「村人が通るだけで」・「訴訟と保険で崩壊してゆく福祉社会」・『先進国社会で「子育て」を奪われた人間たちが孤立している』・嬉しいメール「子育ては自由だから」

2016年4月

 

「村人が通るだけで」

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更生施設の所長が懇親会で話してくれました。以前、学校が荒れ、校内暴力が蔓延していたころ、まったく荒れていない中学校があったそうです。その中学校は、村人の通り道になっていて、日常的に村人が校内を通り抜けていたのです。それだけのことで、校内暴力がまったくない学校が維持されていた。

こういう実話や、そこから何かを感じた人たちの伝聞に先進国社会の子育てに関わる様々な問題の解決策がそっと埋まっています。人間が一見無意識に作り出す風景の中から、何かを学び、美しさ感じ取っていれば、そうそう間違わない。伝達メディアの発達とコミュニケーションツールの進歩で、「風景が人間を育てる機会」が減ってしまったのだと思います。

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 人間は、日々の風景、特に「調和」を感じる風景によって、その感性を身につける。
 そして、「育つ」ということは「安心する」ということだった、と気づくのだと思う。
 
 日々の風景が環境となって、人間の心に何かをコツコツと刻み込む。安心の仕掛け、遺伝子の働き、それらが、人々が作り出す風景として現れ、脳裏に刻まれ、人間は本来の自分をより深く体験する。その内側を知る体験が幸福だったから、人類はここまで来たのだと思うのです。
 
 一人の良くない保育士の、手のかかる子に対する扱いが保育室の風景になることを忘れてはならないのです。それを見て、心を痛め辞めてゆく保育士の陰に、その風景を毎日見続ける幼児たちがいることを決して忘れてはいけない。それが保育という仕組みの恐いところだと思ってほしい。

 

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政府が施策として、三歳未満児をあと40万人保育園に預けることを「女性が輝く」「一億総活躍」と言って奨励するのであれば、その子育てを代行する保育士たちが「子どもに親身なる権利」は絶対に守られなければいけなかった。しかし、そこが「保育は成長産業」という閣議決定で崩れていく。日々子育てをしている保育士が輝く権利、活躍する権利が、親たちの「預ける権利」によって奪われようとしている。

子育てをしている人たちが輝かなければ、子育てはその本質を失う。親身になることで輝く人たちが、この国を支えてきた伝統文化そのものだった。

保育士が子どものために親に苦言を呈することが出来る権利、権利というより空気、または常識、人が生きる術といってもいい、それだけは守らなければいけなかった。

それがあったから、保育はかろうじて、ぎりぎり「家庭」の役割を代行することができた。「保育はサービス」という言葉でそれが消えてゆく。

「親身になる権利」と「預ける権利」は存在する次元が違うのです。「遺伝子の法則」と「近頃、人間が作った法律」ほどの違いがある。「宇宙の法則」と「個人情報保護法」くらい深さが違う。混同してはいけない。ぶつかりようがないのだから。「利権(りけん)」になりやすいほうが偽物。いま、そっちが優先されている。

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人間にとって、国にとって、子どもたちの幼児期の過ごし方がどれほど大切なことか理解していないいくつかの閣議決定が、三歳未満児を保育園で預かることを雇用労働施策として掲げるから、そして県の説明会で「財源はあるのですか?」という園長の質問に厚労省が「努力しています」としか答えられないから、市町村の保育課長たちと現場の保育士たちの溝がますます広がってゆくのです。

二年前、「人材はどうするのですか?」という質問に、「掘り起こせばいいのです」と大臣が答え、「70万人潜在保育士がいるのです」と社会学者が言った。ところが実際に県や都が主催しても、「掘り起こし大会」にはパラパラとしか潜在保育士はやって来ない。人材を探す保育園の数の方が多いくらいの不可思議な光景だった。その光景が、今の国の施策を暗示している。国も専門家も現実を知らない。

潜在保育士の多くは専門学校や大学で保育実習を体験し、資格を取ったとしても自分には無理、と自らを埋めてくれた人たち。「掘り起こさないでほしい。できることなら、一生埋めといてほしい」と現場が願っている人たちです。保育は資格さえあれば誰にでもできる仕事ではない。そういう実態を国や学者はわかっていない。保育士不足で、仕方なく「三年前、やっと埋めた保育士を掘り起こさなければならない」という市役所の保育課長さんの嘆きを理解できる人が、施策を考える人たちの中にいない。いまの保育崩壊は学者や政治家の勉強不足の結果だと思う。

(資格者を募集すれば倍率が出る、正規、地方公務員として面接し雇っても、ハズレが出る場合はあるのです。この場合「埋める」ということは、現場から外す、少なくとも幼児と接する仕事から異動させる、ということ。)

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「訴訟と保険で崩壊してゆく福祉社会」

 制度を市場原理化すると、保険料と訴訟がその仕組みの危険度のバロメーターになる。危ない事業には保険会社が手を出さない。渋々手を出しても、補償の額を極端に下げるか、保険料を極端に上げてくる。

 日本経済新聞に以前「小規模保育」に関して記事が載っていました。この記事は、小規模保育も保険に入れるから大丈夫、と言っているように見えたのですが、支払われる補償額の低さと、日本も訴訟社会になり補償が長く続いてゆくことを考えると、危うい感じがしたのです。

 

 アメリカの大都市で保険料が払えなくなって産婦人科医が次々と撤退していった頃のことを憶い出します。30年くらい前のこと。訴訟大国で訴訟対象になりやすい職種が保険会社のリスク算定によって採算がとれなくなってくるのです。

 「子育ての社会化」に関わる仕組みが、市場原理で広まり、やがて「保険」という別次元の市場原理によって排斥され淘汰されてゆく。これは信頼関係がまだ土台にある日本という国が未体験の、弱者切り捨ての市場原理です。いま政府が保育園で預かる子どもの数を雇用施策の一環として増やしても、数年後、その仕組みの質が保てなくなり、保険制度という市場原理の中で存続出来なくなってきた時に、「家庭」という、何十万年にもわたって培ったきた遺伝子に適う仕組みを取り戻すのは非常に難しくなっている。

 規制緩和を進める政府は、遺伝子に沿っていた常識や伝統を一気に壊そうとしているのだ、ということを理解していないのではないか。

 経済論が幸福論の主体になりうるのであれば、いままで主だった宗教の言っていたことは何だったのか、と思います。(来日したムヒカ元大統領も言っていましたが)幼児を産み育てることは、自由を失うことに幸せを感じる、利他の心持ちでモラルと秩序を保つ、人間社会に必須の自己発見の道筋ではなかったのか。

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先進国社会で、「子育て」を奪われた人間たちが孤立しています。

 奪われたというより、子育ての意味を伝承されないまま自ら放棄した、という方が正しいのかも知れません。ほとんどの場合、そこに別の選択肢はあったのですから。

 孤独ほど人間たちにとって辛いものはありません。人間は一人では生きていけない。一人では生きていけないことを自覚することに「幸せ」を見いだすように出来ている。幼児を眺めることで自然にそれを学んできたのだと思うのです。

 いま、日本で一人きり家庭が三割になるという。若者も老人も、いる。一人で生きていけることは、人類未体験の「豊かさ」の弊害なのです。保育の問題と同じで、実現が可能になることで「心」の問題が後回しになった。

 若者も老人も、政府の三歳未満児を保育所でもう40万人預かれという意図に現れる経済論と、子どもたちを集団にして長時間家庭から離す仕掛けによって、集まる意味、絆の中心を失い、ますます孤独になってゆくのが見えるのです。(福祉が進んだと言われた北欧の老人たちのインタビューを見たことがありますが、老後、弱者になった時の孤立感は苦しい。)寂しさの中で生きようとするもがきが犯罪の低年齢化や自死につながる。

 子どもたち、特に男の子たちの弱さ、いじめや不登校も、社会から分かち合うこと、集うことが欠如していることから生まれる現象だと思います。これ以上人間たちから「子育て」を奪わないでほしい。しゃべれない乳幼児を眺めていないと、人間たちは想像力を失ってゆくのです。乳幼児を育てるということは、日々、言葉では教えてくれない人たちから、「理解しようとすること」の重要性を学ぶこと。「理解すること」ではなく、「理解しようとすること」が人間を調和に導いた。乳児との会話は、想像力の中で、自分を体験することだった。

 

 「社会で子育て」と言いながら、社会の原点である家庭を壊してゆく人たちの意図がわからない。しかもそれで経済が上向くと思っているのだとしたら、人間の本質を理解しない、浅い経済論でしかない。孤立すると人間は必死に生きてゆくために、最後の力を振り絞って競争する。それはわかりまます。(アダムスミスが言った資本主義社会のエネルギー。不安と不満。)しかし、それは同時に男女という社会の最小単位が信頼関係を失うことでもある。(欧米先進国では、すでに3割から6割の子どもが未婚の母から生まれている。)家庭が吸引力を失い分裂すれば、一つでよかった炊飯器が二つに、冷蔵庫も二つに、冷暖房も二つになり、しばらく企業は儲かるかもしれませんが、地球温暖化や異常気象も、家庭崩壊が大きな原因になっている。

 助け合う絆がないと、すべての人間の持つそれぞれの欠陥、それぞれの発達障害と呼んでもいい、パズルを組むために必要な不完全さに、自分1人では対応できなくなって、自己責任に耐えられなくなった人間たちは精神的なバランスを失ってゆく。

 

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ママ、あんなところに行きたくない!?子どもを蝕む「ブラック保育所」急増の裏側

ジャーナリスト・小林美希「ルポ保育崩壊」の著者

http://diamond.jp/articles/-/74296?page=5

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「嬉しいメール」

(障害者の施設で働くのが好きで、そこで子供たちとかけがえのない時間を過ごして、でも、繰り返される指示語の風景に耐えられなくなってある日辞めていった、感性豊かな女性からメールが来ました。いまは結婚して子どもがいます。「子育ては自由だから」という言葉に、彼女が手に入れた広い世界を感じます。)

こんにちは!
春ですね!お元気ですか?
息子は8カ月になり、人間みたいになってきました。かわいいです。
子育ては祈りの連続なんですね。そして私は親からのたくさんの祈りで大きくなってきたたんだなぁとしみじみしています。
施設で働いていたときみたいに、子育てでいろいろな景色をみています。働くといろんな制約やきまりがあるけど、子育ては自由だから楽しいですね(笑)
寝不足だけどがんばります。
かずさんも講演がんばってください。

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