が、「それはそうだ」と再び頷くコメントを言う人もいない、テレビ局はそういう当たり前の意見を放送しない。テレビ局が、幼児を保育園に入れることはいいことだ、と大雑把に決めている感じがする。小学校に待機児童はいない、なんていう馬鹿げたコメントをニュースでは放送しない、という判断さえできない。

もっと進んで、「5歳までの家庭での愛着関係が精神的安定の土台として育っていなければ、そもそも学校教育がなりたたないでしょう」という発言が、ほんのちょっとした本当の専門家、学校の先生でも保育士でもいいですが、合わせて放送されれば、今の保育施策や政府の方針が、保育が、同時に「子育て」でもあること、本来1歳児6人に育てる人1人では無理なことを知らない「専門家」たちの意見で進められていることが理解されるはずです。

待機児童対策においてサービス産業化が、すべての鍵、という学者がまだいるのです。これだけ保育士不足が進んでも、保育は双方向に心の成長の問題なのだ、と理解しない。

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社会福祉法人の役割(1人の若手園長からこんなメールが着ました。安易に社会福祉法人を待機児対策が進まない原因と批判する経済学者に対する、保育者としての憤りがそこにあります。)
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最近のメディアの状況・・・

まだ時が来ませんね。

わかりもしないで、ここまで書けるってすごいなと感心します。

http://diamond.jp/articles/-/89044

ダイアモンド社

こちらもTV出るので有名ですが、知ったかぶりですね。

http://diamond.jp/articles/-/88846

同じくダイアモンド社

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 この園長先生が指摘したいのは、自分たちの保育に対する思いは、こんな風に単純に批判されるものではない、ということ。

私も30年間、全国の保育園で多くの園長先生たちに出会った経験から、色々問題のある社会福祉法人もたしかにありますが、全体的に、その通りだと思うのです。

「小学校には待機児童がいないでしょ」とテレビで言っていた人もそうですが、補助を増やして、たくさんの子どもを預かれば、もっと産業として成長出来る。その妨げになっているのが社会福祉法人で、それを「既得権益にしてしがみついている人たちがいる。」「今までの社会福祉法人中心の保育の仕組み変えることが、待機児童対策だ」と見ている。しかし、この既得権益は、一部を除いては権益の拡大が押さえられている、いわば「欲」が抑制されている既得権益であって、その抑制が、保育の質を保つ大切な要素だった。簡単に言えば、親をしかれる、場合によっては強くアドバイス出来る仕組み、親へのサービスより、子どものことを優先する場面がしばしば起こりうる仕組みだったのです。人類の長い歴史から考えれば、見えにくいかもしれませんが、「祖父母の役割」に似た仕掛けがそこにあった。

そうした本質を考えずに、競争原理、市場原理に持って行けば、サービス産業として回り出す、というのはあまりにも学者らしい考え方だと思いますが、これでは「子どもの幸せを優先する」という、子育ての仕組みが機能しなくなる。

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政府の緊急対策

いま、政府が待機児童対策として緊急に進めようとしている保育士配置の国基準の規制緩和、1才児は保育士1人で6人という国基準があるのだから、条例で1:5(埼玉県は1:4)にしている自治体はもう1人受け入れろ、そうすれば数千人待機児童が減る、ということなのですが、この「1人くらい」という数字しか見ない安易な考え方が、今回の保育士不足騒動の根幹にあることが厚労省も厚労大臣もわかっていない。1:6でもひなたぼっこ保育ならできるかもしれません。ただ見ているだけなら1:10だって出来るのです。でも、この時期の子どもたちは、人類に向かって「抱っこ」を求めているのです

1:6では、抱っこされない子が必ず出てくる。それが一日二日ではない。年に260日だということ。そして、この時期特有の発達はほぼ一対一の愛着関係を要求しているということを理解していないと、知らないうちに取り返しがつかないことになる。いい保育士に当たればまだしも、いい保育士に当たる確率を政府が待機児童対策で下げている。

最近の噛みつく子の増え方や、小学校の学級崩壊の現状を見て、今まで1:6だった国基準を1:3にするというのならまだわかる。いまの一歳児は30年前の一歳児とは違う、政治家たちはそれさえわかっていない。保育士たちが繰り返し言う。親の意識が変化している、子どもに向ける目線が違う。子どもに向ける笑顔の質が違う、という主任さんさえいる。

 

現場に無理を強いて待機児童解消をしても、今のやり方ではますます待機児童は増えてゆく。いまだにそれに気づかない。気づかないのか、次の選挙だけを考えて生きているのか、よくわからない。

子育ての責任は、自分ではなく「社会」にあると考える親が増え、同時に、いまの施策は子どもの幸せにつながらない、と感じる保育士が辞めてゆくのだから、いくら少子化が進んでも追いつかない。いつか追いつくかも知れませんが、このまま進めば数年間は混乱する。そして、その混乱を一番身近に体験した子どもたちは、やがて学校に行き、数十年生きる。だれもそのことには責任を取ろうとしない。

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 保育士不足が危機的状況を迎えているのに、何か、論点が完全にずれてしまっている。

 待機児童対策に一兆円をかけたとしても、それは一兆円かけてより多くの幼児たちの願いを私たちの日常生活から切り捨て、彼らの私たちへの絶対的信頼を裏切ることでしかない。それに気づかないから、論争の間に、保育の質の低下は急加速していくのです。

 

国は、待機児童対策で、小規模保育の定員を増やし規制緩和するという。小規模保育は、保育指針も守れない、子ども優先なんて最初から視野にない仕組みです。数年前まで「認可外」と呼ばれ、補助さえ限られていた。それを認可にした上に更に規制緩和している。0〜2歳は保育所ではなく託児所でいいということ。

閣議決定された「サービス産業化」では、保育士は絶対に問題のある親に注意できないのです。それがわかっていながら、小規模保育は、資格者半数でいいことに目をつけた政府の付け焼き刃の待機児童対策でしかない。

保育園は長年、児童相談所的、養護施設的役割を果たしてきました。0〜2歳児の親にはアドバイスが必要だった。ここで適切なアドバイスをしていれば、その一家の一生が変わった。それがほとんどできなくなってしまった。そしていま児童虐待の増加が止まらない。5年前、11時間預けるのは児童虐待と私に言った園長がいた。それをいま政府が標準と名付けている。これでは児童虐待もDVも止まらない。

「保育園落ちた、日本死ね」のブログをきっかけに、保育士の待遇改善が叫ばれています。給料を月五万円上げる、十万円上げる。保育界をここまで追い込み保育士不足を一気に進めた両党の政治家たちが、やってる振り論争を国会で繰り広げる。もう40万人園児を増やし、保育士の給料を月五万円上げるとして、毎年一兆円恒久財源を確保できるのか。本当に、本気なのか。消費税上げても四千億円足りないと言っていたのに、上げずに新制度を始めてしまったのが去年のこと。幼児のこととなると、政治家たちはいい加減過ぎる。

 

働いていない時間は基本的に親が育てる、その方向へ向かうしか方法はない。それでないと保育士が納得しない。

しかし、いまそれをやると票が減るという怖れが、幼児の安心・安全より優先するから、政治家は誰も言わない。三人目無料、などという幼児の気持ちを無視した非人間的な施策を進めたのがつい去年なのですから、論争が幼児優先にまったくなってこない。乳児も含めて、幼児は生きている、呼吸している、反応している。そのことにまず気づくべきです。

保育士不足はもう待った無しです。昨日も県の保育士会の会長まで務めた園長から、もう駄目です、辞めます、という電話があった。根性のある、行政を叱り、保育士を鍛える人だっただけに涙が出そうになる。

保育界の魂のインフラが崩れてゆく。

 

保育士不足がどのように保育の質を低下させるか、公立と私立ではずいぶん違うのです。

公立でも正規、非正規の割り合いが1対9か9対1かでまったく違う。私立でも園長が(政府の方針に従って)サービス産業化しようとしているか、(保育所保育指針に従って、または良心に従って)幼児の最善の利益を優先しているかで、まったく違う。

待機児童がいる地域か、過疎化が進んでいる地域か、でも違う。処方箋が異なる。だから、市の役人にアドバイスをする時は、こうした基本的な状況をまず訊ね、それから話をします。基本は保育士たちの精神的健康を第一に考え、保育士を守ること。それなくしてこの状況は乗り切れない。保育が集団制になる三歳未満児の部屋に、1人でも良くない保育士を入れると、良い保育士が去ってゆくからです。

全国で、幼稚園がない自治体が2割あるのです。そして同時に、幼稚園を選ぶ親が7割という県もある。それほど地域によって人々の気質や習慣が違うし、仕組みが違う。

幼稚園と保育園の違いは単純に保育の内容だけではありません。様々な側面で生じてきた役割り、対立、均衡を理解せずいきなり手を突っ込んでかき回したのが今回の新制度。何度も無理だと忠告したのに、経済優先で進めてしまった。

まだ引き返せるのですが、政治家と学者が非を認めず、ますます子どもの人生が犠牲になってゆく。この国のゆく末を、選挙よりもっと本気で考える政治家が現れてほしい。

 

地域限定保育士制度

地域限定保育士制度、国家試験の他に県で試験をし、地域限定の保育資格を与える。その県で三年働けば全国で通用する資格になるという。http://www.e-hoikushi.net/column/17/、これでは保育士養成校は存在意義無し。保育という学問の否定。ここまでないがしろにされた学者たちが「社会で子育て」などと、保育=子育ての現場をまったくわかっていないことを言って、三歳未満児を親から引き離すことを国に薦めたのだから自業自得かもしれません。保育園が増えれば自分たちのやっている保育士養成校が繁盛するとでも思ったのでしょう。しかし、そんな思惑を飛び越えて、保育士は辞めてゆくし、国はなりふり構わず規制緩和に走ったのです。

 

入れればいい、という親が激増している。入ってからの方が本当の問題なのです。ただ眺めているだけの保育士に4、5人の子どもを一日十時間、年に260日預ければ、その子たちの一生に何らかのかたちで「愛着障害」という負の影響を及ぼすことは、厚労省も、国連も、ユネスコも繰り返し過去に言ったこと。それがはっきり見えないからといって、見えるようになってからではもう遅い。だから北欧では、子どもと親が一緒に過ごす時間を取り戻す方向へと施策が進められている。(手遅れだと思いますが。)。

以前、経済財政諮問会議の座長の経済学者が、0才児は寝たきりなんだから、と言ったことを憶い出します。人間たちをいい人にしてくれる三歳未満児の存在意義を理解していない。幼児を蔑ろにして、この国の将来は輝かない。

 

介護業の倒産過去最悪という記事

介護保険で老人福祉に競争原理を導入し、家庭崩壊が加速、人手不足の直撃を受け経営に行き詰まる業者が増えています。

心のこもらない福祉から人材が去ってゆくのです。経営が下手な場合もあるでしょう。しかし倒産に至るまでの過程で施設に居た弱者の人生に何があったのか。そこが一番問題です。最近になって「抜き打ち立入り調査」を実施します、などと政府は言っていますが、これをやったら介護施設不足は一気に進んでしまうから、実は手をつけられないのが現状です。抜き打ち立入り調査をして問題が発覚しても、それを止められない。

保育は成長産業と位置づけた閣議決定の先に、介護と同じことが起これば、その影響は半世紀に渡って人と国に影響を及ぼします。

民営化、市場原理、競争原理で福祉の予算を減らせるという、保育を知らない保育の専門家と学者や経営者の「子どもを優先しない」論理に内閣が簡単に乗った。それが「子ども・子育て支援新制度」。介護崩壊が保育崩壊を暗示していることは仕組みを見れば明かだと思います。保育資格を持っている者が全員保育出来るのではない。保育は保育士の心。学校教育とは違う。そこを考えずに数字の上で「保育の義務教育化」などと社会学者が言う。社会は仕組みではない。心のジグゾーパズル。幼児を眺めていないと組めないパズルです。

家庭という人間関係を、一部の人間が儲けようとする利己的な経済論で壊しておいて、「一億総活躍」「女性が輝く」と言っても、保育士たちの目線は冷ややかです。保育の現状から見ると現実離れした絵空事でしかない。国の根幹を揺るがす保育崩壊が始まっている。保育は心。子育ては信頼関係。国がそれを壊している。

非正規の方がいいです

地方で、公務員(正規雇用)で保育士をやるより、非正規の方がいいです、という保育士が出始めている。これが何を意味するのか。児童数の現象と財政削減のため、これから教員の数を減らしていこうとしている国はよく考えた方がいい。保育や教育に「子育て」の肩代わりをさせればさせるほど、保育や教育の定義が揺らぎ、質を保つのが増々困難になってゆく。

去年から今年にかけて、都市部では第一希望の保育園を見学に行かない親が急に増えています。地方でも入園の説明会の案内に「会社を休んで行かなければいけないんですか」と気色ばむ親が行政を怯えさせている。こんなことを続けていていいんだろうか。去ってゆく年輩の保育士を止める気さえなくなります、と課長補佐が寂しそうに言うのです。

保育士の待遇問題を言う人たちが多い。確かにそうなのですが、保育士不足の本質はそこにはない。法律でも決まっていた「子どもの最善の利益を優先する」という保育の根幹が国の施策で揺らいでいること、親の意識が変わり始めていること、それが保育士を精神的に追い詰めている。それを現場で伝えていた年輩の保育士があきらめ始めている。

(「地域限定保育士」は、試験を受けた都府県内のみで保育士として仕事に就けるものとして新しく創設される予定の資格です。最初は就職する地域の制限がありますが、3年間「地域限定保育士」として活躍したのちは全国で働けるとされています。 )

子育て支援員

子育て支援員、支援員研修で儲けようとしている企業との出来ゲームのような気がします。第三者評価が行政の天下り先になっていた仕組みと似ているのです。子育てを損な役割、これをしていては女性が輝けない、というイメージ付けをしておいて、学童、乳児院、小規模保育、家庭的保育事業、事業所内保育事業、すべての資格を数日の座学でとれるような規制緩和が行われる。保育(子育て)とはそんなものだったのか。「子育て支援員」が、無資格者を雇う時の方便になっている。ちゃんと厳選すれば、資格を持っていない人でもいい保育士はいるのですが、これほど資格を蔑ろにすれば、保育科に来る学生の質はますます下がってゆく。

司法試験合格者「1500人」に半減。/政府の目標の半分

素晴らしいことだと思う。日本人は闘うのが好きではないという宣言だと思う。司法制度というパワーゲームの道具を拒否しないと、日本が一気に西洋化して、荒れてしまう。

諏訪の御柱祭/茅野市のこと/三年前に予測出来たこと

諏訪の御柱祭

 

 諏訪の御柱祭を茅野で見ました。

 涙をこらえながら見ました。女性の木遣り歌に、子どもたちの木遣り歌がかぶさって、男たちに気合いを入れる。この辺りでは、歌うと言わずに、泣く(鳴く?)と言うそうです。

 男たちが、丸太(御柱)にまたがって、おんべを振りながら、女たちと子どもたちに見守られて、合図と共に斜面を落ちてゆく。

 神々の前で、男たちは時々、自分の中に4歳だったころの自分が居ることを確認しなければならない。砂場の砂で幸せになれたことを憶い出し、幸せは自分の心持ち次第、と憶い出す。

?女と子どもに見つめられ、丸太に乗って落ちてゆくだけで、幸せになれることを確認する。

 人間は、こういうことをしなければいけない、と思いました。

 

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 茅野市とは長いお付き合いで、7年に一度の御柱祭も、元行政アドバイザーという肩書きで招待していただきました。

 時々思い出すのは、一日保育士体験を市の全ての保育園で始めて二年目のこと。園長・主任先生たちと、市役所の会議室で年に一度の報告と質疑応答をしていた時のことです。

 1人の主任さんが「保育士も、一日保育士体験するんですか?」と私に訊いたのです。幼稚園が一つしかない市ですから、保育士も預け合っています。しばしば親の立場でもあるのです。

 すると間髪を入れず、1人の園長先生が「それはそうでしょう。子どもが喜ぶんですから」とおっしゃったのです。

 通じている、と思いました。嬉しかった。みんなで、ひとつ何かを越えたのです。

 子どもがよろこぶことをする、それがすべての始まりなのです。

 

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茅野市のこと、そして保育士不足

(ふと思いついて、「茅野」で自分のブログを検索すると、色んな思い出が出て来ました。三年前のブログからです。今の保育界の状況はすでに予測できたのです。((2013224) http://kazu-matsui.jp/diary/2013/02/post-190.html

 

 講演の前後に園長、役人と必ず話すこの国の一番危険な状況。

 「保育士居ないですよね」

 「はい、困っています」。

 「悪い保育士、辞めさせられないですよね」園長先生の顔が一瞬顔が強ばり、ゆっくり深く頷く。認めてはいけない、しかし認めざるを得ない。子どもたちの顔が目に浮かびます。実は横にいる役所の人も知っています。園長が何度も頼んだからです。「あの保育士は現場に居てはいけない」と。でも、待機児童を増やすわけにはいきません。

 「その風景を見て、いい保育士が辞めていきますよね」じっと私を見つめる目が必死に訴えます。もう無理ですよね。

 

 一日保育士体験は、親に見せられる保育をする、という保育士たちの宣言です。品川の公立園長が「こういうのを待ってました」と言ってくれた時は嬉しかった。いま全国で、派遣でつなぐ保育が増え、資格だけ持っていて心のない保育士を雇わざるをえない状況に現場が追い込まれています。役場から定員超えの要求がありほとんどの園で一割増の園児数。

 そして親たちの心ない批判。(理にかなった批判ももちろんあります。)

 あちこちで、親に見せられない保育に現場が追い込まれ始めている時、品川の園長たち、茅野の園長たちの言葉は嬉しかった。親心の喪失に歯止めをかける方向に動くことが出来れば、まだ保育士たちを「生き甲斐」でつなぎ止めることはできます。。

 

 茅野の園長主任と2年目に入った一日保育士体験について話合った。嬉しい報告を全員からもらいました。父親参加が3割を越え、信頼関係が出来る、モンスターが止まる。時にはこの時とばかり粗捜しをする親もいます。「そういう親は室町時代でもいたですよ」と言うと大笑い。

 「子どもが喜びますよ!」そう繰り返すことで、子どものための保育園だと親たちも気づけば、保育士たちの元気が還ってきます。

 

 これだけ現場を追い込む施策が続くと、一日保育士体験で生まれる親の感謝の気持ちで保育の質を保つしかない。

 子育ては技術ではない。人間が心を一つにすること。

 やがてそれが学校教育を支えることを信じ、子どもたちの、「親を育てる,人間を育てる」力を信じ、一人の園長が決心すれば出来ること。保育指針という法律に、保育参加と書いてある。でも、「子どもが喜びますよ」を繰り返す。

 

 午前中に茅野市長と懇談し、午後所沢の保育園で講演。市長が聴いてくれて、そのあと夕食。保育士がいない現状を話す。市長が、保育が親心を軸に老人介護までつながっていることを理解してくれるとありがたい。

 乳児が屋根の下にいるだけで、家の気配が変わる。幼児が横に座っているだけで人類はいい人類になる。それを市長が理解してくれれば、なんとかなるはず。

ゾウがサイを殺すとき/園が道祖神を生む/チンパンジーとバナナ/犬にはちゃんと法律が出来たのに


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 以前このブログに書いた4つの話です。

 生体人類学的に考えたとき:

 11時間保育を標準と名付けた政府の無感覚、無責任が問われないことの異常さ、そして0、1、2歳児を親から引き離そうとする経済論とそれを問題にしない社会学者たちの存在が問われるべきです。「社会」の定義が崩れている。オンになるべき遺伝子がオンなってこない、何かがとても奇妙で不自然なことが始まっている。

 

ゾウがサイを殺すとき

 サイを殺し始めたゾウのドキュメンタリーを以前、NHKのテレビで見ました。アフリカの野性のゾウの群れが、突然サイを殺し始めた、というのです。ただ、殺す。

 ゾウがサイを殺しても警察や裁判で止めることはできない。ゾウに質問することもできません。カウンセリングをしたり、道徳を教えることもできない。人間は、懸命にその理由を考え、想像するしかない。

 環境の異変がゾウの遺伝子情報と摩擦を起こしているのではないか……。そしてある日、サイを殺し始めたゾウが人間によって移住させられた若いゾウばかりであることに気づきます。

 ゾウのサイ殺しは、巨大なゾウを移送する手段がなかった時代には、起こりえない現象だったのです。麻酔をかけて眠らせることはできても、巨大なトラックがなければゾウは運べない。それが可能になり、その手段を手に入れ、人間の都合で、その方がいいとなんとなく思って若いゾウを選んで移送し、別の場所に群れをつくらせたのです。すると、ゾウがサイ殺しを始めた。

 考えたすえ、試しに、年老いた一頭のゾウをトラックで移送し、その群れに入れてやったのです。すると若いゾウのサイ殺しがピタリと止まったというのです。

 年老いたゾウは、きっと道祖神ゾウに違いない。

(私は、道祖神園長が座っているだけで、親たちを鎮める話を以前書いた事があります。)

 ゾウの遺伝子がどれだけ人間と重なっているのかは知りませんが、哺乳類で目も二つ鼻も一つ、共通点はたくさんあります。脊髄があって脳もあって、コミュニケーション手段を持っているわけですから、こういう本能と伝承にかかわる動物の行動は参考になる気がします。言葉が通じないときに、人間は深く考える。幼児を眺める行為と似ています。

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園が道祖神を生む話

  数年前、熊本で二代目、三代目の若手保育園長、理事長先生の研究会で講演したときのことです。初代が女性でも、なぜか継ぐのは男性が多く、男性中心の会でした。懇親会で少しお酒が入って、若い園長先生がマイクを握って言いました。

 「松居先生。親御さんは、僕の母、先代園長の言うことはよく聞いたのに、なんで僕の言うことは聞いてくれないんでしょう」

 保育の核心にせまる質問です。私は嬉しくなって考えました。

 そして、「先代は、お元気ですか?」と尋ねました。元気です、という返事に、「まさか、先代を引退させてしまったんではないでしょうね」

 保育園もあちこちで「代替わり」を迎えています。ビジネスの世界の真似をし、後進に道をゆずる、時代に即した経営などと、保育のことなど何も知らない(保育指針を読んだこともない)ビジネスコンサルタントが助言します。少子化のおり、そういう人たちを大会に呼んで分科会などを持たせる(男性)幹部たちが保育団体にもいるのです。日本各地で、創設者である園長理事長が引退する現象が起こっています。

 しかし、忘れてはならないのが、保育園という特殊な「子育て」の仕組みが「代替わり」を迎えるのは、人類の歴史始まって以来のことだということ。保育園や幼稚園は「子育て」という太古からつづく伝承の流れに関わっていながら、ごく最近作られた新しい仕組みで、和菓子やパソコンを売るのとはわけが違う。その仕組みを善循環を中心に創り上げるには細心の注意が必要なのです。経営を譲るのはいい。でも、園という不思議な空間を単純に二代目に任せていいわけがない。

 「四〇年以上勤めた保育士に『引退』はありません」と私は若手園長に言いました。

 「保育士を二〇年、一人の人間が幼児の集団に二〇年も囲まれれば、『地べたの番人』という称号を得ます。四〇年勤めれば、『道祖神』という格づけになっているのです」

 そのときたまたま「道祖神」という言葉が浮かんだのですが、眺めるだけで古(いにしえ)の真実を感じるものならば、なんでもいいのです。

 「まさか、道祖神を引退させたんじゃないでしょうね」

 笑いながら話すと、若手園長はすぐにピンときたようで、理解し、苦笑いし、すみません、という顔になりました。

 「道祖神はいるだけでいいんです」と私はつづけました。

 「園の中を歩いているだけでいい。車いすに乗って子どもたちを眺めているのもいい。ひなたぼっこをしているのもいい。門のところで毎朝親子を迎えるだけで、園の『気』が整ってくる。園の形が、すーっと治まってくるんです。母親の心が落ち着きます。その瞬間、あなたは道祖神の息子です」

 子どもたちが育ってゆく風景の中で、私は園長という名の道祖神たちを見てきました。直接教わったこともたくさんあります。道祖神のいる風景から、私は考え、保育における視点を学んだように思います。園は、子どもが育ち、親が育ち、道祖神が現れ、親心が磨かれてきた場所。

 そういう場所には利他の絆が育ちます。言葉では説明のつかないコミュニケーションの枠組みが、大自然に近い秩序を生む。日本人はそういうことに敏感だった。大木を切ることにさえ躊躇してきた民でした。

 

 もう一人の若手園長が、酔った勢いで口を開きました。「うちの道祖神は、もう亡くなってしまったんです」

 私は、ちょっと考えてから、「老人福祉をしている所に行って、一つ拾ってくればいいんです」

 ちょっとお借りしてくる、という言い方が正しかったと思います。

 人間は毎日幼児に囲まれなくても、一〇人に一人くらいは、ある年齢に達したとき、道祖神の領域に入ります。平和で幸福そうな顔ができあがっている。もうすぐ宇宙へ還る人たち。欲から離れた人たちだからこその落ち着きです。

 そのあと、私は宴席で密かに思い出していました。数日前、NHKの特集番組で見た「インカ帝国のミイラ信仰」を……

 文化人類学的にです、あくまでも。

 ご先祖のミイラが村に一つあって、それに向かって村人の心が鎮まっている風景です。心が一つになっている。村が治まる。それに比べれば、園の道祖神たちはまだ歩いている。

 人間が遺伝子の中に持った太古の流れを、時々意識しないと本来の目的を見失います。それどころか、幸せに生きるための秩序を失います。私の想像力は、また一歩飛躍します。厚労省がこんな告知をしたら、すばらしい決断と言えるでしょう。

 「保育園で道祖神を引退させると法律で罰せられます」

 厚労省が、いつかこういう視点を持つことができるだろうか?

 いまのところ、答えは否、でした。情報に頼りすぎる思考の進み方にも問題はあるのですが、一番の問題は現場の風景を知らない、知っていてもそこから「感じることができない」人たちが仕組みを作っていることです。

 次元が幾重にも交錯する人間の「気」の交流現場に気づくのが下手な人たちがシステムを考えていることに、現代社会の欠陥があります。官僚と呼ばれる人も、学者も、家へ帰れば子どもの運動会に一喜一憂し、保育参観日に行き、ふと我に返るはずなのです。実は細胞は死んではいない。生きる機会と場所を失っているだけです。

 アンデスの山を思いながら、「道祖神は、ちょっと惚けてきたら、なおいいのかもしれない」と思いました。惚ける人間の存在にも必ず意味がある。生まれて一年目に、ほんの少し笑うだけで周りを幸せにして親心と絆を育てた人間は、歳月を経て、いつか歩いているだけで周りの気を鎮める、神のような存在になりたいのだと思います。

 

 道祖神を見る人間の目や心の動きを教育の現場に復活させる方法はあります。教育委員会の人たちが「保育士体験」に参加して幼児の集団をたった一日じっと見つめるだけで、地球に変化はある、と思います。いまの常識にとらわれることなく、幼児を意識した視点で様ざまな絆が生まれる環境を、子どもたちが育つ仕組みに取り入れていかないと、親の潜在的不安は治まらないでしょう。もっと預けたくなるでしょう。

 意識的に太古の視点を復活させなければ、学校という歴史の浅い巨大なシステムが、はるかに古い魂を持つ「家庭」や「部族」という絆を崩壊させるのが、私には見えます。

 家庭が崩壊しては困ります。家庭が幼児を守り、幼児こそが、道祖神を生み出しているのですから。

 

 私は、質問をしてくれた園長先生のお寺で、引退した先代にお会いしました。みごとなお顔でした。

 「四〇年以上園児に囲まれた保育士に引退はないのですよ」とお話しすると、先代はとても喜んでおられました。

 「園に行きたい、とこのごろ思っていたんですよ」とおっしゃった道祖神と二代目のお嫁さんの姿を、私は携帯電話のカメラで撮影しました。それは、私の道祖神コレクションの一枚になりました。

 

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「これでいいんだ」

 

 人間50歳も越えると、二十代三十代では見えなかったものが見えてくる。

 60歳も越えて、そろそろ宇宙に帰ろうか、という時期に、「早くいい人間にならなければ」と思います。人生は自分自身を体験する事でしかない。自分がいい人間だ、と思えれば嬉しい。思えなければ、仕事に成功しても、お金を貯めても虚しい。

 いい人間に成りたいと強く願っている人間の前に、人間をいい人にするひとたちが現れる。それが幼児。孫です。祖父母と孫の関係は、特別いいのです。いい人に成りたいと思っている人からいい人になるのが順番。(実は、いい人間になりたい、と思った瞬間、その人はいい人なのです。)

 幼児という、ついこの前まで宇宙の一部だった弱者と、老人というもうすぐ宇宙へ還ってゆく弱者が、欲を持たずに、楽しそうに役割を果たしているのを見て、人々は安心する。私もたしかにこうだった。そして、私もこうなる。

 幼児と老人が出会うと、「これでいいんだ」という笑顔の交歓が行われます。その交歓を風景として見つめるのが、これからの人間社会に一番必要なのだと思います。

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チンパンジーとバナナ

 

 私の好きな人類学者にジェーン・グドールという人がいます。龍村監督のガイアシンフォニーにも出演しています。アフリカのタンザニアでチンパンジーの研究をしていた人で、初めてレクチャーを聞いたのが四十年前、カリフォルニア大学(UCLA)での特別講演でした。

 ジェーンは、チンパンジーがシロアリを釣り上げる道具を使うことを観察発表し、道具を使う動物は人間だけと言われていた定説をくつがえしました。野生のチンパンジーの群れと過ごし、その日常を観察した研究は、人工的な研究所での観察が主体だった学会に、その後大きな影響を及ぼしました。

 彼女が第二のセンセーションを学会にもたらしたのがチンパンジーのカニバリズム(共食い)でした。仲間同士の殺しあいや、群れの中で起こる子殺しを含む非常に残酷な仕打ちが、映像とともに発表されました。それは人間たちに恐怖心を起こさせるほど、人間的な情景でした。チンパンジーの遺伝子は動物の中で一番人間に近いのです。

 あとになって、より多くのフィールドワークが行われ、このしばしば残酷で時には共食いさえするチンパンジーが、ジェーンの研究していた群れに限られるのではないか、ということが言われるようになりました。皆無ではありませんが、ほかの群れでは仲間内のこうした残虐な行為がほとんど行われないというのです。

 ジェーンの群れとほかの群れの違いは、ジェーンの群れが餌づけをされていたことでした。野生の群れに接近するため、ジェーンは当初から群れにバナナを与えたのです。それも、なるべく一匹一匹に「平等に」行き渡る工夫をしました。いまでこそ、野生動物は本来の生態を損なわずに観察することが常識になっていますが、当時、まだ草創期のフィールドワークでは、そこまでルールが確立されていませんでした。

 この報告を真摯に受け入れたジェーンがインタビューで、「いま私が持っている知識があれば、餌づけはしなかった」と、悲しそうに答えていたのが印象的です。

 このバナナに当たるものが、私たち人間にとって何なのか。

 チンパンジーの残虐さは、序列を取り戻そうという行為の一つではないのか。序列によって保たれていた秩序が、バナナが平等に与えられたことによって崩れ、生きてゆくための遺伝子の何かがはたらいて、殺しあいやカニバリズムにまで群れを駆り立てたのではないのか。しかも、集団を駆り立てたのです。

 進化の過程で、ジェンダー、つなり雄雌の差を手に入れたとき、私たちは「死」を手にした。それまでは、細胞分裂で進化し、つぶされでもしないかぎり生は永遠につづいていたのです。「死」を受け入れた代償に、私たちは次世代に場所を譲る幸福感を得たのかもしれない。

 しかしいま、豊かさの中で、人間は死を受け入れることが下手になっている。パワーゲームの幸福感を追い、執着し、死から意図的に逃げようとしている。「一度しかない人生」という言葉がその象徴です。

 ネアンデルタール人などを研究する古人類学では、男は狩りに出て、女が子どもを見るという労働の役割分担ができたとき、人類は「家族」という定義を発見したといいます。性的役割分担が希薄になったときに、人間は家族という意識を少しずつ失うのでしょう。いい悪いの議論は置くとして、これが現在先進国社会で起こっている流れです。男性的なパワーゲームの幸福論が、母性的な幸福論に勝り始めている。それが、結果的に女性と子どもに厳しい現実を生み、男性には寂しい孤独な現実を生んでいる。(男が結婚しない、これが少子化の一番の原因です。)

 何十万年も積み上げてきた遺伝子が、豊かさに耐えられなくなって、眠っていた遺伝子を起こし始める。同性愛者が増えるのは、人間の進化の中で一つの防御作用でしょうか。しかし、ジェンダー以前、つまり単細胞に戻るには滅亡しかない。

 男らしさ女らしさがあってこそ、「親らしさ」が存在する。親になることは、男らしさ女らしさの結果です。そして、子どもを産み、男らしさ女らしさが適度に中和され、自然界の落としどころ「親らしさ」に移行するために必要なのが「子育て」なのだと思います。

 パワーゲームに組み込まれた「子育ての社会化」が、親らしさという視点で心を一つにするという古代の幸福感を揺るがしている。

 ジェーンの群れのチンパンジーが残虐になった理由の一つは、自分の子孫を残したいという雄の本能でしょう。雌の発情を促すために、その雌の子を殺す。ライオンなどによく知られている行動です。

 死への恐怖からくる「命を大切に」という言葉と、死への理解からくる「命を大切に」という言葉は異なります。死への恐怖は競争社会を生みます。死への理解は人間を謙虚にします。

 人間の営む現代社会においてバナナにあたるものは何か。九八%遺伝子が同じとはいえ、人間とチンパンジーではちがいます。単純ではないと思いますが、思いつくままに、バナナ、餌付けかもしれない言葉を並べれば、

 自由、平等、学問……、

 学校、教育、保育……、

 福祉、人権……

 資本主義、 共産主義、 民主主義、 宗教……。

 移動手段、 携帯電話、インターネット、 スマフォ……。

 もちらん、これらを否定しているのではないのです。バナナを手に入れたあと、殺しあいにならない方法を考えればいいのです。例えば、意識的に、意図的に幼児と接する機会を作り、信頼の本質を学ぶとか、一緒に彼らを眺めることによって、絆の心地よさを感じるとか。

 (まずバナナが存在することを意識し、気をつけることです。)

 

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犬にはちゃんと法律が出来たのに

 

 新聞にこんな記事が載っていました。

 「生後56日までの子犬子猫、販売引き渡し禁止へ」

 ペット店での幼い子犬や子猫の販売を規制する動物愛護法の改正を巡り、民主党は22日、生後56日(8週)まで販売目的の引き渡しを禁止する方針を固めた。自民党や公明党などとともに改正案を提出し、今国会での成立を目指す。ただし、ペット店に対する移行措置として、施行後3年間は規制を生後45日までに緩和する。その後も子犬や子猫を親から引き離すことについての悪影響が科学的に明確になるまでは、規制を生後49日までとする。

 環境省によると、ペット店では年々、幼い犬や猫を販売する傾向が強まっており、動物愛護団体は「親から離す時期が早すぎると、かみ癖やほえ癖がつく」として規制強化を求めていた。

 

 56日目の子犬はもうちょこちょこ歩いていますし、乳離れもしていますから、人間の2才半くらいかもしれません。

 人間の幼児にもしっかりこういう法律を作ってほしい。同じ哺乳類ですから。

 霊長類の親子の愛着関係はとてもデリケートで繊細なものだ、とチンパンジーの幼児虐待の研究で知られるジェーン・グドールも言っています。ちょっとしたバランスが崩れることによって、霊長類の暴力的行為は始まる。ジェーンの場合は「餌付け」でした。野生のチンパンジーに餌付けをしたことで小猿殺しや共食いが始まったらしいのです。

 簡単に比較するわけにはいかないのですが、親から早く引き離すことによって、子犬に、「かみ癖や、ほえ癖」がつくなら、75%の遺伝子を共有する人間にも似たような可能性があるかもしれない。

 最近、保育園で一歳児の噛みつきが不自然に増えています。ほえ癖とは言いませんが、ひょっとして人間でいうところの「いじめ癖」がつくのも、早くから親子を長時間離し過ぎるのがその一因かもしれない。

 一歳で噛みつく子の増加に、「一人の保育士が一日10時間一週間一対一で接すると噛みつかなくなる、4才5才になってからでは遅い」と言う園長先生もおられます。親子の愛着関係の不足は学校教育を成り立たせなくする気がしてなりません。最近、学校の先生や保護者会の役員のひとたちに講演したのですが、いじめの質がここ五年くらい変わってきている。普通ではない気がすると、何人もの方が言います。私も実際にいじめる子たちの顔つきを見て、異様さを感じることがあります。以前より暴力的になったというよりも、子どもたちの表情に、冷たさ、魂の粗さを感じるのです。

 なぜ、子犬に関する法律が現場の意見を反映し与野党一致で法律として通り、人間の乳幼児の愛着関係を守る法律はなかなか提出されないのか。その気配さえない。

 たぶん、違いは「親」です。

 人間の親は、生きてゆくために必要な本能を、豊かさの中で失おうとしている。そして選挙権があるかないかでしょうか。

 民主主義は、親が親らしい、人間が人間らしいという前提のもとにつくられている。同時に選挙権が成人(親)にしかない、という重大な欠陥を持っています。しゃべれない乳幼児が何を望んでいるか、イメージする想像力が欠けてくると、この制度は人類の存在を揺るがす負の連鎖を生み、社会における絆の崩壊を招く。

 

 人間は、時々、動物や大自然を観察し、自分たちの進化する方向性を大自然の一部として考え、起こっている不自然な出来事を見極めないと、自分で自分の首を絞めるようなことになってゆく気がします。

  この新聞の記事から、インドの野良犬たちのことを思いだしました。(私の思考は、時々イメージの中で不可思議な飛び方をします。)

 インドでは、都会でも田舎でも、飼い犬はほとんど見かけません。犬を売り買いするひとたちは、まず、いません。犬たちは人間社会と自然界の中間あたりをうろうろし、昼間は暑さと闘わずにぐったりと寝そべっているか、ときどき身の回りに以前からある人間たちの社会と必要に応じて交流するかして暮らしています。

 夜になると野生の血が騒ぐのか、元気に走り回り縄張り争いをしたり、満月の晩は遠吠えをしたりする。馬鹿馬鹿しいように思うかもしれませんが、ふと思うのです。この犬たちが今度日本の国会で審議され通るであろう法律のことを知ったらなんと吠えるだろうか。ありがとう、と言うのか。

 親犬の気持ちはどうなるんだ、と言われたら人類は応えようがない。

 そのあたりまで想像力を働かせないと見えてこないのでは、と「動物会議」という児童文学で主張したのは詩人で思想家のケストナーでした。

 国会で定数削減、消費税、そんな問題で大騒ぎするより、子犬の将来を心配してつくった法律を、人間の子どもにも適用するような法律をつくることの方がはるかに重要です。それを、この国の政治家やマスコミはいつになった理解するのでしょうか。

 

格安保育、ブラック保育/価値観の多様化/湯沢町で講演して/ジョセフ酋長の言葉/NHKあさイチの「大丈夫?保育の質」

格安保育、ブラック保育

https://dot.asahi.com/wa/2017052400011.html?page=1 こんな状況を作り出した政府の「保育は成長産業」という施策。そこで過ごすのが主として乳幼児だから、これはもう悲劇だと思います。価値観の多様化、親の意識は様々だからこそ「幼児を守る」という国の仕組みが大切だったはず。

 

価値観の多様化 

 最近、「価値観の多様化、生活様式の変化が進んだから、それに合わせて福祉や教育を変えて行かなければならない」ということがよく言われるのです。なぜかそれが定型句のようになっている。私の講演の前に、教育長や福祉部長が挨拶をする時などによく使われる。たぶん文科省か厚労省が、「国の方針」か何かに書いているのに違いない、マスコミでも耳にするのです。その都度思うのです。価値観の多様化、生活様式の変化が進んできたからこそ「中心になる価値観」を取り戻すことが大切で、子育てがほぼ中心になるのが自然の法則、だと。それが進化の最低条件ではなかったか。この国は、まだそれが出来る国だと思う。

 価値観の多様化、生活様式の変化から「幼児を守る」のが社会(仕組み)の役割りのはず。そのためにはどうしても「信頼の絆」が必要なのです。「乳児をもう50万人保育所で預かれば女性が輝く」と総理大臣が国会で発言し、国や学者が経済論で子育ての意味や定義を崩してゆき、「社会で子育て」(実は単純に保育園で子育て)と言って多様化や変化に合わせれば合わせるほど、国は中心となるべき「意志」を失い、混乱はますます進む。

 

 人間が生きる意志の真ん中に「子育て」がなければ、心が一つにならない。



 

 それが感じられるから、いい保育士たちが去ってゆく。


湯沢町で講演をして

 私も全国で色々な保育、教育の現場を見て来ましたが、湯沢町のこども園から中学校まで一つ屋根の下、という取り組みはとても興味深く、これからの教育現場のあり方を考える上で参考になるケースだと思いました。

(湯沢学園:5つの小学校、1つの中学校を統合して湯沢学園とし、4つの保育園を1つの認定こども園にまとめ湯沢学園内に置くことで12年間の一つ屋根の下にした。)

 街の規模、園児数と生徒数、冬の積雪、学校や保育所の立て替えの時期など、いくつかの要素が重なって作られたものなのでしょう。しかし、そこに何か不思議な組み合わせ、社会に絆を取り戻すきっかけがあるような気がするのです。

 教育も、保育も、本来の遺伝子が持つ人間性との間に摩擦が生じていて、制度疲労を起こしている。より深まる矛盾を抱え、「家族」という絆の原点となるべき「場」が「子育て」という存在理由の中心を失い始めている。その結果、制度を担う人たちの精神的健康が保てなくなってきているように感じます。(ここで言う制度を担う人たちとは、保育者、教育者、学童や児童館の指導員、乳児院や養護施設の指導員、福祉に関わる「行政の心ある人たち」ということです。)だからこそ、今までとは異なる仕組みが必要になってくる。

 もう少し「幼児を毎日眺める、一緒に眺める」といった部族的な日常を意識的に取り戻し、増やしてゆくことが社会全体の軌道修正には必要と思っています。

 湯沢町の試みの中で、こども園の園児たちが毎日一度は中学生たちの視線を感じながら校内を行進して回って来る、といった儀式を始めれば、中学生たちの感性が蘇り、彼らの将来の視野に「子育て」の不思議な体験が入ってくるような気がいたします。

 

 

ジョセフ酋長の言葉

 

 

 

“Why do you not want schools?” the commissioner asked. 

“They will teach us to have churches,” Joseph answered.
“Do you not want churches?”
“No, we do not want churches.”
“Why do you not want churches?”
“They will teach us to quarrel about God [translated Great Spirit in other places],” Joseph said. “We do not want to learn that. We may quarrel with men sometimes about things on this earth, but we never quarrel about God. We do not want to learn about that.”
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 先生が子どもたちに「夢を持ちなさい」という。その先生たちに、「先生は夢を持っていますか?」と質問すると言葉につまってしまう。「昔は、こんな夢を持っていました」「退職したらこんなことをしたい」といった答えが多かった。矛盾に囲まれて子どもたちは生きています。伝承のプロセスに信頼関係が薄いのです。

 私の好きなインディアンの大酋長にジョセフという人がいます。150年くらい前に生きた人です。あるとき、ジョセフが白人の委員とこんな会話をしたのです。

 ジョセフは、白人の学校などいらないと答えた。

 「なぜ学校はいらないのか?」と委員が尋ねた。

 「教会をつくれなどと教えるからだ」とジョセフは答えた。

 「教会はいらないのか?」

 「いらない。教会など欲しくない」

 「なぜ教会がいらないのか?」

 「彼らは神のことで口論せよと教える。われわれはそんなことを学びたくない。われわれとて時には地上のことで人と争うこともあるが、神について口論したくはない。われわれはそんなことを学びたくないのだ」

(『我が魂を聖地に埋めよ』ブラウン著、草思社)

 もともと西洋人が学校教育を作った背景には、識字率を上げ聖書を読める人を増やす、という目的がありました。アメリカ大陸にきて、「神」を知らないインディアンを西洋人は不幸な人、野蛮な人と見、学校教育が必要だと考えた。

 ところがジョセフは、神はすでに在るもので、議論の余地のないものと見ていた。学校という西洋的な仕組みの本質をついた視点です。なぜジョセフがそれを見破ったか。大自然と一体になった人間の感性が、白人たちの子育てに何が欠けているかを見抜いたのかもしれません。神を広めようとする白人の行動に、神の存在を感じなかったのかもしれません。

 『逝きし世の面影』(渡辺京二著、平凡社)に出てくる日本人の姿と大酋長ジョセフを私は重ねます。西洋人が、日本人は無神論者的だと感じた風景の中に、実は幼児を眺め、幼児を拝み、同時に神や宇宙を眺めることができる特殊な文明が存在していた。そして、西洋人はその無神論者的な社会に、なぜか一様にパラダイスを見た。

 ジョセフがこの発言をしたちょうどそのころ、欧米人は日本というパラダイスを見ている。インディアンの生活が原始的であったがために、そこに日本を見て感じたパラダイスが見えにくかったのでしょう。同じ人間の営む文明として敬意を払うまでにいたらなかったのだと思います。

 当時日本にきた欧米人が、驚いたことの一つに「日本の田舎ではすべての家の中が見渡すことができた」というのがある。当たり前のように時空を共有することが、パラダイスを形成する安心感の土台にあったのでしょう。もし、同じような観察をアメリカインディアンにもしていたら、西洋人はもっと大きなパラダイスを発見していたかもしれません。

 

 西洋人が学校でインディアンに教えようとしてなかなか教えられなかったことの一つに「所有の定義」がありました。共有の中で生きてきた人たちは、西洋人が正当なやり方でインディアンから土地を手に入れても、そこから立ち退かなかった。大地は天の物、神の物であって、人間が所有できる物ではなかった。この視点の違いから、悲惨な闘いの歴史が始まる。

 日本では、土地の所有に関して血で血を洗う闘争の歴史がありました。しかし、それは主に武士階級の間で行われ、村人の日々の生活の中に現実としてあったのは、共有の精神だったと思います。一人の赤ん坊を育てるには数人の人間が必要で、そのことが未来を共有する感性を人々に与えたのだと思います。システムだけ見ているとわからない、魂の次元での一体感や死後へも続く幸福観を村人はちゃんと持っていた。西洋人の観察の中に「確かに日本には封建制はある、武士は一見威張っているように見える、しかし、なぜか村人は武士を馬鹿にしているようなふうがある」とあるのですが、このあたりが本当の日本の姿だったのではないでしょうか。


NHKあさイチ「大丈夫?保育の質」

 

  NHKの「あさイチ」という番組で、「大丈夫?保育の質」という保育の特集がありました。先月の「ふかよみ」という番組でも同様の問題が取り上げられました。不満は残るのですが現実を伝える役割りは果たしたと思います。出発点にはなっているので、ここからもっとマスコミ全体に、この問題の大切さと緊急性が広がってゆく気がします。

 最後に「問題はお金」で終わったところが象徴的だったのですが、それでは政府主導の市場原理に再度巻き込まれるだけ。「感謝」という方向へ進まないと保育士不足は止まらない。子どもを眺め「感謝」。育てる者たちがお互いに感謝。それが人間社会をここまで引っ張って来たのですから、出来ると思うし、それしか道はないのです。

 番組の最後にファックスで障害児デイと思われる虐待の現状が言われていました。あのファックス一枚に書いてあったことだけでもマスコミが掘り下げれば、今の政府の雇用労働施策の中で崩れてゆく「保育」が見えてくるはず。市場原理の中で親と保育士の一体感がこれだけ崩壊に向かっていることが見えてくるはず。

 障害児デイと呼ばれる「資格なし」で回す、ビジネスコンサルが盛んにネットで勧誘する仕組みをマスコミが取り上げれば、市場原理の中で親と保育士の一体感が崩壊に向かっている原因が見えてくるはず。一部の老人介護施設で起こっている人間性の崩壊が実は社会全体に起こっていることが見えるはず。


 

(「あさイチ」で取り上げられたファックスから)

 「特に乳児のおむつ交換、授乳には時間がかかる。授乳は保育士が手で与えず哺乳瓶にタオルを巻いて与えている。事故が起こったらと思うと不安だが仕事がまわらないため仕方がないと言い聞かせている」。

 哺乳瓶ホルダーの売り込みが保育園に来る時代です。社会全体から、抱っこの意味が不明になってゆく。以前、経済財政諮問会議の座長が「乳児は寝たきりなんだから」と言ったのを思い出します。乳児を抱っこして授乳をしながら、抱っこする側がどう育っていったか、変化していったか、そういう時に人間の遺伝子がどうオンになっていったか、経済学者はまったく考えない。これでは経済も良くならない。

(あさイチから)

 「以前保育士をしていた。0歳児に対して無理やりお茶を飲ませたり、吐き出した食べ物を食べさせたり、絵本で頭をたたく、押し入れに入れる、脅す、見ていられず虐待していた先生に言ったら『新人が生意気な口答えをするな』と言われた。」

 良くない保育は意外と伝承するのです。この保育士は、少なくとも辞めてくれた。辞めて普通なのです。そういう状況を政府が作っている。これだけ保育士が不足していれば、悪い保育士を解雇できない。するとこういういい保育士が辞めてゆく。


(あさイチから)

 1歳児の担任をしている。12人を2人の保育士でしている。朝の支度や給食の準備に1人はいると12人を1人でみていなければいけないのが現状。午前中に帳面を書いたり、掃除や行事の準備もしなくてはならず、寝ない子についている時間はないため寝てほしいというのがある。有給もほとんどとれず、サービス残業や家に持ち帰りの仕事が多くストレスがたまる。現状をわかったうえでの論議をしてほしい」。



 1人で6人がすでに無理なのです。しかも、全般的に「愛着障害」が増え、噛みつく子も増えている。声掛けをしてもらえない、抱っこしてもらえない子どもたちの時間は、将来、記憶の中に「不信?」となり溜まってゆくのです。そのすぐ先に学校がある。学級崩壊がある。

(あさイチから)

 「本当に現場は過酷。虐待を認めるわけではないが、質、質、質と言われても本当にゆとりもない。低賃金すぎる。子供を預かる仕事をするがゆえに、私たち保育士が稼ぎが少ないから子供や家庭を持てない。本当にわかってほしい」

 自分の子どもは預けないという保育士が増えている。当然だと思います。そして、育休をとった保育士の多くが現場に帰ってこない。それで普通だと思います

(あさイチから)

 「保護者の質、子供の質については問題にしないのか。こども園での保育の仕事をしていたが、預けられる子供は問題行動ばかり。親がきちんと家でしつけをしていたんだろうかと思う子が多い。お迎えに来た親御さんも保育士に全く声もかけず、早く帰り支度をするように子供にうながすばかり。保育園で起こる問題は保育士の問題だけではないと思う」

 このファックスが読まれた途端に、司会者の一人が「そういう問題ではない」と発言し議論を止める。「今日は、そういう話ではないですからね。親御さんたちの話ではないから、保育士の話なんだけれども・・」

 「親の問題」には触れようとしないのが、マスコミ全体の流れなのです。それでは問題の本質に行き着かない。幼児の幸せを願えば、保育士は親を見る。それが保育だと、保育所保育指針の第六章にも書いてある。親と保育士の人間関係が「保育」そのものだという視点で常に見ていないと、保育資格を持っていれば「保育」は出来る、という考え方になってしまう。すると、保育士養成校が明らかに現場に来るべきでない学生に「平気で」資格を与えるようになる。養成校で教えている人たちに「幼児たち」が見えない。

 こういう学者たちに諮問している政治家には「幼児」は数でしかない。「保育」は子どもたちの日常です

 

 

 

(講演依頼、お問い合わせはchokoko@aol.com松居までどうぞ)



「信じること」の連鎖の中に身を置くこと/「絆の源」、市長さんと成人式の話

  新春、古備前の陶工のドキュメンタリーをテレビで見ていました。焼き物を作る姿と心を拝見しました。つくる、守る、愛でる、祝う、そして「自然」や「理」や「歴史」と共に環境を整えて待つ。あとはたぶん祈りが導く。

 一時、心を静かにし、ときどき喜び、感動する。とても子育てと似ている、と思いました。

 

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 人生の質は、自分が育てている子どもが四歳になるくらいまでに、どれほどその子に信じてもらったか、愛されたか、そのことにどれほど確かに気づくか気づかないか、で定まってくるように思います。

 親が子に、自然の摂理として無条件に愛されたことを意識し、それをどう自らの心に刻むかで人生は決まってゆくのだと思う。親がその関係の確かさを心に刻むことによって子どもたちが、「信じること」が生きる力なのだと、遺伝子のレベルで気づくのです。

 

 生きる力は、技術でも、能力でも、競争に勝つ力でも、自立することでもなく、「信じること」の連鎖の中に身を置くこと。本来それが自己実現と呼ばれるものだったはず。そこを忘れると、人類全体の生きる力が弱くなってくる。(その源となる、一家の生きる力が弱くなってくる。)その中で必死にもがいているのが今の人類の姿だと思うのです。

 

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 繰り返し、幼児に完全に信じてもらう事で、人間は「神に愛されている」「仏の慈悲に包まれている」、そんな感触を持ったのだと思います。それはすべての人間が多かれ少なかれ体験する感触で、それになるべく気づきましょう、と勧める手段が「宗教」なのかもしれません。歯車が回り続けるように。

 子育てという、形は色々ありますが、ほとんど誰もが体験する、意識をすれば誰でもより深く自分の良さを体験出来ることの中に、人間が社会を形づくるために不可欠な啓示があって、生体学的にいうと、それが人間の遺伝子をオンにする、ということなのかもしれない。それは体験であって学習ではないのです。





 成人式が来ると思い出すのです。ある市長さんが語ってくれたこと。

 私の講演を聴いたあと、役場の市長室で市長さんが言ったのです。

 「先日、市の成人式で挨拶したんです。会場はザワザワしていて、お世辞にも行儀がいいとはいえない若者たち。私の話を真剣に聴いているようにも思えなかった。でも、出番が来て、幼稚園の園児たちがお祝いに舞台の上で踊りながら、歌をうたったのです。幼児たちが舞台に上がって並んぶと会場がシーンとなったのです。そして、成人した若者たちが静まり返って、その歌と踊る姿を見つめるのです。松居さんが言っていたのはあのことですね」

 こういう理解の仕方はとても嬉しかった。

 私はうなずきました。若者たちが、うらやましそうに園児を見つめる姿。それが宇宙の法則、遺伝子の働き、人間が真の幸せを探す姿なのです。園児たちの踊りと歌で、人間の心がまとまる。

 若者たちはちゃんと、何を見つめるべきか知っている。


上映会とミニコンサートのお知らせです/1月30日 二時から

新年、あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
シャクティのドキュメンタリー「シスター・チャンドラとシャクティの踊り手たち」の上映会とKNOB君と私のミニコンサートのお知らせです。
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演奏者略歴

松居 和

 

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1954年、東京生まれ。慶応高校在学中に尺八奏者宮田耕八郎師に指事。慶応大学哲学科からカリフォルニア州立大学(UCLA)民族芸術科に編入、卒業。?UCLA在学中に尺八奏者としてテレビ映画「将軍」のサウンドトラック(モーリス・ジャール音楽)に参加、アメリカにおける音楽活動を始める。その後、ジョージ・ルーカス制作「ウィロー」、スピルバーグ監督「太陽の帝国」、ブラッド・ピット主演「レジェンド・オブ・フォール」、シュワルツネッガー主演「レッドブル」「コマンドー」、アントニオ・バンデラス主演「マスクオブゾロ」「レジェンドオブゾロ」、エディー・マーフィー主演「ゴールデンチャイルド」「続48時間」はじめ多数のアメリカ映画に参加。

 ジョニ・ミッチェル「Dog Eats Dog」、ライ・クーダー「Slide Area」、ケニー・ロギンズ「Leap the faith」、ジョージ・ハリソン プロデュースによるシタール奏者ラビ・シャンカルの「East meets East」他、多数のアーティストのアルバムで演奏。

 自らのアルバムを16枚制作。音楽プロデューサーとして多数のアーティストを手がける。日本映画「首都消失」および、チャカ・カーン、ジェームス・イングラム、パティ・オースチン、フィリップ・ベイリーを配した全米ツアー「Night on the town」の音楽監督を務める。

 

講演者

1988年、アメリカにおける学校教育の危機、家庭崩壊の現状を報告したビデオ「今、アメリカで」を制作。1990年より98年まで、東洋英和女学院短期大学保育科講師。「先進国社会における家庭崩壊」「保育者の役割」に関する講演を保育・教育関係者、父母対象に行い、欧米の後を追う日本の状況に警鐘を鳴らしている。

2004年版文芸春秋社「日本の論点」に「子育ての社会化は破壊の論理」を執筆。

2006年から2010年まで埼玉県教育委員会委員。(2009年から2010年まで委員長)(2011年から2013年まで埼玉県児童福祉審議会委員)

2008年、制作、監督したドキュメンタリー映画「シスター・チャンドラとシャクティの踊り手たち」〜インドで女性の人権問題で闘う修道女の話〜が第41回ワールドフェスト・ヒューストン国際映画祭、長編ドキュメンタリー部門で金賞受賞。

 

 

 

 KNOB(ノブ)
本名 中村亘利 雅号 恒堂

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13歳からダンスを始め芸能界で活動後、25歳の時にオーストラリアにて先住民アボリジニの人々の楽器ディジュリドゥに出会う。強い衝撃を受ける。帰国後、独自にトレーニングを重ねる。この時期、縄文からの日本古来の石笛の存在を知る。

一方幼少のころから書に触れ、文人小野田雪堂に師事。2002年師範となる。現在は北鎌倉雪堂美術館を拠点に全国で活動。茶の湯、能楽の精進を行い、日本人としての精神、文化を空洞の木の音、響きの本質と共に世界に発信している。

2004年、アボリジニの長老ジャルー・グルウィウィジャパンツアー支援CD「ワンガイ」に参加。

2005年、浮世絵師北斎の世界を音にしたCD「観音」を発表。

2006年、重要文化財奏楽堂にてKNOB Live 「和の心にて候」を行う。

2007年公開映画[地球交響曲第六番]虚空の音の章に出演。

2008年、伊勢市猿田彦神社猿田彦フォーラムおむすび祭りにて演奏。四天王寺にて被爆ピアノと共演。 茶の湯の文化、精神性に強く惹かれ、この年から毎年「雪堂茶会」を行う。

2009年8月15日終戦の日に地球交響曲第六番上映会&虚空の音コンサート&龍村仁監督講演を行う。インドでカースト制撤廃と女性の地位向上のために活動する[シスターチャンドラとシャクティの踊り手たち]の日本公演に友情出演。MOA美術館能楽堂にて行われた「和の心にて候?十方彩雲?」に出演。

2010年、西新井大師・光明殿にて『江戸の浮世絵師・葛飾北斎生誕250年記念コンサート』を開く。

2011年、有形登録文化財 代々木能舞台にて 『KNOB東京音開き』を行う。オーストラリア先住民アボリジニのククヤランジ族の聖地にて奉納演奏を行う。神奈川県葉山にて自然栽培による米作り始め、1123日 代々木能舞台にて新嘗祭を寿ぐ『実りの祈り』を開催。

2012年、『世界平和・地球への祈り』として比叡山延暦寺・根本中堂にて笛奏者雲龍氏と共に献笛。

2013年2月、インド霊鷲山、マハボディー寺院、日本寺をはじめとして、インド・ブータン各地各寺院にて奉納演奏を行なう。長崎市原子爆弾死没者供養祈念塔での仏舎利奉安式にて献奏。平成二十五年度文化庁芸術祭参加作品『日本神話の世界』を俳優田村亮氏とInfinity Arts Mugenにて行う。

 

奉納演奏

富士山本宮浅間大社、天河大辧財天社御遷宮二十年記念大社祭、倭姫宮、元伊勢伊雑宮、元伊勢籠神社、奥宮・真名井神社、熊野本宮大社、諏訪大社上社本宮、那智の滝、猿田彦神社、平等院、鞍馬寺、伊豆山神社、江島神社中津宮、江島神社奥津宮、中尊寺、毛越寺、鶴岡八幡宮、榛名神社、金峯山寺、観音正寺、東慶寺、円覚寺、宇治上神社、伊弉諾神宮(淡路島)、おのころ神社(沼島)、慧日寺、薬師寺東京別院、玉置神社、神倉神社、四天王寺、日枝神社山王まつり、日蓮宗総山・久遠寺奥の院・七面山敬慎院 前宮、應頂山勝尾寺、ルーテル学院大学教会、箸墓古墳、後醍醐天皇陵(如意輪寺)、仁徳天皇陵、大安寺、橘寺、 高千穂神社、大倉寺(元高野)、笛吹神社、花山院、出雲大社大遷宮奉祝奉納、薬師寺東京別院観月祭、京都木嶋神社蚕の社  、實相寺、奈良岡本寺、長崎興福寺、隠れキリシタンを祀る枯松神社 、ほか。

政府がつくり出す非人間的な光景と、園長先生からの三通の手紙/集団の中での幼児の発達/追悼ジェームス・ホーナー

 小規模保育や企業型保育所が国の新制度で奨励され、「子ども優先」という保育の原則を知らない人たちが利益を目的に参入してくる。そして、保育界の常識が変わり始めています。親たちの子育てに対する常識も、「政府がやっているサービスをなんで利用しちゃいけないの?」という言葉と共に、ここ数年で急速に変わりつつあります。

 利潤追求型の保育が、定期的な立入り調査もなく安易に容認され、サービスの手法として、英語や音楽、リトミック教室、体操、お絵描きといったお稽古事を保育と平行してやる保育所や学童が増えてきました。以前からもあったのですが、もう少し子どもに対する配慮、保育の常識をわきまえていたように思うのです。

 追加料金を払って、子育てをしている気でいたい親。保育所で何が起こっているか確認しようとしない親たちはよほど注意しないと、最近の保育室では常識を越えたことが起こっています。保育や子育てに関する意識が変化する中、その内容は規制もなく様々で、中には、お金を払っている子だけにとびとびで英語で話しかけたり、お遊戯させたり、というとんでもない業者さえいる。一部屋に複数の幼児を生活させて、お金を出している子にだけ、みたいなことを保育士が出来ること自体が根本的におかしいのですが、業務命令でやってしまう。そして、それに慣れてゆく。これでは幼児を集団にしている意味はないし、社会性という観点からすれば逆効果でしかない。

 0才児を預かる24時間型の保育サービスもそうですが、普通人間はそういうことをやらない、という光景が政府の「保育は成長産業」という閣議決定のもとにあちこちに現れているのです。子供の気持ち、子供の育ちより、親相手の金儲けが優先する。こういう保育はいずれ淘汰されると思います。そうであってほしい。しかし、それに気づくまでに子どもの人生において取り返しのつかない出来事があちこちで起こっていて、それは社会全体にこの先長く影響するのです。取り返しのつかない日、本という不思議な国の文化や伝統が、自らの手で失われようとしている。

 保育の意味さえ知らない会社の方針に従い、お金を払っていない親の子どもの気持ちを平気で、一部屋の中で一年中無視できるようになる。子どもの気持ちを優先しない国策に影響され、こういう保育士が増えてくる。そして、こういう大人たちに囲まれ、育てられ、国の未来はますます殺伐としてくるのです。

 他人のことなどどうでもいい、自分のことしか考えない、そんな社会の空気に幼児期から囲まれた子どもたちに「道徳教育」やカウンセラーで対処しようとしているのだから、馬鹿馬鹿しくなる。経済よりも国のあり方、美しさを優先する政治であってほしい。そんな願いも虚しく、一年が暮れてゆく。

 こんなことをしていては、結局、心ない「子育て」を押し付けられた保育者や学校の先生が疲弊してくるだけです。それは、義務教育によって、すべての子どもたちの将来に影響する「環境」です。

 

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 手紙1

松居先生

 

 ご無沙汰しています。 お変わりなくご活躍のことと存じます。

 先週公私立の主任会の席上1日保育士体験の報告があったそうでお知らせいたします。 

 K市も9月からやっと全園で取り組み初め、いろいろ議論があったようですが、「案ずるより産むが易し」でそれぞれ好感の報告だったそうです。

 ある園では、転勤で埼玉県から引っ越してこられた方があり、向こうですでにお父さんが体験されて K市でも希望されたケースもあり今のところ順調に過ぎております。

 これからいかに継続、発展させていくかが又問題となってくると思いますが、全園児保護者体験を目指して努力してまいりたいと思います。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。ささやかなご報告で申し訳ございませんが引き続きご指導よろしくお願いいたします。                                             K市 A.J.

 返信:1

  ありがとうございます。嬉しい限りです。

 いま、保育界が追い込まれている、人材不足、財源不足、親の意識の変化、規制緩和や水増しによって広がっている質の低下を考えると、一日保育士体験で象徴的に保育の存在意義と子ども優先の姿勢を社会に対して明確にしてゆくことが一番大切だと思います。それにより若い保育士に、保育は親に対するサービスではなく、子どもを優先に、子育てをしている、それには親との協調、信頼関係が必要なのだという意識を持ってもらわないと、このままずるずる国のいう「サービス産業化」に進んだら、いい保育士は集まらなくなってしまうと思います。

  どうぞよろしくお願いします。

松居

手紙2

  拝啓 暑さ厳しい毎日ですが、ますますご清栄のこととお喜び申し上げます。

  この度は、ご多忙中にもかかわらず、S市立保育園園長会研修の講師をお引き受け頂きまして誠にありがとうございます。

 S市立保育園で「保護者による一日保育士体験」を取り入れて6年経ちます。軌道に乗るまでには時間がかかりましたが、最近では保護者の方からまた今年もやりたいと言ってくるまでになり、子どもと過ごす楽しさや可愛さが伝わり、参加して良かった、やはり半日の保育参観とは全く違う、行事で素晴らしい成果を発表できるのは日々の保育の積み重ねがあってこそ、などの感想が寄せられています。紙芝居を必ず読んでいただいていることについても、これだけが心配だったと話す父親もいますが、思っていたよりも子どもたちが良く見てくれて自信が持てたと感想に書いてくれています。一日、子どもと過ごし、職員の気遣いや配慮、生き生きと遊ぶ姿に共感し、保護者と園との関係も理解しやすい関係になってきています。

 ますます、保護者の親力を向上させるためにも、保育園が子どもたちの健全な成長発達を促し、いつ誰に見られても胸を張って保育を展開していくことができるようになるために、松居先生にご講演をお願いしたいと考えました。

 どうぞ、よろしくお願いいたします。

 

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不自然な環境の中での発達

 最近の子育てに関する議論、児童虐待の増加やイジメ・不登校、噛みつきや反抗期などの問題に関してもそうなのですが、学問が専門分野化し、学者や専門家たちが、集団教育、集団保育を前提として発達を考えている。それを是とした上で考えているから場当たり的な対策しか思いつかない。子どもをこれだけ長時間集団にすること自体がかなり不自然で、現状は、その不自然な環境の中での発達だということを忘れてはならないと思う。

 そこを理解しないと、保育で何が出来るか、学校教育で何が出来るか、という議論になってしまう。

 保育で何が出来ていないか、ということを第一に考えなければ、保育は成り立たない。

 何が出来ていないか、の第一は、親が子どもと一緒に過ごせていない、ということ。それが、未体験の「親の無関心」「家庭崩壊」を招くことは欧米の極端な数字を見ても、日本の最近の保育崩壊を見ても明らかだと思います。

 

 

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 北海道の田舎で講演後、校長先生三人、教頭先生三人、PTA会長三人と飲みながら大いに語り合いました。この組み合わせで頻繁に話し合い、子どもの成長を祝うチームワークがあれば、日本の学校はまだまだ大丈夫。幼稚園や保育園で親心を育てることが学校を支え得る、と思う。まだ間に合うと思う。

 そこから30分の札幌のような大都市では、誰かを育てる役割りを持っている子どもたちが、障害児学童と重ねて利益を追求する人達に利用され、集められ、時にそこは犬の訓練所のようだと言われることもあるような部屋に囲われ、孤立し、人間の相互不信の原風景になってゆく。

 

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手紙:3

松居先生

 お忙しい中わざわざご丁寧な返信を頂き恐縮するとともに大変感動しております。有難うございました。今回は、我が園の新しい試みに少しお耳をお貸し頂きたくメールさせて頂きます。

 私どもK保育園は、創立者が寺の住職で、第2次世界大戦の折、1944年召集され、終戦後3年間捕虜としてシベリアで重労働に従事し、お仲間がどんどん亡くなる中、命永らえて帰還してまいりました。捕虜時代、現地の人が自分たちに言うことと隣りの人に言うことと180度違うことを言っていてもまるで良心の呵責を感じない場面に度々出合い、日本も敗戦国だけれどあのような国民には、なってほしくないとの思いで、幼い時からしっかり仏の教えを幼い人に伝えたいとの願いから、帰還後5年に定員40名の小さな保育園を創立しました。しかし、個人立ではにっちもさっちもならず、社会福祉法人格を取りましたが、保育の理念はあくまでも仏教によっております。そんな関係で、障碍を持つお子さんも皆とともに育ち合ってほしいと統合保育を学級編成は、縦割りを特徴としております。

 子どもの行事に関しましては、保育園は、保護者の就労を支える場所ではありますが、常に幼い人の代弁者でありたいとの思いから、日頃大人のスケジュールに合せられている子どもに対し、行事の際だけは大人が、子どものスケジュールに合わせて頂きたいと4月の時点で、年間計画を保護者に示し、休暇の取得を予めお願いしています。

 このあたりのことは常々保護者に理解を求めてはいますが、毎回行事の度に出てくるアンケートは土日に行事を開いてほしいというものが多くあります。行事の一つ、毎年、12月8日は釈迦の悟りを開かれた成道会(じょうどうえ)という仏忌に当たりますので、前半セレモニー、後半子供たちの生活発表会の2部仕立てで開催しています。今年も次のようなアンケートがまいりました。

 「昨年までは乳児組だったので、あっという間に出番が終わってしまう感じがして、他の学年も見なかったのですが、今年は、見ごたえがあるなと思いました。まずは、物語劇、あれだけの長い科白を全員がよく覚えたなと感心しました。又、毎年違う物語なのでい衣装も小道具も後ろの背景も全部作るのが大変だったろうなと思いました。先生方のご苦労を思うと有難いです。来年象バッジ(年長組)として、あれだけの大役をこなせるのか、正直心配ですが、たのしみでもあるなと思いました。やはり仏教の教えが根底にあるので、どの出し物も心に響くものがありました。その点で、K保育園はかけがいの無いものであると思います。ただ、1点だけすみません。

 職場では平日に行事が行われることに理解が得られないようで、、保育園なのに、何故休日に行事をしないのかと言われるたびに心が折れそうになります。職場のあるK市ではそれが普通だとか。もう少し休日の行事が増えると有難いと思っています」

 最近は子供に対する大人の許容量が狭くなり、世田谷の保育園新設に対し、近隣住民から反対運動が出たニュース等寒々とした報道が次々出ています。保育関係者が、必死に子どもの立場を訴えても、なかなか時代は変わってこないことに気付かされ、行事に参加を可能にしてくれた職場の仲間に園としてもお礼を伝えることで、子どもの立場をアピールできるのではと考え、今回初の試みとしてお礼状を職場に届けて頂くようお知らせを出しました。先のアンケートの方は勿論ですが、他にも希望者が出るのではと思いましたが、一向になしのつぶて、いささか落胆していましたら数日後、隣の市の役所に勤務のお父さんから、職場のみんなに伝えたいからと礼状を求められ、思わず、やったー!とガッツポーズでした。

 K市は、「子育てはK市」を合言葉に市長さんは住みやすい市を強調されますが、いつも申し上げているのは、卒園後、15年すれば、立派な市民、その時、本当に立派な市民であるかどうかこの乳幼児期のありかたにかかっていることです。1日保育士で、親を巻き込み、お礼状で、一般市民の理解を深めてもらうということにならないかなと考えています。甘いかもしれませんが・・・・とりあえず、気付いたところから小さな一歩をと思っています。

 来る年もどうぞよろしくお願いします。 

 

追伸:松居様

実は、スリランカに創立11年になる姉妹園を持っていますが、そちらで、毎年11月末に「TALENT CONCERT」として、いわゆるお遊戯会を開いております。、  毎年それに参加する度に感じさせられることがあります。  園児数160名前後ですが、園にホールがありませんので、毎年、コロンボのホールを借りて開催しております。今年度も800人の収容能力のある貸しホールが、ほぼ満席の状況でした。園はコロンボから1時間半ほど南のピリヤンダーラにありますが、内戦続きでなかなか幼児教育まで行政も手が届かなかった中で、内戦も終わり、子どもの教育に先行投資をする考え方が増えてきたせいでしょう24名でスタートした園でしたが、少子化の日本に比して、入園希望者が増え、数の上では姉園を上回っております。  そんな中、このお遊戯会に、一族郎党、ご近所さんに至るまで、園児数の3倍以上もの観客が、ホールを埋め、会終了後は、親子で帰宅するという日本では考えられない場面を目の当たりにし、いつもその落差に胸を痛めております。といいますのも、向こうが終わって帰国し、我が園の行事に参加すると、保護者は、プログラムで我が子の出番の間だけ、時間休を取り、参加出来ない家族のためにビデオを撮り、そそくさと職場に戻り、さらには、居残り保育を申請される場合もあります。  幸い、我が園では、この日は一日子供のために、舞台が終わっても、その余韻に親子で浸ってほしいということを何かにつけお願いしていますので、居残りはありませんが、公立さんは、行事が終わって半数以上は居残り保育と言われます。  休日に行事を開催すると園の立場上代休を取るわけにはいかず、そうなると職員の休暇のやりくりがとても大変になります。職場によっては、行事のプログラム等を職場に事前に出せばすんなり休めるという方もありますが、そうした職場は希少で、アンケートにもありましたように肩身の狭い思いをして行事に参加されている方も少なくありません。そんなこんなで今回の礼状作戦になった次第です。

返信

 

 スリランカの風景、とてもよくわかります。

 私も何度かインドへ行き、貧しくとも落ち着いている村人の生活などを眺めていて、子育てが「生きる」中心といいますか、人々が心を合わせるために存在する風景に繰り返し出会いました。それを思う度に、今の日本政府が薦めようとしている「保育改革」が、子育ての本質を人間社会から奪ってゆくように思えてなりません。それが保育園における親たちの意識の変化に一番表れている。だからこそ、いま動いている保育施策のゆくえが、日本の将来を決定づけることになると思うのです。

 まず現場が、保育の本質と子育ての意味を忘れてはならないのだと思います。

 

松居

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年末、フィギアスケートの放送を見ていたら、1人の選手が映画「マスクオブゾロ」のサウンドトラックを使っていました。私が吹いている部分は使われていませんでしたが、ジェームス・ホーナーの作曲でロンドンのAir Studioで、一ヶ月滞在して作った音楽です。

今年、ジェームスが亡くなりました。同じ歳の彼とは20本くらい一緒に仕事をしました。ブラッド・ピットが主演した「レジエンドオブフォール」、これもスケートでよく使われるのですがジェームスの作曲、指揮で、メインテーマをロンドンシンフォニーをバックに尺八で吹いています。

足し算してみると一年以上の日々を一緒に過ごしたことになります。

 

永遠に少年のような人でした。心からご冥福をお祈りします。

 

今年も色々ありましたが、私には、ジェームス・ホーナーが逝った年、ということになるのです。音楽を一緒に作る、という行いは、それほど特別な体験なのだと思います。魂と魂をつなぐ、言葉とは違う次元の、人間が人間であるための不思議な、それゆえに絶対的なコミュニケーション手段。沈黙という宇宙が常に介在する、大切な心を合わせる手段なのだと思います。

彼が逝ってしまったことを思う度に、胸がひりひりします。

 

Thank you, James. I will keep playing for you.

 
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保育士さんの面構え/中堅保育士さんからのメール:本音で言う人/心ある保育士が何に傷つくか。/2才児の不思議さ。人間の意思と宇宙の意図

保育士さんの面構え



 あちこちで講演をしながら、役場のひとたちに、国や親のいいなりになって保育の質、保育士の心のゆとりを失っていったら、取り返しつかないことになりますよ、と説明する。保育や学校教育を存続させたいのなら、心ある保育者を大切にすることです、とお願いする。

 保育士さんが集まっていると面構えを見てしまう。ほぼ全員女性の聴き手に「面構え」はそぐわないのですが、今の保育事情を考えるとこれは結構重要問題で、地域の環境によってずいぶん違うのです。山に囲まれた公民館で粒ぞろいの200人に出会いました。思わず窓の外に目をやり、山々のおかげかな、と考えてみましたが、講演終了後話を聴いて納得しました。すべて公立の保育園という地域なのですが、9割が正規職員だと言うのです。それだけ予算をかけて守ってきた保育なのです。

 20年前なら、保育士の待遇がその面構えに直結することはそんなにはなかった。しかし、これほど保育士が不足している今、地方公務員として募集すれば確かに倍率は出る。保障も昇給もありますから長続きもします。待遇は勤務年数につれて非正規の2倍3倍になっていきます。公立特有の問題が色々あったとしても、全体の保育者としての意識は確かに維持出来る。お互いの意識がいい方向へも悪い方向へも影響し合うのが保育です。これは子育ても同じで、十人親がいれば、子育て苦手という人が一人は居て、でも混ざっていれば全体のレベルはいい方向へ向かう。子育て上手という人は幸せそうな顔をしていて、人間はそういう人を真似ようとするからです

 過去十五年くらいの財政削減の矢面に立たされ、保育士は公立でも非正規、臨時採用が7割を超える自治体が増えています。そこへ、税収が格段に多い東京の自治体が、居住費月八万円援助みたいな補助金を出し、地方から保育士を吸い上げようとする。賃金を上げずに居住費を上げるところが姑息であからさまです。地方はどうなっても構わない、という感じがするのです。

 国全体が「自分さえ良ければ」という市場原理に巻き込まれ、それが「子育て」の領域にも浸透し、(親も含めて)それを何とも思わない社会になってきた。こんな施策を進めておいて、「地方創世」「一億総活躍」などと言うのです。地方を回ることが多いので、こういうやり方には腹が立ってきます。


中堅保育士さんからのメール/本音で言う人

 

 お久しぶりです。

 長らく連絡できずに申し訳ありませんでした。本当に色々ありました。現在進行形で問題勃発しています。新制度になったからなのか、もうとっくの昔に日本は終わっていたのかはわかりませんが、親心を空っぽにするために保育園があるような気がしてなりません。親も、上も、メディアも、政治も、みんな◯◯です。言い過ぎかもしれませんが、最近そんなやつとそんな画面しか入ってきません。

 子どもの成長ではなく、子どもの寂しさを育んでいるだけのような気がします。

 本当はもっともっと前に、連絡してお話しようと何度も思っていたのですがただの愚痴になりそうで、なんだか申し訳なくて連絡できずにいた次第です。

 お金です。

 女性に働いてもらって、経済を豊かにする。

 そこだけ。

 それを謳えば好感度が上がるから、バカみたいに保育園増設、待機児解消と言っておけ精神。

 それらに反対すると、古い、の一点張り。 ありえないです。

 なぜ、保育士が足りないのか、その原因を分かっていないから、エンドレスでしょうね。

 なんだかパワーがでなくて。

 少し前まで怒りがパワーになってぶつかっていけたのですが、その力もどっかいっちゃって。

 保育園の在り方も託児所化しています。親は自分の都合で預けたい、優先順位は自分です。それが一人や二人じゃない。

 自分の時間が一番なんです。

 親が、親である前に「個」でいようとするのです。

 親になった以上、親でなければいけないのに。特に乳児期は。

 そこを支援せず、親の個としての生き方を援助しているだけです。

 人の土台を作るのが親ではなく、保育士であっては絶対にならないのです。

 もういやです。

 

(私の返信がここに挟まります。先日下関の自民党女性局のイベントで講演し、安倍さんの秘書が来ていました。講演の前に大きなクスノキに出会い、「気」をもらいました、というメッセージと一緒にクスノキの写真を添付

 

 是が非でも安倍総理の秘書の方から安倍総理本人に、どうか、どうか、松居先生の言葉、思いがまっすぐ、まっすぐ届き、少しでも子どもに寄り添った政策になりますように。

 本当の意味での子どもの幸せを、もう一度考えて頂けますように。

 そして、今の危機的状況を理解しますように。

 

 松居先生、講演など、お忙しいと思いますが

時間があります時に是非またお会いしてお話させて頂ければと思っております。

 私だけでなく、前回共にいた先生方のモチベーションがだだ下がりです。

 様々なことによって。エネルギーをチャージしないと、潰れてしまいそうです。

 



 

(地方の公立保育園で、親と保育士に講演し、穏やかな園長先生と役場の人とお茶を飲みながら話していて、ふと憶い出して携帯に入っていたこのメールを読んだとき、園長先生と役場の人の目に涙が浮かんだ気がしました。その奥に炎が見えました。

 状況を真剣に考え、把握し、怒りをエネルギーにして頑張ってきたひとたちが潰れてしまいそうになっている。親に言えない。上に言えない。役場に言えない。幼稚園や障害児デイも含め、本音が言えない人たちが幼児期の子育てに、より深く関わっている歪みが出て来ている。一番長時間関わっている人たちの気持ちが尊重されていない。)



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 心ある保育士が何に傷つくか。

 「休みの日は一緒にいてあげてください」と親に言って、親が人権侵害と役場に駆け込む、プライバシーの問題だ、上から目線だと気色ばむ、そんな瞬間に、一体自分たちは何をやっているんだろう、と思う。

 子どもを優先しない親たちの身勝手な一言で、保育士の人生観が壊れることがある。そして、心ある保育者が辞めてゆく。国も学者も、なぜこれほど保育士が不足する事態になったのか、わかっていない。(理事長や設置者も度々わかっていない。)「心ある」、これが保育そのものだった。

 政府も、学者も、報道も、人間が生きるための優先順位、子育ての優先順位を一度しっかり考え直さないと、このままでは保育界は立ち直れない気がします。政府は、保育界から「心」を奪うような施策を続けている。もうこれ以上、学校教育を支えるのは無理でしょう。

 どんなに仕組みを変えてみても、保育の質は保育士の幸せであり、その幸せの「物差し」を現場で伝える園長や主任、ベテラン保育士の決意であって、その決意は親子関係を眺めることから生まれていたのです。そこに気づかなければ、現実に起こっている保育崩壊は止められない。教員資格を持っていれば保育士になれる、地域限定の保育資格を新たにつくる、などという場当たり的な規制緩和が続いています。これでは保育士の意欲はそがれるばかり。国が言うようにこのままサービス産業になってしまったら、「いらっしゃいませ、ありがとうございした」という送り迎えの時だけの接客になってしまう。それでもたぶん多くの現場で保育士の真心は生き続けるのでしょう。しかし、親たちの意識の変化はその子たちの一生を左右してゆくのです。

 保育は教育以上に子育てだった。子育てをする「思い」の共有だった。だからこそ園長や主任、ベテラン保育士の「優先順位を間違っている親は黙ってここを通さない」という決意が保育の根幹だったし、保育所保育指針にもすでにそう書いてある。それが出来ていたかどうかは置いておいて、日本の保育に対する「思い入れ」「視点」は素晴らしいものだった。

 

 政府は、閣議決定で「保育は成長産業」と言い素人起業家たちの新規参入を促し、新制度で11時間保育を標準、8時間を短時間と遺伝子や宇宙に相談すること無く勝手に決め、三歳未満児の枠を増やす意図のこども園を、「幼稚園と保育園の良い所を併せ持つ」と、保育士不足の今ほぼ不可能な定義で無責任に宣伝し、それがうまくいかないと様々な規制緩和。「あと40万人保育所で預かれ」という首相の経済主体の方針を進めようとする。(先月、その目標が50万人になった。現状を知らないのか、誰も進言しないのか。)

 「障害児デイ」という言葉でネット検索すれば、いま保育界で起こっていることが映し絵のようにわかる。素人でも大丈夫。これで儲けよう、というビジネスコンサルの(コンサルタント料稼ぎの、あとはどうなってもいい)勧誘。彼らは、子どもの日々のことなど考えない。釣られた起業家が一年で倒産しても見向きもしない。私が一番危惧するのは、その倒産してゆく過程で子どもたちの日々に起こること。

 設置者を除けば資格は必要なし。設置者の資格も広過ぎて、指圧師の体験が数年でもできる。厚労省の資料(障害児支援の強化について)にはお得意のパワーポイントの図が並ぶ。そこに書いてある「提供するサービス」を読み、「資格無し」を考えれば、その向こうに子どもたちの叫び、泣き声が聴こえてくる。色々ある保育現場の中でもここはいま無法地帯。

 子育て経験も無い素人指導員の「訓練」を受け、子どもが園に戻って暴れる。障害を持っていそうな子は愛着関係で包むのが第一歩なのに、厚労省のサービス規定(日常生活における基本的な動作の指導、知識技能の付与、集団生活への適応訓練)に、無資格の素人が取り組めば、イライラがすぐに密室での強制になってゆく。資格者でさえ複数の発達障害の子どもを指導するのは難しい。「誰でも出来ます」というコンサルの甘言が、経済学者の言う「市場原理」を端的に表している。人間性を失った市場原理は、弱者を追い詰める。

 

 報道は一体何をしているんだろう。

 日本中どの市でもいい。子ども課の職員に、「保育士足りますか」「来年シフト組めますか」「現場に居るべきではない保育士雇ってませんか」「政府の保育施策,可能だと思いますか」「親の意識,変わってませんか」と聴いてみれば、この国の置かれている状況がわかるはず。

 保育士がいないのに未満児の入所希望が倍増。来年はもうシフトを組めません、という保育課長の声をあちこちで聴く。待機児童が出てもいいから保育の質を落とさないように、とお願いする。保育所は人間同士の様々な葛藤を生む場所。親と保育士、園長と主任、行政と園長、子ども優先という視点が崩れ始めると、子どもに見られているだけに不信感が増幅する。気持ちや時間の余裕を失うと共倒れになってゆく。質の低下は連鎖し保育士不足が加速する。




2才児の不思議さ/人間の意思と宇宙の意図 

 

 保育新制度のこともあり去年から講演が増えました。今年も150回、それだけ現場や地方の状況もよくわかります。もともと保育士さんの勉強会、幼稚園・保育園の保護者たちにする講演が多かったのですが、学校の先生や保護者、保護司、民生委員さん、宗教的な集まりにも呼ばれます。去年は年初に自民党の党大会女性局の集まりで講演した後、十五の県連女性局から講演依頼があり、女性たちの思いはそんなに揺らいでいないのではないか、と意を強くしました。こういう人たちの意見を聴いていれば,政府もそんなに間違わないし、保育界も追い詰められなかった、と心底思います。

 冒頭で、2才児の不思議さ、存在意義について話すのです。

 私が一人で公園のベンチに座っていたら、変なおじさんです。でも、2才児と二人で座っていたら、いいおじさんです、と説明をすると、みなさんハッとして、なんとなく理解出来、「一緒に」笑顔になります。

 「そのことは知っている」という感覚がその場に満ちる。遺伝子のレベルで「そのことはみんな知っている」。

 この笑顔、人間性と言ってもいい共通の理解を体験することが社会を形づくるのだと思います。私と、横に座っている2才児のあいだには、宇宙(遺伝子)の相対性理論のようなものが存在し、それは時に神話のようなもので、無意識と意識の間に存在する。2才児は私をいいおじさんにしようとして座っているのではない。ただ座っている。

 単純に、宇宙の意図がとなりに座っている。

 「不思議が果てしない」。

 そんな感覚をなんとなく二人で身につけ、ハッキリはわからないけれど、自分の体の中にある遺伝子の説明に耳を傾ける。そんな瞬間が人間には必要なのだと思います。

 高校生の保育士体験で、ズボンを腰まで下げて悪ぶっていた高校生が、三才児にズボンのはき方を説明されて慌ててズボンを上げる。校長や教頭が三年注意しても上がらなかったズボンが、三才児が指摘するとすぐに上がる。

 三才児は無心に無意識に、自分の存在意義と高校生の成り立ちを指摘する。

 高校生は無意識の中で、三才児がいるから自分がいい人になれる、三才児がいるから、自分はすでにいい人なのだ、ということを知っている。知っていることを憶い出すために、高校生には三才児が必要、ということなのです。

 

 遺伝子に組込まれているもの、年月をかけ、進化の過程で培われたものを、社会という括りの中で(たとえば常識や文化といういい方で表してもいいのですが)、身近に感じさせてくれるのが乳幼児とのやりとりだったはず。幼児と丁寧に暮らし、その時「本当は、誰と誰が、何と何が」会話をしているのか、無意識の中で気づかないと、自分自身の成り立ちがわからなくなる。人生という限られた時間の中で、自分自身を充分に体験できなくなるのです。三歳未満児を生産性のない人たち、と括って、単に育てばいいんだという浅い考えで政府が家族たちから引き離すと、双方向に不安がどんどん広がっていきます。

 

果てしない不思議

 

 話を戻して、この「2才児」というのに意外に意味があって、公園で私の横に座っているのは2才児でなければならない。私がそう感じるのは、私たち二人の背後に大きな沈黙が感じられるからです。背後に沈黙、周囲に余白がないと、言語を介さない会話の意味や姿がうまく見えて来ない。

 背後に沈黙を感じないと、言葉は、深さや時間的広がりを失う。

 私はよく「4才児=人間として完成」説を言うのですが、頼りきって、信じきって、幸せそう、そこに宗教の求める人間像がある、という説明をつけます。しかし、無心、という境地の解説を宇宙が人間にするには、2才児が鍵を握っている、と思うのです。

 高校生がズボンのはき方を三才児に指摘される話も同様で、その時、なぜかほぼ必然的に「3才児」が登場する。生まれて、人々との一体感を身につけようとしている人の、連帯を求める意識が、ワルの高校生の遺伝子に語りかけるのでしょう。いい人間になろうとする意識が、意図として存在している。

 幼児期の人間には、みんなで見張るのではなく、みんなで愛でる祝うという周囲の環境がより重要なのだと思う。独特の存在感、大切な弱者という感じは、眺めている「みんな」の心を一つにする。それが人間社会の成り立ちの原点であって、養成校で与える資格以上の、人間としての資格を私たちに与えてくれる。

 

 人間の意思と、宇宙の意図(または遺伝子の中に形成されてきた宇宙と人間の育ちあいの過去)が、ある一定の重なりを持っていないと、人類は調和の方向へは進化しないし、マイナスの進化は相対的に常に存在しているから恐い。どの次元で道を選択するか、なのだと思います。


仕組みや役割分担で子育てはできない/言語の習得期という意味での幼児期



役割分担で子育てはできない



 

 三歳未満児は小規模保育で、そのあとは保育園で、と国はとても安易に目論む。

 以前、経済財政諮問会議の座長が「0才児は寝たきりなんだから」と言った。そういう連中が保育の仕組みを「新制度」と言って変えようとしているのだから空前の保育士不足も無理はない。「認可」扱いになった小規模保育の資格者は半分でいいし、ネット上では、「誰でもできる」「儲けるなら保育」というコンサルの宣伝が飛び交う。

 それまでにどんな保育を受けてきたかで三才児への保育士の対応は当然違ってくる。本来、一律に引き受けられるものではない。乳幼児期の発達を理解していないサービス産業的託児所保育を受けた幼児を集団で保育するのは難しい。どんな保育を受けたか、そういう施設ほど教えようとしない。

 仕組みで子育てはできないということを、国に助言する立場の学者たちが知らないからこういうことになる。仕組みをいじっていれば、役割を果たしていると思っている。


 国が薦める、三歳まで小規模保育そして保育園、その先は学校と学童という雇用労働施策は、実は、お互いどういう育て方をしているか理解していない仕組みが入れ替わり「子育て」をしていること。子どもは混乱するし、不安になる。保育士も教師も専門家だからと親は思うかも知れないが、「専門家」たちの間に絆がない。「専門家」を生み出す資格制度に心がない。資格の定義、取得する仕組みさえ保育士不足で簡単に変わってゆく。

 どう育ったかわからない子どもの子育てを、気安く引き受けてはいけない。

 欧米の家庭崩壊と犯罪率を見ても、元々家庭という土壌で「子育て」がそだてていた男女間の信頼関係が崩れると、人間社会は疑心暗鬼で土台からバラバラになってくる。

 「子育ての社会化」で生まれる人類未体験の疑心暗鬼が人々を競わせ、その必死さが、しばらく経済効果を生むのは一つの現実かもしれない。しかし、それでは目指すものが人間本来の幸福感とずれてくる。次世代を育てることを支える幸福観が土台にないと、社会全体が安定性を失う。福祉や教育という仕組みで肩代わりは出来ない。


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言語の習得期という意味での幼児期


 人間は成長し、言語によって考える、とよく言われる。言語によって思考を確認する、視る、というべきかもしれない。そして、言葉には”ニュアンス”があり、同じ言葉でも、それが話される時、話す人、その表情、声の質、その背後に存在した感情や沈黙によって微妙に違いが生じてくる。

 あるメロディーが異なる和音の上で奏でられると印象が違うように、背景や空気の感じ方の違いによって、言葉の意味に違いが生じる。

 大人が三才児と会話をする時、同じ単語が並んでも、幼児からの言葉は受け取る側には違って聴こえる。相対的な関係の解釈が会話の向こうに必ず存在するからだ。それは即ち考える沈黙、意識の中で語られる各々の言語が、それが取得された時の体験によって異なることを意味しているのだと思う。文化や生活習慣の違いももちろんだが、言語の取得体験が、たとえばそれが日本語か英語かヒンズー語かも含めて、人間の思考や共同体の成り立ちに少なからず影響を及ぼすということ。共通言語というのは一面共通体験の積み重ねでもあった。

 幼児は言語の習得期を生きている人たちで、この時期の沈黙と言語の体験が家族の意味や文化の伝承の世襲に重要に役割りを果たしていた。

 保育の質、保育士の質、保育園における職員配置の国基準は、そういう点で老人に対する福祉とは次元の異なる重要性を持っている。

 特別養護老人施設での人員不足の構造は、待遇が全職業の平均より月に十万円低いという数字も含めて保育士不足と酷似している。決定的に違うのは、そこで「育つもの」が異なること。保育園が家庭的であるかどうか、保育士がどういう頻度と”ニュアンス”を持って子どもに接するか、語りかけるかで、将来のこの国のあり方が変わってくる。同時に、社会性を持たない人間の数が変わってくる、とも言える。

 フランチャイズ系の一部屋しかない認可外保育園で、子ども向けの楽しげな音楽が流し続けられている風景に出会ったことがある。そこに異年齢の乳幼児たちの声や泣き声、様々な音が絶えることなく重なっていた。保育の専門家としての教育を受け、保育所保育指針を理解した園長や主任が居たら、絶対に起こりえない風景だった。私が二時間過ごすのが辛い人工的な空間でした

、その騒音から逃れられない状況で、一日八時間以上、年に260日幼児たち、そして保育士たちが選択肢を持たずに過ごしていた。それは確かに国によって造られた、常識では考えられない風景だった。


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 たまたま募集したよりも多く応募して来た、ちょっといい園の園長に、不採用の保育士を紹介してほしいという電話が他園から複数かかってくる。理由があって落としたんですよ、と説明しても、それでもいいから教えてくれ、と、明日国基準を満たせない設置者は必死に懇願する。判断はこちらでするから、と。幼児たちの過ごす時間や、存在意義が仕組みの存続、市場原理の原点によって忘れられてゆく。