新春、古備前の陶工のドキュメンタリーをテレビで見ていました。焼き物を作る姿と心を拝見しました。つくる、守る、愛でる、祝う、そして「自然」や「理」や「歴史」と共に環境を整えて待つ。あとはたぶん祈りが導く。
一時、心を静かにし、ときどき喜び、感動する。とても子育てと似ている、と思いました。
人生の質は、自分が育てている子どもが四歳になるくらいまでに、どれほどその子に信じてもらったか、愛されたか、そのことにどれほど確かに気づくか気づかないか、で定まってくるように思います。
親が子に、自然の摂理として無条件に愛されたことを意識し、それをどう自らの心に刻むかで人生は決まってゆくのだと思う。親がその関係の確かさを心に刻むことによって子どもたちが、「信じること」が生きる力なのだと、遺伝子のレベルで気づくのです。
生きる力は、技術でも、能力でも、競争に勝つ力でも、自立することでもなく、「信じること」の連鎖の中に身を置くこと。本来それが自己実現と呼ばれるものだったはず。そこを忘れると、人類全体の生きる力が弱くなってくる。(その源となる、一家の生きる力が弱くなってくる。)その中で必死にもがいているのが今の人類の姿だと思うのです。
繰り返し、幼児に完全に信じてもらう事で、人間は「神に愛されている」「仏の慈悲に包まれている」、そんな感触を持ったのだと思います。それはすべての人間が多かれ少なかれ体験する感触で、それになるべく気づきましょう、と勧める手段が「宗教」なのかもしれません。歯車が回り続けるように。
子育てという、形は色々ありますが、ほとんど誰もが体験する、意識をすれば誰でもより深く自分の良さを体験出来ることの中に、人間が社会を形づくるために不可欠な啓示があって、生体学的にいうと、それが人間の遺伝子をオンにする、ということなのかもしれない。それは体験であって学習ではないのです。
成人式が来ると思い出すのです。ある市長さんが語ってくれたこと。
私の講演を聴いたあと、役場の市長室で市長さんが言ったのです。
「先日、市の成人式で挨拶したんです。会場はザワザワしていて、お世辞にも行儀がいいとはいえない若者たち。私の話を真剣に聴いているようにも思えなかった。でも、出番が来て、幼稚園の園児たちがお祝いに舞台の上で踊りながら、歌をうたったのです。幼児たちが舞台に上がって並んぶと会場がシーンとなったのです。そして、成人した若者たちが静まり返って、その歌と踊る姿を見つめるのです。松居さんが言っていたのはあのことですね」
こういう理解の仕方はとても嬉しかった。
私はうなずきました。若者たちが、うらやましそうに園児を見つめる姿。それが宇宙の法則、遺伝子の働き、人間が真の幸せを探す姿なのです。園児たちの踊りと歌で、人間の心がまとまる。
若者たちはちゃんと、何を見つめるべきか知っている。